とはいえ、わからないでもない

カテゴリ: 気づいたこと・考えたこと

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このあいだヤフーのヘッドラインで「みなおか」って文字を見て、なんのことじゃいと思ったら「みなさんのおかげです」の略と知った。はじめて聴いたぞ、そんなの。まあ、観たことない番組だけど。

ミュージックステーションが「Mステ」って言われだしたのはけっこう古かったような気がする。96年に就いたバイト先の女子高生が「Mステ」というのを聞いて、へえそういう言い方するんだと驚いた記憶がある。僕の同級生でそんなことを言っているのはひとりもいなかった。

以前にも書いたことがあったことをふたつ。
もちろん後追いなんだけれど、僕の中高生のときの『サウンド・オブ・サイレンス』の唄い手は「サイモンとガーファンクル」であって、「サイモン・アンド・ガーファンクル」なんてしゃれた言い方は知らなかった。ましてや「S&G」だなんて、カレーの会社みたいだ。
「ファストフード」っていう言い方については、いつ頃から主流になったのかは調べられそうな気がする。それくらい、「いっせーのせ!」で変わった気がする。ずっと「ファーストフード」だと思っていたけどね。

「ボージョレ/ボジョレー」問題もそろそろ飽きた。どっちにせよマーケティングの一環というか、目新しい言い方で売ってやれという観点から広まった(?)表記だろうし。
「SSW」は「スーパースターウォーズ」じゃなくて、「シンガー・ソング・ライター」っていうのがいまだにしっくりこない。無理してんだろ、ってツッコミがまずあって。
最近のところでいうと、「ハロウィン」か、それとも「ハロウィーン」なのかについて触れている場面に何回かでくわしたので、今後もちょっとした小ネタになっていくのだろう。

そこで本題。
きょうテレビを観ていたら「ドーナツ」という言い方をしているのを聴いて、びつくり。いやいや、そういう表記は知っていたけれど、促音(「っ」)をきちんと強調して発音するのは初めて聴いたかも。わしはいままでずっと、「ドーナツ」じゃった。「ピザ」を「ピッツァ」って言われたような衝撃。「チャンピオン」という言葉も、「ちゃんぴょん」的言い方は鳴りを潜め、今後は「ちゃんぴおん」という表記に即した発音がメジャーになっていくのだろうか(これについては、「ぴょん」的言い方がそもそも間違いなのかもしれない、とも思っている)。

まあ、「フィロソフィーのダンス」というアイドルグループの「フィロのス」っていう略称は最高だな、ってことが言いたいだけ。
もちろん、楽曲・パフォーマンスも最高で、2017年ベストアイドルグループのひとつです(ベスト、の意味が崩壊してる)。

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このあいだちょっとした場所へ、船に乗って行ってきたのだが、そこはもうフォトジェニックな場所であって、手っ取り早くいえば人気スポットだった。
船に乗るところからやっぱりみんな大盛り上がりで、そりゃそうだろう、漁師でもないかぎり非日常な体験なんだから。船酔いなどは起こらない程度にいい感じに揺られながら離れ島に到着すると、というか、乗船中からみんな写真撮影にはしゃぐ。大学生くらいのグループがあったり、カップルがあったり、というなかで、ひとりきりの女性というのもいて、悪い癖なのだがなんとなく見てしまう。どういう愉しみ方をするのかが気になってしまうのだ。

僕がたまたまちらっと観た方は、カメラだけじゃなく、見たことのない道具(360度カメラとか?)をいろいろと使いこなしていて、けれども表情は無表情で、なんかそれがとても面白いことのように思えて。
彼女はたぶん頭のなかで、その場にいる人たちと同じくらいにおしゃべりをしていたはずで、知っているけれどもその場にいない誰かや、あるいは顔も知らないのだけれどつながりのある誰かなどに、いろいろと目の当たりにしている風景について「きょう晴れていてよかった」とか「細かく飛んでくる波飛沫が気持ちいいんだよ」とか話しかけていたのだと思う。
僕自身はけっこうおしゃべりなので、いろいろと面と向かってしゃべるのが好きだが、けれども心の中でずっとしゃべっているのも好きで、そういう「結局は誰の耳にも届かなかったコミュニケーション」がいまの僕の大部分を構成していると思っている。それらは、実在の人物に話すことよりすくなくとも量的には多いし、少なからぬ人たちもたぶん同様なんじゃないかと思っている。

島に上陸して、思い思いの場所へ各人が足を運ぶ。きっとみんな事前に「ここにはぜひ行っておきたい」という場所を調べておいているみたいで、迷いがない。といっても、もう12月だし、大都会の話ではないので、上陸客は多いとは思ったものの芋洗いという状況ではもちろんなかったし、そのまばらな感じがなんとなくよかった。撮ろうとする気持ちはみんな一緒だよね、というような共犯意識もあったのだと思う。
なんだかんだとけっこう歩き回って、しかも思ってもみずの山歩き的なところも多かったので、厚手のブルゾンを脱ぎ、内側に着込んだフリースもニットキャップも脱ぎ、と汗を拭き拭き適当な場所へ足を向けていると、「この島へ来たらここでしょ」的なスポットに行き当たり、しかも他に人がほとんどいなかったので、休みがてら、その廃墟となった軍事施設の薄暗い部分に入り込んで、光が遠いところから射して美しいシルエットを作り出すのを楽しんでいた。
と、例の女性がいたのである。やっぱりひとりのままで。

もちろんひとりきりの女性をじっくりと眺めていたら、それほど気持ち悪いことはないので、視界に入れるような入れないようなくらいのニュアンスでゆっくりとその場を立ち去りながらも、その様子を窺っていた。ほんと、趣味が悪いと自分でも思いますよ。
彼女は、三脚を立て、そのうえにカメラを乗せて、リモートコントロールできるデバイスをつかって、自分自身を撮影していた。何度も何度もカメラの位置を確かめるようにしながら、しかし自身がごく自然な被写体となるように振る舞い、シャッターを押していた(のだと思う)。
僕はその場に30秒といなかったが、その様子をなんとなく意識の端っこでとらえながら、すごくいいなと感じていた。

インスタ映えという言葉が流行語大賞を獲ったとかで、こうなると(こうなったからこそ)おおっぴらに批判の対象として難ずる人間が出てくるというものだが、そういう言葉が流行る前から、事象じたいを把握し批判するのならまだしも、大々的に知られるようになってからケチをつけだす人間の感覚の鈍さってのはだいたい無視していい程度。といっても、僕もそれほどその行為というものをあまり好きにはなれずにいた。
しかしその女性が、完全に個人のローカルフォルダにひたすらアーカイヴするためだけに撮影しているというわけではないのなら(もしそうだとしたらすごいことだ!)、やはりSNSにアップロードすることを前提にしてイメージをつくりあげ、それを現実化させるための機器を準備し、かつ、巧みに扱うというこの労力は、称讃に値しないわけがない。

インスタ映えのする写真をアップするのは、端的に言って、カッコイイとかかわいいとかお洒落とかいいなあなんてことを誰かに思われたいがためだと思う。「ただの日常の記録」とか「自分らしさ」なんていう表現の仕方もあるかもしれないけれど、それについてカッコイイとかかわいいとかお洒落とかいいなあなんて思われることがイヤなわけではないだろう。
僕は面倒だから「カッコイイでしょ」と言えるかもしれないけれど、若い人ならそういうふうにストレートに表現することを好まないだろうから、いかに婉曲するかに苦労しているというのも容易に想像できる。
ツールが発達していろいろと便利になったぶん、そういうインフラが当たり前の世代にとっては、全方向への配慮がたいへんだろうなと思う。へたにレスポンスがある可能性があるから、賢く振る舞いたい人は、空気(というかいろいろな場所でのいろいろな人間によるリアクション)を読みまくってからでないと自分の意見を吐き出すのに苦労しそう。
だから「(笑い)」や「www」をつけてナルシシズムに陥らないよう自身を客観化したり、客観化できているように振る舞ったりするってのも想像できる。「インスタ映えしそうwww」とか言いながらでもやっぱりスマホを向けて写真を撮るんでしょう? わかるわかるよ、わかりますよ。
でもさ、そういうのってつまらないんだよね。自己顕示欲は強いくせに全部防御線張りまくって傷つかないようにするのって、つまらない。行為の濃度は希薄になるだろうし、その結果は表層的で薄っぺらなものになるし、だいいち、そういうものを見た僕がフラストレーションのあまりウキーと髪を掻き毟ったあげく余計に薄くなるっていう、世界のいろいろな薄さに寄与しているだけなんだよな。
そういう時代だからこそ、ストレートにカッコつけることがいかに恰好のいいことか。気障でいいじゃん。ロマンティストでいいじゃん。ポエム詠めよ。最大限に気取れよ。嘲る連中を笑い返してやればいい。

……というようなことを、そういう人が身近にいるわけでもないのに思っていて、つまり妄想していたわけだが、その島で、件のひとりの女性がロマンティックか、かわいいか、はたまたカッコイイ写真を工夫して撮影しているところを目の端でちょこっと見たときに、つまらないことはいっぺんに吹き飛んでしまった。
すごくいい!
その人がアップするときにどんなキャプションをつけているのかは知るよしもなかったけれど、すくなくとも写真撮影の現場での行動はいい意味で泥臭いもので、誰ともしゃべらずに黙々とやっていたぶん、ただならぬ情熱を感じたのだ。
彼女の、そのときの心中でのおしゃべりがどんなものか聴いてみたかった。それは出来あがりの写真画像よりも僕には興味のあることで、彼女が誰になにを語りかけながら写真を撮り、そしてそのできたものについてまた誰かに話すのか、そういうことを知りたいと思った。
「いいでしょ? この写真。ね、いいよね? うん、いいよね。よく撮れたんだ」とか、「ここすごいよね、すごい。うん、こんな感じ、映画みたいだし、わたし、いま、ここの世界にぴったりハマってる」とか、自身をめちゃくちゃ肯定している感じだったら、なんだか嬉しい。そういう肯定している印象が少しでも感じられたから僕は興味を惹かれたわけだけれど、ハッシュタグでごまかしたり、どんな照れ隠しのキャプションをつけていようと、その場での「生の声」がストレートなものであれば、全然問題ないのだな、と思った。
僕は心の中で、その女性に、どんな写真が撮れたのか、とか、どんなイメージで写真を撮ったのか、とか、誰かに撮ってもらうことはあるのか、とか、写真を始めたきっかけは、などと質問を投げかけていた。もちろん、返事はない。それでいい。
あなたのおかげで、いろいろと新しいことを感じることができました。あなたのことについて、文章を書いてみようと思いました。いいえ、あなたを貶すようなものでは決してありません。あなたを通して、物事の見方がまた変わったんだ、そんなことを書こうかと思っています。ええそうです、あなたの知らない場所で。

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こういうことを書くと、自分でも保守的な人間だなあと思ってしまうのだけれど、やっぱり例の赤ちゃん連れの市議の行動については疑問を持たざるを得なかった。

あの人のインタビューも聴いたし、主張も理解したうえでやはりそう思っている。
あの件を認めるとなると、形式論的にいえば、「ある目的を正しいと信じた人間が確信してルール違反を犯したことを認める」ということになる。
その結果よりよい社会になるではないか、というのは実は論理的な反論ではない。どちらかといえば感情に訴える話だ。しかし一方で、今回の件の主体は、立法者である。感情論に任せていいものだろうか。

こんな場合はどうか。
「この愛する国をよりよくし、そして守り抜くのだ」と信じた人間が、かなりイレギュラーで強引なやり方をもって法案を通し、立法化する。
どこかで見たような例だが、この場合は、形式論的には法律(≒ルール)違反を犯していないので、「赤ちゃん」の場合より適切である、ともいえる。

このふたつを同時に支持する人は少ないと思う。
けれども両者は、細かな違いをちょっとだけ無視すると、「正しい」目的の実現のためなら多少の違反(ルール違反だったり前例違反だったり)は許されるべきだと考えている(ように見える)、という意味において同じような行為なのではないか(ルール違反だとは思っていなかった、は個人の内心の話になるので、あくまで形式に拘泥している)。

一般的な話でなら、感情論に傾くことはあるかもしれないが、立法者や行政者など、権力が与えられている者であればこそ手続きに則ることが大原則で、そこから逸脱するには相当の理由がなければならない、と僕は考えるが、今回の問題でも、あるいは他の問題でも、たいてい我を通した人間は「相当な理由があった」とする。
あと、「赤ちゃん」や「愛国」がなにかひとつの暴力性を持っていることも気になる点だ。それを片手に抱いているだけで相手を黙らせられるような場合がある。「○○のことだから、プロセスは気にしなくていい」という考え方は、自分の嫌う概念が「○○」に代入されることを想定し、それでも許せる場合にだけ認めるべきだ。

件の市議は、市議会だけにとどまらずに県議会や国会に呼びかけ、議員(なにも女性に限ったことでなくてもいいはず)が子どもづれで議会に参加できることを認める法案を提案するよう促してみてはどうだろうか。
ワンアクションで変わることなどほとんどないと思っているし、もし変わったとしても、それは別のワンアクションで簡単にひっくり返ると思っている。
ほんとうに大切だと思っていることなら、腰を据えてじっくりとやってみてほしい。そういう行動のほうが、より多くの人間の賛同を得られるはずと思うのだ。

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選挙の前日になって、あらためて思ったこと。

僕がふだんから聴いているラジオ番組ではこの2週間ほどを選挙関連情報に注力していて、その内容は、主に各党のマニフェストに掲げられた政策を取り上げるものだった。
番組のMCやゲストたちはなるほど専門家と呼ぶにふさわしい人たち(すくなくとも付け焼き刃ではない人たち)で、各自が重要とする論点をそれぞれの観点からとらえていた。
はじめに断っておくと、僕はこの番組をおおむねのところ気に入っていて、この期間の選挙に対する態度もとてもいいものだと感じている。しかし手放しでよいと思っているわけでもない。

番組では、自公から、はては社民、日本の心まで八つの政党の主張をとりあげ、その是々非々を論じていたが、聴いていて、「眠たいことを言っているな」という思いがないわけではなかった。
ふだんの政治を是々非々で論じるというのならわかる。現政権の悪いところがあれば指弾し、あるいは国会での追及などに手ぬるい場面があれば野党を叱咤し、とやりようはある。もちろん、称賛を送る場合においても。
しかし、こと選挙となれば、是々非々などと言っている場合なのかな、とも思う。僕は、物事を慎重に考え行動する、ということは重要だと思っているが、世の中には、「慎重に考えなければならない」というフレーズを日頃から多用する人が、えてして、「慎重に考えたその結果」に行動を移せないことの多いことを経験的に知っている。この場合、「慎重に考える」ことだけが目的になってしまっているように見える。

「正しい」という言葉をまさしく括弧つきで遣うことが前提となっているような世の中だとして、だからといって自分の心のなかにまで両論併記を持ち込む必要はないだろう。
大西巨人『未完結の問い』という本のなかでの以下の語りが、僕のなかでは非常に強く印象に残っている。
最近は、たとえば「Aがいい」と思っても、それをまっすぐには言わない方がいいという論調があるね。「AでもないBでもない」というふうに言っておく方がいい。本当は、「世の中はAじゃなきゃいかん」という「A」を探り求めていかなければいけない。むろん、なかなか不動のものに到達しないということもあろうが、それを見つけて、言わなきゃいかんわけ。ところが今は、どうもみんなが、「AでもなければBでもない」というようことを言う。わかりやすく世の中に当てはめたら、「右翼でなければいかん」という奴がいて、一方に「左翼でなければいかん」という奴がいる、そうではない「右翼でも左翼でもないのがいい」という論調がいっぱい出てきているように思うがね。その右翼でもない、左翼でもない、AでもないBでもないという言い方が、実は戦争やらファシズムやらを呼び招くんだと思うが。でも、一所懸命「不動のA」を追究して、そのことを言う人間がいなきゃいかんな。
(84p)
このなかで重要なのは、どっちつかずの態度が「実は戦争やらファシズムやらを呼び招く」という部分だろう。この文章に行き当たったとき、心の底から合点が行く思いだった。
いまの言葉に直すと、「俯瞰」になるのかな。おれ/わたしは当事者ではなく、あくまで観察者としてものごとを冷静にウォッチしているのだ、と。そういう態度を恰好いいと思っているような人たちをネットで見つけるのはそう難しいことではない。

で、話は戻って、くだんのラジオ番組のその態度は、公正な情報をリスナーに提供するという意味においては理解できなくもないが、しかしリスナー自身は、端から端まで熱心に聴く必要もあるまいと率直に感じた。
すごくわかりやすい例で言うと、なにかというとすぐにナチスを引き合いに出す副総理を抱えた内閣にそう簡単に信任を与えてよいのだろうか、とか、関東大震災の朝鮮人虐殺についていまさら疑義を唱えるような人間が党首の政党に野党第一党を任じるのか、とか、その政策がどうのこうの以前の人間が簡単に見つかる――強調しておくけれどこれらはすべて表面的なことで、ちょいと調べれば「最低基準」に満たないようなひどい連中はダース単位で見つかるだろう――ようなところで、なおも「公正さ」を保とうとし、その政策をきわめてフラットに銓衡するというのであれば、その危機意識のなさこそ国難なのではないか。いや、国難という言葉をむりやり遣うとすればだけど。

一週間ほどまえ、その番組内で最高裁裁判官の国民審査についての特集がおこなわれたのだが、その際、番組のリスナーから「毎回、判断材料がないために苦しんでいます」という内容のメッセージが送られてきた。聴いていてむかむかした。
ああおれは、ネトウヨ系のアホどももそうだけれど、こういう「イイ子ちゃん」たちも大っ嫌いなんだな、と感じた。
「苦しむ」とはまた大仰な表現をするものだ。「困る」とか「悩む」ではなく、「苦しむ」だ。すごいな。
この言葉を聴いたときに、「迫害に苦しむロヒンギャ難民」というフレーズをすぐに連想した。あるいは、「大病になり、苦しむ生活困窮者」だとか。苦しむというのは、そういう言葉だと思う。
簡単にツッコむと、苦しむくらいなのに、公報見てないのかよ。各家庭に送られ来るはずのそれを見れば、すくなくともまったく判断する材料がないということは言えまい。現に、前回の国民審査の際には、僕はひととおりそれに目を通していた。
あるいは現代のことだ、ちょっとネットで「国民審査 裁判官」とでもやれば情報はたくさん出てくる。それを見ればいいじゃないか、苦しむくらいなら。その人が目が見えない人なら全面的に謝るけれど、そうじゃなければ、大げさな言い方で、さも自分が一所懸命に考えていることをアピールするのはもうやめたらどうだろうか。

極論かもしれないけれどその番組の、すべての政党の政策を吟味するというようなやり方は、AでもないしBでもない、というある種の「冷静」で「公正」な観察者的態度というものをどこか助長させるところがあるのではないか、と思っている。これはなにも今回に限ったことではなく、ずっと感じていたこと。歴史的にも、「冷静」で「公正」だった人たちが戦争やファシズムを追認したってことは実際に多かったろうと思う。
そして、メディアに出てくる専門家というのは、われわれ一般人とはまた違うということを強く意識しなければならない。彼らは、意図して対象と距離をとり、そうやって観察・比較し、研究している。その研究結果を参考にするのならまだしも、なにかを決定しなければならないという場面にいるわれわれ自身――なんといっても当事者であるわれわれ自身――がそのやり方まで模倣しなくてもよいのではないか。そして過程をすっ飛ばして手法だけを真似できると考えているのであれば、それはある種の思い上がりなのではないか。あるいは、稚拙な猿真似か。

政治を批判するときの、「野党は野党でだらしない」というのはものすごくよくできた言葉で、与党の批判者で、かつ冷静な観察者を自認する人たちにとってはこれ以上ないというくらいに便利な免罪符だ。だからこそ、そういう言葉を聴くと僕はげんなりする。いじめはよくないけれど、いじめられる方にも原因がある、という言葉にかなり近いものを感じるからだ。そういう歪んだバランス感覚が生むものは、発言者の自己満足以外になにがあるというのか。心のどこかに疚しいものを感じてはいないのだろうか。
現政権の熱狂的な信者たちの過激な発言には、その点いささかの曇りもない。ストレートに、しかもしつこいくらいに主張を重ねる。応援する対象がフェイクニュースやデマ、下品な誹謗中傷を撒き散らすことがあっても、彼らにとってはそれは些細なことで、かまわないのだ。「小さなこと」とか「それをいうなら」なんていう言葉を繰り返し繰り返し重ね、敵対する側への攻撃はやめない。冷静さなんていう言葉の無意味さ・無力さを彼らは熟知している。愚かしさも、ある点を超えれば強さに変わる。気取った、照れと気恥ずかしさに隠れて慎ましく発せられる言葉は、それらによって簡単に掻き消されてしまうのだ。

一方で僕は、その目的はどうあれ、感情に訴えるやり方、言い方を換えれば扇情的なやり方というのは、手段としては適切だとも思っている。好きかどうかは別として。
政治について理性的に考える、ということを勧める人は多いのかもしれないが、理性的に考えるためにはまず判断が偏らないようより多くの情報を得るところから始まるし、その情報を得るためには、それなりの時間と労力が必要だ。そういうコストを払う覚悟を、「政治が趣味」以外の人たちは持っているだろうか。はっきり言って僕にはそんな覚悟はない。
この選挙期間中、僕の職場の前を通った選挙カーは一台だけだった。たしか前回の参院選でも、同じ政党の一台だけだった。都会では、選挙カーはいつも「うるさい」のひとことで片付けられてしまうのかもしれないが、田舎では「誰々は来た/来ていない」ということのほうが話題になる。来たからどうだというわけではないが、来ていない人間がテレビなどで立派なことを言っていても響かないということは、おそらくある。そんなつまらないことで判断するのは愚かしいことだろうか。遅れているのだろうか。
愚かしいのかもしれないし、遅れているのかもしれないが、それが現実でもある。

今回の選挙の結果を知ってもきっと失望はしないだろう。へたな希望を持てば失望するだけということを体験的に知っているから。むしろ、その先――もしかしたらすぐそこ?――にあるであろう絶望をたのしみにしておく。そのときになっていったいどれくらいの人間が、そんなはずじゃなかったと慌てふためくのか、それだけをたのしみにしておく。われながら悪趣味だとは思うが。

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今年の4月18日、70代の隣人、Yさんと話していて、今年もツバメは巣をつくらないのだなあ、ということを確認し合っていた。
一昨年は、玄関灯の上に巣をつくり、ぶじ雛が孵ったのだが、昨年は、きれいにしておいてやろうと、「オフシーズン」に巣を撤去して玄関灯の上を掃除しておいたものの(その壊した巣のなかに死んでしまっていた一羽の雛の死骸も見つけることになった)、そのせいかどうか知らないが、ツバメが来ることはなかった。
そういう教訓をふまえて、Yさんとは、ツバメの巣というのは、ツバメがいなくなってもあまりいじるものではない、ということもまた確認し合っていたのだが、今年も望み薄ということでなんとなく落胆していたところもあった。
しかし、われわれの話を盗み聞きしていたのか、天邪鬼なツバメの番いがその翌日から巣を作り始めた。

土と藁のようなものを唾でこね、それを次々とどこかから持ってきて、玄関灯にくっつけていく。
Yさんが「左官(ここらへんの言い方だと「しゃかん」)みたいにだいぶ美しゅうつくるもんやな」と感心する一方、僕はだいぶ不安だった。
この玄関灯というのは(そもそもそういう名称で正しいのかどうかもわからないが)、「一」の形をした天から真ん中部分を吊るすタイプの細いもので、その「一」の上に土を積み上げていくのならまだしも、「一」の文字のZ方向にむかって土を付け足していくものだから、直下から見上げるたびに、なんだか不安定で下手くそだなあ、途中で壊れて落ちてしまうんじゃないか、などとつぶやいてたものだが、「仕上げを御覧じろ」とばかりに、玄関灯そのもの+空中にせりだした基礎部分、のうえにいわゆる「巣」である擂り鉢状のスペースをつくったのだった。そうすることで、より広い場所を確保したのである。人間より考えることがすごい。

やがて、番いのうちの一羽が巣から離れないようになった。「ありゃもう温めているんやろ」とYさんが言い、僕も同意する。Yさんが「拾うた」と言ってツバメの卵の薄い殻を見せてくれる。親ツバメがくわえていたものが途中で落ちてしまったものらしく、それを拾ったのだという。不要のゴミだということで真下に捨ててしまえば、おそらくヘビなどが嗅ぎつけ、この上にエサがあるということに気づかれるおそれがある。だからできるだけ遠くに放ろうとするのではないか、とYさんは仮説を立てる。僕もきっとそうだろうと同意する。

やがて灰色の雛たちのぽやぽやとした頭が下からも見え始める。親ツバメがエサを持って帰ると、黄色い嘴でぴいぴいと騒ぐ。オスもメスも代わる代わるにエサを獲ってきては雛たちにやる。そうこうしているうちに、灰色の頭の毛が抜けていき、いわゆるツバメらしい恰好になっていく。相変わらずぴいぴいと騒がしいが、もう嘴は黄色くはない。
そのくらいの時期のある日、昼に仕事から帰ってくると、玄関の引き戸のほんのちょっとのでっぱりの上にヘビが乗っていて、ゆらゆらと揺れながら玄関灯へジャンプする隙を窺っていた。
足があるわけでもないヘビがどうしてそんなところにいられるかどうかはわからなかったが、ツバメの巣を襲うというのはこれまでさんざん聞かされていたことだったので少しも動じることはなく、近くにあった竿上げ(いまこの名称をはじめて知った)でまず落とし、それからその傍の地面をパンパンと叩きながら威嚇し、追い払った。慣れている人間なら殺してしまうのかもしれないが、マムシというわけでもないし、ヘビにはヘビの事情もあろうから殺したくはなかった。ヘビは二度と来ることはなかった。

日中、あちこちを飛び回っている親ツバメも、夕方から日暮れになると戻ってきて、巣の横に番いで宿って休む。雛たちもだいぶ大きくなっていて、下から見上げると、お尻の穴がぺこぺこと開閉しているのが見えたときがあったが、あれはいったいなんだったのだろうか。フンをしていたわけでもないのに。
巣立ちまではあっという間だった。その頃の僕は非常に忙しかったのでゆっくりと観察している暇もなかったのだが、Yさんが、雛たちが飛ぶ練習をして、軽トラの荷台やらに落ちて、またそこから羽撃いて飛び上がるのを繰り返していた、などということを聞くにつけて、そういう姿を目の当たりにしたような気にもなった。
Yさんは仕事をもうしていないので、日がなタバコを吸いながらツバメを眺めるのを愉しみにしていたという。その彼が今年はじめて気のついたことで、オス(こちらでは「オンタ」という言い方をする。ちなみに、メスは「メンタ」)の尾羽はどうやらメスに較べて長いものらしい。「ツバメ オスメス 見分け方」と検索窓に叩き込んで知った「情報」ではなかった。研究者の学術的観察でもなく、ただ単にじっと眺めているうちに、どうやらそうらしいと気づいた知識。70代も半ばを超えて、そういう知識を得られたことに少し嬉しそうだった。

巣から発ったとはいえ、夜になるとしばらくは雛たちも玄関灯の上に戻ってきて、窮屈そうに肩を並べて休んでいた。数えてみると雛が6羽いて、親が2羽いた。
ある朝、5時ちょっと過ぎくらいに家を出ようとすると巣が真下に落ちていて、粉々になっていた。玄関灯を見上げるとそこにツバメたちはいなかったが、おそらく狭いスペースに身体の大きくなった雛たちがぎゅうぎゅうに並んでいたものだから、その重さなりに耐えられなくなって壊れてしまったようだ。そのときには雛たちはもう完全に飛び交うことができたし、巣がなくなってもしばらくは、玄関灯の上に親ツバメと一緒に肩を並べていた。

ところが一週間から10日ほど前だろうか、親ツバメの番いが、ふたたび巣を作り始めたのである。
今度は、完全に玄関の壁の部分に例の藁つきの土を貼り付けていき、数日で小型の巣を作り上げてしまった。Yさんに訊けば、ツバメが2回雛を孵すことはままあるらしい。「今年はどうも2回産む気みたいやな」
ツバメが巣をつくる家には幸いが降るという。そういうご利益的なものについてはいっさい信用しないが、すくなくともツバメを毎日見られる幸せというものは存在する。いま、あまり動かなくなった雌ツバメのお腹の下には卵があるのだろうか。そして、ヘビはまた雛の臭いを嗅ぎつけてやってくるのだろうか。
ようやく雨が降るようになったこの季節、ツバメについてもう少し楽しむことができそうなのである。


トマトの話も少し触れておく。
5月15日に納入するように頼んであったトマト苗が来たのが、一週間遅れの5月22日。今年の春先は寒かったのでなかなか花が咲かなかったとのことだった。
それを植えてから一週間ほどすると病気の苗が目立つようになってきた。ウイルス性のものだとまずいので、一本抜き、二本抜き、とやっているうちに、とうとう全体の1割をすでに撤去してしまった。
病気や奇形を抱えた苗というものは一定の確率で必ず存在はするもので、その予備用としていくつか苗を余分にもらっていたのだが、その予備をすべて補植したうえでも、病気の拡大は止まらなかった。いや、拡大というよりは、どうも種苗屋から来たものではないかという疑いが日に日に濃厚になっていった。
電話をかけてその苗屋に事情を説明した。補償をしてもらえるとは思わなかったが、もしかしたら他の納入先から同じようなクレームをもらうことによって、現在どんな病気を発症しているかを特定できるかもしれない、と思ったのである。もちろん、自前で「この病気ではないか」と多少のあたりはつけているが。
苗屋の言うには、クレームは他ではもらっていないということだったが、すでに撤去したとこちらが説明した本数分を、新たに持っていくと約束してくれ、翌々日にまだ小さい苗だったが実際に持ってきてくれた。しかし、ここですぐに畑に植えるのも怖かったので、隔離した場所にセルポットに入れたまま様子見をすることにしたのだが、やはり数日で病気が発症し、これで、病気の感染源を特定することはできた。つまり、もともと保毒した苗が持ってこられたのである。
専門機関に持っていって調査してもらっている最中ではあるが、病気の特定ができても、すでに抜いて捨ててしまった苗は戻ってこない。なんとも残念なことである。

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坂本慎太郎のアルバム『できれば愛を』を何度も何度も繰り返し聴いている。そのなかでも『ディスコって』の歌詞に打たれている。


(※坂本慎太郎のVer.はなく、オノシュンスケのカバーVer.しかYouTube上にはない)
今 男が 女に声をかけた
今 不思議な 沈黙が訪れた

ディスコは君を差別しない
ディスコは君を侮辱しない
ディスコは君を区別しない
ディスコは君を拒絶しない

今年も盆には みんな来る
さあ出迎えよう迎え火で

ディスコって 男や 女が 踊るところ
ディスコって 不思議な 音楽かかるところ

ディスコで君は何もしない
ディスコも君に何もしない
ディスコに君は期待しない
ディスコも君に何も求めない

たまらず先祖も 蘇る
まあ次の日の夜中まで

今 女が 男の肩に触れた
今 男が 男と腕をくんだ
今 女が 女とキスをしてた
今 男が 男と外に消えた

ディスコは君を差別しない
ディスコは君を侮辱しない
ディスコは君を区別しない
ディスコは君を拒絶しない
ディスコで君は何もしない
ディスコも君に何もしない
ディスコに君は期待しない
ディスコも君に何も求めない

ディスコって 男や 女が 踊るところ
ディスコって 不思議な 音楽かかるところ
ディスコって 男や 女が 出会うところ
ディスコって いつでも 一人になれるところ
ディスコ
上に掲げた歌詞を読み、あるいは耳にして、そしてこの曲がリリースされたのが2016年ということを考慮すると、どうしても米国フロリダのゲイナイトクラブ銃撃事件が想起してしまう。
何度も繰り返される「ディスコは君を差別しない/侮辱しない/区別しない/拒絶しない」。そして中盤には男と男、あるいは女と女という同性愛の関係性を連想させる歌詞もあり、ディスコというものが、そういう愛の形態をごく自然のものとして受け入れている場所なのだ、という宣言のようにも思えてくる。

この曲が収録されている『できれば愛を』は2016年7月26日にリリースされた。たとえば2016年6月9日CINRAのニュースではその情報が早くも公開されており、そこに掲載されたジャケットの画像にはside Bの4曲目に同曲の名前が印刷されていることがはっきりと確認できる。
しかし、上記のゲイナイトクラブ襲撃事件は、2016年6月12日未明に起きている。つまり、僕がはじめに思った、事件を発端として書かれた曲ではないということだ。
僕はこの事件を、CNNのレポーター(彼自身がゲイということらしい)が、犠牲者の名前とそのプロフィールをつぎつぎと読み上げながら、込み上げてきたために声が震えてしまう動画とともに憶えている。


菊地成孔が、自身のラジオ番組でポピュラーミュージックにはそのような偶然はよくあることだ、と言っていたことがある。
アントニオ・カルロス・ジョビンの『三月の水』について触れ、「三月の水」という言葉が日本人にとって特別な意味を持ってしまった、と。そのあとに、ポピュラーミュージックにはそのようなことはよくある、と継いだ。

それほどシリアスではない例として。
今年の2月26日に、リリカルスクールという5人組のアイドルグループのうち、オリジナルメンバー3人が卒業するということでその最後のライブがあった。
僕はそれをLINE LIVEで観たのだが、出てくる歌詞のいちいちに衝撃を受け、胸が詰まりっぱなしだった。
たとえば、「楽しもう今日は今日だけだから(『ワンダーグラウンド』)」、「1分1秒でも長く!(『マジックアワー』)」、「多分だけど絶対今日のことずっと忘れないと思うんだ(『サマーファンデーション』)」など。
もちろんこれらの曲は「卒業」を意識してつくられたものではなく、そしてつくられた時期もばらばらだ。
しかし、これらの言葉が耳に入ってきたとき、「ああ、これはまさしくきょうのこの瞬間のためにつくられた曲だったんだなあ……」と感慨の深い深いところにひたりきってしまった。


音楽には魔法があると思うことがよくある。僕自身は音楽は詳しいほうではないが、それでもたぶん、力はある。
たしかきのうとかおとといくらいに、東京レインボープライドがあったはずだけど、そのどこかで、『ディスコって』が爆音でかかっていたりしたら、とてもすてきな光景だったろうと思う。

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地方再生とか創生ってないよね、って実感している。
地域の魅力を、とか誰もが言うけれど、そんなもんがあるなら若い人は出ていかないよ。出て行っちゃったから移住者を招こうとしているわけなんだから。
地域活性化という目的で何百万円が注ぎ込まれたある実例を知っていて、それをある人に話したら、「あら、かわいいもんですよ、そんなの」と言って、その方の住んでいる地域での地域活性化事業の金額が二桁違うということを教えてくれた。
もうほとんどの人が利用しないであろう施設を大幅に改修してその金額。名目上は、その施設を再利用するということなのだが……億単位のお金をつぎ込んでやることではない、というのは余所者でも簡単にわかること。そして、その事業を推進したというムラの長の懐にはいったいなにが入ったのだろう、というところまで考えを巡らすのはごく自然のこと。
そういうのが、日本全国いたるところであるのだろうし、そういう事業を引っ張ってくる政治家が「えらい先生」ということになるのだろう(直接的には省庁経由だと思うけど)。
そういう「えらい先生方」のなかのさらにえらいやつが、たとえばデマ情報をもって学芸員批判をして、後日、曖昧模糊とした撤回・謝罪に終始することになる。
現閣僚たちほど仕事ができない、もう少し言葉を選べば任ぜられた職務にふさわしくない人間を、僕は実社会で出くわしたことがない。「あいつ、ほんとダメだなあ」と陰口を叩かれまくりの人間だって、もう少しまともだったように思う。
率直に言って、ああいう人たちを支持している人たちって、同様に無能なのかなと思う。自分たちと同じ程度だから安心できる。そういう理窟なのかな。で、そういう人たちってきっと多いのだろうな、と考えてしまう。そうでなきゃ、支持率が高いはずがない。
僕の知っている「まともな人たち」であれば、おれ/わたしだったら少なくともそんなことはしない、ということをいともたやすくやってのけてしまう人間たちを、支持するはずがない。支持どころか、軽蔑し、怒りを覚えるはずだ。
殊に最近は、専門家や研究者たちの意見と、なにも勉強していないただの素人の放言とを一緒くたにしてしまうタイプの「意見の平等性」という考えが、実際に言語化されていなくても、浸透してしまっている気がする。すごい自信に裏打ちされているのだろうな。僕にはとうていそんな考え方できないけど。

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最近ちょっと引っかかったこと(かつ瑣末なこと)。

ほとんどウォッチしていないところなのだが、いよいよ全面禁煙が図られる、みたいなことを風の噂レベルで聞いた。といっても僕は非喫煙者なので細かな規定というのはわからないし興味もわかないのだが、分煙はわかるけれど、完全禁煙って、それはそれでどうなのかと思う。副流煙や歩きタバコの問題が回避できれば、ある程度喫煙場所が設けられてしかるべきだと思う。
健康のため、とか、公共(またもやオリンピックが口実か)のため、という大義名分を振りかざして個人の嗜好・自由を制限するのが「成功」してしまうと、次は禁酒、次は……と際限がなくなるようなおそれがある。
過去を思えば、あらゆる場所でぷかぷか吸われるような状況じゃなくなったいま、もう充分な気がするのだけれど。

時事通信の3月の世論調査のニュースを読んで、現政権への支持率がいまだ50%を超えているというのを知ってたいへん驚いた。しかも、新共謀罪の法案に対しては6割を超える人間が賛成か。すごいな。最近オーウェルの『1984』を読み終えたせいかもしれないけれど、日本人って監視社会を自ら望んでいるとしか思えないな。
支持率を見たところ、たぶんあの教育勅語の問題に関しても(僕からすれば信じられないほどの)多くの人間が問題なしとしているのだろうな。すごいよな。いわゆる「右傾化」という言葉が叫ばれてひさしいけれど、保守というか、愛国カルト集団の皆々様にとっても、今日こんな地点まで来られるとは思ってもみなかったのではないか。この状況をスルーして、遠く離れたトランプを批判している人がいたら、そいつはだいぶ頭がおかしいと思う。対岸の火事より、お前んちがすでに火事なんだよ。

がらり話は変わって。
最近の広告代理店のイースター推しは滑稽すぎる。ハロウィンもだいぶ無理があったけれど、いったん成功しちゃったもんだから、次はイースターってことになったんだろう。お次は謝肉祭で、その次は……アメリカの独立記念日を祝ったりしたら面白い。そんで、紀元節、天長節の復活! それなら政府も喜んでバックアップしてくれるよ。  

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昨年の文化の日のことだった。一年に一回のイベントのようなものがあって、そこである男の人に声をかけられた。「どう? 元気にやってる?」
その声の調子と表情から一度ならず挨拶や言葉を交わしたことがある、ということは明らかだったけれどすぐには思い出せず、「ええと誰だっけかな……」と心中考えながらも「そうですねえ、今年もなかなか……うまくいきませんでしたねえ」なんて適当なことを言いつつ、できのわるい検索システムをフル稼働していたのだが、そのとき、ある女性が視界の隅に入り、そこでその男性が誰だか思い出すことができた。
もともと僕はその女性のほうと知り合いで、たぶん彼女ははじめて会ったときですでに五十代も後半に入っていたはずだからいまはもう六十に手が届いているはずだった。男の人は、その女性の夫だった。
人懐こい人で、一度思い出せたら、その人好きのするしゃべり方や仕草までも一気に思い出すことができた。その前に会ったのが、ちょうど一年前の同じイベントでのことだった。一年という時間をあっという間にジャンプして、僕たちは隣人のように話した。黒く日焼けをした、とても元気な人だった。

その人が、昨年末に死んだということをきょう聞いた。事故死だった。
話を聴けば、人間、そんなもんで死んでしまうのだろうか、というくらいにあっけない事故で、それを教えてくれた人間も、半ば笑いながら話した。
不謹慎だ、と思う人もいるだろう。けれども、話を聞いた僕も半ば笑いながら聞いたのだ。もちろん、げらげらと笑ったわけではない。僕はまず驚き、それから、笑うしかないから笑った。そういう種類の笑いだった。教えてくれた人もたぶんそうだったのだろうと思う。
僕はやっと四十になろうというところだが、僕のまわりにいる人たちは六十代で若いほう、七十代がざらだ。教えてくれた人も、七十は優に超えている。その人たちにとって、死はいつもかなり近いところにある。両親はとっくに死に、同級も半分以上は死んでいる。病死のほかにも、事故死、自殺、などいろいろな死に方を目の当たりにしてきたと思う。
いろいろな事情が考えられるが、この七年間で僕も、都市部に住んでいた三十数年間で出会った死のおよそ十倍の死に出くわしている。深夜に救急車の音がわりと近くで長く響いているのが聞こえたら、喪服のありかをすぐに思い浮かべるくらいにはなった。
それでも、知り合いが亡くなったことを知らされれば、ついこのあいだ会ったばかりなのに、と思わないことはない。そして同時に、家族や特別に深い友人であったりしなければ、実にあっけないことのようにも感じてしまう。
話に聞いた状況から判断するだけだが、今度亡くなった人は死ぬ間際に、「あ」とだけ思ったのではないか。あるいは、「あれ?」かもしれない。いづれにせよ、ほとんど苦しまずに逝けたことを願う。 

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次々作の朝ドラのヒロインが葵わかなになったと知って、特に驚きもなかった。
2015年からのヒロインを見ると、土屋太鳳→波瑠→高畑充希→芳根京子→有村架純→葵わかなという流れは、朝ドラヒロイン的という観点からすると波瑠以外はすべて納得の配役。波瑠が嫌いとかそういうことじゃなくて、線の細い美人ってのは少しイメージが違う気がしたのだ。次々々作はもう松岡茉優でいいんじゃないかな。
ブクマを確認したら2014年の9月には彼女(葵)をチェックしていたというのが判明したのだが、たぶんこれはラジオドラマの好演が原因だったと思う。声の感じがよくて、そこからその人物を知った、という流れ。オモコーの芳根京子の親友役もやっていた。まあ、ドラマは観ない可能性が高いが。

キャスティングといえば、今朝、ヤフーのヘッドラインで「水戸黄門を武田鉄矢が演じる」というのを見て、エイプリルフールにゃ早すぎると思ったのだが、どうやらほんとうのことらしい。
印籠を見せてからの説教が長そう、名前の由来を懇々と教える、漢字の話をよくする、オリジナルのテーマソングを自分で唄う、マルちゃんがスポンサーにつく、などといろいろなことが頭をよぎる。
 
ヤフーニュースといえば、「ゆとりですがなにか」のSPが夏に放送されるとかいうのがあって、これは嬉しい驚き。またまりぶが観られるなんて、ほんと嬉しい。
 

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