とはいえ、わからないでもない

カテゴリ: 気づいたこと・考えたこと

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最近ちょっと引っかかったこと(かつ瑣末なこと)。

ほとんどウォッチしていないところなのだが、いよいよ全面禁煙が図られる、みたいなことを風の噂レベルで聞いた。といっても僕は非喫煙者なので細かな規定というのはわからないし興味もわかないのだが、分煙はわかるけれど、完全禁煙って、それはそれでどうなのかと思う。副流煙や歩きタバコの問題が回避できれば、ある程度喫煙場所が設けられてしかるべきだと思う。
健康のため、とか、公共(またもやオリンピックが口実か)のため、という大義名分を振りかざして個人の嗜好・自由を制限するのが「成功」してしまうと、次は禁酒、次は……と際限がなくなるようなおそれがある。
過去を思えば、あらゆる場所でぷかぷか吸われるような状況じゃなくなったいま、もう充分な気がするのだけれど。

時事通信の3月の世論調査のニュースを読んで、現政権への支持率がいまだ50%を超えているというのを知ってたいへん驚いた。しかも、新共謀罪の法案に対しては6割を超える人間が賛成か。すごいな。最近オーウェルの『1984』を読み終えたせいかもしれないけれど、日本人って監視社会を自ら望んでいるとしか思えないな。
支持率を見たところ、たぶんあの教育勅語の問題に関しても(僕からすれば信じられないほどの)多くの人間が問題なしとしているのだろうな。すごいよな。いわゆる「右傾化」という言葉が叫ばれてひさしいけれど、保守というか、愛国カルト集団の皆々様にとっても、今日こんな地点まで来られるとは思ってもみなかったのではないか。この状況をスルーして、遠く離れたトランプを批判している人がいたら、そいつはだいぶ頭がおかしいと思う。対岸の火事より、お前んちがすでに火事なんだよ。

がらり話は変わって。
最近の広告代理店のイースター推しは滑稽すぎる。ハロウィンもだいぶ無理があったけれど、いったん成功しちゃったもんだから、次はイースターってことになったんだろう。お次は謝肉祭で、その次は……アメリカの独立記念日を祝ったりしたら面白い。そんで、紀元節、天長節の復活! それなら政府も喜んでバックアップしてくれるよ。  

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昨年の文化の日のことだった。一年に一回のイベントのようなものがあって、そこである男の人に声をかけられた。「どう? 元気にやってる?」
その声の調子と表情から一度ならず挨拶や言葉を交わしたことがある、ということは明らかだったけれどすぐには思い出せず、「ええと誰だっけかな……」と心中考えながらも「そうですねえ、今年もなかなか……うまくいきませんでしたねえ」なんて適当なことを言いつつ、できのわるい検索システムをフル稼働していたのだが、そのとき、ある女性が視界の隅に入り、そこでその男性が誰だか思い出すことができた。
もともと僕はその女性のほうと知り合いで、たぶん彼女ははじめて会ったときですでに五十代も後半に入っていたはずだからいまはもう六十に手が届いているはずだった。男の人は、その女性の夫だった。
人懐こい人で、一度思い出せたら、その人好きのするしゃべり方や仕草までも一気に思い出すことができた。その前に会ったのが、ちょうど一年前の同じイベントでのことだった。一年という時間をあっという間にジャンプして、僕たちは隣人のように話した。黒く日焼けをした、とても元気な人だった。

その人が、昨年末に死んだということをきょう聞いた。事故死だった。
話を聴けば、人間、そんなもんで死んでしまうのだろうか、というくらいにあっけない事故で、それを教えてくれた人間も、半ば笑いながら話した。
不謹慎だ、と思う人もいるだろう。けれども、話を聞いた僕も半ば笑いながら聞いたのだ。もちろん、げらげらと笑ったわけではない。僕はまず驚き、それから、笑うしかないから笑った。そういう種類の笑いだった。教えてくれた人もたぶんそうだったのだろうと思う。
僕はやっと四十になろうというところだが、僕のまわりにいる人たちは六十代で若いほう、七十代がざらだ。教えてくれた人も、七十は優に超えている。その人たちにとって、死はいつもかなり近いところにある。両親はとっくに死に、同級も半分以上は死んでいる。病死のほかにも、事故死、自殺、などいろいろな死に方を目の当たりにしてきたと思う。
いろいろな事情が考えられるが、この七年間で僕も、都市部に住んでいた三十数年間で出会った死のおよそ十倍の死に出くわしている。深夜に救急車の音がわりと近くで長く響いているのが聞こえたら、喪服のありかをすぐに思い浮かべるくらいにはなった。
それでも、知り合いが亡くなったことを知らされれば、ついこのあいだ会ったばかりなのに、と思わないことはない。そして同時に、家族や特別に深い友人であったりしなければ、実にあっけないことのようにも感じてしまう。
話に聞いた状況から判断するだけだが、今度亡くなった人は死ぬ間際に、「あ」とだけ思ったのではないか。あるいは、「あれ?」かもしれない。いづれにせよ、ほとんど苦しまずに逝けたことを願う。 

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次々作の朝ドラのヒロインが葵わかなになったと知って、特に驚きもなかった。
2015年からのヒロインを見ると、土屋太鳳→波瑠→高畑充希→芳根京子→有村架純→葵わかなという流れは、朝ドラヒロイン的という観点からすると波瑠以外はすべて納得の配役。波瑠が嫌いとかそういうことじゃなくて、線の細い美人ってのは少しイメージが違う気がしたのだ。次々々作はもう松岡茉優でいいんじゃないかな。
ブクマを確認したら2014年の9月には彼女(葵)をチェックしていたというのが判明したのだが、たぶんこれはラジオドラマの好演が原因だったと思う。声の感じがよくて、そこからその人物を知った、という流れ。オモコーの芳根京子の親友役もやっていた。まあ、ドラマは観ない可能性が高いが。

キャスティングといえば、今朝、ヤフーのヘッドラインで「水戸黄門を武田鉄矢が演じる」というのを見て、エイプリルフールにゃ早すぎると思ったのだが、どうやらほんとうのことらしい。
印籠を見せてからの説教が長そう、名前の由来を懇々と教える、漢字の話をよくする、オリジナルのテーマソングを自分で唄う、マルちゃんがスポンサーにつく、などといろいろなことが頭をよぎる。
 
ヤフーニュースといえば、「ゆとりですがなにか」のSPが夏に放送されるとかいうのがあって、これは嬉しい驚き。またまりぶが観られるなんて、ほんと嬉しい。
 

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最近の仕事上のトピックといえばスクラップ&ビルドでしかなく、とりあえず、肉体作業に従事している間に時間がいともたやすく流れ去っていく。10年前の僕は、将来防護メガネをつけて、サンダーやら小型切断機なんかを使って鉄管相手にバチバチと火花を散らすことになるなんて想像もしていなかった。仕事は強制されているものではないのでその内容にはまったく不服はないのだが、しかしもともと体力が存分にあるという人間ではないので疲れてしまい、帰宅してからなにかをしようと思ってもその気力が残されていないのが残念なところ。
満を持していまさらながら『逃げ恥』を観ようと思ったがTBSのオンデマンドは月額いくらという設定になっており、この月末で加入するのはいささかもったいないということで来月はじめのたのしみにとっておくこととし、かといって早々に大河ドラマは見切ってしまったので(一点、柴咲コウは歌はうまかったということを思い出させてくれた、というのがほぼ唯一の発見)、特段テレビをつけても観るべきものは発見できず、仕方なしにというわけでもないが積読になっていた本を読んでみるとこれが実に面白いものばかりで、「こりゃあネットを眺めているバヤイではないぞ」とひさしぶりに読書にひたることをたのしんだ。
小説なんかもう読めないだろうなあなどと漠然とした悲しさを覚えていたものだが、ジョージ・オーウェルの『動物農場』をぱらぱらと読んでいたら実に面白く、その流れで最近またベストセラーにリストオンされたと評判の『1984』をつづけて読み、いまやめられなくなっている最中。もちろんドナルド・トランプ政権との相似という点で本書は話題になっているわけだが、その予言性にだけ着目するだけではもったいない(ただし、二回目以降の読書という意味ではそれもアリだとは思う)。まだ途中なのでなんとも言いがたいが、純粋に小説としてたのしめるもので、ディックのような――時代的にいえば、オーウェルのように書いたディック、なのかもしれないが――切実さと悲しみがあって、いまのところは僕ごのみの小説である。
トランプといえば、昨年の大統領就任または一昨年からの大統領選で日本では一般的に注目されたように思うのだが、僕の場合は2000年にリリースされたm-floの『Planet Shining』のなかのinterlude 4におさめられたフリースタイルに「ビル・ゲイツ、yo! ドナルド・トランプ」という言葉があって、そこで漠然とそういう金持ちがいるんだなあ、程度の受け止め方をしていたし、なんといっても、マクドナルドとかドナルドダックを連想させるファーストネームと、トランプというファミリーネームが憶えやすく、爾来その名前はなんとなく頭のなかに残っていた。
そのことを確認するために当該CDアルバムをひさしぶりに聴いてみると、アルバム内の設定として2012年(当時から見て12年後)の近未来ということになっていて、いまだにこの仕掛けに新鮮さを感じてしまう。interlude 4では、「saywatchugotta」という曲へのフリとして、3人のラッパーが好き勝手にしゃべっている(という体をとっている)のだが、そのなかで「むかしはCDなんてものを出していたし、デモテープなんてものがあったねえ。今や『デモレコード』をつくっているくらいで、レコードを自分ちでつくれるアナログのいい世の中になった」みたいなところがあるんだけど、これが現代の「一部」を予言していて面白い。実際にCDの流通は、日本はともかく世界的には減少しており、アメリカかイギリスか忘れたが、CDはもちろんもはやDLの売上よりもアナログレコードの販売金額のほうが上回った、ということがニュースになっていた。これはアナログ回帰ということも部分的には指摘できるのだろうが、より定額制のストリーミング配信に移行したユーザーが多いということの証左であるってことをどこかで見聞きした。まあ、それでもレコードが売れているということは面白い現象だとは思うし、2000年当時におそらくは「面白おかしく」のつもりで発したジョークがそれなりの意味を有してしまった、という事象もまた面白く感じられる。

話はがらりと変わるが、例の極右学校法人に対する報道を見ているといろいろな疑問が噴出して仕方がないのだが、当該理事長は、「安倍晋三記念小学校」なんて名前を考えだしたり、夫人を名誉校長に置いたりと、まともな頭の持ち主にはいっけん見えない。ものすごくストレートにとらえてしまうと、現政権と親和性の高い極右思想組織およびその構成人物が、その権力を笠に着て行政と癒着したというふうに見えるが、はたしてこの問題に出てくる登場人物たちは、大阪の財務局も含めて、それほどバカなのだろうか、とその点にまず疑問を覚えるのだ。億単位の国有地の払い下げ契約について相当恣意的な9割のディスカウントを行って(なおかつ交渉記録をすみやかに廃棄して)バレずにすまそうだなんて、マンガ家が発案して編集者に見せたら「いくらなんでもこんな設定は読者をバカにしている」と突っ返されるレベルだろう。
そう考えると、どうもあの学園の理事長が、安倍や日本会議を貶めその陰部に捜査の手が伸びるよう企んだとしか思えなくなってくるのだ。保護者への恫喝、狂信的に映る思想教育、隠そうともしない民族差別主義。そして例の事件についての、もはや矛盾のないところを探すほうが難しかった説明は、ツッコミ待ちをしているとしか思えない。こうなってしまうと、政権に擦り寄ったり、はたまたその顔色を窺ったりして様子見をしていたメディアまでもが動かざるを得なくなり、結果、現政権への痛烈なダメージを与えている(はず)。
陰謀論を支持することはあまりないのだが、しかしこの場合は、まさに有志の理事長と財務局トップとが密かに諮り今回の問題を企図したと見るほうが自然に感じてしまう。彼らは自分たちが罰されることを前提としていろいろなところで餌を撒き、それがじゅうぶんに達せられたと認識した時点で自らリークしたのではないだろうか。はじめはわかりやすい左右の対立構造を引き出し、そこから現在の「右」がいかに極端な場所に位置しているのかを明らかにし、右傾というよりは右落状態にある潮流を押しとどめ、あわよくば政権を打倒するとそこまで考えての行動、と読み取ることのほうが、「安倍晋三記念小学校」の設立を意図して行政に不当な癒着を持ちかけた(あるいは忖度させた)という構造よりよっぽど自然に思えるのだが。

またまた話は変わって。
小説だけではなく、積読本のなかにはドイツワインについて書かれたエッセイもあって、それをなんとはなしに読んでいたら非常に面白かった。岩本順子の『おいしいワインが出来た!』というものと『ドイツワイン 偉大なる造り手たちの肖像』 というもので、特に前者が面白い。
いままでなんとなく目にしていた、ワイン用のぶどうというものがどのように収穫されてうんぬんという記述は、ほとんどがワイン商の視点、つまりマーケティング戦略の一環として描かれているものであったが、本書は作者が実際にケラーというドイツの醸造所に飛び込み、一年間栽培に携わった記録となっていて、これを読むと、ワイン用のぶどうとはいえ、ほんとうに野菜や他の果樹の栽培と通底するところがあって実に親近感をもってたのしむことができた。もちろん醸造は、田舎の家庭菜園の視点からでは想像するべくもないが、それでもぶどうにはできるだけ手をくわえないでワインにするという思想は、商売者というより農家・百姓の考えのように感じられた。ごく単純に言ってその醸造所のワインに興味を持った。
きっとおいしく感じられることだろう。人間は舌だけで味わっているではないし、もし「純粋に」舌だけで味わおうとしたら、それ相応の訓練を自分に課さなければならない。しかしそのようにして得られるものは、じつは少ないと僕は思っている。味覚を業務の中心に置くような職業にでも就かないかぎりは。
誰々がこのようにして作った、とか、どこそこという場所には伝統的な栽培方法があって、とか、そのようなイメージが味覚に及ぼす影響は小さくないし、そこにいい意味で騙され乗ってしまったほうが、食はたのしめる。ワインでいえば、テイスティングとは試飲とか味見のことだ。それは試飲会やそれに類する場所で行えばいい。けれどもそんな場所にほんとうの食のたのしみがあるのだろうか。 ひとりでも複数でもいいけれど、僕は食卓にこそ食のよろこびやたのしみを見出す。料理自慢はあってもいいが、供された食事や飲み物に対して批判するなんて野暮の骨頂で鼻つまみ者。どうせならおもしろいエピソードを披瀝できるほうがよっぽど好まれる。僕は、嫌われる人間より好かれる人間になりたい。

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だいじょうぶ、実際に大統領に就任したのちはまともになるでしょう、みたいなことを平然と言ってのける、括弧つきの「専門家」にはもううんざりだし、訳知り顔で消息通ぶるやつも信じられない。やつらは、例の勝利宣言のときにまっさきに「見直した」とかコメントしていたのだから。
つまりこれは、非常に大時代的で古典中の古典、不良が雨のなか捨て猫を拾うと「いいやつ」、あるいは、ちょっとだけいいことをしたヤクザをすぐさま「いい人」と認定してしまう心理と一緒で、さすがにこのインターネットの時代、つまり情報の選択肢がある程度拡張された現代において、そういう幼稚で単純な人間もだいぶ少なくなっただろうと思うのだが、しかし、楽観主義というものをなかなか手放さない人は多いらしく、意地悪な僕は、そういった人たちこそが、ギロチン台に自らの首を差し出しながらもなお「またなにかの冗談だろ」と笑っている様子を見たいとも思うのだが、しかしそれでは大きな不満を、的外れな場所で小さく爆発させようとしているだけで、本質的な解決を見ない。

なぜか知らないが、いろいろなものが同時発生的に壊れるってことはあるもので、ちょっと外出して帰ってきたら風呂場の給湯器と冷蔵庫が動かなくなって、おまけに車のワイパーのウォッシャー液も切れた。給湯器は裏庭にあるので、雪の降った翌日、表玄関を大回りして裏口の小さな門を開けようとしたら、錠の取っての部分が壊れて外れた。家の外壁もそっと指で押したらドリフの全員集合のオチのように壮大に崩れるんじゃないかと思ったがそういうことはなかった。そのかわり、落ち葉で詰まった雨樋から雪解け水が大量に溢れ滴り落ちて、僕の足元を濡らした。

地味であまり知られていないであろうアイドルグループがこの1月に終わりを告げ、そのメンバーのひとりが、お別れの挨拶の一環として他のあるメンバーに対し、「あの時私を引き止めてくれてありがとう!(ずっと言いたかった)」とツイートしていて、なにも知らない僕の胸にも迫るものがあった。このような無数の小さなきらめきが、僕たちを励ます。

なにも知らずにテレビをつけると日テレがまた安直に視聴率を稼ぐため『千と千尋の神隠し』を放送していて、仕方がないから、くされ神が湯屋にやってきて体内に抱えた大量のゴミの山を千たちに引き抜いてもらうところまで観て、スイッチを消した。何度観てもこの場面はすっきりする。また、釜じいのところの炭の精霊みたいなチビスケたちが飯として金平糖をもらう場面は、いつ観ても愛らしい。あの色のコントラストもよく考えられているし、ひとりひとり(一匹一匹?)が別々に動くため、それぞれがきちんと生きているという感じがする。
けれども総体としてこの映画の印象はいつも曖昧なままで、「……音楽がよかったなあ」という感想を抱くのみなのである。

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流行語大賞の審査員をやった廉で叩かれた俵万智が、弁明のツイートをしていたらしい。 いったい、「反日だ」とかいう戦時中を思わせる批難を目にする環境にある、という時点ですでに不用意という感じがする。そんな貧困なボキャブラリーしか持ち合わせのないような人間とコミュニケーションをとらなくてはいけないなんて、なんの罰ゲームなのだろう。表現の世界に与する人間であれば、ネットなんかに自ら関与しなくたっていいじゃないか。ツイッターなんかやってなにがしたいのだろうか?
「日本死ね」という単語を流行語に推したことによってすぐさま「反日だ!」と批難する人間は、そもそも対等に話せるだけの知性や語彙、社交性を持っているのだろうか。僕の感覚からすると、そういう人間は無視して構わないのだが、けれどもやっぱりリアクションはしてしまうもので、「私は国を愛している」と俵万智は答えてしまっている。

去年だったか、たぶん安保関連の問題で盛り上がっている時期だったと思うのだが、松尾貴史が政府への反対意見を述べて「反日タレントだ」 と批判されたらしい。それに対する反論として彼は、たとえば「反戦運動をする人こそが真の『愛国者』である」と主張した(真の「愛国者」の務めとは何か - ポリタス)。
僕は、こういう発言に違和感を覚える。「反日的」というレッテル貼りをされた人は、なぜか「いや、僕/私は愛国者ですよ」と答えることが多い。なんだか、突然強制された踏み絵に対して、「いや、僕/私は踏めますよ」と言って絵をずかずかと踏んでいるような感じがしてしまう。どうして「なぜ踏み絵などしなくてはいけないのか?」と問うことをしないのだろうか。

「反日的だ」とか「愛国者だ」とかいう批難や称揚が日常的となっているコミュニティに、あなたは属しているのだろうか?
もしそうでないのなら、そういう場でとかく口にされる二元論につきあう必要はない。もとより問いの土台を共有していないのだから。
返事をする必要のない質問に対して俵万智や松尾貴史は、金角・銀角の呼びかけに不用意に応えるように、自ら罠に入り込んでしまっている。彼女/彼は、程度の低い批難に応戦することによって、図らずも、その程度の低い批難が存在する余地を認めてしまっているのだ。
この「反日」という言葉は容易に「非国民」という言葉を想像させるし、おそらく同義語として遣われているのだろう。こういう言葉を遣う人間は、ある国民に対して「国民に非ず」と認定できる人や組織があると考えているのかもしれないが、とんでもない話だ。
とんでもない意見や考えに対してはスルーするのが最上で(バカとコミュニケーションをしたってどうせ実にならないから)、もし応対するのなら、根幹となる価値観を容れられない、と前提そのものを攻撃すべし。相手の次元まで降りてしまって、ご丁寧に「非国民ではない」と応対するのは愚の骨頂。まるでどこかに「非国民」というものが存在するかのように聞えてしまう。
僕は、「反日」とか「非国民」などというおそろしい同調圧力に対してこのような「弁明」がもたらす消極的な承認を、罪だと考えている。俵や松尾のような文章をよくする人間が、この点に気づいていないはずがない。それでも彼女/彼は弁明せざるをえない。そこに、空恐ろしさを感じる。そうやって、リベラルと見なされる人間たちが簡単に自分たちの領地を簡単に手放してしまうことを。 

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まあ毎度言っているような気がするけれども、の話だが、「野菜高いよね」っていうのは「このごろ天気悪いよね」みたいな感じでよく口にされるけれど、天気の話とは反対に、「野菜安いよね」っていうのは、ほとんど口の端に上ることはない。
 Yahoo!に取り上げられていた記事に、NHKのあさイチで「冷凍野菜を使おう」という特集をしたら、野菜農家から「野菜を買ってくれ」というFAXが届いた(意訳)、という記事があって、なるほどその気持ちはわかる、と思った。
わかるけど、でも、泣き落としで買ってもらうっていうのも経済としてなんか違うんじゃないか、とも思うんだよなあ。
もやしだったりきのこだったり、あとは豆苗か、メーカーがいろいろ努力して天候に左右されないものを作っていてそれらを安価に買うのも、それから、特集していたように冷凍野菜を買うのも、それからあえて高い野菜を買うのも、消費者の自由で、マスコミがその一部にスポットを当てるのは多少いたしかたない部分があると思う。弱い農家が一所懸命がんばっているんです、というのは事実そうなんだと思うけれど、いっつも弱さをだしにしているようにも感じてしまって、なんかスッキリしないところがある。それでいて政府は「これからは強い農業」の一点張りだもんな。実情と乖離しているわけだ。
マンガ家の荒川弘が、自分は農家だから肉は国産のものを買う、ということを書いていたけれど、それはまあ個人として御立派な態度表明ではあるかもしれないけれど、全農家がそうしろ、というふうに読むべきものではない。ああ、この人はそうなんだな、という程度に考えておけばいい。
安くていいものを買う。その経済原理に愛国心とか同情心とかが混ざってくるよりは、もうちょっと農家が安定できるそもそもの仕組みがあったほうがいいと思うのだが、どうすればいいんだろう。
ふだんが安すぎ、っていうのが僕の個人的意見なんだけど、これはあまり理解してもらえないだろうしね。

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先月終わりに実家に帰った際、例によって家のなかで本を読んだりテレビを観たりしながら、だらだらと父と話していた。
僕はそのとき加藤陽子の本を読んでいたので、リットン調査団の記述を目にし、「リットンって人も、あんがいイギリス本国じゃ知られていないのかもね」などと父に言うと、あの「少年よ、大志を抱け」で知られるクラーク博士が実際は数ヶ月しか札幌にいなかったということを教えてくれて、あの人もたしか本国ではそんなに有名じゃなかったはず、と言った。
Wikipediaで調べてみるとたしかにクラークは8ヶ月しか日本に滞在していなかった、という記述が見られたが、アメリカ本国での受け取られ方についてまでは確認できなかった。ただ、マサチューセッツの地元の人に、「ここ出身のアメリカ人がかつて、8ヶ月間だけだが日本で教鞭を執った結果、札幌に銅像まで建てられているんですよ」なんてことを知ったらびっくりするのではないか。
 ついでにリットン卿についてWikiってみると、こちらには
実は本国ではあまり知られていない。むしろ、小説『ポンペイ最後の日』で有名な作家エドワード・ブルワー=リットンの孫であることと、夫人がウィンストン・チャーチルのかつての恋人パメラ (Pamela Chichele-Plowden) であったことで知られている。
の記述が見られ、 つまりおじいちゃんと奥さんのほうがイギリスでは有名よ、ということになる。

さきほど、そんな話をしていた父に、ネットを介してNHK-FMの『歌謡スクランブル』(2016/10/13と10/14)の音源をもらった。「想い出のフォーク・アルバム」と題したそれは、父の世代としては懐かしく、また僕個人もなんとなく知っている曲が多かったのだが、そのなかで新谷のり子の『フランシーヌの場合』があり、この曲については今年の頭ごろ、NHK木曜時代劇『ちかえもん』のなかでパロディとして唄われていたことによって知り、そのとき少し調べたのであった(余談だが、今年観たドラマのベストは『ちかえもん』になるだろう)。 
ごくごく簡単に言ってしまうと、1969年3月30日、ベトナム戦争やナイジェリア内戦への抗議としてパリで女性が焼身自殺したそのことを唄っているのだが、フランシーヌという名前は日本では歌となって有名になったものの(しかし現在でもその名前の記憶が若い人たちにまで受け継がれているかというとかなり疑問)、本国ではほとんど記憶されていないようだ。

かように、異国の地で――ときには奇妙な経緯によって――記憶されている人物たちが、本国ではほとんど忘れ去られている、ということは意外に多いのかもしれない。
先日観に行った維新派の舞台『アマハラ』でも、サイパンで一代で財を成した(そして一日でその財を失ったとおぼしき)山口百次郎の話などがあったが、 こういう人たちも、(僕の勉強不足も当然あるだろうが)それほど日本国内では知られていないように思う。
それを「数奇」といえば数奇なのかもしれないけれど、反対に、人間は一つ所ばかりにいつづけるわけでもない、ということの証左であるのかもしれない。
生まれた地にとどまりつづけることもあれば、さまざまな事情から新天地を目指して流転をつづけることを厭わない人たちもいるということ。どちらがいい/悪いという話ではないが、考えてみれば僕自身は、どちらかといえば後者に属するほうだということに書いていて気づいた。だから、括弧つきの「伝統」を墨守しようとする人たちに対してなんとなく違和感を覚えるのだろう。

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ここぞというときのタイミングを逃してしまってそれからしばらく時間が空いてしまうと、言いたかったこと――それもものすごく言いたいと思っていたこと――が実はたいして言う必要もなかったものに思えてしまって、けっきょく言わなくてよかったのかもなあ、と思うことがある。
言って後悔するのか、あるいは言わずに後悔するのか、そのいづれが正しいのかについて悩ましくなるのは、きっとその両方を同じ条件で体験することができないから。それは、ものすごく大仰(かつごく当然)な言い方をすれば人生の一回性に対する歯痒さでもある。

それでも、「あ、きょうはブログでも書こうかな」と思える日が、どんなに更新が滞っている人にでもあるのではないか。「更新」というとまるで継続されるのが当たり前というような考えが前提にあるようで少し違和感を覚えるが、けれども、「きょうなら書けるかも」という日は誰にだってあるように思う。それはブログでなくてもよい。電話やメール、手紙なんかを利用して他人にコミュニケーションを図ったり、もしくは家の外に出かけることだってよい。ずっとできずにいたけれど、きょうならできるかもしれない。きょうなら。

でも、やっぱり考えてみたらそんな時間ないよな。そんな気力なんてない。そもそも意味もない。もうどうだっていいや。そうやって当初の一念発起が簡単に挫折してしまうことは多い。もう、無理かもしれないな。きょうならできると思ったけれど。どこからどう手をつけていいのかわからない。以前おれ/わたしはこれをやってのけていたみたいだけど、ほんとうのように思えない。よくそんなことができたもんだ。過去すら信じられなくなる。

たとえば、ひと月ぶりに誰かと連絡をとる。そのひと月のあいだに起こったことをお互いは知らない。「一ヶ月ぶり」と互いが言うことで、まるでひと月前の点と現在の点とが一瞬にして結ばれるような気がしてしまうけれど、それはおそらく錯覚で、相手も、そして自分もそれぞれそれなりの状況の変化というものを感じている。それらはときに、直線で結ばれるようなフラットなものではありえない。
相手にものすごくいいことがあったのならともかく、ものすごくたいへんなことや、ものすごく辛いことがあっても、そのことを知らなければ、それらは僕のなかでは「なかったこと」になっている。これはあまりにも当たり前のことで非常に間抜けな記述のように見えるし、僕もものすごくバカらしいことを書いているように思ってしまうのだが、けれどもやっぱり、「知らない」ということが、その知り得なかった事象が僕にとっては存在しないのと同義である、というのは実例を考えてみるとものすごいことのように思えてくる。
実際に僕は、ある人が仕事に悩み自殺を考えている当時、その人に対してまったくのんきな想像しかしていなかったし、また別の人の場合、その家族が大病で倒れその対応に必死になっているときにも、やはりまったくのんきな想像しかしていなかった。これらの場合は数ヶ月経って実はそんなことがあったんだということを聞かされたわけだが、現在、もちろん僕が知らないだけで誰かが辛い思いをしていることはあるだろう。
このことは、けっして「けっきょく他人のことは知り得ないのだ(だから考えても仕方ないのだ)」という安直なニヒリズムを導かない。手っ取り早い結論で満足するのはもうちょっと若い人たちに任せる。
といって僕は、問いを宙ぶらりんに浮かべるだけだ。ずっと音沙汰がない人。沈黙を守る人。あるいは、忘れてしまった人。きょうが、知らないことについて思いを巡らせる日であってもいい。

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シン・ゴジラだとかポケモンだとかリオのオリンピックだとかスマップとかシールズの解散だとか、もうすべてが別の惑星の話にしか感じられなくて、そこには良いも悪いもない、ただぼうっとした「ああ、遠いな」という感想しか持てないという一種の無気力状態になっていて、それはいまもつづいているし、これからもしばらくはつづいていくと思う。
大学一年のときの哲学の授業の教授――人格としてはまったく好きになれなかったけど――が、「ベストセラーを読むときは最低一年は空けます」 と言っていたことがあって、この発言についてだけはいまでも正しかったんじゃないかと思っている。つまり、僕の信じている正しさ、という意味において。……などという、一見わかったふうなエクスキューズを入れるやり方にももう飽きたし、そういう「どこへ出しても一定の客観性を損なうことのない文章」を目指す必要はないし、ここはそもそもそういう場所じゃない。ただひたすらに思いついたことを書き捨てる場所なのだ、ここは。
話を戻せば、ある狂騒的な空間や瞬間やトピックがあるのなら、そこから距離を空けよ、ということを僕は18歳くらいの頃からほぼ守りつづけてきたことになる。まあそれは半分位の割合で、携帯電話なり、あるいは別の機器などの最新のテクノロジーから自然と取り残されてしまったからなのであって、そういう意味では、僕はいまでもだいたい20世紀のままでいる。
そのような遅れた人種たる僕は、世の中のことに対してなにをせずとも八割くらいは嫌悪感を抱いてしまうのだが、ただ今夏については、仕事の忙しさ・人手不足にくわえ、予想外に長引く夏風邪という体調不良も相俟って、世間との距離感もひとしおに感じられたのだった。
たかが夏風邪なので特段深刻なものでもなく、下痢・高熱に関してはそれぞれ数日でやり過ごすことができたのだが、悪意ある置き土産として喉の痛みおよび執拗な咳が一向に去らず、喘息患者の気持がわかる、となれば過言となってしまうが、それでも突発的に生じ一定時間はげしくやむことのない咳によって読書など到底することもできず、ただ息を潜め、横になって安静を図っているうちになんとなく寝てしまい、そのうち自らの咳き込みによって目を醒まし、ウサギの世話なりなんなりをして気づけばもう起きる時間になって、仕事に出かける準備をする、という日が、週となり、はや半月を過ぎようとしている。そのあいだには仕事とは無関係の「ムラの役員としての仕事」もあったし、突然の訪問客に、田舎に移住した体験談みたいなことを半分自棄、半分自省的に話したこともあった。それらは、「世間」とはまったく関係のないごくごく個人的なことである。

何年か前のテレビCMにこういうのがあった。以下はネットで拾ったものだが、だいたい記憶どおり。
「世界とつながってるってどんな感じ?」

という質問に対して外国人少年が答える。

「あの~、その質問自体が古いと思います。だって、この時代でつながっていない状態の方が少ないわけじゃないですか。
逆に世界とつながっていない頃ってどんな感じだったんですか?」
いまでもこのやりとりを読んで思い出せば腹が立ってくるのだが、この当時(6、7年前か)も、そしていまも、ほんとうに「つながっている」なんて状態のほうが少ないだろうと僕は思っている。その「つながっている」という言葉が、ただ狂騒をたのしむだけのツールという意味に限定されず、なにかの救済までをも含むというならばだ。
たとえば、テレビを持っていない人間はこのテレビCMを見ることはできなかった。日本語のわからない人は、たとえ見ていたとしても少年の言葉の意味を解することはできなかった。「いまではネットがありますので、おおよそのことは」みたいなことを簡単に口にする人間は、僕の周りに住んでいるほとんどの独居老人の実態を知らない。いろいろなコミュニケーションが生まれてたしかに便利になった部分はあると思うが、かといって必ずそこから漏れる人間もいつづけている。厳然と。
5月末、バラク・オバマが広島を訪問してスピーチをしたことについて、手放しの賞賛があまりにも多かったことについて僕は驚き呆れていた。あのスピーチの全文には目を通したが、「死が降りてきた」というような表現から始まる文章が示すものはある種のポーズでしかなく、広島そして長崎や世界中の被爆者に対して寄り添う心があるとは到底思えなかった。彼が資料館に10分しか滞在しなかった、というスピーチ前の情報も嫌な予感を与えるには充分だった(広島に行ったこともない僕は批判する資格すらないのだが)。あのとき、「彼の自国内でのポジションを考えればそういった表現にならざるを得ない」 という忖度があちこちで見られた。そのうえでの賞賛だった。しかしその忖度つきの賞賛は、発信者自身が冷静でクレバーであるかのように見せるため以外にはほとんど意味をなさないように思えた。そのうえ、スピーチの批判者に対して「これ以上なにを望むのか」という批判をする輩たちもネット上では散見された。
あのときラジオで聴いた「広島の人たち」の声の多くにあったのは、「いろいろと不満はあるけれど、これがスタートラインなのだ」という諦念のかなりこめられた小さな希望だった。しかし広島の人たちの対応を率直な100%の歓迎と読み間違える向きは多かったし、いまもそれはつづいていると思う。
あの原爆ドームを前にして米国初の黒人大統領がスピーチしている絵に、まずやられてしまった人が多かったのだと思う。自分はいま歴史的な瞬間に立ち会っているのだ、と勝手に解釈してしまいその目撃したことについて狂騒しただけだったのではないか。そこに被害者たちに対する想像は幾許かなりともあったのだろうか。僕自身は、彼の広島訪問がまったく無意味だったとは思っていないが、それでも騒がれたほどの意味が生じるには、彼の大統領退任後の活動如何によると思っている(ラジオ番組内でもそう結論づけられていた)。

そんなことがずっとつづいているような気がしている。大きな話題があれば、その善たる部分やあるいは善に見える部分に、やたらと強調されたスポットライトを浴びせ、騒ぎ持て囃す。たしかロンドン五輪の直後のアンケートで、それまでずっと低調だった東京での五輪開催の支持率が不支持率を上回ったような印象を持っている。それで例の「お・も・て・な・し」でいつのまにか盛り上がっていて、エンブレムや新国立競技場の問題で再びブーイングが起きて、しかし今回のリオ五輪でまたまた東京五輪への盛り上がりが助長されるのかと思うと、いちばんあてにならないのは誰かという根源の問題に話は落ち着いてくる。まあ2020年についていえば、控え目に言ってパラリンピックだけ開催してオリンピックは他国に譲ればいいのではないだろうか、というのが僕の考え。パラの選手の家族たちが気軽に応援しに行ける、というのは決して悪いことではないと思えるから。
スポットライトが大きければ、当然その影も大きくなる。明るくたのしい話題の裏で、暗く悲しい話題が忘れ去られ、その当事者たちは意識の外に追いやられていく。間違っても僕がその当事者たちのひとりだとは言わないが、さまざまなことから遠くはなれてしまっために見えてくるものもある、ということをようやく最近になって知ることとなった。

あと、またしばらく書けない期間がつづくからついでに書いておくけれど、ポパイの最新号だかで「落語とジャズ」の特集があって、それをコンビニで立ち読みしていたら「文化人」っぽい人たちの挙げる好きな落語家のほとんどが談志と志ん生なのに対して、ほんとうに心の底から「どうして?」と訊きたいと感じた、ということをここに強く記しておく。
みうらじゅんが米朝と仁鶴、でんぱ組の夢眠ねむが文珍をそれぞれ挙げていて、あとは権太楼や喬太郎を挙げていた人がいたと思うのだけれど、ここらへんの意見はきちんと自分の意見なんだろうな、というのはよくわかる(権太楼嫌いだけど)。でも談志と志ん生ってかなり聴く人を選ぶと思うんだけどなあ。
たとえば志ん生なら、なぜ志ん朝じゃありえないのか。志ん朝なら、口跡は素晴らしいし、登場人物を間違えるなんてことはありえないし(志ん生はある)、噺がきちんと整理されているし、 かなり多くの人に愛される噺家だと思うのだが、なぜかその親父の名前を、しかも比較的若い人たちが挙げるということにほんとうに不思議を感じる。以前からずっと書いているが、小林信彦ですら、昭和36年にぶっ倒れてからの志ん生とそれ以前とでは全然違う、という古い落語ファンの話を聞いて辟易した、ということを書いていたのに。ただ僕自身は、ずっと聴きつづけていると愛すべき部分を見いだせるようになったので、志ん生がほんとうに好きという意見をまったく否定するという立場ではない。でも、相当マニアだと思うんだよなあ。
で、談志。若いころの音源はほんとうに素晴らしいと思うけれど、晩年の高座なんかはマクラが長ぇしアクが強いし、肝腎の噺は打率が低かったりするし(本人も冗談交じりにそんなことを言っていたりするし)で、これを選ぶっていうのはこれまた相当なマニアって感じがするんだけど、みなさんほんとうにそうなんですかねえ、ってのが正直な感想。率直に言って、「とりあえず談志か志ん生って言っとけばカッコいいでしょ」みたいな感じがぷんぷんしたのだった。 

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