とはいえ、わからないでもない

カテゴリ: 詩

編集

いや、某都知事が新党結成したからといって、右だの左だのの話をしたいわけではない。

AM ラジオを聴いているとよくある話なんだけれども、ある楽曲がたとえばリクエスト番組かなにかでリクエストされて流れると、その一週間で、いろいろな番組でその曲がリクエストされることがある。わかりにくいかな。

実例をうろ覚えながらに記すと、ABC ラジオの月曜正午~の『上沼恵美子のこころ晴天』で山口百恵の『曼珠沙華』という曲がかかった週かその次の週だと思うのだが、日曜の『日曜さくらい倶楽部』か、土曜の『芦沢誠GO!GO!サタデー』でこの曲がリクエストされていて、その同じ週くらいの平日の『武田和歌子のぴたっと。』でもリクエストされていた、ように記憶している。少なくとも、その2週間くらいに山口百恵の『曼珠沙華』を3回も聴いて、「この曲って、こんなに頻繁にラジオにかかるような曲か?」と突っ込んだのを憶えている。いや、たしかにその時期は彼岸花が咲いていた頃だからその連想も多少は手伝ったのだろうが、この『曼珠沙華』の曲以外にも似たような経験はあって、おそらく、ラジオユーザーというのは同じ局(私の場合はABC)を聴きつづける人が多いから、どこかの番組で懐かしい曲がかかったりすると、「ああ、この曲、やっぱりいいなあ。また聴きたいからリクエストしよう」と考えて同局他番組にて実際にリクエストし、その結果として同じ曲がわりあい頻繁に流れるのではないか、と私は考えている。

で、今日も同じようなことがあって、それはプリンセス・プリンセスの『M』なんだけれども、この曲もなぜかここ1週間で3回くらい聴いている。そのうちの1回は、自宅でのYouTube においてなので、上に記したリクエストスパイラル問題とはまた別種の出来事なのだが、とにかくある種の偶然というか奇蹟というか、なぜか『M』が私の人生にまとわりついた1週間なのであった。



わたくし、この曲をあまり知らなかったのだが、今日たまたま聴いていたら以下のような歌詞が耳に飛び込んで来た。




あなたのいない右側に

少しは慣れたつもりでいたのに

どうしてこんなに涙がでるの




この部分、あれを思い出しますね。




さよならと言った君の

気持ちはわからないけど

いつもよりながめがいい

左に少し とまどってるよ




槇原敬之の『もう恋なんてしない』です。

おそらく、マッキーはプリプリの『M』を念頭に置いて、そのオマージュとして「右側」からの風景を描いたのかなと思った。いや、こんなことファンにとっては当たり前のことだったのかもしれませんけどね。



編集

このあいだ『太平洋の奇跡』という映画がやっていたらしく、そのエンディングだけを観ていたのだが、何十人かの日本軍歩兵が行進しながら軍歌を歌っていた。それがすごくよかった。ちょっと調べると『歩兵の本領』というものらしく、YouTube にも(映画のものではないのだが)アップされているのだが、いろいろと思う方もあるかもしれないのでここには掲載しない。

「右」の人だと、「なに? わが帝国陸軍の軍歌を『すごくよかった』だけで片付けるつもりか、貴様ッ! 軍歌というのは、軍人の魂の歌なのだッ!」と詰問しようとするのかもしれないし、「左」の人だと、「歴史的背景もなにも知らないで、軍歌がいいだなんて! その歌を歌いながら、いったいどれだけの若い命が失われたと思うの?」と批難するかもしれない。

単純に言って、私の本意は、もちろん戦争礼讃や軍国主義の賛美などにあるわけがない。本当は、そんな無粋なことわりをすること自体がいやだ。

ABC ラジオの朝の番組で、「おはようパーソナリティ道上洋三です」という長寿番組があって、今年で35周年だそう。その中で、前日に阪神タイガースが勝つと、「第○回阪神タイガース劇場」と称し、阪神の活躍ぶりを紹介し、最後に「六甲おろし」を熱唱する。これ、一年に一回やるとかじゃなくて、毎日の話。阪神が5連勝すれば、月曜から金曜まで、ずっと歌いつづける。

先日は、阪神が3連勝したとかで、3日つづけて道上さんが「六甲おろし」を歌っていた。こちらは、YouTube の動画を貼り付けておこう。






これ、道上さんの声です。




これを毎日ラジオで聴いていたら、なんだかすごく好きになってしまった。

「トラキチ」の人だと、「なに? わが阪神タイガースの応援歌を『すごく好きになってしまった』だけで片付けるつもりか、貴様ッ! 『六甲おろし』というのは、阪神ファンの魂の歌なのだッ!」と詰問しようとするのかもしれないし、「アンチ」の人だと、「歴史的背景も知らないで、『六甲おろし』がいいだなんて! その歌を歌いながらいったいどれだけの虎ファンの涙が失われたと思うの?」と批難するかもしれない。

単純に言って、私の本意は、もちろん野球礼讃や猛虎主義の賛美などにあるわけがない。本当は、そんな無粋なことわりをすること自体がいやだ。



冗談はさておき。

この「六甲おろし」だが、歌詞が実にいい。たとえばニ番。




闘志溌剌(はつらつ) 起(た)つや今

熱血既に 敵を衝く

獣王の意気 高らかに

無敵の我等ぞ 阪神タイガース




文語の素晴らしさがある。「歩兵の本領」も、歌詞の響きは素晴らしい。



わたくしは、いろいろと語弊はありますが、この世から野球が消えてなくなっても一向に差支えがないと思っていました。

けれども、いまは違います。朝、道上さんの歌が聞けないと寂しい。だから、タイガースよ勝ってくれ、と思う。ただ、私自身はテレビを観て応援をするつもりはさらさらないので、選手の顔もよく知りません。あと、順位なんかも現状がひどいあり様ということくらいしか知りません。でもそれでいいのです。私は「虎ファン」ファンだから。

そういえば、弟が「保坂の『カンバセイション・ピース』の良さの8割は、ベイスターズベイスターズファンでできている」とかなんとか言っていたことがありますが、たしかにそうかもしれません。

いつか、私も誰かと一緒に甲子園に行って、ビール片手に阪神タイガースを応援する日が来るのかもしれません。そして、虎が勝利したあかつきには、みんなで肩を組んで「六甲おろし」を唄う日が来るのかもしれません。そんな日を夢見て、いまは、道上さんの「六甲おろし」を毎日楽しみにしているのです。



編集

最近は野外でハンバートハンバートをずっと聴いていて、その中のお気に入り。

からたちの木 / ハンバートハンバート



歌詞を調べようとしたらネット上に見つからなかったので耳コピ(一部不明な箇所あり)。




からたちの木に花が咲いた 隣の娘が身ごもった

生まれた子どもはすぐ死んで 庭のいちじくが実をつけた

からたちの木に花が咲いた 田んぼに蓮の花が咲いた

村の子がまたひとり消えた ねず*1が笑うよ

から から から から

そうら 瞼閉じて そうら 耳を塞げ そうら 早よ隠れろ

どう どう どう どう

そうら 見てはならぬ そうら 聞いちゃならね そうら 雨戸閉めろ

どう どう どう どう



からたちの木に花が咲いた 子どもがひとり帰らなんだ

山に出たきり帰らなんだ 川原に真っ赤な花咲いた

からたちの木に花が咲いた 村中の木がみな花つけた

村の子がまたひとり消えた ネズミ*2踊ろか

から から から から

そうら 瞼閉じて そうら 耳を塞げ そうら 早よ隠れろ

どう どう どう どう

そうら 見てはならぬ そうら 聞いちゃならね そうら 雨戸閉めろ

どう どう どう どう

そうら 瞼閉じて そうら 耳を塞げ そうら 早よ隠れろ

どう どう どう どう

そうら 見てはならぬ そうら 聞いちゃならね そうら 雨戸閉めろ

どう どう どう どう




なかなかに不気味な歌詞である。私は「真っ赤な花が咲いた」でつげ義春の『紅い花』を思い出したが、もちろんあちらの「紅い花」は意味が違う。

上記歌詞の内容からすると、つげというよりは、花輪和一の世界に近いと思う。不気味だが、百年くらい前には不思議でもなかったことかもしれない。

だが、どこか心地よいリズムでもあるので、「そうだ、念願のアレをこれでやってみよう」と思った。ポエトリーリーディングである。



やったことはないのだが、「一度くらいは……」と興味があったポエトリーリーディング。そのデビューをこの朗読でやろうと思ったのだが、じゃあ場所は?

場所はやっぱり人がいるところ、ということですぐに高田馬場のベンズカフェを思い浮かんだ。

ここは、弟が大昔に一回だけリーディングをやったことがあると言っていて、今もやっているかなとネットで検索してみたら……閉店(昨年五月)。ショック!

震災以後、外国人客が減り(ここは、外国人客が多かったのだそう)、閉店することになったという……うう、せっかくこのために三月に東京に行こうかなと思っていたのに。

ということで、旅行どころかポエトリーリーディングじたいが、いったん白紙の気分になってしまった。しかし、いつかは行きたいと思っていた場所なのに、実に残念だなあ。



紅い花 (小学館文庫)

紅い花 (小学館文庫)



*1:おそらく植物の「ネズ」のことを言っているのだと思う。


*2:こちらは「鼠」のことを言っているのだと思う。



編集

昨日の記事の追記と、そこから連想されたこと……を書いていったら、結構長くなった。




声援


竹原ピストルという人のカバーバージョンの『ファイト!』を追記で載せておいたのだが、それから時間を置いて考えるに、ちょっと違うかなと感じるようになった。そのことを書いておこうと思う。

違う、といっても悪いというわけではない。どころか、やっぱりいいとは思っている。しかし、私があの中島みゆきのオリジナルを聴いたときに感じた驚きは、竹原の歌からは感じられなかった。なぜなのだろうか。



私にとって中島みゆきはなかなか評価しにくい歌手であって、大仰に歌うときはあまり好きではない。ベストアルバムには『慟哭』も入っているのだが、あの大袈裟な吠えるような歌い方をどうにも好きにはなれない。「こういう歌い方しかないのかね?」という多少冷ややかな思いすら浮かぶ。

しかし、『ファイト!』のオリジナル曲ではすごく力の抜けた歌い方がされていて、それが逆に歌詞内容の深刻さを際立たせていた。

みゆきが「ファイト!」と掛け声をするところがサビにあるが、あの「力まなさ」がこの曲の象徴であり、要なのだ。

「ファイト」という掛け声は、今では死語に属するくらいに古いが、どちらかといえば声援の中でも気安く、そしていささか頼りない部類に属すると思う。「ファイト」とみゆきが声を掛ける裏には、「わたしはこうやって、あなたから遠く離れたところから歌を歌うことしかできないけど、あなたはどうかあなたで、そしてもし叶うならこの歌を励みにして頑張ってくれたら嬉しい」というごく慎ましい気持ちが隠されているように感じる。

たとえば2011年に発売されたJ-POP の曲の中から「ぼくはきみのために歌うよー」という歌詞で検索してみれば、きっと何十件もヒットするのだろうけれど、『ファイト!』にはそんなおこがましさはなく、辛い現状に立ち向かい戦っている人間に対しての「なにもしてやれなさ」が根本にあるのみ。そして、なにもしてやれないからといっていっそ世の中全体をくだらないものと歌うのではなく、それでも遠くから声をかけてあげたい、応援したい、という非常に人間らしい歌なのではないか。

だからこそ、この歌の「ファイト」は囁くほどの声量がふさわしい(そして、拓郎も同じように歌っている)。



竹原が歌うのは、別の時代の『ファイト』であるのだろう。松岡修造が「頑張れよ!」というときの無責任さや、ポップ歌手たちが「夢は諦めてはいけない、必ずかなうのだから」と歌うときのいい加減さが省みられることのない時代の歌なのだろう、というのはいささか言い過ぎなのかもしれないけれども。





恥辱はあるか


大学にS 教授という社会学の先生がいた。その人の授業でただひとつ覚えていることは(そして大学生活4.5年を通じても唯一覚えていることなのだが)、「70年代は『パッション』の時代。80年代は『ゴージャス』の時代。そして、90年代(それは私たちがまさに生きている時代だった)は『ピュア』の時代」と評していたこと。

いま、その先生がいたら、2000年代(いわゆるゼロ年代)をどのように評するかのか訊いてみたい気もするが、彼の感覚からすると、ちょうど90年代あたりから、若者たちが表面上はともかくその心の底ではなにか正しいものを求めているのではないか、ということだった。そのことをよく示しているのが一連のオウム関連の事件であると思う。かの教団には有名大学の学生たちが多く入信していたことが、事件ののちに判明し世間を騒がせていた。S 教授がオウムに言及していたかどうかは記憶にないが、たしか、多くの若者たちがエヴァンゲリオンに熱中している、ということは指摘していた。私はエヴァに対しては「へえー」ってくらいの冷たい感情しか持っていなかったが。



そのピュアさがつづいているのかどうかわからないが、なんとなくこの現在もつづいているのではないかというのが、正直さとかストレートさということではないか。

たとえば、中島みゆき『ファイト』の中で、駅で子どもを突き飛ばした女を見て、なにもできずに逃げ出した自分自身に対して「私の敵は私です」という詩があるが、このような詩は、今の若者には書けない。なぜか。

昔、大江健三郎の小説を読んだときに「恥辱」という言葉と、その感覚を覚えた。「恥辱」は、健三郎の小説の初期のテーマだったといってもいいくらい(ほんとはそんなことを断言する自信はないけど)だが、今の若者の心に恥辱という感性が存在できる場所はあまりない。なぜなら、社会がより寛容になってしまったからだ。

私の個人的感覚からすると(そういう尺度でしか測れないのだが)、現代は寛容な社会である。

現代では、上の「逃げ出した」という告白がなされても、おそらくすぐに「だってそれはしょうがないよ」という声がどこかから聞こえてくる。「みんな強いわけじゃないんだよ、あなたが逃げ出したって、あなたが突き飛ばしたのとわけが違うんだから、そのことであなたが苦しむ必要はない」という実に耳当たりのいい言葉が聞こえてくる。「恥知らず」なんて言葉にはなかなか出会えない。「きみの中に怒りは起こらなかったのか?」とか、「そこでなぜ歯を食いしばってでも声を上げなかったのか?」というような詰る声は聞こえない。人間はみんな、弱い。弱くて当たり前なんだ、というのが少なくともこの日本の社会にはびこる通念なのではないか。

だから、極端なことを言ってしまえば、ほとんどのことは仕方のないこととして許されてしまう。誰かを許せば自分も許してもらえるという道理で、お互いに無意識のうちに寛容を与え合っている。巷間でよく言われる「オンリーワン志向」も、元々の発信者が使い出したのとは別の意図で用いられている。

槇原敬之は「オンリーワン」という言葉を、「天上天下唯我独尊」という言葉から発想を得たとテレビで言っていた(と記憶している)。それによれば、「私たち人間のひとりひとりが尊い存在なのだ(=だからその自分を大切にしよう)」*1ということであって、それに反してよく使われているのは、「ナンバーワン」を奪い合う競争社会からドロップアウトもしくはエスケープするときの言い訳としてであろう*2

寛容な社会に各個人が甘やかされてしまっているこんな時代に、恥辱という観念は通用しない。自己を見つめている別の自己があって、その客観を持った自己の作る規範に基づいて羞じるのが、恥辱だ。

私が中島みゆきの『ファイト!』に衝撃を受けたのは、その恥辱の部分を歌っていたからに他ならない。





私が『ワンピース』をナンバーワンの漫画に選ばない理由


ともかく総体として、今の若者たち(当然私もこの中に含まれているし、そもそも若者に限ったことではないのかもしれない)は、「自分が弱い」という平気で口にしてしまう。そこにいささかの痛痒も感じない。ま、ここまではいいとしよう。私自身とはなにも関係ない、とここまでであれば言えるから。問題はここから。

正直でありストレートな表現を好む(=それしかできない)人たちは、当然のことのように他者も同じような感覚を有していると思い込む。皆が皆、苦しいときには苦しいと口にし、悲しいときには涙を流し、嬉しいときには大声を出して笑う。それが人間として自然の行為だと思っている傾向がある。

その結果生まれるのが、ストレートに表現された藝術作品群だ。複雑さや「行間を読む」というような鑑賞者の手間を生むような要素はなるべく排除され、かくして現代美術展や小説、演劇、漫画などは喜怒哀楽の見本市、カタログの様相を呈する。

なにも、そういうような世の中になった、と言っているのではない。そのような世の中にならなければいいな、とこいねがうだけである。



私が『ワンピース』という漫画を少年漫画としては最高レベルに素晴らしい作品で、最大級の讃辞を送っても足りないと感じている反面、きっとナンバーワン漫画には選ばないと感じている心裡には、ストレートな表現だけで終わってはいけないという一種強迫観念のようなものを私が持っているからだろうと思う。

それははっきり言って私の趣味の問題であるから、「なんで? ワンピース面白いじゃん!」という文句はお門違い。というか、面白いと思っているしね。

『ワンピース』にはいろいろな伏線が張ってあって、それに各コマにもいろいろな仕掛け(隠れキャラとか)があるのは百も承知。けれどもそれを承知で書くが、「行間」はない。少年漫画はそれでいいんじゃない、とかそういう余計な判断は抜きで、つまり写真や小説や演劇や絵画などの藝術と呼ばれる領域で括ってみて並べてみたとき、『ワンピース』はわづかながら見劣りがする。一概には言えないのだろうが、ストレートな表現というのは技術的問題として幼稚なのだ。



藝術はつねに進化している。昨日のアヴァンギャルドが今日のクラシックになっている。なぜそれほどに変遷を繰り返すのか。答えは簡単である。人間がそれを望むからである。

人間が、つねに変化を望むため、ストレートな表現だけではやがて退屈を覚え飽きられてしまう。だからこそ、表現は変化してきた。ときに、「歴史は繰り返す」の伝でストレートな表現に一時的に戻ることはあるが、基本的には藝術に回帰はない。回帰しているように見えるときにでもそれは新たななにかをまとい、元の場所に新しい顔をして戻ってくる。一度たりとも同じ波が打ち寄せないのと同じことだ。



「ファイト」中島みゆきが囁いた表現とその意味を忘れないようにしたい。そして、今の時代だからこそ「ファイトォォー、イーッパァーーーッツ」というようなリポD 的表現には、ほんの少しだけでいいから注意を払っておきたい。そんなことを私は考えたのだった。





【関連記事】





*1:ただし、[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E6%88%91%E7%8B%AC%E5%B0%8A:title=Wikipedia] を見ると、ここらへんはなかなか難しい問題。もともと天上天下唯我独尊という言葉は、「私(釈迦)のみが唯一この世界で尊いのだ」という意味だそうだが、誤解あるいは拡大解釈されて、「私たち人間のひとりひとりが尊い存在なのだ」と理解されているという。槇原は後者の理解に基づいて「オンリーワン」と歌っている。


*2:つまり、私たち人間のひとりひとりが尊い存在なのだから競争する必要はない、ということであって、「競争する必要はない」というのは拡大解釈だと思う。競争しようがしまいが存在の唯一性にはなにも関係のないこと、というのが正しい理解なのだと思うのだが。



編集

あたし中卒やからね 仕事をもらわれへんのやと書いた

女の子の手紙の文字は とがりながらふるえている

ガキのくせにと頬を打たれ 少年たちの眼が年をとる

悔しさを握りしめすぎた こぶしの中 爪が突き刺さる



私 本当は目撃したんです 昨日電車の駅 階段で

ころがり落ちた子供と つきとばした女のうす笑い

私 驚いてしまって 助けもせず叫びもしなかった

ただ怖くて逃げました 私の敵は 私です






中島みゆきのベストアルバムを聴いていたらこの歌詞が耳に突き刺さった。

TVCF に使用されていることは知っていた。しかしこんな内容だったとは。




ファイト! / 中島みゆき



一所懸命に描かれているイラストだが、不要。歌詞だけで充分。




Wikipedia によれば、この曲はもともと1982年に作られたものらしい。

吉田拓郎が作ったのかと思っていたら、みゆきのオリジナルらしい(でもやっぱり拓郎もカバーしていた)。



世間に対して勝手に「敗れ去った」と思っている者は、諦めずにいる人間たちに冷笑を向けがち。敵は己の中。




追記


竹原ピストルという人のカバーもよかった。




ファイト! / 竹原ピストル






編集

今日、この歌がラジオから流れてきた。




Alone Again (Naturally) / Gilbert O'Sullivan




明るい曲調だが、意外に歌詞が暗いということは知っていたが、いま歌詞を見てみても私の英語力じゃよくわかりません。

でも、最後のあたりぐらいはなんとなく。




Looking back over the years

And whatever else that appears

I remember I cried when my father died

Never wishing to hide the tears

And at sixty-five years old

My mother, God rest her soul

Couldn't understand why the only man

She had ever loved had been taken

Leaving her to start with a heart so badly broken

Despite encouragement from me

No words were ever spoken

And when she passed away

I cried and cried all day

Alone again, naturally

Alone again, naturally




また孤独になっちゃった。当たり前のことのように。



編集

YouTube に提案されたのでなんの気なしにクリックして聴いてみた『バイバイ』という曲。7!!(セブンウップスと読むらしい。覚えにくい! 検索もしづらいしね!)




バイバイ / 7!!




他の歌詞はたいしたことなくて耳に入ってこないのだが、「いつもマイナス1℃の雨が降る」というフレーズはいい。ちなみに、PV はまだまともに観ていない。



編集

透明飛行船 / BUMP OF CHICKEN




この曲、はじめの方はわりとありがちというか、RAD WIMPS あたりが作りそうな歌詞*1が出てくる。

鉄棒の得意な男の子がある日失敗して鉄棒が苦手になってしまった。しかし彼のしたことといえば……。




精一杯 精一杯 笑ったでしょう

皆の前 あの子の前 取り繕って

誰も気にしない様な事

それでも自分には大ゴト




他人の前で仮面をかぶるようにして生きているのは実は子どもの頃からで、僕たち/私たちはあの頃からずっと一所懸命に笑顔を作って頑張ってるんだ、という世界観は、わりとありふれているし、わりと共感を得やすい。そうだそうだ、おれたちは実は傷ついているんだ、とナイーブなふりをした大人が酔いやすい歌詞と言える。



だが、この歌のポイントはそこにない。

作詞者の藤原基央は、この精一杯笑顔を作って場を取り繕った男の子の本当の姿をちゃんと描いており、そしておそらくそこが本当に描きたかった部分のはずだ。




ひとり こっそり 泣いたでしょう

帰り道 夕焼け 宮田公園で

なんか怖かったお社が

その日は心強かった




この「泣いたという事実」をちゃんと書いているところに、藤原の誠意を感じる。または、この男の子への優しさを。

歌詞というものは、ここまで書けて初めて詩なのだと思う。シニカルな観察やクールなふるまいをいくら積み重ねてみても到達できない領域というものがあるのだ。

なお、宮田公園というおそらく実在の固有名詞をさらっと出しているところにも、非凡な才能を感じる。



*1:註記しておくが、RAD WIMPS の歌詞のレベルは、それでも非常に高いと思っている。同年代で彼らの歌詞に匹敵するものを書けるのはそういないのではないか。



編集

一青窈の曲なんてもう流行らないのかもしれないけど、私はその歌詞世界が結構気に入っている。




一思案 / 一青窈

 




この曲の半分は語りで、それが実にいい。ひょっとしたら歌よりいいかもしれない。

この記事のタイトルにした、語りの最後の部分にドキッとする。



このページのトップヘ