とはいえ、わからないでもない

カテゴリ: ハーバード白熱教室

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「ハーバード白熱教室@東京大学」の後半部分が再放送されて、やっと見ることができた。

考察1 家族に対する忠誠心について

サンデル教授によって、基本的な正義に対する3つの考えが挙げられる。
  • 幸福の最大化 - 功利主義者
  • 人間の尊重 - カント
  • 美徳 - アリストテレス
その上で、道徳的義務というものは個人的なものなのかどうかという問いがなされる。
もちろん、「本家」の「ハーバード白熱教室」を観た私は、サンデル自身がコミュニタリアンであり、彼自身が「道徳的義務は個人的なものではなく、属する共同体の中で形成されるもので、構成員が従うべきものだ」という考えであることを知っている。
まずはじめに、家族に対する忠誠心についてのある仮定が提出される。その仮定とはこうだ。
あなたは東京大学の教授で、弟が暴力団員で全国の指名手配犯になっている。
さて、あなたが警察から弟についての情報の提供を求められたとき、捜査に協力するだろうか。
もちろんこれは賛成派と反対派に別れる。
賛成派:
家族であろうと、そのことが善悪の判断基準を揺るがせにすることはない。

反対派:
家族なしに社会はなく、家族に対するつながりがなければ、社会とのつながりも存在しえない。
うーん、私としてはいつもこの問題で悩んでしまう。簡単に決められる問題とは思えないのだ。
こことは違う場面だったが、ある聴講者に対してサンデル教授が難しい質問をした。それに対してその聴講者は「うーん難しいですねえ」と少し悩んだ。それに対して、サンデルが一言。「だから質問しているんだよ」
これが哲学の本質のような気がする。簡単に自身の主義(本当に考え込まれて生まれたものかどうかは不明だが)を適用して即答することが哲学ではない。熟考し、ときには矛盾が生じることもあり得るのが哲学なのだと思う。
話は戻って。
現実の私の家族が罪を犯したという話を警察に聞かされれば、私は家族の方を信じるだろう。きっとそれは冤罪で、警察の方が間違っているか、あるいはハメようとしているのだと信じるだろう。そしておそらくそれは間違ってはいまい。なぜなら、私の家族は犯罪を行うタイプの人間たちではないし、そのことを私はよく知っているからだ。
しかし、上の仮定では、弟は暴力団ということになっている。はたして、そのような人間を信じることができるだろうか。
理想論としては、暴力団員であろうと家族は家族だ、ということになる。しかし、己の信条として、暴力団員という存在をたとえ家族であろうと許せるだろうか、という問題がある。
家族であるということが、自分の信条を超えるのだろうかというそれは違うだろう、と私は思う。そのように(家族より信条を優先させることを)考えてもよいということを家族に教わったような気もする。
コミュニタリアニズムに対しては、賛同すべき点も多いと感じているが、この仮定に関しては、私は反対派に回ることになるだろう。

考察2 愛国心について

今度は、自国に対する救済を優先すべきか、あるいは、すべての国に対する救済は公平に行われなければならないか、という問題。
これも、おそらくは(講義ではなされていなかったが)このような分類ができるように思う。
  • 自国への救済を優先する - コミュニタリアン
  • すべてのコミュニティに対する救済は平等とする - カント・ロールズ
前者に対しては、単なるえこひいきなのではないかという批判がある。また、後者に対しては、属する共同体から享受している恩恵を無視しているという批判がある。
さて、私自身について考えてみれば、これはずっと後者の意見を採っていたのだが、つい最近になって、前者の意見におおかた与することにしている。
これは昨今急激に盛り上がっているナショナリズムの影響などではなくて、単純に、自分の生まれ育った街に久しぶりに帰ったら、思いのほか、当地が自身の価値観形成に多大な影響を与えていたことに気づいたからである。生まれ育った場所が嫌いだったからそこを離れたというのに、離れてその大切さがわかったという、ありきたりな経験。しかし、ありきたりであっても、実際に経験してみなければ実感できないというのが人間。
なお、話は戻るが、上記分類のうち、後者の立場を取っていた聴講者は、「日本人と外国人が危機に瀕していたらどちらを助けるか。ただし一人しか助けることができない」というサンデルの意地悪な質問に対して、迷った末に「より貧しい国の国民を助ける」という回答をしていた。これはロールズの格差原理ではなかったか。たしか、困窮している人間を助ける目的に限っては、差別は最低限認められる、という考えだったような記憶があるが、どうだろうか。

考察3 オバマは原爆投下の責任をとるべきか

さて、共同体、コミュニタリアニズムとくれば、きまって「過去の世代のあやまちを、現在の世代が謝罪すべきか」という問題が出てくる。要約するに、「世代を超えた道徳的責任の問題」。これも「本家」の方でやっていた記憶がある。
この問題に対しての賛成派/反対派の意見は次のようなものだった。
反対派:
いつまで過去の謝罪をすべきなのか。

賛成派:
相手の痛みがなくなるまで謝罪は行うべきである。われわれが現在生きているのも、過去の世代の行為の結果という見方もできる。自身に有利な点だけ引き受けるのではなく、不利な点も引き受けるべきである。
また、反対派からは、「次の世代に対しては、知識を引き継ぐ義務はあるが、あやまちの責任を引き継ぐ義務はない」という意見があったが、これに対し、次のような批判が出た。
文化は連続しているもので、「過去のもの」と切り離すべきものではなく、つねに現在の問題なのである
これなんかは説得力がある意見だった。また、
(一般的に)問題は、加害者の視点を採るのではなく、被害者の視点を採るべきである
という意見も興味深かった。
そして、かなり衝撃的な質問。
原爆投下の責任をオバマ合衆国大統領はとるべきか?
私自身としては、誰かが発言していたように、未来を志向するために、過去を区切るために、謝罪をすべきだと考えている。ただ、戦争勝利国は謝罪をしない(しなくてもよい)という現実もやはり納得できる。
両者を天秤にかけた場合、哲学的な問題としてではなく政治的な問題としてとらえると、責任をとるべきだとは思わない(哲学的にとらえれば、オバマは謝罪すべきだが、強制できるものでもない、と考える)。
この問題は、どちらかというと、政治的な意味合いが強いように感じる。

すべてを終えて

これで、ハーバードの講義と東大の講義のすべてを視聴し終えた。
一番はじめにこの講義を視聴し始めたとき、私はできうる限り公正であろう、フラットに考えるようにしよう、と努力していた。しかし、最終的にコミュニタリアニズムという考えを学んだ以上、フラットに考えることが絶対的な公正な態度なのではなく、それもまたある問題に対するひとつの姿勢にすぎない、ということを知ることができた。
決して主義主張に陥ってはいけない。己がなんとか主義者であるとはまず思わないで、真摯に問題に向き合うべきである。物事の考えに古いも新しいもない。大昔のアリストテレスの考えがまだ活かされていることを思えば。
ある人がその問題を真摯にとらえているならば、その意見は絶対に傾聴に値するということを念頭に入れておくこと。耳を傾けた上で批判を行う。
サンデル教授が言うように、哲学の問題というのは、おおよそにおいて解決は見られない。だからといって無価値なのではない。考えに考え抜いてひとつの結論に至ったとき、われわれは最初よりずいぶんと遠くまで来ていることに気づく。
哲学は金を儲けるための手段にはならない。遠くまで連れてきてくれたからといって、そこでビジネスモデルへの閃きが得られるわけでもない。ただ、世界の見方が少し変わるだけである。
だが、その「少しの変化」が至高のものだと信じている者は、私以外にも少なくはないだろう。

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考察 #1

「ハーバード白熱教室@東京大学」が放送された。
日本で白熱した議論が期待できるとは思わなかったが、一応見た。
私の「聴講」のスタイルは以前と同じ。テレビの前で紙とペンを用意し、Wikipedia やその他いっさいの情報は利用せず、学生になった気分でメモを取っている。だから当然間違いもあるだろうが、それはあまり問題としていない。
講義の前に、いまやアイドルばりに(一部で)人気のあるマイケル・サンデル教授が演壇に立ち、「ヨウコソ、ハクネツキョウシツヘ」と片言で述べたところで大拍手。やはりアイドル扱い。まあ、それはそれとして。
さて。講義は1884年のミニョネット号の話から始まる。遭難した三人の船員(船長を含む)が衰弱した給仕の男の子を殺して食べて生き長らえたという例の話である。
これは本家本元のハーバード大学で議論されているのを見たので、わりあいにわかりやすく議論を聞いていた。
擁護派は、「全員死ぬより、一人が死ぬことによって他の者を救えるし、また、助かった人間の家族も喜び、結果、より多くの人間の幸福を生み出すことになる」という功利主義の理論で、船長以下三人を擁護した。
一方、反対派は、「身寄りのない少年、リチャード・パーカーの基本的人権を踏みにじっている」ということで道徳的な批難を行った。ここで言う「基本的人権の蹂躙」は、少年の同意がなかった場合について言っている人がいたが、いやそうではない、たとえ同意があったとしても、人間は自身の命を抛棄することはできないのだ、と主張する人もいた。後者はつまりカント的な考えに拠っているのだろう。
私は自殺擁護論者なのでその考えには納得はできないが、大本のところでは、カント的考えに賛同する。すなわち、少年を殺すことは道徳的に批難すべき行為だと思っている。
前にも書いたことだが、功利主義のように数の論理で人間の生き死にまでをも論じてしまうことに、大きな不安を感じる。それを私は「不条理の不快」と表現し、さも偉そうに自分の考えのように書いたが、のちにそれはロールズの「無知のヴェール」という概念に近いのではないか、ということに気づいた。
いまうろ覚えにそれを思い出すと、人々が原始的状態において自分の姿や能力、それに地位や収入を見えないようにヴェールを被されてしまえば、つまり、自身が先天的および後天的に付与された環境について不可視の状態にあれば、誰しも公平性を望むのではないか、という考えだったように思う。
これは後述するし、「ハーバード白熱教室」で特に得心した考えなのだが、「『現実的なこと』を消極的ながら受け容れる」という意見の人間は、だいたいにおいて恵まれている場合が多いということが、この「無知のヴェール」という仮定によって批判されているようにも思う。
話を戻すと、多数決で自分の生死が決まってしまうというシステムに不安を覚えない人間はいないはずだ。そうでなければ、自身が迫害される場合におけるファシズムやナチズムを容認するということになる。
だから、功利主義には一定の効能をもちろん認めるが、こと生き死にについては効力を有しないと私は考える。
一方、少年の同意があり、しかもその同意がきわめて正常な心理状態で発された場合には、少年を殺害し、その屍肉を食べるということは考えられないことでもない、と私は思う。
おそらく、直観的に自分の生命くらい自分の自由にしていいだろうと感じているところが私にはあるからで、「自分の生命をコントロールする権利はその個人にはない」と言った場合、単純に「それではこの命はいったい誰のものなのか?」という疑問がすぐに湧く。
その答えを、神とか、あるいは「家族や友人」というのには欺瞞を感じる。そういう人たちは、自分の意志でこの人生を生きているという思いはないのだろうか。ただ何者かによって生かされているとしか感じていないのだろうか。
「東大版」で少し興味深いと思った意見は、
「少年がもしも助かった場合、やがて家族を作る可能性があるので、彼を殺すことは未来の家族の幸福を奪うことになる」
というもので、これはまあちょっとSF っぽさもあるのだが、面白いとも思う。
「未来の家族」という表現にもう少し汎用性を持たせれば、「未来の家族」になる可能性を持つ人間は、人類ひとりひとりにあり(たとえ男でも、その姉/妹/娘がリチャードと結婚すれば家族になる)、敷衍させれば、人類全体がリチャードと家族になる機会・可能性を失った、ということもできるのかもしれない。すごく壮大な話になってくるが。

考察 #2

さて、議論は貧富の差についての正義に移っていく。
自由市場経済においてならば、所得や富は公平に分配されている、というのがリバタリアンの考え方で、すべての経済的事象(所得や富の分配もおそらくこれに含まれる)は市場の原理に従うべきで、そこに国家の介入を許すべきではないとする。
それでは、本当にそれは公正なのだろうか、ということでサンデル教授が好例を持ち出す。
まず、日本の教員の平均年収は400万円で(実際にはドル換算で話は進んでいたが、日本人としてはやはり「円」の方がピンとくるので、円で話を進める)、それに対し、野球選手のイチローの年収は15億円で、アメリカ合衆国大統領、バラク・オバマの年収は3,500万円だという。
はたしてこの金額の差は公正なものといえるだろうか、と彼は問うた。
結果から言ってしまえば、ここでの意見の分裂もハーバードでのそれとたいした違いはなかった。すなわち、公正だと見なす側は、「野球は重要な娯楽であり、それによって人々は楽しんでいるのだからその価値は充分に見合うものだ」とか「これも結局市場の原理によるもので、野球を楽しむ人たちがそれに対価を支払い、そこからイチローの給与が生まれているのだからそこに不当なものは見当たらない」などという意見を出した。
一方、それを公正ではないとする人たちは、「イチローの仕事は15億円という対価に見合うものではない、合衆国大統領の仕事に較べて重要性はない」とか「野球はそれを楽しんでいる人にしか影響を与えないのに対し、合衆国大統領にはそれ以上の影響力があるので、その金額の差には不当を覚える」などという意見が出された。
ここから課税の問題へと話は移っていくのだが、ここで私が気になったことを少し挟む。
私はイチローのとんでもない年収をちっとも不当に感じていなかった。なぜならそれは誰かが発言したように、野球という娯楽の中で生まれた「正当な対価」であり、その金額の多寡にたいした意味を見いだせないのだ。
たとえば日本でクリケットの一流選手がいたとして、その選手の年収が300万円だと知ったとして、その選手の技術を安っぽいものだと思うだろうか、ということだ。
金額というのは物事の一面をしか評価できない(まったく評価できないわけではない)もので、たとえば日本で一番価値のある音楽を「およげ! タイヤキくん」だという人は、ポニーキャニオンの昔の社員以外にはいないだろう。
イチローが15億円もらおうと、それは15億円の対価を支払える産業(スポーツも産業の一種だ)の中で15億円の価値を生み出す技術を磨いた、ということに過ぎないのではないか。「たかが金」ということを言いたいわけではない。300万円と15億円というのは多寡の問題でしかないと言いたいのだ。
本当の問題は、所得の多寡ではなく、課税であり、再分配の仕組みであり、ここにおいて、ようやく人は公正であるか否かを問えるのだと私は考える。
課税については、リバタリアンが「国家は市場の原理まで介入することはできない、それは基本的権利の侵害である」と主張する(日本でそう考える人間はそう多くはなかったようだ)。それに対して「国家は課税を行ってそこから貧しい人たちを救う義務がある」という反論が挙がる。つまり課税を論じるということは、国家の役割をどこまで認めるべきか、という問題なのだ。
以前にも述べたように、私はもう無条件に、ある程度の課税を認めている。国家のサービスの恩恵を受けている以上(つまり意図的にすべてのサービスを拒否していない以上)、課税に従うのは市民の義務であり、共同体の他の構成員と助け合うための有効なシステムと考えている。
しかしまあ、課税を強制と見なす考え方は少し理窟のための理窟のような気がして、その考えを実践するのなら、その共同体を出てみればいい、というのが本音ではある。
さてここで経済の格差についてを論じるために、ハーバード大学でも議論された「入学資格」についての是非が採り上げられる。
仮定はきわめて簡単。東京大学の合格点数にいささか足りない生徒の両親が、学校に数十億円寄付する用意があると申し出たとき、東京大学の事務局はどのような態度を取るべきかという問題である。
はっきりいって、目新しい意見はなかった。「程度の問題」として裏口入学を認めても構わないと言う人がいれば、「教育を受けられるというのはそれまでの努力の見返りである」ということで、不正だと見なす人もいた。「努力をした人物に相応の教育を与えるという大学の目的と合致しない」として批判する人もいた。
一点、なぜかこの講義の中でやけに目立った功利主義の男の子が「公平ではない」と発言したことで会場は盛り上がった。彼が言うには、
「東京大学が公立の大学であるということを忘れてはならない。公立の大学が、一部の学生を学力ではなくその家庭の経済力をもって入学させてしまうのであれば公平性は失われ、そのことによって社会全体に与える不利益を考慮するに、功利主義観点から見て公正ではないと思う」
サンデル教授は面白がって、「いやきみは、きっと金をつり上げれば納得してくれるはずだ。いくらだったら認めるのかね?」と言ったが、それにも彼は屈しなかった。
「いいえ、金額が高くなればなるほど(入学が認められるというのなら)不正の度合いは高まります」

まあ、私からするとここらへんは余談の域にあった。どうにも二番煎じという気がしてならなかったし、だいいち、発言者のほとんどが発言するということに不慣れな印象を得た(きっと私もそうなんだろうけど)。おそらくハーバードの大学生たちは、中学・高校の時代からディベートに慣れているのではないかと想像する。日本もこれからなんだろう。
私が気になったのはある人の意見だった。「東大が国立大学とはいえその家庭が比較的裕福であるということを忘れてはなりません」という趣旨の発言をした人だ。
サンデルによる補足によれば、東大入学者の家庭の平均年収は約900万円だという。まあそれはだいたい知っていたことだが、問題は上記発言者の次の意見だった。
「私は(裕福な家庭の出身者が東大に多いという事実に対して)それを公正ではない、とは思いません。それが現実なのだ、というふうにリアリスティックに考えています」
上に書いたように、このように発言するのは基本的に有利な立場にいる者が多い。それは「ハーバード版」の「実力主義」についての議論でのサンデルの意見(それとも他の哲学者のものか?)で、「努力をすればなんでもできる」と謳う者のほとんどが、初めから恵まれた条件にある場合が多いということをいささか批判的に指摘していた。
私もそう思う。というのも、つい数年前まで私もそんなふうに考えていたからだ。
私は、自分がかなり不遇で、それなのに己の努力である程度の結果を示してきた、と自負していたところがあったのだが、それはまったくの勘違いで、私はかなり恵まれた立場にあったのだがそこに目をつむっていたことに、最近気づいた。
もちろんこれらは主観的であり相対的なものであるので、「正解」というわけではないのだが、自分が恵まれていたと考えることで、かなり腑に落ちたところがあったのは事実。
つまり、私は上記発言者に、強い欺瞞を感じ、ずいぶんと不快になったのだ(きっと同属嫌悪だろう)。まあ「それが現実ってもんなんだ」と言ってしまえば、(村上春樹もよくそんなことを言っているし)なんだかクールに響くかもしれないが、村上春樹は未だにそのガキっぽさから抜け出せていない、ということをここに強く記しておきたい。
自身の欺瞞に気づかないでいるというのは、きわめて正義という概念から遠いように思う。

補足

元来、哲学というものは自分で一から考えるものでなければならない、と私は思っている。よそから与えられた思想をほいほいと受け容れるだけならまだしも、それを振りかざしてしまうのにはどうも違和感を覚える。
先日の「ハーバード白熱教室@東京大学」では、「わたしは功利主義者だから」という発言が見られたが、これはちょっとおかしいような気がする。
彼が純然たる意味における功利主義者(=研究者あるいは哲学者)であれば、上記発言も首肯できるが、なにかをかじっただけで「おれ、功利主義者だわ」と思い、そしてそのように発言するというのは浅慮に過ぎるのではないか。
なにか問題が生じたときにすべてを一から考え抜き、そして結論を用意すべきなのであって、予め用意してある原理をいかに適用させるかに心を砕くべきではないのだ。
そこらへんが、面白い解答が少なかった理由のひとつなんだと私は考えている。
次回は「戦争責任を議論する」 という議題のようだ。

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東京から帰ってきた次の日にはもう読み終えていた「いま話題のベストセラー」。近くの本屋ですらちゃんと平積みされてあって、ブームであることはわかっているが、それでもやっぱりこのような本が売れている=興味を持たれているということはいいことのように思う。
ブームといえば、去る8月25日にサンデル教授が東大の安田講堂で講演をしたらしく、その模様がNHK の朝のニュースで少し触れられていた。この盛り上がり方は異常なようにも感じられるが、それでも結構。正しいことや美しいことを平気で議論できる場を作っていくべきなのだ。
本書では、功利主義、リバタリアニズム、カント・ロールズの自由主義を批判したうえで、最終章でコミュニタリアニズム(共同体主義)を紹介している。
コミュニタリアニズムは、(私の理解した範囲で)簡単に言ってしまえば、人間は属するコミュニティ(共同体)に基づいて正義や善を考えていくべきだ、という考え。
カントやロールズは、「善」については中立の立場を取る。ひとつの「善」が存在すると考えるとが誰かの自由を阻害する可能性があるためで、(属する人間の数だけ価値観も存在するという)多元的社会では善と道徳は切り離されて考えられるべきだ、と主張する。
これに対し、コミュニタリアンは、「善」と道徳を切り離すことは誤っていると考える。誰の自由をも阻害せず、かつ社会・共同体全体が幸福になるための善を希求することは正しいことだという主張は、直観的に正しいことのように見えるが、しかし、現実問題として考慮すると、その議論には少し戸惑いを覚えてしまう。
残念ながら、本書では「コミュニタリアニズムの真髄」というものまでは見られなかった(ように私には感じられた)が、それでも、文字通り「これからの正義」を考えていく際には、決して無視できない議論であろうし、今後の道徳論の中核を担うものであろうということは素人である私にもなんとなくわかった。
さて、いろいろとヒントや示唆を得ることができた本書だが、最終章に出てくるこの引用文をここに記載しておきたい。
アメリカのGNP(国民総生産)はいまや年間八〇〇〇億ドルを超えている。だが、そのGNP の内訳には、大気汚染、タバコの広告、高速道路から多数の遺体を撤去するための救急車も含まれる。玄関のドアにつける特製の錠と、それを破る人たちの入る監獄も含まれる。セコイアの伐採、節操なく広がる都市によって失われる自然の驚異も含まれる。ナパーム弾、核弾頭、都市の暴動で警察が出動させる装甲車も含まれる。それに……子供たちにオモチャを売るために暴力を美化するテレビ番組も含まれる。それなのに、GNP には子供の健康、教育の質、遊びの喜びの向上は関係しない。詩の美しさ、結婚の強さ、市民の論争の知性、公務員の品位は含まれない。われわれの機知も勇気も、知恵も学識も、思いやりも国への献身も、評価されない。要するに、GNP が評価するのは、生き甲斐のある人生をつくるもの以外のすべてだ。そして、GNP はアメリカのすべてをわれわれに教えるが、アメリカ人であることを誇りに思う理由だけは、教えてくれない。
まるでカート・ヴォネガットの小説の一節のようだが、これは、1968年3月18日、民主党の大統領候補者指名を目指していたロバート・F・ケネディがカンザス大学で行った演説。
このときから四十年あまりが経ったわけだが、アメリカは変わったのだろうか。そして、世界は変わったのだろうか。

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いよいよ「ハーバード白熱教室」も最終回。
これまでにいろいろな哲学者たちの考える正義というものが呈示されてきたが、今回はマイケル・サンデル教授自身が正義というものを示していくという。
彼は二つの問いを行った。
  • 正義の問題を論じるとき、善と無関係でいられるのだろうか?
  • 善を論じる方法はあるのか?
彼は上記の質問の双方に対してYes と答える。
その前に、モンテスキューの面白い言葉が引用された。どの文脈で引用されたかは忘れたが。
本当に有徳な人は、もっとも遠いところにいる人にも、近くにいる友人と同様の迅速さで駆けつけることだろう。
本当に有徳な人に、友人はいない。
いづれにせよ、正義を論じる際には、善の議論を回避することはできない。だが、その方法には細心の注意を払う必要がある。なぜなら、特定の文化に根づく善を正義とした場合、正義は「環境の産物」となってしまうからだ。これは善を相対的に取り扱うことから生じる弊害である。そうではなくて、人類を前進させる善を正義としなければならない。だが、多元的な価値観を認める社会では、善を決定することは不可能(自由への侵害)。それでも、善を論じる方法はあると教授は言うのだ。

同性結婚を認めるか否かで学生たちの意見を求めた。
反対派のカトリックの学生は以下のように述べた。
セックスの第一の目的は生殖であり、社会制度としての結婚はテロスの表明であり、結婚への許可はそれに名誉を与えるものだ
一方、賛成派の学生は以下のように述べた。
多元的社会であるため、国家が一宗教たるカトリック的観点における価値観に基づくべきではなく、国家は、結婚やその他のテロスに対していかなることをも許可すべきではない(中立であるべきだ)
マサチューセッツで起こった「結婚の枠組みを同性にまで拡大せよ」という訴訟が起こり、そこでマーガレット・マーシャル裁判長は以下のような考えを示した。
多くの人たちは同性愛行為を批判するが、その一方で、その資格を認めるべきだと考えている
すべての民事婚には、愛し合う二人と国家の三人が関与し、国家が結婚を認めるということは、新たに誕生する家族への称讃を意味する
結婚の目的は生殖にあるのではなく、パートナーのお互いに対する恒久的な約束がその本質的な目的なのである
いつものように、引用は適当。ここらへんでメモが錯綜しているのだが、つまりサンデル教授が言いたかったのは、多元的社会においてできるだけ中立であろうとするはずの国家においてでさえ、ひとつの善・テロスを示さざるを得なかった場合もあるということではなかったか。
本当に中立な国家・政府であったなら、(個々人の結婚は自由意思によるもので国家と無関係であるから)結婚の機能制度を廃止するだろうが、そうではなく、国家・政府は、なにかについて合法・違法の判断をすることによって、その社会がどのような信条を正義とするかを示すのである。
善を論じる方法に、あるいは正義や権利、善き生について論じる方法に、唯一の原理はない
とサンデル教授は言う。彼は、ソクラテス的対話の方法(ロールズの言う「反照的均衡)を用いて正義と善の問題へ取り組む態度を呈示する。そして、ロールズの
正義の観念は自明ではない。それは、多くの考察に支えられ、整合性を得た場合に正当化される
という言葉を引用し、更に次のように付け加える。
多元的な社会において価値観の相違がある限り、議論を通じて判断と判断の根拠となる原理を行き来し、関わりあい、学び、他人の意見を拝聴し、そしてそれに挑み、ときには自身の意見を修正していくことによってのみ社会における様々な善を理解できるようになる
これはまさしく哲学者の正しい態度であり、原理主義者に対する警鐘でもあろう。哲学とは、ひとつの問題に対してある定義を適用するだけのテクニックを言うのではなく、とことんまで考えつづける態度を言うのである。簡単に答えが出ないことも往々にしてあり、ときには死ぬまで考えつづけることもあるかもしれない。だがそれでも考えつづけるという行為をやめないのが哲学者なのだ。
最後に教授は言う。
たしかにわれわれはひとつの到達点にまで達したかのように見える。しかしそれはまた、新たな道のりの出発点でもある。
この講義の最初の回に、私はカントの言葉を引用し、「懐疑主義は一時の休息所にはなり得るが、それは永遠のものではない」と伝えた。懐疑主義では「理性の不安」を解消することはできないのだ。
もしこの講義によってきみたちの「理性の不安」を目覚めさせることができたとしたら、われわれは大きな成功を成し遂げたと言うことができるだろう。ありがとう。
解説の小林教授が言うようにこの言葉は実に感動的だった。私は「考察」することもできずに、特に後半はメモの列記に終わってしまったが、次は「これからの『正義』の話をしよう」を読みながら諸問題について考え整理していこうと思う。また、その際に課題となってくる書籍にも目を通さなくてはならないだろう。「忙しい」とよく口にしてしまうが勉強する時間は死ぬまでたっぷりとあるはず。
なお、サンデル教授が今年の八月に来日して特別講義を行うらしい。詳しくはNHK のサイトから。「我こそはサンデル教授と正義について議論したい」という人はどうぞ。

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考察 #1

さて、ハーバード白熱教室もあと二回を残すのみ。「考察」と謳っているが、今回も結局は考察に至ることができず、おそらくメモの列記に終わるだろう。対して、実際に受講している学生たちはよく勉強している。さすがハーバードといった感じ。まず、サンデル教授はカントによるアリストテレスの批判を紹介する。
アリストテレスの言う「善き生」とは重要ではあるが、(多元的な認識を認めず)法律や制度によってそれを特定してしまうと自由を侵犯してしまうおそれがある
ここで自由について、アリストテレスとカントの考え方を挙げる。
アリストテレス
  • 人間はその適合性を理解すれば自由である
(自己にふさわしい生を見つけることができれば自由な生を生きることができる、ということか)

カント
  • 自分が自分に対して法則を与えること、すなわち自律的であれば自由である
(人間は自ら選択しない限り、いかなる道徳的つながりにも束縛されることはない)
ここでコミュニタリアニズムという考え方が登場する。これはサンデル教授の思想でもあるらしい。アラスデア・マッキンタイアという政治哲学者(?)がいて、その人の考え方に「自己の物語的な観念」というのがある。これはメモしきれなかったのだが、おそらく次のような概念だと思う。
人間は特定の社会的アイデンティティーの一員として周囲とつきあっているが、属するコミュニティによって負荷を受けることが、道徳的出発点である
つまり、自分が誰かと考えるとき、その属するコミュニティの歴史や文化を無視することはできないということである。
コミュニタリアニズムの立場では、「義務」には三種類あると考える。普遍的な義務、特定の義務にくわえて、連帯・忠誠・集団の構成員としての義務がある。
たとえば、エチオピアにおいて飢饉があった際、イスラエルはその中でエチオピア在住のユダヤ人のみに対して救出作戦を行った。これは、ユダヤ人というコミュニティを優先させた結果の行動だが、これがコミュニタリアンの考える集団の構成員としての義務の発露である。

コミュニタリアニズムに対する学生の反論。
連帯による義務を選択すると、個人が複数のコミュニティに属している場合が多いため、義務が競合するのではないか?
つまり、複数のコミュニティに属している場合、それぞれのコミュニティが要求する「道徳的正しさ」が相違する可能性があるのではないか、ということだ。これに対して学生のうちから、「どんなコミュニティに属していたとしても、地球人であるという考え、自分は人類であり、地球の住人であるという広い帰属意識を持っていれば、そのような義務の重複は避けられるのではないか」という意見があったが、上記懸念を示した学生は、「そうではなく、もっと具質的なもの(コミュニティ)を考えなければならない」とし、「たとえば地球人、アメリカ人の前に家族を優先させるような」と付け加えた。
この他、「コミュニタリアニズムは、情緒的にすぎ、それは道徳的なものと言えないのではないか」という反論も挙げられていた。

解説。
マッキンタイアの考え。
コミュニティにおける物語の中で、善き自己を実現していく
サンデル教授の考え。
負荷ある自己/負荷ありき自己
(個人は、帰属する集団の持つ歴史や文化に無関係ではいられず、生まれたときから負荷を有する、という考え)

考察 #2

コミュニタリアニズムの基本的な考えとして、
人間にはコミュニティに対して共同の責任があり、コミュニティは根本的なアイデンティティ形成を担っている
というのがあるが、これに対する反論はなかなか尽きないようだ。
ロールズは「自らの意思で選択する場合を除き、政治的な義務はない」とした。これはアリストテレスやコミュニタリアニズムに対する反論と見てよいだろう。また、反コミュニタリアニズムとして、「コミュニティの連帯義務は、集合的な利己心ではないか」という意見も採り上げられた。たしかに。コミュニティの持っている価値観や道徳観念を優先するあまり、他のコミュニティに対して非寛容的になることはあり得ないのだろうか。そして、「人間が社会に対して自動的に(選択した場合を除き)なにかを負っているということがあってはならない」という反論もある。これは自由への侵害に対する懸念であろう。
#1にもあったが、個人が信奉する正義の原理と、コミュニティの連帯から生じる義務とが競合する場合、どうなるのかという問題もある。これに対し、サンデル教授はいくつかの例を挙げた。その中で印象的なものを。
マサチューセッツ州議会議長のビリー・バルジャーは、その弟が指名手配犯であるが、州警察から弟の情報提供を求められたとき拒否した。
これは孔子の論語の中にも同じような話がなかったか。
誰かが言った。「わたしの村の正直者(徳のある者?)は、自分の息子が罪を犯したとき、それを役人に突き出しました」と。これに対し、ある者が言った。「わたしの村の正直者(徳のある者?)は違います。自分の息子が罪を犯したときには、息子を匿います」 と。こんなような内容。もしかしたら混同があるかもしれない。荘子だったか。
人類愛的な感情よりも、愛国心や属するコミュニティに対する忠誠心が、そしてそれよりも家族の連帯感情が優先されるというのは、直観的に得心がいくものだが、さてそれが本当に正しいことなのか。私の理解はピント外れではあろうが、コミュニティに対する共同の責任がありそこからアイデンティティが発生しようとも、そこに存在する特定の道徳的価値を無批判に信用してはいけないのではないか。そして、それを信用する際の根拠がそのコミュニティに属するから、というだけでは判断および思考の停止とはいえないだろうか。
1950年代の人種分離主義者(南部人)のインタビューを扱ったドキュメンタリー「獲得すべきものを見つめて」が流れた。この中である南部の白人は「自分たちのしていること(白人と黒人を差別すること)は非難されるべきことなのかもしれないが、自分たちはこの生活様式を守っていきたい」と述べていた。これは、特定の文化に根づく正義が道徳的に正しいものとは限らないというコミュニタリアニズムに対する強い反証となる。さて、これをコミュニタリアンたるサンデル教授はどう反論していくというのか。
次回は最終回。「善き生を追求する」

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考察 #1

はっきり言って、「考察」なんてご立派に謳っているが、要はNHK 教育の「ハーバード白熱教室」を「聴講」し、そのメモを作っているに過ぎない。それでも当初はいくつか考えを差し挟む余地はあったのだが、講義の内容が深化していくにつれ、メモを取るのに必死で、そのメモも追いついていない。
さて、前回からのつづきで言えば、現代では、正義・権利の概念は、美徳・道徳と切り離されているという問題があって、サンデル教授はアリストテレスのお出ましを願った。
アリストテレスは、目的論なしで倫理や正義、道徳的理論は難しいとする。この目的論、目的が先にありきでそこから論理を組み立てていくもの、と理解しているが、具体的にイメージしにくい。前回の講義で教授が「くまのプーさん」を例にして語った内容は理解できたが、教授も指摘していたように、下手をすればかなり幼稚な論理となろう。
アリストテレスは、収入・財産についてではなく、地位や名誉について分配の正義を目的論に基づいて考えた。そんな彼は、政治を、
善い人格を形成するもの、市民たちの美徳を高めるものであり、善き生をもたらし実現させるもの
と定義した。
彼によれば、真のポリスとは善と正義をその市民に与えるべきものであり、社会的制度というものは、その手段に過ぎない。そのため、
善を追求する集団に最も貢献する者に、最も優れた地位を与えるべき
で、そして市民は、ポリスで生活をし政治に参加することで、本質的な人間生活を送ることができるとした。この他、目的論的論法に基づいたアリストテレスの考えが列挙された。
  • ポリスは政治的共同体であり、自然発生し、個人に優先する。時間的に優先するのではなく、目的において優先するのである
  • 幸福とは美徳に基づいた魂の活動である
  • 美徳とは実践し、自ら行動することによってのみ得られる
  • 必要な習慣を身につけて徳を高めて議論する。これが政治の究極的な姿である
  • 美徳を持つ者を選んで名誉を与えることは、政治の目的のひとつである

考察 #2

ケーシー・マーティンというプロゴルフ選手は、歩行に困難する障碍を抱えていて、PGAが主催するツアーにおいて、カートを利用させてほしいという申請を行ったところ却下され、訴訟を起こした。
例によって学生たちの意見を聞く。PGA擁護派の意見。「ゴルフコースを歩くことは、ゴルフというスポーツの本質であるから、歩くことができないのであれば試合に参加する資格がない」
つまり、他の選手はみな歩くことによって「相応」の疲労をしているというのに、マーティンはカートを使うことによって不利を回避することができる。これは公正ではないということだ。
一方、マーティン擁護派の意見。「歩くことはゴルフの本質ではないから、マーティンにカートを使う権利を認めるべきである」
私もこの考え。というより、ゴルフという競技にとって、歩くことが必須の要件だとは思えない。
最高裁の出した結論も、やはり歩くことはゴルフの本質ではないということだった。ただし、スカリアという判事だけは「ゴルフには目的などない」という考えを主張したようだ。彼は次のように主張した。
ゲームの本質は、娯楽の他に目的がないことで、これがゲームと生産的な活動の違いである
サンデル教授は、この考えは非常に反アリストテレス的だと言う。そして、アリストテレスはこの問題を名誉の問題として考えるだろうと言った。つまり、
ゴルフの目的は人々に娯楽を与えるものだけではない。卓越した技術や美徳に対して名誉を与えるものである。だからこそ、スポーツの目的は重要である
アリストテレスは、
正義の議論には、目的と名誉の要素が不可欠である
とした。そもそもアリストテレスは、目的論によって「社会的実践の目的」を論じ、分配的正義によって、「名誉に値する資質」を論じた。彼はまた、
正義とは適合性の問題である
とも定義した。しかし、ロールズが「目的論によって正義を論じると基本的人権が脅かされ、自由の余地がなくなるのではないか」と懸念したように、アリストテレスの言う「適合性」(=ある人間はある地位において最もふさわしい)には、自由を阻害する可能性がある、という反論がある。
事実、アリストテレスは奴隷制を認め、しかも擁護を行った。彼によれば奴隷制が正義にかなうための条件として、以下の二つが挙げられるという。
  1. 必要性(社会にとって必要) ― 善や政治を論じるべき人間たちが、肉体労働をしなくてもよいため
  2. 適合性(奴隷にふさわしい人間が存在する)
このうち2. については、当時から反対派がいたようで、奴隷になっている者の中には、奴隷にふさわしいということだけでなく、戦争で捕らえられた者もいる、という反論があったようだ。
学生からも、アリストテレスについての反論があった。「目的論的論法では同意を得ることができない」ということで、これを浅薄な理解で換言すれば、目的論とは最終的な目的が予め存在しているという考え方なので、多様性や個人の自由を認める社会では同意を得ることができない、ということになろう。サンデル教授によれば、カントやロールズらも、多元的な社会では、特定の善について同意できないとしているらしい。
しかし、次回以降、ついにサンデル教授自身が目的論を用いて奴隷制を否定する議論を展開し、正義の問題を道徳と切り離さずに論じていくことになるらしい。
いよいよ正義とはなにか、公正とはどういうことであるかということについて、教授自身の考えが述べられていくことになるようだが、こちらの理解もいよいよ追いついていかずに困っている。
次回は「愛国心と正義 どちらが大切?」

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考察 #1

入学資格について議論することなんてあるのだろうか、と私は考えていた。入学というのは大学入学であるということはわかっていたが、そこに議論の余地があるというのだろうか。結論から言えば、そこには大きな問題があるのだが、私がそれを気づかなかったというのは、その議論の多くはアメリカという国の文化・環境に根ざしたものだったからだろう。
アメリカの大学入学には、「アファーマティヴ・アクション」(積極的差別是正措置)と「レガシー・アドミッション」というのがある。
前者は、入学試験において入学を許可されるには学業成績によってのみ判断されるのではなく、人種や出身地域の環境をも考慮して判断されるというもので、その理由は後述する。
後者の「レガシー・アドミッション」とは、入学希望者の親が、希望する大学の卒業生だった場合、そのことが入学試験において有利に働くというもので、これを公然のルールとしている大学は多いようだ。「公然のルール」というのは、「暗黙のルール」ではないということ。つまり正式に謳われている規則だということ。ちょっと日本人には信じられないような気がするが。
さて今回の講義は「シェリル・ホップウッドの訴訟」から始まる。例によって内容は不正確、メモが切れた部分は想像力で補っている。
テキサス大学ロースクールの入学試験では人種や民族的バックグラウンドを考慮して入試選抜を行っており、白人であるホップウッドは同校の試験を受けたが不合格だった。ホップウッドはその結果に納得がいかず訴訟を起こし、試験結果と合格者の成績を開示させたところ、ホップウッドと同得点を獲得した黒人受験者が合格していることが判明した。これがこの訴訟の経緯。さて、この大学側の判定は公正といえるのだろうか、というのが今回の講義の争点。
ホップウッドを支持する学生の意見。
ホップウッドの入学が認められないのは、主に恣意的な要素(白人であること=自分ではどうしようもないこと)に支配されているので、公正ではない
これに対する反対意見。
マイノリティは往々にして劣悪な教育環境にあり、それは是正されてしかるべきである
これは非常に難しい問題だと思う。白人のホップウッドからすれば学業成績の悪い黒人を有利に扱うという大学側の措置を逆差別だと感じるだろうし、黒人たちからすれば、(おそらくは)貧しい経済環境における努力を認められたと感じるだろうから。

私が「公正」という言葉を考えるとき、強者はある程度我慢を強いられ、弱者はできうる限り優遇されるということをすぐに思い浮かべてしまうが、それが本当の公正さなのだろうか、という疑問もたしかに存在している。フェミニズムを女性優遇として主張をする人は多いだろうけれども、私はそれを「男女平等」とは思えない。そういうことと似ているのだろうと思う。
ただ、公正さという言葉に、もうひとつ「正義」という概念を付け加えると、少し考え方を変えることができるのではないか。少なくとも私は幾許か自由になれる気がする。正義という観点から物事を捉えると、私が『殺人に正義はあるのか?』の考察 #4で言及した「不条理への不快」(不平等に扱われることの恐怖)から一歩進んで考えることができ、人間のより人間的な選択を可能にするのではないだろうか。
また、別の視点から大学側を支持する学生の意見もあった。
アファーマティヴ・アクションは、アメリカが犯した過去の過ちへのある種の償いである
これに対する意見としては、
現在に生きている無辜の人間が過去の償いをするというのはおかしい。どうあれ差別は不公正である
ここでびっくりするくらいの黒人の美人が出てきて、非常に興味深い表現をした。
白人はこれまで四百年間アファーマティヴ・アクションを受けてきたではないか
会場では大きな拍手が起こった。マイノリティ出身の学生たちのみではなく、正義というものを強く信じる学生たちから自然と起こったのだろう。
彼女はこうも発言した。
アファーマティヴ・アクションは大学内の多様性を促進させる
これだ、と私は感じた。償いという考えが底にあることはわかっていたが、償いという気持ちがある以上、そこには必ず差別が存在しつづける。それは根本的な解決とは言えまい。そうではなく、アファーマティヴ・アクションは多様性を維持するために存在するというとき、それは積極的な意味を持つ。であるから、上記発言に対する「アファーマティヴ・アクションはかえって人種分裂の促進になるのではないか」という批判はあたらないように思う。

考察 #2

アファーマティヴ・アクションを支持する論拠は3つある。
  1. 是正 - 教育的背景の是正
  2. 償い - 過去の過ち
  3. 多様性 - 教育的経験のため、および社会全体のため
1978年のバッキ訴訟という中で、ハーバード大学による意見書が提出されたのだが、その内容が非常に興味深い。
ハーバード大学は多様性を重んじる。ハーバードでは、学術的な優秀さが選抜の唯一の基準であったことは、かつて一度もない。人種は、優れたアメリカン・フットボールの選手と同様にプラスに働く要素である
シェリル・ホップウッドの訴訟において、訴えを起こされたテキサス大学ロースクールの主張は以下のようなものだったという。
当校の卒業生をアメリカ国内の指導者層、法曹界に送るためには、その多様性というものが重んじられなければならない
これがテキサス大学の社会的使命であるというわけだ。なるほどわかりやすい。だが、同校は1950年代にも訴訟を起こされている。訴えられた理由はホップウッドの件と全く正反対。つまり、白人ばかりを入学させているというのだ。
このとき、同校の主張は以下のようなものだったという。
当校の卒業生はアメリカ国内の指導者層、法曹界に進出することになるが、そこで働いている黒人などいない。それなのに黒人を入学させても仕方あるまい
これがテキサス大学の1950年代当時の社会的使命だったわけだ。
ここで、サンデル教授は次のように質問する。すなわち、テキサス大学の90年代と50年代の「社会的使命」の主張に原理上の違いはあるか?
ある学生が面白い回答をした。
50年代の場合には、悪意が存在したのではないか
たしかにそうだ。悪意を、形式上「社会的使命」にかこつけているだけだ。ロールズは、分配の正義は道徳的対価の問題ではないとしているが、それは正しいのか(望ましいのか)と教授は問うている。そこでアリストテレス登場。
アリストテレスの考え。
  • 正義には二つの要素があり、ひとつは物、もうひとつはその物が割り与えられる人である
  • 一般に、平等である人々には、平等に物が与えられる
  • すべての正義は差別を内包する
  • 最高のフルートは、フルートを吹く能力が優れている者に与えられるべきである。それはよい演奏がなされることが、フルートの存在の目的だからだ
なお、ここで「フルートの存在の目的」とあるのは、功利主義者の言う「目的」(いい演奏をすることで、その結果みんなが楽しい気分になれる等)とは異なる。
アリストテレスは、テロス(意義・目的・目標)という概念から論理を組み立てる目的論的論法を唱えるのだが、どうやらそのつづきは、次回の「アリストテレスは死んでいない」で詳しく説明されるよう。
とにかく今回の講義は、大学の持つ社会的使命のうち、特に「多様性を認める社会を目指す」という点が刮目に値した。これこそまさに日本にいるだけでは気づきにくい視点である。

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考察 #1

前回にひきつづきジョン・ロールズの「正義論」が採り上げられている。
正義の原理は仮設的契約から導かれる
ロールズによれば、無知のヴェールの背後にある原初状態にある人々は以下のふたつの原理を選択するはずだという。
第一の原理: 基本的権利の自由をいかなる経済的利益とも交換しない
第二の原理: 格差原理(最も恵まれない人々に便益を与える不平等のみ認める)
もちろん、格差原理でいうところの不平等というのは、フラットに扱うのではなく、厚遇するという不平等を指す。
後からサンデル教授が言ったことをここに補足すれば、ロールズはこの格差原理を選択肢のひとつとして捉えるのではなく、正義であるとし、正義であるために必ず行わなければならないものとした。そしてこのことが社会保障や福祉国家を正当化させる。これは能力主義に対する反論であるが、それは後で出てくるだろう。
さて、上記の格差原理について、ハーバードの優秀な学生の中には反論を持つ生徒もいた。いわく、「なぜ政策や社会制度を、上から決定するのではなく、下からの視線で決定しようとするのか。社会が能力主義を選択すれば、みなが努力し、みなが努力から正当な報酬を得られる。そうすればたとえ恵まれない境遇に生まれたものでも努力をすることになり、その結果、それら最下層というものの底上げにも繋がるだろう」
これに対しては別の学生から反論が出た。「たとえ能力によって適正に評価されるとしても、社会的、文化的、あるいは経済的環境による影響はあるのではないか?」
さて、ここでは非常に重要な話題が取り扱われている。つまり、能力主義は一見、誰に対しても平等であるかのように見えて実はそうでもないのではないかという疑問である。
私はこの講義を見るまでは、「たぶん平等だろう」というように思っていた。そのように思う根拠は、おそらく過去の比較によるものだったのだろう。封建時代に較べれば今は平等・自由だよ、と。ただ、それが完全な平等・自由であるかは深く考えていなかった。
話は戻る。ここでサンデル教授が学生たちに質問をした。
「アメリカの優秀な大学の生徒を対象に、その出身環境を調査したところ、貧困層出身者の割合はどれくらいだったと思う?」
うーん、私はなんとなくわかるぞ。
「答えは、3% だ。それに対し、富裕階級出身者は75%」
だろうねえ。ハーバードは私立だが、東大は国立なのに富裕層出身者が多いと聞く。となると当然、本当に能力主義は万能なのかという疑いが強くなる。
ロールズによれば、
所得や富、機会の分配は恣意的な要素に基づくべきではない
という。たとえば封建的社会に対しては、生まれによって決定されるということは道徳的見地からは恣意的であるとし、これを批判している。
また、機会の自由だけではスタートラインが異なることまではカバーできない(=恣意的である)ということで公正とは言えないとし、「公正な機会均等」を主張する能力主義を批判。能力主義の是正処置として、貧しい地域の学校を特に支援するという試みもあるようだが、これですらロールズは公正とは言えないということで批判する。たとえ経済的環境による不平等を是正しようとも、「才能」という両親による遺伝の問題が残り、これもまた個々人の能力によるものではない=恣意的であると言うのだ。つまり、能力主義は超克されなければならない。
公正さを保つためといって、(共産主義のように)水準を一定にする必要はない。才能や出身環境によって得られる報酬を調整すればいい、とロールズは考える。
恵まれた者は、恵まれない者の状況を改善するという条件のもとでのみその幸運から便益を得られる
これがおそらくロールズの理論の根幹なのではないか。
たとえば、年間3,100万ドルを稼ぐマイケル・ジョーダンは多額の税金を払い、この税金を社会の貧困層の状況改善に用いる、そういうシステムのもとでのみ、彼のずば抜けた所得は認められる、ということになる。
これに対し、学生から反論が挙げられる。「それでは才能のある者からインセンティブを奪うことになってしまう。才能のある者がその才能を最大限に発揮できるのが能力主義だ」
サンデル教授は学生たちに面白い質問を行う。
「きみたちの中で、兄弟のうち第一子という者はどれだけいるだろうか?」
驚くほどの手が挙がる。75%〜80% というところ。
「実は私もなんだ」
それが医学的にどういうことを証明するかまでは教授は述べていない(はず)。だがおそらく統計的にそういう事実(=優秀な学生たちが第一子に多いということ)はあるのだろう。これは後に教授が行う質問だが、引用しておこう。
「はたしてきみたちの力によって、きみたちが第一子であることを選択できたのだろうか?」
ちなみに私も第一子だが、高校の同級生たちを見るに、わりと第二子たちが優秀だったように思う。

考察 #2

分配の正義の理論
  1. リバタリアン - 自由主義システム
  2. 能力主義 - 公正な機会の均等
  3. 平等主義 - 格差原理
ロールズは、1. については形式的な公正でしかないとし、また、2. については前回書いたように、機会の均等だけでは恣意的な要素を完全に排除することはできないとし、それぞれを批判。
サンデル教授は二つの例を挙げる。
ある教師(中学? 高校?)の年収が4万ドルなのに対し、デイヴィッド・レターマンというコメディアンは年収が3,100万ドルだという。また、合衆国最高裁判事の年収が20万ドル以下なのに対し、テレビ番組(おそらくバラエティーだろう)で活躍中というジュディ判事の年収は2,500万ドルらしい。
サンデル教授は学生たちに問う。これらの例ははたして公正といえるかどうか。ロールズによれば、
課税され徴収された税金が最も恵まれない人たちの便益となるかどうかによる
という。

さて、前回で学生が質問していたように、格差原理についてはいろいろと反論がある。これを大きく三つに分けると以下のようになる。
格差原理への反論
  1. インセンティブはどうなるのか?
  2. 努力はどうなるのか?
  3. 自己所有はどうなるのか?
これに対するロールズの反論は以下。

「インセンティブはどうなるのか?」についての反論

インセンティブは不利な条件への効用から認められ、そのバランスが取れればよい。


「努力はどうなるのか?」についての反論

勤労倫理や労働意欲でさえ、自分の功績とは主張できない。また、能力主義の擁護者のうち努力を主張する者は、努力の本質を信じていない。彼らの道徳的根拠は、努力でなく貢献である。

「自己所有はどうなるのか?」についての反論

自然の分配は正義でも不正義でもなく、事実である。正義や不正義は、社会が自然の分配をどう扱うかによる。また、人間は自分自身を所有していない。
ここらへん、メモは残っているが、理解が抜け落ちている。たとえば1. の反論部分の「不利な条件への効用」とはなにを指すか忘れてしまっている。これまで何度も出てきている「恵まれない者への救済という不平等」のことか。
また、3. の反論部分の最後、「人間は自分自身を所有していない」の詳細がわからない。同意に基づいた共同体に所属している以上、公共の福祉という問題は不可避であり、そういう意味(なんらかの協力を提供しなければならないという意味)において自己を所有していないということなのだろうか。
補足だが、2. の反論部分のうち、努力ではなく貢献を道徳的根拠とする、とあるが、これは過程ではなく結果しか見ていないということだろうと解釈した。

ロールズによれば、
分配の正義は道徳的な対価とは無関係であり、これは正当な期待への資格の問題である
という。彼によれば、「努力」と「偶然性」は、恣意的な要因であるという。「偶然性」とは、その人物の才能を重んじる社会に生きているという偶然のことである。
たとえばある人物が才能を有していないことによってその社会で不遇であったとしても、それは単に、その社会が必要とする資質を、偶然、彼/彼女が持っていないということだけであり、彼/彼女の人間の価値が低いということを意味するわけではない。彼/彼女は、あるいは他の社会に行けばその資質によって歓迎されることもあるかもしれない。このように、才能というものは実に恣意的な要因である、とロールズは考え、そして次の言葉を残した。
資質を自分の功績とするのは間違いであり、うぬぼれである
ロールズの考えは、賛同できるかどうかは別として、能力主義の欺瞞を手際よく暴いているように思う。人間がその社会において「成功」するのは、運の要素が多分に強いからであって、その運の良さは、社会の中で調整されてしかるべきのものである、というその考えは、掛け値なしの「平等」そのものであると思う。
たしかにこれをそのまま採用してしまうと、努力の抛棄、無効化を引き起こさないわけではない、ということは容易に想像できる。だが、人間をまったくの善意の生物と仮定したとき、この理論は十全にその効力を発揮するだろう。少なくともロールズの一番最後の言葉は、幸運な人間であればあるほど、よく銘記し、噛み締めておくべきだ。

なお、カート・ヴォネガットの『タイタンの妖女』だったか、平等が完全に実現された世界では、才能のある人間が障碍を持つ人間と同じ条件に立つため、その能力に応じてハンディキャップを身体につけて生活している、という内容の描写があったように記憶している。たとえば足の速い者は足に重りをつけている、というような。
あれは冗談の意も当然込められているのだろうが、ヴォネガットの優しさの表れでもあったのだろう。

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考察 #1

先週来客があったおかげで深夜に再放送を見るはめになった。直前まで仮眠を取っていたおかげで、いつも内容理解に不安があるのに、今回はそれにさらに輪を掛けたものになっている。
これは再確認事項になるが、私はこの一連の考察を単なる私的なメモと考えており、内容の是非や正確さを一々検証していない。なぜなら私は、この考察をひとつの実験の記録として捉えているからである。
その実験とは、「もし私がハーバードの学生だったら」と仮定し、その状態 ―予習や復習をせず、また授業にデジカメやラップトップPC 等のデバイスを持ち込まずに、原始的な方法すなわちノートにペンで走り書きをすることによってのみ授業を受ける― で、はたしてどれほど理解ができるのか、あるいは理解できないのか、ということを試すものである。
この実験の結論は既に出ている観があり、それは「復習は非常に重要であり、また、デジカメであろうとラップトップPC であろうと、持ち込めるものはすべて授業へと総動員させることが重要である」というものであるが、だからといってこの実験を途中で止めるつもりはない。続行させる。
さて、冒頭を見逃したために、ベンジャミン・コンスタンの言葉から今回のメモは始まる。
嘘をつくことを完全に禁止するのは間違っているし、これは道徳的にも認められない
この前の文脈がわからないので少し辟易したが、これはおそらく前回の講義で採り上げられていたカントの考えと対立するものなのではないか。というのもそのあとカントの考えとして、帰結を考慮し始めると(帰結を優先させようとするために)全体の枠組みが崩れてしまうということへの危惧が紹介されていたからである。
ここで非常に興味深い例題がサンデル教授によって提出された。
友達と家で遊んでいるとき、殺人犯が家にやって来て、友達の居場所を教えろと言う。このとき、どうやったら嘘をつかずに、かつ友達を庇うことができるか?
この二つの条件を成立させるには、学生たちが答えたように、「いまどこにいるのかわからない」という一種の詭弁を用いなければならない、と思う。この主張のポイントは「いま」という部分であり、殺人犯と話している最中、友達が視界に入っていないのだから、友達が逃げたのか、あるいはクローゼットに隠れたのかということは、正確には(=本当のところは)わからない、だから嘘は言っていないということになるだろう。形式上論理上においてのみ体裁を整えてはいるが本質的には嘘をついているということが明白なため、この主張が詭弁であるということはすぐに直観されるが、実はカントはこの行為に対してそれほど批判的ではないようなのだ。後述。

1998年のビル・クリントンの発言が採り上げられていた。日本では「不適切な関係」というキーワードで話題になっていた記憶がある。
このときクリントンが「秘書と性的な関係を持ってはいない」と発言したことについて、それを追及しようとする共和党とクリントンの弁護士との形式上の諍いがちらと紹介されていたが、これは日本でもよくあることで、代表的なのは流行語にもなった「記憶にございません」というやつである。
この発言は、一見、厳格な哲学者カントからは認めてもらえないような気がする。なぜならその発言の動機は、理性に基づく義務によるものではなく、あくまでも真実の隠蔽に重きが置かれているから、と普通は考える。ところがサンデル教授によれば、このクリントンの発言に見られるような「誤解を招く真実」は、「明白な嘘」とは異なるという。その根拠とはこうだ。
発言者は「嘘をつかない」ために最大限の努力をしており、その努力の裏には、道徳法則に対する調和へのある種の敬意が感じられる
カントは行為の道徳的な基礎を結果に置かないということも、上記の考えの背景にあるのだろう。つまり、結果としては人を欺くことにはなるかもしれない「誤解を招く真実」ではあるが、「明白な嘘」を避けたいという努力(=過程)に重きを置けばそれは尊重されてしかるべきだということなのだろう。面白いねえ。感覚で物事を考察するのではなく、あくまでも論理の上で思考を展開していく。こういう頭脳を持っていたらなあ、と素直に思う。

考察 #2

カントは正義・権利の原則を生み出す契約は理性の理念に基づくとし、現実的な契約に対し、「仮説的契約」という概念を呈示した。
ここで現代の哲学者ジョン・ロールズが登場。解説の人によればこの人によって現代における政治哲学の復権が為されたのだという。
ロールズもやはり功利主義に批判的であり、
人間は正義に根ざす不可侵性をを持ち、それが揺らぐことはあってはならない
としている。毎回のことだが、引用は不正確。
ロールズの呈示する概念に「無知のヴェール」というのがある。ここらへん、集中力を欠いてしまったために少しわかりにくかったのだが、集合した人々の多様性による差異 ―知識、経験、社会的地位、宗教etc.― をいったん留保することによって生じる公正さのための条件、というところだろうか。そしてこの条件によって仮説的契約が成立する、という流れか?
ともかくも、ロールズによれば、
無知のヴェールは平等の状態を作り出し、不公正な結果を原理的に阻止する
ということらしいので、やはりこれは仮説的契約に関わるものであろう。

「現実的な契約の道徳的効力」として二つの問題がある、とサンデル教授は言う。おそらくカントの考えなのだろう。「いかにして契約によって生じた拘束を負わせるか」ということと「いかにして契約を生み出す条件は正当化されるのか」ということ。
前者の設問に対する解答として、二つの種類がある。「同意に基づく義務」と、「互いの便益に基づく相互性」だ。また、後者の設問に対する解答は、「正当化しない」。これは、同意があったとしてもその内容が正しい、公正であるとは言えないからで、84才の未亡人が雨漏りの修理で5万ドル(?)ボラれそうになった話が紹介されていた。修理の契約には当然のごとく相互の同意が存在したのだが、問題は未亡人が修理の相場を知らなかったということにある。ここから、同意の事実は義務があることの十分条件ではなく、さらに必要条件でもないということがサンデル教授によって強調された。つまりそれらは互いに独立しているということだろう。
一度まとめると、
現実的な契約の道徳的効力に関する二つの問題

Q1. いかにして契約によって生じた拘束を負わせるか
A1-a: 同意に基づく → 義務
A1-b: 互いの便益に基づく → 相互性
Q2. いかにして契約を生み出す条件は正当化されるのか
A2: 正当化しない
というところか。ここに書いた以上の例題や学生とのやり取りがあったのだが全部漏らしている。残念。だが、「一度きり」というルールに則り、このまま。おそらくここらへんのことはほとんど理解できていない。頭の中でしっかりとした整理もできていない。全十二回の講義が終わったあと、時間があればちゃんと本にあたって復習し直そう。なにしろ初めからわかっていたことだが、圧倒的に予備知識が足りず、なおかつ集中力が足りない。
次回は、「能力主義に正義はない?」

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考察 #1

さて。今回は「考察」にまで至れないっていうくらいにメモが追っつかなかった。なにせ、取り扱われる哲学者がカントである。
この講義で基本となっているのが『人倫の形而上学の基礎づけ』という著作らしく、そこでは、
  • 道徳性の最高原理とはなにか?
  • どうすれば自由は可能になるか?
ということが問われているという。
カントによれば(ものすごく不確かな引用になるけど)、
すべての個人は、ある種の尊厳を持っているために尊重されねばならず、なぜなら、私たちはみな、理性的な存在であってその理性を行使することができ、また、自律した存在でもあるから
人間が苦痛を避け、喜びを追い求めているとき、欲望や衝動の奴隷となっており、これはカントの考える「自由」とは異なる。
しばらく引用がつづく。
自由に行動することとは、自律的に行動することであり、また、自分自身で作った法則に従ってこうどうすること
これと反対が他律的であるということであり、他律的とは、
自身が選択してのではない欲望や衝動(傾向性)に従って行動すること
である。そして、
他人の尊厳を尊重し、(功利主義の考えるような)たとえ公共の福祉のためであろうと、他人を利用してはならない
として、功利主義者ジェレミー・ベンサムの「苦痛と喜びはわれわれの最高の支配者である」という考えを批判した。

考察 #2

行動と道徳的価値は、動機で決定し、その唯一の動機が義務である
とカントは言う。ちょっと先回りすることになってしまうが、私の解釈ではこの義務というのは、人間に与えられている理性の能力によって得られるもので、傾向性(欲望や衝動)とは独立して存在するもの、ということになる。その発露が善意ということなのではないか。カントは善意について、
善意とは、過程や結果とは関係なくそれ自体が善いものであり、全き宝石のように光り輝く
と言っている。これは素晴らしい言葉だ。一般に用いられている「善意」という言葉とは厳密に区別しなければならないだろうが、この言葉がサンデル教授によって口にされたとき、思わず「おお」という言葉を漏らしてしまった。
過程や結果について言及されているということは、功利主義の「結果ありき」の考え方に対する批判という意味合いがあろう。

動機についてカントの挙げた例。
ある店の店主がなにも知らない客に対しておつりを誤魔化すことを思いつく。たとえ店主がそれを実行したとしても客は気づくことはない。しかし、店主はおつりを誤魔化すことによって店の評判に傷がつき、その結果彼自身が不利益を被ることになるということに思い至り、おつりを誤魔化さず正しく返すとする。
結局、形式上では店主はおつりを正しく返却しているだけなのだが、カントはこれを正しい行為と認めないという。
カントの考えでは、自己利益のために行った行為は、たとえ結果が正しいものであったとしても、そこに道徳的価値はないのだという。つまり、その行為の動機が義務によるものではないからだ。
商事改善協会というところのモットーをサンデル教授が紹介した。
「正直は最善の策 それが最大の利益を生む」
つまり、正直に取引をすることが顧客の信頼を生み、結果利益を生み出すということをこのモットーは訴えている。
サンデル教授によれば、カントはやはりこのモットーをも批判するだろうと言う。
重要なのは意思の質であり、動機の性格であり、これを充分に満たしたときにはじめて自由に行動している
とカントは考えているらしい。
ここで学生たちに質問を募ったところ、「どうすれば主観的にならずに道徳的であることが可能か」という質問が出た。それに対してサンデル教授はカントの考えを引く。
私たちは、自律的な存在として自らに対し法則を与えるが、その理性はひとつであり普遍的である
と。ここでメモが追いつかなくなるのだが、「純粋実践理性はアプリオリ(先天的ということだったけか?)に法則を制定するもの」という走り書きだけが残っている。ここから推測するに、人間は、道徳的に正しいことを行うことを指示する理性というものを本質的に所有しており、それを行使することによってのみ道徳的価値を有する行動が可能になる、ということなのだろう。

考察 #3

さて、カントの「道徳性の最高原理はなにか?」に迫る。
サンデル教授は三つの対比を挙げる。
  1. 動機(道徳性) - 義務 vs. 傾向性
  2. 意思の決定(自由) - 自律的 vs. 他律的
  3. 命法(理性) - 定言命法 vs. 仮言命法
命法(しなければならないこと)について補足するが、定言命法は「無条件であること」で、仮言命法は「条件付き」ということ。
以上の対比のうち左側が、カントの示す「その行為が道徳的価値を持っているか否か」についての要件。

サンデル教授の例。アメリカで行われたスペリングコンテストで優勝したアンドリュー少年は、「優勝決定時の問題においてスペリングを間違えたこと」を審査員に告白した。少年が言うには、本当は誤ったスペリングを伝えたのに審査員が聞き間違え、優勝してしまったのだという。少年のこの行為に全米が歓喜した。新聞はこのことを採り上げ一面のトップに。タイトルは「スペルを間違えたスペリングコンテストの英雄」。なかなか感動的な話である。
だが、もちろんサンデル教授はただの美談としてこの話を採り上げたわけではない。新聞のインタビューで「なぜ告白をしたのか?」という質問に対し、アンドリューは「自分自身がイヤなやつになりたくない」と答えた。
さて、カントなら、この少年の行為をどう判断するだろうか。
ある学生が驚くくらいの模範解答をするのだが、その前に私見を。
私が思うに、カントなら、この少年の行為を許さないだろうと予測した。一般人の感覚に照らし合わせれば、褒められることこそあれ責められる謂われなどない行為ではあるが、しかしカントにとってはその行動の動機が必ず純粋なものではなくてはならないという定義の方を重要視しているように思えた。つまり、「人間はいいところも悪いところもあるよ」というような許容度の高い理解はカントにおいては存在せず、善であるかあるいは悪であるかという厳密な区別しかなかったのではないか。
「嘘をつくのは正しい行いではない」という純粋な動機だけでなく、自身が自身についてどう思うか、あるいは自身が他人から見てどう思われるかという利己的な視点がその行為にごく一部でも含まれていた場合は、その行為の動機における純粋性は失われるのではないか、と私は予測した。つまり、カントは非寛容であろう、と。
ある学生は、以下のように答えた。
その行為の動機そのもの(全体)とならない限り、たとえ利己的な動機が「義務によって生じた動機」を部分的に支えていたとしても、それによってその行為の道徳的価値が損なわれることはない
サンデル教授は「おそらくカントはそのように考えるだろう」と言う。うーん。なるほど。原理主義っていうことじゃないんだな。ただ厳格であるということは間違いなさそう。

定言命法について定義があったが、ここらへんでメモが追いつかなくなっている。
  • 普遍的法則の定式
格率(人がそれに従って行動するもの)を普遍化してテストを行い、すべての人に当てはまる普遍的法則であれば、それは正しい
  • 目的としての人間性の定式
絶対的な価値を持つ理性的な存在としての人間それ自体が目的である
上記の定義もおそらくどこか欠如している印象がある。第一説明しきれていない。
私の自己解釈とうろ覚えを混ぜるに、普遍的能力である理性を持つ人間は普遍的であり、それ自体が絶対的な価値を持つ。そのため、たとえ他にどのような目的があろうと、人間を利用すること(手段として認識すること)は絶対にあってはならず、つねに目的そのものとして尊重せねばならない。
であるから、ある目的のために殺人を犯すこと(帰結主義)は絶対に許されず、また、自殺の場合でも、普遍的能力である理性を持つ自らを、目的とせずに道具的利用として殺すということは認められない、許されない、というのがカントの考えだったように思う。
この講義、内容にまったく追いついていないがすごく感動した。
カントの思想の厳格性というのは、おそらく「道徳的正しさ」のためにあって、その道徳的価値観を呈示するために必要だったということではないか。
一見、帰結主義や功利主義、あるいはリバタリアニズムというのは論理の「もっともらしさ」というものを備えている。しかし、人間性の尊厳などの倫理に関わる問題ですら、目的によっては後回しになってしまい、手段のひとつ(=変数)になってしまう。つまり、人をだましたり、なにかを奪ったり、あるいは殺人をおかしたりすることも、「ときには」という条件つきで認めようという態度であり、それは現代の現実主義的感覚にも受け容れられやすいと思う。
だが、カントの哲学はおそらく、「人間性の尊厳」を守るという観点からスタートしているのだと思う。それだから人間は最後まで目的でありつづけなければならず、利用しては絶対にいけないということを主張した。また、「人間性の尊厳」を成り立たしめるために行為の道徳的価値というものを追求していったのだと思う。ところで、「道徳的価値の有無」という視点は非常に役に立った。
「命に値段はつけられるか?」の考察#2についてまだ考えがまとまっていないのだが、あるものを鑑賞した際にその価値をどのように判断するかというとき、スチュワート・ミルだかベンサムだかが、
質の優劣を測るためには、比較する両方を経験すれば、道徳的義務感に関係なく、より質の高いものを人は選択する
という定義をしたようだが、どうもしっくり来なかった。「高級なものを選択するには教育と理解が必要である」という条件も考え得るようだが、それでもなにかがしっくりと来ない。
というのも、ごく現代的な考え方・態度を取れば、「絶対的なものなんてなく、鑑賞者それぞれの好みに依る」というのが上記の「解」になりそうなのだが、私はこれを絶対に認めたくないと思い、ずっと悩んできたのだ。
つまり、インターネットによってそれまでの権威主義を打破することには成功したのだが、それが今度は、誰でも彼でも一様の発言権を持ったかのように世界が変容し、「好みだから」の言い訳によって私が「質が低い」と思うものが世にはびこるようになった。私の中における高次にある存在と低次にある存在が、なぜ世間では同じ地平で語られるのか、それに納得することができなかった。
その不快感の根源は、そもそも私の中になぜ「質の優劣」が発生しているかということであり、それがあるために、世の中における質の優劣とその順序が異なることに起因するフラストレーションが溜まるのだろう。では、私はなにに基づいて「質の優劣」を判断しているのだろうか、と考えたとき、「道徳的価値」というものに対して、それがすべてではないのだけれども、かなり重きを置いているということに気づかされた。「くだらない」と私が断じるとき、多くの場合、私はそこに道徳的価値の有無を探しているのだった。
ただ、この場合の「道徳的価値」はカントが言うほどまで厳密ではない。
以上が、私の現在の暫定的結論かな。
次回から「嘘をつかない練習」へ。

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