とはいえ、わからないでもない

カテゴリ: 読まずに死ねるか

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20. 『神聖喜劇』(大西巨人 / 光文社文庫)



これは紀行文ではない。れっきとした小説の書き出しである。これほど、ノれない書き出しというのも珍しいのではないかと思うが、ひょっとしたら大岡昇平*1の『レイテ戦記』(未読)あたりの冒頭もこんな感じかもしれない。

大西巨人のこの独特の文体について、埴谷雄高はその評(第一巻所収)において「百歩を一万歩分で歩く手法」と評価している*2。その比喩は決して大袈裟ではない。なにせ、原稿用紙四千七百枚と言われている本作の大部分はは三ヶ月ほどのできごとだったような気がする(記憶が不確かだが。もちろん、回想シーンは山ほどある)。

ちなみに、大西巨人の他の作品、『深淵』の冒頭も引用してみる。




麻田布満(あさだのぶみつ)という二十八歳の青年が、首都圏・埼玉県与野市〔現在のさいたま市〕の彼の住所から失踪した。それは、一九八五年〔昭和六十年〕七月二十日土曜のことである。もっとも、麻田の両親、友人、知人、会社同僚などが事態を失踪ないし行くえ不明ないし「蒸発」として充分本気で考慮・心配し始めたのは、七月末から八月初旬ごろ以降のことであって、最初から麻田の身の上を真剣に案じ事柄を重大に考えていたのは、――布満の両親を始め彼の知り合いたちが冷淡非情であったというような意味では毛頭なく、――布満の結婚三年目の妻琴絵(ことえ)だけであったかもしれない。

結婚当時二十六歳八ヵ月の布満と同二十三歳二ヵ月の琴絵とは、市内下夢(しもゆめ)町のヨノ・コーポ一階103(3DK、六畳・一畳半大の押し入れ付き、六畳・同上、四畳半、七畳大DK)に住んだ。まだ子供は、なかった。布満は、二人兄弟の次男であり、両親は、長男夫婦およびその子供二人といっしょに、おなじ与野市の三本松に長らく居住してきた。布満は、都心所在の準大手出版社首都恐竜書林(月刊文芸雑誌『解凍』編集部)に就職し、国電〔日本国有鉄道都市近郊距離電車〕京浜東北線ならびに国電総武線で通勤し、琴絵は、おなじく都心所在の大手出版社宇宙社(学芸出版部)に就職し、国電京浜東北線で通勤していた。




住居の間取りやら、通勤電車が事細かに説明されているが、密室トリックや時刻表トリックなどは一切登場しません。というか、そもそもミステリーではない。いろいろとツッコミどころ(なんで年齢が「月」まで言及されているの? とか、元号を括弧表記するくらいなら始めから元号で書けばいいのに、とか)が満載なのだが、この裁判記録のような詳細さがリアリティというものを否が応でも生成する。

くわえて、大西巨人の文章をはじめて見たとき、多くの人は「うわ、難しそう」と思うかもしれないが、作者の意図はまったく正反対なのだということをここで強く註記しておきたい。

おそらく、大西巨人がここまで詳細な書き方をするのは、作者の意図を読者に確実に伝えたいからであると私は考えている。そのように大西巨人が発言しているものを読んだことはないのだが、十中八九、彼の文体は、文章が正確に伝わることへの強い意志をあらわしているのだと思う。だから、ゆっくり時間をかけて読めば、大西巨人文章自体はまったく難解ではない。なにを意味しているのかわからない、とか、ここでこの表現をするというのはなにかのメタファーなのか、とか、そのような迷いを生じさせる要素はまったくない。これは保証できる。

だが、作者の扱う宏大な知識や思想の背景については、同じものをなるべく共有している方が読書を愉しむことができるというのは確か。かく言う私はまったくそれを持たずに読書したが、好奇心だけはいつも持ちつづけていれば問題はないと思う*3



大西巨人の他の作品も、日本語小説の中で文句なしのトップレベル(という表現自体が既に失礼!)なのだが、中でもこの『神聖喜劇』は群を抜いている。

ただ、ここでは小説の内容についてはまったく解説しない。というか、できない。読むしかない。そもそも、解説を読んだって意味がない。読み終えた人間ならそれがわかるはずだ。「あらすじや解説で読んだつもりにならなくて、本当によかった」と。



この記事を読んでいる人に、これだけは伝えたい。

あなたがこの『神聖喜劇』を原文(=日本語)で読めるということは、非常に幸運なことだと思います。

ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』や『ユリシーズ』が原文で読めなくたっていい。『神聖喜劇』を原文で読むことができるのだから。こんなに幸せなことはないだろうと思う。そして、あなたがもし九州の人間ならば、幸運の度合いは更に強まる。

アマゾンで高評価を受けている人のレビュータイトルは、「ニヒリズムでは生きられないごたぁる」とある。読者なら、もうこのタイトルだけでげらげらと笑える。

保坂和志は「第三巻」の解説で「読んでいる途中でいつの間にか日常の会話に九州弁が紛れ込んでいて、読み終わってもしばらく抜けない」と書いている。たしか三浦しをんも同様のことを書いていたし、私も、そして弟も、「ごたぁる」な感覚はしばらくつづいていた。



最後に、「第五巻」の最後に収められている「奥書き」のうち、文春文庫版のものを全文引用しておく。その前に、どうして私がこの文章を引用するのかということを簡単に書いておく。

私は、表現者が「この作品(どのような形態であれ)がたったひとりでもいいのです、その人に観て/聴いて/読んでもらえるのなら」と言明するのを嫌う。そんな思いで作られたものは、きっとたいしたものではない。表現者は、それが可能か否かは別問題として、ひとりでも多くの人間に伝えたいと志向すべきなのだ。むしろ、そのように志向する人間だけが、表現者なのだ。

私は、以下の文章によって、それを強く思い知らされた。この二十五年の歳月が注がれた作品に対する、作者の強い思いを感じ取ってほしい。




「文春文庫」版奥書き



さしあたり私は、もし私の著書が三百部ほど売れたならば、言い換えれば、もし私の著書が有志具眼の読者約三百人に出会うことができたならば、それは望外のよろこびであろう(さらにもし同様の意味合いにおいて三千部ほど売れたならば、「以て瞑すべし」であろう)、と考える。

しかし、また、――「上木」、「上梓」ないし「出版」という言葉の反意語は、「筐底(きょうてい)に秘す」であろうか、――私は、私の作物を「筐底に秘」しておくことなく上梓した以上、それが三億部か三十億部か売れることをも願望せざるを得ない。光文社刊四六判五巻本は、さいわいにしてかなり刷をかさねた。この文庫版の売れ高が先行き三億部なり三十億部なりに達することを、私は、期待する。



一九八二年陽春






【関連記事】





神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

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参考

三位一体の神話(上) (光文社文庫)

三位一体の神話(上) (光文社文庫)



三位一体の神話(下) (光文社文庫)

三位一体の神話(下) (光文社文庫)



深淵(上) (光文社文庫)

深淵(上) (光文社文庫)



深淵(下) (光文社文庫)

深淵(下) (光文社文庫)



神聖喜劇』も含んだ上記三作品は、すべて「カバー装画=林哲夫、カバーデザイン=間村俊一」の組み合わせだが、実によい。




*1:実は、字が異なるが私の名前の「しょうへい」は大岡昇平から取っているらしい。その割りには『野火』しか読んでいなくて、なんだか親に申し訳ない思いだ。


*2:もしかしたら、「百歩を〜」というのは他の人間(もしいるのだとしたら大西巨人自体の可能性が一番高いが)の表現で、それを埴谷が用いたのかもしれない。


*3:しかし、田能村竹田の著作についての話が五十頁(もしかしたら百頁ほどだったかも)ほどつづくところがあったが、あれは結構な難関のように思う。



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ついに『スティール・ボール・ラン』(SBR)が終わった。




『ジョジョ』は進化している


以前からずっと思っていて、発言してきたことでもあるが、『ジョジョ』はつねに進化してきた。そりゃパクリとかいろいろな問題を抱えていることは否定しないけれど、それでもつねに進化してきた。

複数のタレントたちがテレビ番組などの大手メディアで発言したためにやっと「メジャー」な漫画になったという印象の『ジョジョ』だが、本当に『ジョジョ』を理解している人たちは、本当に『ワンピース』を理解している人たちと同様、発行部数ほど多くはないと思う。「『理解』だなんて! お前がなにをわかっているんだ?」と怒る人もいるだろうが、残念ながら芸術作品に関してはいいものと悪いものがあり、それらを弁別するには「理解」がどうしても必要となる*1。「理解」という語に違和感を覚えるのなら、「愛情」と言い換えたっていい。ただしその「愛情」は、作品をただの「萌え」やファッションの対象に矮小化させてしまう感情などではなく、作品を介して作者と真摯に向き合う態度のことを言う。「承太郎さまの学ラン姿に萌え萌えですー」*2みたいなのとは違う。ましてや「マジいいシーンなんすよ」とも全然違う。要するに、独りよがりに鑑賞しているか否かということ。






このCF を見て無性に腹が立つのは私だけだろうか?






『ジョジョ』の話をしていると、「第3部が一番好き」という人は多い。いまWikipedia とAmazon を見比べて簡単にチェックしたら、第3部は89年から92年に描かれているようだ。およそ二十年前ということになる。荒木飛呂彦に「二十年前が一番いいですね!」と言ったら本人はどういう表情をするだろうか? 「あ…ありがとう」と苦笑するのではないか*3。私個人は、第3部より第4部の方が優れていると思うし、それよりも第5部、そして第6部の方が優れていると思う。世界観はより複雑になっていき、邪悪の象徴であったディオを超えるものとして、また別の形の邪悪(第4部: 吉良吉影の「殺人癖を持ちながらも『平穏無事な生活を送りたい』という意思」)が登場し、あるいは、鉄の意志をもって死を遅らせるキャラクター(第5部: ブローノ・ブチャラティ)や、「人間は覚悟があれば幸福になれる」という哲学を持った「悪役」(第6部: プッチ神父)が登場する。ここには、ドラゴンボール的な単純な「強さのハイパーインフレ」は生じていない。

そして、第6部が終わり、宇宙が一巡してから*4、このスティール・ボール・ラン・レースが始まった。





再生の物語


アマゾンのレビューにも書いてあったが、結局、この物語では誰が勝者となったのだろうか。生き残った者たちは多くいるが、はたして彼らは勝者なのだろうか。

最後の最後まで読んで、「強大な悪を倒してめでたしめでたし」という気分にはどうしてもなれなかった。ひとつの大きな物語が終わり、多くの者が傷つき、死に、舞台から消え去っていった。

ジョニィが青春時代から大人へとなるためには、多くの、本当に多くのものを差し出し、失うことが必要だった。長い長い廻り道を経て、苦すぎる経験を味わい、やっと彼はひとりで歩くことができるようになった。それは、とてもじゃないが「めでたしめでたし」の一言で片付けられることではない。

最後に出てくるジョニィの独白はこうだ。




― これは『再生の物語』 ―

文字どおり僕が再び歩き始める事になったいきさつ……………

そして思い返せば旅の間はずっと「祈り」続け………

この馬による大陸横断レースは「祈り」の旅でもあったのだ

明日の天気を「祈り」

朝 起きたら目の前の大地に道がある事を「祈る」

眠る場所と食料がある事を「祈り」

たき火に火がつく事を「祈る」

このあたりまえの事をくり返しながら

― 友と馬の無事を「祈る」

そしてひとつひとつの河を渡る

今 ― 最後の河を渡り終わった ― 






七年という連載期間中、読者もまた、ジョニィたちと一緒に旅をしてきたのだと思う。

サンドマンが走るのに驚愕し*5、第1ステージでジャイロが優勝する昂奮を味わい、マウンテン・ティムを好きになり、ウェカピポに同情し、その他さまざまなことに傷ついたりもした。それは、『ワンピース』においてルフィたちと既に十年も一緒に航海をしているのと同じことなのだと思う。これも以前どこかに書いたが、連載漫画を同時代的に追いかけるということは、後で単行本をまとめて「大人買い」してわかったつもりになるのとはまったく異なる種類の体験をしていることになる。陳腐な表現になってしまうが、それは宝石のような体験だ。絶対に大事にしておいた方がいい。





しばしの休息を


……七年間の長いレースが終わったのだ。

ジョニィは「家に帰る」という。われわれも本を置き、美しい装幀を愉しみながら、しばらくのあいだ休息を取ろう。




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この表紙だけでも本巻を買う価値はある




贅沢な話だが、新しい冒険は既に用意されている。「ウルトラジャンプ」では第8部の連載がもう開始しているというのだ。けれども、今はまだ旅支度をしなくていい。そんな風に私は感じている。ジョニィのように船上の風を受けている気分になりながら。



ちなみに、集英社のサイトにあるムービーも素晴らしい。興味のある方はまずそちらを。



スティール・ボール・ラン (1) ジャンプコミックス

スティール・ボール・ラン (1) ジャンプコミックス



STEEL BALL RUN スティール・ボール・ラン 24 (ジャンプコミックス)

STEEL BALL RUN スティール・ボール・ラン 24 (ジャンプコミックス)




*1:誤解してほしくないのは、これは「芸術作品」という土俵で批評を行う場合においてのこと。「ふつーのマンガ」はふつーに愉しめばいいのだと思う。


*2:中川翔子。この人自身は嫌いなわけではないけど。


*3:ついでに尾田栄一郎に「まじいいシーンなんすよ」を見せても、同じ表情をされるだろうと思う。


*4:ここらへんは、『ジョジョ』を読んでいない方には意味不明でしょうが、詳しい説明は省きます。


*5:本24巻のラストあたり、すべてを回想するシーンにおいて、「おい見ろよ 『サンドマン』が走ってるぜ スゲェな」という台詞があったが、泣けた。



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言うまでもなく、舞城王太郎の『煙か土か食い物』は傑作である。
ただの傑作ではない。間違いなく日本の文学史の中に名を残す大傑作である。
まあいろいろと書きたいことはあるのだが、ネタバレになってしまうので書かない。
ひとつだけ、冒頭のあたりで、ハンソンの歌について書いているのが印象的なので、そこを引用する。舞城は登場人物の言葉を借りて、村上春樹や町田康の小説を賞讃している部分もあるが、これらには驚いた。同時代の作家や歌手を手放しで褒める自由さ。そう、舞城の身上は、なにものにもとらわれない自由闊達さであり、日本小説の自由度を一段より引き上げたのだと私は考えている。
俺は叫び出したいのをこらえてカーステレオをつけるとFM でハンソンとかいう子供バンドがラブソングを歌っている。声変わりしていない子供のはりきった歌声。「僕の一日は千四百四十時間あるみたいだ……」。一日が千四百四十時間=二十四時間×六十=二ヶ月。俺のサンディエゴでの一日もそんな感じだ。特に夜眠れなくなってからは。あの地獄のようなハードワークをこなしていた感覚とかリズムとかを福井に帰って狂わせてしまうのが面倒で億劫だ。帰ってもろくなことはない。しかし何はともあれ帰らないわけにはいかないし空港に向かう途中で激突死するわけにはいかないので少しスピードを落としてハンソンと一緒に歌うことにする。「君のことを考えずにはいられない/なぜなら僕は君のことが好きで、それが本物だって知ってるからだ。/死に物狂いと言えるくらいだ。僕の目に浮かんで見えないかい/太陽が空から墜ちてくるまで君と一緒にいたいってことが?」。いいじゃないか。ベリーキュート。俺は笑い出す。俺はハンソンが気に入って空港の中のCD ショップでアルバムを探し出して買ってついでにレジの店員に五百ドル渡して彼女の私物のポータブルCD も買い上げてしまう。「返品はきかないわよ」。それからチケットカウンターでファーストクラス航空券を差し出した女が俺の手のCD ジャケットを見てにっこり笑って「私の妹もそれを持ってたわ。彼らってかわいいわよね」と言う。「歌詞がいい」と俺は言う。「そうね。その三人兄弟、詩も曲も自分たちで書いているのよ」と女は俺に教えてくれて俺は更にハンソンのことが好きになる。イエス。これはアイドル歌謡だ。歌ってる奴らもまだ子供だ。でも誰かを好きになった気分をこんなふうに大げさに歌いあげながら同時にリアルでいられる奴らが他にどこにいる?一日千四百四十時間あるみたいだなんて数字を天から掴む奴らが他にどれだけいるってんだ。
本記事のタイトルはノベルズ版の装幀にある言葉。小説中のある人物のある台詞なのだが、読み終わってこの言葉を思い出すと胸に沁みる。「シートベルトを締めろ!」下はハンソンの大ヒット曲。
MmmBop / Hanson

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浦沢直樹の話を書いていてふと気づいたのだが、心ある人なら絶対に読むべき漫画のひとつとして、業田良家の『自虐の詩』がある。映画にもなったようだが観ていない。いかに良くできていようと原作を超えることはまず不可能だと思う。
「心ある人」という語句の解説をする。

注意
以下のような人は、「心ある人」ではありません:
  • 人が真剣に作ったものに真剣に向き合うことができない人
  • なにをとっても自分が一番だと思っている人
  • 「泣ける映画」とか「泣ける小説」などのコピーに考えなしに飛びつける人
  • 漫画を、紙に印刷されただけのただの記号の集合体だと考えている人
  • 「漫画って楽しめればいいんだよ」となにも考えずに発言できる人
上記のような人物であれば、読む必要はないだろう。趣味・嗜好の相違という問題はあらゆるところにあり、漫画においてもそれは同じこと。万人が楽しめる作品などありはしないのだ。
だから、「承太郎様最高!」とか「サスケ萌え!」みたいなレベルで楽しめる人は、それはそれで幸せというもの。もちろんこれは皮肉ではない。

内容の解説は特にしない(解説することに意味がない)が、読み始めたら必ず上下巻を読破することを薦める。そうすれば、ひとりの人間(それが劇中人物であっても)が幸福を実感する瞬間に、必ず読者は立ち会える。
このことだけは確実に約束できる。
「感動した!」とか「泣いた!」などの感想には至らなくてもいい。これはリアリティの問題であり、「泣きながら漫画を描いたことがある」人間の魂の重さの問題であるのだ。

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前篇

私の読書メモによれば、7月15日にある本を読み始めたことになっている(より正確を期すならば、7月15日に読了したことになっている)。
何を隠そう、その本の名は、北方謙三著『水滸伝』、通称「北方水滸」(註: 作者の名前通り、「きたかたすいこ」です。私の弟は、はじめ「北方水滸伝」という字を見て「ほっぽうすいこでん」と読んで、北国のヤクザの争いの本か何かと勘違いしたそうです)


まあ、多くの読者に読まれているわけだから、今さら「何を隠そう」も何もないのだが、これは本当に名作。同作者の『三国志』が霞むくらい。ネタバレはしませんが、やはりどこかしらは褒めちぎりたいので、ぼんやりと紹介することにいたしますが、その前に簡単なワタクシ的水滸伝の話を。あらすじとか概略を知りたい方は、ウィキったほうがいいです。


そもそも、横山光輝の『三国志』が小学生の頃に流行りました。と言っても、全巻(60巻)を揃えている友人など私の周りにはひとりもいませんでした。私は私で、1巻から買うのがイヤで、なぜか38巻を最初に買い、以後も24巻、42巻・・・などと飛び飛びに買い、話のつづきを楽しむというより、戦をしているシーンを楽しむという読み方をしていました。しかしこの読み方に途中で飽きたのか、漫画自体を買うことをやめ(そりゃそうです、1冊350円だとしても60冊で2万円ちょっと、子供が買える金額じゃありません)、そこで、同じ金を使うなら、と吉川英治の『三国志』を読み始めることにしました。これにはハマりましたね。今じゃあほとんど記憶に残っていませんが、繰り返し繰り返し読んだと思います。
お年玉をためて『三国志人物事典』を買ったのはちょうどこの頃です。これはずっと読んでいた。家で寝っ転がってぺらぺらとページをめくり、字(あざな)を覚えていたりしました。いつのまにか、友達が知っている「三国志」と私の知っている「三国志」には大きな差が生じていました。
挙げ句の果てには、学研の出している「歴史群像シリーズ」の三国志特集だけを買い、読んでいました。この「歴史群像シリーズ」は今はわかりませんが、当時としてはマニアックで、小説とは全然違った解説がなされていて、子供ながらに「へへ、勉強のしがいがあるなあ」と嬉しく思っていました。ここまでが、だいたい六年生くらいまでのことじゃなかったか。
ところが、中学生くらいでぷつりと興味が失せた。学校で私の話についていける人が誰もいなくなっていたんですね。今でこそインターネットがありますが、当時はコミュニティーと言えば学校だけで、話に誰もついていけなければマニアックに「研究」をしても、仕方がないと感じたのでしょう、私らしくあっさりと方向転換をしました。
そのときの転換先が、『水滸伝』でした。水滸伝は明の時代にもともと講談で広まった物語らしく、108人の好漢たちが、宋政府に叛旗を翻すという話です。まず、横山光輝のマンガ版全8巻を読み(これは図書館にありました)、その後吉川英治の『新・水滸伝』を読みました。但し、吉川版は全4巻で未完のまま終わっているので、108人揃ったあと何をするのかがよくわからなく、私の中での水滸伝への興味は三国志ほど広がっていきませんでした。
私が高校生くらいの頃だったか、二つ下の弟から駒田信二訳の『水滸伝』を読んだという話を聞き(弟は私と違って読書家)、トライしたのですが、どうにも読めずに挫折。というのも、人を殺すシーンが不必要に陰惨で、しかも書いている側(駒田は訳しているだけで、書いていないはず。ややこしいが、吉川英治版はタイトルどおり新作)、つまり講談する側は面白おかしく表現する傾向にあったのです。また、人食いの話も結構出てきます。しびれ薬を飲ませて殺し、その肉を饅頭(「まんとう」と読むそうですが)にして商売をしているのが108人の中にいます。当時は時折そんなことも起こったのでしょう。
駒田版を諦めてから十年後ほどに、偶然見つけた岩波文庫の吉川幸次郎訳の『完訳水滸伝』を試そうとしたのですが、今度は全10巻のうち4巻で挫折。この理由は、「ただなんとなく」というところで、別段不満もなく(だが面白さも感じずに)読んでいたのですが、たまたま興味のある本を併読し始め、そのため先に読んでいた「水滸伝」を忘れてしまったまま時が経ち、ついに諦めてしまっていたのです。

・・・とまあそんな具合にして、「水滸伝」とは随分のあいだいい関係性を保ってこられなかった。「どうにもご縁がありませんなあ」というところです。
そこに、ついに転機がやって来たのですが・・・すいません、長すぎるのでつづきは後篇。


後篇

さて前篇では、北方水滸の面白さを紹介する前に私個人の水滸伝との関わり合いを話しているうちに時間が来てしまいました。今回は、いよいよ北方水滸の魅力について、ネタバレにならない程度にご紹介いたします。


原作とは違う設定が多い

というか、原作を知っている人にこそ読んでほしい。あの登場人物が? あの設定が? そういう驚きで圧倒されることと思います。それにオリジナルキャラクターも登場し、原作のどうもスッキリしない関係性(つまり登場人物同士の結びつきがイマイチ不自然)は雲散霧消し、複雑に絡み合っていきます。そこでは、「え? あの弱小キャラと、この主役クラスキャラが親友?」みたいなことも当然起こってくるわけで、そういう友情シーンにハっと胸を衝かれることが度々あります。
108人の登場人物たちはすべて描かれます。これが今までの「水滸伝」と決定的に異なる部分かもしれません。108人もいれば、お座なりな扱いになってくるキャラクターも当然いそうなものですが、たとえ兄弟や双子ですら描き分けられます。ここに作者の気合いが感じられます。


モダンでハードボイルド

好みはあるでしょうが、登場人物たちは、ほぼ全員、北方ワールドの住人です。原作水滸伝の登場人物は概して罪人が多く、現代的に言えば結構な割合で殺人犯です。しかもその殺す理由が、「ちょっとこらしめてやろうとぶん殴ったつもりが死なせてしまった」とかそんなもんで、「人道的見地」に立てば、許し難いところがあるかもしれません。そういう「お尋ね者」連中が、自分たちの数十倍もの兵士を擁する宋軍(政府軍)と戦うということに、少し納得がいかないところもあります。
北方水滸伝の登場人物たちは、ほぼ全員が「志」を持っており、108人がその「志」で繋がっています。「ほぼ全員」という回りくどい書き方をしたのは、志など関係ないと公言する者も中にはいるのですが、そういう人物たちは概して志を持っている人物と親友であったり義兄弟の関係を結んだりしていて、その親友のために軽々と命を投げ出すシーンを見ると、歴史小説に欠かせない「義侠心」と、ハードボイルドに流れる「騎士精神」とがうまく融合されていると感銘を受けることでしょう。
ただし、これは女性が読んでも同じ感想を持つかどうかは不明です。ハードボイルドは、(男からすると)意外に女性のウケがよくありません。北方水滸伝の「男臭い」部分に対しては好みが分かれるところだと思います。


戦争は細かいことの積み重ね

『三国志』でもそうでしたが、北方水滸は調練ばっかりやっています。調練とは兵士を鍛えることですね。ときには兵士が死ぬくらいの調練をするので、梁山泊(本拠地の名前から、叛乱軍をこう称しています)の連中は強いということになっています。対して宋軍は賄賂等で腐敗しているため腰抜けばかりという設定です・・・最初の方は。(←ちょっと意味ありげですが、これ以上書くとネタバレになってしまします)
また、兵站(へいたん)が非常に重要視されています。兵站というのはわかりやすく言えば「後方支援」というところでしょうか。武器・騎馬の補充や、兵糧の輸送、これらを管理する人間たちの苦労もところどころに出てきます。具体的に言えば、敵が打った矢を戦場で回収し、殲滅した騎馬隊からは馬を回収します。剣が不足すれば、官軍の武器庫を襲い、兵糧が足りなくなれば、城郭(こう書いて、「まち」と読ませています)に出向いて、商人のふりをして麦を買い付けます。
これ、実際の戦闘では、本当に大変なことであったろうし、また現代でも戦闘と同程度に重要視されていると思います。通常の小説では、こういう部分はたいてい無視されています。武将たちがヤアヤアと大きなことを言い、そこで数万人の兵がザっと動く、というような。でも、その数万人の装備はどうやって手に入れたのか、または、その数万人の兵士が動くにはどこからお金が出ているのか、そこら辺がまったく触れられません。多くの現代小説で主人公たちがトイレに行くことがほとんどないのと同様です。そんなもんは必要ないだろ、と言わんばかりです。
北方水滸は、「収入源」まで明確です。ある「モノ」を闇ルートで中国全土で流しているために莫大な資金があるという設定になっており、この「モノ」を政府軍の目から隠すために、この作品の重大なテーマのひとつとなる諜報戦が繰り広げられます。諜報線ともなれば、暗殺もありますし、ときおりむごい拷問もあります。この部分にも、女性は嫌悪感を示すかもしれませんね。


まあ、この程度で北方水滸の魅力など全然お伝えできません。ここまで書いてきませんでしたが、なんと全十九巻もあります。7月15日に読了したのは第1巻で、第19巻を読了したのは、8月26日でした。なんとも時間がかかりましたが、それは間に運転免許学科試験の勉強があったためで、それがなければもっと早く読めたと思います。それくらい長さを感じさせないような読み易さになっています。
とにかく、「北方水滸伝」、これを読まずには死ねません。


先の直木賞発表の直前報道で、NHK のインタビュアーが選考委員に北方謙三に「選考の基準はなんでしょうか?」と訊かれ、北方はいともたやすく「そりゃあ、文学のためになるかどうか、だよ」と答えていました。
他の選考委員たちにも同じ質問が投げかけられていましたが、みんなムニャムニャ言っているだけでハッキリとしない。まるで北方謙三ひとりだけが、ブンガクの未来を考えているように感じた次第でした。

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