とはいえ、わからないでもない

カテゴリ: 漫画

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いつものとおり、周辺を書く。

このマンガを、もし仕事で、あるいは自分のライフワークなどと考える「書評ブログ」等で、なかば義務的に感想やレビューを書かなければいけないのだとしたら、それはものすごく不幸なことだと思う。この作品について、限られた文字数のなかで限られた側面からしか語れないことをとても不誠実だと考える人間にとっては。

『この世界の片隅に』というマンガをはじめて読み終えたとき、僕は率直に、なにも書くことはできないだろうと感じた。なにかを書けば、また別のなにかを書いていないことについてきっと後悔するだろうし、また、なにか書くことによってそれがきわめて断定的で限定的なことしか書けないことに、自分で不満を持つことになるだろうとも思った。
きのう二度目にゆっくりとつぶさに読み返してみて、その思いは覆らなかった。僕はあるひとつの世界――ヒロインの北條すずという女性が生きた世界――を見せられた気分のままでいる。人は「ひとつの世界」を見たとして、それをすべて語り尽くすことができるだろうか。そもそも世界を語れると思うのだろうか。己の把握しきれないものを語ることは不可能なのではないか。
フィクションだから、とか、マンガだから、などと自分の属する世界から割り切って読むことはできなかった。作品のなかの世界は、僕の世界――つまりこの現実と必ずどこかでつながっているはずであり、時間軸でとらえれば、すずが生きた世界のつづきを僕は生きている、と感じられた。
検証することは僕にはできないが、おそらく、凄まじく丹念に積み重ねられた取材や調査によって、そこから現実の空気を嗅ぎ取らずにはいられないほどのリアリティが成立している。
かといってこの作品は純然たるマンガであり、マンガ表現という見地に立っても、最高級最上級の賛辞にふさわしいマンガである。ひとコマひとコマがすばらしく、僕は幾度も心を奪われた。ため息が自然と漏れ、ときに目頭が熱くなった。単なる「悲しい表現」「残酷な描写」のためではない。そんな単純なものはこのマンガにはない。たのしさ。嬉しさ。辛さ。悲しみ。苦しみ。悔しさ。この世界を成り立たしめているものは単純ではなく、そこに登場人物たちが自己を投影するのであれば、やはり感情も複雑に絡み合う。

このマンガにはいろいろな関係が出てくる。主人公を起点として、兄、妹、両親、幼馴染、夫、義理の父母、義理の姉、義理の姪、近隣の住民、結婚する以前の夫の知己、あるいは友人。これらの人々に軽重はない。もちろんすずにとってより大切な人はいるが、マンガ内においてはすべて同じ重さをもって描かれている。ときには、鷺やバケモノでさえも。そして誰もが、やはりすずと同じようにそこから蜘蛛の巣のように伸びる関係性を抱えながら生きている。現実ではあたりまえのことで、しかしフィクションにおいてはないがしろにされてしまいがちなあたりまえがここにはある。
そしてさらに、現実においてはどうしても越えられない空想への壁を、このヒロインはやすやすと飛び越えてしまう。先に、マンガ表現としても最高級のものと書いたのはこのためであって、マンガでしかできないことをこの作品はやってのけている。僕はこの作品の前知識をなにも持たないで読んだものだから、上巻の、白兎の跳ねる海のほうへ向かって絵の中の少年が歩いて帰ってゆくシーンに思わず声が出てしまった。
これらのシーンのひとつひとつを挙げていって、ここは泣けた、あそこは感動した、などとは書きたくない。「泣けた」とか「感動した」なんていう甘っちょろい言葉のタグをつけるのは、この作品を汚い手でべたべたと触っているようなもので、ふさわしくない。そんな簡単な言葉で、なにかを言い当てたような気分になってはいけない。もっとおごそかで、より似つかわしい言葉を探して黙っているほうがましだ。

まだまだとらえきれていないところがある(たとえば、下巻の表紙ひとつをとってもものすごくよくできていて、こんなふうな意味深長な表現や描写がいくつもあることだろう)。けれども、すぐにはそれを探し出そうとは思わない。虱潰しに一コマづつを精査していくような、そんな読み方はしたくない。もう少し時間が経ってから、本棚の前で見つけてふと手にし、ぱらぱらとページをめくって、それからその場で腰を下ろして読み始め、またちょっとしてから、片肘ついて横になりながらなおも没頭する、そんなふうにしてまたこの物語の世界に入っていきたい。時間をかけて、ゆっくりと付き合っていきたいのだ。

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最近はやっとこさ念願の昼寝時間を確保できるようになったので、体力十分と言いたいところなんだけど、日々の暑さが尋常じゃないらしく、毎年恒例の夏バテも私の身を訪い始めたので、なんだかもう、ねぶたくてねぶたくて。

そんな中、先週、ジャンプで『スケットダンス』が終わった。自分でもびっくりするくらい感動しなかった。きっと、これが2年とか3年前くらいに最終回になっていたら、そんなことはなかったと思う。じゃあ2年、3年前のどういうあたりで終わればよかったの、と問われても一切答えることができず、つまりそこらへんから興味が失せてしまったのです。

今まで、「ジャンプやめどき間違えマンガ」として、



の二強が私の中で揺るがない地位を獲得していたのだが、新たに『スケダン』が加わることになり、これで三強となりました。めでたしめでたし。

しかもこの3作、どれも私が連載初回から推していたマンガなんだけどねえ。これらは(アイシールドは、評価の割には、最初の方のコミック売上がそれほどだった、という記憶がある)一般的にはそれほど人気もなく、打ち切られそうな雰囲気になったことも一再ならずというところであったが、それが熱心なファンのおかげか、徐々に人気を博すようになり、そして不必要に話をだらだらと永らえさせ、しまりのないエンディングを用意してくれて、信者めいたファンならともかく、心あるファンたちを失望させてくれたのだった、なんて書くとまたどこかから罵倒コメントをいただいてしまうのでやめておくが、とにかくまあ、『スケットダンス』というマンガが32巻つづける必要があったのかということは、マンガをただのビジネスコンテンツとしてとらえるのでなく、ひとつの作品としてとらえる場合は、よく考えなければならないのだと思う。

公平にいえば、面白いから長くつづけろ、つまらないからやめろ、という話なのではない。長篇が似つかわしい作品かどうか、ということを言いたいだけなのだが、これもいろいろと反論をぶつけられそうだし、「『こち亀』が185巻(?)も出ているけれど、じゃああれは長篇に似つかわしいのか」みたいなことを言われたって、こっちは「そんなわけないじゃん」としか言えなく、もうひとことだけ添えることを許してもらえるのなら、「惰性でしょ」ってこと。

特に集英社はメディアミックスという手法を積極的に採っているわけで、いったんアニメ化が始まっちゃったりすれば、いろいろとそのキャラクターグッズなりなんなりも生産されたりして、関わる人間やカネの規模が爆発的に大きくなって、「作品の質がどうだとか、そんな青臭えこと言ってんじゃねえよ」みたいなのが営業の現場の声なんじゃないのかな。

そういう「売れれば正義」の潮流に向かって、投げる石つぶてなんて持っていない私は、「あーあ」ってうんざりしているだけなんだと思う、たぶん。

スケットダンス』についてもう少し言及すると、ボッスンたちが3年になった時点で、あとはもう省略法を使って時間を飛ばし、スイッチをしゃべらせて卒業させればよかったのだと思う。これは冗談じゃなくて、本当にそう思っている。

彼らが3年になってから登場した新キャラたちなんて、ひとりも愛着が湧かなかったし、その頃にはまったく目を通さない週だってあった。スイッチがしゃべる直前のクエスト(?)だって、よく読んでいない。この「愛着の湧かなさ」って、『カーネーション』で主役の糸子をずっと尾野真千子がやっていたのに、突然夏木マリに代わってしまったときの感覚と非常に似ている。

あと、終盤は絵が荒れたように感じたなあ。これは気のせいかもしれないけどね。



……などというのは、結局は個人の好みの問題であって殊更強く主張すべきものでもないんだけれど、この1年くらいで私も何度か触れている「連載が長くつづくほど作品の持つテンションや緻密さが緩慢になっていく現象」は、多くの人たちが一考はすべきなんじゃないかなあ。作家や作品を盲信することも大事だけれど、ときには「ん?」と疑念を持つことは大事。世に「マンガ好き」という人は多いけれど(私は違う)、そういう人たちこそ、「まあ、マンガだからいいじゃん」みたいな意見を有してはいないだろうか。

私は、優れたマンガは、優れた小説・優れた映画・優れた音楽・優れた絵画・優れた演劇・その他すぐれた藝術作品と比肩しうると本気で信じているし、実際にそういう作品を知っている。

あともうひとつだけ。

たしか『まんが道』で主人公たち藤子不二雄は、手塚治虫にマンガ以外を勉強しろ、みたいなアドバイスを受けていたんじゃないか(かなりうろ覚え)。

で、満賀道雄才野茂は映画をいっぱい観に行くんだけど、今のジャンプの漫画家たちって、いったい何を観たり読んだり聴いたりして育ってきたのか、非常に興味がある。よくデビュー時に「好きな漫画: スラムダンク、ワンピース、ナルト」みたいに書かれたプロフィール欄があるけれど、まさかあれで全部じゃないだろうね、と。



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けっこう噂になっていたので、装幀も可愛かったこともあるし、また、今年の冬にはイノシシ解体の手伝いをしようなどと考えていたので、岡本健太郎山賊ダイアリー』を買って読んでみた。




山賊ダイアリー(1) (イブニングKC)

山賊ダイアリー(1) (イブニングKC)



山賊ダイアリー(2) (イブニングKC)

山賊ダイアリー(2) (イブニングKC)



山賊ダイアリー(3) (イブニングKC)

山賊ダイアリー(3) (イブニングKC)




うん、面白い。

面白い、のだけれど、と「だけれど」がどうしてもついてしまう。

たしか、「猟師、ときどき漫画家」という肩書きだったと思うのだけれど、「漫画家」の部分にはあまり期待しない方がいい。つまり、あまり絵がうまくないのだ。

だから、狩猟した鳥獣を食べるシーンなどから、あまり感動やおいしさが伝わってこない。なんというか、個人的に喜んでいるだけなのかなあ、というふうにも思えてしまう*1

それと、淡々と描かれているせいか、この人はどうやって生活しているのだろうということが気にかかってしまって仕方がなかった。

自らをまだ「初心者」と位置づけている作者が、まさか猟師一本でやっていけるはずもないし、猟をしていない期間は百姓をやっている……というふうには思えない。出稼ぎ? あるいは副業? まあ、この漫画がそこそこ有名だということは、原稿料プラスコミックの印税でやっていける、とは思うのだけれど、それが実現されるまではどうしていたんだろう、と余計なことばかりが頭の中をぐるぐるぐるぐる……。

というのは、田舎での生活というのは、一にも二にも仕事の有無、収入の多寡に100% 左右される。それはもう、私自身が身を以て証明しているようなもので、「うわー空気がきれい、自然大好きー!」だけでは、絶対にやっていけない。絶対に。

この漫画は、三浦しをん『神去なあなあ日常』のように取材によってできあがった作品というわけではないだろうから、作者もおそらく本当に猟師をしているのだとは思うが……気にはなるのだ。

そういうものを気にしなければ、本当に面白い。

カラスを食べたり、鳩を食べたり、イノシシを食べたり、鹿を食べたり……と食欲に衝き動かされてのハントは、「いのちの大切さを知るため」などという寝言をぬかす森ガール的「お試し解体」とはわけが異なり、気持ちがよい。

たとえ「食べる」という大前提があっても、罠にかかったイノシシに止めをさすときにホロと涙を流すシーンなどは、こちらの胸を打つ。



当地は、なかなか獣害のひどいところで、田畑どころか住居の周りをイノシシがうろうろしていたという話をよく聞くほどで、猟銃は持とうとは思わないが、罠の免許は取ろうかなあ程度に思っていた。

が、この漫画を見て、実際はかなり大変だということがわかった。

罠にかかった獣のとどめを刺すのは散弾銃がなければ大変みたいだし(近所の人たちは包丁でやっている人が多いみたい)、その後の血抜きやら解体やらをする場所もあるわけではない。衛生面を考えれば、なかなか簡単ではないのだ。

そうそう。漫画内で、生肉を食べることに強い本能を感じる、という言葉があったけど、私もものすごい共感を覚えた。

先年の牛生レバー事件に絡めて、「そもそも生肉を食べるなんて野蛮だ」という言説をいくつか読んだけど、自分が食べられないもの・苦手なもの・嫌いなものを「食べられない」「苦手」「嫌い」と言うのはわかるが、「野蛮」とまで言ってしまう人を個人的には信用できなくて、ある人のブログを、それが理由で読まなくなってしまったことがある。

食に限らず、文化全般についても、おそらく同じことが言えると思う。自分とは異なる文化を、ただ単に「異なるもの」と認識すればいいものを、それを下劣だの低級だのと評価する人の意識にはどこか選民意識が働いていて、その意識こそ、下劣であり低級なのだ。……と、ある一定の連中を想定してくさす私のどこかにも、つまらない意識は働いているのだろうなあ。



*1:もちろん、猪肉などをときおりもらったり、そもそもジビエ好きだった私は、そのおいしさについて理解しているつもりだけれども。



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西島大介といえば、私はたぶんCOMIC CUE でその名を知ったのだと思う。

名前を知らなくても、その絵を見れば、「ああ知ってる」という人は多いかもしれない。

こんな感じ。




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といっても、私は彼の作品にはほとんど目を通したことはなく、上に挙げたものも未読。可愛らしすぎてたぶん趣味に合わないだろうという先入観があった。

ところが、ふとしたところで『すべてがちょっとずつ優しい世界』というタイトルを見て、読む気を起こした。

心がざわつくタイトルだった。これを見て、「ああ、癒されたい」と思ったわけではない。むしろ、「この現代において、そんな甘っちょろい『世界』なんて描けるのか?」というちょっと意地悪い思いがあった。




すべてがちょっとずつ優しい世界

すべてがちょっとずつ優しい世界




そして何日か前に、この本が届いた。

奥付の日付やオビの内容を見て判断したのだが、これはきっと原発のことを描いているのだと思う。

しかし、この物語はすべて架空の上に成り立っている。舞台は日本ではないし、それどころか地球上のどこでもない。「くらやみ村」という名のちっぽけな村の話だ。

そこでは人間や、人間でない生きものたちが住んでいて、それらはすべて同列に扱われている。「おばけ」でさえも。彼らが村の住人なのだ。

原発というより、「あの日」以降の「原発の存在」が、ここでは問われている。けれども、物語全体は、暗喩に包まれている。美しい暗喩であり、見事な寓話だ。

10年後あるいは20年後、その頃にはもしかしたら、現在私たちが巻き込まれている原発に対する反応について、既にリアリティを感じられなくなっている人も多いかもしれない。だが、そんなときでもこの作品は読み継がれていくことができると思う。

ヒステリックに反原発を声高に叫ぶのは、個人の活動としてはいいのかもしれないが、長い時間の鑑賞に耐えうるものをもし作りたいのなら、必ずしも正しい選択とは言えない。

私は知らなかったが、このマンガが「モーニング・ツー」に掲載されたとき、その第一回目の雑誌の表紙はこれだった。




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デザインは、松本英子『荒呼吸』ですっかり(私個人の)おなじみになったナルティス。

この上部に、「暴力」「実験」「皮肉」というキーワードにすべてバツ印がついている。

この作品に対する作者の心構えを推し量れば、「ここには、暴力もなく、実験もなく、皮肉もない」ということになるか。そして、タイトル。「すべてがちょっとずつ優しい世界」。

大まかなストーリーは理解できた。

けれども描かれているのは、優しい世界、ではない。ましてや癒される世界、などでは決してない。どちらかといえば、寂しく、そして厳しい世界だ。

これが不思議だった。どうして、「すべてがちょっとずつ優しい世界」がタイトルなのか。

もしかしたらの話なのだが、「この現実よりは」ということなのかもしれない。現実では、もっと嘘が溢れ、人が人を騙し、裏切り、傷つけ、憎んでいる。そういうのに較べたら、たしかにここに描かれている世界は、優しい。そういうことなのだろうか。いや、わからないな。こういうことを無理に想像しても、意味がなさそうだ。

ただ、モノトーンのコントラストが美しいこの作品が、きわめて静謐なところから、とても大切なメッセージを読者に送っていることはたしかで、その「祈り」に等しい作者の思いは、前述したように、何十年の後にも響きつづけているような気がする。



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さんざん、いろいろなところで話題になっている「少年サンデー」No. 15 に載った『月光条例』のこと。

噂になっていたのでコンビニで立ち読みした。読んでいる途中から、手が震えてきて、「あ、こりゃまずい」と思い、慌ててレジに持って行って、それから駐車場に停めてあった車に乗り込み、そこでゆっくりと読み直した。



読んでいて、なぜか土田世紀の『編集王』みたいなシーンを想像した。

作者の藤田和日郎と担当者がファミレスで話している。

「担当くん、今度の『月光』だけど、こんなネームで行こうと思うんだ」

「(読んで絶句して)……え? 先生、これで行きますか? いや、こりゃすごいぞ」

「そう?」

「うん、こりゃ歴史に残りますよ。いちおう、編集長にも了解とって、それから印刷所にも連絡しないといけませんけど」

「いろいろと迷惑かけるね」

「いやいや、これ、ほんとにすごいですよ!」

ところ変わって、サンデーの編集部。

「……と、次回の『月光条例』はこうする予定です」と担当者が説明。

編集長、「すげーな、これ。藤田先生が考えたのか?」

「はい」

「いや、まあそうだろうけど……すげーな。よし、印刷所にちゃんと連絡しとけよ」

「はい。じゃあOK ってことで?」

「もちろん」

「ありがとうございます。先生にさっそく伝えておきます」

担当者が去って、編集長ひとり。「……早く、サンデーで読みたいなあ」

場面は、印刷所。チーフらしき人が部下に伝達。

「いいか。次の『ゲッコー』は、そのままでゴーだ。わかったな! そのままだ」

「はい」

解散したところで、若いふたりの男がこそこそと話し合う。「いったい、どんなふうになんのかな?」「ほんと」

しばらくして、血の滲む思いで、作者が原稿を仕上げる。

担当者に原稿を渡す。

「先生。ついにできましたね」

「担当くん、おれ、やっちゃったよ」

「いや、先生。やりとげたんですよ」

「……担当くん、泣いてるじゃないか」

「先生こそ!……おれ、先生の担当になれて、ほんとよかったです」

「ありがとう。おれもきみが担当してくれてよかったよ。今回はほんと、ありがとうな」

……みたいな場面が思い浮かんだ。キャラクターはみんな土田世紀の絵なんだけど、藤田和日郎だけ、島本和彦の「富士鷹ジュビロ」。

実際に、ネームの決定はどうなっているのだとか、印刷所がどうなのだとか、作者と担当編集の関係がどうなのだとかは、知らない。今回の一連の流れがtogetter でまとめられているのは知っているけど、中身はあえて読んでいない。

でも、今回の『月光条例』には、上に書いた私の妄想よりも、もっともっと熱い思いが込められていたのだと思う。

今週の『月光条例』を読んで、「うわあ、やられた!」と思わなかったマンガ家っているのだろうか、と思う。

ネットではあれを、「前にもこういうのあったよね」と訳知り顔でコメントする人や、表現規制の問題と絡めて論じる人もいるみたいだが、そういうちっぽけなレベル・思いで描いているんじゃないと思う。手塚治虫から始まった日本のマンガという大きな歴史(=道)に、ペンをぐさっと刺して叫んだ「ここに藤田あり」あるいは「ここに『月光条例』あり」という宣言なんじゃないか。

素直に脱帽し、跪いて読むべし。



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今年は絶対に漫画の当たり年になると思う。「これはいいだろう」と思って購入すると、9割近くで良作と巡りあえている。

いい漫画に出会うためのコツは、漫画雑誌でその連載なりを読むなり、店頭で試し読みをするのが一番だろう。で、もしそれができない場合は、信用のおけるレビュアーが薦めていたものを選ぶ、ということになるだろうか。

アマゾンのレビューなんかは、あまりアテにならないことが多い。そのレビュアーが過去にどんなものをレビューしているか、をきちんと精査していけば、信用度も測れるのだろうけれど、そういうことにあまり時間を割きたくないので、最初から信用しない方が早い。

とまあ、がちゃがちゃと最初から前フリが長いが、実はこの漫画は、過去に一度だけ雑誌で立ち読みしたことがあり、そのときに、「あ。これは絶対に面白いから買おう」と思い、ついにその第1巻がきのう家に届いた。松本英子の『荒呼吸(あらごきゅう)』。




荒呼吸(1) (ワイドKCモーニング)

荒呼吸(1) (ワイドKCモーニング)




カテゴリーでいえば、エッセイ漫画。『月刊モーニング・ツー』をたまたまコンビニで立ち読みしたときに、高野山の宿坊に泊まったときのことが書いてあって、一気に引き込まれた。それから1年か1年半くらい経ってしまったのかもしれないが、1巻を貪りつくように読み終えて、やはりあのときの感動・昂奮は間違いではなかった、と確認することができた。

話の幅が広い。目次をそのまま引用すると、






  • 薔薇色の人生(ラヴイアンローズ)

  • 露出魔

  • サイン会

  • 膀胱炎

  • オカマ

  • 予知


  • 稲荷

  • ヘビ

  • パニック発作

  • 立ち呑み

  • 雪の音



このどれひとつとしてハズレはなく、読後に「ふうん」の一言で終わらせないなにかがある。

たとえば、「猫」の回では、猫かわいがりをするだけではない、本当の猫好きの視点で猫を観察する。

子猫を生んだ親猫が、何度も何度も振り返りながら作者を自分の棲み家に導く場面に、「そうそう、猫ってこういうことをするんだよね」と頷かせられた。

また、「立ち呑み」の回は、作者がずっと憧れているリアルの立ち呑みを実際に体験してみる話なのだが、「リアルな立ち呑み所」っていうのは、間違っても「仕事帰りの女子社員*1でも気軽に楽しめるオシャレな立ち呑みバル!」などではない。

作者が立ち呑み初体験で「味付けのり」を肴に選択して悦に入っているところ、「本物のお客」が隣に来て頼んだものはいったいなんだったのか? 酒飲みだったら、「あるある話」なのかもしれないが、日本酒のツマミにあんなものを食べるなんて、私は初めて知りました。

で、この漫画が、ただの「体験して、はいおしまい」ではない証拠に、最後のコマで、初めての立ち呑みをたのしんでいる自分を眺めてにやにやしている作者が登場して、おしまい。

え? 意味わかんないって? ああ、そうかもね。

「予知」の回とか「稲荷」の回は精神世界の話で、これまた非常に面白い。この作者の才能は、上にも書いたように、自分が昂奮したり慌てふためいたりしているのを冷静に眺めているもうひとりの自分をきちんと持っているというところだと思う。

ときにはそのもうひとりの己を皮肉に表現したり、ときには真摯に表現したり、と変幻自在な筆致に私はメロメロになってしまった。

間違いなくこの1巻の白眉であろう「パニック発作」の回では、その症状を体験したことのない私にとっては、総毛立つような描写がある。人間が立っているのは実に脆い場所であって、そのことによって示される不可思議さ危うさが、実に文学的なのである。

作者がまだパニック発作を起こす前、鬱に悩んでいた知人が鬱に悩んでいたそのときの状況を話してくれたのだが、彼女にはそれがまったく理解できなかったという。けれども、パニックを起こし、自分で自分をコントロールできなくなるということを知ることで、「初めて他人に触れた気がした」と書いてある。ここでいう他人とは、自分の中にある他人のことだ。そして、そういう己の中にある他者の存在を見つめることで、本当の他者の辛さ(たとえば鬱)についても、「そういうこともあるのだと感じるようになった」という。



実は、私の父がこのパニック発作を患っていて(本人が知っているのか知らないのか、知らないけど)、たぶん15年以上は経っていると思う。その15年以上ものあいだ、母と一緒にちょっとした買い物に行く以外、ほとんど外出をしたことがないはずだ。まだ全然働ける年齢でも仕事を辞めざるを得なかったのだが、20歳前後の私には、そのことがどうしても理解納得ができず、相当長いあいだ、父と反目していた。

種類は違うが、弟は過敏性腸症候群で悩んでいる。

私なんかよりずっと理知的な人間なので、原因となるストレスを排除すればだいぶラクになれるだろうと、「これこれこういうことだと考えれば、腹痛(はらいた)なんて忘れられるよ」とアドバイスをするのだが、「いやあ、そういうのはもう頭では絶対にわかってるんだけど……」と、未だに、外出に対して極度のストレスを抱えている。このあいだ大阪で会ったときも、夜行バスでやってくる際に食事を抜いていた。腹痛になる原因を少しでも減らすためだが、傍で見ていると、なんとかならんのかとやきもきするほどである。

と書く私にはまるで弱味がないようだけれど、たぶん、それはある。私が知らないところに。

そして、制御不能で困っているものを、他者が「弱味」なんて言ったらよくないよな、とも思った。



1巻がたいへん面白かったので、2巻から5巻をまとめて購入しようと思ったら、とある書店(アマゾンではない)のサイトでトラブルになって、現在相手の返答待ち。

ちくしょうケチがついたなあ、と不快になったが、しかし、これが作者なら一回分のネタにするだろうな、と思った。決着がついたら私も一回分の記事にしようかしら。

そうそう、冒頭のフルカラー「薔薇色の人生」も非常にすばらしい。なにか事件が起こるわけでもないのに、読んでいて退屈しない。この間(ま)がたまらないんだよなあ。



*1:今は「OL」じゃなくてこういう表現をしたらよろしいのでしょうか。



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演劇部5分前 1巻 (BEAM COMIX)

演劇部5分前 1巻 (BEAM COMIX)




百名哲の『演劇部5分前』を読み終えて、あることを思い出していた。

数年前、宅間孝行(当時はまだ、脚本はサタケミキオ名義だった*1)をテレビで見かけるようになった頃、その主宰する劇団、東京セレソンデラックスを観に行った。知り合いの知り合いが客演しているということで連れて行ってもらった。

だいたい小劇場系の演劇のお客さんというのは、有名なところでなければ、20代~30代のやはり役者志望者みたいなのが多いのだが、そこは、いわゆるギャル系のチャラチャラした女の子たちがたくさんいた。おそらく主宰が人気のあるテレビドラマに出ているということで、こういうお客さんも来るんだな、とちょっと遠巻きに彼女たちを眺めながらそんなことを考えていた。

いい舞台だった。脚本がよく練られ、笑いと感動のバランスが取れていた。いじられやすいタイプの俳優を徹底的にいじるという、今であれば新喜劇系とわかる笑いを私は好ましく思わなかったけれども、他のお客さんたちにはよくウケていた。

芝居が終わり、客電が点くと、Primal Scream の"Rocks" が大音量でかかり、出演者全員がモンキーダンスを踊って出てきた。「うわっ」 と思った。カッコイイ。圧倒されてしまった。

劇中、ずっといじられていた俳優が挨拶としてこういうことを言った。

「ぼくたちは、まだちっぽけな劇団です。千秋楽は明日です。きょうの芝居がよかったというのであれば、みなさんのお知り合いに教えてあげてください。応援、よろしくお願いいたします!」

聞いていて、よく言うぜと思った。こんな洗練されたところが、まだ「ちっぽけな劇団」と名乗るのか。ずるいくらいの低姿勢で、そんなこと言われれば応援したくなるじゃないか。



さて、話は『演劇部5分前』に戻る。

この漫画、とある方のブログ記事で知ったのだが、実は私、その記事にほとんど目を通さなかった。おそらくよいことが書かれてあるということはわかるのだが、たぶん内容が少しわかってしまうような書かれ方であったので、(比喩ではなく文字通り)焦点を少しずらすような読み方で、さっと目を通し、「高校演劇部マンガ・オールタイムベスト」の言葉を信じて、とにかく買ってみることにした。

※読後に、当該記事を読んでみたら、やはりいい記事でした。



ネタバレ(そんなにひどいものではないけど)があっても問題ないよ、という人だけ読んでみてください。



私もネタバレを回避するつもりなので、あらすじも詳細には触れない。

ごくごく少人数の女の子たちで構成される高校演劇部の話。あとはもう読んでください、としか言えない(ストーリーは複雑なわけではない)。

絵はあまり上手ではないと思う。古い絵柄で、デフォルメされたときのキャラたちは、コロコロの『つるピカハゲ丸』とか、初期のにわのまこととか、初期のつの丸を思わせる。

コマ割りも見にくい部分がある。「あれ? この人、この場にいたの?」みたいな箇所もある。

けれども、これらは強いて挙げた短所であって、それ以外のすべては、すばらしいとしか言いようがない。



最初は、アッコ、ワシさん、トモの3人がドタバタを繰り広げるのだが、この描写に「つまんねー」と思う人は少なくないのではないか。意味もない、というか、本当に無目的な感じのドタバタ。

けれども、ここでまず私は引きずり込まれてしまった。私の高校時代のごくごく個人的な体験を思い出してしまったのである。

高校2年になって、はじめて演劇部があることを知った。部員は女子2名。ふたりとも同学年だという。「どういう子?」と部長の子と同じクラスの人間に訊くと、「うーん。かわいくていい人なんだけど、ちょっと変わってるよ」

ん? 「変わってる」の意味がよくわからなかった。

とある放課後、私が校内をうろちょろしていると、演劇部のふたりが空いている教室を使って大声でおしゃべりをしていた。

もちろん立ち聞きするわけにもいかないので、通り過ぎながら、ふたりの話している感じなんかをつかもうとしたのだけれど、その雰囲気がこの漫画の3人、正確には、ワシさんとアッコのやりとりにすごく似ていた。同じ人間をモデルにしてるのかなっていうくらい。

笑うときは「ぎゃはははは」という感じで、話せば「マジで? うわー、ひでー」などという、私の学校では珍しい男言葉遣い*2、なおかつ、部長ももうひとりも、一人称が「おれ」。おれッ娘だったのである。ちなみに、漫画内では、ワシさんの一人称は「ワシ」。

1年生のときはどうだったか知らないけれど、2年のときはすでに2人で、3年になっても、1年生は入らないままで、ふたりっきりのままだったようだ。くわえて、うちの学校は学園祭時にはクラスごとに演劇をやるのが盛んで、演劇部がどこでどう発表していたのかは、ついにわからずじまいだった。もし学園祭当日にやっていたとしても、おそらく観客はほとんどいなかったろうと思う。各クラスの前評判とプログラムとを突き合わせて、どれだけ多くの(演劇部ではない)クラス芝居を観られるのかに、生徒みんなが夢中だったから。

初めて練習風景を見たその後も、ふたりがどこかの教室で練習らしきことをしているのを何度か見かけた。失礼ながら私は、たったふたりで芝居したって、いったいなんの意味があるのだろうと思っていた。

卒業するまでに、この部長の女の子と、2度ほど声を交わしたことがあって、たぶん伝言程度の内容だったと思うのだけれど、そのとき彼女は普通に「わたし」と言っていたような気がする。話すと、ちょっと顔を赤らめるような、照れ屋だった*3

いま考えると、ふたりにはふたりだけの世界があって、それを3年間ずっとたのしんでいたんだと思う。彼女たちは、いじめられるということはまったくなかったが、「変わっている」というのが多くの人間の共通認識になっていて、周りとは少しだけ距離が置いてあった。体育なんかで一緒になると、みんなが彼女たちのことを苗字に「さん」づけしているのを知った。誰も名前で呼びはしていなかったし、渾名もなかった。私は遠くから、「かわいいんだけどなあ。けれど、きっと話が通じないんだろうなあ」といつも思っていた*4

実は、この漫画内にも、似たような描写が出てきて私はドキッとした。

主人公(のひとり)であるアッコのことを、かわいいと認識しているフツーの男の子がいて、「あいつ(アッコ)は周りからは『バグっている』という評価だけど、単に子どもなだけで、おれが変えてみせる」みたいなことを遠くから見て思っているのである。

その後、彼はアッコにアプローチするのだが、そこのやりとりも、ぜひ見てほしい。アッコの気持ちが、今の私には痛いほど感じられた。

演劇部というのは、野球部とかサッカー部、バスケ部なんかに較べたら、もしかしたら花形の部活ではないのかもしれない。

全国大会に出場するレベルならいざしらず、全国にある高校演劇部のほとんどは、規模が小さいと思う。そして、規模が小さいものを、特に10代の思春期にある若い人間たちはバカにしがちだ。

「話が通じない」と思っている底には、「自分の話が通じないのだろう」というおこがましさがあるのだが、相手からすれば、「わたしの話が、この男には通じない」であるはずなのだ。その部分を客観的に見られないからバカにするのである。「変わっている」と思うのである。

周囲からは理解されないけれども、独自の世界がきちんとあって、その中の価値観で充分にたのしんでいる。そういう描写が、『演劇部5分前』冒頭におけるドタバタなのではないか。

私は、この冒頭の騒がしさに、なんとなく懐かしさと苦しさを感じた。



3人しかいない、という危機的状況は、ある事件を境に加速していく。廃部の危険に陥るのだ(結局、あらすじに触れ始めている)。

そこで、教師連中の廃部検討を撤回させるべく、中部大会出場を目標とし、本格的な練習を始めるようになる。やがて、役者を目指している女の子(これがもうひとりの主人公みたいなもの)が登場し、そのほかにも何人か登場し、場が盛り上がり始める。

こういう徐々に登場人物が増えて物語が複層的になっていく感じも、舞台っぽい。人物が動き、ストーリーの歯車が回り始めるのである。

ストーリーには、意外に伏線が張られていて、それらは丁寧に回収されていく。

しかし、登場人物たちひとりひとりにあるらしい独特の背景については、それほど深くは掘り下げられない。なぜなら、彼女たちの生きている場は、演劇部であるからだ。

この構図は、演劇そのものにも似通っている。

役者たちは、個々に人生を抱えてはいるものの、舞台の上では、ひとつの「役」を演じ、その「役」が集まって大きな芝居を成立させる。そこでは、役者A が最近離婚したんだ、とか、役者B の健康診断の結果が思わしくない、とかはいっさい関係ないのだ。

これ以上書くとネタバレになってしまいそうなので、あとふたつだけ、心が震えたシーンを。

ひとつは、アッコが東京で有名とされている劇団のDVD を演劇部のみんなと一緒に観て、その帰り道になって、突然ぼろっと泣くシーン。はじめて彼女が演劇を観て感動して泣くのだが、そこがちっともいやらしい涙じゃない。「あれ? なんで涙がでてくるんだろう」という感じで、みんなに泣いていることを隠すためにその場で別れ、ひとり、歩いて帰るのである。

ここを読んでいて、私がはじめて演劇に感動した日のことを思い出した。

私はそれまで、弟が買ってきたキャラメルボックスのビデオとか、あるいは高校演劇の全国大会のビデオ*5などを観てきたが、どれも魂を揺さぶられるような感動をしたことがなかった。私と演劇の相性はきっとよくないんだろうな、と思っていた。今のところは感動できたことはないが、いつか理窟で理解することができるかもしれない、とも思っていた。教養とかその類での理解の仕方をするのではないか、と漠然と考えていた。

ある日、深夜番組で、相島一之渡辺いっけいが出演する『LOVER SOUL』という作品を観た。

テレビをザッピングしていたところなので、「あ、演劇か」という感じで、つまらなかったらすぐに観るのをやめるつもりで眺めた。

すぐに引き込まれた。「眺める」が「食い入る」になり、あっという間に時間は過ぎた。エンディングになり、気づくと私は泣いていた。嗚咽しつつ、自分で驚いていた。なんなんだ、これは。

いい芝居に反応したのは、頭ではなく、どちらかといえば身体だった。あまり馴染めなかった劇団では、没頭できなかったスタイル ――日常的感覚からすると大きな声*6、大仰な動作、爆発させる感情など―― が、自然と諒解できたのだ。舞台上にある空間がリアリティそのものになっていた。

それから、演劇が一気に好きになった。自分にとって、いいものと悪いものがわかるようになった。それから何年か経ち、野田秀樹の4人芝居『赤鬼』をシアターコクーンで観たとき、あのコクーンの会場*7に鳴り響いた拍手をたった4人で受けている、という事実に気づき、驚愕し、そして憧れた。

『演劇部5分前』のアッコは、ひとりで帰ったその日が、はじめて憧れを抱いた日だった。

私は、彼女の気持ちが、なんとなくであるがわかる。きっと、演劇が好きな人だったら、共感できるだろう。ああ、そうそう。わたし/おれもそんなだった。初めて体験した感動を、ひとりでじっくりと、いつまでもいつまでも噛み締めていたなあ。それから何日か経っても、ふとしたときに思い出して、じいんと胸に熱いものを感じていたよ、と。

もうひとつだけ。

アッコたちが練習のために合宿をするのだが、その夜のシーン。

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彼女たちの見ていたのは、実はなんということのない光景なのである。しかし、アッコは「一生忘れない気がする」と思った。そして、この場面を読んでいた私も「あ、ヤバイ」と思った。

周りに誰もいなくて、よかった。



ネタバレをしないようにしたために、なんだか自分語りになってしまったが、とにかくすばらしい漫画。

この漫画の中でも語られているが、演劇とは、一回性の表現藝術であって、一回きりであるからこそ価値がある。ということで、この漫画はまだ一回きりしか読んでいない*8。その状態で、この感想を書きたかったからである。おそらく読み込みも甘く、中途半端にしか理解できていないのだろうけれども、その「生(なま)っぽさ」が演劇と少しリンクしているようにも思うのだ。

少しでも興味を持った人、演劇をやっていた人、漫画が好きな人なら、おすすめします。明日にでも、書店に行って「『演劇部5分前』って本、ありますか? なければ注文します」と言おう。エンターブレインを驚かせて、増刷させようぜ。

さて。実際に買って来た人は、ここまで書いてあったことを全部忘れよう。そして、静かにページを開き、彼女たちの舞台の幕を開けよう。



東京セレソンデラックスの話に戻る。

終演後、知り合いは、その知り合いに挨拶をしてくると楽屋に行き、しばらく戻って来なかった。なにをしているんだろう遅いな、と思いつつ、私は外に出たところで自販機で買ったジュースを飲みながら、仕方なしに、劇場から出てくる人たちをなんとなく眺めていた。

ギャル系の女の子たちが集団になって、わいわいと騒いでいた。もう周りはすっかり暗くなっていたけれども、ちょっと興味があったので、怪しまれない程度に一歩だけ踏み出して彼女たちの話に耳を澄ませた。

「ヤバイ! ちょー感動したんだけど」

「わたしもー」

「わたし、○○に連絡するわ。明日来いって!」

「あ、わたしもー」

「ほんと、すごいよかったんだけど!」

「わかるわかる。最後のところでしょ?」

「そう!」

「あの最後のところ、わたし泣いたわー」

「わかるわかる! わたしも泣いていたし!」

「あ、ヤバイ。話してたらいま涙でてきたんだけど!」

このやりとりを聞いていたら、不意に、胸を衝かれる思いがした。

まずい。私は一歩下がり、自販機の明かりの届かないところに立った。そして、誰にも見つからないように、息を潜めた。

女の子たちは、泣き笑いだか笑い泣きをしながら、その場を去って行った。やがてひと気がなくなっても、私はしばらくその場を動かなかった。まだ、私の中にこみ上げるものがあったのだ。あともう少しだけ、知り合いが戻って来るのが遅れてくれればいいな、と思った。鼻をすする音が、やけに大きく響いた気がした。



*1:サタケミキオは宅間の脚本時の名義。


*2:今となれば、女の子の汚い言葉というのは珍しくないが、当時は一部に限られていた気がする。特におとなしいタイプの女の子たちの言葉には、たとえ汚くても上限があったような気がする。「うめー」とか「ひでー」とかは、絶対に遣わなかったのではないか。


*3:と書いている私だって、当時は女の子としゃべることなんてほとんどなかったので、こういうのはほぼ「イベント」みたいなものだった。だから、私も彼女に負けず劣らず、ものすごく緊張して話していたと思う。


*4:といっても、私の心の中でそういう「かわいい」フォルダに入っている同学年の女の子は、たっぷり1ダースはいた。


*5:わが家では、毎年NHK で放送されるこの全国大会の番組を録画し、愉しむという慣習があった。


*6:キャラメルは特に声がデカイが。


*7:そのときの舞台は、会場の中央に舞台が設置され、四方からお客さんが囲むようになっていた。いまこれを書いていても昂奮してくるような舞台だ。出演者は、野田、大倉孝二小西真奈美、外人さん。


*8:厳密にいえば、上掲画像をスキャンするときに、一回だけ当該部分を開いたが。



編集

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2010年5月17日に「少年ジャンプ」で『リリエンタール』の連載を終えてから、はや2年と9ヶ月になろうとしているが、今週、葦原大介が新連載を引っさげて帰ってきた。その名も『ワールドトリガー』。まずは、連載おめでとうございます。

漫画の内容に触れる前に、われら『リリエンタール』ファンと作者葦原大介との関係を解説すると、北方『水滸伝』でいうところの、梁山泊の一党と「替天行道」の志みたいなもので、童貫に敗れて(それほど大きなネタバレではありませんから!)全国に散らばる梁山泊の同志たちが、「いまはおれたちはバラバラに別れてしまうけれども、いつか、あの旗のもとに再び集まる日がきっと来るはずで、その日まで各々のやり方で雌伏していよう!」と誓ったのに、よく似ている。いや、『水滸伝』にそういう具体的なセリフはないけれども、リリエンタールのファンは、そんな気持ちで、ときおり挫けそうになる心を、葦原先生直筆の宛名書きによる暑中見舞いやハロウィンカードや年賀状や寒中見舞いを握りしめては奮い立たせていたのだ。

【参考画像】



であるから、今週の月曜日は、まさに待ちに待ったと呼ぶにふさわしかったのである。



で、読んだ。

一度目は、展開だけを追いたくて、さらっと読んだ。数時間ほど置いてから、二度目をじっくりと読んだ。以下はその感想。

詳細は覚えていないが、設定は、読み切り『実力派エリート迅』のものとほぼ一緒ではないだろうか。『迅』については、その感想を以前に書いている。



異空間への門(ゲート)が開き、そこから出てくる「近界民(ネイバー)」を「ボーダー」という機関に属する人間が撃退する、というもの(もしかしたら『迅』はもうちょっと違ったかもしれない)。

軽く読んで、そしてじっくり読み、少し首を傾げた。

『リリエンタール』で魅力があったのはキャラクターの存在感であったのだが、この作品は、舞台となる世界のシステムというか設定に重きが置かれていて、キャラクター(たとえば主人公と思しきふたり、ユーマとオサム)たちはそれに従属している、という印象を今回は受けた。言い方を変えれば、キャラが立っていないのである。

もともと作者は、デビュー作『ROOM303』において、キャラクターというよりプロットで読者を魅了した。私は、なんだかわからない構成とトリック(?)にただただ驚いた(弟は似たような設定の映画がある、というようなことを言っていたが)。その謎解きを完全に理解することはできなかったのだが、新人にしては珍しくSF センスを持った人だな、と思った。

その後の『リリエンタール』の読み切りでは、「紳士強盗」が出てきた。この存在はものすごくインパクトがあって、「あ、こりゃ連載したらモノになるぞ」という確信を抱いた。事実、連載に至ったのだが、この紳士ウィルバーをベストキャラクターとするファンは多いと思う。私も一番好き。

ウィルバー以外にも『リリエンタール』には魅力的なキャラクターが大勢登場したのだが、しかし作者の描く世界のよさは、いいもの/わるものに限らず、みながそれぞれきちんと生きている、という感じがあったことだ。

たとえば第1回目に出てきた掃除のおじさんが悪者に対して屈しないという場面があって、そのおじさんはその一回限りの登場なのだがものすごく印象が強い*1。(すぐに専門用語が巷間に広まるという悪習により、この言葉も一般的につかわれるようになってしまったが)モブキャラがモブキャラとして終わらないのである。つまり、作品の余白を埋めるために登場するキャラクターなどおらず、『リリエンタール』とは、すべての登場人物がその漫画作品の世界内できちんと生きているということが感じられる、比較的珍しい作品なのであった。

翻って、この『ワールドトリガー』ではどうだろう。

主人公らしきユーマとオサム以外に登場したのは、レプリカという謎の生物(?)と、学校の先生ふたり、それからユーマに絡んだ不良3人組。まあ、回想に出てくるオサムが見たボーダーの人やユーマの父親は一コマだけなので省く。

今はまだ第1回目なので、妙な偏見を持つべきではないのだが、この中で、ストーリーが展開していっても登場しつづけるキャラクターはいるだろうか。レプリカというのが重要なのはまず間違いないが、私が気になったのは不良グループ。『リリエンタール』なら、こういう連中をこそ魅力的に描いていたのだろうが、この不良たちには、今のところ感情移入できる要素はない*2。率直にいえば、単純に嫌なやつらなのである。

まあ、第1回目だ。彼らがのちに話に関わってくる可能性もある。ここは長い目で見守ろう、と思うのだが、まだ気になることがあった。

それが、戦闘シーン。

ハッキリ言ってしまうと、私は葦原大介の漫画に「戦い」を求めていない。ファンのつまらない要望かもしれないが、彼には、ありふれたバトル漫画とは違うステージで連載をつづけてほしいのだ。

『リリエンタール』では、最後の方で、ストーリーの進行上バトルが描写されたが、あまりできがよいとは言えなかった。というより、私の中で違和感が強すぎて、きちんと読むことができなかった。

しかし、今回は初回にいきなり(比較的)本格的な戦闘が描写された。なんだか面白そうな設定(「バウンド」とか「ブースト」とか)も仄見えはしたものの、戦闘が日常化していくような漫画を、葦原大介には書いてほしくないんだよなあ。

あと、これは感覚的なものでしかないのだが、読んでいるとき、わりと視線がすらすらと動いてどんどんとページがめくることができた。

いいこと? はたしてそうだろうか。コマ割りが成功しているということではあるものの、反対に、心に引っかかるシーンが少ないということもできる。

読者の心をつかまえるには、かわいさでもかっこ良さでも哀しさでも寂しさでも面白さでも驚きでも、その方法はなんでもよいのだ。読者の目を一瞬でもいいから留めさせることができれば。

面白い漫画では、読者の印象に残ることが大事である。十数週を経て解決した謎解きがいくら鮮やかであろうとも、週連載の漫画では、週ごとにクライマックスを作らなければ、読者はダレて飽きてしまう。

読者の気を惹くには本当に些細なことを用意するだけでよい。たとえば、今週の『暗殺教室』の中で、殺せんせーへの刺客を連れてきた覆面男は、教員室で『斉木楠雄のΨ難』のコミックを読んでいる。これは、『暗殺教室』の作者松井優征と、『斉木楠雄』の作者麻生周一が、埼玉県入間市の同郷ということからコラボ作品が作られ、それが『暗殺教室』の第2巻にも収録されている、ということを踏まえると、余計に面白い。

松井の作品には、こういう遊びや皮肉なんかをコマに隠している(あるいはそのまま見せびらかしている)ことが多いので、すべてのコマをきちんと読んでしまう。

『ワールドトリガー』の第1回目は淡々と展開が進みすぎてしまった感があった。もっと丁寧にキャラクターを描いてほしかった。キャラに寄りかかるという意味ではなく、作品世界の中にリアリティをきちんと創出させてほしかった。



うーむ。なんだか否定色の強い感想になってしまった。よいところも挙げる。




  • 大ゴマを描けるようになり、アクションシーンに迫力が感じられるようになった

  • 設定は凝っていそうだし、相当に練っているであろうから、広がりに期待

  • ボーダーには迅がきっといるのだろう

それから、こうなったら面白いんじゃないか、という希望も挙げておく。




  • 主人公たちがボーダーに入ってそこでの世界がメインになったら、しばらくネイバーとは戦わない方がよい(そもそも善/悪の二元論から脱した価値観を提示してほしい)

  • 善悪にかかわらず、徹底的にキャラクターを登場させてほしい

  • 説明ゼリフはなるべく少なくして、大勢のキャラクターたちが勝手に物語を紡ぎだすのを待ってほしい

  • FF シリーズのシドみたいな扱いで、思い切って「紳士」を登場させる(2013/2/12 18:00頃追記)

でもまあ、何度も繰り返しているが、まだまだ第1回目である。私は『リリエンタール』への思いが強すぎてしまってすぐに比較してしまうが、今後は、この作品はこの作品として別個に判断する予定。

あ、それとアンケートはきちんと出すつもり。やっぱりどうあったって連載はつづけてほしいものなので。私は、この作品の行く先には、光明が待っていればいいと思っている。



*1:このことについては、アマゾンのレビューでも言及されている。


*2:なお、『アイシールド21』では、不良グループがのちに「ハァハァ三兄弟」として活躍する、という斬新な人物設定を行った。これ以外にも、『アイシ』では細かなキャラ設定が行われていて、コミックでの作者による解説は非常に面白く、読み応えがあった。



編集

とあるブログで、面白い記事を読んだ。『銀の匙』と『アゲイン』の新刊が出て面白くなってきたんだけど、だんだんとそれを面白く感じなくなってきている。その原因はなにか、ということを書いていた*1

後者は読んでいないのだが、『銀の匙』の方は6巻が発売され、私も最近購入して読んだのだが、たしかに話が動き始めている。主人公の八軒が参加している馬術部での大会が今巻のメインで、私の率直な感想も「あ、馬術の方もきちんとやるんだ」という驚きだった。なんとなく、「農と食」があの漫画のメインテーマで、馬の方はお飾り程度で済ませてもいいかもしれないな、と思っていたからだ。

最近、『団地ともお』の19巻と20巻を購入し、その際にたまたまアマゾンのレビューを目にしたら、「もう終わってもいいんじゃないか」というファンらしきレビュアーからの感想があって、それを「ああ、そういうふうに感じる人もいるのか」と思った。

私自身は、『ともお』が面白かろうとそうでなかろうと、ただつづいてほしいな、ということを感じていて、それは、あの漫画の面白さはギャグとか感動エピソードとか、そういうものから一段離れているところにあると思っているからで、けれども、そういう私のような感慨を他の読者にも要求することは(当然のことだが)できず、たとえば「面白い」という基準のみで漫画を測っている読者の「かつてのギャグのキレがなくなった」という批判も当然ありうるということは理解できる。

で、この種のレビューを読んで思い出したのは、私が『スケットダンス』を「もう終わっていいよ」と書いたら相当のリアクションがあったということで、あのときついたコメントの多くが「なんでそういうことを言うのか!」という内容だったが、私が個人的に「終わってもいい」と書くことと、他のファンの人たちが「つづいてほしい」と思うこととはまったく独立した別問題であるのに、という私の当然の不満は別として、今となってはそういうファンの過剰な反応に、一割程度の共感は持てるようになった。

ただただその漫画(ないしは小説)の連載がつづいてほしい、というのはファンとしての当然の希望なのだが、しかし私のような「早く終わった方がいいのでは」という感想もまたファンのものなのである。

後者には、「有終の美」が日に日に汚されていくのを見ていられないという思いがあるのかもしれない。自身の本棚に並ぶ漫画や本なりが傑作であってほしいとは誰もが望むことなのだが、連載ものにありがちな、路線変更や不必要な引き伸ばしによって「名作」が「トータルとしてそれほどでもない作品」に変わっていってしまうことは往々にしてあり、「ああ、ここで終わっていてくれたなら!」と憤慨する完璧主義者(?)は少なくないのだろう。

先日、大阪で弟に会って話したとき、面白い漫画にはいい緊張感が存在するという共通認識を得た。

これは漫画に限ったことではなく、小説や演劇、映画、ドラマ、音楽などにおいて、非常に重要なことである。

反対に言えば、つまらない漫画(および他の表現藝術)には、緊張感が存在しない。簡単だが、以下に例を列挙してみる。




  1. 生死を賭けている戦闘モノなのに、キャラクターが絶対に死なない

  2. 格闘モノで、主人公が絶対に敗北しない

  3. 恋愛モノで、主人公が恋愛に成功してしまっている

  4. 長くつづいているギャグモノで、マンネリがネタになってすでに久しい

  5. スポーツモノで、世界記録が次々と更新される

  6. ホラー漫画で、異世界の住人たちより、現実の人間の方が強い

こんなのはたぶん、作劇術の初歩中の初歩なんだろうけれど、なぜかお座なりにされていることが多い。

もちろん例外はある。

1. でいえば、『無限の住人』は主人公が不死という設定。何度も何度も殺されるが、そのたびに復活する。そのうち、主人公の万次より、(普通の人間である)他の登場人物の方にスポットライトが当たるようになった、という印象を持っている。また、2. なら『ああ播磨灘』という漫画があった。あれは、いつ主人公が負けるのか、という逆転の発想。ただし、途中で飽きてしまったが。

漫画の読者やドラマの視聴者というのは決してバカではないから、初回を読んだり観たりすれば、そのストーリーの方向というのがだいたい判断できる。

で、そこから読者なり視聴者なりが大きくふたつに分かれて、ひとつは、その先にあるだろう展開(感動ものなら、感動のエンディング、悲劇系なら、バッドエンディング)に予め感情をセットしてそれを愉しむというタイプ。

もうひとつは、展開を見据えながらも、意外性を期待し、求めるタイプ。欲を言えば、予想したエンディングがひっくり返される方が嬉しい。

ものすごい偏見だとは思うのだが前者は、「物語慣れ」していない人が陥りやすい「無自覚的予定調和願望」だと私は思っている。そして後者は、「物語スレ」してしまった人が陥りやすい「自覚的調和破壊願望」。いい悪いの問題でもないのだが、私の場合は、前者向けの物語があると、なんだか腹が立ってくる。かつて似たような物語があったのにもかかわらず、なぜもう一度、しかも程度の低い焼き直しをするのだ、という怒りだ。

舞台にバナナの皮が置いてあり、上手からシルクハットをかぶったタキシード姿の紳士が歩いてくる。

彼がバナナの皮に滑って転ぶことで、観客から笑いが取れた時代がかつてあったのだろう。しかし、今は違う。

彼には、違うリアクションが求められている。バナナの皮を踏まないで通り過ぎる。バナナの皮に見えたが違うなにかだった。紳士が突然マジックを始める。紳士が集団になってあらわれ、駆け抜ける。突然舞台に穴が開いて、紳士が奈落に落ちる。皮を踏んだのに、滑らない。滑ったときの効果音がおかしい。(散々やった上で)ベタに滑る。

たぶん上に挙げた例も、実際の舞台ではウケないだろうと思う(バナナだけにスベると思う)。思いつくままに挙げたのだが、おそらく過去に一度かは試されていると思うからだ。そして、創作においても、小説でいえば筒井康隆が、そして漫画でいえば相原コージ上野顕太郎とり・みきなどが、同じような試みをしている。それらは、すでに達成された道なのだ。意外性というのは、彼ら偉人たちですら未踏の場所にあるものだ。そして、それらは日々その領域を狭くしている。

それを、「物語スレ」した読者・視聴者・観客はつねに求めている。なんというわがままなのだろうか。

しかしこのわがままは、一度満たされることを覚えれば、忘れることはできない。業となってしまう。



私は三十代半ばにして、既に漫画を読むことにある程度の疲労を感じてしまっている。面白い漫画を読むときには、まだそんなことはないのだが、ハズレを引かされたときの「おいおい、時間(とカネ)を返してくれよ!」と言いたくなる気持ちは、自由になる時間が少なくなっていることを意識し始めた人間であれば共感してもらえると思う。

人生の終わりを「だいたいここらへんか」とアタリをつけてそこから「可処分時間」を逆算していくと、「まだまだ時間がたっぷりある」などとはまったく思えなくなり、己が有意義であると感じるもの以外にかかずらわせられる*2ことに非常な憤りを感じるようになる。

これは、労働時間および生活に必須の作業時間の多寡によってもだいぶ変わってくる。私の自由になる時間は、このままでいけば、それほどないようなのだ。ばかみたいな大金がふと転がり込んでもしない限りは。

そう思うと、かつては漫画家だったのに、今や漫画を開くことすら厭う母の気持ちがなんとなくわかるようになった。

どんな漫画でも読める「漫画好き」にはなれない。また、どんな小説にでも面白いところはある、と言える「本好き」にもなれない。映画や演劇、音楽についても同じだ。

面白いものなんて、本当は少ないのだ。その事実に目を背けることが、もうできなくなってしまった。ああ、自由につかえる時間がもっとあればいいのに。



*1:興味がある人は、「銀の匙 アゲイン」とかで検索すると、当該記事が見られると思います。


*2:「かかずらう」の使役の受身だが、正しいのか?



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このマンガがすごい!2013」のオトコ編で1位を獲った『テラフォーマーズ』1~3巻を購入し、読んでみた。




テラフォーマーズ 1 (ヤングジャンプコミックス)

テラフォーマーズ 1 (ヤングジャンプコミックス)




SF もので、火星でゴキブリ人間と戦う昆虫人間たちの話。

ゴキブリのことが嫌いな人もいると思うので、詳しい設定は書かない。結構描写はグロいし、ゴキブリについての挿話も多々出てくるので、その手のものに免疫がない人にはキツイと思う。以下にも、少しだけゴキブリについて記述してあるので、嫌いな人は読みとばした方がいい。



この漫画は、板垣恵介刃牙』に似ている。

そもそも、ゴキブリの瞬発力はものすごいっていうことは、『刃牙』読者なら周知の事実であって、だからこそ刃牙はゴキブリのことを「師匠」と私淑していたわけだが*1、似ているというのはそこではない。

私はこの『テラフォーマーズ』という作品をあるブログ記事で知ったのだが、そこではかなりギャグ要素が高いマンガということで紹介されていた。しかし、1巻からきちんと読んでみるとどうだろう。げらげらと笑えるところはほとんどなく、それどころか、泣けてしまうのである。

刃牙と似ているのは、あまりにもシリアスであまりにもぶっ飛んだ設定のため、その一部分一部分を切り取ってみれば「笑えてしまう」という点であって、通しで読んでみると、そんなことはちっとも感じられない。どちらにも、「そういうことはきっとあるのだろうな」と納得してしまうような独特のリアリティが存在している。

「泣ける」と書いたが、事実、この漫画で感動する場面は多い。

この漫画にあるのは、「笑える設定」ではなくて、絶望的なシチュエーションだ。

ゴキブリが人間大になり、硬い甲殻、飛び抜けた瞬発力等を持ち、人間に対して攻撃をしかけてきたらどうなるのか。

人間がゴキブリのことを嫌うのに理由がないように、このゴキブリ人間は、人間のことを無条件に嫌悪し徹底的に排除しようとする。知性もあり、卓抜な身体能力、そして見事なまでの戦闘技術を身につけたゴキブリ人間が、有無も言わせずに襲ってくる状況には、どう考えても絶望しか残されていない。

思えば、優れた漫画には、絶望がつねにあった。

ベルセルク』の幼年時代の終わり、『GANTZ』のカタストロフの前まで*2、『進撃の巨人』、『漂流教室』、他にもいろいろとあると思うのだが、主人公たちが絶望的な状況に置かれ、そこで懸命に生き抜こうとする様は、感動を生む。

読者が、「いやあ、そりゃ無理だろ。さすがにこいつでも死んじまうよ」と思わせるほどのひどい状況に主人公たちを放り込み、そこから彼らを生還させるというやり方が鮮やかであればあるほど、読者は鼻息を荒くしてページを繰るのである。感動は、ぬるま湯のような設定からは生まれない。「生き死に」を扱っている漫画のはずなのに誰も死なず、また誰も再起不能にならない漫画には感動などあるはずもなく、みっともない読者へのおもねりしかない*3

『テラフォーマーズ』も、絶望的な漫画である。人間がゴキブリ人間に勝てる見込みはほとんどないように見える。

けれども、登場人物たちは手をこまねいているだけではなく、徹底的に足掻く*4。その足掻きに、私たちは身を震わせて共感を覚える。

しかし、読者というものは贅沢でワガママなものだから、この絶望にいつまでも満足しているというわけではない。慣れてしまうのだ。

慣れてしまえば、作品じたいに「もたつき」や「ダレ」を感じ始める。誰かが軽々と「マンネリ」を口にし始める。「つまんなくなった」「無駄に長い」「早く終わらせるべき」等の勝手な感想は、かなり手厳しくはあるがひとつの事実でもある。

今のところ9巻まで出ている『進撃の巨人』だが、現時点では、最初期にあったあの息をもつかせないような緊張感はなくなっているように思われる。

謎はたしかにまだ存在し、ストーリーの求心力も未だ失われているようには思えないのだが、それでは1~3巻あたりを読んでいた頃の感覚が残っているかと問われると、「ない」と答えてしまう。よく言って、「今は物語も一段落しているところなのかな」という感じ。

『テラフォーマーズ』は戦闘が始まると、2ページに1人くらいの割合で人間が死んでいくので、息の詰まる思いで読んでいるのはたしかだが、これがなにも変化がないままずっとつづいていくとなると、おそらく5巻くらいでやがて飽きてしまうだろうということはわかる。

しかし、この作品は意外にも(?)キャラクターがよく描けているので、ひとりひとりのエピソードを追っていくだけでも、「ダレ」の回避をすることは可能なのではないかと思う。また、謎の提示方法(=演出)が凝っているので、そこらへんも読み飽きさせないための工夫になっていると思う。

人気が突然出たことに慢心することなく、原作者・作画家のふたりにはどうか頑張ってほしい。

なんだかあまり褒めていないようだが、そんなことはない。最近読んだ「戦闘もの」で一番面白い作品。設定も含め、傑作です。



*1:冗談のようだが本当の話。「ゴキブリ師匠」で画像検索してみれば該当するコマが見られる。


*2:最近の展開は未読。


*3:死んだと思ったらすぐに生き返ってしまうという話が、ジャンプ作品には多い。興ざめすることこの上なし。


*4:そういえば、『ベルセルク』の初期の方で、ガッツは「足掻く者よ」と呼ばれていた気がする。



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