とはいえ、わからないでもない

カテゴリ: 気づいたこと・考えたこと

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昨年の見聞きしたなかで、もっとも吐き気を催す言葉が、「平成最後の」だった。
NHKみたいな提灯放送機関が使用するならわかるが――そして実際に使用しているが――なぜ官公庁勤務でもなく元号使用にそれほど馴染みのない人間たち(特に若い人間ならばそうだろう)までもがやたらと平成平成と口にするのか。それが、まことに気味悪く、いまだにその思いがつづいている。
バミューダ・トライアングルを本気で信じ込んでいるムー読者(僕も信じていたよ!)のごとく、天皇制=元号使用=括弧つきの「保守」、という三角形を堅く守っていこうと誓った日本会議およびそのシンパたち発信のプロパガンダであろうことは言うまでもないのだが、それにしてもみんな使いすぎで、そうなると、プロパガンダという陰謀論ひとつに任せておくこともやや心許なくなってくる。
ん? だがこれと似たようなことを最近どこかで見たような気が……。
と、例の安室ちゃん問題を思い出す。去年の9月半ばにそのことについて書いたが、人は最後になるとわかった途端にありがたがるというか惜しみだすというか、とにかく褒めちぎるのである。梅ジャムにしても関東のカールにしても、おまえらふだんからそんなに買っていたのかよってくらいに「青春の味」アピールするでしょ。そういう心理のおかげで「平成」の価値は現在インフレ真っ最中、というのが僕の見立て。そういう不自由な脳味噌の使い方から、そろそろ解放されようぜ。

余談だが、その平成最後の紅白が思いのほか好評だったようである。サザン・ユーミン・北島三郎の共演を手放しで奇跡とか伝説などと絶讃する声が少なくないらしいが、僕はただ「笑っていいとも」の最終回でロートルが大集合した映像を連想するばかり。いくら金を積んだか知らないが「大御所」なるものが共演するというだけですばらしいというのなら批評は必要なく、それはアイデアのないアヴェンジャーズみたいなもので、まさにそれこそが紅白という気がしないでもないけれどね。ちょっと引いて観てみりゃぬるい学芸会にしか見えないが、それのなにが腹立たしいかっていうと、受信料が使われているということ。朝もプライムタイムもただのバラエティショーにしか過ぎなくなってしまった感があるので、冗談抜きで受信料を支払う気がなくなってきた。天皇制の維持と一緒で、有志の寄付だけで賄えばいいのにって思ってる。そうなりゃ僕は、総合はドキュメンタリー枠と(いちおう)ドラマ枠だけにしかペイしないつもり。「ニュース」枠もスポーツ枠もバラエティ枠も全部カットしてもらって結構。なんで内村が紅白の司会しているのかと思ったらNHKでバラエティ番組を持っていたのね。でた、うちわむけー。NHKが大好きな、そしてNHK視聴者が大好きな、うちわむけー。おまえら自腹でやってみろってんだ。
NHKついでに書くと、このあいだ観たまんぷく(どうでもいいけど、まんぷく、一回の視聴でかなりいろいろなネタが掘れたな)で思ったもうひとつは、弁護士役の菅田将暉(他の役柄ではどうかわからない)が高畑充希化していることに誰も触れないわけ?ってことだった。

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なにかについてすこしだけ詳しくなると、それにまつわるニュースに対するいわゆる世間の反応とかいうものが、いかにバカげていたり的外れだったりするかがわかるようになる。アイドル関連のニュースで、全然知りもしない人間がなにかをほざいているのを見たりすると、「なんでこいつ、わざわざ『自分はアホです』って言いたいんだろうな」なんて思ってしまうけれど、まあでも、人間ってそういうものかもしれないね。このあいだ話していた人が、神道のことを「しんどう」と言い、プロテスタントのことを「プレジデンス」と言い、「軽減税率」のことを「カイゲン税率」と言っていたけれど、そういうくらいの知識でも臆せずなにかを語るということはいいことだと思う。面と向かった会話に限るが。また率直に言って現在は、その言い間違いを言い間違いのまま済ませられる余裕のほうが好ましい。2019年に消費税増税した際に導入されるのであれば、ある意味「改元税率」かもしれないしさ。
なにかを言い間違ったり勘違いしたりしたのを、「え、ちょっと待ってください」とスマホを取り出してWikipediaをチェックして挙句の果てにゃあ修正したりするやつって、世の中にどれだけいるんだろうか。菅田将暉(すだ・まさき)、黒木華(くろき・はる)、米津玄師(よねづ・けんし)、を初見で読めた人は皆無だろうし、けれどもいつのまにか、「おれ/わたしは知ってるよ」みたいなツラして世の中をわたっているわけでしょ。そういう人の、流行り言葉(特にツイッターとかの)を初めて遣った瞬間を隠し撮りしたコンピ動画があったらずっと観つづけたいよ。あんがい平然としているものなのかな。あるいは、「おまえ遣い慣れてねーだろ!」ってツッコミに怯えていたりするのかな。話を戻すと、正確さに拘泥しつづけるコミュニケーションって、たのしいんですかね? 正確性や中立性に死ぬほど配慮した結果、クソの役にも立たない情報だけをやりとりして、たまった鬱憤をSNSで吐き出すんですかね。だからあそこはクソ溜めなんすかね。みんなクソ溜めのなかでよく溺れないんだな、とカナヅチの僕は感心するばかり。
排泄物で思い出したんだけど、来年はいよいよ東京で大きなスポーツ大会をやる。そのときになったら右も左も一丸となって反対派を非国民扱いしそうなんもんだから、いまのうちに水を差しておこう。あらかじめ断っておくと、選手のほうに故障があるわけではない。五輪のスポーツであるとないとにかかわらず、そりゃあアスリートたちはじゅうぶんにやっているのだということは、いかなスポーツ音痴の僕だとてわかっているつもりだ。男性アスリートにおいては、遠征の合間の買春、違法賭博、後輩への暴行、対戦相手への意図的な傷害等々に従事しつつもその間隙を縫って練習や稽古に励み、女性アスリートにおいては、セクハラやパワハラのジャングルをなんとかくぐり抜けながら、そのうえ生理不順に至るまでの猛練習の強制に耐えているのである。スポーツって、ほんとすばらしい。
『ブルータス(884)』で、ライターの武田砂鉄が東京五輪についてこう言っていた。
今までは頑張って批判してたけど、やるとなったからには楽しもうとか言い出すヤツをチェックするのが、2019年の仕事になると思います。
はじめはね、みんな批判するのよ。けれども、どこかの地点で分水嶺が発生し、そこからは「ま、いっか」みたいなノリを共有し始めるってのがこの国の人間の性質でしょ。2013年あたりにぶーぶー言っていたみなさん、いまだにぶーぶー言えてますか? それとも、選手に罪はない、とか、スポーツじたいを批判したいわけじゃない、みたいなとっても都合のいい言い訳を見つけたりしましたか? おれはあの日からずっとオリンピックをボイコットしているよ。おかげで読売の、「読者が選ぶ10大ニュース(2018)」のトップが羽生結弦がなんたらかんたらっていうのを見て、はじめて連覇なるものを知った次第。もともと世間のニュースに疎いけどさ。
ま、いいやって感じだよ。なんつうか、「世間」なんてものと隔絶して久しいし、その傾向はますます強くなっていくだろう。この国がどん詰まりに突き進んでいくのも、最近は見ていて楽しくなってきたしね。大勢のヨダレ垂れ流し無批判無脳人間たちがふらふらと歩いていって、レミングスみたいに地獄の淵に真っ逆さまに落っこちていくのを、後方から見物することにする。いや、僕だって落ちますよ。ただ、大勢の人間たちが「うわーこんなはずじゃなかったのにー」と後悔しながら落っこちていくのを見られるのであれば、落ちるのは構わないというだけ。

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ちょいとある本を読了して、この本に書かれているのはまさしく正義ってことだよなあと痛感した。「万人における真理がないように、万人における正義もないんすよ」みたいなことをほざくやつは、もう相手にせん。そういうバカどもに対してエクスキューズを残しておくような文章をひりだすことこそが時間と労力のムダ。
それはともかく、そこに書かれてあったような正義――厳密にいえば、正義の不在が謳われていたのだが――にまつわる怒りっていうものを、なかなか大衆は持たないもんですな、というのが今回の記事の主題。持ったとしても、短期間で燃え尽きてしまう。それに比べりゃですよ、世の中の炎上事件のほとんどが、クソどうでもいいことで、まあみんなよくそんな労力あるよねってことをきょうは考えていた。
このあいだ目の端に「そのようなこと」がチラと映ったので、「YouTuber 2018 炎上」と検索ボックスにぶちこんでググってみると、まあしょうもないサイトがずらーっと出てきた。で、そのしょうもないサイトのひとつにアクセスしてみると、見たことも聞いたこともないようなYouTuberたちの名前が出てきて、たぶん中高生(小学生も?)くらいなら、半笑いで「あー、しってるしってる」っていう人たちなんだろうけれど、そういう人たちがしでかした「事件」とやらの概略がもう意味不明で、別にどうでもいいじゃんみたいなものがほとんどだったけれど、まあどうでもよくないんでしょうな、観ている視聴者たちにとっては。YouTuberの〇〇と××が付き合っている疑惑、みたいなのもあって、そんなの若いもん同士すきにさせといたれよ!と思っちゃうんだけど、まあどうでもよくないんでしょうな、観ている視聴者たちにとっては。
世の中、ほんとうに怒るべきことは山ほどあるんだが、けれどもその怒りのポイントみたいなものはだいたいが複雑だったりするものだから、それを解きほぐして咀嚼することよりは、YouTuber同士の惚れた腫れたに一喜一憂しているほうがラクなのね。でもって、彼らに対しては、「おもしれー」とか「かわいー」とか「かっこいいー」とかの敬意はいちおうあっても、「おれら/わたしらとそんなに変わりないはず」みたいな意識も別個にあるものだから、人気者だったり、ときには大儲けしていたりすることに対して、静かな嫉妬心の炎も抱えているわけだ。ふだんはそれを隠しているけれど、なにかがあればそれが爆発してしまい、「前々から思っていたけどこいつ面白くない!」みたいなことになるのかな、とこれまた全然YouTuberの動画とかを観たことないくせに考えてみた。いや、ほんとは去年、海外のゲームYouTuberのリアクション動画をかなり漁っていたんだけどね。
このあいだ、たまたま観たゲーム実況YouTuber(女性)が生配信(?)で泣きながら話しているのがあって、それをチャット欄でファンたちが一所懸命に慰めていて、「いいもの観れたなあ」と、とても微笑ましい気持ちになれた。皮肉な意味ゼロで。ああいう原始宗教みたいな構図、好き。その規模が小さければ小さいほど、個々の感情の熱量は濃密になるから。
ところで、この年末年始、あなたはいったいなにに対して怒っていましたか? というアンケートを取ってみてほしい。たとえば、「ジュリーの公演ドタキャン」と「アベ政治を許さない」と「照射」はぜんぶ別グループのホットトピックってことになりそう。例の上沼恵美子についての記事に対するヤフコメは、思いのほか良識的なもので、かなりがっかりした。ヤフコメ民にはもっと民度の低さを保ってもらわないと、張り合いがないのである。

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一般参賀って言葉はもちろん見たことがあったけれど、けれども実際になにをやるか知らなかったし、ましてや自分の知り合いがそこに並んでいてそこから暇潰しがてらに新年の挨拶メールを送ってくるとは思わなかったよ。四十年生きた甲斐があるってもんだ。
15万人もの暇な人が世の中にはいるもんだと思ったのだが、まあ暇ってことは幸せってことだ。だから「暇人だねえ」ってのは、「幸せだねえ」という褒め言葉なの。
その幸せな連中が大勢たかっているニュースをNHKで伝えていて、その最後のシーンで、天皇が手を振るのがスローモーションになり、そこに向けられたオーディエンスの声がたまたまふたつだけ明瞭に聞こえたのだが、それが「ありがとうー!」と「ご苦労様でしたー!」で、なるほどそこにいた人たちの程度というのをなかなかうまくあらわしているんじゃないかと、心が温まる思いだった。

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ときにうんざりするほどの、また、ときにはうっとりするほどの饒舌で鳴らすTBSラジオ『菊地成孔の粋な夜電波』が今年の年末で最終回を迎えるというアナウンスがあり、今年何回目かわからない、けれども最大のものとなることだけは間違いない喪失感の強襲があった。以来、ドイツ製の鈍器でどたまをどつかれ、どす黒くどぶのような悪臭のする血を垂れ流しつづけているような気分。鈍感な独裁者の道義的感覚と貪婪な読書家の土俗的な毒舌との撞着にめくるめく思いを馳せ、ドミノ倒しになったドライフラワーの束を必死に掻き集めてはみるものの努力だけではどうにもならないようですぐに砕けて手からこぼれ落ちてしまい、けっきょく都々逸を口ずさみながらドラッグストア目指してドライブする。これすなわちドレミのド。度し難い現実とはいえ、どのみち唄いつづけていかねばならないのだ。土曜の深夜、午前4時。もちろんカーラジオのスイッチはONにしてダイヤルを954kHzに合わせる。

僕は、番組内でのテクニカル・タームでいえばライト級にしかすぎないリスナーだ。記録を見れば2015年の秋頃から聴き始め、そこから毎週録音・保存し、同時にアーカイヴを掘ることも始めた。はじめはYouTube上にあったものを、それから有志によるまとめサイトを発見しそこを掘った。それらをすべて聴けばヘビー級だ、などと主張するつもりはまったくなく、ただただ、自分ひとりの愉しみとしてそのコンプリートを静かに目指している。
いろいろと、ほんとうにいろいろと言いたいことがあるけれど、すでに菊地成孔本人が言っているような「野暮」になってしまうので、言わない。けれども、番組終わりの彼の「また来週」という言葉がいかに多くの人を救ってきたのかは想像に難くない。

ついこのあいだ、今年の9月29日の放送時に、マック・ミラーの追悼があった。この日はまた番組のシーズン15の最終回でもあり、そして来シーズンも続行することが「さらっと」アナウンスされていた。もともとはシーズン(半年のクールの意)の区切りごとに次はあるのか、それとも終わってしまうのかとヒヤヒヤしているリスナーが多かったのだが、最近は安泰も安泰ということで「心配もされなくなってきた」ということを菊地がげらげら笑いながら話していた。
ひとしきりの「バカ話」のあと、ある番組リスナーからのメールが読まれた。若くして、26歳(27クラブにも入れない!)にしてオーヴァードーズで死んでしまったマック・ミラーの死を悼むというその内容に対して菊地は、「相当不謹慎ですが」と前置きしたうえ、「(ヒップホップが)非常に優秀で若い才能が亡くならざるを得ないジャンルということに誇りを持つべき」で、マック・ミラーの死はしょうがないと諦めるしかないと言った。
そのときたまたま過去回(2011.7.31放送回)も聴いていたところで、そこでエイミー・ワインハウスの追悼がおこなわれ、やはり彼女の死は「しかたない」と見なされていた。これが突き放したような言い方だったらきっと多くの人間から反感を持たれるだろうが、聴いた人間ならそのほとんどが、そこに愛情を感じたはずだ。音楽があったために彼女が27歳まで生きることができたのだと思うことにする、と言っていたのだから。
その放送を聴いてから彼女のアルバム『Back To Black』に収められていた『Hey Little Rich Girl』(これが日本版のボーナストラックだったということはつい最近知ったことだ)をYouTube上で探してみた。
胸が締めつけられるような映像だ。中盤ハイライトの男性ファルセットがすばらしいのは当然なのだが、なにせ主役のエイミーがどろんどろんになってしまっていてピリッとしたところがまったくない。焦点の定まらない瞳、間奏部分でさえ口元に持っていってしまう、なにか。これが氷の溶けたネクターピーチだったりすりゃどんなによかったか。
ちょうどそのようなときだったので、マック・ミラーという人物をほとんど知らなかった僕も――死亡記事が出たときにはNPRの動画をひとつ観ていたけれど――、その死に痛ましさを感じていた。
2018.9.29放送回に話は戻る。マック・ミラーの死を「しょうがない」としたうえで菊地成孔は、ルイス・コール『Things』の歌詞を紹介し、この曲を彼に捧げた。

予想もつかず 知らないうちにすべてを失っている
だけど 危険水域に入る前に
最高のアイデアというものは思い浮かぶもの
愛する人たちきみを呼び戻す
常連たちはきみにひどい扱いをする
まさに晴天の霹靂
でも ようやくはっきりしたろう?

ものごとは思い描いたようにはならない
ものごとは思い描いたようにはならないんだ
それはいいことかもしれない 悪いことかもしれない
いずれにせよ ぼくらが知る真実はひとつ
ものごとは思い描いたようにはならないということ

コインをつかってスクラッチ
そうすると きみの絶望があらわになる
あらたな時代がやってくる
そして別の友だちが来ては去ってゆく
愛するひとは きみをひどく傷つける
だけど 見知らぬ人々がきみを連れ戻す
雪が舞い始めたのに 太陽が燦々と照りつける
まさにそのとき きみは知るのだ

ものごとは思い描いたようにはならない
ものごとは思い描いたようにはならないんだ
それはいいことかもしれない 悪いことかもしれない
いずれにせよ ぼくらが知る真実はひとつ
ものごとは思い描いたようにはならないってこと
ものごとは思い描いたようにはならない


そしてこの曲が流れるまま、番組はエンディングへ。
マック・ミラーを失ったすべての人々にとってこの曲がリアルでありますように。ジャズミュージシャンの菊地成孔がお送りしてまいりました『菊地成孔の粋な夜電波』、そろそろお別れのお時間です。来週からはシーズン16が同じ時間帯、同じ曜日でなにごともなかったようにつづきます。あらゆるおやすみなさいの方も。あらゆるいってらっしゃいの方も。トイレに起きた方はどうぞそのままで。明け方か夕方か一瞬迷った子には天使が鼻をかじりに来るぞ~。また来週、来シーズンでお会いしましょう。
これを聴いたとき――録音したものを仕事場でウォークマンで聴いていたのだが――不覚にも涙が出てきた。けっして思い描いたようにはならない現実のなか、けれども、番組は僕や他のリスナーたちが思い描いたとおりにまだまだつづいていく。それはほんとうに、ほんとうに幸福なことだなあ、と。
しかし、偶然なのか言霊なのか、現実はやはり思い描いたとおりにはならなかった。シーズン16はなにごともなかったように始まったが、満足に終えることもできず、年内で打ち切られてしまうのだ。いまから振り返ってみるに、それはごく当然のようにも感じる。いかにも菊地自身が喜びそうなシチュエーションだ。甘く苦い現実。優しく傷つける現実。ならばリスナーであるわれわれも、この皮肉な現実を泣きながらでも笑うほかないだろう。

番組終了のアナウンスがあり、フェイスブック上でも菊地成孔本人からの経緯説明があった。嫌いな人は大っ嫌いであろういつもの躁的おしゃべりそのままの文章で、これを、「ああ菊地さん、空元気しちゃているよ……ムリしてるんだろうなあ」なんて読んじゃあ菊地ファンとは言えない。むしろ、「ああ菊地さん、めちゃくちゃ状況をたのしんじゃっているよ……けれどもおれ/わたしはやっぱりまだそこに追いつけないよ……」というのが多くのリスナーたちの反応では?
ツイッターでも超例外的に本人からのツイートの連投があった。それの最後から2番目と3番目を引用しておく。
12)自由に生きましょう。我々には、その権利がある。楽しんで生きましょう。我々には、その自由がある。あなたを縛ってるのは上の方の偉いさんじゃない、あなた自身なんです。その縛りをほどくために、僕は音楽に忠誠を誓ったんです。 
13)だからあと9回、よろしくお願いします。人生は祭りなんですよ。艱難辛苦を飲み込んで、絶望とともに笑って楽しむしかないのよ。それが最強の状態なのよ。そのことを伝えるために8年も赤坂通ったんだからさあ。首切られることですら、それを伝える一環になるのだから(笑)。 
いろいろと、ほんとうにいろいろと言いたいことがあるけれど、すでに菊地成孔本人が言っているような「野暮」になってしまうので、言わない。けれども、番組終わりの彼の「また来週」という言葉がいかに多くの人を救ってきたのかは想像に難くないし、この僕もまたそうだった。
あと9回、たのしんでいこう。胸に苦しみを抱えながら。

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きのうの朝5時くらいに初報(?)を見てびっくりしたんだけど、来年8月でGoogle+のサービスが終了するらしい。
めちゃくちゃ使ってるよ。「ユーザーの90%のセッションは5秒以下」という報告があるみたいだけど、めちゃくちゃ使ってるよ。僕は完全に家族専用にしていて、それらの記録なりなんなりがなくなってしまうのは、ほんと困るんだよな。
Googleのこういうときの頼りなさとかドライさってのはあらかじめ知っていたけれど、でも、ほんと困る。
ほかのSNSのコンセプトを知らないからなんとも言えないんだけど、「広がりたい・つながりたい」みたいな価値観とは隔絶したコミュニケーションツールがほしい。機能がどうとか言わないよ、G+のユーザーなら。いいねとかも要らないし、「この人も知り合いでは?」みたいなサジェスチョンも要らない。
総体的に言っていまのネットでは、そういう閉鎖的志向のユーザーに対するサービスが欠如していると思う。

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台風がまた去っていった。

災害がすっかり年中行事化してしまったものだから「被災地」も全国に点在するようになった。本心から信じているかどうかはわからないが、「日本全国、どこでも『被災地』になる可能性がある」なんて言説がそれなりの説得力をもって流布されてもいる。
なもんだから、災害の範囲外の人たちも被災地に気を遣うというのがある種のネットマナーになってしまっているみたいだが、僕はこれにあまり賛成しない。
たとえば雪が珍しい地域であれば雪降りは素直に嬉しいものであるが、「大雪で困っている地域もあるかもしれないから不謹慎なんだけど」みたいな前置きをしてから喜ぶ、みたいなのを見るたび、そんなに気を回さなくていいのにと思ってしまう。いやまあいいじゃん、配慮しておけばよけいな衝突を防げるんだから、という人もいるかもしれないが、そういう妙なマナーが広まってしまうと、そういう前置きをしない人間がマイノリティになってしまって、彼ら/彼女らを不謹慎だと詰る風潮が広まってしまう。日本のネット空間に特徴的なのかもしれないが、なにか大きなことが起こると「不謹慎」批判の大合唱がよく起こるでしょ。ただでさえ息苦しいのに。
そもそもね、どこまでを配慮の範囲とするのか、だ。日本国内で天災が起こっていなくたって、地球規模でみれば、自然災害から戦争まで悪いことが起こっていない瞬間はただの一度もないと言ったっていい。バカのひとつおぼえで「不謹慎」と弾劾する人たちは、この先ひとつも歯を見せることはできない覚悟で生きているのだろうか。「きょうも一日しあわせでした」みたいな何気ないツイートに対して「シリア難民はいまだに故郷に戻れないというのに!」とか「ロヒンギャの人たちが受けた苦しみを考えてみれば!」なんていうコメントが大量に投げかけられる、そういう世界をあなたはお望み? わしはイヤじゃよ。
せめて同じ日本人として、みたいなことを言う人もいるかもしれないが、そういう「きずな」系のストーリーもさすがに色褪せているんじゃない? ネットが身近になったせいでいろいろな情報が望むと望まざるとに関わらず入ってくる。そのせいで、隣人のことはあまり知らないのに何百kmと離れた場所の情報を必死になって集めているなんて事態があたりまえになってしまっている、悪いことばかりではないけれど。でもさ、そういう「同じ日本人として」みたいな幻想だってそろそろ捨てたっていいんじゃないか、という幻想もその代替品として検討され始めてもいいのではないか。他者に対して、ときにシンパシーを感じることもあるし、そうでないときもある。でもそれは不謹慎だとか無関心を意味するわけではなく、われわれが知りうることや意識の範囲には限界があるということしか意味しない。
それに、日本日本とおっしゃいますが、日本といったって相当広い。どこまで想定した上での日本なのか。


唐突に話は変って、ヤフコメがたのしい。
2ちゃんとかはてブとか小町とかにかまけている場合ではない。やっぱりヤフー。
先月の27日にいよいよ週末に台風24号が来るというニュースが出たとき、そのニュースに以下のコメントがついた。
週末には舞浜の施設に行くつもりでしたが、台風上陸との事なので、延期するしかありません。子供達も久々に舞浜の施設に行く事を楽しみにしていましたが残念です。
この「だからどうした感」あふれるコメントにひっかかってはいけない。僕はまだヤフコメ素人なので、このコメが釣りなのか素なのか判別できないのだが、この時点ではとりあえず反撥せずにそのまま受け止めて、その反応(他のユーザーによるこのコメントへの返信)をチェックする。これがヤフコメをたのしむコツ。
そうすると、こんな反応が見られた(以下、すべて原文ママ)。
遊びが中止にことなんて大したことことはない。生きることが中止になる人がいるんだから。
いきなり怒られてしまった。これは「だからどうした」という感情を率直にあらわし、かつ大上段から説教をくわえるというパターン。書いている本人は「また名言を残してしまった……」と自己満足していそう。
その次がこれ。
ディズニーランドって言っちゃいけないの?
なるほど。たしかにコメ主は婉曲表現をしていて、それが気に食わないという反応は一定数起こるものなのかもしれないが、なにか思ったことがあったらすぐに言ってしまおう・書いてしまおうというのがヤフコメ民のルールなので、間合いなしでいきなり斬りつける。
金があるん羨ましいわ。俺にくれ
これまたストレート。ヤフコメ民に遠慮はない。説教やきついツッコミのみならず、いきなりせびるという方法もある。嫉妬から無心までノーモーションというこのスピード感こそヤフコメの醍醐味。さらに面白いのは、このコメントがけっこう支持を得ているという事実(そう思う: 21 そう思わない: 6)! まるで「せびられる隙を見せたコメ主が悪い!」と言わんばかりの空気感。そうそう、ヤフコメは基本、自己責任論者の溜まり場でもある。
おまえの予定なんかどーでもええわ。
生活にまだ苦しんでる人がおること考えろボケ
わかりやすい直の罵倒。いちおう被災者に寄り添っている体を装っているが、おそらく言いたいのは1行目だけ。
関東にも台風の影響あるでしょうが直撃する地域は行楽どこではない。
まさか1年にその日しか行けないの?
これも上と似ているやり方。被災者をだしに使い、かつ批難は婉曲表現。こんな見ず知らずのやつにスケジュールのことまでうんぬん言われたかないだろうが、逆にいえば、ここまでのコメントを引き出す元コメントの釣り力もなかなかのもの。
また、こういうのもあった。
舞浜の施設って(笑)
老人ホーム?
あるいは、
施設って?刑務所?(笑)
はじめはちょっと意味がわからなかったのだが、どうやらこの人たちは「施設(facility)」という言葉を、介護施設や刑事施設、あるいは児童養護施設などというなにか特定の場所のことだけを指していると思っているらしい。もっとフラットな意味での「施設(これ以上言い換えようがないのだが)」という言葉を知らないようなのだ。インターネットというのはこの種の基本語彙の覚束ない人たちが結構いて、たとえば「性癖」を「性的嗜好」の意味だと思っている人は実に多く、本来ならそんな意味はないということを聞いたらびっくりするんじゃないかと思うのだが、けれども指摘されたら指摘されたで、「言葉っていうのは流動的で、変化していくもんなんだよ」みたいなことをほざきそう。
……などなど、どのようなクリエイターでも、元コメからこのような多種多様の反応が導き出されるとは想像もできまい。興味深いのは、彼ら/彼女らのほとんどが、俯瞰の立場などではなく同じ地平・土俵でかつ全力でコメントし合っているというさま。そこらへんがはてブなどの、マウント目的のコメントや自称「大喜利」などという寒いコメント群に較べて100倍面白い。


話はまた戻る。
すくなくとも、ヤフコメに常駐している人たちも「同じ日本人」なわけで、「同じ日本人として」うんぬんというのならば、ここまでシンパシーの領域を拡張しなければ嘘になる。というか、「同じ日本人」発言って、ヤフコメ民こそ言いがちな気がする。
軽々に「同じ日本人」みたいなことを言う人は、日本人ならみな善良で慎ましくて、同情や憐憫に値する人たちばかりというイメージを持っているのかもしれないが、そういう発想の根本には人種差別的感情や自己民族優越感情のニュアンスが少し漂う。
昨今は小池百合子でさえ多様性を口にする社会ではあるが、その多様性を実現するためには、上記ヤフーコメントに見られるような、素朴で単純で想像力をあまり期待できない連中にも、その外部があるということを知らしめ、なおかつそこに参加させなければならないし、また一方で、自身を「そういう連中」とはまったく一線を劃していると認識している人たちも、「そういう連中」に対してある程度の歩み寄りをしなければいけないということでもある。
けれども、スポーツで活躍した人たちや藝術や科学などで表彰を受けた人たちを、簡単に「同じ日本人」として誇らしくなれるという羨ましいほどに単純なマインドをもってすれば、そのまったく逆方向に位置する人たちに対しても理解や折り合いをつけることは可能だろう。僕自身は、日本人というステータスにそれほど重要なものを見出だせないので、どちらに対してもフラットな感情しか持てないけれども、多様性という意識の訓練には積極的になろうとは思っている。

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『新潮45』が休刊を決めたらしい。直観的にちょっと気になる終わり方だと思った。

かつて麻生とかいう人間が首相をしていたときに「未曾有」という漢字を「みぞうゆう」と読んで失笑を買った。あの頃はまだマスコミも元気がよかった印象で、こんな愚かな人間を頭にしているんだよわれわれは、みたいな空気感を漂わせてご満悦という感じだったし、それを嘲弄してネタにするという例もいくつもあったように記憶している。
かくいう僕も「おいおい」と笑ったものだったが、けれどもいま冷静に考えてみれば、「未曾有」という漢字を読める/読めないということは、(あたりまえのことだけど)政治家の能力あるいは個人の人格とは無関係だ。そして、「未曾有」という漢字をパッとは読めない人間はこの日本に麻生しかいないわけではない。
あのとき、「へー、未曾有って『みぞう』って読むんだ」とか「へー、『みぞう』って『未曾有』って書くんだ」と思った人たちは世間のあの空気をどう感じたのだろうか。たしかに「総理大臣のくせに」という前提条件が必ずつく嘲笑ではあったものの、読めない人たちはいちはやくから「別にそんなもの読めなくたって人生、生きていけるし、仕事だってできるよ」と程度の差こそあれ反感を持ったのではないか。
それとはちょっと種類が異なるのだが、最近の話。安倍とかいう人間が自らを「立法府の長」と発言したことがあって、呆れられたことがあった。ただしこのときはマスコミもだいぶ穏やかに扱っていたように感じられたが、その穏やかさが、「教養のなさ」や「言い間違い」をあげつらうのはもうやめようという理性的な判断に基づいているのか、はたまた別の理窟によるものなのかはわからない。
ちなみにこのとき僕は、「内閣総理大臣は行政の長であるし、立法の長ではないのは簡単にわかるけれど、じゃあ立法の長って誰なんだろう。国会議員全員ということなのかな? でも『長』が複数っていうのはピンとこないしなあ……」と自らの不勉強を恥じることになった。調べると、衆院議長、参院議長のふたりで、なるほど「長」はふたりいるのである(同時に、議長ってそんなに重要な仕事してたっけ?と思わないではなかったが)。
自らの不勉強を棚に上げて指摘すれば、たしかに総理大臣という、ある意味政治家のトップに立つ人間がその仕事の根幹に関わる重要な政治システムを理解していないのは致命的だが、けれどもそんな人間でもトップに任ぜられたりするのは、国民の側に「そんなことたいして問題ないじゃん?」という思いが強まったからではないか。より正確にいえば、その種の知識や教養、言う人に言わせれば常識の欠如をたいした問題ではないとする国民が相対的に増えていて、結果彼のような人物が支持されているということ。もちろん、日本では総理大臣を直接選挙で選ぶことはできないし、彼の「立法府の長」発言は選挙後ではあったが、しかし、あの発言で著しく支持率が低下することはきっとなかったろうし、このあいだの自民党総裁選でもなんなく三選を果たしてしまった。おそらく支持率の劇的な低下というのはここしばらくはちょっと見られないだろう。

ここで僕の立場を鮮明にしておくと、麻生の「未曾有」も安倍の「立法府の長」も、総理大臣としてはありえない発言であるし、致命的に常識が欠如していると考えている。けれども、「そんなことも知らないのか」という指摘はそれほど効果をもたらすものではない、むしろ逆効果であるとさえ思っているので、批判は違う場面の違う文脈でやったほうがよかった。前者については漢字を読めない人たち全体への侮辱につながりやすかったし、後者については、そもそもそういう政治的知識の欠如を問題とする人たちが支持しているわけではないからである。
後者についてさらにもう少し考えるに、医者が内臓の位置を正しく把握していない、くらいの無知を露呈してしまった現首相への根強い支持というものがいったいどこからきているのか。
上に書いたような有権者側の姿勢を掘り下げていくと、知性に対する強烈なカウンターというものが見えてくる。麻生の「未曾有」のときに「みぞうゆう」側の抱いた、読めなかったからってどうってことない、むしろ読めたからってなんか偉いのか、という知的階層・エリート層に対する鬱屈した感情が、いままさに爆発しているように感じられる。そういう面も、すべてとは言えないが一部にあるのではないか。もちろんこれは、米大統領選におけるドナルド・トランプの支持者たちの一部の傾向から得られた知見である。ポピュリズムのエネルギー源は、エリート・エスタブリッシュメントたちに対する積年の怨嗟なのであるから。

で、件の『新潮45』である。
まず、いまさらああいう雑誌に驚いたとか、杉田水脈雑文に驚いたなんていう、カマトトなリアクションはやめてくれよなってことは思う。なにも『新潮45』に限らず、ひどい出版社のひどい出版物ってのはあるし、伝説的な『ガロ』を出版していた青林堂は、いまや悲しいことにネトウヨ出版社に成り下がってしまっている(ガロ系の編集者はみな青林工藝舎に行ったはず)。もともと『カムイ伝』の発表の場として創刊された雑誌であったことを考えれば、現在はまったく正反対の態度である。また、そこでの執筆陣というのは、きちんとしたウォッチャー(僕は違うけれど)からすれば「いつものみなさん方」だったりするし、そういう連中はインターネット、テレビ、新聞、雑誌なんかでそれぞれ大活躍なさっているよ。それにまったく気づかなかったというなら、はじめにそのアンテナの鈍さを疑ってかかったほうがいい。
そのうえで、ああいう雑誌の愛読者層というのはやはり一定数いて、そのことは動かしがたい事実。その場所を一気になくしてしまうというのがリベラル側の勝利、なんていうふうにはなかなかとらえられない。
ツイッターやウェブメディアを中心とした言論でひとつの紙媒体のメディアを潰したことがもし成功体験となってしまうのであれば、その逆のアクションも起こりうる。この場合の「逆」は、思想や価値観の逆転Ver.ってことで、もしネトウヨ的な価値観がほんとうのマジョリティとなったとき、マイノリティな立場にある人たちの社会的地位をすこしでもよくしていこうという運動――そういう運動は往々にしてゆっくりと長くつづけられてきたものであるのだが――を、「ネットの運動」で簡単に潰しにいくということがありうるということだ。
そもそも、今回の休刊はほんとうに「リベラルの勝利」なんだろうか。冷静に考えれば違うだろう。新潮社の単純なリスクヘッジであろうし、臭いものにふた的処理の結果に過ぎない。その理由はどうあれ、今回「弾圧された」などと考えている連中は、この恨み晴らさでおくべきかと思っているよきっと。「『みぞうゆう』ぐらい読めないからってなんだ」という思いをずっと持っていたのと同様に、今回の件を親の仇のようにしっかりと記憶に刻みつけることだろう。もちろんここで挙げた「みぞうゆう」の例は象徴的なものに過ぎず、自分と価値観を異にする人たちが寄って集って自分たちの側を攻撃した、と記憶するすべての案件こそが彼らのモチベーションである。
そういう人たちが愛読する雑誌を急になくすということは、不満や恨みを抱えたまま彼らが、おそらくはよりひどい吹き溜まり、もっと濃度の濃い悪所へと移動することを意味し、それは彼らの攻撃をより先鋭化させることにつながると思う。
僕がなんとなく思い描いていたのは、
  1. 杉田批判特集をメインに置いた紙媒体の雑誌を出版し、徹底的に論戦の構えを見せる
  2. 1. の批判に対する応答が『新潮45』から出た場合、さらなるカウンターを1. 側が出版
  3. 2. の批判に対する応答が『新潮45』から出た場合、さらなるカウンターを1. 側が出版
  4. 以下つづく……
というように、何回もの議論を以て『新潮45』側の「全然お話にならない感」を炙り出して、その読者に「なんかおれ/わたしの読んでいる雑誌って言われっぱなしじゃん、ちょっとカッコ悪いな……」と思わせ離れさせていき、またそのファン自身の考えも少しづつマイルド化させていくという流れだった。2.以降は、テレビやラジオ、新聞などその論戦の場を違うところに移してもよいと思うが、ネットだけというのは悪手、避けるべき。長く、手間のかかるやり方かもしれないが、それが言論というものだと僕は思う。

あと、新潮社の看板に「あのヘイト本」という落書きをくわえ、「あのヘイト本、Yonda?」と読ませようとする愚かしい行為があったらしい。あのクソ忌々しいChim↑Pomのやり口を想起させるけれど(彼らは渋谷の岡本太郎の作品に原発事故の絵?みたいなものをくわえたという例がある)、まあ同一人物でなければ、手垢にまみれすぎた手法で藝術性のかけらもないが(Chim↑Pomにすら感じられないのだからなおさら)、それでもアートなんて持て囃すバカがいるもんだから始末が悪い。絶対安全地帯でやっている限りは表現でもなんでもないと僕は考えているので、実行した人物が特定され、新潮社に賠償請求されたり、器物損壊で実刑食らったりすれば面白いなと思っている。いざとなって「そういうことになるなんてまさか思いませんでした」なんて泣いて詫びを入れたら、例の弁護士たちへの大量懲戒請求をやったネットDE真実のみなさん方とおんなじだから、まさかそんなことはなかろうけれど、クラウドファンディングで賠償金を集めようなんていう「運動」にも発展したりしそう。そうなりゃなんだかんだで結局売名行為に加担させられるだけなんだろうけれど、加担する方は加担する方で、「おれたち/わたしたち、正義やってます!」みたいな自己満足感も得られるから、まあ利害は一致しているのかな? よくわかんねーけど。

ついでの蛇足ではあるが、新潮社を批判していたツイートのなかで、「新潮文庫に育ててもらったぼく/わたしだけど、」と前置きしたうえで、いまの新潮社の出版態度は度し難いみたいなものをいくつか見たんだけど、こういう連中の火事場泥棒的態度も見逃さないようにしような。
「度し難い」という意見の表明だけでよいはずなのに、なぜか「新潮文庫で育てられた」みたいな文言をつけくわえる。みぞうゆう側(僕も大別すればこっち)にいればなかなかわからないのだけれど、ある種の文系コミュニティにはウケがよいからではないか。
僕みたいに本をあまり読まない人間からすれば、国書刊行会、みすず、白水社なんていうところならともかく、新潮社ってけっこう大手でそんな名前を出してもむしろ「それほどでもない感」を感じてしまうくらいだし、またそれ以上に大切なのは本の作者と中身である。でもまあ、ある種のクラスタにはそういうちっちゃな(ちゃちな)コメントが訴えるものがなにかあるんでしょう。僕がひっかかるのは、いまそれを言う必要ある?ってことで、火事場に来て「たいへんだーたいへんだー」と大声出して人を集めて、それから自分の商売を始めているって感じがするんだよね。まあ、みんなビョーキですから当人も含めそんなの気にならなくなってしまっているんだろうけれど。

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前に書いたことがあるかもしれないが、「ブログ、まだ書いているんですね。がんばってください」みたいなコメントをもらったことがある。
どうもその人は、検索で飛んできてなにかの記事を読んで、トップページを見たら「お、こいつ最近また更新してんじゃん。まだブログなんてやってんだ。珍しいじゃん」みたいに思ったようで、上のようなコメントをしてくれたのだろうと思う。
「まだブログをやっている」の言葉の裏には、「SNSじゃなくて」という価値観が隠れており、さらにその後ろには「そっちのほうが人多いし、盛り上がってるのに」という価値観が潜んでいるのではないか。いまどき盛り上がっていないブログなんてまだ書いているんですね偉いですね、みたいな意味での応援をもらったのであれば、次のような返答をしたい。
ちがうちがう、盛り上がっていないからこそブログに書いているんだよ、と。別に誰かに読んでもらいたくて書いているわけじゃないんだ。


「新潮社出版部文芸」の公式アカウントが例の『新潮45』の批判ツイートをRTしていることが注目を浴びているらしいんだけど、まあなんというか、その界隈すべての反応がばからしい。
なにかやらないよりはマシ、の話ではあるんだけど、それ以前にそのSNS脳をなんとかしたらどうなんですかねって思う。ツイッターやフェイスブックなんかで変えられる世界、なんてものを頭っから信じてしまうような価値観を文学は与えたのかね? むしろ逆に、そういう甘ったれた安物エンターテインメント的な価値観に対して疑いを持つ目を与えてくれるもの、それが文学だったのではないか。
リツイートがなにかの意見の表明だなんて勘違いを素人がするのならまだしも、出版界の人間ですらそう思っていてしかも実行しちゃうんだっていうのが、しょぼい話だよな。てめえの責任でてめえの言葉でてめえの会社の批判をしないってのを、どうやって応援するの? どこに応援する要素あるの? まさかあれ? 組織に属する人間のその苦しい事情を汲めっていうの? 生活を捨てるわけにいかないじゃない、そういうぎりぎりのところで彼/彼女はがんばっているのよ、なんていうそういうクソみたいな日本的察しみたいなのを求めるの、こんな重要な場面でさえも? これ、政治家(特に小泉進次郎)がやったら確実に「出た! ガス抜き要員!」って大笑いされる案件だと思うんだけど、ブンガクの愛好家のみなさんは、美談にしちゃうの? そんなにエンタメ脳なの?
「応援ツイート」なるものをしている人たちも、そのプラットフォームの脆弱性に対して目を瞑っているという点において、やはりエンタメ脳、SNS脳の持ち主だと判断せざるを得ない。言論というのはSNSの中にあるだけではないのに、なぜかヘビーユーザーたちは、そこが世界のすべてだと勘違いしてしまっている。そんなのものからまったく隔絶した世界に住んでいる人間だって山ほどいるというのに。『新潮45』が紙媒体で発信した以上、もし「心ある人」なるものが「中」にいるのであれば、(オピニオン誌ではないけれど、だからこそ)『新潮』を使って一大展開をして反論すべし。そのなかで、文学ならではの実験や皮肉も織り込むことができるだろう。そこまでやってこそ、言論だと僕は思う。SNSで済ませるのはつまり、RTをするのにも「応援」するのにも、コストがかからないからだ。言葉に関わる世界の人間のそういう安直な姿勢を、僕はほんとうに情けないと思う。情けないというより、卑怯にすら感じる。

このあいだの台風・地震のときに「情報がなくて不安、情報がないから困った」なんていう意見がよく聞かれた。僕からするとまったく意味不明で、水が切れた・電気が来ない、なんてことが不安になる理由だと思うのだが、どうもその人たちは違うらしい。しかもよくよく聞いてみると、情報ってのはつまりスマホと同義のようで、スマホの電池が切れたとかつながらないってことがその人たちの「困ったこと」ということのようだ。しかも僕がラジオで聞いた例では、たかだか数時間つながらなかったことをもってして、いつつながるのかがわからないから不安だったと言っている人がいた。言っちゃあ悪いが、僕はその札幌のリスナーの話を大笑いして聴いた。ラジオ局も、もうちょっとまともなメッセージを読んでくれよ。
うちの近所で、高齢の家族が自宅で人工呼吸器を使っているところがあって、停電したときにその機械が止まってしまうということで緊急に行政が発電機を供給するという対応をし事なきを得た、ということを後から聞いた。われわれが直面する/した深刻な問題というのは、つまりこの種のものではないだろうか。
これに対し、スマホがなくて/使えなくて不安というのだって立派な困難じゃないか、不幸や災難は相対化されるべきではなく、みなそれぞれのフェイズで苦しんだのだ、という批判もあろう。それはそうだ。決して相対化なんてされるべきじゃない。けれども、ほんとうに苦しんだ、悩んだ、困ったなんていうのなら、一旦落着したのちにでもいいから、心療内科行って、スマホ依存症なのかどうかを調べたほうがいいと思う。
僕が上のリスナーの話で興味深く感じられたのは、「(SNS上で)自分の安否の状態を伝えられない」という点に特に困っていたことだ。情報うんぬんといって、自分の家族なり友人なり恋人なりの安否が確認できずに不安だ、とこう言うのならものすごくよく理解できる。大きな災害があったらそんなことをすぐに確認できることのほうが少ないよという冷静なツッコミもあろうが、心情はよくわかる。けれどもその人は、自分の安否を(おそらくはSNS上の知り合いに)伝えたいのにそれがかなわなかった、という点に拘泥していた。まあこれは僕にもそう言う資格があると思うから言うのだけれども、自分のことを心配している人がきっといる、なんていう前提がSNS脳のなせる業というかもうかなりおかしくて、そんなことねーよって言いたい。というか、実際ラジオを聴いていてそうつぶやいた。
(地震ではなく台風のせいで)停電したおかげで自宅からは電話もできず、PCのメールもできなかったので僕の場合、誰かに連絡するなんてことを考えるのはすぐにやめた。実家の家族はもしかしたら心配しているのかもしれないけれど、その心配や不安は僕のものではないので、僕がわざわざ積極的に抱えようとするものではないし、家族のほうはやきもきしているかもしれないけれど僕が技術的にどうこうできる問題でもないので、しょうがないけどやきもきしていてくれ、という思いだった。それだけだった。結果的に面白かったのは、やがて連絡ができるようになって、家族のうち両親は心配していて、弟は心配していなかった(「え? 停電してたの?」って感じだった)、ということが判明した。家族ですら確率50%よ。また、知り合いでも停電中に心配のメールをくれた人たちが幾人かいて、電気が復旧したのちその方々に返信したが、その反応を見ても、体裁だけの確認メールと、ほんとうに心配してくれたメールとで半分半分という感じだった。ま、こういう場面で「ありがたいことだなあ、心配してくれたんだなあ」と100%感謝するという姿勢にならず「うーむ半分か」なんて生意気な感想を持ってしまうこの僕の人間性と、あまり心配してもらえないという結果との相関性は大いにあると思うのだが、けれども、他人はけっきょく他人でしかなく、「その人のいちばんの関心が自分の安否にあるとは限らない」という前提くらいは、緊急時の飲料水やラジオ、懐中電灯なんかと一緒に、持っておいたほうがいいと思うよ、ほんとに。そうしたら、SNSに投稿しなくちゃなんてよけいな不安も抱えずに済む。なにかあったらすぐにポストしなきゃみたいな思考は、病気だと思う。病気だから悪いとかそういう話ではなく、せめて病識くらい持っておけば不安も軽減されるでしょって話。こういうけっこう親身なアドヴァイスをたとえ耳にしても、「情報がなくて不安」なんていう人たちはたぶん聞き入れないんだよな。「いやいや、この情報化社会においてね、スマホがない/使えないとかマジでありえないから」みたいな話でシャットアウトしちゃうのよ。たとえば誰かが、物流がぜんぶ止まってしまったおかげで酒が飲めない不安がずっとつきまとっていた、なんて言ったら、「あー、そりゃまず、依存症に向き合ったほうがいいかもね」って思うでしょ。それとおんなじよ。

話は新潮社に戻って。
実存と仮想のうち、われわれが実際に生きているのは実存の世界だし、社会問題――杉田アホとかそのサポーターとかバックの全員を含めたクソみたいな価値観の持ち主たちは立派な社会問題だし、僕の望む社会にとっては害悪でしかない――もまた、実存の世界の問題だ。上で書いたとおりそっちで応答すべきなのだ。
「内部からの批判ツイートRT(※繰り返すが、直接の批判ツイートですらない)」や「応援ツイート」なるものは、「正義」のツイッターユーザーたちの夕飯前のちょっとした前菜にすぎない。指先ちょちょいで得られたちょっとした達成感や爽快感を肴に、「きょうのメシ/酒もうまい!」ってしたいだけでしょ。ちょっと意地が悪すぎる言い方だろうか。けれども、喉元過ぎれば熱さを忘れるし、TL流れりゃ話題も変る。一瞬のうちに得られた熱狂はまた次の熱狂に取って代わられ、病的に主張を繰り返す連中の醜い呪詛だけが結果的に残ってしまう。それがあの界隈の特徴なんじゃないかと僕は思っている。だから、そんなプラットフォームでなにかした気になってんじゃねえよって僕はずっと主張している。
せめて応援ツイートなるものをしていたクリエイターたちは、紙媒体で杉田水脈批判批判批判特集が組まれた際には、ぜひ寄稿してくれよな! 後世にきちんと形を残そうぜ。

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いやなにがってこんな情報ゼロ人間の目にすら飛び込んできたここ数日の「安室ちゃん」情報ですよ。
同い年の彼女が早々に引退を決めてしまうということにショックを受けた、なんてことはまったくなくて「へー、そうなんだー」と思っただけだが、といって彼女の「すばらしい功績(?)」だとか「憧れとなる徹底したスタイル(?)」を貶めるなんてつもりもまったくない。気になるのは、(?)をつけた「功績」やら「徹底したスタイル」なんてものを褒めそやしている連中はほんとうにずっと長いあいだ彼女を追いかけ憧れつづけてきたのかなってこと。世の中には尊敬すべきほんとうの意味でのファンという人たちは大勢いて、新作を出せばシングル・アルバムに限らず購入し、ライブへ行って、ツアーを追っかけ、その都度グッズを購入し、家へ帰ってきても「あー、安室ちゃん、やっぱすごいわー」と独りごとを言うっていう、そういう人たちが言うのならわかるし、納得もする。けれども、「どーこーへでーもー」とか「キャンニュセレブレイー」とか「スイースイーナインティーンブルーウーウー」みたいなところで止まっているやつ(なんて言ったって僕自身がここに含まれる)も一緒になって騒いじゃいませんか、ってこと。え? ツイッターチェックしてますよって? YouTubeで新作毎回チェックしてますよって? おめー、一銭もつかわねーくせに偉そうにファンとか抜かすなよバカヤロー、なんてわたくしはお上品にも思ってしまいますのよ、おほほほほ。

すっごく不確かな記憶なので相手さんの選手の名前を伏せておくけれど、何年か前のなんらかの代表選考会のとき、ある選手の選考がかなり危うく「もう代表には選ばれないかな?」なんて思っていたのが、競っていた相手の演技が思いのほか低く評価されたため、結果、代表に選ばれたというときのその瞬間、観客席ででっかいフラッグというか幟というか垂れ幕というか、とにかくそのなにがしかを一所懸命ひろげて、いまにも大声で泣かんばかりの形相の女性ファンたちがいたのが目に映った。そこにはバーンとでっかい手書き風の文字で「高橋大輔」と書かれてあった。
あーあ、そんなことしちゃったら代表になれなかった○○選手やその家族やファンの人たちがかわいそーじゃん、もうちょっと高橋ファンも気を遣えばいいのに……と思わないでもなかったが、けれども高橋ファンたちの気持ちを考えてみたら「そんな『相手選手の気持ち』なんて考えてられっかい! わしらは大輔命なんじゃ! 大輔が代表に選ばれたのを心から喜んどるんじゃ!」と思うのは当然であるということにすぐに気づき、それこそが誠のファンの姿勢かもしれないと思い直したのである。
なんにしたって、現地に足を運ぶファンというのがいちばん「正しい」のである。相手選手に野次を飛ばすとかSNSで本人宛てにクソリプを飛ばしまくるとか、そういった非道徳的な行為に手を染めない限りは、彼女らの行動はそれぞれに価値を有する。「武士の情け」でそのとき垂れ幕を広げなかった人もいたかもしれないし、相手選手のことなんぞ一向に構わずきゃーきゃーと絶叫した人もいたかもしれない。仕事を休んで、宿泊するホテルを予約して、電車代・飛行機代を捻出して、観客席――もちろんその競技会場の入場料だって払っているのだ――にすわっているその彼女たちの反応は、みなそれぞれに意味を持っている。そういう意味で「正しい」のだ。
反対に、「いやあ、ファンも相手方の気持ちを汲み取るべきだよなあ、すくなくともおれ/わたしだったらそうする」なんて一歩引いたいかにも冷静な意見を、テレビやスマホの画面の向こう側で偉そうに抜かすやつらのことは無視してよい。彼ら/彼女らの意見はただのノイズでしかない。彼ら/彼女らは永遠に現場に行かない。それなのに、ときどき自身を「ファンだ」なんて自称する。すげーあつかましい。そういうやつらがいま、「安室ちゃん、お疲れ様でした」みたいなことをFBとかツイッターとかインスタで投稿してるんじゃない? さすがにここ最近では目立たないと思うけれど(でも確実にいるはず)、安室奈美恵が引退するってのが決まったというニュースが報じられたとき、ヤフコメで「昔の曲はよく聴いていましたが、最近のはあまり聴いていませんでした……。けれども、ほんとうにお疲れ様でした」みたいな謎のコメントがちょくちょく見られて、さすがヤフコメと笑いが止まらなかった記憶がある。そういう人たちの自己認識も、あんがい高い確率で「ファン」だったりして。
(余談だが、ヤフコメでは誰かの訃報のときでも「まったく知らない方ですが……ご冥福をお祈りします」みたいなコメントが載ることもちょくちょくあって、このなんにでもコメントせずにはいられない種族こそヤフコメ民だよなあ、と文字から溢れ出てくるその素朴性を微笑ましく眺めること頻にして繁。この場合の「素朴」という言葉に込めたせっかくの悪意のニュアンスも、「不器用」という言葉を褒め言葉だと受け取ってしまう人たちには通用しないので、まあ通用しないんだろうなあ。それはそれでいいんだけど)

そんなことを考えていると、毎年毎年、5次元だか7次元だかというカフェに集まって村上春樹のノーベル賞受賞のニュースを待っている人たちのことがなんかかわいらしく思えてきた。以前、村上春樹に質問しようみたいな企画があったとき、村上自身が賞レースの候補として見られることに「馬じゃないんだから」辟易していると発言している。当然、コアなファンであればその発言を承知しているのだろうが、それでも彼ら/彼女らは5次元だか7次元だかに集まってしまう(文字だけを読めばなんかものすごいSFみたいだ!)。村上発言を聴いた直後くらいは、「おいおい、御本尊がそう言ってるんだから、あんたたちもすこし理解してやれよ」なんて思っていたものだが、いまじゃ受け止め方が180度変ってしまった。薄暗い店内で、マヌケなマスコミ(この話題でいちばんマヌケなプレイヤーはマスコミだと断言できる)に「今年もだめでしたね?」と訊かれ、静かに照れた感じで「はい……また来年に期待します」なんてぼそっとつぶやく感じが、男女問わず、なんか愛らしく思えてきた。いやーいいよ、あれこそファンって気がする。ちなみに、ボブ・ディラン、カズオ・イシグロと来て、村上春樹はいづれ受賞するんだと確信するようになった。ノーベル賞には程遠いよ、なんて思っていたのだが、なんとノーベル賞のほうが近づいてきた、というのが僕の印象。これはけっして悪い意味ばかりではなく。
なお、このあいだ、村上ラジオが放送されて、きっと5次元だか7次元だかに集まってファンたちが聴いているに違いないとニュースをすこし探してみたら、やはり集まっていたみたいだ。映像や画像は見ることができなかったが、小さな新興宗教(この場合まったく悪意はない)の小さな集会みたいなものを想像し、なんだかすこしだけ嬉しかった。

「安室ちゃん」問題に戻る。
活躍して注目を浴びるってんならわかるけれど、引退が決まってから盛り上がるってのもどうなのよって思う。最盛期と較べりゃすこしは落ち着いたのかもしれないがそれでも安室奈美恵なんて最前線で活躍していたほうだと思うんだけど、アイドルなんかでも解散が決まると似たような問題が起こる。今年、アイドルネッサンスというアイドルグループの解散が発表されたとき、彼女たちとは無関係の音楽プロデューサーがすこしきつめのツイートをしたことが話題になった。本人がのちに謝罪しているくらいなのでほじくり返すつもりはないのだが、「解散を残念がる前に、できる”応援”はあったのだ」という自称「ファン」に自問を促すような内容に僕は100%同意で、そういう意味で僕はファンではないということも強く意識させられた(アイルネに関して盤はすべて入手しているけれど、それでも「ファンである」なんてそんな傲慢なことはもともと思ってもいなかったけれど)。
最近じゃ、音楽でも映像でも、けっこうなものがけっこうな割合で無料で鑑賞できる。それはそれでほんとうにすばらしいことなんだけど、いっぽうで、なにかに対する感覚が相当に麻痺してしまっているのだとも思う。「なにか」なんてもったいをつけずに言えば、正当な対価ということだ。ついこのあいだまでマンガを無料で読めるところがあった、なんてことは僕は例のブロッキングの問題としてニュースで知ったくらいなんだけど、そういうところに入り浸っていて、かつ自称「マンガ好き」の人たち(ここが重要)は、それと同じこと、つまり表現者自身が認めていないタダ読みやタダ聴きみたいなことを、自分がやっている仕事に対してされても平気でいられるのだろうか。僕はイヤだけどね。
闇市でモノを買うな、たとい餓死してでも、とそういうことじゃない。技術的に可能であれば、それに手を出してしまうのが人間。けれども、自分がそのつづきを見たいというものであれば、やはりどこかで応援しなければならないというのも、事実として存在するのだ。観念ではなく、事実。
たまたまだが、僕のいま気に入っているアイドルグループのリーダーが興味深いことを言っていた。長いリリースイベントがようやく終わったという段で次のリリースイベントを発表したとき、苦笑い(※たぶん、「またか……」とか「もう次?」みたいなことだと思う)という反応もあるのだという。それについて、「それぞれの想いがあると思うのでどうこういうものじゃないとは思う」ときちんと前置きしたうえで、「次が約束されてる事ほど安心するものはないと私は思ってます、この活動をするにあたって」とコメントしていた。これ、ほんとうのことなんだよな。ファンにとっても、またアイドル自身ひいてはクリエイターたち自身にとっても、次があるというのはほんとうにすばらしいことなんだよ。たとえいまは気づかないとしても、次がない、というときになって気づくはず。そのときになって泣いたって遅いのよ、ほんとうは。いちばんいいのは、17歳のリーダー(!)にこういうことを言わせないことだけど、まあ人間はなにか痛い目を見ないと気づかないということがいっぱいあるから。
いちおう註記しておくけれど、上に書いた「こういうことを言わせない」っていうのは、アイドルに不用意にブログなんかに書かせてはいけない、ということではもちろんなく、ファンなら苦笑しない、あるいはスタッフなり運営なりがすげー頑張ってメンバー自身に要らぬ心配をかけさせないってことだから。というよりむしろ、17歳がこれほど気を遣いつつ、世の中の実相をきちんと見極め、なおかつエンターテインメントに従事しているっていうこの事実に驚愕してくれよ、諸君。ときどき大企業の広報がクソみたいなSNS発信で炎上するけれど、いい年こいて頭が腐ってんじゃねえのかって思う。結局は脳味噌のできの違いってことになるんだろうけれど、すこしはアイドル界隈を注視して勉強しやがれって思います、ほんとに。
基本的にアイドルは活動期間が短いものだけど、ミュージシャンならもうちょっとスパンが長い。だからってけっこう気を抜いてしまうこともある。そりゃそうだよ。みんながみんな上記のような尊敬すべきファンたれなんて思わない。だったらせめて、「ずっとトップを走っていましたね、(ほんとうはしていないくせに)応援していましたよ」みたいな感動のタダ乗りはやめろよと思う。現代ほど、口をつぐむというマナーが求められている時代もないのだ。

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