とはいえ、わからないでもない

カテゴリ: 美術

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会田なにがしの作品がとある美術館で展示され、それが性差別だとか児童ポルノに抵触するということが問題になっているみたいなのだが、その問題の中心となっている作品に、手足を切断された全裸の女子高生が首輪をつけられているというのがある。

この作品は、もうずっと前からあるものだし、私も数年前に書店に並んだ彼の作品集で見たことがあった。



ふたつ言いたいことがある。

ひとつは、ツイッターにも書いたのだが、センセーショナルであれば芸術的表現である、という考え方がもう古いと思う。

私は美術史などに関してはまったく詳しくないが、穏当なもの・美しいものが芸術の場を支配していたところに、(本当はもっと複雑なんだろうけど、あえて簡便に表現すれば)「エロ・グロ」がやってきて、それがある種の昂奮をもって受け容れられた、という流れはなんとなくわかるが、そういうものにももう飽きてきたんだよねえ、というのが率直な感想。

人間は、見たことのないものに対して興味があるから、たとえば極端な性表現、あるいはグロテスク表現に対して反応を示してしまうけれども、それは社会全体が性や死を隠したり、あるいは、個人がそれらから遠ざかってしまったから、とも言える。

たとえば先の大戦中の戦場で、日本兵たちに会田の女子高生切腹の絵を見せたら、兵士たちは激怒するのではないか。また、その人たちに見せられるものでもない、と作者自身も思うのではないか。

いまの時代、いまの日本にしか通じないものを描いている、という意味で(本当はもっと違う作品もあるのかもしれないけれど*1)会田作品は、同人的な価値しか持っていない、というのが私の感想。みなに通用するものだとはハナから思っていないけど。

そうそう。こういうセンセーショナルさだけで脚光を浴びるというのであれば、根本敬の漫画作品だって同じでしょう。

もうひとつ言いたいこと。

この人間を犬扱いする表現の古さ。これ、もともとは中国史にあるもので、前漢の高祖劉邦の死後、その皇后が、他の夫人に対して同じような処断をしている(具体的な描写については酸鼻を極めるので、個々の判断でWikipedia を参照してください)。『史記』にも記録が残っていて、「人豚」。

会田はこの「史実」に発想を得て、当該作品を描いたのかもしれない。そうなれば、「『歴史的事実』を現代風に解釈する」という「モノマネ」や「パクリ」を正当化できるフレーズがつかえるからだ。

けれどもねえ、この「人豚」という表現、すでに永井豪原作の『バイオレンスジャック』で登場しているのだ。興味のある人は「バイオレンスジャック 人犬」で画像検索してみてください(きわめて不快な映像なので気をつけて)。

すでにマンガが表現してしまっていることを、現代美術が追っかけているというこの状況をこそ、誰か批難してほしいと思う。

なにが「現代」なのでしょうか。



*1:といったって、ずいぶん前から有名な『紐育空爆之圖』だって、「パロディ」という範疇を超えているものでもないと思っている。



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奈良の国立博物館に行き、多くの仏像を観てきた。

写真やテレビなんかで観るのとは迫力がまるで違う。私が特に気に入ったのは、大阪は河内長野市にある金剛寺からやってきた降三世明王(ごうざんぜみょうおう)。サイズがバカでっかく、しかも現在当館で修復中なのか彩色が非常にきれいで、圧倒される。金剛寺には、この明王坐像よりさらに大きな大日如来坐像があるらしく、いつかは観てみたい。

ロン・ミュエックの彫刻もいつかその実物を観てみたいと思っているが、今回鑑賞してきた仏像は、9世紀頃から遅くとも13世紀頃に作られたもので、少なくとも七百余年は経っているということを考えると、次元が違う。百年を想像するだけでも相当な困難を伴うのに、その七倍なんて、いったいどういう時間なのだろうか、見当もつかない。想像力というものの及ぶ範囲を遙かに超えてしまっている。

ただ、その想像もつかない、文字や伝承や歴史の中だけでしか存在していない人たちが、いまこの眼前にある仏像に対して手を合わせていたことだけはたしかで、この何百年という時間を繋ぐよすがとなっている仏像が、宗教を持たない私にですら「ありがたい」という気持ちを起こさせる。ありがたくないわけがないのだ。

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国立博物館前にいた鹿



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