とはいえ、わからないでもない

2018年05月

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このあいだラジオ番組で、元アメフトプレイヤーで元アナウンサーのスポーツ解説者という人が出演して、例の問題について解説していたのだが、そのなかで、やたらと加害選手を「すばらしい選手・優秀な選手」と評し、「ほんとうはすばらしい選手なのに、うんぬん」としていた。また、コーチの説明が右往左往していたことについて、「やっぱり長い時間接していた選手を嘘つき呼ばわりすることはできなかった」というような説明をし、暗に師弟の愛情はやはりあるのだ的なことを匂わせていたけれど、どちらも噴飯ものだった。
スポーツの世界では違うのかもしれないが、一般的・常識的見地に照らし合わせれば、そういうのを客観的解説とは言わない。浪花節なんていうふうに言うかもしれないけれど。

本人が元プレイヤーで、当該スポーツに対して非常な愛着を持っているのはわかるし、今回の件でアメフトに悪いイメージがつきまとうのを払拭したいという思いもわかる。
でも、「ほんとうは優秀な選手が、パワハラ的環境に置かれて悪質的行為に向かわざるを得なくなったという悲劇」や、「ほんとうは選手に対して愛情豊かなコーチが、勝利に徹する冷徹な監督の指導方針に従わざるを得なくなり自らの言動に正常な判断ができなくなった悲劇」みたいなことを、いま解説(?)する必要がどこにあるんだろう?
そういう物語、もっといえば「おはなし」は、すべて原因が究明され、ある程度の時間経過ののちに、やりたい人たちがそれぞれ自分の望むものをつくって、盛り上がればいいだけのもの。その程度のものでしかない。その真偽がどうこうということではなく、無関係な人間たちが各自勝手にやる程度の価値しかないということ。

トキオの山口の件でも似たようなことを思った。社会的に許されないことをした山口に、社会的立場からNOをつきつけたトキオと、しかし人間的立場から拒絶しきれないトキオ、みたいな構図が、誰が企図したかわからないがあのとき報道された。
そういう括弧つきの「美談」はさ、5年後、10年後に「じつはあのときこういうことがあったんです」的に扱えばいいんじゃないの?と思った。もっといえば、誰にも言わず、5人のなかだけで共有すればいいだけの話。それを、なぜ大々的に拡散しようとするのよ? 残った4人の「商品的価値」をこれ以上下げないための広報、と読み取ってもそれほど的外れでもないはずだ。

こういうことを喜ぶ思考法を、僕はエンタメ脳と呼んでいる。重度の再生産によって生まれた安直なエンターテインメントに接しすぎたがために、安っぽい予定調和にほいほいと飛びつく思考・嗜好のことだ。
エンタメ脳の好物は、上記のような美談。そういうのに触れて、ときに涙し、「いい話だ~」と拡散する。拡散することで自分が美談に直接関わっているような気分になれるから、SNSはエンタメ脳の増強装置という機能を果たしている。
僕も、アイドルに対してはエンタメ脳に徹してたのしむことがあるが、そういう画一的な視点が、ときに界隈の闇の部分――性暴力、パワハラ、労働搾取等――を、ほんとうはわかっているくせに看過してしまう原因となっていることは間違いない。よくないことだ。

なお、くだんのアメフト解説者はその番組出演の最後に、「今回の件ではじめてアメフトというスポーツを知り、その面白さに触れることができた」というファンの言葉を紹介していたが、なるほど、そういう人もいるのか。僕なんかはアメフトといえば、京大のアメフト部員が集団強姦したことをすぐに思い出しますけどね、そうですか。

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福田和也が、「入れ替わりもの」というテーマの裏で書きにくい父娘の淡いエロスを描いていて巧妙、と評価していたことを記憶していたので読んでみたが、その点は僕のなかであまり興味のない部分だったせいか、そうかなあという程度。
エンディングあたりで、「せ、せつねー」ってことになるんだろうけれど、たぶんそう思うのは男の読者のほうが多そう。ストーリーも、いちおうその視点で描かれているわけだし。
でも、女性の読者は心の底ではどう感じたのかな、ってことに興味ある。たぶん作者は、読者の感動する方向性として「せつねー」のほうに持っていきたいのだろうけれど、もうちょっと複層的に解釈すれば、奥さんの視点もあるはず。
そこから見ると、妻離れできない夫へのささやかな復讐のように見えなくもないのかなあ、なんて。
ずっと愛情がつづいている、という幻想のもとに生活をつづけている夫に対して、嫌いになったというわけではないけれど、関係性が再構築されているこの状態で、その愛情がつづいていると信じきっている夫の想いそのものが重い(シャレじゃなくて)、と妻は思っているのでは?
小説内でそのような両者の視点が巧みに描かれているということはなく、あくまでも夫視点だけなので、福田が言うほど巧妙な感じはしない。むしろ単純かと。すっかり内容は忘れてしまったけれど、安部公房の『他人の顔』のほうが、もっと面白かった記憶がある(全然テーマも違うのかもしれないが)。

ただ、単純な「入れ替わりもの」だけで終わらず、妻が死ぬきっかけとなった事故の加害者家族の問題(『手紙』に通ずる)や、被害者の真の救済についてにもちらと触れられているところが、この作者が誠実だと感じられるところ。特に後者。事故の賠償金によって焼け太りしたかのように見える遺族を揶揄するその部下に対して、主人公が心のなかでつぶやく言葉――目に見えるものだけが悲しみではない(文春文庫版 409p)――が全編を通じていちばん印象的だった。

……と、いま奥付を調べてみたらもう20年前の作品なのか。やけに舞台設定が古いなあ、と思ったし、とくに、主人公がほとんど料理しないで、娘の身体に憑依した妻に任せっきりという点がとても気にかかったが、当時は「家事は女性がするもの」という感覚がまだ一般的だったのかな? にわかに首肯しがたいが。
このように主人公があまりにも家事をしないもんだから、あまり感情移入できなかったんだよな。(別に逃げられる話ではないが)逃げられてあたりまえだよ、と。まあ、時代とともに価値観が変わったことで作者を責めることはできないが、20年前に読んだ人も、いまあらたに読み返してみると、また違う感慨を覚えるかもしれない。そういう感想を聞いてみたい。

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おっさんたちの方が常軌を逸したひどさだからといって、それにひきかえ学生のほうはきちんと謝っていて誠実だ、よろしい、っていう意見は誤っていると思う。
あのような実際の行動について、たとえどんな説明をしようと――それが虚偽だとは思わないけれど――許されるべきではない。謝罪とかなんとか口で言うのはたやすいが(それすらしない人間が多いけれど)、極論すればそれはたった一日の苦痛でしかない。やられた側にもし後遺症がのこった場合、たとえン百万円の賠償金を払われたって、それで麻痺やしびれが消えるわけではなく、とりかえしがつかない。すくなくとも現状では、被害者はそのような不安のもとにあるはずだ。翻って、加害者はひと月後くらいにはどうせみんなから忘れられているだろうから、大手を振ってあのすばらしい大学のすばらしいキャンパスを闊歩することだって可能だ。また、クソ気持ち悪いナチス礼讃野郎からご指名なんかいただいちゃって、よかったよかったと笑みさえこぼしているかもしれない。もちろんこれは想像でしかないが。
驚いたのは、あの卑劣で理不尽な暴力行動を起こした人間に対して、意外にも寛容な人間が多いということだ。すごいな日本。五・一五事件の実行犯たちが、殺人をおかしたのにもかかわらず、世間の同情からごくごく軽い刑で出てきてしまったというエピソードを思い出す。この一連の結果がその後の日本に悪影響を与えたのは明らか。いっときの感情に流され短絡的な思考に直結してしまう人たちって、いつの時代もいるんだね。
指導者たちはあたりまえの話だが、こういう話は、「組織の論理」に流されてしまう実行犯たちに対しても厳しい目を向けるべき。日本には組織大好きな連中が多すぎて、そういうやつらが、いじめという名の暴力や、セクハラという名の性暴力などを、たとえ消極的ではあるのかもしれないが容認している。「いじめ/セクハラは悪いことだけど、でも被害者だって、そうされるだけの理由があるんだよね」みたいなゴキブリ並のたわごとをいうやつは少なくない。そういうのを見聞きするとき、もう無理するなよっていつも思う。無理して人間のマネをしなくていいんだよ、ゴキブリはゴキブリでしかないんだから、物事を考えているフリなんかしなくていいんだ。はい、フマキラー。
なーんか、学生のスポーツマンっていうのを世間が信用しすぎな気もする。爽やか? スポーツマンシップ? 人それぞれなんだろうけれど、僕は運動部の連中がひどいいじめをやっていたのを知っているから、とてもじゃないけれど「ああいう連中」って見方を変えたことがない。で、ああいう連中の行動規範が、やっぱり組織の論理だったりする。

あるひとつの事件に対して簡単に意見を言いたくなる場合、自分あるいは自分のとても親しい人間が被害者になった場合を想定しても同じことが言えるか、を自問すべきだ。全治三週間のケガを負わされたのは誰だったのか。
五・一五のとき、犬養毅の遺族が「わたしたちのほうが被害者なのに、世間からは冷たい目で見られた」という証言を残しているそうだ。また、当時、決行者たちの親を訪ね、「どのようにしてあのような立派な国士を育てることができたのか」というインタビュー記事がつくられたこともあったらしい。これらは、いまの時代から見れば、大本末転倒だということが火を見るより明らかではあるが、当時の世論というか一般庶民たちは大真面目だったに違いない。自らを無辜であると盲信する一般庶民たちは。
話はちょっとずれてしまうが、二・二六事件で殺された渡辺錠太郎という当時の陸軍教育総監がいる。その人の娘が渡辺和子といって、ノートルダム清心学園理事長になった。NHKラジオの「カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス 声でつづる昭和人物史」という番組で、今年の2月に3回にわたって彼女の特集がされたのだが、二・二六事件当時、9歳だった彼女の証言が非常に生々しく、また、聴いていてつらいものだった。父錠太郎は、彼女の目の前で惨殺されたのである。
二・二六もやはりその後に政治へ大きな影響を与えたのは間違いないのだが、いっぽう、昭和天皇が大激怒したせいか五・一五のような「同情の声」で罪が軽減されるということはなかったようだ。しかしあの事件の根底にある、目的のためなら手段の如何を問わないという姿勢・思想は、現代にも一部引き継がれているようで、このあいだの自衛官が国会議員を「国民の敵だ」と罵倒したという問題を、心情は理解できるといってけっして少なくない人間が共感を示したようだが、愚かである。それは自分たちがてっきり「国民」の側にいると信じきっているという愚かしさでもあるし、上に書いたように、目的主義的な愚かしさでもある。
まあいい。大事なのは、二・二六事件という歴史的問題にわれわれ一般人が接するとき、青年将校側の思想背景であるとか、あるいは鎮圧した政治側の視点などで総括されてしまい、被害者または被害者の家族側の視点が忘れ去られてしまいがち、ということだ。われわれの多くは、加害者や、加害者を裁く側に回ることより、被害者になる蓋然性のほうが高い、ということを銘記しておかなければいけない。
テレビであの信じられないほどの醜態をさらしつづけるおっさんたち(非常にアクロバティックな擁護をすれば、加害者学生から目を逸らすために愚行を重ねている、と思えなくもないという予感がちらと頭をかすめるかどうか、というところ)を裁いたり加害者側に同情したりすることよりも、まずは被害者側への支援や寄り添いが重要。加害者側を「赦せる」と思うのは勝手だが、いづれにせよおまえは「赦す」主体ではないし、たとえそうであっても、加害者が罪を償い贖ったあとからでもじゅうぶん遅くはないはずだ。その時点までおまえがこの事件を憶えているとしたうえでの話だが。

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ちょっと前、数年ぶりに観た『相棒』がたまたまスペシャル回で、テロ対策防止法みたいなのをより強固にすべく、そのため平和ボケしとる日本国民にテロの恐ろしさを教えたる、というモチベーションで政治家とか官僚とかの有志がテロを起す、みたいなストーリーがあって、おいおい、『相棒』もしばらく観ないうちになかなかトンデモ系に行ってしまったんだね、と大笑いしたのだが、最近、うーん、なかなか示唆的だったのかもな、なんてことを考えている。

いろいろと書きたいことはあって、下書きを量産しているんだけど、書いている途中にくだらなくなって放り投げてしまう。政治の現状についてのことだが。
たった2年前の5月末、当時の都知事だった舛添についての世論調査(FNN・産経合同調べ)で、「辞めるべきだ」と答えたのは8割近くあったらしい。いや、わかるよ。なんかやってることが情けねーなと思った記憶はあるし(なお、上記リンクの産経記事で、こんな短い文章のなかでも民主党鳩山の普天間基地の県外移設案を「迷走」と評しているところに、忠臣ぶりを感じるよ)。
けれども、現政権の「やってること」のあまりにものひどさに対しては、ものすごい不感症なのね。NHKの最新(2018/5/15)の世論調査でも、内閣支持率38%不支持率44%という結果。僕の憶えているかぎり支持率は絶対に35%を割らないんだけど、これは、この世の終わりが来たってトランプを支持しつづけるアメリカ人たちと同種の人たちがいるのだろうと想像するしかない。それより、不支持率の低さよ。これまた毎回のことながら、すげーなと感嘆するよりない。舛添に対して持っていた峻烈さは、この2年のあいだにどうして失われてしまったのか。
ここ数ヶ月の国会のやりとりを、いくらかでも見聞きしたことがないのかな、と思う。生の動画や音声でなくても、適切なメディアのまとめた情報などに接したことがないのかな。
ある弁護士たちへ懲戒請求が大量に送られた問題で、あそこでもいわゆる「ネットDE真実」の人たちが言及されていたわけだけど、そういう人たちってほんとうにいる。僕もリアルで目撃したことがあるんだけど、ネトウヨだけかと思いきや、(比率はどうあれ)実は右も左もどっちともいるんだよねえ。
なお、件の事件は、最近の起こったことのなかでは快事・慶事に属するもので、当事者たる弁護士の方々の労力を考えると喜んでばかりはいられないのかもしれないが、下世話に言えば「釣られたバカども」に適正な罰が与えられるというのは、被告予定者たちがよく口にしているであろう自己責任論にもぴったり当てはまるので、やはり愉快。

政治ってのはリアルの日常会話の材料として採り上げられることは少ないはずだから、自然、ネットで情報や意見のやりとりを目にすることが多くなるのだろう。だからますます自分が望んだ情報ばかりを取りに行ってしまう。SNSなんかやっていたら独特の空気に当てられまくりになっちゃうんだろうな。
悪趣味なのだが、僕はあるグループのヲタクたち(数人程度)のツイッターアカウントを定期的に覗いている。そこでは、もちろんいろいろな価値観が存在しているのだが、なぜか民主党批判だけはコンセンサスになっていて、その流れなのかなんなのかはっきりとはわからないが、ふだん政治的なことに興味はなさそうだし実際にないのであろうアカウントたちが唐突に「現政権批判」批判をしたりするのにびっくりする。たとえば、産経新聞を朝日新聞の子会社かなにかだと勘違いしているようなアカウントが、である。
サンプルとしては誤差程度のものだろうからここからなにかを帰納することはできないだろうが、ただ、仕事もあって収入も一定以上あってネットリテラシーというものにそれほど欠如しているわけではなかろう三十代前後の人間の一部のあいだに流れる、けっこう偏った「空気感」みたいなものはなんとなく僕にも感じられる。彼らのなかでは、政権批判はダサいらしい。だから批判している連中を攻撃することになんの躊躇もない。
ツイッターのヘビーユーザーともなればネットに接している時間も長いはずで、そこで得られる情報が、最近よく耳にするエコーチェンバー現象だとかフィルターバブルの影響を受けないはずがないわけで、ゆっくりと、しかし着実に、ある何者かの予備軍になっているのかなという気はする。まあ知ったこっちゃないけれど。

話を戻すと、現政権への信じられないほどの寛容さは、人をひとり殺すと殺人罪で、大勢殺せば英雄だ、みたいなアイロニーを容易に想起させる。
一例を挙げれば、安倍夫婦という頭の足りないふたりの軽はずみな行為や厚意(?)によって引き起こされた身贔屓が大事となり、その結果、謝罪したり辞任したりするかと思いきや、国家全体でそれを隠蔽する方向に持っていくという、フィクションとしても「いやーさすがにそんなリアリティのないものはダメでしょ」と言われるレベルの事態になっているわけだが、これ、当人たちは当初ほんとうに「だいじょうぶでしょ、いけるでしょ」程度の認識だったのではないかと僕は思っている。
政治家の縁故主義というか癒着みたいなものは大なり小なりあるとして、それがいいわけでは絶対にないが、それ以上に一連の事件でおそろしいのは、政治家がその気になれば官僚のやっていることが全部見えなくなってしまう、ということで、国会答弁でお手軽に発せられる「記録がないためわからない」という意見を聴くたびに、気が遠くなる思いがする。この状態をよしとできる有権者たちは、ふだんどういう仕事をしているのかと不思議になる。タイムカードを打刻したり、セキュリティカードをセンサーにかざしたりして、自分の労働時間を証明したことはないのだろうか。
それでも、ところどころで水漏れしたように、内部からの告発というか文書の「発掘」が起こり、なんとかここまで来たが、それでもこの一年間、支持率は上がることがあっても35%を下回ることはほぼなかった。「日本スゴイ」系の意見ってほとんど与する気にならないものだが、すくなくともこの点においてはスゴイというほかない。

もうひとつスゴイこと。最近、裁量労働制はあっけなく終わってしまったが、高度プロフェッショナル制度をやり抜こうと政府が頑張っている。「安倍首相ガンバレ」レベルの頑張りではあるが。
この制度の欠陥点が、僕のなかではさんざんに指摘されているという認識なのだが、それでも支持率は上に書いた通りなのである。
いやあね、この法案(一括だけど)、もう通ればいいんじゃないかと思っているのよ。このあまりにもめちゃくちゃな法案が通って、「これでみんなの働き方が改革される」とピュアな瞳で信じ切っている人たちの思い通りにさせてやろう(使用者側はもちろん口元が緩むだけだが)。そりゃすぐに結果は出ないけれど、いづれひとりふたりと人死にが出るでしょうよ。それを過労死と認定されないおそれがある、という過労死遺族の方々の会見もあった。
ね? もうここまで言われているのに、それを看過するわけなんだから、もう成立させてもらおう。で、経団連はホワイトカラー・エグゼンプション制度の提案時(2005年)に年収下限を400万としているから、ちょっとしてからこの高プロ制度も適用拡大を図ってもらおう。そうなれば、より多くの労働者がこの制度のもとで、文字通り死ぬほど苦しむことになる。そりゃあ何万何十万という数ではないのかもしれない。数百人、せいぜいが数千人というところかもしれない。じゃあ、誰がその数百人になる?って話。あそこで人が死んだのもそうだ、ここで亡くなったのもそうだ、というようにいくつかの事件が報道され、そこでやっとピュアな人たち、あるいは「消極的に支持する」という態度で罪悪感を払拭させようとしている人たちも「やっぱりおかしいかも」と思い直すのかもしれない。
ちなみに、前述したように過労死扱いではなくなるかもしれないので、報道されない可能性だって充分にある。現厚労相の加藤が野村不動産社員の過労死をぎりぎりまで隠蔽しようとしたことを見れば、その可能性を排除することはできない。やろうと思えばいくらでもやれるんだよ、ということを悪い意味で証明しつづけているのが現政権で、その政権を4割弱が支持しているのがこの国なのだ。スゴイでしょ。
でもまあ、「やっぱりおかしいかも」と思うことで、やっと世間が変わるのかもしれない。悪法ということで法改正がなされ、元の状態に戻る。当たり前だけど、「元の状態」っていま現在のことだけどね。さあ、いまからよりひどい状況に自分たちを追い込んで行くぞー、と認識しているならいざ知らず、そんなこともわからない蒙昧なままの国民を、いったん地獄に落としてそこで労働問題の重要性をひとりひとりに理解してもらうのだ。安倍・加藤ほかデータを捏造までした厚労省のみなさん方は、実はそのような正義の炎を心に燃やす憂国の士たちなんですかね? 『相棒』に出てきたテロリストたちみたいに?
「仕事が忙しいから」っていう中学生でも猿でも思いつくような言い訳でいまの政治状況を無視していれば、その仕事がさらに忙しくなってしかも補償なしってことになりかねない、っていうものすごくできのいいブラックジョークが、ほんのちょっと先の未来でわれわれを待ち受けている。

常日頃、「民主主義社会であるという条件において」という保留をつけるが、為政者というのは国民と同じ顔をしている、と思っている。もちろん造作のことではない。小心で、頭の回転が悪く、非論理的で、自分が追及されるとすぐになにかの権威に頼って逃げたりしどろもどろになったりして、褒められるとすぐにのぼせあがり、貶されると真っ赤になって怒る。アレはまさにわれわれの鏡なのだ。ぼく/おれ/わたしは入っていない、と思いたいかもしれないが、そういう人たちも含めて、アレはわれわれの姿そのものだと思ったほうがいいのだろう、彼らが否定されていない現状を見るからに。

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あと一年で平成も終わるとか。元号も一緒にやめてほしい。
あと、不謹慎なので誰も言わないのかもしれないが、いまの天皇、退位前に死んでしまったらそれこそ世の中じゅう引っくり返って大騒ぎするだろうな。なんとかそれまではもってくれよ、っていう気持ちを持っていない宮内庁の人間はいまい。おくびにも出しやしない思いだろうが。

新元号とかほんとどうでもいいんだけど、けれど保守趣味の方々なんぞは死ぬほどありがたがるんだろうな。ご苦労なこって。
「いやね、このあいだ時間が空いてしまってね、そのときに新元号かんがえちゃったんですよ」
「なになに? そんなヒマあったの? こっちはセクハラとかなんだとかでひどく忙しかったってのに」
「だって、自分から騒ぎを大きくしたんじゃないの、あれって?」
「だってさ、あまりにもマスコミのやつらが生意気だから、なにか言ってやろうって思うじゃない? そうしたら、それでまたやつら騒ぐんだもん、嫌ンなっちゃうよ」
「わたしも、このところ突かれっぱなしでくさくさしててね、それで気晴らしを、と思って」
「で、なに考えついちゃったの?」
「わたしとね、あなたの苗字から一文字ずつ」
「やっちゃったの?」
「ええ、中国の古典から採るとか、もうそういうの面倒じゃない? 第一、中国ってのが気に食わないでしょう」
「おれも前からそう思ってた。支那のなんてイヤだよな」
「だから、もっとわかりやすいのが、きっと国民にも受け容れやすいかと思って」
「で、なににしたの?」
「『安心して生きられる時代』ということで、安生(あんせい)っていうのはどうでしょう?」
「お、いいね。グーじゃない」
「でしょう。誰もわれわれの苗字から採ったなんて気づかないだろうし」
「閣議決定すればだいじょうぶだろうしな」
「ね、これでいきましょうよ。歴史に名前残せますし」
「そうだよな。これくらいやってもらったってバチはあたらねえだろう」


まあ天皇関連のこととなると、すくなくともテレビは口をつぐんじゃうよね。NHKのラジオでまとめて秩父宮、高松宮、三笠宮のラジオ音源を解説とともに聴く機会があった(実際には何回にもわたって放送された)が、実に面白かった。インタビューのものもあったが、インタビュアーもけっこう気さくで、言葉遣いは丁寧だが、いまよりよっぽど距離感は近かったように思う。
反対に、いまは言葉遣いはちんぷんかんぷんで、そのかわり距離は天文学的に遠いものだととらえる層も少なくないようだ。ときどきではあるけれど、そんな原始的な脳味噌が羨ましいこともあるよね。世の中、さぞ単純に見えることでしょうよ。

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