とはいえ、わからないでもない

2018年07月

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きょう、火星が地球に大接近するのだとか。といわれても、天文ファンでない僕にはちょっとピンとこない。
ともあれ、ブラッドベリの『火星年代記』を読み直すにはふさわしい夜。このクソ暑い夏のクソ暑い夜を、想像力とロマンティシズムでやり抜けようじゃないか。

あらかじめ書いておくと、ハヤカワ文庫では2010年に刊行されたらしいこの「新版」を読むのは初めて。解説を読むと、旧版との相違は、収録作の変更と、年号が「1999年」から「2030年」になったこと。これはブラッドベリ本人による改訂とのことで、いささか驚いている。
全体の雰囲気としては20年前に読んだものと変わらなかったが、しかし1999年1月から始まるこの物語が、この版から2030年1月からの物語となっていて、その微妙な近未来感に違和感を覚える。
本書はもともと1950年(!)に書かれた。そこからほぼ半世紀後の1999年という年代設定をそのままスライドさせるのであれば、この原書での「改訂」がおこなわれた1997年から丸々50年をくわえた2047年くらいにでもしておけばまだよかったものを、なんで33年プラスという中途半端な数字を選んだのだろうか。しかもそこからほぼ20年を経た現在に読んだものだから、「未来」がただの「もうすこし先の話」に成り下がってしまった。もちろんそれはブラッドベリのせいではないが。

しかしながら、こんな些末なことは本書に収められている「荒野」を読めばすべて吹っ飛んでしまう。この一篇が今回あらたに加わったことのみをもってしても、この「新版」は手に入れて読む価値がある。わづか17ページの小品ではあるが、ここに「火星年代記」のエッセンスのすべてが詰まっている。
あまりやらないことだが、今回はこの作品の梗概と引用を記して感想に代える。
ときは2034年。まだ地球にいて、火星に先に行った男たちから連絡を待っているふたりの女、ジャニスとレオノーラ。ふたりは荷造りに勤しみ、あすには火星へと発つロケットに乗り込むことになっているのだが、とはいえ「別世界」に行くことへの躊躇がないわけではない。もう二度と地球に戻ってこれないかもしれないこと。これまでの生活をすべて後ろに残していかなければならないということ。
不安を振り払えないジャニスは、すでに火星に着いてふたりのための家を建て、その写真を送ってくれたウィルの手紙を読み、元気を出す。6千万マイルも離れたところにある、ふたりの家。
ジャニスとレオノーラは、地球での最後の夜をたのしみ、家へ帰ってくる。そこへ電話がかかってきた。「もしもし!」
星々と時間にあふれた永い間だった。過去三年間にどこか似たところのある待ち時間だった。やがてそのときが来た。初めはジャニスが喋る番だった。流星と箒星にあふれる数千万マイルの彼方へ、ことばを焼き、その意味を焦がすおそれのある黄色い太陽を避けて、うまく話を通じさせねばならない。だがジャニスの声は銀の針のようにすべてをつらぬき、巨大な夜を越えて、火星の月にぶつかった。そこから声は屈折して、新世界の街に住む一人の男に伝わった。その間、所要時間は五分。
「もしもし、ウィル。わたし、ジャニスよ!」

(234p)
同時にしゃべることができないので、まずジャニスが話す。彼女はそれまでの思いをウィルに伝える。彼女の決心と、そして彼女の愛を。
ジャニスの声は未知の世界へ飛んで行った。いったんことばを送り出してしまうと、ジャニスはそれらのことばを呼び戻し、検閲し、並べ直し、もっと美しい文章を作り、自分の精神状態をもっとみごとに説明したいという衝動に襲われるのだった。しかし、ことばはすでに惑星間の空間にあり、もしもなんらかの宇宙の光輝によって照らし出されたそれらのことばが、熱に耐えかねて発火したとするならば、ジャニスの愛はいくつかの惑星を照らし、地球の夜の側を時ならぬ夜明けの光でおどろかせるかもしれない。ジャニスは思った。もうあのことばはわたしのものではない。それらは宇宙のものなのであって、到着するまでは誰のものでもない。ことばは一秒間に十八万六千マイルの速さで目的地へ飛んで行く。
(235p)
そして彼女は、ウィルの返事を待つ。彼の答えられる時間は一分しかないという。
「返事はまだ?」と、レオノーラが囁いた。
「しいっ!」とジャニスは気分がわるいときのようにかがみこんだ。
すると男の声が空間の彼方からきこえた。
「きこえたわ!」とジャニスが叫んだ。
「なんて言ってる?」
その声は火星から発し、日の出も日没もない場所、常闇の中に太陽が輝いている場所を通過して、地球に届いたのである。そして火星と地球の中間のどこかに、何か電波を妨害するものがあるらしかった。それは流星雨のようなものかもしれない。いずれにせよ、些細なことばや、重要性をもたぬことばは洗い落とされてしまい、男の声はただ一つのことばを語った。
「……愛……」
そのあとは、ふたたび巨大な夜、回転する星々の音、独り言をいう無数の太陽、そしてジャニスの心臓の鼓動がまるで別世界の音のようにイヤホーンを満たすのだった。
「きこえたの?」と、レオノーラが訊ねた。
ジャニスは無言でうなずいた。
「なんて言った、なんて言ったの?」と、レオノーラが叫んだ。
だがジャニスはだれにも話したくなかった。あんまりすばらしくて話せない。記憶の録音テープを再生するように、ジャニスはその一つのことばに何度も耳を傾けた。レオノーラはジャニスの手から受話器を取り上げ、電話を切り、それでもジャニスは耳を傾けていた。

(236p~237p)
このあとにつづく最後の文章も実にまたすばらしいのだが、引用はここまでにしておく。

宇宙あるいは未知の世界への憧憬と、そこに触れ、侵し、穢してしまうことへの先取りした恐怖や失望、幻滅。地球、火星、そして宇宙。これらのあいだにあるちっぽけな人間。どこへ行こうと不変の部分を持つ人間。愛すべき人間。あわれむべき人間。
上記引用からわかるように、全篇が詩情でつらぬかれているために長大な詩篇を読んでいるようにすら思えるが、もちろんその美しさは破滅の予感を孕んでいる。
美しい世界――それは地球かもしれないし火星かもしれない――に住み、そして滅んでしまったもの。あるいは、いままさに滅び去っていこうとするもの。不思議なことに読者は、まだこの物語にあるようなできごとに直面したわけでもないのに、懐かしく、傷ついたような気分を味わう。その感情をわれわれは、郷愁と呼ぶ。本書は、とても感傷的な未来への郷愁の物語である。

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たぶん今年、というかここ数年のうち、ラジオ関係のトピックでいちばん大きなものは、村上春樹のラジオ番組が来月に放送される、ということになるだろう。なんと春樹がDJをするのだという。ちなみに上記公式サイトのイラストレーションの作者(フジモトマサル)はもう亡くなったんだよなあ……。

(僕ですら興味あるけれど)それはそうとして、僕的に驚いたのが、このあいだのラジオドラマ。28日に放送されたFMシアター、柴幸男の『大工』は、おそらく今年のラジオドラマのベストになる。
ベートーベンの交響曲第九番に乗せて、語られる「大工」の話……ではあるのだが、はじめは「家」をつくるのは大工、というところから、彼らが、やがてもっと大きな家=国家をつくろう、というようなより大きく、そしてより抽象的な物語になっていく。これは現代日本語で書かれた新たな創世記、あるいはその可能性なのだろう。
物語を駆動させていくのは具体的なプロットではなく、むしろ言葉の持つ多義性や音韻であり、言い換えれば、物語によって詩が生まれるのではなく、詩によって物語が生まれるということなのだ。
名前も家も持たない少年に、「名前も家もないということは、すなわちいないということだ」と、「いぬ(犬)」と名づけたり、国家のすべてを決める場所が「白い家」と呼ばれ、この白が城にもかかっているなど、言葉遊びの例には枚挙に暇がない。
しかし、単純な言葉遊びだけでは終わらない。換喩されてはいるものの震災、放射線汚染、難民等の現実問題にも言及があり、ユーモアとシリアスな現実認識が表裏一体となっていて、その目配せの広さにインテリジェンスを感じる。
これら言語による飛躍や表現される対象や地平の広さに既視感を覚えた人は少なくないだろう。ラジオという想像力を必要とする装置をうまく利用することで、時間や歴史をあちこちと飛び回り、現実と空想の境を破壊し、あるいはめちゃくちゃに繋ぎ合わせることを可能にし、それによってリスナーは心地よい遊泳感覚に包まれ、演劇的愉悦に浸る。そう、どうしても野田秀樹の舞台が思い出されてしまうのだ。
そもそも、野田『半神』のオープニングあたりで、大工姿の人間がひとり通行人のように登場するのだが、そのとき『第九』がかかっていて「なあんだ、だいくかあ」というギャグがあったので、この『大工』の冒頭でもすでにそのことを想起しながら聴いていた。もちろん「第九」と「大工」なんていうシャレは古今東西さまざまな媒体で用いられたことであろうが、こと演劇となると、僕の場合はやはり野田を思い出してしまうのだ(野田だけに)。
であるから、大工の親方が自分の若い衆に「これからは棟梁と呼べ」と言いつけ、「さらに大きな国家を」と宣言したときには、「ははん、これはやがて『大統領』が出てきますな」とニヤニヤしてしまった。野田マナーを愛する者としてはこれは初級問題。

キャストがラジオドラマにしては珍しく、ものすごく豪華だったということにも触れておく。鈴木杏、吹越満、富田靖子、田中要次、山下容莉枝、山崎一、村岡希美……NODA MAPでこんなキャストありそう。いや、新感線のほうか。ちなみに音楽は蓮沼執太ね。
はじめ、(褒めすぎかもしれないけれど)作者は野田秀樹が変名で書いているのかなと思ったくらいなのだが、「ままごと」という劇団の主宰らしい。2010年に岸田國士賞も獲っているそうで、すみません、まったく知りませんでした。『大工』も昨年上演されているらしい。さもありなん。東京にいたらこの人たちの芝居は観に行くだろうなあ。演劇に関してかなり億劫にはなっている昨今だが、ひさしぶりに演劇的昂揚感というものを味わうことができた。ブラボー!

最近のFMシアターは放送後一週間ほどは聞き逃し対応をしているので、興味のある方はぜひ。この期間(2018.07.28~08.06)が終わったらYouTubeとか探してみると、たぶんあると思う。毎度毎度アップしている人がいるので。
こんなことを書いているワタクシもまだ一度しか聴いていないので、繰り返し聴いてみることにする。

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まーったく身を入れては観ていないのだが『この世界の片隅に』が実写化されている。
まあ、予想どおりというか、すんごく安っぽいアレンジになっていて、まあこんな感じになるよなーというのが感想のすべて。
でもまあ、これってアニメ映画からの劣化コピーって感じなんだよね。アニメ映画じたいが、僕からすると劣化コピーぎりぎりで不満あったし。のんだって、日常パートはともかく、心情を吐露するような重要な場面では、「ええ? これでOKになったの?」って思ったもんなあ。
彼女のなにが嫌かって、のんって、作品にしがみつくのよ。あまちゃんのときもそうだったんだけど、あのドラマが終わったときの公式会見かなにかの場でもうつづきを書かないと明言していたクドカンに「ぜひ続篇を!」みたいな主張をしていて、演技以上に、「こいつ、他に売りものがない一発屋の芸人みたいでみっともねえな」と思った記憶がある。その後、干されてしまったということは知っていたので、いやそれはかわいそうだろと思っていたんだけど、今度はアニメが当たったら「すずさんでござい」ってやっている。
しかも、アニメの別ヴァージョンの公開が決まったとかで、このアニメに対してはいよいよ鼻白んでしまうなあ。こういうタイトルの付け方、監督というかプロデューサーの感覚が死んでいると思うんですがね。口ではなんとでも言えますが、原作や原作者への敬意がまったく感じられん。まあ、原作が売れて広く読まれてくれれば僕は文句ないですけど。

で、実写化して失敗している最大の部分は、原作の持っている軽さがないということ。どんなに辛いこと・悲しいことがあっても、連載の一回一回はたいていオチがついた面白い終わり方をしていて、そこで、すずと一緒に読者のわれわれも救われる、という仕組みになっている。それが、あのマンガのすばらしいところだ(もちろん、ほかにもすばらしいところはいくつもある)。それに、ただ笑えるというだけではない。悲劇的なことがあえて少ない分量で描かれているからこそ、悲しみ・辛さが余韻となって読者に響くという効果もある。
たとえば、原爆の被害を受け、集会所の隣でぼろぼろに焼け焦げている男性がすわっているシーンがある。頭から布切れがかぶさってあるので、顔は見えない。男性が登場するのはこのたった一コマだけ。しかし、このコマの内容的にも形式的にも中心にあるのは彼ではなく、その彼の存在にまったく気づかずに歩くすずと町内の女性たちなのである。読者ですら、はじめ、そこに気づく人はほとんどいないだろう。
しかし次のページで、その場所を囲んだ女性たちが、そこにすわっていた男性がすわりながらすでに事切れていたらしいということを語る。男性はもうすでに運び去られたのか、そこにはいない。その会話によってあらためてページを戻し、そもそもそこに男性がすわっていたということに気づく。風景の一部のように見えた人が、その瞬間、息も絶え絶えになっていたのかもしれないのに、主人公たちとともに、<私>も気づかなかった。そのように感じた読者は多かったのではないか。僕は、この人物を見殺しにしたような感覚に陥り、鳥肌が立った。
このたった一コマのたったひとりの男性の存在によって、原爆が落とされた直後、何万人という人間が同じような境遇を味わったのかもしれない、ということが暗に表現されている。いままさに死んでゆくということに誰からも気づいてもらえず、静かに、打ちのめされたまま生命を失っていく。場合によっては、そのそばでは誰かが話しながら歩いていたかもしれないのだ。
この2ページを超えられるとはいわない、せめてこれに追いつくだけの表現を、ドラマ版脚本家は想定しているのだろうか。あるいは演出は? この2ページに込められた静謐な怒りや悲しみ。そういったものを十全に感じ取ったうえで、実写化に踏み切ったのだろうか。その覚悟はあるのだろうか。
このマンガはいわば、「ノーベル平和賞」をもらったアメリカの大統領、バラク・オバマが広島にやってきたことをただただ手放しで喜ぶような感覚で描かれたものではないだろうし、読み手もまたそれほどの鈍感さで済ませてはいけない。そうではなくオバマが、原爆資料館の見学をたった5分で済ませたことや、スピーチのなかで原爆投下を「死が空から降ってきた」というような主体不在の文章で言い換えたことに対して注意を払う、そのような神経の細やかさでもって読むべきものである。こんなのを「細やか」だなんてことはほんとうは思ってはいない、むしろあたりまえの感覚だと思っているけれども。

ドラマ版に話を戻そう。このドラマは、マンガ版1ページのところを十数分もかけて演出したりするもんだから、重い重い。そこに意味や「人間ドラマ」なるものを隠そうとするから、なおさら。
くわえて人間の声は、思いのほか生っぽいということがこのドラマの場合とくに強く感じられる。マンガのすずの声が読み手の好きな声で響いているのに対し、のんや松本穂香の声は、上手下手とは別に、動かしがたい個性をもって響いてくる。それもまた重さなのである。それを好ましく思う人も多かろうが、違和感や嫌悪感を覚える向きだって、原作ファンの思い入れが強ければ強いほど、多くなる。もうちょっと言うと、のんや松本穂香がしゃべる「すずの声」によって、すずの鈍さやおっとりした性格が具体性を帯びるのである。そういうのを単純に「かわいい~」という人だけで世の中は成り立っているわけではない。カリカチュアライズされていた、とまでは言わないが、マンガ版のすずの性格は、ある程度のマンガ的誇張表現のうえに成り立っているものだ、ということをこのドラマを観たことによってかえって強く思い起こされたし、そういうものをそのまま違うフォーマットに移すことはたいへん難しいものであるとも知ったのである。前半はキャラ芝居でやっていけるだろうが、さて後半がどうなるか。松本穂香はめちゃくちゃ応援しているけれど(『ひよっこ』観てそう思わないわけがないだろう)、かなり不安だ。

いっつも書いていることだけど、悲しいことを深刻に重々しくやることは簡単だ。戦争や病気や事故だかで誰かが死んで、それを悲劇的なトーンで演出すれば一定の人たちは簡単に感動してくれる。ちょろいちょろい。たとえば、眠っているようにしか見えないが実際には死んでいることになっている母親を背負って桜島に向かって泣く、みたいなのを恥ずかしくて観てられなかったよって話。ギャグだったらすばらしいシーンだったけどさ。でも、こういう安直な手法はもはや時代遅れで、すくなくとも僕は観ていられない。いやいや、幕末だし戦争ものだし時代遅れで構わないじゃないかというフォローはさておき。
なお、このドラマが安直であるとするには明白な証拠があって、第一話のときの次回予告編のときのテロップに「小姑、襲来」「波乱の新生活」とあり、第二話のときのそれでは、「切ない三角関係の行方は」「かけがえのない日常を守り抜けるのか」とあった。こういう、いやらしいまでにわかりやすい誘導・矮小化もないよな、いやしくもあのマンガを原作にしたドラマに対して。脚本家や演出は知らないことかもしれないが、いかに作品の価値を知らない人間たちが関わっているのか、ということがこれだけでもわかる。
マンガ版『この世界の片隅に』の持っている軽さは、安易な作法に凭れかかっているだけの凡百な表現に対して、明らかな一線を劃している。そこにはただの線ではなく大きく深い溝があると思ってよい。そこを飛び越えるのはけっして容易ではなく、おそらく今回のドラマは無残に深淵に落ちていくだけだろう。

そうそう、村上虹郎が千鳥の大悟みたいだなと思いました。

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あとがきにこうある。
あなたはこの本を書くことで、いったい社会に対して何を訴えたかったのか。
(角幡唯介『空白の五マイル』集英社文庫 299p)
これは、「この本が発売されるかされないかという頃」にアウトドア系雑誌のインタビュアーがおこなった質問。これに対し著者は「思わずうろたえてしまった」という。

「何を訴えたいのか」という質問は、裏を返せば「どんな意味があるのか」とか「どんな価値があるのか」ということである。
勉強不足のため今回の読書までまったく知らなかったツアンポー峡谷。そこにおいて単独踏破を挑んだ作者の冒険について、なにかの価値に置き換えられるのかという、これほど無価値な質問もないだろう、と僕のように何も知らない人間でさえ本書を読んでからはそのような感想を抱いてしまう。
本書では、具体的で強固な一回性を持つ冒険が描かれているのと同時に、そもそも冒険というものが現代においてなにを意味するのかという大きな問いが投げかけられている。前者の「冒険」が必ずしも歴史的・地理学的成功を収めなかったとしても、いささかも本書の価値が減ずることはない。価値うんぬんというのなら、冒険家が死に直面し、体力的にぼろぼろになり絶望の底から生還することだけで大きな価値がある。
最近、ある登山家が遭難し死亡した。あのとき、多くのメディアが「真実」というようなタイトルを付した記事を発表し、それを読んだ僕は「なるほどそんなものなのかなあ」とわかったような気になった。しかしそれは、「わかったような気」でしかなかったのだと思う。世のため社会のために「真実」を訴えた人たちも、所詮はわかったような気でいただけなんだろうと思う。死に直面した人間の思いを、その場にいない人間がいかに語ることができようか。客観的事実とやらを積み上げれば語れるはずだという信念は、冒険という圧倒的事実の前ではあまりにも無力だ。死者に対する礼儀とかうんぬんではなく、そう感じられた。

たまたまNHKのカルチャーラジオで近代文学の講座を連続して聴いていた。そのなかで近代の文学者たち(鷗外、漱石~太宰まで)は、もしかしたら同時代の多くの人間たちですら理解できなかった文学というものに、人生を捧げたり、あるいは人生を捧げるほどの価値があると信じていた。
その価値観を現代人が理解するためにはときおり、身に染みついてしまっている現代の価値観というものをいったん保留して思考操作をしなければならなくなる。つまり、「いまではちょっと考えられないことだけど、むかしの人たちは、文学のために人生を捧げる、なんてことも珍しくなかったんだなあ」と。近代人でもなく、かつ文学に対して一定の興味の範疇を出ない程度の人間であれば、そのように考えるのはごく自然のことだ。
この文学の「価値」の変容と似たようなことが、冒険においても言えるのではないか。著者が本書エピローグ部分で述べているように、冒険の本質も変容している。
どこかに行けばいいという時代はもう終わった。どんなに人が入ったことがない秘境だといっても、そこに行けば、すなわちそれが冒険になるという時代では今はない。
(同上 292p)
それでは現代はいったいどういう時代なのか。
それは、読者ひとりひとりが感じることである。著者はそれに容易に答えを与えないし、そもそもわからないというようなことを書いている。死のリスクに直面し、その瞬間に凝縮された生を感じるという点に冒険の意味を見出しているようではあるが、しかし次のようにつづけているのだ。
とはいえ究極の部分は誰も答えることはできない。冒険の瞬間に存在する何が、そうした意味をもたらしてくれるのか。なぜ命の危険を冒してツアンポー峡谷を目指したのか、その問いに対して万人に納得してもらえる答えを、私自身まだ用意することはできない。そこはまだ空白のまま残っている。しかしツアンポー峡谷における単独行が、生と死のはざまにおいて、私に生きている意味をささやきかけたことは事実だ。
冒険は生きることの意味をささやきかける。だがささやくだけだ。答えまでは教えてくれない。

(同上 295p)
僕がこの記事の冒頭で雑誌インタビュアーの質問を無価値だと断じたのは、著者の冒険が、「社会」などという不確かで漠然としてコミュニティに対しなんらかの意味をもたらすのかと問うているからで、そもそもを言えば、そんなもののために著者の冒険はあるわけではない。
(しかしもうちょっと深く読み解こうとすれば、著者の冒険の意味するところはきっとあり、それは「社会」に対してもきっと大きな意味をもたらすものだと僕は信じるが、しかしそれは上述したように、読者個人個人が読書という体験を通じて得るべきものであって、ガイドブック的にあらかじめ著者や出版社などによって提示されるものではない。そのようなショートカット的PR文を著者本人に吐き出させようとするインタビューこそ無価値である)
著者はあとがきのなかで「私が書きたかったのは自分自身のひとりよがりな物語だった(300p)」と告白している。そして僕は、この点に、この本と文学との共通点を見出したのだった。かつては定義の容易だったもの、無条件に称讃を得ていたもの、目標がもっと明瞭であったもの……。もっと言ってしまえば、エゴイスティックであり、ときに非道徳的であり、社会的な意義や価値の有無などというものとは独立して存在しているものでもある。
本書が僕につきつけたのは、「おまえはなにをして/なにのために生きているのか」という問いであった。「毎日が平穏無事であるならそれでよい」というような常套句的/無思考的解答ではなく、まさしく僕個人の体験によって生まれた答えが、はたして僕のなかにあるのか。その問いもまた、文学と共通なのである。

なお本書は、著者が単独行を思い立った発端や経緯、顚末と、人類によるツアンポー峡谷の「発見」の歴史が交互に描かれ、そのような構成のためもあって、非常に読みやすく引きずり込まれる。いい読書だった。

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クーラー論争がアツいらしい。きょうもツイッターのまとめみたいなので盛り上がっているのを瞥見したけれど、発端となるツイートの内容の信憑性が不確かというかソースがなくて、そういうのに乗っかってあーでもないこーでもないと大勢がやっているのを見ると、頭沸いてんだなとしか思えなかった。
ソース至上主義ってのもあほらしくて嫌いだが、無根拠伝聞/限定体験話で盛り上がるのも「ひと昔以上前の議論」の感があって、どっちにせよ、人間って進歩しないんだなって思った。あと、無力な。そういう議論に参加している人間全員(僕も含めて)、社会的には屁の役にも立たないんだけど、本人たちだけは「議論している!」っていう無駄で暑苦しい充実感でいっぱいなんでしょうな。よござんすね。

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例の、とか、件の、とか、いま話題の、などいろいろと形容詞はあるのだが、つまりはあの「候補作」についてなにかと言及されているようだ。
本編も、それから参照されたほうも読んでいないので内容についてはいかようにもコメントできない。
ただ、小説とか文学というものについて僕の持っている一般論を記録しておけば、文学とモラルとはそれぞれ独立しているということ。モラルを語ったり、あるいはモラルというものを強く意識させたり刺戟するような作品というものがある一方で、まったく非道徳的・非倫理的でありながら、かつ高い文学的価値を有しているものもある、ということ。
だから、ある文学作品に対して「これは非道徳的である」と批難するのは、批判ではなく、ただの好みでしかない。好みはとても重要だが、他人に対しての説得力は、あまりない。
しかし、上記は内容が道徳的であるかどうかについてのことであって、今回の件では、手法的な道徳性が問われているらしいから、ますますそこを混同しないようにしなければならない。

くわえて。
それ以上にもっと大事なのが、日本の若い小説家の小説において見られる「問題意識」が往々にして卑小であるということ。はっきり言って、読む気が起こらない。
たとえば「現代社会の生きづらさ」みたいなテーマは、もう何十年つかわれつづけているのだろうか。もし、なにかの救いや答えを模索するために読まれるのであれば、小説なんかより、いまはよっぽどすぐれた学術研究書がそれぞれの専門分野(福祉、貧困、病気 etc.)にあるように思う。
そういう「正道」に行かずに、あくまでも自慰行為のグッズとしてたのしむというのなら理解できないこともないが……。
その一方で、救いなりなんなりは必要ない、ただただ文学としてたのしみたいんだ、という人にとっては、外国文学と比較したりするとだいぶキツイように思う。文章のレベルは高いし(ただし「翻訳文は苦手」という人が多いのも事実)、取り扱われている内容が広汎にわたっているにもかかわらず、しっかりエンターテインメント性が確保されていたりもする。
ちょっと話題を変える。
昨今は日本のワインのレベルが上がっている、という言い方がされることが多いが、しかし同価格帯の世界中のワインと比較すると苦戦を強いられることのほうがほとんどだと思う。なんとなれば、日本のワインはまだまだ高いし、反対に、海外では高品質低価格のワインが少なくない。
「日本ワインラバー」たちは寛容で、金払いもよく、それぞれが独特な連帯感を持っているように見える。それに対して、「日本ワイン」とか「国産」ということに特にこだわらない人たちは、チリや南アフリカ産のワインなどを飲んでもっとラクに幸せになっている気がする。もちろん、どちらも幸せといえば幸せである(世の中には、ブルゴーニュ以外はワインとして認めない!というような求道の者たちもいるそうであるからして)。
どうか、いわゆる日本文学が、「日本文学ラバー」の好事(こうず)の対象で終わってしまわないように。

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【その1】
NHK-AMのアーカイヴで入手できるものを片っ端から掘っているのだが、そのうち、「カルチャーラジオ 科学と人間」というプログラムの「太陽フレアと宇宙災害」というシリーズ(2018年1月5日~3月30日放送)の第2回「オーロラに導かれて」をたまたまきょう聴取していた。内容は、オーロラを構成する3要素であるとか、オーロラ観測についての専門家の話。

【その2】
昼休憩の時間にEテレ『サイエンスZERO』の録り溜めしていたものを視聴するのが好きなのだが、たまたまきょう観た7月1日放送回は「宇宙夜話 #0 とことんオーロラ」というもので、オーロラのメカニズムを説明するものだった。なお、ゲストである専門家とNHKの撮影班が取材に出かけたのは北極圏スバールバル諸島というところで、ここは冬の一時期、一日じゅう夜という日がつづく(白夜の反対)。ちなみに、なぜかもうひとりのゲストとして平野啓一郎が出演していたのにはびっくりした。

【その3】
TBSラジオ『荻上チキ Session-22』は僕の愛聴番組で、だいたい前日に録音したものを翌日の仕事中に聴いているのだが、たまたまきょう聴いた当該番組の特集が「太陽の昇らない冬の北極を一人旅」というもので、冒険家・角幡唯介が数十日間の極夜をひたすら歩く、というめちゃくちゃ面白い話を聴くことができた。彼の旅の出発地はシオラパルクというグリーンランド最北の村で、ここもやはり冬になると一日じゅう夜という日がつづく。この番組のなかで初めて「極夜(きょくや)」という言葉を知った。視聴の順番としては【その1】→【その2】→【その3】で、Eテレでは極夜という言葉は使われていなかったか、あるいは、僕が聞き落としたかのどちらか。


というわけで、これらをたまたま同日に視聴した僕は、ひとりで大昂奮。【その2】と【その3】は放送日がごくごく最近なので重なることは簡単にありうるが、【その1】は半年前の放送なので、やはりなかなかの偶然ということになるのではないか。満足。

以下、蛇足。
カルチャーラジオ関連は面白い内容が多いのだが、NHKがすぐにアーカイヴを削除してしまうのが相当もったいない。有料でよいから、過去のものにすべてアクセスできるようにしてほしい。
サイエンスZEROはこの4月からナビゲーターが南沢奈央から小島瑠璃子(こじるり)になって、当初たいへんがっかりしたのだが、回を追うにつれ、この子、(事前に台本に書いてあるわけじゃないのだとしたら)相当頭いいんじゃね? すくなくとも科学的勘所が鋭すぎじゃね?と思うことが多く、あまりにもできすぎなので、やっぱり「台本に書いてある説」を採るしかないというところまで至っているのだが、いづれにせよ、思ったよりは全然悪くないのでほっとしている。でもまあ、なおちゃんよかったよなあ(プロフィールに「落語好き」というのがあり、実際に市馬に稽古をつけてもらったことがあるようで、それを知って以来、激推し)。
角幡唯介の話が面白かったので、とりあえずデビュー作(『空白の五マイル』)を入手して読む予定。

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歌丸が亡くなったというので、手持ちの音源でもさらってみようかと探してみると、1979年(昭和54年)の「国立演芸場開場三十周年記念 東西名人揃い踏み」というもののなかに収められたものしかなかった。
四十年近く前ということだから歌丸は四十とちょっと。非常に滑舌がよく、すぐれた口跡なのではあるが、心なしか客の笑いが少ないように思えた。

十数年前、歌丸の印象を僕の両親に尋ねると、「うーん、うまいんだけどねえ、おもしろいという印象がない」みたいなことを言っていた。彼らがすぐれた批評眼を持っているとは思わないのだが、あの圓生に対しても「面白くないよねえ」みたいなことを言っていて、そういうのがわりと世間一般の受けとられ方だったのかな、と思ったことがあった。
もうすこし詳しく書くと、圓生なんて人は僕からすると大圓生という感じでオールタイム・トップ5に入る大噺家なんだけれど、戦後直後の頃は「あの下手の圓生までもラジオに出てるんだから(※それくらい噺家は当時需要があったということ)」みたいな評価があった、とこれはたしか談志の言葉として記憶している。その談志以外にも、似たような評価を聞いたことがあったような……。
僕が知っている圓生の音源というのは晩年のものが多かったのか、たとえば上記1979年の「東西名人揃い踏み」には圓生も高座に上がっているのだが、その『鹿政談』のすばらしいことといったら。ちなみに、圓生はこの年に亡くなっているのだ。まさに最晩年そのもの。
そんな圓生がむかしは「下手」だったという。というより、「あの下手な圓生があれくらいの名人になったんだよな」みたいな評価がわりと玄人連中のあいだで共有されていた、ということだったのかもしれない。まあ談志という人は、圓生のことをものすごく褒めているときもあれば、めちゃくちゃくさしているところもあって(特に落語以外の点で)、その評価を頭っから信じていいものなのかどうかはわからない。

(※2018.07.04追記)
例の三遊亭一門のごたごたについて円丈の著書を読んだときには、圓生の人間としての魅力のなさは痛感させられたが、それとこれとは別の話、と思って彼の落語をたのしんでいる。

話を戻すと、僕の両親が「圓生は面白くない」と思っていたのは、それが当時の世間一般での評価であったためではないかと思っていて、それを信じれば、きっと歌丸も「うまいのはわかるけれど面白くない」と一般的に思われていたのではなかったか。あるいは「面白さでいうのなら、○○のほうが好き」と。そう思わせるような、客の反応だったのである。
(ちなみに、大圓生はめちゃくちゃうまいし、面白い。彼はライブ音源はもちろん、スタジオ録音のものでもじゅうぶん聴くに値するものを残している。談志でさえスタジオ録音ものなどは、ギャグがすべったり痛々しいところもあってなかなか聴きづらいほどなのだが、圓生は客が大勢入っている前で演っているような、風格と余裕を兼ね備えていて、これを名人と言わずして誰を名人と呼ぶのかというくらいの実力を見せつけてくれる)

歌丸が1979年の例の会の高座にかけた噺は『城木屋』というもので、この音源以外で聴いたことはなかった(ただし僕は初心者なので、実際は有名なのかもしれない)。
いろいろと聞き馴染みのある言葉が出てきて、たとえば、美人を表現するときの「古の美女に譬うるなれば、普賢菩薩の再来か常盤御前か袈裟御前、おひるの御膳はもう済んだ、というくらいの美人でございまして」。これはたしか『源平盛衰記』にも出てくるフレーズだったような。
あるいは、醜男の番頭、丈八という男が、店の一人娘の美人・お駒に恋をするというストーリーのなか、「むかしは主従の懸隔というのはたいそうやかましいものだったそうでして」なんていう言葉が出てくるが、この「主従の懸隔」という表現が実にいい。「しゅじゅう」じゃない。「しゅうじゅう」と読むのがこの場合は正統である。棟梁を「とうりゅう」と読むようなものだ。
前述したように、口調のよさを十二分に発揮できる噺でもあってたいへんよかったのだが、ただひとつだけ、噺の最中に鼻を啜る音だけがやけに耳についた。このときたまたま鼻の調子が悪かっただけなのであれば文句はないのだが……。
なんやかんやと書いたが、クライマックスの東海道尽くしはやっぱり見事だし、サゲも見事。他の噺家でも聴いてみたい噺だった。
そうだ、いま思い出したけれども、テレビで歌丸の『鰍沢』を観たことがあったのだ。それは最近の高座だったので歌丸自身いい年齢ではあったのだけれど、相変わらず流暢に話していたのに感心したことをなんとなく憶えている。いやあ、あの年であそこまでしゃべるってのは、よっぽど日頃の鍛錬を怠らなかったのだろう。たぶんEテレ『日本の話芸』あたりで、ちかぢか歌丸の高座を追悼再放送すると思う。ひさしぶりに、観てみようかな。

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