とはいえ、わからないでもない

カテゴリ: 気づいたこと・考えたこと

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選挙の前日になって、あらためて思ったこと。

僕がふだんから聴いているラジオ番組ではこの2週間ほどを選挙関連情報に注力していて、その内容は、主に各党のマニフェストに掲げられた政策を取り上げるものだった。
番組のMCやゲストたちはなるほど専門家と呼ぶにふさわしい人たち(すくなくとも付け焼き刃ではない人たち)で、各自が重要とする論点をそれぞれの観点からとらえていた。
はじめに断っておくと、僕はこの番組をおおむねのところ気に入っていて、この期間の選挙に対する態度もとてもいいものだと感じている。しかし手放しでよいと思っているわけでもない。

番組では、自公から、はては社民、日本の心まで八つの政党の主張をとりあげ、その是々非々を論じていたが、聴いていて、「眠たいことを言っているな」という思いがないわけではなかった。
ふだんの政治を是々非々で論じるというのならわかる。現政権の悪いところがあれば指弾し、あるいは国会での追及などに手ぬるい場面があれば野党を叱咤し、とやりようはある。もちろん、称賛を送る場合においても。
しかし、こと選挙となれば、是々非々などと言っている場合なのかな、とも思う。僕は、物事を慎重に考え行動する、ということは重要だと思っているが、世の中には、「慎重に考えなければならない」というフレーズを日頃から多用する人が、えてして、「慎重に考えたその結果」に行動を移せないことの多いことを経験的に知っている。この場合、「慎重に考える」ことだけが目的になってしまっているように見える。

「正しい」という言葉をまさしく括弧つきで遣うことが前提となっているような世の中だとして、だからといって自分の心のなかにまで両論併記を持ち込む必要はないだろう。
大西巨人『未完結の問い』という本のなかでの以下の語りが、僕のなかでは非常に強く印象に残っている。
最近は、たとえば「Aがいい」と思っても、それをまっすぐには言わない方がいいという論調があるね。「AでもないBでもない」というふうに言っておく方がいい。本当は、「世の中はAじゃなきゃいかん」という「A」を探り求めていかなければいけない。むろん、なかなか不動のものに到達しないということもあろうが、それを見つけて、言わなきゃいかんわけ。ところが今は、どうもみんなが、「AでもなければBでもない」というようことを言う。わかりやすく世の中に当てはめたら、「右翼でなければいかん」という奴がいて、一方に「左翼でなければいかん」という奴がいる、そうではない「右翼でも左翼でもないのがいい」という論調がいっぱい出てきているように思うがね。その右翼でもない、左翼でもない、AでもないBでもないという言い方が、実は戦争やらファシズムやらを呼び招くんだと思うが。でも、一所懸命「不動のA」を追究して、そのことを言う人間がいなきゃいかんな。
(84p)
このなかで重要なのは、どっちつかずの態度が「実は戦争やらファシズムやらを呼び招く」という部分だろう。この文章に行き当たったとき、心の底から合点が行く思いだった。
いまの言葉に直すと、「俯瞰」になるのかな。おれ/わたしは当事者ではなく、あくまで観察者としてものごとを冷静にウォッチしているのだ、と。そういう態度を恰好いいと思っているような人たちをネットで見つけるのはそう難しいことではない。

で、話は戻って、くだんのラジオ番組のその態度は、公正な情報をリスナーに提供するという意味においては理解できなくもないが、しかしリスナー自身は、端から端まで熱心に聴く必要もあるまいと率直に感じた。
すごくわかりやすい例で言うと、なにかというとすぐにナチスを引き合いに出す副総理を抱えた内閣にそう簡単に信任を与えてよいのだろうか、とか、関東大震災の朝鮮人虐殺についていまさら疑義を唱えるような人間が党首の政党に野党第一党を任じるのか、とか、その政策がどうのこうの以前の人間が簡単に見つかる――強調しておくけれどこれらはすべて表面的なことで、ちょいと調べれば「最低基準」に満たないようなひどい連中はダース単位で見つかるだろう――ようなところで、なおも「公正さ」を保とうとし、その政策をきわめてフラットに銓衡するというのであれば、その危機意識のなさこそ国難なのではないか。いや、国難という言葉をむりやり遣うとすればだけど。

一週間ほどまえ、その番組内で最高裁裁判官の国民審査についての特集がおこなわれたのだが、その際、番組のリスナーから「毎回、判断材料がないために苦しんでいます」という内容のメッセージが送られてきた。聴いていてむかむかした。
ああおれは、ネトウヨ系のアホどももそうだけれど、こういう「イイ子ちゃん」たちも大っ嫌いなんだな、と感じた。
「苦しむ」とはまた大仰な表現をするものだ。「困る」とか「悩む」ではなく、「苦しむ」だ。すごいな。
この言葉を聴いたときに、「迫害に苦しむロヒンギャ難民」というフレーズをすぐに連想した。あるいは、「大病になり、苦しむ生活困窮者」だとか。苦しむというのは、そういう言葉だと思う。
簡単にツッコむと、苦しむくらいなのに、公報見てないのかよ。各家庭に送られ来るはずのそれを見れば、すくなくともまったく判断する材料がないということは言えまい。現に、前回の国民審査の際には、僕はひととおりそれに目を通していた。
あるいは現代のことだ、ちょっとネットで「国民審査 裁判官」とでもやれば情報はたくさん出てくる。それを見ればいいじゃないか、苦しむくらいなら。その人が目が見えない人なら全面的に謝るけれど、そうじゃなければ、大げさな言い方で、さも自分が一所懸命に考えていることをアピールするのはもうやめたらどうだろうか。

極論かもしれないけれどその番組の、すべての政党の政策を吟味するというようなやり方は、AでもないしBでもない、というある種の「冷静」で「公正」な観察者的態度というものをどこか助長させるところがあるのではないか、と思っている。これはなにも今回に限ったことではなく、ずっと感じていたこと。歴史的にも、「冷静」で「公正」だった人たちが戦争やファシズムを追認したってことは実際に多かったろうと思う。
そして、メディアに出てくる専門家というのは、われわれ一般人とはまた違うということを強く意識しなければならない。彼らは、意図して対象と距離をとり、そうやって観察・比較し、研究している。その研究結果を参考にするのならまだしも、なにかを決定しなければならないという場面にいるわれわれ自身――なんといっても当事者であるわれわれ自身――がそのやり方まで模倣しなくてもよいのではないか。過程をすっ飛ばして手法だけを真似できると考えているのであれば、それはある種の思い上がりなのではないか。あるいは、稚拙な猿真似か。

政治を批判するときの、「野党は野党でだらしない」というのはものすごくよくできた言葉で、与党の批判者で、かつ冷静な観察者を自認する人たちにとってはこれ以上ないというくらいに便利な免罪符だ。だからこそ、そういう言葉を聴くと僕はげんなりする。いじめはよくないけれど、いじめられる方にも原因がある、という言葉にかなり近いものを感じるからだ。そういう歪んだバランス感覚が生むものは、発言者の自己満足以外になにがあるというのか。心のどこかに疚しいものを感じてはいないのだろうか。
現政権の熱狂的な信者たちの過激な発言には、その点いささかの曇りもない。ストレートに、しかもしつこいくらいに主張を重ねる。応援する対象がフェイクニュースやデマ、下品な誹謗中傷を撒き散らすことがあっても、彼らにとってはそれは些細なことで、かまわないのだ。「小さなこと」とか「それをいうなら」なんていう言葉を繰り返し繰り返し重ね、敵対する側への攻撃はやめない。冷静さなんていう言葉の無意味さ・無力さを彼らは熟知している。愚かしさも、ある点を超えれば強さに変わる。気取った、照れと気恥ずかしさに隠れて慎ましく発せられる言葉は、それらによって簡単に掻き消されてしまうのだ。

一方で僕は、その目的はどうあれ、感情に訴えるやり方、言い方を換えれば扇情的なやり方というのは、手段としては適切だとも思っている。好きかどうかは別として。
政治について理性的に考える、ということを勧める人は多いのかもしれないが、理性的に考えるためにはまず判断が偏らないようより多くの情報を得るところから始まるし、その情報を得るためには、それなりの時間と労力が必要だ。そういうコストを払う覚悟を、「政治が趣味」以外の人たちは持っているだろうか。はっきり言って僕にはそんな覚悟はない。
この選挙期間中、僕の職場の前を通った選挙カーは一台だけだった。たしか前回の参院選でも、同じ政党の一台だけだった。都会では、選挙カーはいつも「うるさい」のひとことで片付けられてしまうのかもしれないが、田舎では「誰々は来た/来ていない」ということのほうが話題になる。来たからどうだというわけではないが、来ていない人間がテレビなどで立派なことを言っていても響かないということは、おそらくある。そんなつまらないことで判断するのは愚かしいことだろうか。遅れているのだろうか。
愚かしいのかもしれないし、遅れているのかもしれないが、それが現実でもある。

今回の選挙の結果を知ってもきっと失望はしないだろう。へたな希望を持てば失望するだけということを体験的に知っているから。むしろ、その先――もしかしたらすぐそこ?――にあるであろう絶望をたのしみにしておく。そのときになっていったいどれくらいの人間が、そんなはずじゃなかったと慌てふためくのか、それだけをたのしみにしておく。われながら悪趣味だとは思うが。

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今年の4月18日、70代の隣人、Yさんと話していて、今年もツバメは巣をつくらないのだなあ、ということを確認し合っていた。
一昨年は、玄関灯の上に巣をつくり、ぶじ雛が孵ったのだが、昨年は、きれいにしておいてやろうと、「オフシーズン」に巣を撤去して玄関灯の上を掃除しておいたものの(その壊した巣のなかに死んでしまっていた一羽の雛の死骸も見つけることになった)、そのせいかどうか知らないが、ツバメが来ることはなかった。
そういう教訓をふまえて、Yさんとは、ツバメの巣というのは、ツバメがいなくなってもあまりいじるものではない、ということもまた確認し合っていたのだが、今年も望み薄ということでなんとなく落胆していたところもあった。
しかし、われわれの話を盗み聞きしていたのか、天邪鬼なツバメの番いがその翌日から巣を作り始めた。

土と藁のようなものを唾でこね、それを次々とどこかから持ってきて、玄関灯にくっつけていく。
Yさんが「左官(ここらへんの言い方だと「しゃかん」)みたいにだいぶ美しゅうつくるもんやな」と感心する一方、僕はだいぶ不安だった。
この玄関灯というのは(そもそもそういう名称で正しいのかどうかもわからないが)、「一」の形をした天から真ん中部分を吊るすタイプの細いもので、その「一」の上に土を積み上げていくのならまだしも、「一」の文字のZ方向にむかって土を付け足していくものだから、直下から見上げるたびに、なんだか不安定で下手くそだなあ、途中で壊れて落ちてしまうんじゃないか、などとつぶやいてたものだが、「仕上げを御覧じろ」とばかりに、玄関灯そのもの+空中にせりだした基礎部分、のうえにいわゆる「巣」である擂り鉢状のスペースをつくったのだった。そうすることで、より広い場所を確保したのである。人間より考えることがすごい。

やがて、番いのうちの一羽が巣から離れないようになった。「ありゃもう温めているんやろ」とYさんが言い、僕も同意する。Yさんが「拾うた」と言ってツバメの卵の薄い殻を見せてくれる。親ツバメがくわえていたものが途中で落ちてしまったものらしく、それを拾ったのだという。不要のゴミだということで真下に捨ててしまえば、おそらくヘビなどが嗅ぎつけ、この上にエサがあるということに気づかれるおそれがある。だからできるだけ遠くに放ろうとするのではないか、とYさんは仮説を立てる。僕もきっとそうだろうと同意する。

やがて灰色の雛たちのぽやぽやとした頭が下からも見え始める。親ツバメがエサを持って帰ると、黄色い嘴でぴいぴいと騒ぐ。オスもメスも代わる代わるにエサを獲ってきては雛たちにやる。そうこうしているうちに、灰色の頭の毛が抜けていき、いわゆるツバメらしい恰好になっていく。相変わらずぴいぴいと騒がしいが、もう嘴は黄色くはない。
そのくらいの時期のある日、昼に仕事から帰ってくると、玄関の引き戸のほんのちょっとのでっぱりの上にヘビが乗っていて、ゆらゆらと揺れながら玄関灯へジャンプする隙を窺っていた。
足があるわけでもないヘビがどうしてそんなところにいられるかどうかはわからなかったが、ツバメの巣を襲うというのはこれまでさんざん聞かされていたことだったので少しも動じることはなく、近くにあった竿上げ(いまこの名称をはじめて知った)でまず落とし、それからその傍の地面をパンパンと叩きながら威嚇し、追い払った。慣れている人間なら殺してしまうのかもしれないが、マムシというわけでもないし、ヘビにはヘビの事情もあろうから殺したくはなかった。ヘビは二度と来ることはなかった。

日中、あちこちを飛び回っている親ツバメも、夕方から日暮れになると戻ってきて、巣の横に番いで宿って休む。雛たちもだいぶ大きくなっていて、下から見上げると、お尻の穴がぺこぺこと開閉しているのが見えたときがあったが、あれはいったいなんだったのだろうか。フンをしていたわけでもないのに。
巣立ちまではあっという間だった。その頃の僕は非常に忙しかったのでゆっくりと観察している暇もなかったのだが、Yさんが、雛たちが飛ぶ練習をして、軽トラの荷台やらに落ちて、またそこから羽撃いて飛び上がるのを繰り返していた、などということを聞くにつけて、そういう姿を目の当たりにしたような気にもなった。
Yさんは仕事をもうしていないので、日がなタバコを吸いながらツバメを眺めるのを愉しみにしていたという。その彼が今年はじめて気のついたことで、オス(こちらでは「オンタ」という言い方をする。ちなみに、メスは「メンタ」)の尾羽はどうやらメスに較べて長いものらしい。「ツバメ オスメス 見分け方」と検索窓に叩き込んで知った「情報」ではなかった。研究者の学術的観察でもなく、ただ単にじっと眺めているうちに、どうやらそうらしいと気づいた知識。70代も半ばを超えて、そういう知識を得られたことに少し嬉しそうだった。

巣から発ったとはいえ、夜になるとしばらくは雛たちも玄関灯の上に戻ってきて、窮屈そうに肩を並べて休んでいた。数えてみると雛が6羽いて、親が2羽いた。
ある朝、5時ちょっと過ぎくらいに家を出ようとすると巣が真下に落ちていて、粉々になっていた。玄関灯を見上げるとそこにツバメたちはいなかったが、おそらく狭いスペースに身体の大きくなった雛たちがぎゅうぎゅうに並んでいたものだから、その重さなりに耐えられなくなって壊れてしまったようだ。そのときには雛たちはもう完全に飛び交うことができたし、巣がなくなってもしばらくは、玄関灯の上に親ツバメと一緒に肩を並べていた。

ところが一週間から10日ほど前だろうか、親ツバメの番いが、ふたたび巣を作り始めたのである。
今度は、完全に玄関の壁の部分に例の藁つきの土を貼り付けていき、数日で小型の巣を作り上げてしまった。Yさんに訊けば、ツバメが2回雛を孵すことはままあるらしい。「今年はどうも2回産む気みたいやな」
ツバメが巣をつくる家には幸いが降るという。そういうご利益的なものについてはいっさい信用しないが、すくなくともツバメを毎日見られる幸せというものは存在する。いま、あまり動かなくなった雌ツバメのお腹の下には卵があるのだろうか。そして、ヘビはまた雛の臭いを嗅ぎつけてやってくるのだろうか。
ようやく雨が降るようになったこの季節、ツバメについてもう少し楽しむことができそうなのである。


トマトの話も少し触れておく。
5月15日に納入するように頼んであったトマト苗が来たのが、一週間遅れの5月22日。今年の春先は寒かったのでなかなか花が咲かなかったとのことだった。
それを植えてから一週間ほどすると病気の苗が目立つようになってきた。ウイルス性のものだとまずいので、一本抜き、二本抜き、とやっているうちに、とうとう全体の1割をすでに撤去してしまった。
病気や奇形を抱えた苗というものは一定の確率で必ず存在はするもので、その予備用としていくつか苗を余分にもらっていたのだが、その予備をすべて補植したうえでも、病気の拡大は止まらなかった。いや、拡大というよりは、どうも種苗屋から来たものではないかという疑いが日に日に濃厚になっていった。
電話をかけてその苗屋に事情を説明した。補償をしてもらえるとは思わなかったが、もしかしたら他の納入先から同じようなクレームをもらうことによって、現在どんな病気を発症しているかを特定できるかもしれない、と思ったのである。もちろん、自前で「この病気ではないか」と多少のあたりはつけているが。
苗屋の言うには、クレームは他ではもらっていないということだったが、すでに撤去したとこちらが説明した本数分を、新たに持っていくと約束してくれ、翌々日にまだ小さい苗だったが実際に持ってきてくれた。しかし、ここですぐに畑に植えるのも怖かったので、隔離した場所にセルポットに入れたまま様子見をすることにしたのだが、やはり数日で病気が発症し、これで、病気の感染源を特定することはできた。つまり、もともと保毒した苗が持ってこられたのである。
専門機関に持っていって調査してもらっている最中ではあるが、病気の特定ができても、すでに抜いて捨ててしまった苗は戻ってこない。なんとも残念なことである。

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坂本慎太郎のアルバム『できれば愛を』を何度も何度も繰り返し聴いている。そのなかでも『ディスコって』の歌詞に打たれている。


(※坂本慎太郎のVer.はなく、オノシュンスケのカバーVer.しかYouTube上にはない)
今 男が 女に声をかけた
今 不思議な 沈黙が訪れた

ディスコは君を差別しない
ディスコは君を侮辱しない
ディスコは君を区別しない
ディスコは君を拒絶しない

今年も盆には みんな来る
さあ出迎えよう迎え火で

ディスコって 男や 女が 踊るところ
ディスコって 不思議な 音楽かかるところ

ディスコで君は何もしない
ディスコも君に何もしない
ディスコに君は期待しない
ディスコも君に何も求めない

たまらず先祖も 蘇る
まあ次の日の夜中まで

今 女が 男の肩に触れた
今 男が 男と腕をくんだ
今 女が 女とキスをしてた
今 男が 男と外に消えた

ディスコは君を差別しない
ディスコは君を侮辱しない
ディスコは君を区別しない
ディスコは君を拒絶しない
ディスコで君は何もしない
ディスコも君に何もしない
ディスコに君は期待しない
ディスコも君に何も求めない

ディスコって 男や 女が 踊るところ
ディスコって 不思議な 音楽かかるところ
ディスコって 男や 女が 出会うところ
ディスコって いつでも 一人になれるところ
ディスコ
上に掲げた歌詞を読み、あるいは耳にして、そしてこの曲がリリースされたのが2016年ということを考慮すると、どうしても米国フロリダのゲイナイトクラブ銃撃事件が想起してしまう。
何度も繰り返される「ディスコは君を差別しない/侮辱しない/区別しない/拒絶しない」。そして中盤には男と男、あるいは女と女という同性愛の関係性を連想させる歌詞もあり、ディスコというものが、そういう愛の形態をごく自然のものとして受け入れている場所なのだ、という宣言のようにも思えてくる。

この曲が収録されている『できれば愛を』は2016年7月26日にリリースされた。たとえば2016年6月9日CINRAのニュースではその情報が早くも公開されており、そこに掲載されたジャケットの画像にはside Bの4曲目に同曲の名前が印刷されていることがはっきりと確認できる。
しかし、上記のゲイナイトクラブ襲撃事件は、2016年6月12日未明に起きている。つまり、僕がはじめに思った、事件を発端として書かれた曲ではないということだ。
僕はこの事件を、CNNのレポーター(彼自身がゲイということらしい)が、犠牲者の名前とそのプロフィールをつぎつぎと読み上げながら、込み上げてきたために声が震えてしまう動画とともに憶えている。


菊地成孔が、自身のラジオ番組でポピュラーミュージックにはそのような偶然はよくあることだ、と言っていたことがある。
アントニオ・カルロス・ジョビンの『三月の水』について触れ、「三月の水」という言葉が日本人にとって特別な意味を持ってしまった、と。そのあとに、ポピュラーミュージックにはそのようなことはよくある、と継いだ。

それほどシリアスではない例として。
今年の2月26日に、リリカルスクールという5人組のアイドルグループのうち、オリジナルメンバー3人が卒業するということでその最後のライブがあった。
僕はそれをLINE LIVEで観たのだが、出てくる歌詞のいちいちに衝撃を受け、胸が詰まりっぱなしだった。
たとえば、「楽しもう今日は今日だけだから(『ワンダーグラウンド』)」、「1分1秒でも長く!(『マジックアワー』)」、「多分だけど絶対今日のことずっと忘れないと思うんだ(『サマーファンデーション』)」など。
もちろんこれらの曲は「卒業」を意識してつくられたものではなく、そしてつくられた時期もばらばらだ。
しかし、これらの言葉が耳に入ってきたとき、「ああ、これはまさしくきょうのこの瞬間のためにつくられた曲だったんだなあ……」と感慨の深い深いところにひたりきってしまった。


音楽には魔法があると思うことがよくある。僕自身は音楽は詳しいほうではないが、それでもたぶん、力はある。
たしかきのうとかおとといくらいに、東京レインボープライドがあったはずだけど、そのどこかで、『ディスコって』が爆音でかかっていたりしたら、とてもすてきな光景だったろうと思う。

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地方再生とか創生ってないよね、って実感している。
地域の魅力を、とか誰もが言うけれど、そんなもんがあるなら若い人は出ていかないよ。出て行っちゃったから移住者を招こうとしているわけなんだから。
地域活性化という目的で何百万円が注ぎ込まれたある実例を知っていて、それをある人に話したら、「あら、かわいいもんですよ、そんなの」と言って、その方の住んでいる地域での地域活性化事業の金額が二桁違うということを教えてくれた。
もうほとんどの人が利用しないであろう施設を大幅に改修してその金額。名目上は、その施設を再利用するということなのだが……億単位のお金をつぎ込んでやることではない、というのは余所者でも簡単にわかること。そして、その事業を推進したというムラの長の懐にはいったいなにが入ったのだろう、というところまで考えを巡らすのはごく自然のこと。
そういうのが、日本全国いたるところであるのだろうし、そういう事業を引っ張ってくる政治家が「えらい先生」ということになるのだろう(直接的には省庁経由だと思うけど)。
そういう「えらい先生方」のなかのさらにえらいやつが、たとえばデマ情報をもって学芸員批判をして、後日、曖昧模糊とした撤回・謝罪に終始することになる。
現閣僚たちほど仕事ができない、もう少し言葉を選べば任ぜられた職務にふさわしくない人間を、僕は実社会で出くわしたことがない。「あいつ、ほんとダメだなあ」と陰口を叩かれまくりの人間だって、もう少しまともだったように思う。
率直に言って、ああいう人たちを支持している人たちって、同様に無能なのかなと思う。自分たちと同じ程度だから安心できる。そういう理窟なのかな。で、そういう人たちってきっと多いのだろうな、と考えてしまう。そうでなきゃ、支持率が高いはずがない。
僕の知っている「まともな人たち」であれば、おれ/わたしだったら少なくともそんなことはしない、ということをいともたやすくやってのけてしまう人間たちを、支持するはずがない。支持どころか、軽蔑し、怒りを覚えるはずだ。
殊に最近は、専門家や研究者たちの意見と、なにも勉強していないただの素人の放言とを一緒くたにしてしまうタイプの「意見の平等性」という考えが、実際に言語化されていなくても、浸透してしまっている気がする。すごい自信に裏打ちされているのだろうな。僕にはとうていそんな考え方できないけど。

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最近ちょっと引っかかったこと(かつ瑣末なこと)。

ほとんどウォッチしていないところなのだが、いよいよ全面禁煙が図られる、みたいなことを風の噂レベルで聞いた。といっても僕は非喫煙者なので細かな規定というのはわからないし興味もわかないのだが、分煙はわかるけれど、完全禁煙って、それはそれでどうなのかと思う。副流煙や歩きタバコの問題が回避できれば、ある程度喫煙場所が設けられてしかるべきだと思う。
健康のため、とか、公共(またもやオリンピックが口実か)のため、という大義名分を振りかざして個人の嗜好・自由を制限するのが「成功」してしまうと、次は禁酒、次は……と際限がなくなるようなおそれがある。
過去を思えば、あらゆる場所でぷかぷか吸われるような状況じゃなくなったいま、もう充分な気がするのだけれど。

時事通信の3月の世論調査のニュースを読んで、現政権への支持率がいまだ50%を超えているというのを知ってたいへん驚いた。しかも、新共謀罪の法案に対しては6割を超える人間が賛成か。すごいな。最近オーウェルの『1984』を読み終えたせいかもしれないけれど、日本人って監視社会を自ら望んでいるとしか思えないな。
支持率を見たところ、たぶんあの教育勅語の問題に関しても(僕からすれば信じられないほどの)多くの人間が問題なしとしているのだろうな。すごいよな。いわゆる「右傾化」という言葉が叫ばれてひさしいけれど、保守というか、愛国カルト集団の皆々様にとっても、今日こんな地点まで来られるとは思ってもみなかったのではないか。この状況をスルーして、遠く離れたトランプを批判している人がいたら、そいつはだいぶ頭がおかしいと思う。対岸の火事より、お前んちがすでに火事なんだよ。

がらり話は変わって。
最近の広告代理店のイースター推しは滑稽すぎる。ハロウィンもだいぶ無理があったけれど、いったん成功しちゃったもんだから、次はイースターってことになったんだろう。お次は謝肉祭で、その次は……アメリカの独立記念日を祝ったりしたら面白い。そんで、紀元節、天長節の復活! それなら政府も喜んでバックアップしてくれるよ。  

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昨年の文化の日のことだった。一年に一回のイベントのようなものがあって、そこである男の人に声をかけられた。「どう? 元気にやってる?」
その声の調子と表情から一度ならず挨拶や言葉を交わしたことがある、ということは明らかだったけれどすぐには思い出せず、「ええと誰だっけかな……」と心中考えながらも「そうですねえ、今年もなかなか……うまくいきませんでしたねえ」なんて適当なことを言いつつ、できのわるい検索システムをフル稼働していたのだが、そのとき、ある女性が視界の隅に入り、そこでその男性が誰だか思い出すことができた。
もともと僕はその女性のほうと知り合いで、たぶん彼女ははじめて会ったときですでに五十代も後半に入っていたはずだからいまはもう六十に手が届いているはずだった。男の人は、その女性の夫だった。
人懐こい人で、一度思い出せたら、その人好きのするしゃべり方や仕草までも一気に思い出すことができた。その前に会ったのが、ちょうど一年前の同じイベントでのことだった。一年という時間をあっという間にジャンプして、僕たちは隣人のように話した。黒く日焼けをした、とても元気な人だった。

その人が、昨年末に死んだということをきょう聞いた。事故死だった。
話を聴けば、人間、そんなもんで死んでしまうのだろうか、というくらいにあっけない事故で、それを教えてくれた人間も、半ば笑いながら話した。
不謹慎だ、と思う人もいるだろう。けれども、話を聞いた僕も半ば笑いながら聞いたのだ。もちろん、げらげらと笑ったわけではない。僕はまず驚き、それから、笑うしかないから笑った。そういう種類の笑いだった。教えてくれた人もたぶんそうだったのだろうと思う。
僕はやっと四十になろうというところだが、僕のまわりにいる人たちは六十代で若いほう、七十代がざらだ。教えてくれた人も、七十は優に超えている。その人たちにとって、死はいつもかなり近いところにある。両親はとっくに死に、同級も半分以上は死んでいる。病死のほかにも、事故死、自殺、などいろいろな死に方を目の当たりにしてきたと思う。
いろいろな事情が考えられるが、この七年間で僕も、都市部に住んでいた三十数年間で出会った死のおよそ十倍の死に出くわしている。深夜に救急車の音がわりと近くで長く響いているのが聞こえたら、喪服のありかをすぐに思い浮かべるくらいにはなった。
それでも、知り合いが亡くなったことを知らされれば、ついこのあいだ会ったばかりなのに、と思わないことはない。そして同時に、家族や特別に深い友人であったりしなければ、実にあっけないことのようにも感じてしまう。
話に聞いた状況から判断するだけだが、今度亡くなった人は死ぬ間際に、「あ」とだけ思ったのではないか。あるいは、「あれ?」かもしれない。いづれにせよ、ほとんど苦しまずに逝けたことを願う。 

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次々作の朝ドラのヒロインが葵わかなになったと知って、特に驚きもなかった。
2015年からのヒロインを見ると、土屋太鳳→波瑠→高畑充希→芳根京子→有村架純→葵わかなという流れは、朝ドラヒロイン的という観点からすると波瑠以外はすべて納得の配役。波瑠が嫌いとかそういうことじゃなくて、線の細い美人ってのは少しイメージが違う気がしたのだ。次々々作はもう松岡茉優でいいんじゃないかな。
ブクマを確認したら2014年の9月には彼女(葵)をチェックしていたというのが判明したのだが、たぶんこれはラジオドラマの好演が原因だったと思う。声の感じがよくて、そこからその人物を知った、という流れ。オモコーの芳根京子の親友役もやっていた。まあ、ドラマは観ない可能性が高いが。

キャスティングといえば、今朝、ヤフーのヘッドラインで「水戸黄門を武田鉄矢が演じる」というのを見て、エイプリルフールにゃ早すぎると思ったのだが、どうやらほんとうのことらしい。
印籠を見せてからの説教が長そう、名前の由来を懇々と教える、漢字の話をよくする、オリジナルのテーマソングを自分で唄う、マルちゃんがスポンサーにつく、などといろいろなことが頭をよぎる。
 
ヤフーニュースといえば、「ゆとりですがなにか」のSPが夏に放送されるとかいうのがあって、これは嬉しい驚き。またまりぶが観られるなんて、ほんと嬉しい。
 

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最近の仕事上のトピックといえばスクラップ&ビルドでしかなく、とりあえず、肉体作業に従事している間に時間がいともたやすく流れ去っていく。10年前の僕は、将来防護メガネをつけて、サンダーやら小型切断機なんかを使って鉄管相手にバチバチと火花を散らすことになるなんて想像もしていなかった。仕事は強制されているものではないのでその内容にはまったく不服はないのだが、しかしもともと体力が存分にあるという人間ではないので疲れてしまい、帰宅してからなにかをしようと思ってもその気力が残されていないのが残念なところ。
満を持していまさらながら『逃げ恥』を観ようと思ったがTBSのオンデマンドは月額いくらという設定になっており、この月末で加入するのはいささかもったいないということで来月はじめのたのしみにとっておくこととし、かといって早々に大河ドラマは見切ってしまったので(一点、柴咲コウは歌はうまかったということを思い出させてくれた、というのがほぼ唯一の発見)、特段テレビをつけても観るべきものは発見できず、仕方なしにというわけでもないが積読になっていた本を読んでみるとこれが実に面白いものばかりで、「こりゃあネットを眺めているバヤイではないぞ」とひさしぶりに読書にひたることをたのしんだ。
小説なんかもう読めないだろうなあなどと漠然とした悲しさを覚えていたものだが、ジョージ・オーウェルの『動物農場』をぱらぱらと読んでいたら実に面白く、その流れで最近またベストセラーにリストオンされたと評判の『1984』をつづけて読み、いまやめられなくなっている最中。もちろんドナルド・トランプ政権との相似という点で本書は話題になっているわけだが、その予言性にだけ着目するだけではもったいない(ただし、二回目以降の読書という意味ではそれもアリだとは思う)。まだ途中なのでなんとも言いがたいが、純粋に小説としてたのしめるもので、ディックのような――時代的にいえば、オーウェルのように書いたディック、なのかもしれないが――切実さと悲しみがあって、いまのところは僕ごのみの小説である。
トランプといえば、昨年の大統領就任または一昨年からの大統領選で日本では一般的に注目されたように思うのだが、僕の場合は2000年にリリースされたm-floの『Planet Shining』のなかのinterlude 4におさめられたフリースタイルに「ビル・ゲイツ、yo! ドナルド・トランプ」という言葉があって、そこで漠然とそういう金持ちがいるんだなあ、程度の受け止め方をしていたし、なんといっても、マクドナルドとかドナルドダックを連想させるファーストネームと、トランプというファミリーネームが憶えやすく、爾来その名前はなんとなく頭のなかに残っていた。
そのことを確認するために当該CDアルバムをひさしぶりに聴いてみると、アルバム内の設定として2012年(当時から見て12年後)の近未来ということになっていて、いまだにこの仕掛けに新鮮さを感じてしまう。interlude 4では、「saywatchugotta」という曲へのフリとして、3人のラッパーが好き勝手にしゃべっている(という体をとっている)のだが、そのなかで「むかしはCDなんてものを出していたし、デモテープなんてものがあったねえ。今や『デモレコード』をつくっているくらいで、レコードを自分ちでつくれるアナログのいい世の中になった」みたいなところがあるんだけど、これが現代の「一部」を予言していて面白い。実際にCDの流通は、日本はともかく世界的には減少しており、アメリカかイギリスか忘れたが、CDはもちろんもはやDLの売上よりもアナログレコードの販売金額のほうが上回った、ということがニュースになっていた。これはアナログ回帰ということも部分的には指摘できるのだろうが、より定額制のストリーミング配信に移行したユーザーが多いということの証左であるってことをどこかで見聞きした。まあ、それでもレコードが売れているということは面白い現象だとは思うし、2000年当時におそらくは「面白おかしく」のつもりで発したジョークがそれなりの意味を有してしまった、という事象もまた面白く感じられる。

話はがらりと変わるが、例の極右学校法人に対する報道を見ているといろいろな疑問が噴出して仕方がないのだが、当該理事長は、「安倍晋三記念小学校」なんて名前を考えだしたり、夫人を名誉校長に置いたりと、まともな頭の持ち主にはいっけん見えない。ものすごくストレートにとらえてしまうと、現政権と親和性の高い極右思想組織およびその構成人物が、その権力を笠に着て行政と癒着したというふうに見えるが、はたしてこの問題に出てくる登場人物たちは、大阪の財務局も含めて、それほどバカなのだろうか、とその点にまず疑問を覚えるのだ。億単位の国有地の払い下げ契約について相当恣意的な9割のディスカウントを行って(なおかつ交渉記録をすみやかに廃棄して)バレずにすまそうだなんて、マンガ家が発案して編集者に見せたら「いくらなんでもこんな設定は読者をバカにしている」と突っ返されるレベルだろう。
そう考えると、どうもあの学園の理事長が、安倍や日本会議を貶めその陰部に捜査の手が伸びるよう企んだとしか思えなくなってくるのだ。保護者への恫喝、狂信的に映る思想教育、隠そうともしない民族差別主義。そして例の事件についての、もはや矛盾のないところを探すほうが難しかった説明は、ツッコミ待ちをしているとしか思えない。こうなってしまうと、政権に擦り寄ったり、はたまたその顔色を窺ったりして様子見をしていたメディアまでもが動かざるを得なくなり、結果、現政権への痛烈なダメージを与えている(はず)。
陰謀論を支持することはあまりないのだが、しかしこの場合は、まさに有志の理事長と財務局トップとが密かに諮り今回の問題を企図したと見るほうが自然に感じてしまう。彼らは自分たちが罰されることを前提としていろいろなところで餌を撒き、それがじゅうぶんに達せられたと認識した時点で自らリークしたのではないだろうか。はじめはわかりやすい左右の対立構造を引き出し、そこから現在の「右」がいかに極端な場所に位置しているのかを明らかにし、右傾というよりは右落状態にある潮流を押しとどめ、あわよくば政権を打倒するとそこまで考えての行動、と読み取ることのほうが、「安倍晋三記念小学校」の設立を意図して行政に不当な癒着を持ちかけた(あるいは忖度させた)という構造よりよっぽど自然に思えるのだが。

またまた話は変わって。
小説だけではなく、積読本のなかにはドイツワインについて書かれたエッセイもあって、それをなんとはなしに読んでいたら非常に面白かった。岩本順子の『おいしいワインが出来た!』というものと『ドイツワイン 偉大なる造り手たちの肖像』 というもので、特に前者が面白い。
いままでなんとなく目にしていた、ワイン用のぶどうというものがどのように収穫されてうんぬんという記述は、ほとんどがワイン商の視点、つまりマーケティング戦略の一環として描かれているものであったが、本書は作者が実際にケラーというドイツの醸造所に飛び込み、一年間栽培に携わった記録となっていて、これを読むと、ワイン用のぶどうとはいえ、ほんとうに野菜や他の果樹の栽培と通底するところがあって実に親近感をもってたのしむことができた。もちろん醸造は、田舎の家庭菜園の視点からでは想像するべくもないが、それでもぶどうにはできるだけ手をくわえないでワインにするという思想は、商売者というより農家・百姓の考えのように感じられた。ごく単純に言ってその醸造所のワインに興味を持った。
きっとおいしく感じられることだろう。人間は舌だけで味わっているではないし、もし「純粋に」舌だけで味わおうとしたら、それ相応の訓練を自分に課さなければならない。しかしそのようにして得られるものは、じつは少ないと僕は思っている。味覚を業務の中心に置くような職業にでも就かないかぎりは。
誰々がこのようにして作った、とか、どこそこという場所には伝統的な栽培方法があって、とか、そのようなイメージが味覚に及ぼす影響は小さくないし、そこにいい意味で騙され乗ってしまったほうが、食はたのしめる。ワインでいえば、テイスティングとは試飲とか味見のことだ。それは試飲会やそれに類する場所で行えばいい。けれどもそんな場所にほんとうの食のたのしみがあるのだろうか。 ひとりでも複数でもいいけれど、僕は食卓にこそ食のよろこびやたのしみを見出す。料理自慢はあってもいいが、供された食事や飲み物に対して批判するなんて野暮の骨頂で鼻つまみ者。どうせならおもしろいエピソードを披瀝できるほうがよっぽど好まれる。僕は、嫌われる人間より好かれる人間になりたい。

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だいじょうぶ、実際に大統領に就任したのちはまともになるでしょう、みたいなことを平然と言ってのける、括弧つきの「専門家」にはもううんざりだし、訳知り顔で消息通ぶるやつも信じられない。やつらは、例の勝利宣言のときにまっさきに「見直した」とかコメントしていたのだから。
つまりこれは、非常に大時代的で古典中の古典、不良が雨のなか捨て猫を拾うと「いいやつ」、あるいは、ちょっとだけいいことをしたヤクザをすぐさま「いい人」と認定してしまう心理と一緒で、さすがにこのインターネットの時代、つまり情報の選択肢がある程度拡張された現代において、そういう幼稚で単純な人間もだいぶ少なくなっただろうと思うのだが、しかし、楽観主義というものをなかなか手放さない人は多いらしく、意地悪な僕は、そういった人たちこそが、ギロチン台に自らの首を差し出しながらもなお「またなにかの冗談だろ」と笑っている様子を見たいとも思うのだが、しかしそれでは大きな不満を、的外れな場所で小さく爆発させようとしているだけで、本質的な解決を見ない。

なぜか知らないが、いろいろなものが同時発生的に壊れるってことはあるもので、ちょっと外出して帰ってきたら風呂場の給湯器と冷蔵庫が動かなくなって、おまけに車のワイパーのウォッシャー液も切れた。給湯器は裏庭にあるので、雪の降った翌日、表玄関を大回りして裏口の小さな門を開けようとしたら、錠の取っての部分が壊れて外れた。家の外壁もそっと指で押したらドリフの全員集合のオチのように壮大に崩れるんじゃないかと思ったがそういうことはなかった。そのかわり、落ち葉で詰まった雨樋から雪解け水が大量に溢れ滴り落ちて、僕の足元を濡らした。

地味であまり知られていないであろうアイドルグループがこの1月に終わりを告げ、そのメンバーのひとりが、お別れの挨拶の一環として他のあるメンバーに対し、「あの時私を引き止めてくれてありがとう!(ずっと言いたかった)」とツイートしていて、なにも知らない僕の胸にも迫るものがあった。このような無数の小さなきらめきが、僕たちを励ます。

なにも知らずにテレビをつけると日テレがまた安直に視聴率を稼ぐため『千と千尋の神隠し』を放送していて、仕方がないから、くされ神が湯屋にやってきて体内に抱えた大量のゴミの山を千たちに引き抜いてもらうところまで観て、スイッチを消した。何度観てもこの場面はすっきりする。また、釜じいのところの炭の精霊みたいなチビスケたちが飯として金平糖をもらう場面は、いつ観ても愛らしい。あの色のコントラストもよく考えられているし、ひとりひとり(一匹一匹?)が別々に動くため、それぞれがきちんと生きているという感じがする。
けれども総体としてこの映画の印象はいつも曖昧なままで、「……音楽がよかったなあ」という感想を抱くのみなのである。

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流行語大賞の審査員をやった廉で叩かれた俵万智が、弁明のツイートをしていたらしい。 いったい、「反日だ」とかいう戦時中を思わせる批難を目にする環境にある、という時点ですでに不用意という感じがする。そんな貧困なボキャブラリーしか持ち合わせのないような人間とコミュニケーションをとらなくてはいけないなんて、なんの罰ゲームなのだろう。表現の世界に与する人間であれば、ネットなんかに自ら関与しなくたっていいじゃないか。ツイッターなんかやってなにがしたいのだろうか?
「日本死ね」という単語を流行語に推したことによってすぐさま「反日だ!」と批難する人間は、そもそも対等に話せるだけの知性や語彙、社交性を持っているのだろうか。僕の感覚からすると、そういう人間は無視して構わないのだが、けれどもやっぱりリアクションはしてしまうもので、「私は国を愛している」と俵万智は答えてしまっている。

去年だったか、たぶん安保関連の問題で盛り上がっている時期だったと思うのだが、松尾貴史が政府への反対意見を述べて「反日タレントだ」 と批判されたらしい。それに対する反論として彼は、たとえば「反戦運動をする人こそが真の『愛国者』である」と主張した(真の「愛国者」の務めとは何か - ポリタス)。
僕は、こういう発言に違和感を覚える。「反日的」というレッテル貼りをされた人は、なぜか「いや、僕/私は愛国者ですよ」と答えることが多い。なんだか、突然強制された踏み絵に対して、「いや、僕/私は踏めますよ」と言って絵をずかずかと踏んでいるような感じがしてしまう。どうして「なぜ踏み絵などしなくてはいけないのか?」と問うことをしないのだろうか。

「反日的だ」とか「愛国者だ」とかいう批難や称揚が日常的となっているコミュニティに、あなたは属しているのだろうか?
もしそうでないのなら、そういう場でとかく口にされる二元論につきあう必要はない。もとより問いの土台を共有していないのだから。
返事をする必要のない質問に対して俵万智や松尾貴史は、金角・銀角の呼びかけに不用意に応えるように、自ら罠に入り込んでしまっている。彼女/彼は、程度の低い批難に応戦することによって、図らずも、その程度の低い批難が存在する余地を認めてしまっているのだ。
この「反日」という言葉は容易に「非国民」という言葉を想像させるし、おそらく同義語として遣われているのだろう。こういう言葉を遣う人間は、ある国民に対して「国民に非ず」と認定できる人や組織があると考えているのかもしれないが、とんでもない話だ。
とんでもない意見や考えに対してはスルーするのが最上で(バカとコミュニケーションをしたってどうせ実にならないから)、もし応対するのなら、根幹となる価値観を容れられない、と前提そのものを攻撃すべし。相手の次元まで降りてしまって、ご丁寧に「非国民ではない」と応対するのは愚の骨頂。まるでどこかに「非国民」というものが存在するかのように聞えてしまう。
僕は、「反日」とか「非国民」などというおそろしい同調圧力に対してこのような「弁明」がもたらす消極的な承認を、罪だと考えている。俵や松尾のような文章をよくする人間が、この点に気づいていないはずがない。それでも彼女/彼は弁明せざるをえない。そこに、空恐ろしさを感じる。そうやって、リベラルと見なされる人間たちが簡単に自分たちの領地を簡単に手放してしまうことを。 

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