とはいえ、わからないでもない

2017年12月

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今年のベストってわけじゃないけれど、紅白で司会者のバックに高橋一生のあの特徴的な笑顔が見受けられたので、今年聴いたこのラジオドラマを思い出した。
ラジオドラマっていうのは顔の表情が見えないので、かえって役者の演技の本質のようなものがわかりやすくなることがあって、このラジオドラマを聴いて僕は、高橋一生の演技の芯には、意図的な「棒読み」がどっしりとすわっているということに気づいたのだった。
上に「特徴的な笑顔」と書いたのもその延長線上にあって、つまりは意図的な「張り付いたような笑顔」をわれわれに見せてくれているのだ。

俳優は身体が命だ。声はその身体のひとつで、観客にとってもっともわかりやすいもののひとつでもある。すぐれた俳優であれば、みなその声の出し方に苦心・工夫しているに違いなく、高橋の場合は、(あくまでも僕の見立てになるが)「棒読み」をベースにしてそこから、喜劇的展開や悲劇的展開への落差を生み出している。

翻って自分はどうだろうか、と考える。役者にとっての声のようなものを、僕は持っているのだろうか。持っていたとして、それを工夫・研鑽しているのだろうか。
いや、コトはそんな簡単なことではない。
「棒読み」は演技の基本を大きく逸脱するものだ。冗談みたいな話だが、へたしたら下手に思われる。その逸脱を果敢に挑戦したところに、高橋の卓抜さがある。そして、その部分こそが――逸脱を試みることこそができているのか、と自問すべきなのだろう。
なにごとによらず、いったん成功した者・モノを模倣することに長けているこの世の中、そういうものは死ぬほど見飽きた。わかりやすい枠組みを見つけてその逆張りをすることが個性だと思っている者も。
……ということを感じつづけている人間ってのも、つまりたいした視野を持っていないんだろうなあと思う年の瀬。

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最初に断っておくと、アイドルのいろはの「い」も知らない素人のたわごとです。あと、長くなってしまった。

今年のアイドル関連でいちばん書きたかったことはすでに3つの記事にして書いてしまった。
あとは20曲選べばいいや、と思っていたらこれが難航。20曲に絞れないので、けっきょく30曲となった。
しかも、いきなり「次点」から始まる。

【次点: THE 夏の魔物 - 僕と君のロックンロール(※公式のMVがなくなってしまっている……)】

なぜ次点にしてまでもランクインさせたかというとその理由は、1/6に新メンバーとなった麻宮みずほが、9/17に脱退するときの理由と一緒だ。つまり、アイドルだと思っていたのだけどそうではなかったから。
僕も、ここは「いろいろなメンバーがいるけれど、ぎりぎりアイドル枠なのかな」と認識していたのだが、リーダーの考えではバンドらしい。うん、いやまあ、バンドって言われればバンドだよな、たしかに。なんでアイドルって思ったんだろうと、そっちのほうが不思議になるほど。狐につままれていたんだろうか。
この曲はもともと大好きでトップ15までは入れるつもりだったのだが、アイドルじゃないと言われればランク外とするしかない……というわけで、次点。
なお、このグループの曲では他に『RNRッッッ!!!』もよかった。DOTAMAのラップが聴きどころではあるのだが、
最高のチェキだったね
RNR(ロックンロール)だ 瞬間だ
ハートの夕陽の中で
弾けないギターを鳴らしてたッッッ!
の歌詞がすばらしい。ちなみに、リリスクの『DO IT NOW!(HEY!HEY!HEY!)』のなかにも、
運命なんてアテになんないから 今からふたりで派手にやんない?
Rock You 弾けないギターを
かき鳴らす気分で!
HEY HEY DO IT NOW!
という部分がある。

【30位: ぜんぶ君のせいだ。- わがまま新生Hominina

たしかコンセプトは「病みかわいい」とかで、そういう「病む」というものを属性にしているというのを先に知ってちょっと敬遠していたのだが、たまたま楽曲を聴いたらでんぱ組っぽくてすぐに受け容れられた。歌詞を精査するほどまでは聴き込んでいないのだが、このグループの楽曲は全般的に好み。
最新のMVだったかについていたコメントで、「最近、『病みかわいい』の『病み』成分が不足している」みたいなのがあって、なぜだか微笑ましい気分になった。

【29位: ROSARIO+CROSS - HELLO!未来

静岡のローカルアイドル、ロザリオクロス。流し聴きをしていたらサビの、
頼ってくれてもいいんだぜ
遠慮はいらないぜ
の表現が面白く感じられて、それで好きになってしまった。こういう元気のいいアイドルポップスとでも呼ぶべき楽曲は、意図的にランクインさせたいと考えているところもある。

【28位: テンテンコ - なんとなくあぶない

つい最近の曲。なぜか耳に残ってしまうんだよなあ、坂本慎太郎っぽいよなあと思ったら、まさに詞・曲がそのまんまだった。そりゃ気になるわけだ。

【27位: ・・・・・・・・・ - スライド

まず、「このアイドル、なんて読むの?」ってのがふつうの反応。ドッツ(dots)でいいと思う。まあこれが異常に検索しにくいんだわ。その意図的な検索親和性の低さからしても、このアイドルのコンセプトがかなりひねくれているのがわかるというもの。公式サイトも探しにくいし……。
けれど、楽曲の疾走感と、ヴォーカルのどこか頼りない感じとのバランスがとても好き。けっこう好きな人も多いのではないか?

【26位: 宗教法人マラヤ - GET UP!解脱

まあ、ここもコンセプトがひねくれているというか、狂っているというか、なんか全然違うところで話題になっているうちに終わってしまって、それで怖いもの見たさで曲を聴いたら、それなりに、どころかなかなか中毒性があった。
それがいいことか悪いことかわからないが、パフォーマンスアートの一環としてアイドルという形態を利用する人は多そう。プロデュースする側にも、自分でパフォーマンスする側にも、たぶんどっちにも。

【25位: 吉田凜音 - りんねラップ2(※リンク先は「2」ではなくただの「りんねラップ」)】

トラックがE Ticket Productionということで、昔のライムベリーの音楽を作っていた人だよね、たしか。ライムベリーがリニューアル(空中分解ともいう)したとき、一気に聴く気がなくなってしまったのは、Himeがいないじゃんってことより、楽曲がしょぼくなっちゃったからなんだよな(ちなみに、今年リリースされた『TOKYOチューインガム』は、ライムベリー名義でひさーしぶりにいいなと思った曲。Miriがいいだけに、ライムベリーにはもっといい曲を!)。
そのEチケットがプロデュースしたミニアルバムに収められたこの『りんねラップ2』は、当然トラックはカッコイイし、それに吉田凜音が、ルックスからはあまり想像もつかないハードなタイプのラップをかましていて、そのギャップがよい。

【24位: キャンディzoo - 結晶

この何回も転調がつづくのを聴いていて、「ああ、これってキャンディーズの『キャンディーズ1676日』(11分超のかなり長い曲だが、大好き)っぽいコンセプトなのかな」と思い、そこでやっとこのグループの名前が、「キャンディーズ」のもじりだということに気づいたという、ずいぶんマヌケな話。それはともかく、相当に凝った曲のように思う。

【23位: Q'ulle - DON'T STOP

ここのカッコよさはもう去年から確認済みで、ほんとに好きな感じなので売れてほしいのだけれど、さてどうなんだろう?
いわゆるアイドルファンっていうのは、こういうハードな感じ好きなのかな? ダンスもうまいし、みんなきれいめ/かわいめ(※きれい/かわいい、と断言しないのは、一般の感覚がよくわからないからで、基本アイドルはみんなきれいだし、かわいいと思っている)なんだから、男のファンなんかは「たまにはカワイイのもよろしくお願いします~」ってならないのかな。
僕からすれば、あえて甘さに逃げないみたいな反骨精神が感じられてかえって好ましく思うくらいだけど、たとえどうあっても、彼女たちが売れるきっかけをつくってもらいたいものだなあ、と素人は考えます。

【22位: KissBee - どっきんふわっふー

こういうのって、ハロプロっぽいっていうのかね。ハロプロじゃないんだけど、コミックソングっぽさが僕の好み。これもなーんか中毒性があるんだよな。けっこう凝っているように思う。もっとこういう曲がアイドルソングで増えてほしい(すでにあるのかもしれないけど)。

【21位: DEVIL NO ID - まよいのもり

アイドルかどうなのかもよくわからないユニットなんだけれど、この子たちのダンスがすげークール。で、楽曲もすっげーカッコイイ。そのクールさとかハードさが、女の子たちの童顔とすっごくミスマッチで、そこが面白い。

【20位: MIGMA SHELTER - Svaha Eraser(※リンク先の0:00~4:34)】

これまた、まず音楽がカッコイイでしょ。これ、もはやアイドルソングなのかって感じで、つまり自分たちのニッチを探して探して探して行き着いたところのひとつが、こういう音楽だったってことになるわけだけど、ある意味でアイドル飽和時代のひとつのモデルとして観ることも可能かもね。ま、そんなつまらないことは考えないで、ステップを踏んでダンスを踊ろう。

【19位: Passcode - Same To You

ここの魅力は、転調とデスヴォイス。これも売れておかしくないよなあ。ベビメタだって売れているんだもん(ベビメタが悪いってことじゃない)。ライヴもすごく盛り上がるって聴いたけど、一回観てみたいな。こういう、ふだんの自分の趣味なら聴かないような音楽を提供し、かつその面白さを教えてくれるのはアイドルという非常に懐の広い音楽ジャンルであればこそ。

【18位: SAiNT SEX - WACK is FXXK

このMVを視聴していて、やっぱりWACKの子たちのヴォーカルって好みなんだなあと思った。なんか歌謡曲っぽさというか、ちょっと泥臭さ・垢抜けなさがあって、それがまたいい。プールイ、アイナがいいのは当たり前だけど、このシャッフルメンバーのおかげで、ギャンパレのヤママチミキという存在を知ることができた。

【17位: 虹のコンキスタドール - LOVE麺 恋味 やわめ

これは去年の曲なんだけれど、年末だったので、今年のランキングへ。チャイナ風なイントロが印象的だが、やはり同年12月に出たNegiccoの『愛、かましたいの』もチャイニーズ風味のアレンジで、偶然なのかもしれないけれど、ふたつともいい曲だったなあということを思い出す。
また、キーボードの不安定な音が去年亡くなったプリンスの"The Ballad Of Dorothy Parker"を思わせるところもあって、それだけでなんかぐっときた。といったって、プリンスの同曲だって、ラジオの追悼番組で知ったクチなんだけど。
しかしまあ、曲はいいんだけれどMVはあまりできがよくないんだよね。あと、虹コンは今年だけで何人やめたのよ……さみしい。

【16位: まねきケチャ - 冗談じゃないね

コールが冴えに冴えまくりそうな、これぞアイドルソングってやつで、ライヴがたのしそう。で、実際にライヴ動画を観てみると、アイドルよりヲタクのほうがテンション高いっていう。それを含めて、やっぱりたのしそう。
「ジョッジョッジョジョ ジョッジョッジョ(うりゃおい) 」で始まる印象的なフレーズだが、あれって、つなげてみるとちゃんと(?)「じょうだんじゃないね」になっているのが意外に気づかなかった。けっこう洒落てると思った。よだれが出るほどの中毒性に注意。

【15位: Yunomi feat.TORIENA - 大江戸コントローラー

これはものすごく凝った名曲。歌詞も、ありきたりなシュールものというわけじゃなく、これまたものすごくよくできている。冒頭の、
昨年話題になったUFO墜落事件
今はただの観光資源
の韻の踏み方だけをとっても、タダモノではないという感じがする。
『冗談じゃないね』なんかそうだけれど、アイドルソングでハマってしまうものっていうのはけっこうハイテンションがウリなのが多いんだけれど、この曲はその逆でかなり理知的につくられていて、ノッてしまうというより、ノセられてしまうというほうがより正しい。何回聴いても飽きないし、2017年ヘビロテ曲のひとつ。

【14位: アイドルネッサンス - Blue Love Letter

今年は彼女たちにとってはじめてのオリジナルソングがリリースされた年で、その4曲ともがいいのだが、どれかひとつとなれば、やはりこの曲か。
青い文字は忘れにくいって聞いたから 青インクで書きます
自分でも忘れちゃいそうなこと 君が憶えてたなら 魔法みたいだね
柵から乗り出し 叫ぶような君の さよならも青色だったのかな
まあ、小出祐介の歌詞のすばらしいことといったら。この愚直なまでの青春感と、それを嫌味なく唄えるアイドルネッサンスというグループのベストな組み合わせだと思う。
でも、『交感ノート』を貫く透明性や、『5センチメンタル』の持っているストーリ性も捨てがたいし、『前髪』の歌詞の
歯の矯正つらかったけど やってよかったな
という部分を、実際に矯正をしているメンバーが唄っているところには心底ぐっときた、ってことは強調しておきたい。

【13位: GANG PARADE - Plastic 2 Mercy

以前からある曲で、オリジナルのプラニメのものは2014年。ワックおとくいの、リサイクルである。
が、いいものはいいし、この歌が眠ってしまうのは非常にもったいない。
ギャンパレの最近の衣装はサテン地に大きく「愚連隊行進」と刺繍されたヤンキールックで、批判もあるみたいだが、僕はそのセンス好きだな。

【12位: Task have Fun - 3WD

かわいい女の子たちがカッコいい歌でカッコよく踊っているという、ただそれだけでいいんだ、ともいえるし、ただそのことがいちばん難しいんだ、ともいえる名曲。サビの振り付けが面白く、ライヴではヲタクも一緒に同じフリをしていて、たのしい。MVも非常にキレがあるダンスと、デザインされた魅力的なタイポグラフィをたのしめる。

【11位: BiSH - プロミスザスター

「売れたよねBiSH」って言葉が今年のアイドルファン同士の会話でどれくらい交わされただろうか。Mステに出演したし、横浜アリーナ(その前身ならぬ前コンセプトの第一期BiSの解散ライヴの場所でもある)でのワンマンも決定した。
僕がアイドル界でヴォーカル四天王と呼んでいる4人がいる。石野理子(アイドルネッサンス)、アイナ・ジ・エンド(BiSH)、林愛夏(ベイビーレイズJAPAN)、脇田もなり(元especia)だ。
そのアイナのヴォーカルがすごいのは前々から知っていたので、そりゃ有名になって当然だろうと思いもするが、しかし、いくら楽曲がよくても、あるいはいくら歌がうまくても有名になれないパターンをいくつも知っているので、やはり有名になった(「なりつつある」のほうがより正確かもしれない)ことに多少の驚きも覚えている。
BiSH特集をしていたEテレの『Rの法則』を観ていたら、BiSHのファンである中高生の女の子たちが、その歌詞世界を自分たちなりに咀嚼し、日々を生き抜くための糧としているのが痛いほど伝わった。中高生限定ライヴで懸命のパフォーマンスを目の当たりにして震え、そして涙していた彼女たちこそが、アイドルの真のファンであるのかもしれず、いわゆるヲタクとは一線を劃すのであろう。
プロミスザスターはたしかに名曲で、特にサビ部分の振り付けが好きだ。素人観点だが、アイナのフリはけっこう泥臭いというか、けっして洗練されていない。しかし、それだからこそいい。整ったもの、乱れないもの、完璧なもの、そういったものと無縁なものこそを、われわれは愛する。もどかしいほどに何度も何度も手を振る姿は、現状を否定し超克しようとする”足掻く者”として美しく、観る者の心をざわつかせる。

【10位: 石野理子(アイドルネッサンス) - 道(LIVE)

宇多田ヒカルのカヴァーなのだが、僕としては宇多田本人より全然よい。先に宇多田のオリジナルを聴いたときにはまったくピンとこなかったのに対し、石野ヴァージョンを聴いたときには、不意に「あ、これは藤圭子のことを唄っているんだ」ということに気づいたくらいだ。本人の歌なら響かないのに、彼女だと響くというのが僕にとっては非常に興味深いことだった。
これはただの好悪の問題ではない。石野が心を込めて唄っているものに感じられたのは切実さで、洗練され完成された音源である宇多田のものに、僕はそれを見出すことはできなかった。もしかしたら宇多田のライヴ音源で聴いたのならまた別の印象を受けたのかもしれないけれど。
リンク先の動画では、画面の向こうで、アイルネメンバーから3人がコーラスとして立っている。サビ部分で原田珠々華(さっきから、年端もいかない女の子を呼び捨てにして恥ずかしいなとは思っているが、自分ルールとして敬称はつけない)が石野の口元を見ながらハモっているのだが、その姿から敬意と奉仕の心が見える。
一方、切々と唄う石野は若干16歳(当時)でありながらも堂々としていて、しかしやはり同時にどこか脆さも抱えていて、そのいつも僅かに残っている不安定さこそが彼女の魅力。知らない人は、ぜひ『ノスタルジア』も一緒に聴くべきだ。
石野理子が、そしてアイドルネッサンスが、他のアイドルに比べてあまりにも知名度が低いのをほんとうにもったいないと感じている。衣装から優等生とかおとなしいイメージを受け取るのかもしれないが、歌だけではなく、実はダンスがうまいメンバーも多い。たしか石野理子は、広島のアクターズスクールで、はじめ歌はあまり評価されていなくてダンスのほうで頑張っていたんじゃなかったっけ(広島のレベルの高さよ……)。『太陽と心臓』のライヴ動画もすばらしかった。

【9位: Negicco - ともだちがいない!

活動15年目に突入している新潟のローカルアイドルってだけで、もう感涙もの。まあネギッコを嫌いっていう人はいないようで、ファンだけでなく、関わったミュージシャンなどもみんなファンになってしまうのだという。どこかで読んだのだが、歌がうまいとかダンスがうまいとかかわいいとかいうことはほんとうは二の次で、「この子(たち)のためになにかしたい」と思わせる力がいちばんアイドルにとって必要な能力(?)らしい。
サトウ食品だけでなく(なにもサトウ食品が悪いと言っているわけではない!)、武田薬品のネットCM(?)にも起用されたってのが嬉しい。
さて、今年は前述した『愛、かましたいの』や『愛は光』もよかったのだが、Homecomingsのつくったこの曲がいちばんよかった。
退屈な授業中に書く手紙
夕日色の中で弾くピアノ
知らない誰かの噂話が
どれもキラキラしててヤになるなぁ
友だちがいないということがけっして絶望的なわけではなく、ちょっとした気だるさを催させる程度という解釈がすてきだ。孤独がもたらすものはさみしさだけではなく、自由もあるのだ。そのうえで、友だちができたのならという希望も捨てずにいるところにこの歌の眼目がある。
間違いだらけ テストの隅っこ
夢で見たようなことが起こるよ!
眠らないままでどこへでも行けるかな?
もし ともだちができたら!
思春期の人なんかたちに聴いてもらえたらな、と願う。

【8位: TWICE - TT

これも頭おかしくなるんじゃないかってくらいに繰返し視聴した。
あまり知らないくせに決めつけるのはよくないのだが、K-POPアイドルってのはみんなプロという感じがある。「かわいさ」を表現するとき、日本のアイドルは、ちょっと照れたり謙遜したりするような仕方で間接的にあらわすことが多いが、すくなくともTWICEはストレートにかわいく振る舞う。
振り付けを観ていると強く思うのだが、かわいさとセクシーさとがかなりいいバランスで演じられていて、すごくいい。
上にリンクを貼ったのはハングルVer.で、日本語Ver.の動画はそれに対して、非常に魅力減につくられている。もうね、共産主義社会かっていうくらいに非常に抑制的で、腰を振ったり胸を強調するような振り付けの部分が比較的カットされ、代わりにこれでもかっていうくらいにバストショット、バストショット、バストショット。韓国の人がこのMVを観たら、「日本人、顏好きなんだなあ」って絶対思うはず。オリジナルは、相対的に全身が写っているカットが多い。
そもそも、日本語版はTWICEのメンバーが、ドライヴシアターに映るTWICEが主演している映画だかビデオだかを観ている、という設定なのだが、そのときにみんながお揃いの制服みたいなのを着ていて、これが非常にセンスないなと思った。
多少の差異こそあれ、ほぼ同じデザインのものを着せるという発想は、AKBとか乃木坂とか欅坂のそれとまったく変わらない。『TT』のオリジナルMVが、メンバーがそれぞれコスプレをするという内容に比べると、まさに正反対のアイデアだ。どちらがメンバーの個性を表現できるだろうか。
概して日本Ver.は、去勢された感じというか、セクシーさというものを意図的に排除したようなつくりになっていると思う。女性の持つ大人っぽさとか(同性が支持できる程度の)セクシーさなんかを目の前にしてしまうと、そういう女性に劣等感を覚える日本人男性のアイドルファンが少なくないからではないかと愚察するのだがどうだろうか。かくいう僕も気後れするほうではあるのだが。
(上記を書いてしばらくしたら、E-girlsがいることを思い出した。ほとんど知らないのだが、あのグループはけっこうセクシーさを前面に出している。けれども、ファン層が違うというか、あれはどっちかっていうと女の子に人気があるんじゃないかなあ?)
キラーチューンの『TT』以外にも、日本でのオリジナル楽曲『One More Time』や、『KNOCK KNOCK』もいい。特に後者は、なぜかMiley Cyrusの『We Can't Stop』を思い出させる。マイリーのあの曲は、頽廃的なMVは好みではないが楽曲じたいはものすごく好きで、もしかしたらコードが似ているのかもしれない。
ちなみに、韓国でのライヴ動画なんかを漁っていると、ときどき韓国のヲタクのコールを聴くことができるのだが、日本のそれと異なり、向こうはかなり発声の統一を図っているところが目立ち、「ああ、向こうのは軍隊仕込みなのかな」なんて思ってしまう。もちろん、日本のも韓国のもどちらも趣があってよい。

【7位: BiS - I can't say NO!!!!!!!

ライヴ動画をはじめて観たとき、具体的にいえばペリ・ウブが唄い始めたところからもう心が持って行かれてしまった。詳しくない人であれば初見で「あ、アングラですか」と即断すること間違いないだろうが、まさに僕も「唐組をテレビではじめて観たときに感じた衝動もこんなだったなあ」という感想を持った。もちろん、いい意味でハートを射抜かれてしまったのである。
アイドルにおいて正統なものというものがもしあるとすれば、BiSH以上に、BiSはその反対の”異端”であろう。このあいだプロデューサーの渡辺淳之介がヒャダインのラジオ番組で言っていたのだが、BiSHは予想以上にステップアップしているのだが、第二期のBiS、つまり現在のBiSは思った以上に停滞しているとのこと。その理由はおそらく、ふたつのグループの客層はもはや完全に分かれていて、後者はかつてのBiS寄り、渡辺いわく「完全な内輪ノリ」のBiSに近いからではないか。
プールイといえば、ダイエットに失敗→活動を一時休止という企画が大々的にメディアに取り上げられ、人権的な観点、あるいはBiS界隈的観点の双方から議論がなされたが、まあ議論ってほどのものではなかった。というか、そういうものに目を通さなかった。
人権擁護でご高説を打つ前に、一度なりともBiSを聴いたことがあるのかな、という疑問はあった。一方で、渡辺淳之介のやることは面白いからすべて肯定するよ、という無批判人形になっていやしまいか、という疑問もあった。
僕自身は、プールイが傷つかなければいいなと思っていた。自分の気持ちよさだけを追求した議論などは抛っておいてかまわないから、彼女がスムーズに復帰できる環境が整えられ、その機会がただちに用意されるべきだと思っていた。
結果的にそれは早くやってきた。上に挙げたライヴ動画版の冒頭ではまさにそのところに触れている。
「なにダイエット失敗してんだよ!」
すごく優しい仲間の言葉だと思った。どんな「人権家」たちの言葉よりも。

【6位: lyrical school - つれてってよ

11月にこんな名曲に出会えるだなんて。『夏休みのBABY』を出してくれただけでもう充分だったのに、こんなプレゼントをもらえるなんて思ってもみなかったよ。
新体制になったばかりだというのに新たなメンバー3人が強力すぎて、最高が更新されていくのは確約されていたようなものだったが、たとえばrisanoの安定したラップはこなれすぎていて、「あれ、旧メンバー?」ってほど。ライヴ動画もいくつか出ているが、盛り上げているのがどちらかといえば新メンバーの方だもの。
そうそう、上のMVの衣装はちょっとモサイけれど、ライヴでのスウェット/パーカー・ハット・バックパックというスタイルはとてもキュート。リリスクはちょっと衣装に不服があったところなので、バッドガール的ではなく、かといって、あまりにもファッションコンシャスなのでもないような、親しみやすい恰好をしてくれるとなおよいと思われる。
ちなみに、オフィシャルグッズのTシャツのなかにはけっこうかわいいものがあるんだよねえ。そうそう、それで思い出したけれど、アイルネと西村ツチカのコラボTシャツが限定販売されていたんだけれど、気づいたら完売していたっていうのが今年悔しかったことのひとつ。これ、アイルネファンでなくてもかわいいと思うんじゃない?

【5位: ゆるめるモ! - モイモイ

リンク先はオフィシャルの踊ってみた動画だけれど、公式のMVより歌詞がわかるし、こちらのほうがすてき。
この曲はほんとうに小林愛の歌詞がすばらしい。この人、あまり情報が出てこないからわからないんだけど、すごい才人のような気がする。ほかのアイドルグループから声かからないのかな。もっと売れてしかるべき人だと思う。
「モイモイ」というタイトルからは、なにかふわふわとしたようなかわいらしい生き物なり、あるいは形容詞そのものを思い浮かべる。しかし、その甘い想像はあっさりと覆される。
もういい もういい 魂売りたくない 今日は知らない場所で
あなたと私は踊りましょ 
とか
もういい もういい 人類は同じ温度で沸騰しない
だからよ 今日は踊りましょ
などのサビによって、「モイモイ」が「もういい、もういい」のことだとわかる。ここでまず頭を殴られたような気分になる。
「魂を売りたくない」というのはすごい歌詞だ。背中に氷片を入れられたように心がひやりとする。高橋源一郎『ゴーストバスターズ』でここぞというシーンで女子高生が「ワタシ、魂ヲ殺シチャッタ」(講談社文庫版352p)と言うのだが、ついそのことを思い出してしまう。
その「魂ヲ殺ス」よりは「魂を売る」のほうが全然マイルドだし、もっと言ってしまえば「魂を売りたくない」というのは、ポップスでは珍しいかもしれないがロックでは常套句のひとつとも言える。しかし、「魂を売りたくない 今日は」となると話は変る。
アルバム(小林愛の歌詞を読みたかったので盤を手に入れた)の歌詞カードを見れば、上に書いたような並びになっているのだが、僕はどうしても
もういい もういい 魂売りたくない 今日は
知らない場所で あなたと私は踊りましょ 
に思えてしまう。あしたになってしまえばまた魂を売るような毎日がつづくのだけれど、きょうのところだけはそういうことはやめにしたい、そういうことなのではないか。ほかの部分では「今日ぐらい」という言葉も出てくるし。
サビ以外のAメロBメロの曲調はゆるめで、歌詞を見なければ明るい曲なのかなと思ってしまうが、この曲のつくりじたいが、現代の若く傷つきやすい人たちの気持ちをそのままあらわしているのではないか。傍から見れば明るくたのしく振る舞っていてもその日常は辛く自分を削っていくような毎日で、瞬間瞬間のたのしさを見出してそれを糧に生き抜くほかない、というような。なにせ、
パラパラ降る雨 私の血 混ざったら 皆ふりかえる
という死をイメージさせるフレーズがあるくらいなのだから。
しかし、これは絶望の歌ではない。もちろん、「魂を売りたくない」と絶叫すれば世界は変えられるなどと夢想するような単純な希望の歌ではないが、しかしウェイトは、辛い現実にあるのではなく、あくまでも「きょう、あなたと踊ること」のほうにある。
それはたぶん、刹那的な現実逃避のメタファーだ。しかしこの歌はそのことを悪いものとしてとらえていない。ときに逃げ、ときに躱しながら、現実をやりすごすこと。それしかサヴァイヴの方法はない。この歌の持っている眼差しは思いのほか冷静で、それも前述した「現代の若く傷つきやすい人たち」とリンクしているように思う。
彼ら/彼女らは、「世界は、」などと大上段で語らずに、せいぜい「世間は、」にとどまる。世間は一様ではない。二元論などで簡単に語れるものではなく、美しいもの・すばらしいもので溢れているわけなどないし、ブルーハーツのように「悪いことばかりでもない」とつづけられるほど中庸であるとも楽観視しておらず、いまのところ完全に絶望はしていないという点をもって、生きている。死を思わないわけではない。ときには「死にたい」とか「死ぬ」などとSNSで漏らしていることだってあるかもしれない。そこに嘘はない。いつだってギリギリで、だからこそ悲しいし、だからこそよろこびだってある。最後になされる
ボロボロの紙を渡されても  絶対そこに夢を描く
という宣言は頼もしくすらあるが、しかしそれさえも「でもまあ今日は踊りましょ」と軽くいなされてしまう。彼ら/彼女らは、自己憐憫にも自己陶酔にも浸らないのだ。
長くなってしまったのでさらっと触れるだけにするが、『うんめー』も、さすが大森靖子の詞・曲とあって、すばらしいでき。

【4位: MOSAIC.WAV x 夢眠ねむ x 夢眠ネム - あるいは夢眠ねむという概念へのサクシード

公式ではないが、Full Ver.をリンクしておく。『VOCALOID 夢眠ネム』というコンピレーションアルバムに収められたもの。これはでんぱ組.incのメンバー夢眠ねむと、その声をつかったヴォーカロイドの「夢眠ネム」とのコラボ曲。作詞は曲担当でもあるMOSAIC.WAVとなっているが、たぶん夢眠ねむにインタビューなどをしてその内容を反映させているように思う。この「夢眠ねむという概念」という言葉じたい、「夢眠ねむを世襲制にする」とこれまで発言したこともある夢眠ねむ自身(本人の弁を借りれば「夢眠ねむの中の人」)のものという気がする。
この歌を上位に持ってきたのは、ひとえに、夢眠ねむというかなりのメタ視点を持ったアイドルが、アイドルという存在を問い、そこで得られた答えをひとつの楽曲に刻んだ、というこの歴史的行為を讃えたいからである。
自意識が過剰に発達した人というのはアイドルに多いかもしれない。2009年の多摩美大の卒業制作(彼女の作品集『まろやかな狂気』に収められている)ですでに彼女は「夢眠ねむ」の名前を用いており、その「作品」とは、大量のミントグリーンのモノに囲まれたミントグリーンの服を着た「彼女自身」である。この話を美大卒のある女性に話したら、「美大なんてそういう人たちばっかりですよ」と言っていたが、「そういう人たち」のなかでもその自意識を深化・拡大させつづけていくことはやはり容易ではないはずで、それがつづけられる人――意志の話でもあり、その意志がもたらした結果の話でもある――が広義のアーティストなのだろう。たとえば彼女の発言、
私はみんながダサいと思ってたことだって、絶対これは格好良いんだっていう自信を持って今まで物を作ってきたから。でんぱ組.incのことだって、『何言ってんの? これ超格好良いじゃん!』って思ってた。
(『まろやかな狂気』25p-26p)
などはそれを裏付けてくれる。
その彼女が次に考えたのは、アイドルという存在が消えるということ。そして消えないようにすることだったのではないか。これはもう歌詞にそのまま書いていることで、
生きてく意味 軌跡をすべて
受け継ぐことができるなら

たとえわたしが消えてなくなっても
夢眠ねむは生き続ける
ただ、悩み貫いたこの思いが
忘れ去られることがこわいの?
だからいま…

夢眠ねむは概念になる
がまさにそれだ。そして、この歌がただの宣言や意思表示に終わっていないのがすごいところで、「わたしの名前をあげる」とその名前を差し出したその相手というのは「夢眠ネム」というヴォーカロイド(それだけではない、とも僕は思っているが)であり、機械である彼女(?)はある意味で永遠の生命を持っている。くわえて、この楽曲そのものによっても、「夢眠ねむ」の名前は永遠の命を得たのだ。
……とまあ、ねむきゅんならこういうメタ的展開好きかもねえ、なんていう見方もあるかもしれないが、この歌でどこが好きかというと、実は上述した「アイドルという存在」についての思考などではなく、以下の部分だ。
木々が空へと枝を伸ばすように
千年に亘る数学的証明のように
この決意を継承し
決して後戻りはしない
それはなぜ?
世界がこれ以上
悲しいループをしないように
わたしも、夢眠ねむになれる?
あなたは今日から 夢眠ねむだよ
存在論的な自問自答が自己完結に陥らず、むしろ開かれているというところに積極的な意味を見出したい。
もう一度書こう。夢眠ねむの卒業制作の話を美大卒のある女性に話したら、「美大なんてそういう人ばっかりですよ」と言っていた。「そういう人」というのは自意識が非常に強い人間のことだと思う。
夢眠ねむの自意識の拡大がもたらしたものは自己満足ではなかった。彼女の視線は他者に向けられ、そして希望にも向けられている。それは、「世界がこれ以上悲しいループをしないように」という一節からも明らかだ。
アイドルが、自我を記録・継承していくこと――それはヴォーカロイドに限らずAIなどの技術発展によって現実的に可能になりつつある――を意識的に唄った、という意味においてやはりこの楽曲は特異なのだと思う。

【3位: フィロソフィーのダンス - ダンス・ファウンダー

ほんとうはフィロソフィーのダンス(略称: フィロのス)だけで4曲くらいランクインさせたいものがある。その名前は2年ほど前から知っていたし、楽曲も聴いていたのだが、「ふうん」で終わっていた。それが今年の10月に『ジャスト・メモリーズ』を聴いて愕然とする。はじめは、ランダムに流し聴きをしていので、「ん? あ、prediaかあ。湊あかね(この人もめちゃくちゃ歌のうまい人です)、やっぱクソうまいなあ。すげえなあ……え? ちょっと、これ、めちゃくちゃいい曲じゃん、え? predia?」と思って調べたらフィロのスだった。いや、これすごいよ! なんでこのすごさに気づかなかったんだ、おれ! 駄耳!
そこへ、11月の頭にこのダンス・ファウンダーの動画がアップされる。衝撃。まず音楽がめちゃくちゃカッコイイし、そこに激うまの歌。さらに、面白い振り付けとそれをこなしつつ、きちんとグルーヴを感じさせるダンス。
まず、日向ハルというモンスターね。目を瞑って聴いていると、まずこの人(「この子」と呼ぶには恐れ多い気すらする)の声が耳に入ってくる。(伸び代は当然あるにせよ)ある程度まで完成してしまっている声で、まったくポジティブな意味で黒い匂いがする。動画を注視すると、ダンスもうまい。身体の中に黒人音楽のリズムマシーンが搭載されているって感じで、自然とグルーヴを生み出せるんだろう。才能があるってことはすぐにわかる。こりゃすごい。
けれども、ずっと音源を耳にしていると、もうひとりの声もとても気に入ってくる。奥津マリリの鼻にかかったようなスウィートヴォイス。ハルさんの衝撃が大きいぶん、もしかしたらあまり目立たないのかもしれないが、この人も歌がめちゃくちゃうまいし、実に個性的な声をしている。目立たないかも、というのはあくまでも歌や声の話で、動画を観てみればわかるとおり、この人の表情も実に豊かで、ダンスの表現力もすばらしい。あっという間にマドンナになってしまうタイプだ。このふたりのメインヴォーカルが存在しているってことは、他のグループにはないものすごい強みになるだろう。実力もあるし、といってタイプが違うので飽きさせるところがない。
しかも、このふたりだけでなく、もうふたりもすばらしい人材なのである。十束おとははいわゆるアニメ声なのだが、このノリがこのグループの「本格派」っぽい空気をいい意味で破壊してくれているようだ。彼女のパートは、想像だがみんな目を細めてにこやかにその挙動を見つめていそう。とても愛すべきキャラクターを持っているのである。
佐藤まりあは、背が高くスラッとしていて、そのスタイルでダンスしているというだけでもう無条件にカッコイイし、歌だって、前述したような「本格派」風味を中和するためにもう少し歌割りが増えてもいいくらい。あと、笑顔がすてき(ほかのみんなにも言えることだけど)。『ベスト・フォー(※ライヴ版)』の動画では「最高の4人」という意味で唄ったというMCがあるが、ほんとそう言っていいと思う。
なお、僕のヴォーカル四天王だが、脇田もなりはアイドルというよりミュージシャンになっちゃったし、アイナ・ジ・エンドはもう売れたから卒業してもらってもいいかなと思っていた(これからも応援するし好きだけれど、なんか僕みたいなのが応援しているってなると逆に味噌をつけそう、というおそれもある)。そのふたりに代わって今度からは、日向ハル、奥津マリリのふたりをくわえようと思った。それくらい、このふたりの声が好きになってしまった。
出たばかりのアルバム『ファウンダー』は大名盤で既述の3曲は入っているし、『D.T.F!(※ライヴ版)』も収められている。この曲は、アルバムを頭から流し聴いていて、初聴きでやられてしまった。ひとことで言うと、懐かしのロックなんだよね。サビの「オオ、オオー!」を聴いていたらなぜだかじんわりと涙が出てきた。悲しいとか嬉しいとかではなく、不思議な、懐かしいとしかいえない感情だった。
このグループ、『ダンス・ファウンダー』を年初あたりに聴いていたら、たぶん年間1位にしていたと思うし、2017年の個人的最大の発見だと思っている。大阪なんかでワンマンをやってくれたらほんと観に行ってしまうかも。とりあえず最新のワンマンのDVDを出してほしいな。

【2位: 校庭カメラガールツヴァイ -  Lonely Lonely Montreal(LIVE)

2016年の大晦日にアップされた動画である。音源ももちろんすばらしいが、ライヴ版が最高。たしかこのとき彼女たちは解散することが決まっていて(※最近活動を始めた校庭カメラガールドライはまったくの別メンバーによる後継ユニット)、そのことと、パフォーマンスのテンションと、歌詞とがリンクしていて奇蹟の一曲になっている。
コウテカはもともと楽曲がよくて、『Happy Major』のライブ動画を観て好きになった。ちなみにこのときは第一期というか無印の校庭カメラガールで、ひとりテンションの高い力量のあるメンバーが魅力的だったが、たしか学業に戻るとかいう理由であっさりと卒業してしまったのを衝撃をもって受け止めたことを憶えている。もうひとつ憶えているのはその子が理系の大学生だったということで、ふと、アイドルという存在がほんとうに身近な人がやっているものだということに気づき、ラップのうまいアイドルをやっている理系の同級生がもしいたら、絶対好きになってしまうだろうなあと想像したりもした。
やはり今年解散したハウプトハルモニーというグループもカッコイイ音楽をやっていて、けれどもアルバム名だったり曲名だったりがドイツ語表記で(そもそもHauptharmonieというグループ名すらパッと記憶しづらい)非常に凝っていたが、凝っていることが必ずしもセールや知名度向上には結びつかないということを不本意ながら自ら証明していたし、それはコウテカにも言えることだった。コウテカもまた、英語タイトルのほうが多かったが、やっぱりピンとこないものばかりだった。
まあ、そんな瑣末なことはどうでもよい。
ねえ 君は
この場所でいつかね歌ったこと全部捨てるの
ねえ 僕は
この場所でいつかね歌ったこと全部捨てるよ

それでも 行かなきゃ
それでも 笑わなきゃ
俚諺にあるように、虎は死して皮を留め、人は死して名を残し、アイドルは消えて音源を残すのだ。
あと、ラップパートでいえば、
冒険中でもスローペース
確かに僕らは肯定する
を唄っている子の声が好き。ハードなフロウスタイルではないのだが、別にハードだからよいってわけでもないし、むしろこういう甲高いアニメ声のラップこそアイドルでしか聴けないので、たのしい。それに、声色の暢気さにくらべて唄っている姿が必死で、それが胸を打つ。それを観た瞬間(今年の元日のことだった!)から、「ああ、この曲はきっと2017年のトップ3に入るんだろうなあ」と思っていた。

【1位: sora tob sakana - ribbon

年間ベストはこれ。まあとにかく拍子がややこしい。6拍かなと思ったんだけれど、それでもピンとこない。ポリリズムだと解しているブログ記事なんかもあって(そこではなんと菊地成孔のお墨付きがついている!)、そのリンクを貼りたいくらいだけど、僕自身が記事の意味を完全には理解できていないのでやめておく。だいたいポリリズムって、ひとつの曲のなかで複数のリズム(複数<poly>のリズム<rhythm>だから)が同時に走っているものかと思っていたよ。その解釈が合っているのか間違っているのかもわからない……。
それはともかく、その複雑なリズムが疾走感や焦燥感をつくりだしていて、そこにイノセントな声がユニゾンで乗る。このまっすぐな声の持つごくごく僅かな震えのようなものが彼女たちのアイドルとしての時間を切り取って見せてくれている。いまこの瞬間にも手のひらからこぼれ落ちていきそうで。
歌詞も当然のようにすばらしい。旅立ちと郷愁とのあいだに、清澄な風景描写が挟まれる。
白く霞む夜明けに列車は走る
地平線追い越して
これだけでも美しいのに、後半は聴く者をさらに想像の世界へと誘う。
星の川をまたいで列車は走る
宇宙を結ぶリボン
忘れられた無数の物語が
虹に変わって私に手を振った
ああ、これで「リボン」なのか、と圧倒される。そして、冒頭の一節がリフレインされておしまい。
耳を澄ましたら 聞こえる
流れる時間の一粒が
この叙情。この洗練。この調和。美しく鑑賞に足るアイドルソングの極北。完璧だ。『銀河鉄道の夜』ライクなMVの効果も大きい。

【後記】

つーことで、こんな結果になった。
  1. sora tob sakana - ribbon
  2. 校庭カメラガールツヴァイ - Lonely Lonely Montreal(LIVE)
  3. フィロソフィーのダンス - ダンス・ファウンダー
  4. MOSAIC.WAV x 夢眠ねむ x 夢眠ネム - あるいは夢眠ねむという概念へのサクシード
  5. ゆるめるモ! - モイモイ
  6. lyrical school - つれてってよ
  7. BiS - I can't say NO!!!!!!!
  8. TWICE - TT
  9. Negicco - ともだちがいない!
  10. 石野理子(アイドルネッサンス) - 道(LIVE)
  11. BiSH - プロミスザスター
  12. Task have Fun - 3WD
  13. GANG PARADE - Plastic 2 Mercy
  14. アイドルネッサンス - Blue Love Letter
  15. Yunomi feat.TORIENA - 大江戸コントローラー
  16. まねきケチャ - 冗談じゃないね
  17. 虹のコンキスタドール - LOVE麺 恋味 やわめ
  18. SAiNT SEX - WACK is FXXK
  19. Passcode - Same To You
  20. MIGMA SHELTER - Svaha Eraser
  21. DEVIL NO ID - まよいのもり
  22. KissBee - どっきんふわっふー
  23. Q'ulle - DON'T STOP
  24. キャンディzoo - 結晶
  25. 吉田凜音 - りんねラップ2
  26. 宗教法人マラヤ - GET UP!解脱
  27. ・・・・・・・・・ - スライド
  28. テンテンコ - なんとなくあぶない
  29. ROSARIO+CROSS - HELLO!未来
  30. ぜんぶ君のせいだ。 - わがまま新生Hominina
そして次点が、THE 夏の魔物 - 僕と君のロックンロール

気楽に始めたけれど、30曲も選んで疲れた疲れた。去年はこんな感じだった。
来年はもうやらないぞ。

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今年のアイドルソングトップ20を挙げる前の番外編、そのラスト。アイドル初心者なんで、よく知らんで書いとります。

でんぱ組.inc - WWDBEST
いやいやいや、これって2016年の年末近くに出たやつで、今年の楽曲じゃないじゃんって自分でも思う。
うん、でもこの曲、いまだに芯の部分を聴いてはいないのだ。

そもそもいつ聴けるようになるのか。
どうだろう。最上もがが8月に脱退(卒業じゃない!)して、そのことはやっぱり昨年末の、というかこのWWDBESTが出る前あたりから予想されていたことではあったけれど(そしてこの「BEST」は解散するからこその集大成としての「BEST」なんだという見立てもかなり広く普及していたところであったけれど)、いざ事実として発表されると、なんだか心にぽっかりと穴が開いたような……となかなかならなかったところに、僕なりの事態の深刻さがあって、つまり、泣いたり、喪失感を覚えたり、その他ヲタクやファンであれば当然に感じるような心の痛みのようなものを自分のうちに明確に把握できずにいて、そのことに戸惑いを感じたくらいだった。
それほど思い入れのないグループであったりしたのなら(たとえば前述のリリスクとか)、いっそ気軽に涙したりして、「うーん、青春だなあ」とか思えるのだけれど、でんぱ組はアイドル好きになるきっかけのひとつだったのでやはり思い入れが強く、だからこそ、「でも現場に行ってなかったし、なんかファンというのにはおこがましいな」という遠慮がつねにつきまとっていて、しかし今回のもがちゃん(以下は愛称で書く)脱退の件ですくなくとも6人でんぱの現場に行くことは永遠にできなくなったので、「遠慮」がしこりとなり、これで僕はでんぱ組のファンになることは永遠にできなくなった(※これは自分のなかでの永久欠格意識についてのことで、他人についてどうだこうだ言うものではない)。
そのような中途半端な人間が、『WWDBEST』を聴いてもいいものかどうなのか、迷いに迷って、いまだに流し聴きしかできていない状態。

この曲が最高の曲なのかどうかっていうと、僕のなかではたぶんそういうことはないのだが、しかし、ひとつの区切りの曲であることはたしかだ。
もがちゃん脱退で、でんぱ組の曲はかなり制限がかかってしまうことになる。代表曲である『WWD』や『WWDII』は、もがちゃんが出てくるパートが重要で、というか、ひとりひとりが重要で6人のうち誰が欠けてもいけないというのがもともとのコンセプトなはずだ。『おつかれサマー』では各メンバーの名前の読み込みがあることを考えれば(もがちゃんの場合は「どこまでもがー」だったかな)、やっぱり難しくなるし、『オレンジリウム』でのソロパートはもがちゃんじゃなくちゃダメなんだよ。もうこれはめちゃくちゃ強調するけれど、彼女のちょっとたどたどしいヴォーカル(こういうのを「せつない」と表現した松岡茉優はえらい)だからこそあのパートに映えるのであって、あれこそがオレンジリウムの醍醐味なのよ。
……と、緻密に検証したわけじゃないけれど、ざっと思いつくだけで代表曲がこんなに唄えなくなってしまう。となると、今年の1/20以降、実質の活動休止状態がつづいている、というのも納得がいくというもの。じつにさみしいことだが。


その1/20の武道館(2回目)のライブを今月になってやっと観ることができた。9月にBDを購入したのに、観る覚悟ができるのに3ヶ月かかった部分もある(半分くらいは、仕事の忙しさから)。
いやあ、つくづく名曲が多いなと思った。なんといっても、たのしい。生バンドの演奏もとてもいいし、パフォーマンスとしても相当に洗練されている。アマゾンレビュー(ふだんはこんなの読まないのだが、ファンの人はどう思ってんのかなーとすこし気になって読んだ)に歌唱力の低さうんぬんをしているのがあったが、「なに言ってんだこいつ」と思った。歌唱力はアイドルの絶対条件じゃない。ルックスもそうだし、ダンスだってそうだ。そんなのはとても瑣末なことで、そういう細部に拘泥するのならアイドルなんてたのしめるわけがない。
余談だが、桂ざこばの落語を評して「上下の振り分けができておらず、ひどいレベル」みたいな批判を目にしたことがあるが、これまた「なに言ってんだこいつ」と思ったことがある。ざこばの落語のあのえもいわれぬたのしさ、生まれというものに縛られていた時代の哀しさ、必死で生きている人間のつくりごとではない切実さ、をまったくわかっていないとは。ざこばは名人だぞ。
脱線した。
ともかくたのしいライブだったのだが、けれどもやはりどこかで彼女たちは「終わり」か、あるいは「終わりのはじまり」のようなものを感じているように僕には見えた。
その象徴が『くちづけキボンヌ』のなかの、
草木のしずくに 学校や友達
すべてがずっと続くと 誰もが考えてた
というパートをりさちーが、
草木のしずくに 学校やでんぱ組
すべてがずっと続くと 誰もが考えてた
とアドリブした部分で、ここには胸を衝かれた。
僕は、その後(1/20以後)になにがあるのか、もっと言えばその武道館のアンコール前(厳密にいえば『WWDBEST』前)のMCで、活動の予定が立っていないことが発表されることを知っていたわけだが、それを知っていた僕でさえ、「うわっ」と声が出てしまうほどのアドリブだった。メンバーがそのアドリブがあることを知っていたかどうかはわからないのだが、そのあとのピンキーのパートのとき、彼女が顔を上げられずいかにも胸が詰まってしまっている様子が窺えた。

前述したように、MCパートでみりんちゃんが活動未定のアナウンスを出すのだが、観るとそれほど悲観的には思えない――悲観的にとってはいけない、というような雰囲気だったともいえる。それはおそらく彼女たちがいつでも希望を提示していたことと無縁ではないのだろう。
でんぱ組のライブのすばらしいところは、エンディングは必ず明るく希望のある曲がかかるという点だ。泣いてしまうところもあったけれど、最後はたのしい話をして終わろうね。そういうメッセージがライブ全体を通して感じられるのだ。
だから、みりんちゃんの言った、アイドルにとっては致命的なインフォーメーションも、(悪い言い方をすれば)うまく丸め込まれてたいしたことのないように受けとった人たちもけっして少なくなかったと思う。すくなくとも、現場にいた人たちのなかでは。
でも、現実は残酷だった。悲観的な人たちの予測のほうが的中してしまい、解散はしていないものの、いまだに予定が立っていない(はず)。

最初のほうで書いたとおり、僕はヲタクでもファンでもないので、彼女たちに幻滅したり失望したりしないし、ありえない希望を託すこともない。ただただ、メンバーのみんなが幸せになってほしいだけだ。
脱退した人も、残った人たちも、みながみな、自分の幸せをつかんでくれたら嬉しい。陳腐な言い方になるが、それ以外に望むことはない。
ちなみに、今回の武道館ライブの最後の最後の曲は『Future Diver』で、5年以上も前にリリースされた曲をいまだに大事に唄いつづけていることにも感心してしまうが、けれども選曲の理由は懐古主義からではなく、やはりその内容に拠るのだろう。
歌詞中にある「夢で終わらんよ」をその言葉どおりに受け取るべきだ。熱狂的なファンほど「もう夢は終わったんだよ」と悲観的になってしまうかもしれないが、それはその人の夢が終わっただけで、彼女たちメンバーの夢とはまた無関係だ。それに、夢が変化することだって当然ある。
もう6人ではなくなってしまった。残った5人で活動することも、もしかしたら難しいかもしれない。けれども、たったそれだけのことをとって、彼女たちの人生すべてが終わってしまったかのように思い込んだり、そう表現したりするのはどう考えたって間違っている。これはでんぱ組に限った話じゃないけれど。
もう一度繰り返すけれど、僕はヲタクでもファンでもないので、彼女たちに幻滅したり失望したりしないし、ありえない希望を託すこともない。ただただ、メンバーのみんなが幸せになってほしいだけ。


あ、もうひとつ余談を。
僕はときどきプレイリストをつくって、それをウォークマンに入れて仕事中聴いているのだが、8月の末ごろ(もがちゃんの脱退発表が8月6日あたりだった)、『あした地球がこなごなになっても』をそのプレイリストの最後に入れておいて、自分がどんなリストを組んだか忘れるために、わざと2週間ほど置いてから再生してみた。

内容をほとんど憶えていないプレイリストが再生され、そのまま1時間ちょっとが過ぎ、エンディングになった。
そのイントロがかかった瞬間、涙が流れた。
そのときはじめて、心のなかの氷がすこしだけ溶けた気がしたのだった。

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何年後かに来たると言われている五輪の開閉会式のプランニングチームに、椎名林檎とか山崎貴が選出されたと聞いて、笑った。いやあ、いいと思うよ。もうさ、もっと”いい感じ”にしようよ、とも思った。タモリと糸井重里のW司会とか、そういうのも、きっとウケがいいでしょ。マツコ・デラックスと美輪明宏のW司会は閉会式の方で。五輪招致の立役者ということで、石原と安倍と滝川クリステルのトリオ漫才もぜひプログラムに入れてほしいね。

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今年のアイドルソングトップ20を挙げる前に番外編を3つ挙げるつもりなのだが、今回はその2つめ。ちなみに、アイドル初心者のたわごとです。

ベイビーレイズJAPAN - 夜明けBrand New Days@TIF2017
去年につづいてまたベビレ持ち出すのかよ、しかも同じ曲かい!ってツッコミは自分でしてしまうくらいだけど、まあ『夜明け』なんだよな。

ぜんぜん知らないで書くけれど、去年のTIFの『夜明け』の最中に、一部のヲタクがサイリウム投げという危険行為をおこなって、彼女たちがたいへん悲しんだ。そういうことがあったため、翌月末くらいに出演した@JAMのステージでは、わざわざ曲を始める前に、「気持ちは拳で伝えてほしい(≒サイリウムを投げないで)」と明言したのにもかかわらず、一部のアホがやはりサイリウムを空中に放り投げてしまったおかげで、彼女たち全員が号泣したという事件があった。
もともと僕は、でんぱ組の『くちづけキボンヌ(6人ver.)』のMVにおける、ヲタクの視界や、その奉仕するような姿勢などに感銘を受けてアイドルに興味を持ち始めたクチなので、アイドルを意図的に傷つける悪意というものを目の当たりにしてしまったことで、僕自身がショックを受けてしまい、彼女たちがワンマン以外で『夜明け』を唄うことをトラウマにしてしまうんじゃないか、という危惧なども含め、それから3ヶ月間くらい、アイドル関連の情報をほとんどシャットアウトするか、見聴きしても心の中にまったく入ってこなかった(上にリンクを貼った去年のトップ20の記事にもそのことはちらりと触れている)。

まあそういうこともあって、TIFに参加したことなんか一度もないくせに、「今年のTIFのベビレはやっぱり『夜明け』をやれないんだろうなあ」なんてことを思っていたら、まず、その日の夜くらいだったか「解禁した!」みたいな情報が入り、それから別の動画(後述)を知り、YouTube上に早く「本篇」がアップされるのをいまかいまかと待っていた。
あたりまえのことだが実際のパフォーマンスはとてもすばらしいもので、やはり何度も何度も再生し、そのたびに熱く込み上げてくるものをこらえることはできなかった。
動画でも確認できるが、イントロの始まった瞬間、観客のどよめきが会場全体にすばやく広がっていっている。あとで知ったことだが、やはり多くのファンも、「『夜明け』はやらないだろうな」と思っていたらしい。もちろん、やってほしいという希望はみなが持っていただろうが、と同時に、今度トラブルが発生したらなにかとんでもないことに発展してしまうんじゃないかというおそれを僕と同様に持っている人は少なくなかったんじゃないか。
けれども、『夜明け』は唄われ、現場の虎ガー(ベビレのファン)たちは心の底から「イェッタイガー」を叫んだことだろう。
傷ついたヒロインたちは逃げることを選択せずに、1年後、同じ場所(厳密にはTIF内の別のステージだけど)に立って同じ歌を唄うことによって不安や恐怖を克服したわけで、この物語はまるで少年マンガだ。

「不安や恐怖」だなんて、なんて大げさな、と思う人もいるかもしれない。けれども、@JAMで行われたサイリウム投げには、「面白かったらいいじゃないか」程度の浅ましい自己顕示欲が、演者に対する敬意を完全に上回ってしまっている構図がはっきりと見てとれたし、そういう括弧つきの「悪ふざけ」はすぐに拡散してしまう、というおそれは本当にあった。
その「事件」に対し、多くの人間はベビレ側に立って同情していたが、一部の連中からは「そんなことくらいスルーできなくちゃ」とか「パフォーマンスのレベルが低いからだろ」などという、心ない意見も出ていたのだ。信じられないことに。
真面目な意見に対して、まともに取り合う必要のない支離滅裂な意見、あるいはまったくの虚偽をあえてぶつけることによって、二元論的な関係性を擬似構築する、というのはネットでもたいへんよく見られる現象(?)で、その効果による利益を最大限に享受したのは、誰であろう、米国大統領のトランプだ。彼は、大統領選における嘘と扇情的なパフォーマンスによって、米国大統領たる人物として、すくなくともヒラリー・クリントンと同等であるように見せかけた(この「両論併記」によるメディアの報道を痛烈に批判していた経済学者がいて、たしかノーベル賞受賞者だったはずだけれど、記憶不確か)。
話は逸れてしまったが、まとめサイト(といっても、アイドル関係のまとめサイトは僕も閲覧している……)などが面白がって両論併記することによって、まるでベビレ側を批難するのにも一理あるように見てしまうユーザーもなかには出てくる。そうすると、「目立ったもん勝ち」「悪ふざけしたもん勝ち」の世界にますます傾く可能性があり、僕のようなアイドルとヲタクとの関係性に聖性を見出そうとしているある種の神秘主義者にとっては、あまり好ましくない状況になってしまう。
かなりバイアスのかかった見方をしているというのは重々承知のうえで書くが、アイドルとヲタクとの小さくも美しい関係性を乱すノイズが、AKBや欅坂などの大手メジャーではないところにまでも侵犯してくるのだとしたら、ベビレだけに限らず、マイナーなアイドル業界はやがて崩壊していくのではないかと思っている。観客が演者を褒め称え、愛することによって成り立っているところへ、匿名的な手法に基づくいわば「無敵」の状態で貶し、嘲笑うほうがラクだという人間が増えるからだ。
愛することより貶すことのほうがコストは低く、得られるカタルシスが同程度というのなら、後者を選ぶ人間のほうが増えるというのは経済学を持ち出さなくても理解できることだ。

話を戻そう。
とにかく、彼女たちは復活したのである。自ら封印していた楽曲を自分たちの手で解放してやった。物語は、より強く美しい物語となり、その大きさが彼女たちのパフォーマンスにもきっといい影響を与えることだろう。
一方、このTIFの広い敷地のなかで、こんなことも起こっていた。
同日同時刻、ベビレの『夜明け』が聞えてきたために、急遽若いヲタク連中がその場にわらわらと集まってきて、遠く離れているステージに向かって「イェッタイガー」を叫んでいる。夕刻の斜光も相俟って、これぞ青春といった感じである。
だが一方で、こういう若い人たちのなかにも、去年の『夜明け』でサイリウムを投げた人間がいるのだろう、という見方もできてしまう(この人たちがそうした、と言っているわけではない)。僕がまったくの素人で、しかもそれなりに年をとっているからこそ、そのようにも考えてしまうのだが、集団で起こしたアクションが、たまたまいい方向に発露すれば上の動画のような爽やかなものになるし、悪い方向に発露すれば、意図的なサイリウム投げに発展する。
願わくは、すべてのアイドルファンの行動が前者になりますように。
遠くから聞えてきた楽曲のためにみなが集まり、大きな声を上げてそれでも相手側に聞えるかどうかはわからない声援を送るだなんて、ほんとうにすばらしい時間を満喫しているな、と羨ましくさえ思う。現場に行ったことがないので本来ならそんなことを言える資格はないのだが、幾人かが、今年のTIFのベストシーンにこの動画(ベビレ本体ではなく、若いヲタクたちのほう)を挙げていたのについて、率直に賛同する。

余談だけれども、『夜明け』を知ったきっかけは、「生ハムと焼きうどん」と「せのしすたぁ」との対バンで、(出来レース的な意味での)プロレスをしたあと〆としてこの歌を唄った、というのをどこかで見聞きして、興味を持ったのが始まりである。
その「生ハムと焼きうどん」も、今年あたり大いにブレイクするかと思いきや、内紛(?)によって解散だもんなあ……。

編集
最初に断っておくと、アイドル初心者で右も左もよくわからない状態で書いています。

今年のアイドルソングトップ20を挙げる前に、ランキングには入らない、いわば番外編のものを3つ挙げておきたいが、まずはそのひとつめ。

lyrical school(旧体制) - サマーファンデーション
今年の2月26日に、メンバー5人のうち、オリジナルメンバーだった3人が脱退するというその最後のライブがあってそれをネットで観たのだが、すばらしく感動的なライブだった。
それまでリリスクは、「お、けっこういいじゃん、でも以前のライムベリーのほうがよかったなあ」くらいの認識だったのが、このライブで、180度それをあらためた(言い訳しておくと、先に空中分解してしまったのはライムベリーのほうで、だからこそ、終わってしまったもの・いまはすっかり変わってしまったものを懐かしむという姿勢からライムベリープッシュだったわけだ)。
昨年11月に出たアルバム『guidebook』は、ものすごくできのいい大名盤なのだが、それを聴いているときすらもあくまで音源として「いい」と評価しているだけで、むしろ「ライブはちょっと劣るだろうから……」と避けていたのだった。
それがどうだ。実にすばらしいのである。脱退するメンバーたちの生命エネルギーのほとばしりや、消え行くからこそよけいにその強さを増す煌めきのようなものが横溢しているということも多分にあったが、ただそれだけではない、いままさに奇蹟を目撃しているのだという瞬間がいくつもあった。

たとえば『ワンダーグラウンド』にあった、
大丈夫12時になっても
とけない魔法かけたから
楽しもう今日は今日だけだから
というフレーズの、あつらえ向きかげんといったらどうだろう!
あるいは、『おいでよ』の、
おいでよ パーティへいそごう
君と僕だけがかかる魔法
にある「パーティー」がこのとき・この場所を指していなかったとしたら、いったいなにを信じればいいのだろうか?
マジックアワー』で連呼される、
1分1秒でも長く長く
という言葉には、そもそも設定されていた「恋人同士の想い」を超越した愛――アイドルとヲタクというだけでなく、輝き燃え尽くそうとしている者たちとそれを見届ける者たちとの連帯感のようなもの――がたしかに含まれていたに違いないし、『サマーファンデーション』の、
多分だけど絶対今日のこと
ずっと忘れないと思うんだ
はその宣言にほかならなかったはずだ。

このように、他愛ないものだと受け取られても仕方のないような平易な言葉のなかにも、美しい符合があった。それらすべてが指し示していることはただひとつ、「きょうで終わってしまうんだ」ということであって、そのことが、唄っている者と聴いている者との心を締めつけていた。美しくも、悲しい瞬間が刻々と迫っているのだった。
けれども。
ラストの曲ではないものの、上に挙げた楽曲すべてのあとに『RUN and RUN』があった。
「スマホがジャックされる!?」と一般にも話題になった動画で有名な楽曲(なにせ、弟の彼女が家族専用のSNSを通じて「こういう動画知っています?」と知らせてきたくらいに有名だったわけだが、当然僕は、「知っているもなにも……」で始まる厭味ったらしい数行を披瀝して、たぶん顰蹙を買った)だが、動画のアイデアが秀逸だったせいで、歌が二の次でしか聴かれていないのが本当にもったいないと思う。
このなかで彼女たちは、こう唄っていた。
大丈夫想像してもっと楽しくなるはずって
all right!
聴こえてるといいな 君の所にもこの声が
(中略)
昨日の私とはサヨナラね
明日の私へ会いにいくから
さぁみな RUN and RUN!
「私たち」の前にあるのは終わりじゃなくて、それは新しい始まりなのだ、と。
もっと楽しいことが起こる未来の始まりにいま立っていて、「私たち」も「あなたたち」もそれを目撃しているところなのだ。だから、なにも悲しく思う必要はない。おそれず、ステップを踏み出そう。

長年彼女たちを応援しつづけたヲタクたちがどう感じたか、それを忖度する資格も能力も、僕にはない。僕が思うのは、7年間の活動の歴史のなかで、ある未来の一点上に存在する自分たちとその場に立ち会うであろうヘッズ(リリスクファン)たちとに向けた歌詞やそれらを包括する物語が、長い時間をかけて紡がれていたということを、彼女たちはその過程で知っていたのだろうか、ということだ。
言葉や歌による極上の織物がある一日のために向けて織られていたわけだが(ある一日のためだけではない、と強く註記しておく)、それらはそのまま、彼女たち自身への最高の贈り物となった。

しかしそうは言っても、僕自身はこの動画を観るたびにやっぱり泣いていた。誇張じゃなく、たぶん3月いっぱいくらいは涙を流しながらディスプレイにかじりついて、この動画ばかりを観ていたんじゃないか。
『まちがう』のなかで、辞めないで残るほうのメンバーのminanが担当パートの、
がんばろうわたし
イヤなことばかりじゃないし、たのしいことを探していく毎日
の部分にさしかかったとき、目にいっぱいの涙を溜めたまま、胸が詰まって唄えなくなってしまうのだが、ここは何十回聴いても泣いてしまう。「たのしいこと」がまさに終わっていこうとするその瞬間、その場に残って見送る者の心境としては正反対の歌詞ともいえる。
つまりなんだかんだいって僕も、卒業するアイドルを見送るファンの「正しい」ありようというようなものを、猿真似ながら初心者なりに踏襲していたということだ。

すくなくともいまのアイドルっていうのは、文脈をたのしむコンテンツだ。どれくらいコンテクストを理解しているかで、たのしめる深度が異なってくる。理解が浅いのが悪いっていうわけではけっしてないけれど、深いからこそその滋味を味わえる部分がある。これは人間理解そのものと通底していることだろう。
残念ながら僕は理解が浅く、多くのアイドルたちを、彼女たちが去ったあとになってから知り、そして好きになることが多い。たしか村上春樹の小説のなかに、「死んでしまった人たちのことは許せるから」というようなセリフがあったように記憶しているけれど、まあそれに近いのかもしれない。
しかし知ったかぶりをするようだが、アイドルの本質は、自分の人生の一部をなげうつことによってはじめて得られる輝きのなかにこそある。額縁のなかにきれいに収められ讃え祀られることにあるのではないのだ。
僕は、この2月26日の時点をもって、リリスクは終わったのだろうと早合点していた。時をしばらくおいてから新体制が始動するというようなアナウンスメントがたしかそのときにもあったように思うが、それを信用していなかった。ここらへんがまったくド素人だと自分でも思うのだが、額縁に入れることで満足しようとしていたのだった。
しかし、7月にリニューアルしたリリスクが『夏休みのBABY』をリリースしたとき、その考えのクソみたいな浅薄さがめちゃくちゃに破壊された。
最高が更新されていたのだが、それについては、また別の話。

編集
このあいだヤフーのヘッドラインで「みなおか」って文字を見て、なんのことじゃいと思ったら「みなさんのおかげです」の略と知った。はじめて聴いたぞ、そんなの。まあ、観たことない番組だけど。

ミュージックステーションが「Mステ」って言われだしたのはけっこう古かったような気がする。96年に就いたバイト先の女子高生が「Mステ」というのを聞いて、へえそういう言い方するんだと驚いた記憶がある。僕の同級生でそんなことを言っているのはひとりもいなかった。

以前にも書いたことがあったことをふたつ。
もちろん後追いなんだけれど、僕の中高生のときの『サウンド・オブ・サイレンス』の唄い手は「サイモンとガーファンクル」であって、「サイモン・アンド・ガーファンクル」なんてしゃれた言い方は知らなかった。ましてや「S&G」だなんて、カレーの会社みたいだ。
「ファストフード」っていう言い方については、いつ頃から主流になったのかは調べられそうな気がする。それくらい、「いっせーのせ!」で変わった気がする。ずっと「ファーストフード」だと思っていたけどね。

「ボージョレ/ボジョレー」問題もそろそろ飽きた。どっちにせよマーケティングの一環というか、目新しい言い方で売ってやれという観点から広まった(?)表記だろうし。
「SSW」は「スーパースターウォーズ」じゃなくて、「シンガー・ソング・ライター」っていうのがいまだにしっくりこない。無理してんだろ、ってツッコミがまずあって。
最近のところでいうと、「ハロウィン」か、それとも「ハロウィーン」なのかについて触れている場面に何回かでくわしたので、今後もちょっとした小ネタになっていくのだろう。

そこで本題。
きょうテレビを観ていたら「ドーナツ」という言い方をしているのを聴いて、びつくり。いやいや、そういう表記は知っていたけれど、促音(「っ」)をきちんと強調して発音するのは初めて聴いたかも。わしはいままでずっと、「ドーナツ」じゃった。「ピザ」を「ピッツァ」って言われたような衝撃。「チャンピオン」という言葉も、「ちゃんぴょん」的言い方は鳴りを潜め、今後は「ちゃんぴおん」という表記に即した発音がメジャーになっていくのだろうか(これについては、「ぴょん」的言い方がそもそも間違いなのかもしれない、とも思っている)。

まあ、「フィロソフィーのダンス」というアイドルグループの「フィロのス」っていう略称は最高だな、ってことが言いたいだけ。
もちろん、楽曲・パフォーマンスも最高で、2017年ベストアイドルグループのひとつです(ベスト、の意味が崩壊してる)。

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このあいだちょっとした場所へ、船に乗って行ってきたのだが、そこはもうフォトジェニックな場所であって、手っ取り早くいえば人気スポットだった。
船に乗るところからやっぱりみんな大盛り上がりで、そりゃそうだろう、漁師でもないかぎり非日常な体験なんだから。船酔いなどは起こらない程度にいい感じに揺られながら離れ島に到着すると、というか、乗船中からみんな写真撮影にはしゃぐ。大学生くらいのグループがあったり、カップルがあったり、というなかで、ひとりきりの女性というのもいて、悪い癖なのだがなんとなく見てしまう。どういう愉しみ方をするのかが気になってしまうのだ。

僕がたまたまちらっと観た方は、カメラだけじゃなく、見たことのない道具(360度カメラとか?)をいろいろと使いこなしていて、けれども表情は無表情で、なんかそれがとても面白いことのように思えて。
彼女はたぶん頭のなかで、その場にいる人たちと同じくらいにおしゃべりをしていたはずで、知っているけれどもその場にいない誰かや、あるいは顔も知らないのだけれどつながりのある誰かなどに、いろいろと目の当たりにしている風景について「きょう晴れていてよかった」とか「細かく飛んでくる波飛沫が気持ちいいんだよ」とか話しかけていたのだと思う。
僕自身はけっこうおしゃべりなので、いろいろと面と向かってしゃべるのが好きだが、けれども心の中でずっとしゃべっているのも好きで、そういう「結局は誰の耳にも届かなかったコミュニケーション」がいまの僕の大部分を構成していると思っている。それらは、実在の人物に話すことよりすくなくとも量的には多いし、少なからぬ人たちもたぶん同様なんじゃないかと思っている。

島に上陸して、思い思いの場所へ各人が足を運ぶ。きっとみんな事前に「ここにはぜひ行っておきたい」という場所を調べておいているみたいで、迷いがない。といっても、もう12月だし、大都会の話ではないので、上陸客は多いとは思ったものの芋洗いという状況ではもちろんなかったし、そのまばらな感じがなんとなくよかった。撮ろうとする気持ちはみんな一緒だよね、というような共犯意識もあったのだと思う。
なんだかんだとけっこう歩き回って、しかも思ってもみずの山歩き的なところも多かったので、厚手のブルゾンを脱ぎ、内側に着込んだフリースもニットキャップも脱ぎ、と汗を拭き拭き適当な場所へ足を向けていると、「この島へ来たらここでしょ」的なスポットに行き当たり、しかも他に人がほとんどいなかったので、休みがてら、その廃墟となった軍事施設の薄暗い部分に入り込んで、光が遠いところから射して美しいシルエットを作り出すのを楽しんでいた。
と、例の女性がいたのである。やっぱりひとりのままで。

もちろんひとりきりの女性をじっくりと眺めていたら、それほど気持ち悪いことはないので、視界に入れるような入れないようなくらいのニュアンスでゆっくりとその場を立ち去りながらも、その様子を窺っていた。ほんと、趣味が悪いと自分でも思いますよ。
彼女は、三脚を立て、そのうえにカメラを乗せて、リモートコントロールできるデバイスをつかって、自分自身を撮影していた。何度も何度もカメラの位置を確かめるようにしながら、しかし自身がごく自然な被写体となるように振る舞い、シャッターを押していた(のだと思う)。
僕はその場に30秒といなかったが、その様子をなんとなく意識の端っこでとらえながら、すごくいいなと感じていた。

インスタ映えという言葉が流行語大賞を獲ったとかで、こうなると(こうなったからこそ)おおっぴらに批判の対象として難ずる人間が出てくるというものだが、そういう言葉が流行る前から、事象じたいを把握し批判するのならまだしも、大々的に知られるようになってからケチをつけだす人間の感覚の鈍さってのはだいたい無視していい程度。といっても、僕もそれほどその行為というものをあまり好きにはなれずにいた。
しかしその女性が、完全に個人のローカルフォルダにひたすらアーカイヴするためだけに撮影しているというわけではないのなら(もしそうだとしたらすごいことだ!)、やはりSNSにアップロードすることを前提にしてイメージをつくりあげ、それを現実化させるための機器を準備し、かつ、巧みに扱うというこの労力は、称讃に値しないわけがない。

インスタ映えのする写真をアップするのは、端的に言って、カッコイイとかかわいいとかお洒落とかいいなあなんてことを誰かに思われたいがためだと思う。「ただの日常の記録」とか「自分らしさ」なんていう表現の仕方もあるかもしれないけれど、それについてカッコイイとかかわいいとかお洒落とかいいなあなんて思われることがイヤなわけではないだろう。
僕は面倒だから「カッコイイでしょ」と言えるかもしれないけれど、若い人ならそういうふうにストレートに表現することを好まないだろうから、いかに婉曲するかに苦労しているというのも容易に想像できる。
ツールが発達していろいろと便利になったぶん、そういうインフラが当たり前の世代にとっては、全方向への配慮がたいへんだろうなと思う。へたにレスポンスがある可能性があるから、賢く振る舞いたい人は、空気(というかいろいろな場所でのいろいろな人間によるリアクション)を読みまくってからでないと自分の意見を吐き出すのに苦労しそう。
だから「(笑い)」や「www」をつけてナルシシズムに陥らないよう自身を客観化したり、客観化できているように振る舞ったりするってのも想像できる。「インスタ映えしそうwww」とか言いながらでもやっぱりスマホを向けて写真を撮るんでしょう? わかるわかるよ、わかりますよ。
でもさ、そういうのってつまらないんだよね。自己顕示欲は強いくせに全部防御線張りまくって傷つかないようにするのって、つまらない。行為の濃度は希薄になるだろうし、その結果は表層的で薄っぺらなものになるし、だいいち、そういうものを見た僕がフラストレーションのあまりウキーと髪を掻き毟ったあげく余計に薄くなるっていう、世界のいろいろな薄さに寄与しているだけなんだよな。
そういう時代だからこそ、ストレートにカッコつけることがいかに恰好のいいことか。気障でいいじゃん。ロマンティストでいいじゃん。ポエム詠めよ。最大限に気取れよ。嘲る連中を笑い返してやればいい。

……というようなことを、そういう人が身近にいるわけでもないのに思っていて、つまり妄想していたわけだが、その島で、件のひとりの女性がロマンティックか、かわいいか、はたまたカッコイイ写真を工夫して撮影しているところを目の端でちょこっと見たときに、つまらないことはいっぺんに吹き飛んでしまった。
すごくいい!
その人がアップするときにどんなキャプションをつけているのかは知るよしもなかったけれど、すくなくとも写真撮影の現場での行動はいい意味で泥臭いもので、誰ともしゃべらずに黙々とやっていたぶん、ただならぬ情熱を感じたのだ。
彼女の、そのときの心中でのおしゃべりがどんなものか聴いてみたかった。それは出来あがりの写真画像よりも僕には興味のあることで、彼女が誰になにを語りかけながら写真を撮り、そしてそのできたものについてまた誰かに話すのか、そういうことを知りたいと思った。
「いいでしょ? この写真。ね、いいよね? うん、いいよね。よく撮れたんだ」とか、「ここすごいよね、すごい。うん、こんな感じ、映画みたいだし、わたし、いま、ここの世界にぴったりハマってる」とか、自身をめちゃくちゃ肯定している感じだったら、なんだか嬉しい。そういう肯定している印象が少しでも感じられたから僕は興味を惹かれたわけだけれど、ハッシュタグでごまかしたり、どんな照れ隠しのキャプションをつけていようと、その場での「生の声」がストレートなものであれば、全然問題ないのだな、と思った。
僕は心の中で、その女性に、どんな写真が撮れたのか、とか、どんなイメージで写真を撮ったのか、とか、誰かに撮ってもらうことはあるのか、とか、写真を始めたきっかけは、などと質問を投げかけていた。もちろん、返事はない。それでいい。
あなたのおかげで、いろいろと新しいことを感じることができました。あなたのことについて、文章を書いてみようと思いました。いいえ、あなたを貶すようなものでは決してありません。あなたを通して、物事の見方がまた変わったんだ、そんなことを書こうかと思っています。ええそうです、あなたの知らない場所で。

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こういうことを書くと、自分でも保守的な人間だなあと思ってしまうのだけれど、やっぱり例の赤ちゃん連れの市議の行動については疑問を持たざるを得なかった。

あの人のインタビューも聴いたし、主張も理解したうえでやはりそう思っている。
あの件を認めるとなると、形式論的にいえば、「ある目的を正しいと信じた人間が確信してルール違反を犯したことを認める」ということになる。
その結果よりよい社会になるではないか、というのは実は論理的な反論ではない。どちらかといえば感情に訴える話だ。しかし一方で、今回の件の主体は、立法者である。感情論に任せていいものだろうか。

こんな場合はどうか。
「この愛する国をよりよくし、そして守り抜くのだ」と信じた人間が、かなりイレギュラーで強引なやり方をもって法案を通し、立法化する。
どこかで見たような例だが、この場合は、形式論的には法律(≒ルール)違反を犯していないので、「赤ちゃん」の場合より適切である、ともいえる。

このふたつを同時に支持する人は少ないと思う。
けれども両者は、細かな違いをちょっとだけ無視すると、「正しい」目的の実現のためなら多少の違反(ルール違反だったり前例違反だったり)は許されるべきだと考えている(ように見える)、という意味において同じような行為なのではないか(ルール違反だとは思っていなかった、は個人の内心の話になるので、あくまで形式に拘泥している)。

一般的な話でなら、感情論に傾くことはあるかもしれないが、立法者や行政者など、権力が与えられている者であればこそ手続きに則ることが大原則で、そこから逸脱するには相当の理由がなければならない、と僕は考えるが、今回の問題でも、あるいは他の問題でも、たいてい我を通した人間は「相当な理由があった」とする。
あと、「赤ちゃん」や「愛国」がなにかひとつの暴力性を持っていることも気になる点だ。それを片手に抱いているだけで相手を黙らせられるような場合がある。「○○のことだから、プロセスは気にしなくていい」という考え方は、自分の嫌う概念が「○○」に代入されることを想定し、それでも許せる場合にだけ認めるべきだ。

件の市議は、市議会だけにとどまらずに県議会や国会に呼びかけ、議員(なにも女性に限ったことでなくてもいいはず)が子どもづれで議会に参加できることを認める法案を提案するよう促してみてはどうだろうか。
ワンアクションで変わることなどほとんどないと思っているし、もし変わったとしても、それは別のワンアクションで簡単にひっくり返ると思っている。
ほんとうに大切だと思っていることなら、腰を据えてじっくりとやってみてほしい。そういう行動のほうが、より多くの人間の賛同を得られるはずと思うのだ。

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ある理由から読み返した。
僕のように『スローターハウス5』を何回か読み終えた人間は、はたしてこの小説をどのように記憶しているのだろうか。
これまでの数回の読書で憶えていることはほとんどなかった――いくつかの忘れがたいキーワードを除いて。
大筋を忘れていたというのにもかかわらず憶えていたというディテールは、たとえば「キルゴア・トラウト」だったり、「トラルファマドール星人」だったり、「『そういうものだ』」だったりする。

しかしそれにしても、これまでの読書はいったいなんだったのだろうか。
それこそ「そういうものだ」というきめつけのもと、皮肉とユーモアで戦争、とくにドレスデン爆撃について描いたタイムトラベル・コメディ、といった紋切り型の切り口で読んでいったのだろうと思う。
しかしそれにしては、といまなら思う。それほどユーモアがあっただろうか。それほど戦争が描かれていただろうか。皮肉はたっぷりあった。タイムトラベルもたっぷりあった。
けれどもおそらく、上記の観点から読むだけでは、この小説はとらえられないように思う。というか丁寧に読んでも、この小説をはっきりととらえることは難しい。時間は単線的に進まず、未来と過去を行ったり来たりして、そのあたりのどこかで主人公が殺されたりもする。
あるいは、と落ち着いて考えてみる。この小説はもしかしたら失敗作なのかもしれない。

ヴォネガットは大好きな作家だけれど、これはイマイチという小説もけっして少なくない。たいていの場合はにやにやとできるのだが、読み終えてからほとんどなにもつかめていないことに気づき、けれどももう一度読むかどうかはわからない、程度の作品ならけっこうある。
それでは『スローターハウス5』はどうかというと、イマイチという印象はなかった。そこそこよかった、という感想がいつもあった。ドレスデン爆撃という大きなテーマがあるということだけははっきりと憶えていたから、もしかしたら、無下にできなかったというのがいちばんの理由かもしれない。
実際のところ、なかなか芯のとらえづらい小説である。まず、本小説を書いた経緯が、冒頭から三十余ページにわたって長々と説明される。そうしてやっと本篇が始まったかと思うと、主人公が時間旅行者(ただし当人にはコントロールできない)であることが紹介され、それから金持ちになったり、飛行機事故に遭難したり、宇宙人に誘拐されて見世物にされたり、などということが3ページほどで説明される。
ついで、トラルファマドール星人の特徴が描かれる。
彼らは、すべての異なる瞬間を思いのままに眺めることができる。彼らには過去・現在・未来という概念がない。彼らからしてみれば、過ぎ去ってしまった時間は二度と戻らない、という地球人の認識は錯覚にすぎない。この冗談のような設定がこの小説の重要な鍵となっていて、小説内世界観の基礎となっている。

この小説を読むと誰もが「そういうものだ」とつぶやきたくなるはずだが、いっぽうでその言葉は、戦争の悲惨さや個人の生命が持つ厳粛さ・尊厳というものを著しく傷つけているかのようにも見える。
どんなに悲惨なことが起ころうとも、その記述の直後に「そういうものだ」という一文がくっついてしまえば、途端に喜劇になってしまうか、そうでなくても、あまりたいしたことでなかったかのように錯覚してしまうからで、その点から、単純な冷笑主義者や、ネガティヴな事象を個人的関心の外に追放したがる人々が飛びつきやすい言葉でもある。
しかし、今回あらためて読んだことで気づいたのは、この「そういうものだ」という言葉にはきちんとした定義がなされているということだった。前述したトラルファマドール星人の時間概念に対する認識が地球人のそれとはまったく異なっている、という記述のあと、こうある。
トラルファマドール星人は死体を見て、こう考えるだけである。死んだものは、この特定の瞬間には好ましからぬ状態にあるが、ほかの多くの瞬間には、良好な状態にあるのだ。いまでは、わたし(※主人公)自身、だれかが死んだという話を聞くと、ただ肩をすくめ、トラルファマドール星人が死人についていう言葉をつぶやくだけである。彼らはこういう、”そういうものだ”。
(『スローターハウス5』 39p)
この引用部分は主人公のビリー・ピルグリムの独白であり、厳密にいえば、この小説の書き手、カート・ヴォネガットとは別人格である。でもまあ、作者はこのビリーの考えに従って、文中に出てくるありとあらゆる死の描写のあと、「そういうものだ」という言葉を添えているのだろう(余談だが、シャンパンの泡が翌日には絶えていた、という文章のあとにもこの言葉はあった)。形式化されたフレーズという意味でなら、「R. I. P.(安らかに眠れ)」とさしたる違いはないのかもしれない。
けれどもこれは、ただの挨拶文でもない。この幾度も繰り返されるリフレインは、その言葉の持つ軽さと指し示された内容の重さとのアンバランスさをやはり強く訴え始める。
シニカルなジョークだけではないとして、しかしここまで何度も何度もあらわれるということは、やはり意味を持っているはずだが、それにしたって、いくらなんでもその言葉はないだろう。何万、何十万という死ははたして一言で吹き飛ばせるようなものなのだろうか。


たまたま社会学者岸政彦の『断片的なものの社会学』というものを読んでいて、そのなかの「笑いと自由」という章で引っかかっていた。マイノリティや被差別の立場にある人たちの自虐という話から、たとえそういう立場になくても、自嘲・自虐をもって自分の人生に降りかかる理不尽と折り合いをつけ、人生を生きつづけていくということはある、という話がつづく。
少なくとも私たちには、もっとも辛いそのときに、笑う自由がある。もっとも辛い状況のまっただ中でさえ、そこに縛られない自由がある。人が自由である、ということは、選択肢がたくさんあるとか、可能性がたくさんあるとか、そういうことではない。ギリギリまで切り詰められた現実の果てで、もうひとつだけ何かが残されて、そこにある。それが自由というものだ。
(『断片的なものの社会学』 98p)
そして、筆者の岸がひどい話を聞かされていると笑ってしまうことがあり、よく誤解を受けるということが書かれる。
私は、他人が苦しんでいる話を聞いたとき、それがひどい話であるほど、安易に泣いたり怒ったりしたくない。だから、ひどい話を聞いて揺さぶられた感情が、出口を探して、笑いになって出てくるのかもしれない。
(同上 99p)
この説明は、きっと本当のことなんだと思う。じゃあそのように笑ってしまう人を信用できるかというと、それはどうだか僕にはわからない。そこが引っかかっている。
気の毒で辛い話を真剣に受け止めれば受け止めるほど、受け手はおそらく感情の処理に困るのであって、上記筆者はたまたま笑ってしまうというだけで、人にはそれぞれいろいろな気持ちのあらわし方があるようにも思う。あるいは、あらわせないことへのフラストレーションの宥め方、とでもいおうか。笑ってしまうこともあるだろうし、うまく聞えなかったふりをするかもしれないし、そのときそのときによって異なる場合もきっとあるだろう。
しかしいちばん簡単なのは、すぐに泣いたり、またはすぐに怒ったりすることだろうと思う。それがずるいとまでは言わないが、安易に「悲しいお話」や「怒れる話」に物語化することにより、他人のものとはいえ深刻な事態に直面することを回避している。経験的に言って、これらの人々はあまり信用ならないということは明言できる。


『スローターハウス5』に話を戻す。
この小説には、痛ましいものごとに対する不感症的態度が始めから終わりまでずっとつづいている。主人公は時間旅行者であるから未来になにが起こるかということを知っているということもあるが、それにしても、ほとんど動じない。
その彼が、ただ一度だけぽろぽろと泣くシーンが出てくる。戦争中、「何を見ても泣いたことはなかった」彼は、終戦直後に自分たちが馬車として酷使していた馬がどれほどひどい状態――口から血を流し、ひづめは割れ、発狂寸前にのどが渇いていた――にあるのかを知ったときに突然泣き始めた。
この反応は、動物愛護の観点からではなく、(作中では一言も触れられてはいないが)神経症患者的なそれとして注目したほうがより適切ではないのだろうか。
その人物を生み出したカート・ヴォネガットはそのことをじゅうぶんに知っていたのではないかと思う。彼自身はそうではなかったかもしれないが、戦争体験によって「揺さぶられた感情」の捌け口に難儀した人々をたくさん目撃したのかもしれない。彼はビリーを、少なくともほとんど泣かなかったという点についてはキリストに似ているとさえ記し、エピグラフにも載せたクリスマス・キャロルの四行連句をそこで再び引用する。
牛のもうもう鳴く声に
神の御子はめざめます
けれど小さなイエスさまは
お泣きになりません
(『スローターハウス5』 233p)
もう一度、「そういうものだ」という言葉について考えてみる。
トラルファマドール星人の考えのように、惨たらしく死んでしまった人物にもきっとあったであろうすばらしい瞬間が、消え去ることなく永遠に実在――「思い出」ということではなく――しつづけるのだとしたら、その死んでしまった人物の人生も、それほど惨たらしいものではなくなるのかもしれない。
ヴォネガットのつくった設定は、なにかの救いをもたらすことを目的としたのではないかもしれないが、しかし何万、何十万という死について忘れずにつけ足された「そういうものだ」という言葉は、何度も何度も繰り返されることによって、「死の瞬間以外を忘れるな」という意味を持ち始める。これは、「メメント・モリ」という「死を忘れるな」という言葉のまったく反対の内容だ。それなら、わかる。それなら、理解できる。

もうひとつ、書いておくことがある。
本書の冒頭でヴォネガットが戦友オヘアの家を訪ねるのだが、そこでオヘアの夫人であるメアリと少しもめる。メアリは、戦争を賛美・助長するような小説は書かれるべきではないと考えていて、そこでヴォネガットは彼女とそのような小説には絶対にしないことを約束する。
なるほど、この小説では戦争というものの勇ましい部分、一部の人間に特別な美意識を抱かせてしまうような部分等が、意識的に排除されている。
『スローターハウス5』で描かれる戦争には派手なところなどまったくなくて、いくつか出てくる死にも必然性はない。そのいづれもが、いたずらや皮肉やつまづきの結果によってもたらされたようなほかの誰にでも代替可能な死であり、そこから厳粛さや重々しさはすべて剥ぎ取られてしまっている。結果、われわれ読者が目にするのは、ばかばかしさやくだらなさの煮詰まったようなものだ。そして、ばかばかしく、くだらないためにこそ、そこに痛ましさを覚えるという仕掛けになっている。
ドレスデンの爆撃を直接には描かなかったのもきっと、安直に「悲劇」を物語に持ち込ませないためなのだろう。読者を宙ぶらりんの気持ちにさせても、ヴォネガットはメアリとの約束を守ったといえる。
あるいは、ヴォネガット自身が宙ぶらりんのままだったのかもしれない。
SFの手法によって巧みに編集されカムフラージュされているが、作品全体に流れるとらえどころのなさは、作者自身の混乱をそのままあらわしているのかもしれない。それくらい、戦争体験、とくにドレスデンでの爆撃体験は、当事者であるがゆえに彼にとって巨大で推し量れないものだったのだろう。
そのような観点に立ってもう一度この小説全体を眺め渡してみると、どこに喜劇の部分があったのかというくらいに、暗いのである。明確な悲劇が与えられず、読者も消化に苦しむ暗さ。その暗さの連続に堪えきれず、「そういうものだ」という言葉につい噴き出してしまうのは、岸政彦と同じような反応なのかもしれない。

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