とはいえ、わからないでもない

2018年02月

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2018年2月24日は忘れられない日となった。正確には忘れられない夜となった。

あの夜、少なくない人たちが彼女たちの最高のパフォーマンスを観ていた。彼女たちの一挙手一投足に釘付けとなり、一瞬一瞬を見逃さないよう全身すべてを目にしていたはずだ。
その人たちの多くは、彼女たちを応援していた。応援しているつもりだった。けれども僕は、その応援という言葉に一種の虚しさを覚えながらPCのモニターを凝視していた。
彼女たちの4年間について、僕たちはいったいなにを知っているのだろうか。その疑念を頭からどうしても払拭できないのだった。
4年間、そこにはきっと”われわれの知らない物語”があったに違いない。彼女たちがそれぞれに抱えていた孤独や悔しさや辛さを僕たちは知らない。それにもかかわらず、最後の最後の瞬間が近づいたことによって勝手に感動を覚え、大きな熱狂の流れにタダ乗りしていただけではないか。
僕はきちんとしたファンであったのだろうか。ほんとうに短い期間を、ただミーハー的に騒いでいただけなのではないか。それを応援だなんて、僕には口が裂けても言えない。

「感動をありがとう」なんて言葉が、やっぱりその夜も飛び交っていたようだった。考えすぎなのかもしれないが、そのような言葉は、彼女たちの偉大な達成を矮小化させるような気がする。僕たちはけっして対等の位置に立っていないから。
ついつい勘違いしてしまいがちだが、彼女たちは僕らの思っているよりもっと高いところにいる。なにもできない僕――「応援している」ことがなにかの役に立っているはずだ、なんてことを自分で思えるほどおこがましくはなっていない、幸いにも――に対して、彼女たちはただただいろいろなものを与えてくれた。その「いろいろ」なもののなかに、「感動」はない。感動というのは、僕のなかに生起されるものであって、彼女たちが直接与えてくれたものではない。
その自己発生的なものについてありがとうと言うことは的外れというか、力点がむしろ「感動した自分」にあるようでいて気に食わない。どうしても言いたいのであれば、ただ「感動した」でいいではないか。
だが、そんなふうに思いながらも、やっぱり彼女たちに感謝の念がないわけがない。彼女たちの存在がどれほど毎日に輝きを与えてくれたことか。繰り返しになってしまうが、それはけっして長い期間ではなく、いまから振り返れば、ほんのちょっとのあいだのことだった。彼女たちになにか伝えることができるのであれば、やはりそれは「ありがとう」という言葉しかないのかもしれない。

そして、すべては終わった。あの昂揚はほとんど去りつつあり、いまはさみしい思いにひたすら沈み込んでいる。
さようならが上手ではない僕は、心のなかにぽっかりと穴が開いたのをたしかに感じていて、ふと思い浮かんだメロディなどを口ずさんでは胸苦しい思いにとらわれ、そんなことを日がな繰り返している。
彼女たちがあれほど昂奮やたのしさ、幸福感を与えてくれたというのに、僕は子どものようにめそめそしている。たぶんその「さみしさ」も僕の心のなかに生起したもので、彼女たちが直接与えたものではない。

彼女たちの名前はアイドルネッサンス。活動期間は2014年5月4日から2018年2月24日のたった4年間。
その最後の日は忘れられない日となった。正確には忘れられない夜となった。
そのとき、おそらく多くの日本人はまったく別のものに熱狂し、感動していたのだろう(むしろ僕はそれを知らない)が、そのほぼ同時刻に日本の片隅で、すばらしいアイドルグループがその歴史に幕を下ろしていたのだ。
『君の知らない物語』 - アイドルネッサンス
それは、まったくもって君の知らない物語なのかもしれない。
でも、知らない人たちは知らない人たちでもしかしたら幸せなのだと考えることもできる、こんなにも苦しい思いをせずに済むのだから。僕は僕で、「誰かの存在を特別に思っていたことに、あとから気づく」なんていう経験をまたできるとはまさか思っていなかった。間違いなく彼女たちは僕にとって特別な存在になっていて、彼女たちがもういないのだという現実にいまだに戸惑っている。
なお、僕がこの歌でいちばん好きな歌詞はここだ。
強がる私は臆病で
興味がないようなふりをしてた
だけど
胸を刺す痛みは増してく
ああそうか 好きになるって
こういう事なんだね
思えば彼女たちのカバーした数々の歌が、いろいろなことに共鳴している。上掲MVにしたって、まるで彼女たちの未来を予見していたかのようだし、彼女たちのオリジナル曲『前髪』(小出祐介による作詞作曲)には、
失った魔法のこと 消えてしまった光のこと
愛おしく思っても 何もあきらめないで
とか、
きこえなくなった音 もう会えなくなった子のこと
さみしく思っても 何もあきらめないで
なんていう歌詞まである。
実際に小出自身が、ナタリーの対談(ちなみに、この対談そのものがすばらしい内容となっている)において、アイドルを辞めたあとの彼女たちに「意味が出てくる曲になってくれればいい」という思いで同曲をつくったと語っている。ということは反対に、この対談の段階、すなわちはじめてのオリジナル曲を製作していた段階ですでに彼は、彼女たちのアイドルとしての存在の「向こう側」を意識していたということになる。
ずっとカバーだけを唄っていたグループがはじめてオリジナル曲をつくることになった、というのは明らかに上位ステージにあがったということで、終わりどころか、まさにこれから勢いをつけていくところだというのに、彼はその先の先、つまりアイドルとしての結末のその先を想像していたことになるのだ。
実をいえば僕も、ずっとつづいていくアイドルネッサンスというものがなかなか想像できなかった。消極的な意味においてすぐに売れなくなって終わるだろうなんていう予測ではけっしてない。それとはまったく反対の、こんなに最高のものがずっとつづいていくなんてことはとうてい想像できない、という自己防衛的な感慨だ。そんな「備え」をしていたはずなのに、そしてほぼひと月前には偉そうなことを言っていたのに、いま、僕はみっともないほどにおたおたしている。

もう繰り言はやめよう。
どうあれ、彼女たちのパフォーマンスや歌の一部は形を残すことになったのだ。それはつまり、後世の人間が、この時代を振り返ってすばらしいグループがあったということに絶対に気づくはずだということを意味する。評判が評判を呼び、ちょっとしたブームにさえなるかもしれない。当事者たちや熱烈なファンにとってはずいぶんとバカにしたブームで、なんにせよ、なにもかもが遅すぎるのだ。
しかしそれでも僕は、その最後の夜のことをやっぱり思い出す。現場にはいなかったけれども、PCのモニターを凝視して一曲一曲を、胸を詰まらせて視聴したことを思い出す。日本の片隅で、すばらしいアイドルグループがその歴史に幕を下ろしていた夜のことを。

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きっと麻耶雄嵩の作品ってのは、「これはあのトリックのアンチテーゼだな」なんてことを察せられるミステリ素養と、「ハッハッハッ」と笑い飛ばせるような大きな度量がないとダメなんだろう。
ちょっとしか読んでいないが、清涼院流水のトンデモと言ってもあながち言い過ぎではない作品(犯人は誰でもいい、みたいな結論のもたしかあった)はまったく受け容れられるというのに、麻耶になるとちょっと辛い、というのは好悪の問題なのかなとも思う。
清涼院のほうはキャラクターがめちゃくちゃ立っている(正確にはキャラクターの「設定」が立っている)けれど、麻耶のほうはそれすらもなく、文章もどうでもいいレベルだし、笑うこともできなければ相当な苦行にもなってしまうし、実際なりかけていたのだが、ただ、この短篇集のなかにひとつだけ叙述トリックで驚かされたものがあったので、「最悪」という評価はしなくて済んだ。
そのやり方がフェアとかアンフェアだとかいうのはもう二の次で、目新しさを獲得できればとりあえず元はとれたという気がした。最後の数ページで読者を「えっ、えっ、えっ?」とびっくりさせるために、作者はあの手この手をいろいろとひねくりだしたんだろうなと考えると、そこに敬意の萌芽のようなものを感じざるを得ないしね。
なお、この作品(と他の作品とのミックス?)はテレビドラマ化されたらしい。観ていないで言うのもなんだが、絶対成功しなかっただろうなって思う。テレビドラマ業界、そんなにネタがないのかね?

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図書館の優れているのは、いまでは本屋に並んでいない小説を簡単に手に取ることができるところ。
源氏鶏太って名前は聞いたことがあったけれど、いまは昔の人だよねえ、というつもりだったが、どこかの出版社が復刻していた気もする。そういえば獅子文六も最近ちくまが復刊していたっけ?
とにかくサラリーマン小説として有名な作家だそうだが、この小説はタイトルどおり、漱石『坊っちゃん』のストーリーにその骨格をなぞらえている。
なので、文庫本の後ろに書かれたあらすじにある「痛快小説」という説明は、本家と同様、いまいち当たらない。痛快な部分はあるにはあるのだが、それが最終的に苦さをともなって終わる、というところまでがひとつのセットになっているから。

読み始めは、なんともつまらん、という感想しか生まれなかったが、次第になんとか体裁をなしていくというか、こちらの感情もやや乗ってくるところがあり、とりあえず最後まで辿りつけた。
昭和二十年代半ばごろ、大学を出た青年が就職早々に田舎の工場に出向となる。東京の人間らしく主人公は田舎での日常をただでさえ面白く思わず、そこへ来てホワイトカラー特有(?)の組織内処世術のあれこれに嫌気を覚える。そこでまあてんやわんやの大騒ぎをするのだが、登場人物も意外に多く、それらが適度に、というかほとんど戯画化された造形をもってあらわれるので、飽きないようにはなっている。
しかし、なにしろ主人公が女性にモテすぎなのがこの小説のいちばんの瑕疵だ。また、腕っ節も立つときている。この二点が漱石『坊っちゃん』の「おれ」にはなかったところで、僕も読んでいて、ご都合主義にもほどがある、と鼻息を荒くしたものだ。
特にモテる部分。いまのマンガやアニメでいうハーレムものというか、主人公の男がやたらと多くの女性キャラにちやほやされるというジャンルがあるが、その源流ともいえるような(すくなくとも上流であろう。古くは西鶴とか?)設定で、こういうものがウケる素地みたいなものはいまも昔も変わらないのかなあとも思った。

ちょっと話題は逸れるかもしれないが。去年の秋、小沢昭一のCDボックス10枚組というものをまとめて聴いていた。全体的にいえば話芸とすれば超がつく一流で耳に流しているだけでも非常に心地よかったのであるが、けれど一点だけ、なかなか手放しで喜べなかったのがいわゆるお色気話に属するものが多かったところで、「一皮剥けば男も女も好き者ですよね。ねえ旦那! そうでしょ奥さん?」みたいな価値観で語られ、そしてそれらが当時は(?)広く受け容れられていたのであろうが、これが聴いていてなかなか辛いのである。なお、「すじがき」は小沢本人がつくっているものではない。
林家じゃないけれど、下ネタと楽屋オチってのは僕のなかでは芸として認めたくないところがあって、小沢昭一はたいへんすばらしい芸人だし、その考え方にも非常に同意するところは多いのだけれど、その「下ネタ多し」の点だけは非常に聴き心地が悪かった。
ここ数年、関西のローカルAMラジオを聴かなくなったのも、ほかに聴くものが増えたということもあるけれど、それ以上に下ネタが多すぎるってのが理由だ。なーんか、いやなんだよね。
「ハーレムもの」についてだって、結局はそれに付随するエロシーンがウリなわけであって、そういうのって急激に醒めてしまう。「下ネタは万国共通だから」みたいなことを言う芸人がときどきいたりするけれど、自分の無芸を棚に上げてなに言ってんだって思う。落語の艶笑噺はまあ笑えるものもあるけれど、あれもまたそれだけしか演らない人間に名人はいないでしょ。
「万国共通」で思い出したけれど、あのクソ漫画『こち亀』にもそんなことが書かれていた気がする。あのマンガは、当初は括弧つきの「女子供」を見下して、趣味(プラモとかサバイバルゲームとか)に走るのが男の道よ、という括弧つきの「硬派」なギャグ漫画だったのにも関わらず、長期連載がつづくようになってから、転向。やたらと女性キャラが出てくるようにもなったし、それに、当初はバカにしていた関西がいつのまにか一目置かれるような存在に変わっており、しんそこ八方美人マンガになってしまったんだよな。

『坊っちゃん社員』のほうに話を戻すと、主人公がやけにモテるという部分が描かれるのはやっぱり読者にそういう設定なり展開なりを喜ぶ向きが多かったからではないか。モテりゃその先があって……ムフフと読者が先を読んでくれるだろう、そういう目算があったのではないか。そういう底意が見えるようで情けなくなってしまうのである。
ただ、会社に隠れて取引先からマージンを取っていたという男が、その責を負って辞めさせられたときの顛末などにはなかなかにリアルと思われる点もあって、カリカチュアライズされたなかにも、本音をすこし加味しているようで、ゆえに多くの読者を得た(?)のではないだろうか。

まあ最終的には章題にもあるように「青春悔多し」といった展開になる。
はっきり言って青年は敗北するわけだが、その敗北感はなにも青年だけにではなく、当時のサラリーマン社会全体がなんとなく担っていたものなのかもしれない。
作者は本家『坊っちゃん』の「おれ」のような無鉄砲な人間を(当時の)現代に呼び戻し、くさくさするような因果なその稼業を一時的にでも破茶目茶に掻き回そうとしたのではないか、読んだ人たちの一服の清涼剤となるように。
ただし、総体の感想としては、二十一世紀となった現代で風俗的資料価値を認めない限りは、あまり読む必要のない小説だと思う。だからといって、図書館の書架からはずされる必要もないと思うが。

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前の記事とはあえて独立して書く。
当該書には、自殺未遂に至った経緯として、自分を特別な存在と考えて、それが実現されないことへのフラストレーションからそうなった(かなり簡略しているけれど)、という人が登場していた。
また、著者自身は「表現者」としての自負があったみたいで(彼は自殺未遂は起こしていなかったはず)、また、親の遺体の前で笑ったという女子高生も、表現に興味があって、みたいな記述があった。はっきり言ってしまうと、こういうくその役にも立たない自意識を自分でコントロールできない人たちにわざわざ近寄りたいと思わないのだ。当然、興味も湧かない。

ちょっと曖昧に書くのだけれど、自意識の暴走からいろいろなものが手詰まりになってしまって心身不調を起こしていた人を近くで見ていたことがある。そのときは、話を徹底して聞いてみたり、あるいはアドバイスしたりしてみたんだけど、その人自身が閉じてしまっているというか自分の信じ込んでいるループの中から出て来ようとはしなかった。そこで僕も閉じてしまって、いやいや、家族でも友だちでもないんだし、もう放っておいていいだろうという気持ちになった。というか、友だちでも限度がある。その人が自分のなかにとことん沈み込んでいるのであれば、おれだっておれの好悪にとことん沈み込んでしまおうと考えてしまうと、結局突き放すしかない。それを諦めずに何年もかかって彼/彼女を救うことができた、みたいな話は他人から聴けば美談かもしれないけれど、僕の場合は、僕自身が自己中心的にできているので、他人のために自分の人生を費やすみたいなことはとうていできなかった。その人間にかつて救われたことがある、というのであれば話は別だけれど。

『自殺』の作者は、恋愛関係もめちゃくちゃだ。結婚しながら愛人関係をいくつも(!)持っていて、そのうちひとりは自殺未遂して重傷を負ったりしているようだ。作者はそれを心の底から反省しているみたいなのだが、そういう反省をしたとかどうとかは別に、こういう人たちっていうのは、自分を「弱い」とか「不器用だ」とかいうことを言い訳にして周囲を傷つけまわる人間だと僕は思っているので、いま現在は幸福みたいだけれど、いつ破壊マシーンに変容するかわからない。言い方は悪いが、そういう症状を起す病気を持っているのだと考えている。
そういう人が、他人の自殺を止めるために本を書く、というのはたぶん嘘偽りのない本心からのことで、それはそれでいいことだと思うが、それによって救われるのは、もしかしたら同じ症状を抱えた人たちだけなのではないか、とも思ってしまう。同病相憐れむというか。
また、かなり深刻に自殺をしようかどうか迷っている、という人はこのような本を読んで「当たるも八卦当たらぬも八卦」に賭けるよりは、心療内科なり精神科なりに行ってきちんと治療を心がけるほうがよっぽどよいのではないだろうか。素人の体験記みたいなのを読んで「救われた!」みたいに思える人は、それほどシリアスな状況じゃないのかもしれないし、そういう人だって、医療にかかることが悪いことだとは思えない。たぶん医療従事者のほうが数多くの人を診ているはずで、そういう人たちの知見やアドヴァイスはバカにしたものではないはずだ。
専門家を頼るのがいちばんの近道で、素人のもっともらしいご託宣(「おれ/わたしのときはこうだった」話)を盲信するのがたぶんいちばんの遠回りだと思う。でも、だいたい逆を選びがちなんだよね。

人ってわりと簡単に死ぬことを考えがちだと思う。それは上から下までっていう言い方はおかしいかもしれないが、さまざまな理由から「もういいや」っていう気持ちにすぐ振れてしまうものなのではないか。
そういう「病んでいる」状態を誇る人たちっていうのが昔からいて、僕はそういうのが大っ嫌いなんだよなあ。嫌いだと言うと、それは強いからだ、みたいな批判がそういう自称弱者さんたちから返ってくるのだけれど、じゃあ反対に訊きたくなるのは、(僕のことではないけれど)死にたいという気持ちを振り切って社会に勇気をもって関わっていく人たちの大変さ・苦労ってものを斟酌したことはあるのか、ということだ。
たとえば、自分は不器用なのだ、とか、人見知りするので、というのを言い訳にしていつまでも黙っている人たち(このあいだの場面緘黙であるとか吃音症の人たち、あるいは失語症だってあるだろうけれど、そういう人たちのことではもちろんない)は、けっきょく誰かが話しかけてくれるのを待っているわけだけど、その話しかけてくれる誰かっていうのは、「いつまでもしゃべり始めない人たちに対して話したくてたまらない人」とは限らない。その人たちだって、ほんとは話しかけてくれたらそれに越したことはないとは思っているのだけれど、それだといつまでも事が進まないので、その人たちなりの勇気を振り絞って話しかけてくれているのかもしれない。
自分はつまらないやつだ、という自己嫌悪に陥っていると、他者の大変さまでは見えなくなって、あるいは見えたとしても、その大変さ・苦労を比較して自分の自己嫌悪のスパイラルをより深めていくというだけで、まあ結局は自己中心になるだけなのだ。そういう人が「もういい! 死にたい!」と思っているのを、僕は無理に止めようとは思えないんだよな。めちゃくちゃ迷惑になる死に方さえしなければ、どうぞお気の済むままにすればよろしいのでは?と思ってしまう。

『自殺』の作者であるスエイさんは、いまはもう鬱から抜け出て幸せを感じているのだと思う。不倫の末の結婚もうまくいっているようで、そりゃよかったですねと思う。
本をひとつの区切りとして読んでしまうと、「作者はいつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」というふうについ感じてしまうが、これで終わりだというのでは予定調和で面白くないでしょ。「表現者」や「特別な人」たちには、やっぱり特別な展開がふさわしいと思うんだ。
僕がストーリーをつくるのであれば、自殺に失敗して一生癒えることのない傷を負ったという昔の愛人がここでやってきて、「幸せなふたり」に刃物を振りかざすっていうのはどうだろう。
冗談じゃねえやな。好き勝手やったあげく、やっぱりてめえ勝手で後悔して悪かったって泣いて反省して、それから改心して幸せになって、誰かの救いになれれば、だなんて。あんたに不幸にされたわたしはどうなんだよ。このわたしを救ったのかよ、あんたは。このわたしの憎しみをあんたは受け止める必要があるんだ。この憎しみは愛なんだ。愛を受け止めろよ。死ぬほどの愛だ。
こんな台詞はどうかな。陳腐だねえ。月並だねえ。心底凡庸だ。けれども、安っぽい台詞で因果の輪が閉じるのなら、それこそ予定調和で、同じ予定調和ならバッドエンディングも悪くないでしょ。
もちろんふたりのあいだになにがあったか全然わからないし上の「台詞」はフィクションでしかない。しかし僕は、愛人とのやりとり、つまり個人間のプライバシーを勝手に書き晒している部分を読んでいて、腹が立って仕方なかった。こういうことを藝術だと称していとも簡単にやってしまう連中がいつの時代もいて、僕はそういう人間をクズとしか思えない。
この本を褒める人間は、その自殺に失敗した人がいまどういう気持ちでいるのかということを少しでも考えたことがあるのだろうか。そういうことを、少なくとも本の中では忘れたふり(いまどうなっているかまでは書いていなかった)をしている作者と同様に、賞賛者たちも気がつかないふりをしつづけていられるものなのだろうか。
本に書き残した以上は忘れているわけはなく、もちろん悔いているであろう作者のその悔いは、簡単に言ってみれば自己満足でしかない。「表現」という名を騙ったそのちんけな自慰行為と、(もしあるとするならば、だが)相手に残っている復讐心とはまったく無関係・別問題であって、その報復行為がたとえどんなものでも成就すればいいと僕は思っている。そういう連環が完成したときこそ、本当の作品となるんじゃないですかねえ。凡庸なおれはそう考えるのだ。

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うーん、めちゃくちゃつまらないというのが率直な感想。
いろいろなところで称讃されているのを目にしたような気がして、ついに購入し読んでみたのだけれど、いまの時代で金を払って読むようなものなのかは甚だ疑問。この手のものは(という言い方はひどいかもしれないけれど、実際そう感じた)ネットで探していけばいくつも辿りつけるようなものなのではないか、個人ブログ等で。

文章は平易であるが、その背景にある思考の骨格みたいなものも、また平易に感じられる。平易だから悪いということではなく、書かれていること以外に書かれていない、ということに不満を感じている。
書かれていること以外になにかを感じたり読み取ったりすることが文章のたのしみであるとするならば、ここにその余地や余白みたいなものは受け取れなかった(断っておくが、より複雑であればいいという難解至上主義ではけっしてない)。哲学や文学じゃないんだから、といわれればそれまでだけど、よろしい、それじゃあなに? エッセイ? 日記?

私小説のように、実在の人物が幾人も登場し、なかには悲惨な自殺の場面なども描かれてはいるので、簡単に切り捨てるのが忍ばれる気もするが、いちおう著作物だし、対価は払っているのだからあえて書くと、好みとして、まずここに描かれているような人たちが好きではないということに尽きるのかもしれない。
それは、僕がイヤな人間で、子どもじみていて、狭量だということに大きく起因するのだろうけれど、好きではない人たちの自己肯定観というものは、否定することはしないけれど、肯定も、また共感もできないので、「ふうん」で終わってしまう。
たとえば自分の両親が心中した女子高生がその遺体の前で笑っていた、という体験談が出てくるが、それについては、ああ、それってこれこれこういう理由があっての反応なのかな、ということくらいは考えたりするけれど、不謹慎だ、とは思わない。しかし不謹慎と思わないと同時に、肯定もできない。めんどくせえな、ってのが偽りない本音だ。僕は、そういう感じの言動を見聞きすると、「嫌い」とか「むかつく」などと思うのではなく、めんどくせえと思うのだ。排除するわけでもないから、否定しているわけではない。ただ、めんどくせえから好きになれないと思うだけで。

だから、価値観がまったく違うところで生きている人たちが、自殺せずに頑張って生きていこうとするのは、他人事として、いいんじゃないでしょうか、と思うだけ。また、「ほんとうに死ぬ!」となったって、それはそれで、ま、いいんじゃないでしょうか、と思うだけ(ただしこれは突き放しているわけではなく、自殺したいと思っている人が死ねたというのはある意味で希望を実現できたことなんだから、そこを否定したくないとは思っていて、その点だけは著者と意見が一致する)。
お互いがお互いに関心ないんですから、好き好きにやっていきましょうよ、というのが読後の感想かな。それが、「自殺」というタイトルの本を読んだ感想だとしたら、さみしいもんだよな。つまり、それくらい、得るものがなかったってことになるわけだけど。

【2018/2/2追記】
補足記事を書いた。

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役者はいい。
西郷役の鈴木亮平は、いまの若い人にはあまりない柄の大きな芝居を期待しているし、実際いい。ここはだいたいこういうくらいの芝居だよな、とこちらが想定しているものの1.5倍くらいの熱量で演じてくれたりするもんだから(調所に直接たのみこんだところとか)、思わぬところでじいんとしてしまったりする。
大久保役の瑛太も、とても爽やかで、鈴木との対比も鮮やかでよい配役だと思う。
そして、同郷幼馴染組に、わが北村有起哉が出演していて、これだけでメシが喰えるよ! あと、高橋光臣な。これも、嬉しい。
ナレーションに西田敏行がいると思ったら(ただし、声だけで聴くとまるで「老人」だ)、斉彬の先代を鹿賀丈史がやっている。翔ぶが如く!
なお、西郷親父が風間杜夫なら、大久保親父が平田満ってのは、もはやギャグだな。
斉彬の渡辺謙がいいのはわかりきっていることだったが、しかしこうやってあらためて観ると、渡辺は、その迫力のある芝居と同時に、軽みも見せられることができて、そこらへんのコントラストが実にうまいと感心する。たとえば調所広郷に、「おまえは藩の500万の借金を返して、そのうえ100万ほど儲けて懐に入れたそうではないか」と重々しく伝えたあと、「それをちょっとわしに貸してくれんか」と軽く頼み込むところとか、または、最新回の最後あたり、馬上から笠をちょいとあげて「新しい藩主の顏はこうだ」と馬の周りに集まった子どもたちに自分の顔を見せるところとか。
その斉彬の異母弟を青木崇高が演じていることも、嬉しい。現在の青木の役はひ弱で頼りないボンボン息子だが、実母と親父がむりやり隠居させられたことで豹変し、残忍な性格となって斉彬と対決する、みたいな展開になったら、もっと嬉しい。史実をまったく知らないので、勝手な予想なのだが。
黒木華については、僕のなかで「時代劇の黒木華ちゃんかわいすぎるだろ問題」があるので、演技の上手下手はハッキリ言って論じられない。あと、西郷家には桜庭ななみがいるんだぜー。僕は一発で気づいたけどね!

……ただ、ちゃべえ感じがするのよ、最近は。
いかに「ドラマ」とはいえ、ロシアンルーレットはないだろ。これで、「林真理子原作」という言葉にまつわりついていた嫌な予感が、いよいよ本物であることが証明された。脚本家はまた別にいるが(中園ミホは『花子とアン』で知っている)、これはかなり原作がひどいのではないかと確信させてくれた。
鹿賀丈史の斉興が、老中の隠居勧告に対してあれだけ老獪に突っぱね、「お、こいつはなかなか骨があるな、おもしろい」と思わせてくれたのに、いざ息子と対峙となったらロシアンルーレットにビビっておしまいっていう筋は、なにか別のヤクザ映画でもつくるときにやってください。わざわざ歴史ものでやる必要はないだろうに。
僕は、斉彬が43歳になるまで藩主となれなかった、というような史実をまったく知らなかったので、斉興・斉彬の対決はものすごくたのしみにしていたのだ。
それが、あんなふうに安っぽいドラマ的演出で解決されてしまうだなんて、ほんとがっかりした。ま、このあとも斉興は出てくるのかもしれないけれど。
そうなるとだな、いろいろな点がやっぱり気になってくる。観ている瞬間に「ん?」と引っ掛かりはするのだが、すぐさま「いやいや、気のせいだろう」と自分で打ち消していた疑問がけっこうあるのだ。
まず第四回だけに限っていえば、遠島扱いとなる平田満が、風間杜夫と相撲をとるところ。ここが、ちょっとちゃばい。平田の奥さんの泣いている姿は真に迫っていたのだが、松坂慶子がなあ……。
松坂慶子は、どこへ行っても松坂慶子の芝居をしていて、彼女が平田に声援を送ろうとも、そこに寂しさや悲しさみたいなものはまったく感じられなかったので、相撲そのもののちゃばさが際立ってしまったのだ。「ちゃばい」ってのは、「茶番でヤバい」っていう造語ね。
ほんと、もったいないと思うのだ。せっかく、風間杜夫は前回、鈴木亮平との面白親子っぷりを好演していたのに(それが赤山切腹のシリアスさとうまく対照的だった)、そういう悲喜劇のうまいバランスが、ああいう安っぽい演出(とひとりの演技)によってもう一段低いところに落ちてしまうんだよなあ……。
あと、やはり最後あたりに、斉彬が凱旋してくるところで、藩のみなが諸手を挙げて大歓迎している、というようなシーン。
こんなこと、実際にあったのかね、ということではなく、そんなに単純なのかなあというのが率直な感想。
43歳まで藩の実権を握れなかった人物が、退けたとはいえ存命している父の影響がまだ残っているであろう城中で、着任したと同時に好き放題ふるまえるなんてことが想像できないんだよな。
民たちはそういう政治的なことはまったくわからず、ただ斉彬が来たことによって薩摩が変わるということを期待してあのような大歓声をあげた、みたいな見方もできるかもしれないけれど、それこそ、民衆をバカにしているような。
むしろ、斉興の息のかかった者たちがまだ大勢いるであろうし、斉彬が実際どれだけできるかわからないから、とりあえずは静観するという態度をとったのではないか。ひたすら平伏し、そのなかで一部の武士たち――迫害されていた組であろう――が、ところどころで気炎を揚げた、というほうが僕にはわかりやすい。
そうしないで、「民衆大喜びの図」にしてしまったのはちょっと単純化しすぎのように思えたし、そのような単純化はえてしてご都合主義にも結びつきやすいというおそれがある。

そうなると、過去のことも思い出しちゃったのだ。
ふきちゃんが売られていく回があった。ふきちゃんは熱演でものすごくよかったが、ただし、あのとき、隠し田(うちの地域でもその名残は見られます)を見逃してくれと懇願していた百姓たちに対して吉之助は、「しかし曲がったことは曲がったことじゃし……」とそれを咎めるかどうか逡巡していた。
で、結局どうしたの? というのがわからない。咎めたのか、あるいは、見逃したのか。
斉彬に報告した、という設定になってはいたので、とりあえず保留したのかな? そこらへんが、いまいちわからない。
わからないといえば、調所に直訴して年貢の取り立てを定免法から検見法に変えさせたようだが(よくわからないけれど、定額法から定率法というようにとらえた)、それって隠し田問題でうやむやになってしまったが、どうなったの?
西郷という下っ端役人にだけ(?)認められた特例が、実施されたのか、それとも西郷自身が頓挫してしまったのか、そこらへんが結局は曖昧なままだ。次回以降に触れられるのかもしれないけれど、きわめて怪しい。

映像はきれい。陰影に凝ったシーンも多いし、ところどころの描写がやけにリアル。ふきの家は、家とも呼べないような壁も満足にないあばら家であったし、北村有起哉の服もやけにぼろっとしている。介錯の用を命じられ、赤山切腹の前日に一心不乱に剣を振る吉之助の父の、襟首のほつれ。ここらへんに、美術スタッフや衣装スタッフの並々ならぬ仕事を感じた。
そしてさんざん述べたように、役者の芝居はだいたいすばらしい。しかし肝腎要の脚本が……かなり心配な『西郷どん』なのである。
まあ、きょうはここらでよかろうかい。

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