とはいえ、わからないでもない

カテゴリ: 偽文/戯文な気分

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もう日付が変わってしまったから二日前の夜ということになる。電気カーペットをつけ、なおかつファンヒーターを動かして猫と一緒に寝そべったまま眠ってしまい、夢を見た。

巨大な駐車場を抱えたガソリンスタンドの敷地内。そのなかに離れて建てられた二棟のアパートの住人のひとりとして、僕はそこにいた。アパートは見るからに安作りで薄っぺらではあったものの、都会だからという理由でそれほど安くもない家賃を払うことになる、ということはわかっていた。つまり、僕はいまの僕ではない別の誰かになっていた。奇妙なことではあるが、僕はそのなかで「私」という一人称をつかっていた。
あるとき管理人に私たち住人が呼び集められ、外でいろいろな注意事項を聞かされていた。住人の一部には子どもの頃からそこに住んでいると言う人だっていたが、同時期に一斉にそこに入居した人たちも多く、私もそこに含まれていた。管理人の説明は、おもに新たな住人であるわれわれに対して説明をしているらしかった。ゴミを出す日とか、買い物をするのなら近くのスーパーならどこそこがあってとか、町内会がどうしたこうしたとか。たとえば、大雨の降った次の日のアパート周りの掃除は、いままでは管理人が善意でやっていたが、これからは住人自身で当番制でやってほしいということだった。はじめ管理人は、「元からいた人たち」を優遇するために「遠くから来た人たち」である私たちにそれをやらせようとした。「遠くから来た人たち」という表現が私たちのことを指しているということはすぐにわかった。ヨソモノであるし、部外者であるおまえらがすこし割を食ったっていいという理窟はわからないではなかったが、私は「それはおかしい、もともとの住人も含めて交代制にすべきだがかまわないか?」と提案すると、禿頭の管理人は「それでもかまわない」と応じた。覚醒した現在なら、その管理人のモデルが誰なのかは判然としているが、夢のなかでは当然ながら、それはわからなかった。
管理人の説明が終わると、われわれはそこで散会した。
住人のなかには一人暮らしの学生から、老夫婦、4~5人の家族などもいた。ブルーの制服を着た背の低い女の子が近くにやってきて、私の袖を引っ張った。高校生のようだったが、知らない顔だし、周りから変な誤解を受けても嫌なので、私は彼女を振り払い、住人のなかで同年代らしい男の集団が近くの書店へ歩き出したのを見て、急いでそれを追いかけた。女の子はかなしい顔をしていた。

5~6人の男たちとで書店の雑誌コーナーあたりをゆっくりと歩き回りながら、「おれはカメラが好きだ」とか「機械に興味がある」「車買いたい」などという彼らの自己紹介のようなつぶやきを聞いた。私は変に昂奮していた。彼らと話すのは初めてで互いに緊張し合ってはいたが、ここで新しい生活がはじまり、新しい関係を築いていくのだということがはっきりと知れたからだと思う。私は希望を持っているらしかった。どきどきしていた。
 
突然、音が鳴った。ファンヒーターの連続運転が3時間を超えたので、注意喚起のメロディが鳴ったのだ。目を醒まし、「運転延長」のボタンを押した。そばで猫二匹が、相似形に逆「く」の字の体勢で寝ていた。僕はすぐそこにあった夢が、もやいを解かれた小舟のようにゆっくりとではあるが此岸から確実に離れていっていることを名残惜しく感じていた。その瞬間、僕はさきほどの女の子が誰だったのかを思い出した。思い出せたような気分になった。
彼女は僕に伝えることがあった。「別の世界でわたしたちはお互いに会ったことがある」彼女が伝えたかったのはそのことだったのだ。
われわれは、寝るたびにいつも夢の世界に入り込み、そこでの生を生きている。起きればその世界のことは忘れ去ってしまい、次に寝るときにはまた別の世界にジャンプしてしまう。そこでは僕の飼っている犬や、僕の妹もいたのだろう。現実には僕は犬を飼ったことがないし妹もいないが、夢のなかで僕の袖を引っ張った女子高生は、かつて妹だったことがあるような気がした。理窟ではなく、唐突にそのことが諒解できたのだった。
僕は例のアパートにそれなりの目的をもって住もうとしていたに違いない。土地関係の交渉をしなければならなかったような気もする。そこで新しい友だちをつくり、新しい人間関係によろこび、苦しみ、それなりの時間を過ごすこともできたのかもしれない。
そのとき、妹であったかもしれない彼女ともう会えなくなってしまったことにようやく気づき、かなしく感じられた。
毎夜、僕の魂はいろいろな世界での<僕>や<私>を生きている。現実ではもう会えなくなってしまった魂とも、もしかしたらそこで出逢うことができるのかもしれない。
僕はこのことをメモしておいた。

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帰宅してすぐに、「あなた、ノリコがまた……」と妻が言う。決まっている。いつものことだ。
私は溜息をこらえてリビングに鞄を起き、娘の部屋のドアをノックする。「どうした? 父さんだ」
「来ないで!」
娘はヒステリックに泣き上げる。これもまたいつものことだ。いつのまにか私の後ろに立っていた妻が説明を始める。「きょう学校でお友だちが」うんぬん。これもまたいつものこと。私の生活は針飛びするレコードのように何度も何度も同じ箇所が繰り返されているようだ。まったくうんざりする。
私は妻の話をしっかりと聞き入れているふりをしながら、リビングに戻る。上着を脱ぎ、ダイニングテーブルの椅子の背にかける。妻が冷蔵庫から発泡酒の缶を取り出し、コップと一緒にテーブルに置いてくれる。わかってる。「ご近所さんの手前」ということで、私は発泡酒や第三のビールで労働をねぎらう。もちろんそれで充分だ。それがあたりまえ、と周りが言うのならきっとそうなのだろう。私はそのとおりに演じてみせる。
テーブルのうえに夕刊が置かれているが、かつて一度もそれを開いたことがない。
「テレビ、つける?」と妻が私に尋ねる。「いや、いいよ」と私は応える。だいたいのことは終電内でスマホで確認しているし、それ以外のことなら、また明日の朝に腹いっぱいになるまで味わうことができる。毎日毎日、それの繰り返し。この世でニュースにならないことはない。けれども大事なことは、それがいかにして報じられ、そしていかにして報じられないか、だ。それを見極めるのが私の仕事。およそほとんどの人が理解していないであろう、私の真の仕事だ。
「ノリコのことなんだけど……」と妻が話を蒸し返す。きっと概況を説明するだけでは気が済まなかったのだろう。「わたしもそうなんだけど、ご近所さんに顔が知られてしまっているっていうのは、ちょっと……つまりその毎日の生活にけっこう気苦労があるのよね、あの子だって年頃だし、できるだけ穏便に行かせたいじゃない?」
妻はよくやってくれている。良妻賢母であろうとしながら、良妻賢母のふりをしないよう懸命に努めているように見える。もちろんそれすらも隠そうとはしているが。
つまり彼女は「なんの気なし」の思いつきのように見せて、その実ここ数ヶ月にわたって考えつづけてきた家族の幸せというやつを実現する提案をいま私につきつけているのだ。
よろしい、私だっていま疲労困憊の極みにあるが父親、それも尊敬されるべき父親としての姿をなんとか見せてみよう。
「いい考えだと思う。ぼくもそのようなことを考えていた」
「そんな……あなたは、」
「待って。最後まで聞いてほしい。 きみとノリコがまた少し離れた場所で暮らす、というのはほんとうに考えていたことなんだ。いままでもワシントン、LA、テヘランと行ってきたけど、また僕が単身赴任という形になれば、きみたちはたぶんいまよりずっとラクに暮らすことができるし、ノリコもぎりぎり大学受験には影響のでない形になるだろう」
「でも……」
「明日にでもノリコと相談してほしい。お友だちのことだって、 いまは決して良好な関係とは言えないみたいだし」
「でも……うん、ちょっと考えてみます」
「お願いします」
妻は明らかにほっとした表情になっていた。私のことを誰も知らない街に行って、娘と一緒にふたりだけの生活。それは、ここ最近の妻、そして娘にとっては降って湧いた楽園の話のように思えるかもしれない。そこで彼女たちは、誰々の妻や誰々の娘としてではなく、彼女たち本来の属性を取り戻せるはずだ。
そのほっとした表情の妻に対して、「もういいかな」という言葉を私は済んでのところで飲み込み、発泡酒を飲みながら明日のことを考えた。明日の私の仕事のことを。

出社する。新聞を読み、それ以外のネットのニュースをさらう。簡単に言ってしまえば、私の職務は顧客に情報を提供する窓口だ。ありとあらゆる情報が世にあふれていて、われわれはまずそのすべてを精査する……といえば恰好がよいが、われわれのもとに届くときには既にそれらは精査され篩にかけられており、それらを確認するところから始まる。顧客に提供するときに、それらの細部に誤りがないか、不確かな部分については裏づけをとり、全体のパッケージに組み込んだときひとつひとつのバランスがおかしくないかをはかり、そこで問題がないとなったときにはじめて「製品化」を行う。テキスト、画像、動画……etc. それらはすべて分業でブラッシュアップが行われ、私たちの目の前に並ぶ。
私の相棒ともいえるスズキさんはきょうも元気そうだ。彼女は、日に日に輝きを増しているようにも思う。顧客からの人気も高いらしく、実際の顧客からのメッセージもその一部を確認しているのだと聞いたことがある。もちろんスタッフは好意的なメッセージしか彼女には見せないだろうし、そのことを彼女はおそらく知っている。ネガティブなものには意味はない。きっと彼女はそう考えていて、もしかしたら、すべての情報は彼女の魅力を増やすためのアクセサリーだと考えているのかもしれない。シリアスな情報には憂いのセクシーさがあり、コミカルな情報には朗らかなキュートさがある、などと。
ともかく彼女はポジティブに、そしてパワフルに、彼女のポジションをたのしんでいる。すべての物事は彼女のために回っている、と考えているのかもしれない。いまのこの状況に対してなにも深刻に考える必要なんてないんだ、わたしに求められているのはそんなことじゃない、顧客が見聞きしたいのは情報そのものではなく、わたしの声であり、わたしの表情なのだ。
帰宅する際に彼女は、なんのためらいもなくタクシーに乗る。それが会社から許されている行為ではあるし、そこになんの問題もないと私も考えている。けれども、それでも私はタクシーに乗ることを自分には許せない。私がほぼ終電時間の電車に乗っていることを知っている人間などほとんどいないが、それでも私は、ときにぎゅうぎゅうとなっている車内で胸を撫で下ろしていることもあるのだ。私は、私の「分」から外れてはいない、と。

……私の名前が呼ばれている。「聞いていました?」とスズキさんが言う。どうやら私になにかを説明していらしい。口元は笑っているが、目には明らかに嘲笑の色がある。もう慣れてしまった色だ。
「いや、でもだいたいわかります」
これはほんとうのことだ。だいたいのことは私はわかっている。きょう起きたこと、これから起きそうなこと、そしてそのことについて詳しい人間や、その人間の言いそうなこと。たぶんこのフロアにいる誰よりも私はわかっていると思う。
私はもともと現場にいたのだ。現場で取材して、多くの人間に出会い、多くの状況を見てきた。顧客が知るのはそのほんの一部だ。上澄みと言ってもよいかもしれない。彼らが知ることになる、きれいで、オブラートに包まれた、毒気のない情報になるもっと前の、「生」の素材に私は直面してきた。それが私の誇りだった。
いまの職務に異動するとなったとき、同僚に相談した。ひとりは、「なにごとも経験だよ」と言いながら乾いた笑いを添えた。違うひとりは、「わかっているとは思うけれど、おまえに求められているのは……な?」と明言を避けつつ私の立場に対して同情を示してくれた。
わかっている。会社内組織のトップが変ってから雲行きがだいぶ怪しくなっていた。自由はなくなっていた。もともとなかった自由ではあるが、形式上ですら許されないようになっていた。
私の前任者は人気のある窓口担当者だった。実は彼の仕事はあまり知らない。立場がまったく異なるし、永遠に交わることがないと思っていたからだ。
彼はたぶんうまくやっていたのだと思う。多くの人たちからも愛されていたという意味で、うまく。私はそのようには振る舞えない、ということは当初からわかっていた。私は根っからの現場気質で、一年間だけ窓口担当をしたことがあるが、それはあくまでも「腰掛け」のようなつもりだった。
上層部はそういう私の消極性を見越していたのだと思う。この仕事が決まったとき、私は二重の意味であんまりだと思った。
ひとつは、私に押しつけるのかということ。もうひとつは、私が適任だと認識されたのか、ということ。

スタッフに対するスズキさんの長ったらしい質問がつづいていた。それをよそに、私は私の決意を思い出していた。
私は、顧客に空虚さを伝えることにしよう。すべての情報を空虚に無感情に伝えることによって、この情報を提供するシステムそのものがおかしいことになっている、と顧客自身に認識させよう。いま私たちの属しているシステムは崩壊しつつある、ということを認識してもらおう。
しかしそれと同時に、<あなたたち>はこのシステムに依存しすぎているのではないか、という問いかけを投げよう。情報は、情報でしかない。私たちは、そこに価値判断をくわえない。もちろんくわえることも可能だが、それをしなくたっていい。もし本当に<あなたたち>が賢明であれば、あるいは、考えつづける努力をやめないのであれば、私たちの価値判断はそれほど必要ではないはずだから。
私は<あなた>に、この無表情な顔つきで、この無機質な声で、訴えている。私が伝えていないものはなにか。それに気づいてほしい、と。
家族は、周囲から私への批判を聞かされているのだろう。SNSであればもっと口汚い言葉が乱れ飛び、娘はきっとそれに傷ついている。一時の感情に動かされ、会社を出て行ったものもいる。それはそれで、いままた別のなにかにとらわれてしまっているようにも見える。
私はここに残ることを選んだ。この内部からこの組織をそれと気づかれない形で批判していくことにした。私の悪い評判が聞こえてくれば、そのことは、「なにかがおかしい」と気づいている顧客がいるということを意味するわけで、心強く思えた。もっと、もっと、私の機械的な声のうしろに自己否定のメッセージを読みとってほしい。
そのうえで、<あなたたち>の口にすべき言葉は、NOだ。それが、いま私のいちばん聞きたい声でもある。

「そろそろ本番でーす!」
声がかかり、私は立ち上がる。私たちの職場はひどく輝いている。ぴかぴかで、それじたいがなにか嘘を物語っているようだ。スズキさんはもちろん、私もある程度のメイクをしている。とてもじゃないが間近で見られたものじゃない。
道化師たる私の舞台は、もうすぐ大勢の人間の目にさらされる。そのステージの名前であるたった3文字がひときわぴかぴかに光っていた。そこにはこうあった。NW9。 

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いやあ、驚いた。けさのYahooのトップ画面である。
Yahoo  JAPAN
携帯電話およびスマホに疎い僕としては、学割の意味もよくわからないのだが、データを無料で増やしたオプションをつけると許容量オーバーかなにかを起こすのか、火花を放つ現象が起こっている、だから危ないよ、という記事かと思ったのだ。で、それをクリックしてみると……
ニュース
この文字である。「けいたい・がくわし・れつ?」。とっさに「割」の字の訓を考えてみるが、「わる・さく」以外に出てこない。もしかしたら、「はげしく、われる」という文章の誤植かとさえ思った(ときどき誤植はある)。

何度も書いてきたことだが、高島俊男が新聞記事の「高校生ら致される」という見出しを読んで、「なにをいたされたのか?」と思った、という文章があるが、こういう混ぜ書き表現はいまだにある。ネットで調べてみると、ここらへんはまだ遣われていそう。
  • 安ど
  • 隠ぺい
  • 覚せい剤
  • 警ら
  • けん引
  • けん銃
  • こう着
  • 混とん
  • 辛らつ
  • どう喝
  • ねつ造
  • 破たん
  • 辺ぴ
  • 補てん
  • 黙とう
  • 憂うつ
  • ろう城
これらの文字は、一読してピンとこないところに味がある。で、平仮名が入ってくるために、視覚的な愛きょう(愛嬌)も生じることになる。
警察官二名が、辺鄙な地域を警邏中に、覚醒剤中毒者が拳銃を持って籠城しているのに遭遇、現場は一時騒然となり、混沌とした状況となった。事態は膠着しつつあるかに見えたが、遅れて到着したベテラン刑事の牽引によって突入が図られ、犯人自殺という思わぬ展開を見せた。
この男については、某会社社長を恫喝した罪で逮捕状が出ていたが、この会社は過去に架空の損失補填を捏造したり、不適切な取引を隠蔽した結果、経営破綻していた。 
県警の発表では、「このようなことになってしまい、死亡した犯人には黙禱せざるを得ず、まことに憂鬱な思いではあるが、近隣住民においては、今夜は安堵して眠ることができるだろうから、それだけが救いである」ということだったが、記者からは辛辣な質問がいくつも飛び出た。
という文章も、
警察官二名が、辺ぴな地域を警ら中に、覚せい剤中毒者がけん銃を持ってろう城しているのに遭遇、現場は一時騒然となり、混とんとした状況となった。事態はこう着しつつあるかに見えたが、遅れて到着したベテラン刑事のけん引によって突入が図られ、犯人自殺という思わぬ展開を見せた。
この男については、某会社社長をどう喝した罪で逮捕状が出ていたが、この会社は過去に架空の損失補てんをねつ造したり、不適切な取引を隠ぺいした結果、経営破たんしていた。
県警の発表では、「このようなことになってしまい、死亡した犯人には黙とうせざるを得ず、まことに憂うつな思いではあるが、近隣住民においては、今夜は安どして眠ることができるだろうから、それだけが救いである」ということだったが、記者からは辛らつな質問がいくつも飛び出た。
という文章になれば、事件の持っているし烈さ(熾烈さ)は消え、なんとなく間抜けなものに見えてくるものだ。それがいいということでは決してないけれど。 

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年末は『赤めだか』で、年始に『坊っちゃん』なんて、二宮尽くしと成って了ったが偶然である。
ドラマの惹句に「痛快学園ドラマ」とあったので、何うやらおれの知っている『坊っちゃん』と随分違うようだと思った。その為、録画して置いたものの些か億劫となっていて昨日まで観ないままでいた。
放送を観終えて、書棚から『坊っちゃん』を取り出して来て読み始め、これまた偶然に数日前に読み直した許りだった関川夏央・谷口ジローの漫画『「坊っちゃん」の時代』を机の脇に置いて、読書の参考とした。


先ず配役のほうからやっつけておく。
坊っちゃんが二宮。
『赤めだか』のときと同じく、はじめは「いかにも詰まらん」という反応をして了ったものの、ずっと観ているとその内に声がいいという事に気づく。判り易い所で云えば、叫ぶ場面。叫んでも、発声や滑舌の悪さの為に声に不純物が混じっているような声に成っておらず、一音一音が確りと聞えた。これは随分立派だ。きっと役者の仕事を弁えているんだろう。或いは、舞台で鍛えられたのかも知れぬ。遠くの席に座っている客に対しても聴かせられるよう、きちんと基礎が出来ているという感じがした。だが、『赤めだか』の所でも書いた事だが、彼の演技はなぜか慣れて了う。不満は特に無い筈なのだが飽きて了うのだ。脚本が詰まらないと云えばそれ迄の話なのだが、驚ろきが無い。もっと面白い役を当てて貰えればいいのだろうが。
赤シャツはミッチー。
一等台詞の多かったのが彼、という印象を持った。卑小卑俗の奸物としての赤シャツという役回りを、よくぞ受け入れたものだ。ミッチーといえば、伎倆は兎も角、ドラマ『相棒』での寺脇の次の相棒という配役を以って役者の格を可成り上げた筈だ。それ迄の彼ならば、イロモノ的扱いが多く、正しく今回の赤シャツ的な役を任されたとしても全く不思議のなかったものだが、今は人気役者の一人である筈で、その彼が敢えて高慢ちきで厭味な人物に挑戦するという事に驚ろいた。しかも徹頭徹尾、その赤シャツにいい所が無いという点がよかった。何れにしても、ご苦労様という素直な称讃と拍手を送りたい。
山嵐は古田新太。
原作の印象からすると年が行きすぎだが、全篇通じて真面目に芝居していたのには大変好感が持てた。元々の舞台役者なので矢張り声が確りしていた。いつも斯うだったら、それ程までに嫌いではないんだが。
野幇間は八嶋智人。
赤シャツにお追従許りしている腰巾着野郎だが、原作とは違って、最後の辺りで遂に赤シャツに反旗を翻して花を持たせて貰っている。
狸校長は岸部一徳。
この人物についても、矢張り花を持たせて貰っていた。それとは別に、岸部一徳のあの「棒読み」とでも呼ぶしか無いあの声の出し方は、後世にきっと残る一大発明ではないか。
うらなりは山本耕史。
兎に角、ドラマのうらなり君は怪しくって仕方がない。山本耕史当人の結婚に関してあまりいい噂を耳にしなかった為か、口数の少ない大人しい人物を演技していても、何うしても何か事を起こしそうな挙動不審の人物に見えて了い、自然恐ろしい雰囲気が醸成されていた。これを役者冥利に尽きると云うべきか。髪型についての怪しさはまた別物だが、これは数年以上も前からおれは弟と一緒に心配していた。ずっと二枚目で通そうとするものだから無理も生じるのだ。
マドンナは松下奈緒。
どうでもいい役。小説でも大して印象は無いのだが、それは兎も角、二宮との身長差は随分な意地悪だ。
清は宮本信子。
まことにずるい。平仮名許りの稚拙な文字で坊っちゃんに手紙を書く場面なぞは、矢張りずるい。
おまけとして、又吉。
蛇足の感あり。旬な人物として彼を出演させたのだろうが、結果物語が小さくなって了った。文化人としての又吉なのか、将又、喜劇人としての又吉なのか、そこの判別に確りと踏み込んでゆけていない。中途半端な役どころと中途半端な演技が詰まらない。


原作の『坊っちゃん』に対するおれの概括は斯うだ。旧い時代が、来るべき新しい時代に敗れる物語。旧時代に属するのが、坊っちゃん・山嵐・うらなり・清で、新時代に属するのが、赤シャツ・狸・野幇間・マドンナ。結局マドンナは許嫁のうらなりではなく、赤シャツを選ぶ。これは親の言いつけなんぞではなく、彼女の独立独歩の選択の結果だ。ここらの解釈は『「坊っちゃん」の時代』に詳しいが、新時代の女マドンナに対して、旧時代の女の象徴として清を置いている。だからこの小説は、清の墓の事を記して終る。
そんなら上に書いたような物語が、現代で評価されるだろうか。おれはあんまりそうは思わない。この小説に痛快さは無い。精一杯の抵抗が最後にちらと出てくるが、僅かひと月程で「不浄の地」から撤退した坊っちゃんの迎える終劇は、苦い。
今は何でも判り易いものが求められる。だから、偏屈な坊っちゃん/気弱なうらなり/計算高いマドンナは、真直ぐな気性の坊っちゃん/大人しいが一途なうらなり/その一途さを終いには受け入れるマドンナにそれぞれ書き替えられる。原作では和解すらしない生徒達とも、ドラマでは和解どころか影響を与えたという事に成って了う。「痛快学園ドラマ」として了えば、より構図が判然とするからだ。

一体に、『坊っちゃん』は明治の小説だ。具に云えば明治三十九年に書かれた。だからそこに書かれた考えが今に通用する事の方が少いだろう。
譬えば、何んなに公平に読んでも坊っちゃんは好人物じゃない。松山の人間を侮り、松山の土地柄を腐し、平生から不機嫌で、殆どの事に怒りを感じていて、真直ぐと云えば真直ぐなのかもしれないが少々頭が足りない位だし、おっちょこちょいで粗忽者で食い意地が張っている。横柄な所もあるし単簡に人に騙される。騙されたと云って又怒る。何処を何う見ても小人物だ。
この小人物で田舎者たる人物こそが江戸っ子だとおれは思っていて、江戸っ子という言葉は何も都会人という事ではない。首都たる江戸(東京)を誇りに思っている、という点でお国自慢の田舎者のお仲間なのであって、他の田舎者と変る所はない。それだから、主役の「坊っちゃん」は松山を田舎だとしてバカにするが、その実、本人もバカにされている。五月の鯉の吹き流しと思っているのは手前丈で、きっと赤シャツなんかには間抜けのとんとんちきと陰口を云われているのだろうし、山嵐に至っては面と向かって云われて了う。
「君はすぐ喧嘩を吹き懸ける男だ。なるほど江戸っ子の軽跳な風を、よく、あらわしてる」
(岩波文庫版 102p)
作者の漱石は英国に数年間も留学していたわけだから、東京に拘泥する人間の料簡の狭さというのを客観的に判っていた筈で、そこを描く事でユーモアが生れるという事も判っていただろう。また、東京で多く読まれるだろう事を予め見積もっていたという部分もあろう。
尚、おれは斯ういうまことに情けない偏屈な人物としての坊っちゃんを愛している。それはおれが東京生れだという事にもきっと関連している。これはおれにとってはお国自慢の一つなのかも知れない。
また、繰り返しになって了うけれども、ドラマではマドンナは最終的にうらなりを選び駆け落ちするが、原作ではマドンナが主体的に赤シャツを選ぶ。これは、新時代の合理主義の顕れだとも受け取れる。本来なら、合理的な選択が出来る方が進歩的な筈で、尠くとも漱石はそう思って書いている筈だが、劇脚本では、一途さの徹底という単純簡明な表現に留まった。原作通りの行動をして了ったら、単なる不人情と受け取られかねないからだろう。

斯う云った捻くれた感情や背景から生まれた小説を、現代的な心持ちで受け止めようとする方が六づかしくて、そんなら筋書きを変えちまおうと考える方が道理だ。つまり翻案である。
おれは古典を翻案する事について何も蚊もの反対者では無くて、一昨年のNHKドラマ『ロング・グッドバイ』のような、意義の有るものに関しては喜んで受け入れる。然し、『坊っちゃん』のドラマ化はきっとうまくないだろうと思ったし、実際にドラマ化されたものを観て、うまくなかったと思った。
原作に沿った通りにやるんだとしたら、共感する者が少いだろう。その反対に、単純化し過ぎて了えば、元々筋の少いものだから単純過ぎて詰まらないという羽目になる。今回のドラマは後者に中る。
毒を消そうと薄味にし過ぎて不味くなる料理というのは幾らもある。真直ぐで気持ちのいい青年の坊っちゃんが、「田舎」じゃなくて「地方」にやって来て、そこで多少の揉め事を経て、けれども生徒達には到頭正直の美徳を伝える。それに感化されたうらなりとマドンナは遂に愛を選択し、全て目出度し目出度し……と成るだろうか? 考えてみれば、坊っちゃんは何も成長していないのだ。好き放題やって、何ら省みることなく「お坊ちゃん」のまま東京に帰るだけの物語。丸で成長を拒否する非成長譚だ。そりゃあそうだろう。「~ぞな、もし」「~かな、もし」と喋って主人公の不興を買うあの松山言葉が一切出来ない今回の物語は、正に「何処でも無い場所」に於ける「誰でもない人間」の物語に成り下がって了っていたのだから。

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ハロー、ハロー? DRTK、DRTK、こちらはムーン放送局です。月面「静かの海」の水面に船を浮かべ海賊放送を実行中。ハロー、ハロー? 聴こえていますか?
こちらは天気晴朗かつ波浪なく嘶く馬を泣く泣く杭に結わいつけ駆けつけた警官たちの執拗な追跡を振り払ったところ、振り逃げ振り飛車振り子時計の文字盤はただいま2015年12月31日の午後11時を指し示しあと一時間もすれば年は百代の過客を伴うて新たな姿へと変容を遂げるところ、心も身もほぐしたついでに煩わしいほつれほころびもこの際ほどいて舫を解き謎を解き卵を溶き時の過ぎ行く方は振り返らず行く末だけをただ見定めているところ、です。ハロー?
この放送は、コマーシャルメッセージも、常連も、過剰なデコレーションも、いいかげんな思いつきもない、ただ一回だけ一夜限りのものです。受信できた人はラッキー。かといって受信できなくてもそれはそれで幸運かも。ここにあるのはただの駄弁りお喋り鳥の囀り、ピーチク・パーチク・トゥイート・トゥイート。トゥイーティー&シルベスターがいつもの追いかけっこをつづけるあいだ、ジルベスター・コンサートもいよいよ大詰めとなり、詰め込みすぎのオーチャードホールも昂奮の頂点へとアタックを掛けはじめ、ついに会場から音楽の漏れだす始末。こちらも遠い月から地球へと音楽を一曲届けてみます。Herbie Hancockで『Maiden Voyage』。
音楽という観点で今年を振り返ればアイドルソングに浸り切っていたのは、特に夏。朝四時半くらいに起きて頭をシャキッとさせるにはBPMのはやい音楽を聴くのが、方法の良し悪しは別としていちばん手っ取り早かったのです。朝ならスロウなリズム&ブルーズがいいという人もいるかもしれないけれど、僕はとにかくアイドルソングでした。ももクロでちょっと盛り上がったけれど、『あまちゃん』のブームやAKBの『恋チュン』の大ヒットによってちょっと醒めてしまったので、さすがにこれからアイドルもないだろう、と高を括っていたのがはるか昔のよう。去年の『くちづけキボンヌ』の発見によって、とりあえずは手探り足探りの状態からでんぱ組.incの探索を始めることにしました。

どこから話し始めればいいのかわからないのですが、アイドルって――少なくともいまは――みんなが理解できるもの、みんなが好きになれるもの、ではないように思っています。国民的、という形容詞をともなったグループもありますが、そういう時代じゃないと思う。善悪の判断は別として個人が幾枚幾十枚もCDを買っているという事実が厳然としてあるのに、全体をまとめた数字だけを見て「国民的」というのには僕は違和感を持っていて、きっとそれだからこそ「総選挙」などというゴールデンの番組が存在したのでしょうが――いまもしているの、かな?――、流行の派生というものが、もはやテレビからお茶の間へという単純なルートだけではなくなった現在、「みんな」という言葉の不確かさをもう少し意識したほうがいいはずです。これはネットだけをウォッチしている人にも言えることでしょうが。
そういう背景を認識すれば、アイドルという言葉じたいも変化しているのかもしれません。「みんなが好きな」とか「大人数が夢中になっている」なんていう形容を、「アイドル」という言葉は簡単に想起させるのかもしれませんが、「各人が個々に想いを寄せている対象」というくらいの認識のほうがより事実に近いのかなと思います。こういう認識が共有されていないがために、現今のアイドルというものに対して「おれが思っているほどには、かわいくない」とか「わたしが期待するほどには、歌がうまくない」という批判が起こりやすいのかもしれません。
そういう批判へは「個人の好みでしょ」とばっさり切り捨て御免としてしまえばいいのですが、もうちょっと批判者へと寄り添う答えがあるとするならば、あなたはまだわからないのかもね、というのがあります。単純な一般論として、好悪に絶対はなく、また優劣もありません。しかし別の角度から見ると、その分野への習熟度の度合いによって理解が変化する場合も少なくありません。フランスの熟成したチーズをただ臭いとしか判断できない人もいれば、涎を垂らして端から端まで美味の極みをしゃぶり尽くす人だってやっぱりいるわけです。「かわいくない」とか「歌が下手」というのはもしかしたらその対象の一部しかとらえられていないのかもしれなくて、もうちょっと目を凝らしてみればその奥にある魅力を見つけることが、ひょっとしたらできるかもしれない。そういう気持ちになってもらえれば、少なくとも頭ごなしの批難は少なくなるんじゃないか、とちょっと楽観的に考えているところです。
あるいは、「臭い」がひとつの魅力ととらえる人だっているわけで、美人じゃなくていいし歌は不安定でもいい、と考えている人だって少なくないはず。実はこれは僕自身のことなんですけど、目の覚めるような美人とか心に響く歌唱力なんてものは端から期待していなくて、むしろ、より素人っぽいほうを応援したいという気持ちが強いのです、人やグループにもよりますが。巷間でよく話される、AKBのメンバー選出は「クラスでいちばん人気の女の子」を目指していない、というのは事実なんじゃないかと思うし、そういうニーズは少なくないんでしょうね。

まあ、そういう面倒な「論」はさておくことにしましょう。ここまでちょっとした時間をかけて大いなる予防線を張ってきたわけですけど、好きなものを好きなだけ話すのがこの放送の本義ですので、ここからは好きなところだけをかいつまんでいけば……さっき言ったみたいに、でんぱ組の『くちづけキボンヌ』の6人バージョンでのPVをYouTubeで見て以来、彼女たちと、彼女たちのファンとの関係性みたいなものにグッと来てしまって――それはもしかしたらいまでも勘違いのままかもしれないんだけど――、そこから「ファン込み」で好きになって、楽曲にハマるようになりました。ここでいちいちの曲名を挙げていくことはしませんが、YouTubeやCDアルバムの視聴だけでは物足りなくなって、ついにはライブのブルーレイディスクまで観るようになってしまったんですけれどもこれが結局は正解で、13年の東西野音や、14年の武道館のライブはアイドルらしさが詰まったかわいらしくとても魅力的なステージでしたが、かなり客観的に見ても、今年2月の代々木第一体育館でのライブはほんとうに素晴らしかったです。楽曲やダンスやメンバー個人個人の一所懸命さは言うまでもありませんが、全体のステージ構成や仕掛けが、僕のようなスーパー素人にとっては衝撃的で、これは完全に舞台芸術といわれる領域にまで入っている、という感覚を持ちました。このようなパフォーマンスを実現させるためには、当人たちの「頑張り」のほかに、お金や才能を持った人たちの助けがまた別に必要なわけで、そういう大規模なお金と人とが動くようになるステージに良くも悪くも彼女たちは突入してしまったという点で、とりあえずここがひとつの頂点なのかもしれない、と生意気ながらに思いました。
彼女たちの『IDOL』のカバーヴァージョンを知って、そこからBiSのオリジナル版を知るという遡行・逆流もありました。はじめはなんだかうるさい品のない子たちだなあと嫌悪感しか浮かびませんでしたし、それ以前に炎上商法そのものというマーケティングの手法を仄聞していたので、彼女たちにはずっと距離を置いていたのです。それが、何度か再生していくうちに次第に耳にすんなりと入るようになって、すんなりどころか、かなり気に入るようになってしまい、これまたその足跡を遅まきながら――なんといったってもう解散しているわけですから――追っていき、解散後の各メンバーの道のりを辿り、柳の下の二匹目のどじょう、つまりBiSHを満を持して注目している、というのが現在のところです。彼女たちにもすぐれた楽曲が多く、やはりいちいちを挙げていくことはできませんね。きょうはさらっと流しますが、ほんと大好きな曲が多いです。
ほかにも、カバーのみというコンセプトのアイドルネッサンスの存在は、僕の「アイドル=高校球児説」を裏付けてくれます。繰り返しになってしまいますが、アイドルにとっては、「顔がかわいい」とか「歌がうまい」とか「ダンスがうまい」とかは瑣末なことに過ぎなくて、「あの子が頑張っているのをただただ応援する」とこのことに尽きるのではないか、と。そのうえで、「かわいい」「歌/ダンスうまい」という要素が加味される、とこう考えたほうがいいと思っています。地元の高校球児が野球大会に出場するってときに、バッティングがどうとか守備がどうとか以前に、一所懸命やっているかどうかで応援を決めている人は少なくないはずです。そりゃうまければうまいほうがいいのはあたりまえですが、その技術が低いからといって応援の熱が冷めるものでもないし、かえって火がつく場合だってあるはずです。判官贔屓であれば、なおさらです。
と、アイドルソングの話はここくらいまでにしておきましょうか。まだまだ言いたいことはあるけれど、とりあえず、ピクソンで『恋なんです』。
小説でいえば、今年もあまり本を読むことができなかったので、トップ3を選ぶのでさえ苦労します。といってもベストはキングの『11/22/63』で、壮大な物語の力強さというものを感じることができました。めちゃくちゃ適当に要約してしまえば、世界とひとりの女性を天秤にかける話で、下手したら冗談にもなりかねないこのスケールの大きさは、アメリカという国の文化や歴史とは無関係ではないはずです。そして、この力強さを後ろから支えているのが、膨大な固有名詞や歴史的事実。小説にリアリティの総体という側面を求めるのであれば、SFという装置があるにもかかわらずこの小説ではリアリティが成立していて、それに圧倒されます。だからこそ、冗談になるどころか感動的な結末を味わうことができます。

マンガは、小説よりさらに読まなくなりました。偶然知った大庭賢哉の『屋根裏の私の小さな部屋』は嬉しい発見で、オールタイム・ベストにも入れたくなる作品でしたが、それ以外はほとんど手に取ることすらありませんでした。ひとつ、肥谷圭介と鈴木大介の『ギャングース』は、その製作動機からして応援したいマンガだと思いました。特殊詐欺犯たちから強盗を働く若く貧しいギャングたちの話なのですが、かなりノワールな描写が強いのにも関わらず読者を強く惹きつけます。物語に通底しているのは、子どもの貧困。そういう状況で育った子どもたちが、はたして自分たちを虐げるかあるいは無視してきた社会に対してどのような思いを抱くのか。これだけ聴けば、もしかしたら海外の話かと思われるかもしれませんが、日本の話なんです。なにもこれは、ごく一部のものすごく特殊な世界の話ではないと思います。
特殊詐欺犯たちがものすごいトレーニングを積んだうえで振り込め詐欺を働く背景として、「それを奪っても死ぬことがない人間たちから金を奪うことのどこが悪い」という論理がこのマンガでは描かれます。もちろんこれは一般論から言えば盗人の三分の理でしかないはずですが、ただ、生まれた時点で圧倒的な逆境に立たされ放置されてきた人間たちが、一般論に従うべきだというのもどこか理窟に合いません。そしてこのような「悪の論理」は、現在世界中で起こっているテロリズムの一部でも、その行動基準として通用する部分があると思います。虐待、迫害、排除、差別、貧困。それらが生み出す社会的なマイナスは厳然としてあるはずで、物語作者は、欄外スペースを駆使して膨大な事例を示し、問題について熟考することを促しています。1巻にこういうト書きがあります。
この世は金がすべてだ
もしも金もないのに「金なんかいらねえ 愛があれば大丈夫」
とか言ってるヤツがいたら そいつは……
ただのカモか ただのバカだ
容赦なくタタいて全て奪っちまえばいい
と。けれども、100ページほど後にはこういう言葉が出てきます。
この世は金がすべてだ
金がなくても愛さえあればとか言ってる奴はクソだ
だが――
人は金だけでは生きてはいけない
と。作者自身が「救いようのない世界」と書いていますが、けれども、このマンガのなかにはちょっとだけの希望があります。そして、読んでいる人たちへの問いかけがあります。
それではギャングということで、『Lock, Stock & Two Smoking Barrels』のサウンドトラックから、Dusty Springfieldで『Spooky』。
落語のことを話そうとすると、どうしても米朝がことし亡くなったことに触れなきゃいけません。すでに晩年は高座に上がることはありませんでしたが、けれども米朝という噺家は、僕みたいな落語素人にとってもきわめて偉大な存在であって、亡くなったことにとてもショックを受けました。
よく若い落語家の高座へ行くことをやたらと勧める人がいますが、僕にはその心境がわかりません。だって世の中には米朝の音源があるんですよ? 藝術っていう呼び方をしてしまうのは誰にとっても据わりの悪いものになってしまいますが、でも、藝術に劣化したコピーは要らないんです。
落語という世界には米朝という人がいて、ものすごい業績を残している。それはとても大切なことだと思うんです。伝統に固着しろとかそういう話じゃない。米朝がいた、ということをまず諒解して踏まえたうえで、その先の、たとえば枝雀の存在を考えてみる。枝雀が進化系ということでもなくて、米朝を咀嚼したうえでのあの落語だと思うんです。咀嚼しきれたかどうかはわかりませんが――小佐田定雄の『米朝らくごの舞台裏』なんかを読むとそうは思っていなかったように思いますが――とにかくあの先の落語として枝雀落語が存在するはずです。そのうえでさらに落語をやる必要があるのか、という自問がなければとうていスタートすらできないように僕みたいなトウシロウは思ってしまうのですが、さて若い落語家たちはどうなんでしょう? 多様性とかニッチなんていう言い訳めいたフレーズはあくまで商売用のことであって、藝術とはまた別の話。僕が偉そうに言うことじゃありませんが。

今年はふたつの落語会に行きました。四月に談春の独演会。五月に吉弥の独演会。そのどちらも客が最悪でした。前者の会では、携帯電話が一度鳴りました。大ネタ『百年目』の最中に。それもそのはずっていうか、みんな噺と噺のあいだにすぐスマホの電源をつけてSNSやったりメールしたりするんですよね。大阪なのに談春って人気あるんだなあ、と思っていたのですが、やはり小休憩のとき、近くのおばさんたちが集まって「意外に面白いね」と『へっつい幽霊』の感想を言って、「ねえねえ、来週はどこに行く?」と相談していました。そこから想像するに、おそらくご婦人方で集まって週にいっぺんだか二週にいっぺんだかでどこかに行く、ということをやっているのでしょう。その一環で、はじめてだけど落語に来たということのようです。そこは大阪のホールだったので、ふつうに考えれば上方落語を観に行きそうなものなのに、なぜ東京落語の談春なのか。これが、笑点メンバーというのならまだ話もわかるのですが、談春……そこで気づいたのです。談春が『ルーズヴェルト・ゲーム』に出演していたことを。ははん。半沢直樹から池井戸系列でルーズヴェルトへ行って、そこで談春を知り、それなら観に行ってみようか、という流れか。「談春が『百年目』? ちょっと観てみたいな」と思ってやってきた僕とはまた違う動機だったようです。
お客さんの全員がそういうわけではなかったと思います。現に、僕の左隣にすわっていたひとりの女性は、オペラグラスで覗いて、マクラのいちいちの話に頷いたり笑ったりしていい反応をしていましたから。けれども、全体的には、あまり慣れていない人の割合が多いという印象でした。僕の前の老齢の女性は、小休憩のあいだに係員を呼びつけて「声が小さいからマイクの音を上げてもらえない?」と注文をしていました。どうやら、お客が笑っているあいだにも話が進んでしまうからよくわからない、ということらしい。年をとったら耳が悪くなるということはわかるけれど、ちょっとそれは難しい注文かな、と思いました。自分の聞こえなかった部分はなんとか想像して補う、ということは落語に限らず映画でも音楽でもあることなんですが、そういうことにあまり慣れてもいないのかなあ、と。だからといって嚙んで含めるように話すというのは、もはや落語じゃなくなってしまいます。まして談春は、東京の威勢のよい口調がウリのひとつなはず。ここでも、鑑賞の選択ミスという問題が僕の頭をよぎります。
ちなみに、『百年目』はすばらしかったです。談春なりの解釈がきちんとあって、サゲを変更している点にも驚きました。ただ、師匠の談志と同じように、噺の途中に話者がメタ的に介入するという手法をいくつかやっていて、そこに賛否が分かれるだろうとも思いました。米朝は話者の介入をできるだけ排除するという思想で、僕もできるだけそのほうがいいと思っていますが、三十年やっている談春がそういう選択をしているんだからそれでいいじゃねえか、という意見を持ちました。なお、僕は米朝の『百年目』を米朝ベストと思っているんですが、談春ラストもかなりよかったです。完璧にしか思えない『百年目』に手を加えるというその料簡にまずあっぱれと思いました。これこそ、先人たちを踏まえても落語を演る意味というものがあるのではないでしょうか。
なお、余談ですが、小佐田定雄が米朝の『百年目』を落語全体のベストに挙げていて、ものすごく嬉しかったです。なお、枝雀は『たちぎれ線香』ひとつが、ほかのすべての落語の噺の合計と匹敵すると考えていたそうです。それもなんだか枝雀らしくていい話。僕は枝雀だったら『高津の富』がベストです。
ここまでだったらいい話で終わるのですが、そうはいきません。このサゲのちょっと前にいちばんグッとくるセリフがあったのですが、それを言ったときに、僕の近くにすわっていたおばさんが感動しました。感動するのはいいのですが、「あら~」とふつうに声を出してしまったのです。途端に現実に引き戻されたといいますか、家にいるのと勘違いしてねえか?と本気で腹が立ちました。

吉弥の会ですが、ここの客はもっとひどかったです。会場じたいもあまりよくはありませんでした。図書館のなかにあったホールなんですが、等間隔に置かれた椅子はすべてフラットに並べられていたので、前に背の高い人がすわればものすごく見づらいのです。で、僕の前にすわったのがやたらと座高の高い人で、しかも頭をふらふらさせるので、僕もそれに合わせて首を左右に動かしたり片目をつぶったりしなければならず、見ることそのものに苦労しました。
左隣にすわったおっさんは、途中からガムを嚙み始めました。右隣のおっさんは短い足を組んで、ペットボトルのふたを「プシュッ」と音をさせて開けて飲んでいました。そして、当たり前のように携帯電話がどこかで鳴りました。
噺に集中することができなかったので適切な判断はできないのですが、吉弥が最近取り組んでいる新作には、やはり新作の持つ不自然さを感じました。新作はどうしてもくすぐりの連続になってしまいがちなのですが、そういうものって落語っぽくないというか、落語で演る意味をあまり感じないんですよね。だったら漫才やコントでもいいじゃんっていう。このあいだ古本で読んだ宇野信夫の『芸の世界』という文庫にこんなことが書いてありました。
講釈や落語にテーマはありません。描写はあるけれども、主題というものはありません。近来の戯曲小説には、それがいかに駆け出しの作家のものであっても、テーマはあるのですが、その代り描写はないのです。それが、私にはつまらない。テーマと描写と二ツかね備わったものこそ、優秀な戯曲、すぐれた小説といえるのです。
(廣済堂文庫版 38p) 
前半の部分に注目すると、描写がない落語にはいったいなにが残るのかという話になりますね。
とにかく、僕の観劇体験のなかでも、公演中に携帯電話が鳴ったのは初めてのことでした。地域性の問題なのか、客層の問題なのか、はたまた落語の公演というものはこういうものなのか。とにかく、数年は行かなくてもよいと思うようになりました。残念なことですが。
落語の話はこれくらいにしておきましょう。ここで音楽を。この涙よ乾け。Amy Winehouseで『Tears Dry』。オリジナルバージョンです。
あらたまの 年立ち代はり 種々の もの捨つれども 捨て切りしと 思へど見遣れば いかにせむ 残りしものの 其処にあり いつともわかぬ 年次(としなみ)に 抱へわたれる 吾が荷ぞ重き

明日は正月で新しい年の始まりの日だけど、きょうとの差なんてほとんどない。悲しいことは悲しいままだし、辛いことは辛いまま。24時間営業のコンビニやスーパーは煌々と光っているし、そこで働いている人に15と16の差なんて当面は関係ない。当面のあいだは。
インターネットの海上にも大勢の人間が船を出している。それぞれがそれぞれの海賊放送局となって、見えない方向に向かってなにごとか――言いたくて言いたくて仕方のないこと――を発信している。あともう少ししたら、そこに「おめでとう」というメッセージでできた巨大な光の帯を見ることができる。ちかちかと光るひとつひとつの小さな点である僕たちは、そのメッセージのやりとりで心の拠り所のひとつを確認している。いい悪いは別として。
「今年もいろいろとあった」という感慨はきっと来年に活かされないだろう。去年も同じようなことを言っていた気がするから。それにしたって、いくつかの出来事で僕は心を動かしてもいる。それもたぶん去年と同じなのだ。去年の波は今年の波をつくり、また来年の波のもとともなる。九鬼周造は随筆『青海波』で新春を言祝いでいる。
年の波は同じ波長で無限の岸へ重畳するであろう。私の乗っている小舟がどのあたりで転覆するか。そんなことはどうでもいい。波、波1、波2、波3、波4、波5……波n+1。見渡す限り波また波。無限の重畳そのものがとてもすばらしい。
ハロー、ハロー? DRTK、DRTK、こちらはムーン放送局です。月面「静かの海」の水面に船を浮かべ海賊放送を実行していましたが、もうすぐそれも終わります。ハロー、ハロー?
最後の曲です。Tom Waitsの『New Year's Eve』。それではみなさん、おやすみなさい。よいお年を。

編集
渋谷、というと今ではぴかぴかになってしまって僕のなかではなんだかリアリティというものを急速に失った場所になってしまったものだから、下北沢なんていうそれでもあんまり馴染みのない場所を選んでみる。もしかしたら、いやもしかしなくとも下北沢にはそんな場所やそんな文化はないように思うのだが、しかしそれでも、その駅前にあなたたち、つまりGLIM SPANKYが唄っているところを想像してみる。

年下だからといって「きみ」なんていうふうに軽々しくは呼ばないで、敬意を込めて「あなた」と呼ばせてもらうけれど、あなたたちが全然知られていない人たちだということにして、僕のほかに十数人程度が足を止めてあなたたちの歌を黙って聴いていたとする。
あなたは、『大人になったら』という曲を唄っている。歌詞はこうだ。
煙草の匂いが私の髪にすがる 駅の冷たいホームさ
夢を見るやるせない若者達の瞳は眠らない
そうでしょう?
私たちはやる事があって
ここで唄ってる

始発列車は今スカートを撫でてやってくる 寝惚けた街を抜け
『おはよう』なんて言う気分じゃないのさ 気が滅入る あぁ
ずっと 子供でいたいよ

猫被り 大人は知らない
この輝く世界がだんだん見えなくなっていくけど
いつか昔に強く思った憧れは決して消えない 消えやしない

こんなロックは知らない 要らない 聴かない君が
上手に世間を渡っていくけど
聴こえているかい この世の全ては
大人になったら解るのかい

レイバンとレコードを買ったあの店は消えてしまって
コンビニが眩しく光るだけ
知らないあの子が私の歌をそっと口ずさむ夜明け 優しい朝

こんなロックは知らない 要らない 聴かない君が
上手に世間を渡っていくけど
聴こえているかい この世の全ては
大人になったら解るのかい

こんなロックは知らない 要らない 聴かない君が
上手に世間を渡っていくけど
聴こえているかい この世の全ては
大人になったら解るのかい

大人になったら解るのかい
歌詞を聴きながら、僕は自分が大人であるかどうかを考える。もちろん、僕は大人だ。毎年、成人の日にテレビクルーがインタビューする「あなたは大人ですか?」みたいなバカげた意味ではなく、大人であることの要件を「自分の人生を自分で引き受けていること」としたうえで、僕はその責任を明確に感じながら自分のことを「大人だ」と思う。
それ以上でもそれ以下でもない意味において大人の僕は、あなたの歌に少し苛立ちを覚えることだろう。
あなたは、大人を器用でずるくて唾棄すべき存在としているようだけど、そういうふうに二元化して、自分たち「子ども」をその対立項として置くというのはいかにも単純にすぎるのではないか。そういう単純さを子どもの特権と自覚しつつやっているのであれば、あなたの歌に共感するのはまさしく子どもだけなんじゃないか。
大人はずるくてあんなふうにはなりたくないという主張は、百年も前から言われているごくごくありふれた言い回しで、僕自身、十代の頃は二十歳以上になるなんて想像もできなかったし、二十代のときは三十歳以上の人間の言うことなんて信じる気にもなれなかった。これは、マンガのような話だけれどすべてほんとうのことだ。
「大人だっていいもんだ」なんてことを言いたいわけじゃない。そんなテレビCMのキャッチコピーのようなことを言いたいのではない。若いときは好き勝手言っていたくせに、いざ自分が年をとったらしたり顔でそんなことを言うやつらなんて、ほんとうに最低で恥知らずだ。そんなやつらの懐柔策に乗る必要なんてない。死ぬまで無視しつづけてやればいい。
ただ、すべての大人がそんなに単純なわけでもないということ。「ずっと子どもでいたいよ」と思っていたし、それにロックに限らずどんな種類の音楽を聴いていなくたって「夢を見」て「やる事があっ」た者もいたのだ。それはあなたたちだけの特権ではないのだ。

反論は山ほど僕のなかに浮かんでくる。文句の泡がぽこぽこと浮かび上がってはぱちんと僕の喉のあたりで弾ける。あなたがたは救いようのないほど幼稚で単純だからだ。
それにひきかえ僕は、批判することに馴れきってしまっているので心を痛めずに重箱の隅を突くことができる。言葉は旋律やリズムに乗ってやってきているというのに、そのうわっつらだけを撫でるように詩を吟味し意地悪く調理しようとしているだけだ。
一生懸命唄っているその歌を聴かず別のなにかに向かって嫉妬するように僕は反感を覚え、そういう受け止め方しかできない僕に対して直観的に憎しみを抱いたあなたは、声を張り上げ、怒りをさらに上乗せするだろう。

ふと、あなたたちを囲む輪のなかに十年前の僕の姿を認める。
僕やほかのオーディエンス同様、彼もまたジャンパーのポケットに深く手を突っ込み、身じろぎもせずにいる。まるで動いたらその場に立っている資格がなくなるとでもいうように。
きみは心のなかでどんなふうに感じているのだろうか。きみは自分では大人ではないと思っているのかもしれない。けれども、唄っている彼女たちとまったく一緒だとも感じられないだろう。彼女たちに同意することはなにかに負けることだと思い、きみは意地でもそこに踏ん張って感情を流されないようにしているのではないか。
そこに容赦なく彼女たちの歌が響き、心はぎゅっとつかまれてしまう。きみはそこから逃れる術を知らない。顔はどうにか無表情を装っているけれど、きみはあの歌声と詩と空気とに完全に飲み込まれ、自分のやり場のない怒りを預けてしまおうとすらしているのかもしれない。
あの頃はまだ自分の考えていることをほとんど誰にも告げることができなかった。なにかを訴えられる場所に飢えていたし、かといって訴えることのできる人間の尻馬には絶対に乗らないと決めていたはずだ。
きみは心地よさと恥ずかしさと苦しさと焦りを抱えたまま彼女の歌を聴いている。彼女の声の一音一音が、きみの心を波立たせる。ポケットのなかの拳が堅く握りしめられる。
 
歌が終わりを迎えつつあった。
歌声が聞えていたあいだに抱いた細々とした感情はちょっとした感動ですぐに吹き飛ばされてしまった。「おや、けっこうよかったんじゃないか」と思い込んでしまいそうなところに、慌てて反感を持っていたことを思い出す。迎合するのはもう少しあとでもよい。
あなたたちの視野の狭さに対して言いたいことはまだまだやっぱりあったけれど、その言いたいことは僕の度量の狭さからやってくるものだということを、僕は薄々と感じている。それくらいのことはわかる程度に僕は年をとっているから。
あなたは、この曲に「大人になったら」というタイトルをつけ、「ずっと子供でいたいよ」と唄っている。ということは、いつかは大人になってしまうという予感をあなた自身も持っているということなのだろう。
けれども、臆せずにそのままその歌を唄いつづけてもらいたい。その歌を本気で五年、十年と唄いつづけていれば僕はきっと勇気づけられる。僕はなんだかんだ言って、あなた方の側に立っているつもりだ。あなたたちとは一緒じゃないかもしれないけれど、あなたたちが憎むものを僕も憎んでいる。
現代ならありふれた感動屋たちがあなたたちをスマホで動画撮影して、それをネットにアップロードするかもしれない。RTや「いいね」が加速度的に増えて、あなたたちの歌は簡単に人口に膾炙するかもしれない。「バズってる」とか「泣けた」とか「神曲」なんていう薄っぺらな言葉があなたたちの周りを浮遊する。多くの人たちはあなたたちが好きなのではない。あなたたちのことを好きな自分が好きなのである。
けれども十年前だったら誰もそんなことはせずに、目の前の歌を純粋に聴き、そしてただ拍手をするだけだった。 それで充分だった。いまでも、それで充分なのである。

歌が終わった。
あなたたちは、ちょっと照れたように、それからちょっと怒ったようにして軽く頭を下げ、「ありがとう」と小さな声で言った。パチ、パチ、パチ、とまばらな拍手が周りから聞えてくる。
きみは、ポケットからついに手を出さずにそのまま回れ右をして帰ろうとするが、思い出したように立ち止まり、彼女たちのほうへずかずかと歩いて近づいて行き、その場を去るため片付けを始めた彼女たちに向かって、「よかったです」と緊張した声で言う。「ありがとう」と彼女たちがもう一度言い、きみももう一度「よかったです」と言い、それ以上言うことがなくなったので頭を下げ、駅のほうへと大股で歩いて帰って行った。
それを見届けた僕も帰ることにした。多くの人たちが行き交うなかをぶつからないように歩いた。警察官がふたり、ストリートライブを演っていたこちらのほうを遠目で伺いながらひそひそと話しているのが視界に入った。ここもすぐにぴかぴかの場所になってしまうのかもしれなかった。
何度も繰り返し聴いた僕の耳には当然あなたたちの声が残っていて、サビが口を衝いて出る。「大人になったら解るのかい」。
もちろんほとんどのことがわからないままだけれど、僕もまた夜明けに向かって歩いているのだった。

編集
数年前、友人と山登りをしたときのことである。登山といっても標高数百メートル程度だったので、どちらかというとハイキングに近い感覚で、装備もわりとライトだった。
山道を登るとき、市が発行しているハイキングマップの「中級者コース」を参考にした。僕は軽い運動またはダイエットのつもりだったが、その女性の友人は写真が好きで、ときどき足を止めては鬱蒼とした茂みや、あるいは、山道から見える麓の道路などをシャッターに収め、非常に満足していた。

あるところで、道が三つに分かれていたのだが、そばに立ってあった木製の標識の文字が、長年の風雨にさらされたためか掠れてしまっていて読めない。ハイキングマップはそれほど細密に描かれていなかったので、われわれは「結局どこへ行っても同じところへ辿り着くだろう」と結論し、いちばん険しそうな道を選択した。
そこを少し進むと古いお宮があって、友だちは「いい写真が撮れる~」とたいへんに喜んだ。が、よくよく見るとそのお宮は、ずいぶんと長いあいだ訪れた者がいないような、寂しい感じがあった。僕たちのような登山者が通ることはあったにせよ、少なくとも、近隣の住民などが定期的に掃除に訪れているような様子はまったく伺えなかった。幟は対にあるべきところの一本がなくなっていたり、残ったものも色が相当褪せてしまっているうえに、「昭和五十四年」などの文字が読めて、夏だというのに薄ら寒いような心地さえした。
なんと呼べばいいのか知らないが、賽銭箱の上にある鈴を鳴らそうとしても、縄ももうぼろぼろになっていたので、彼女には「鳴らさないほうがいいんじゃない?」と自分が怖がっていることをできるだけ隠して言ったのだが、「ええ? なんで~? ここまで来てもったいないやん!」とまったく気にかけていないようだった。

人気のまったくなかったお宮を後にして一本道をずんずんと進んでいったところで、いきなりあたりが暗くなり始めた。
空を見上げて高い木々の隙間を覗くと、黒雲が頭上を覆っているらしい。と、プツ、プツ、プツ、と音がして、それからいきなりバタバタバタバタバタ、と雨水が木の葉を打ちつける音がした。夕立ちである。
お互いのリュックサックのなかには撥水性のウインドブレーカーが詰め込まれてあったのだが、それを取り出す余裕もあらばこそ、とりあえず駈け出して雨宿りできる場所を捜そう、と声を限りに相手の耳元に叫んだ。

必死でついてくる友人の足音を確認しながら、水の膜のなかを進むような思いで、走る。烈しい雨が頭から首元から腕までを打つ。リュックと背中のあいだには滝が流れているようで、その奔流がズボン後ろ側を通って下着にまで入り込み、それから内股を伝って靴下、ついで靴の中を浸していった。身体全体が水に包まれているようだった。

あてがあるわけではなかった。半時ほど雨の凌げる四阿くらいがあればいい、となんとなく思っていたところ、道を少し外れた場所に、人家らしきものが見えた。「こんなところに?」と思わないでもなかったが、女の子に声をかけ、「あそこに! 家!」とその方向を指差し、それから足元に気をつけながら(蔓性の下草が繁茂していたので、いまにも足を引っ掛けそうだった)、大股でその家を目指した。いつのまにか僕は、その子の手を引っ張っていた。

なんとか立っているというような家屋だった。直観が「廃屋」と言っていたが、とりあえず、引き戸を開ける。少しは引っかかったが、なんとか開いた。「すみませーん!
こういうとき、返事は欲しくない。さいわい、中から声が返って来なかったので、入り口の上り框に腰を下ろし、手で埃を払って「汚いところではございますが、」と少しおどけて、彼女にも薦めた。
あらためてリュックからタオルを取り出し、身体を拭いた。特別に見も聞きもしなかったが、彼女だって相当濡れていたはずだろう。このままゆっくりとしていたら風邪を引いてしまいそうだったが、まだ大雨がつづいている。平屋のせいで、天井のすぐ上で大粒の雨水の踊っているのが手に取るようにわかった。
「あれ? 音?」と彼女が言った。
「うん。すごいね、雨。うるさいくらい、天井」
「いや、音。雨じゃなくて」
「え?」
「中から」
「なか?」
「聞えない? なか。あっちのほう」
嫌な予感に反撥しながらも彼女の指す方を見ると、暗い暗い家の奥。
「しなかった? 音?」
「ええ? 僕は聞えなかったけど」
「気のせいか……ん? でもやっぱり」

音が、している。たしかに聞えてくるのは……電話のベル音だ。
「とる?」
「とるって?」
「いや、電話。出なくていい?」
「だって、ここの人が」
「おらへんでしょ」
「うん」
身体からまだぴちょぴちょと水が滴るほどだったが、靴を脱いで中に入る。引き戸の磨りガラス越しの外光でようやく中が伺える状態。上り框にあれほど埃が溜まっていたのなら、そして誰も人がいないのであれば、わざわざ靴を脱ぐほどではなかったかもしれない。濡れた靴下で廊下を雑巾がけしているようなものだ。
たしかに。
たしかに、奥へ進めば進むほど、ベル音らしきものが聞えてくる。が、外の雨もいよいよ勢いが強くなっていて、まるで家の中にまで降りしきっているような錯覚を感じる。
ジリリリリーン、ジリリリリーン、ジリリリリーン、ジリリリリーン、
黒電話だった。この家の佇まい(ほとんど「崩れずまい」だったが)を考えればちっともおかしくなかった。その黒電話が、木製の(おそらくは自家製の)電話台の上にあった。電話の下にあった敷物は、元は赤のチェック模様だったようだが、薄白く剥げかかっていた。それに対して電話器本体は、薄暗闇のなかで少しだけ青く光っているようにも感じられた。
ジリリリリーン、ジリリリリーン、ジリリリリーン、ジリリリリーン、
電話はしつこく鳴っていた。観念して僕は受話器を取り上げ、受話口に耳を当てた。
ザー……ザー……ザー……
「線」が繋がっていないという感じの音。断線してしまい、その途切れてしまい途方に暮れている様子が、その「ザー……ザー……ザー……」から伝わってくる。
もしもーし!
ザー……ザー……ザー……
もしもーし!
ザー……ザー……ザー……
もしもーし!
「うぅ」と一瞬だけ人の呻き声が聞えたかと思うと、ゴボゴボという音がして、受話口、送話口のそれぞれから、夕立ちの雨水が勢いよく溢れだしたのだった。

編集
かっトラします。
花梨さんときなこさんが書かれていたのを読んで、僕も好きな言葉について考えてみたが、これまでにも何度も書いていたということと、いますぐに「これ」というものが思い出せないので、とりあえずぱっと思いつくものだけでも書いてみることにする。



三郎は、町人客の多い居酒屋からの帰り道を、鼻唄をうたいながら歩いていた。したたかに酩酊(「酩酊」と「したたか」は相性がよい)している。
たしかに、聞える。
ことさら鼻唄を強めながらも三郎は、自分の足音とは別の足音を聴いていた。誰かが尾けてきているのだ。
思うところがあり、神社へと向かう。雲は多少多めだが、月が高くに上っている。鳥居をくぐり、手水舎(ちょうずや。調べるまで名前を知らなかった)に近づいたところへ、後ろから呼び止められた。
「馬廻組(ありがちな役名で、おそらくは下級藩士)、吉村三郎(三郎ということは、三男という可能性が高い。長男は家を継ぐとして、次男、三男は剣術稽古に励むというパターンが多い)だな」
足を止め、振り返る。「いかにもおれ(「時代小説好きの中高生」に聞いたアンケート「憧れの一人称は?」のトップ3は、それぞれ「我輩」「それがし」「身ども」なのだが、今回はリアリティをもって「おれ」にした)は吉村だが。其許(そこもと。「時代小説好きの中高生」に聞いたアンケート「憧れの二人称は?」で堂々の第1位!)は?」
「知らいでよい」
なにかを抛り投げる音(たぶん鞘。尾行のために提灯は持っていない)が境内に響いた。それから草履が石畳を蹴る音が聞える。
「むぅっ」
三郎も駆け出し、手水舎に湛えられた水を左の掌で掬い、それを自分の顔にかけた。酔いを少しでも醒ますためである。そうしながらも半身をくるりと翻し、右手で抜刀、あたりの暗闇に目を凝らす。
暗殺者にとって不利な月明かりだった。一太刀で済ますはずが、予期せぬ形で相手に身を晒してしまった男は、あらためて剣を構えた。八双(よく知らない構えです)。そして、地に切っ先を向ける。
青眼(これはよく出てくる構え。基本的な構えのはず)の三郎は、汗を吹いている。 
この男、遣うな。



この、「この男、遣うな」が好き。遣えるな、じゃないのがミソと思っていたのだが、辞書を調べると自信がなくなってきた。意味は「この男、できるな」と同じ(はず)。
たしか藤沢周平『用心棒日月抄』で、細谷源太夫が主人公の青江又八郎に「青江、この男、遣うぞ」と注意を促す場面があったと記憶している。テレビ版では、たぶんそういう言い方はせずに、細谷(渡辺徹)が「青江(村上弘明)、この男、できるぞ」と言ったのではないか。
他の藤沢作品でも「できる」という意味で「遣う」という表現があったように思うんだけど……。
せっかくなので、つづきを。



この男、遣うな。
地摺り……さては蝮の牛島(渾名、二つ名があると、人物は強そうか怖そうに見えます)か。
三郎は、相手の地摺り八双(ちばてつや『おれは鉄兵』に出てきた構えで、子どもの頃にマンガを読んでから三十年くらい経ってもいまだにその名前を憶えているのだが、ネットで調べるとちばの造語らしい)を見て、家内随一と噂される、牛島道場の師範代、牛島重吾(名前からして強そう)の名を思い出す。
牛島となると、生半(なまなか。これも好きな言葉)には済むまい。牛島の叔父(こういう場合、直系でないほうがなんとなくリアル)である重兵衛と、三郎の父、与兵衛とは互いに若いころ、江戸のさる道場(すぐれた剣術家は一度は江戸で修行をしているもの)で兄弟弟子であったのが、なにかの理由で憎み合うこととなったと聞いている。三郎にとっては関わり合いのないことだったが、牛島のほうではどうもそうではないらしい。
「牛島だな。なにをしている?」
「うぬ(でたー! アンケート「悪いやつが遣いそうな二人称は?」で堂々の第1位!)は知らいでよいと言っておる」
「叔父上殿から吉村の家に仇なせと頼まれたか?」
「叔父上が? ……はっはっ、そうではない。むろん吉村の家との諍いがあっておれがここにいるわけだが、これは上沼様からのご命令でな。参るぞッ!」
上沼様……側用人(たしか高い役。藤沢『三屋清左衛門残日録』の清左衛門も側用人だったはず)の上沼武員(かみぬま・たけかず。お偉方の名前は初読みでつっかかるようなものほどよい。また「ジュウベエ」「ヨヘエ」のような音読名ではなく、「たけかず」のような訓読名のほうが格式高い気がする)様のことか。広がっていこうとする思考が、牛島の覇気によって霧消する。タッタッタッタッ。牛島の刀は蝮のようにこちらの左脛を狙っている。
草履はすでに脱いであった。右の足指で礫を摑み、そのまま牛島の右手に放つ。刹那迷った挙句、牛島は刀の柄で礫を払った。切っ先が少しだけ上がる。今だ。
腰を落とし、牛島の視界から一瞬にして消えた。屈んだ三郎の足の指は今度は石畳を摑み、そして撥条(ばね。迫力を出すため、平仮名はあまり遣わないほうがよい)のように蹴り上げる。刀の向かう先は相手の喉仏。三郎、渾身の跳ね上げ突きである。
手応えはあった。牛島の右手から刀が落ちる。もういささかの反応も彼の身体には残っていなかった。三郎は勢いよく刀を引いた。鮮血が高く噴き上がり、月をも染めた。
「秘太刀、兎穴(藤沢周平によく「秘太刀」が出てくる。「馬の骨」も、読んで内容はすっかり忘れてしまったのだけれど、名前のインパクトがすごい)
吉村家の秘伝である。突き刺した喉の穴から兎が出入りできるから、と与兵衛は説明した。
しかし、と三郎は懐紙を取り出し刀の血糊を拭きながら考える。上沼様がいったいなんのためにおれを狙うのか。そして、明朝ほどには牛島の死体が検められ、秘伝が晒されることとなる。この太刀筋を見極める者がいるとしたら……そうか、山本(時代小説では、ありきたりの苗字のほうがそれっぽい)が一枚嚙んでおるのかもしれぬ。
酔いは、もう去っていた。月には叢雲がかかり、急ぐ三郎の帰宅を人目から隠していた。
(続……かない)



上記文章を頭のなかで再現するときは、平田弘史か、知らない人は後期の白土三平の絵で再現してみてください。間違っても谷岡ヤスジだけはやめてください。谷岡ヤスジだったら、鼻をほじりながら、片手で刀を振り回して相手をザクザクと斬り、「おれ、切っちゃったもんネー!」とか言いそう。

花梨さんやきなこさんのおふたりも、時代小説によく出てきそうな言葉を好まれていたが、僕もどちらかというと同じ。これがもっと若い新しい世代になると、横文字を好み、それを遣っているとたのしく感じるのだろうな。

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最近、ベン・E・キングが亡くなったので、追悼の意味を込めて、四年前に別のところで書いた『スタンド・バイ・ミー』(Remix ver.)を再掲する。なお、スティーヴン・キングの『スタンド・バイ・ミー』の原題は『The Body(死体)』である。
この暑い季節になると、ぼくはいつも12歳の頃の体験を思い出す。
あれは“ふとっちょ”がぼくらに持ってきた話が発端で、ぼくらの町から線路をずっと辿っていったところにある森にゲイ雑誌が落ちている、そんな噂がすべての始まりだった。
“ふとっちょ”は、“不良”の兄貴たちがそのことを話しているのを盗み聞きしたのだが、それを聞いたぼくらは、もしそれを拾ってくれば英雄になれるかもしれないと考え、ある夏休みの日、ぼくと“不良”と“ふとっちょ”と“メガネ”の4人でちょっとした「旅」に出かけたのだった。

といっても、たいした旅ではなかった。
途中、ドッグレースであぶく銭を稼いだり、あるいは『機関車トーマス』実写版の撮影現場があったのでそれを見たり、ともかくまあそんな感じだった。
夜、焚き火を囲んで野宿をしたとき、ぼくが特大のデブがわんこそばの大食い大会で大活躍する物語を話して聞かせたのだが、ストーリーが爆笑で終わったのに対し、“ふとっちょ”だけは「え? それからどうしたの? そのつづきは?」としつこく聞いて、場をしらけさせた。あまりにもしつこかったので、“不良”が送り襟絞めを決めて2秒で眠らせた。それからしばらくして“メガネ”も眠った。
“メガネ”の父親は風呂が好きでしょっちゅう風呂屋へ行っていた。ついた渾名が「銭湯帰り」。いっつも湯で暖まってぽーっとのぼせたようになっていたからだ。そのことをバカにすると、“メガネ”は怒った。「いいか、親父のことをバカにするやつは許さねえ」。そのときも、眠りながら夢の中の誰かに父親のことを自慢しているようで、寝言を言っていた。「親父はノーマ・ジーンの大ファンなんだぞ」と。
ぼくは親友の“不良”と将来のことを話し合った。彼はワルぶってはいたが、頭のいい男だった。ある日、女装が趣味の男教師が誰もいなくなった教室でスカートを履いているところを写真に収め、それをネタに恐喝して給食費一年分をせしめるほどだった。すごくいかした奴だった。
けれども、ぼくが彼のことを褒めると、彼は将来のことはわからないと言った。「それより」と彼は話題をぼくのことに移した。
「おまえだったら、小説家になれるよ」
「え?」
「おまえだったら、きっといい小説家になれるはずさ」
「そうかな」
「そうだとも。きっとさ」

翌朝目覚めて森を歩いていくと、温泉があった。なんでもドクターフィッシュを使ったセラピーで有名だということで、ぼくらはすぐに裸になって、魚に身体中を食わせた。
すっかり治療を終えたぼくらは、諦めずに森の中を進んでいった。雑誌はやがて見つかった。近くを徘徊していたホームレスと一瞬喧嘩になりそうだったが、彼の持っていた『ビッグイシュー』を1冊買ったらそれでOK ということになった。
落ちていたゲイ雑誌はずいぶんと古く汚れたもので、結局拾って帰ることはやめにした。そして、警察に匿名で電話を掛け、「『バディ(Bʌ́di)』が森の中に落ちていますよ」と伝えた。電話の向こうは「え、なんだって?」と聞き返したのでもう一度だけ雑誌の名前を伝えた。「『バディ』が落ちているんです」、そう言ってぼくは電話の送話口を下ろした。


それでぼくらの小さな旅はおしまいだった。ぼくらは別々に帰途につき、そしてその後も別々の道を行くことになった。
ヨンさん
“メガネ”

“メガネ”は中学を卒業したあと、ぷらぷらと町でアルバイトをしていたが、ある夏の日に牛丼屋で“ふとっちょ”と出会い、大喧嘩をすることになる。
チャンク
“ふとっちょ”

“ふとっちょ”は中学卒業後に無事就職し、大工になっていたが、ある夏の日に牛丼屋で“メガネ”と出会い、大喧嘩をし、丼を持ち出して殴りかかろうとするところをある男に仲裁に入られることになる。
フェニックス
“不良”

“不良”は中学・高校を優秀な成績で卒業し、それから警察官になったのだが、ある夏の非番の日、牛丼屋で口論になった二人の仲裁に入り、丼で頭を殴られ死んでしまった。

余談になるが、その牛丼屋のオーナーはぼくの兄貴だった。
読めない漢字に改名した男
兄貴

兄貴は優秀なアメフトの選手だったが、途中から相撲の力士になると言い出して新弟子検査を受けたが、うまく行かず、牛丼屋のフランチャイズに手を出していたのだ。この事件がきっかけになって兄貴の店はずさんな労働管理が指摘され、未払賃金の訴訟が起き、大きな負債を抱えることになった。


それでもぼくは、あの日“不良”が言ったように、なんとか官能小説家になることができた。あの日拾った雑誌の縁かどうかはわからないが、こうやって『バディ』にもエッセイを連載させてもらっている。
12歳の頃の日々はもう帰ってこないが、それでもこうやって毎年なんとなく思い出しているのだ。あのときの友人より他に、ぼくに本当の友だちはいないから。
 

四年前のものなので、僕自身元ネタがわからなくなっているものがいくつかあった。いまでも『ビッグイシュー』のくだりがちょっと意味がわからない。なんだろう、これ?

上掲動画をあらためて視聴すると、こんなクソ文章をアップしたことが恥ずかしくなるくらいの名曲。また、映画もよくつくられていたんだなあと今頃になってやっと気づいた。
死体を見つける朝、主人公がひとりでいるところに鹿と出会うシーンがあった(動画でも見られる)けれど、あの場面の持っている奇妙な神秘さって、いま思うにキングらしさなのかな、と思った。

編集
しぃふう、それから『加藤椎風の音楽泥棒猫』のスタッフのみなさん、こんにちは。 猫マニア11号(仮)です。
先週の放送もたいへん楽しかったです。3/29放送分のプレゼントキーワードは「ダンスは人生だ」でしたね。

まず、今週も番組への要望をはじめに書いておきます。それは――毎度毎度毎度毎度書いていることですが――放送時間が短いこと!
CMは入らないとはいえ、毎週日曜日の午後2:45から15分間だけ、というのはやっぱりあまりにも短いです。そのうえ、オープニングのテーマソング、Terry Callierの『Ordinary Joe』のイントロだけで15秒使っているので、ファンとしてはすごくヤキモキします。
もうちょっと時間があれば、ファンからのメッセージなどが番組内で読まれる機会もできるでしょうし、また、しぃふうからのファンへのメッセージもいままで以上に聞くことができると思います。
ファンとして、毎年のことながら「次こそはもしかしたら」と期待しているのは、来クールあたりから帯番組になるんじゃないか、ということ。あるいは、放送時間の拡張(30分番組へと昇格、とか)。
もう4月の放送での改編はなさそうですが(残念!)、10月には、ぜひお願いします。スポンサーの加藤薬局さん(ひそかにしぃふうのご実家だと想像しています)もなんとか頑張って!

そういえば、上記の『Ordinary Joe』ですが、何ヶ月か前に、私が番組へオープニング曲をメールで問い合わせたとき、直接の返信こそありませんでしたが、ファンクラブのメルマガに「一部のファンの方から『音楽泥棒猫』のテーマソングはなんという曲ですか、という問い合わせがありましたが、Terry Callierの『Ordinary Joe』です」という運営からの公式返答がありましたね。
ああいうのを読むと、こうやって毎週送っているメッセージがきちんと目を通されているということがわかり、すごく嬉しく思いました。やっぱりしぃふう&スタッフはファン思いですね。

ファンといえば、@Harold0010がTwitterでしぃふうにしつこく絡んでいるのをよく見ますが、なんなんでしょうか、あれ?
私のことはきっとご存知だと思いますが(念のため書いておきますが@Adrian0011です)、@Harold0010にはもっと猫マニアとしての節度を保った距離を心がけてほしいものです。しぃふうからは言いにくいでしょうから、運営のほうからきちんと警告をしておいたほうがいいでしょう。
いくら猫マニアのナンバーがいくらキリのいい10番だからといって、そんなことで調子に乗るようなやつは、番号を没収されたほうがいいんです、ほんとに。 実は以前に、私がやつにナンバーの交換を持ちかけたことがあったのです。10はキリのいい数字だから、私にこそふさわしい。そう言ってやったのですが、やつは「おれにこそ10がふさわしい」と言って聞かないんです。それどころか、私のことを「数字に固執する気違いだ」と罵倒する始末です。どっちが頭おかしいんだか。
けれどもやつは、しぃふうの「ミズ・クローガー」時代のことをなんにも知らないんですよ。それはTwitterのやりとりでわかりました。川崎LAZONAでの最初の(そしてそれが最後にもなりましたが)ライブなんかも、やつはまったく知らなかったんです。もちろん、しぃふうの「椎風」が、以前は「四風」だったこともやつは知りませんでした。だって、ネットで調べようにもミズ・クローガーのことはWikipediaに載っていないんですからね! そもそも「加藤椎風」だってウィキには立項されていないし、やつはお手上げなはずです! そんなやつがファンだとか言うのが恥ずかしいんですよ、ほんとに! ましてや、10番なんて!
もちろん私はミズクロのときからしぃふうを知っていますからね。あのとき一緒に撮ったチェキ、いまでも大切にしています。私の宝物です。
そんな私ですから、これからも、あの@Harold0010とかいうニセモノ野郎を厳しく見張っていきますので、どうぞご安心を。で、もしあいつが退会するようなことがあったら、ぜひナンバーは繰り上げするようお願い致します。

さて、オープニングの「今週のひとこと」から。
例の川崎の中1殺害事件の加害者の父親について、「ひと月近く経ったから言うけど」と前置きしたあと、「孔子に似たような話があったよね」と発言されていましたね。発言はそれっきりで、だからどうこうというコメントはありませんでした。
けれども私はわかりました。『論語』の子路篇で、「わたしの村の正直者は、父親が羊を盗んだときにそれを訴えました」と言った男に対して、孔子は「わたしの村の正直者は違う。父は子のために、子は父のために隠します」と答えた、というあの逸話のことですね。
これ、孔子が答えたことのほうが「正解」と思ってしまいがちですが、現代の感覚で言うと、どちらでも「正解」でありうる、と私は思っています。
自分の感情に素直になってあの少年のことを考えれば、犯人はもちろん、それを匿おうとした父親にだって同じくらいの罰を与えてやりたいけれど、しかしその憎しみが実際にそのまま適用されてしまったら怖い、という思いもあります。
佐世保の女子高生殺人事件だって、加害者の父親が最終的に自殺してしまったけれど、あのことについて私は結局なにも言えません。ただ、「世間の常識」が彼を死に追いやったのだとして、そしてその結果を「やっぱりそういうもんだよ」と世間が納得しているようじゃ、それは非常に怖い社会だな、と。
川崎の場合は佐世保とはまた違うケースなんですが、それでも、「自分が加害者の家族の立ち場だったらこうしただろう」という仮定をわれわれはできないと思うんです。そこを同調圧力で責めてしまうような社会(個人はともかくとして)だけは避けたいと考えています。
しぃふうはどんなふうに感じられたのでしょうか? ま、この話はこれくらいにして。

つづいては、今週の川柳・狂歌のコーナー。今回アンテナに引っかかったのはふたつ。
東京女子医大および群馬大学の医療ミス(あんなのは、ミスというより殺人です)についての、
病院に行って寿命を縮められ
と、相次ぐ企業献金問題(賄賂とどう違うのでしょう?)についての、
知らなけりゃ無実と話す政治家を選んだ罪はいづくにありや
などが印象に残りました。
なんだかこういう問題って、考えれば考えるほど文句しか出てきませんね。うんざりします。私以外の人たちは気にならないのかなあ。

「椎風のひとりごと」のコーナ-では、「○○女子」が増えている、という話題で、女性の視点からいろいろとお話しされていましたね。
「森ガールだとか山ガールだとかがあって、それくらいならまだファッションの一環としては許せるけれど、『狩りガール』などと呼び習わすことによって狩猟をファッションにしているのは違うと思う」というしぃふうの意見には、私も大賛成です。
「○○女子」という呼称が、多くの場合はビジネスと結びついてしまっているので、そのお金の臭いを、当事者である「女子」(という言い方をしぃふうはご自分でもお嫌いのようですが)として非常に嫌う、という発言は、女性のリスナーはどう受け取ったのかはわかりませんが、少なくとも男の私は非常に共感を覚えました。
最近では相撲女子なんていうものがある、ということも紹介されていましたが、「スージョ」というみたいですね。あれは私も知りませんでした。ほんと、「女性の相撲ファン」ではなぜいけないのかって思います。
それから、しぃふうが最近気になっている短歌のことに触れられて、「『短歌女子』なんてキーワードが出てこなければいいなあ」と結ばれていましたが、それはたぶん、余計なブームをつくってめちゃくちゃにしないでよ、という思いがあるんでしょうね。
そうですよね。短歌に限らず、いろいろなジャンルのものが静かにたのしまれていくというのなら非常にいいことだと思うのですが、メディアあるいは有名人なんかが名づけ親となって、マーケティング戦略にうまく乗せられてつくられたブームは、本来はそれじたいがすでにさみしいものなのですが、それが去ったあとは余計さみしいことになりますよね。
「ブーム」と名づけられなければ自分の嗜好を規定できないのか、と尻馬乗りの介の連中たちに、「先住民側」(といってもだいぶ新しいはずですが)のしぃふうがひとこと言いたくなるのはよくわかります。数年前にその先駆け(まさに短歌女子)のようなものを目撃し、口あんぐりの状態になってしまった私は、特に。

そういえば、猫マニアのひとりとしてのレポートしておきますが――かなり遅ればせながら、というところですが――ドラマ『デート~恋とはどんなものかしら~』の第二話のフラッシュモブのシーンで、バックダンサー役で出演されていましたね?
あの放送をたまたま観ていた私は、「あ、しぃふうだ!」ってすぐに気づきましたよ。で、それからずっと『泥棒猫』でその報告があると思っていたのですが、ドラマじたいについては「面白いドラマだニャ」と発言していたことはあったけれど、ご自身の出演についてはまったく言及はなく、また、ブログにも書かれていないし、ツイッターでもそのことにまったく触れられていなかったので、おかしいなと思いつつも、やっぱりしぃふうファンのひとりとして、これは「目撃情報」を報告しておかなければなるまいと思い、レポートします。このメッセージは番組で読み上げられることはないと思いますが(だいいち長すぎですもんね)、読んでくれたときに、しぃふうが「うん、さすが猫マニア、よくわかってくれているニャ」と言ってくれるのが目に浮かぶようです。
しぃふうが『泥棒猫』で『デート』についてちょこっと――本当にほんのちょこっとでしたが――しゃべっていたとき、杏さんの父親役の松重豊さんと、長谷川博己さんの母親役の風吹ジュンさんが、一昨年の大河ドラマ『八重の桜』(おととしはブログでかなり『八重』話で盛り上がっていましたよね!)で、綾瀬はるかさん演じる八重のお父さん、お母さんを演じていたということ、しかもハセヒロさんは綾瀬さんの最初の夫だった、ということを大興奮でお話しされていましたが、ほんとうはそれだけじゃないんですよ。
数年前の朝ドラ『ちりとてちん』では、松重豊さんと、それから杏さんのすでに亡くなった母親役を演じている和久井映見さんは、ヒロインの貫地谷しほりさんの両親役で、つまり夫婦役として共演していたんですよね。だから、あの『デート』というドラマは、なんだかはじめっからものすごく既視感あふれるものになっていて、それがイヤかっていうとそんなことはなく、むしろ馴染みやすいものになっていると私は感じました。
クリスマスの回は、特に良かったです。あのドラマは時系列をわざと乱す構成が特長なのですが、それがみごとに活かされていましたね。あまりにもありふれた(ベタすぎるほどの)アイテムである「肩たたき券」の使い方も、思わず「おみごと!」と言ってしまうほどでした。初回も見逃しているし、よんどころない事情できちんと観られていない部分があるので、いつかDVDで借りてまとめて視聴するつもりです。そうしたら、しぃふうのシーンももう一度きちんとチェックしますね!

今週の本のコーナーでは、スティーブン・キングの『11/22/63』を取り上げていましたね。内容ではなく、作者のスティーブンのつづりが「STEPHEN」だということに触れただけで終わってしまいましたね。なにゆえ「PH」なのに「ヴ」なのか、と。
私はこの本のことを知らなかったのですが、さっそく本屋で買ってきて読んでいます。現在上巻をほぼ読み終えたところですが、途中でスタインベックの『ハツカネズミと人間』が出てきたので、そちらに寄り道しました。
この『ハツカネズミ~』、すごい小説ですね! しぃふうは読みましたか?
『11/22/63』のなかでは戯曲化されていましたが、それもわかります。訳者のあとがきには「戯曲的小説」という説明がありました。『11/22/63』では『ハツカネズミ~』のラストシーンを特に取り上げていましたが、私はあそことは別の場所、第4章があのエンディングに負けないくらいにとても印象に残りました。
この場面では、黒人の馬屋係クルックスの寝床のある馬具室が舞台になっていて、クルックス、それに頭の足らない大男レニー、右手を失った老人キャンディ、そして浮気女のカーリーの妻が勢揃いします。この四人は赤の他人でいながらそれぞれに共通しているものがある、と私は思いました。みなが孤独と寂しさを抱えていて、けれども、「ここではないどこか」へ行くという夢を持っています(実際にカーリーの妻が自分の経歴を話すのはその次の章ですが)。
この四人が抱えている状況は、1937年のアメリカを非常によくあらわしていたんじゃないか、と思います。
クルックスは、カリフォルニア州民法書をぼろぼろになるまで読み込むような人物なのに、黒人だということで馬具室住まいを強いられている。レニーは、主人公のうちのひとりで、怪力を持っているけれども記憶力はほとんどないに等しく、子ども程度の精神しか持っていない。キャンディは、周りの仲間の強い主張によって飼っていた老犬を銃で安楽死させられる。そしてカーリーの妻は、家を出るためにカーリーと結婚をし、愛のない生活にうんざりしている。
この第4章はものすごく胸がしめつけられる場面でした。言うまでもなく、彼らは社会の弱者です。その弱者の彼らに、1937年当時ですでにスポットライトを当てているところに驚きました。
次にメッセージを送る頃には『11/22/63』の下巻を読み終えていると思います。

今週の音楽はでんぱ組.incの『くちづけキボンヌ』でしたね。
かなり思い入れがあるらしく、「絶対にYouTubeで公式の『6人ver.』を見てくれ」と何度も発言されていましたね。
観ましたよ。
はっきり言って私はしぃふうのファンなので、ほかのアイドルなんてどうでもいいのですが、けれどもしぃふうのおすすめということなので、かなり消極的に観ましたが、結果から言えば、観てものすごくよかったです!
楽曲がとてもいいですよね。オープニングのラジオヴォイスっていうのか、エフェクトをかけてフェイドインしてくる感じがどこか懐かしくて、90年代の音楽、特にThe Cranberries "Dreams"を思い出してしまいました。
でんぱ組の彼女たちはアニメ声で唄っていますが、そこを成立させる存在感を感じました。むしろ途中で声が細くなってしまうところに、彼女たち自身のはかなさを表現しているのではないか、とも思いました。
これはきっと誰が唄ってもいい歌だと思います。しぃふうにこそ唄ってもらいたい!
歌詞は、かせきさいだぁ。やっぱりいいですよね。「永遠の時間切れの恋を/光速超えて抜けてよ」とか、わりとありがちな単語をありがちに並べているようで、それでいて全然ありがちじゃないんですよね。
けれどそれよりも、「今、手と手が触れ合ったのは/偶然と キミはまさか思ってたの?」とか「スキだよって言わなくても、/伝わっていると まさか思ってたの?」のフレーズ、この語順はなかなかマネできるもんじゃないと思いました。
日本語の文法構造を逆手にとって、最後の部分で「まさか思ってたの?」と軽くひっくり返すところに、書かれてあるものを読みながら歌詞を理解するのではなく、耳から歌詞を理解するというある意味正統な音楽の聴き方をしている人にだけが気づくような仕掛けになっていて、これは非常にうまいと感じました。
PVも、楽曲にまして実にいい感じです。
この映像には少なくとも三台のカメラがあって、それぞれの役割があります。
ひとつは客席のかなり後ろ側からの固定カメラ。これはメンバーの全体をとらえる目的で置かれたものでしょうけれど、一方で彼女たちとの距離感とも言えますよね。人垣の向こう側で彼女たちが唄っているのを遠巻きにして眺めているまだ日の浅いファンの視点。
ふたつ目は舞台と同じ高さの横からの視点。これは、強いて言えばスタッフレベルの視点なんでしょうか。舞台の狭さは感じ取れますよね。
1:24あたりで、最前列のファンの男性が、頭を振りながら彼女たちを見つめています。おそらく頭のなかでは彼女たちとまったく同じ振付を踊っているのでしょう。私はこの動画を数十回は観ているので、このシーンの音楽を聴思い出すたびに、女の子たちの振り付けではなくて、女の子たちの振り付けを頭のなかで一所懸命に再生しようとしているこの男性の頭の振り方を思い出すようになってしまいました。
狭い舞台でより強調される距離感の小ささ。手の届きやすさ、とも言い換えられるかもしれません。
このあいだ別のラジオ番組で宝塚大劇場の元支配人だった人が出演して言っていたのが、宝塚は「素人を神格化」するというのを戦略にしてきた、とのことでした。その人によれば、秋元康のおニャン子クラブとかAKB48も同じ戦略を採っているらしく、それを敷衍させると、たしかにアイドルって――私がしぃふうを追っかけているのもたぶん同じ心理があるのだと思いますが――ファンが「よし、おれ/わたしがこの人たちを育てていこう」という思いによって生かされているという部分があるんでしょうね。個人的にはこの舞台の狭さが、つまりこの狭い舞台で横を気にしながらステップを踏んでいく彼女たちの姿が、「おれ/わたしがこの人たちを育てていこう」という心理をうまく刺戟しているように思います。
そして、いちばん重要なのが、客席の三列目くらいからの視点。これは手持ち撮影のために画面が揺れますが、そのダイナミックさが、すばらしい!
望遠で、躍動する彼女たちをファンの頭越しにとらえているこの視点――ときおりぼやけたりするところなんかもあって――が、最前列を陣取るマニア・オタクでもなく、といって、壁にもたれて腕を組むような醒めた初見の客でもない、ほんとうに一般的なお客にとっての距離感というものが、この「前から三列目」という立ち位置なのではないでしょうか。
3:16あたりから、ある女の子のちょっとしたソロパートがありますが、このとき客席のファンが、片手に緑色のサイリウムを二本ずつ、しかもそれを両手で振り回します。ここで、ほんの一瞬だけですけれど、カメラのフォーカスはお客さんのほうに来るんですよ。ふつうなら、そんな客席なんかは飛び越えてしまって直接女の子にフォーカスすればいいのに、まるでお客さんも主人公だと言わんばかりなんです。ここはおそらくこのPVのキモといってもよく、動画制作側は「してやったり」と思っているシーンなんじゃないでしょうか。
以上のように、彼女たちのライブ動画が見せてくれる客席と舞台とのこの距離感に、なにか特別なものを感じずにははいられませんでした。とても、特別ですてきなPVだと思います。
「今週の音楽」については、そんなところです。

最後に、番組ディレクターのフレミーが来クールから異動になってしまうみたいですね。彼女のツイッターで知りました。
プロデューサーさんと海外ドラマの話をしているとき、『名探偵モンク』の話で盛り上がったフレミーが、モンク好きのアイドルを知っているということでしぃふうを呼んで、それで番組をつくった。たしか『泥棒猫』が始まった経緯はそんなだったと記憶しています。
あれから六年なんですね。 
私も、しぃふうのファンを始めてからモンクを知ったクチで、その頃はまだDVDもなかったように記憶しています。最近になってまたDVDをレンタルしてシーズン1から観始めています。
そういえば、このあいだ観たやつで傑作のジョークがありました。ええそうです、例によってディッシャー警部補に関するものです。

モンクの卒業した大学で長年看護婦をしていた人が一週間前に殺されて、犯人はもしかしたら大学にゆかりのある人物かもしれない、とストットルマイヤー警部とディッシャー警部補が大学に捜査にやってきました(折しもそこでモンクは同窓会をしていました)。
聞き込みをすると、はたして怪しい人物が見つかる。その男は在学中(といっても何十年と前ですが)に、殺された看護師にドーピングを訴えられ、なにかのスポーツの大会に出られなくなったという経緯があったという。
つまりそれを逆恨みして何十年か経って殺した、ということで、その男を犯人の第一候補として捜査を進める。
それからしばらくして、ストットルマイヤーのもとにディッシャーがやってくる。
「警部、聞き込みをしましたらやつは犯人ではない、ということがわかりました」
「ふむ」
「理由が3つあります。その1。やつはけっきょく繰り上げで大会に出場していました」
「そうか。被害者を恨む動機がないってことか」
「はい。その2、やつは1995年に死亡していました。その3、」
「おいディッシャー!」
「ええと、その3は……」
「おい待ってくれ、ディッシャー!」
「はい?」
「よく聞こえなかったんだが、『その2』をもう一度言ってくれ」
「その2。95年に死亡」
「なんだって、やつは死んでた?」
「はい」
「それだったらだな、『その3』以降は要らないし、おれだったら、『その2』を『その1』にする」
「そうですか?」
「世界中のオトナはそうするよ」
「へえ」

このやりとりは、ディッシャーのキャラクターを知らない人には伝わらないんですが、もちろんしぃふうはわかるだろうし、ここ、憶えているんじゃないでしょうか。 私は、モンクよりディッシャーのほうがよっぽどカウンセラーを必要としているようにも思いますが、まあとにかく愛すべき人物です。

話は尽きませんが、きょうのところはここまでにしておきます。最後に。
最近はYouTube上にあるラジオドラマを防水性ウォークマンに落として、お風呂のなかでそれを聴くというのをちょっとしたたのしみにしています。
音源には、三谷幸喜の『笑の大学』なんかもあります。最近亡くなった坂東三津五郎(当時は八十助)と三宅裕司が主なキャスト。1994年のもののようです。
私はこの脚本を映画でも観たことがあるのですが、比較鑑賞するのも面白いです。率直に言えば、検閲官である向坂は映画版の役所広司が、作家の椿はラジオドラマ版の八十助が好適だと感じましたが、それは、それぞれの媒体における印象なので、一概には言えないし、三谷の正統さがより発揮されていると思われる舞台を観ていない私には、とやかく言う資格はありません(といっても、どう差っ引いたって、向坂役の役所広司の素晴らしさは特筆に値します)。
けれども新たに発見した点をひとつだけ言えるのだとしたら、映画のほうがウェットなエンディングなのに対して、ラジオドラマには、なお希望が見えるところでした。ラジオドラマ版では、「生きて帰ってこい」はお別れの言葉ではなく、文字通りに生還を願う励ましの言葉。これが、三谷幸喜の本質なのではないかと思いました。
そうそう、いつかラジオドラマに出演したいというしぃふうの夢、叶うといいですね。それでは。

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