とはいえ、わからないでもない

カテゴリ: 気づいたこと・考えたこと

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ときにうんざりするほどの、また、ときにはうっとりするほどの饒舌で鳴らすTBSラジオ『菊地成孔の粋な夜電波』が今年の年末で最終回を迎えるというアナウンスがあり、今年何回目かわからない、けれども最大のものとなることだけは間違いない喪失感の強襲があった。以来、ドイツ製の鈍器でどたまをどつかれ、どす黒くどぶのような悪臭のする血を垂れ流しつづけているような気分。鈍感な独裁者の道義的感覚と貪婪な読書家の土俗的な毒舌との撞着にめくるめく思いを馳せ、ドミノ倒しになったドライフラワーの束を必死に掻き集めてはみるものの努力だけではどうにもならないようですぐに砕けて手からこぼれ落ちてしまい、けっきょく都々逸を口ずさみながらドラッグストア目指してドライブする。これすなわちドレミのド。度し難い現実とはいえ、どのみち唄いつづけていかねばならないのだ。土曜の深夜、午前4時。もちろんカーラジオのスイッチはONにしてダイヤルを954kHzに合わせる。

僕は、番組内でのテクニカル・タームでいえばライト級にしかすぎないリスナーだ。記録を見れば2015年の秋頃から聴き始め、そこから毎週録音・保存し、同時にアーカイヴを掘ることも始めた。はじめはYouTube上にあったものを、それから有志によるまとめサイトを発見しそこを掘った。それらをすべて聴けばヘビー級だ、などと主張するつもりはまったくなく、ただただ、自分ひとりの愉しみとしてそのコンプリートを静かに目指している。
いろいろと、ほんとうにいろいろと言いたいことがあるけれど、すでに菊地成孔本人が言っているような「野暮」になってしまうので、言わない。けれども、番組終わりの彼の「また来週」という言葉がいかに多くの人を救ってきたのかは想像に難くない。

ついこのあいだ、今年の9月29日の放送時に、マック・ミラーの追悼があった。この日はまた番組のシーズン15の最終回でもあり、そして来シーズンも続行することが「さらっと」アナウンスされていた。もともとはシーズン(半年のクールの意)の区切りごとに次はあるのか、それとも終わってしまうのかとヒヤヒヤしているリスナーが多かったのだが、最近は安泰も安泰ということで「心配もされなくなってきた」ということを菊地がげらげら笑いながら話していた。
ひとしきりの「バカ話」のあと、ある番組リスナーからのメールが読まれた。若くして、26歳(27クラブにも入れない!)にしてオーヴァードーズで死んでしまったマック・ミラーの死を悼むというその内容に対して菊地は、「相当不謹慎ですが」と前置きしたうえ、「(ヒップホップが)非常に優秀で若い才能が亡くならざるを得ないジャンルということに誇りを持つべき」で、マック・ミラーの死はしょうがないと諦めるしかないと言った。
そのときたまたま過去回(2011.7.31放送回)も聴いていたところで、そこでエイミー・ワインハウスの追悼がおこなわれ、やはり彼女の死は「しかたない」と見なされていた。これが突き放したような言い方だったらきっと多くの人間から反感を持たれるだろうが、聴いた人間ならそのほとんどが、そこに愛情を感じたはずだ。音楽があったために彼女が27歳まで生きることができたのだと思うことにする、と言っていたのだから。
その放送を聴いてから彼女のアルバム『Back To Black』に収められていた『Hey Little Rich Girl』(これが日本版のボーナストラックだったということはつい最近知ったことだ)をYouTube上で探してみた。
胸が締めつけられるような映像だ。中盤ハイライトの男性ファルセットがすばらしいのは当然なのだが、なにせ主役のエイミーがどろんどろんになってしまっていてピリッとしたところがまったくない。焦点の定まらない瞳、間奏部分でさえ口元に持っていってしまう、なにか。これが氷の溶けたネクターピーチだったりすりゃどんなによかったか。
ちょうどそのようなときだったので、マック・ミラーという人物をほとんど知らなかった僕も――死亡記事が出たときにはNPRの動画をひとつ観ていたけれど――、その死に痛ましさを感じていた。
2018.9.29放送回に話は戻る。マック・ミラーの死を「しょうがない」としたうえで菊地成孔は、ルイス・コール『Things』の歌詞を紹介し、この曲を彼に捧げた。

予想もつかず 知らないうちにすべてを失っている
だけど 危険水域に入る前に
最高のアイデアというものは思い浮かぶもの
愛する人たちきみを呼び戻す
常連たちはきみにひどい扱いをする
まさに晴天の霹靂
でも ようやくはっきりしたろう?

ものごとは思い描いたようにはならない
ものごとは思い描いたようにはならないんだ
それはいいことかもしれない 悪いことかもしれない
いずれにせよ ぼくらが知る真実はひとつ
ものごとは思い描いたようにはならないということ

コインをつかってスクラッチ
そうすると きみの絶望があらわになる
あらたな時代がやってくる
そして別の友だちが来ては去ってゆく
愛するひとは きみをひどく傷つける
だけど 見知らぬ人々がきみを連れ戻す
雪が舞い始めたのに 太陽が燦々と照りつける
まさにそのとき きみは知るのだ

ものごとは思い描いたようにはならない
ものごとは思い描いたようにはならないんだ
それはいいことかもしれない 悪いことかもしれない
いずれにせよ ぼくらが知る真実はひとつ
ものごとは思い描いたようにはならないってこと
ものごとは思い描いたようにはならない


そしてこの曲が流れるまま、番組はエンディングへ。
マック・ミラーを失ったすべての人々にとってこの曲がリアルでありますように。ジャズミュージシャンの菊地成孔がお送りしてまいりました『菊地成孔の粋な夜電波』、そろそろお別れのお時間です。来週からはシーズン16が同じ時間帯、同じ曜日でなにごともなかったようにつづきます。あらゆるおやすみなさいの方も。あらゆるいってらっしゃいの方も。トイレに起きた方はどうぞそのままで。明け方か夕方か一瞬迷った子には天使が鼻をかじりに来るぞ~。また来週、来シーズンでお会いしましょう。
これを聴いたとき――録音したものを仕事場でウォークマンで聴いていたのだが――不覚にも涙が出てきた。けっして思い描いたようにはならない現実のなか、けれども、番組は僕や他のリスナーたちが思い描いたとおりにまだまだつづいていく。それはほんとうに、ほんとうに幸福なことだなあ、と。
しかし、偶然なのか言霊なのか、現実はやはり思い描いたとおりにはならなかった。シーズン16はなにごともなかったように始まったが、満足に終えることもできず、年内で打ち切られてしまうのだ。いまから振り返ってみるに、それはごく当然のようにも感じる。いかにも菊地自身が喜びそうなシチュエーションだ。甘く苦い現実。優しく傷つける現実。ならばリスナーであるわれわれも、この皮肉な現実を泣きながらでも笑うほかないだろう。

番組終了のアナウンスがあり、フェイスブック上でも菊地成孔本人からの経緯説明があった。嫌いな人は大っ嫌いであろういつもの躁的おしゃべりそのままの文章で、これを、「ああ菊地さん、空元気しちゃているよ……ムリしてるんだろうなあ」なんて読んじゃあ菊地ファンとは言えない。むしろ、「ああ菊地さん、めちゃくちゃ状況をたのしんじゃっているよ……けれどもおれ/わたしはやっぱりまだそこに追いつけないよ……」というのが多くのリスナーたちの反応では?
ツイッターでも超例外的に本人からのツイートの連投があった。それの最後から2番目と3番目を引用しておく。
12)自由に生きましょう。我々には、その権利がある。楽しんで生きましょう。我々には、その自由がある。あなたを縛ってるのは上の方の偉いさんじゃない、あなた自身なんです。その縛りをほどくために、僕は音楽に忠誠を誓ったんです。 
13)だからあと9回、よろしくお願いします。人生は祭りなんですよ。艱難辛苦を飲み込んで、絶望とともに笑って楽しむしかないのよ。それが最強の状態なのよ。そのことを伝えるために8年も赤坂通ったんだからさあ。首切られることですら、それを伝える一環になるのだから(笑)。 
いろいろと、ほんとうにいろいろと言いたいことがあるけれど、すでに菊地成孔本人が言っているような「野暮」になってしまうので、言わない。けれども、番組終わりの彼の「また来週」という言葉がいかに多くの人を救ってきたのかは想像に難くないし、この僕もまたそうだった。
あと9回、たのしんでいこう。胸に苦しみを抱えながら。

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きのうの朝5時くらいに初報(?)を見てびっくりしたんだけど、来年8月でGoogle+のサービスが終了するらしい。
めちゃくちゃ使ってるよ。「ユーザーの90%のセッションは5秒以下」という報告があるみたいだけど、めちゃくちゃ使ってるよ。僕は完全に家族専用にしていて、それらの記録なりなんなりがなくなってしまうのは、ほんと困るんだよな。
Googleのこういうときの頼りなさとかドライさってのはあらかじめ知っていたけれど、でも、ほんと困る。
ほかのSNSのコンセプトを知らないからなんとも言えないんだけど、「広がりたい・つながりたい」みたいな価値観とは隔絶したコミュニケーションツールがほしい。機能がどうとか言わないよ、G+のユーザーなら。いいねとかも要らないし、「この人も知り合いでは?」みたいなサジェスチョンも要らない。
総体的に言っていまのネットでは、そういう閉鎖的志向のユーザーに対するサービスが欠如していると思う。

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台風がまた去っていった。

災害がすっかり年中行事化してしまったものだから「被災地」も全国に点在するようになった。本心から信じているかどうかはわからないが、「日本全国、どこでも『被災地』になる可能性がある」なんて言説がそれなりの説得力をもって流布されてもいる。
なもんだから、災害の範囲外の人たちも被災地に気を遣うというのがある種のネットマナーになってしまっているみたいだが、僕はこれにあまり賛成しない。
たとえば雪が珍しい地域であれば雪降りは素直に嬉しいものであるが、「大雪で困っている地域もあるかもしれないから不謹慎なんだけど」みたいな前置きをしてから喜ぶ、みたいなのを見るたび、そんなに気を回さなくていいのにと思ってしまう。いやまあいいじゃん、配慮しておけばよけいな衝突を防げるんだから、という人もいるかもしれないが、そういう妙なマナーが広まってしまうと、そういう前置きをしない人間がマイノリティになってしまって、彼ら/彼女らを不謹慎だと詰る風潮が広まってしまう。日本のネット空間に特徴的なのかもしれないが、なにか大きなことが起こると「不謹慎」批判の大合唱がよく起こるでしょ。ただでさえ息苦しいのに。
そもそもね、どこまでを配慮の範囲とするのか、だ。日本国内で天災が起こっていなくたって、地球規模でみれば、自然災害から戦争まで悪いことが起こっていない瞬間はただの一度もないと言ったっていい。バカのひとつおぼえで「不謹慎」と弾劾する人たちは、この先ひとつも歯を見せることはできない覚悟で生きているのだろうか。「きょうも一日しあわせでした」みたいな何気ないツイートに対して「シリア難民はいまだに故郷に戻れないというのに!」とか「ロヒンギャの人たちが受けた苦しみを考えてみれば!」なんていうコメントが大量に投げかけられる、そういう世界をあなたはお望み? わしはイヤじゃよ。
せめて同じ日本人として、みたいなことを言う人もいるかもしれないが、そういう「きずな」系のストーリーもさすがに色褪せているんじゃない? ネットが身近になったせいでいろいろな情報が望むと望まざるとに関わらず入ってくる。そのせいで、隣人のことはあまり知らないのに何百kmと離れた場所の情報を必死になって集めているなんて事態があたりまえになってしまっている、悪いことばかりではないけれど。でもさ、そういう「同じ日本人として」みたいな幻想だってそろそろ捨てたっていいんじゃないか、という幻想もその代替品として検討され始めてもいいのではないか。他者に対して、ときにシンパシーを感じることもあるし、そうでないときもある。でもそれは不謹慎だとか無関心を意味するわけではなく、われわれが知りうることや意識の範囲には限界があるということしか意味しない。
それに、日本日本とおっしゃいますが、日本といったって相当広い。どこまで想定した上での日本なのか。


唐突に話は変って、ヤフコメがたのしい。
2ちゃんとかはてブとか小町とかにかまけている場合ではない。やっぱりヤフー。
先月の27日にいよいよ週末に台風24号が来るというニュースが出たとき、そのニュースに以下のコメントがついた。
週末には舞浜の施設に行くつもりでしたが、台風上陸との事なので、延期するしかありません。子供達も久々に舞浜の施設に行く事を楽しみにしていましたが残念です。
この「だからどうした感」あふれるコメントにひっかかってはいけない。僕はまだヤフコメ素人なので、このコメが釣りなのか素なのか判別できないのだが、この時点ではとりあえず反撥せずにそのまま受け止めて、その反応(他のユーザーによるこのコメントへの返信)をチェックする。これがヤフコメをたのしむコツ。
そうすると、こんな反応が見られた(以下、すべて原文ママ)。
遊びが中止にことなんて大したことことはない。生きることが中止になる人がいるんだから。
いきなり怒られてしまった。これは「だからどうした」という感情を率直にあらわし、かつ大上段から説教をくわえるというパターン。書いている本人は「また名言を残してしまった……」と自己満足していそう。
その次がこれ。
ディズニーランドって言っちゃいけないの?
なるほど。たしかにコメ主は婉曲表現をしていて、それが気に食わないという反応は一定数起こるものなのかもしれないが、なにか思ったことがあったらすぐに言ってしまおう・書いてしまおうというのがヤフコメ民のルールなので、間合いなしでいきなり斬りつける。
金があるん羨ましいわ。俺にくれ
これまたストレート。ヤフコメ民に遠慮はない。説教やきついツッコミのみならず、いきなりせびるという方法もある。嫉妬から無心までノーモーションというこのスピード感こそヤフコメの醍醐味。さらに面白いのは、このコメントがけっこう支持を得ているという事実(そう思う: 21 そう思わない: 6)! まるで「せびられる隙を見せたコメ主が悪い!」と言わんばかりの空気感。そうそう、ヤフコメは基本、自己責任論者の溜まり場でもある。
おまえの予定なんかどーでもええわ。
生活にまだ苦しんでる人がおること考えろボケ
わかりやすい直の罵倒。いちおう被災者に寄り添っている体を装っているが、おそらく言いたいのは1行目だけ。
関東にも台風の影響あるでしょうが直撃する地域は行楽どこではない。
まさか1年にその日しか行けないの?
これも上と似ているやり方。被災者をだしに使い、かつ批難は婉曲表現。こんな見ず知らずのやつにスケジュールのことまでうんぬん言われたかないだろうが、逆にいえば、ここまでのコメントを引き出す元コメントの釣り力もなかなかのもの。
また、こういうのもあった。
舞浜の施設って(笑)
老人ホーム?
あるいは、
施設って?刑務所?(笑)
はじめはちょっと意味がわからなかったのだが、どうやらこの人たちは「施設(facility)」という言葉を、介護施設や刑事施設、あるいは児童養護施設などというなにか特定の場所のことだけを指していると思っているらしい。もっとフラットな意味での「施設(これ以上言い換えようがないのだが)」という言葉を知らないようなのだ。インターネットというのはこの種の基本語彙の覚束ない人たちが結構いて、たとえば「性癖」を「性的嗜好」の意味だと思っている人は実に多く、本来ならそんな意味はないということを聞いたらびっくりするんじゃないかと思うのだが、けれども指摘されたら指摘されたで、「言葉っていうのは流動的で、変化していくもんなんだよ」みたいなことをほざきそう。
……などなど、どのようなクリエイターでも、元コメからこのような多種多様の反応が導き出されるとは想像もできまい。興味深いのは、彼ら/彼女らのほとんどが、俯瞰の立場などではなく同じ地平・土俵でかつ全力でコメントし合っているというさま。そこらへんがはてブなどの、マウント目的のコメントや自称「大喜利」などという寒いコメント群に較べて100倍面白い。


話はまた戻る。
すくなくとも、ヤフコメに常駐している人たちも「同じ日本人」なわけで、「同じ日本人として」うんぬんというのならば、ここまでシンパシーの領域を拡張しなければ嘘になる。というか、「同じ日本人」発言って、ヤフコメ民こそ言いがちな気がする。
軽々に「同じ日本人」みたいなことを言う人は、日本人ならみな善良で慎ましくて、同情や憐憫に値する人たちばかりというイメージを持っているのかもしれないが、そういう発想の根本には人種差別的感情や自己民族優越感情のニュアンスが少し漂う。
昨今は小池百合子でさえ多様性を口にする社会ではあるが、その多様性を実現するためには、上記ヤフーコメントに見られるような、素朴で単純で想像力をあまり期待できない連中にも、その外部があるということを知らしめ、なおかつそこに参加させなければならないし、また一方で、自身を「そういう連中」とはまったく一線を劃していると認識している人たちも、「そういう連中」に対してある程度の歩み寄りをしなければいけないということでもある。
けれども、スポーツで活躍した人たちや藝術や科学などで表彰を受けた人たちを、簡単に「同じ日本人」として誇らしくなれるという羨ましいほどに単純なマインドをもってすれば、そのまったく逆方向に位置する人たちに対しても理解や折り合いをつけることは可能だろう。僕自身は、日本人というステータスにそれほど重要なものを見出だせないので、どちらに対してもフラットな感情しか持てないけれども、多様性という意識の訓練には積極的になろうとは思っている。

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『新潮45』が休刊を決めたらしい。直観的にちょっと気になる終わり方だと思った。

かつて麻生とかいう人間が首相をしていたときに「未曾有」という漢字を「みぞうゆう」と読んで失笑を買った。あの頃はまだマスコミも元気がよかった印象で、こんな愚かな人間を頭にしているんだよわれわれは、みたいな空気感を漂わせてご満悦という感じだったし、それを嘲弄してネタにするという例もいくつもあったように記憶している。
かくいう僕も「おいおい」と笑ったものだったが、けれどもいま冷静に考えてみれば、「未曾有」という漢字を読める/読めないということは、(あたりまえのことだけど)政治家の能力あるいは個人の人格とは無関係だ。そして、「未曾有」という漢字をパッとは読めない人間はこの日本に麻生しかいないわけではない。
あのとき、「へー、未曾有って『みぞう』って読むんだ」とか「へー、『みぞう』って『未曾有』って書くんだ」と思った人たちは世間のあの空気をどう感じたのだろうか。たしかに「総理大臣のくせに」という前提条件が必ずつく嘲笑ではあったものの、読めない人たちはいちはやくから「別にそんなもの読めなくたって人生、生きていけるし、仕事だってできるよ」と程度の差こそあれ反感を持ったのではないか。
それとはちょっと種類が異なるのだが、最近の話。安倍とかいう人間が自らを「立法府の長」と発言したことがあって、呆れられたことがあった。ただしこのときはマスコミもだいぶ穏やかに扱っていたように感じられたが、その穏やかさが、「教養のなさ」や「言い間違い」をあげつらうのはもうやめようという理性的な判断に基づいているのか、はたまた別の理窟によるものなのかはわからない。
ちなみにこのとき僕は、「内閣総理大臣は行政の長であるし、立法の長ではないのは簡単にわかるけれど、じゃあ立法の長って誰なんだろう。国会議員全員ということなのかな? でも『長』が複数っていうのはピンとこないしなあ……」と自らの不勉強を恥じることになった。調べると、衆院議長、参院議長のふたりで、なるほど「長」はふたりいるのである(同時に、議長ってそんなに重要な仕事してたっけ?と思わないではなかったが)。
自らの不勉強を棚に上げて指摘すれば、たしかに総理大臣という、ある意味政治家のトップに立つ人間がその仕事の根幹に関わる重要な政治システムを理解していないのは致命的だが、けれどもそんな人間でもトップに任ぜられたりするのは、国民の側に「そんなことたいして問題ないじゃん?」という思いが強まったからではないか。より正確にいえば、その種の知識や教養、言う人に言わせれば常識の欠如をたいした問題ではないとする国民が相対的に増えていて、結果彼のような人物が支持されているということ。もちろん、日本では総理大臣を直接選挙で選ぶことはできないし、彼の「立法府の長」発言は選挙後ではあったが、しかし、あの発言で著しく支持率が低下することはきっとなかったろうし、このあいだの自民党総裁選でもなんなく三選を果たしてしまった。おそらく支持率の劇的な低下というのはここしばらくはちょっと見られないだろう。

ここで僕の立場を鮮明にしておくと、麻生の「未曾有」も安倍の「立法府の長」も、総理大臣としてはありえない発言であるし、致命的に常識が欠如していると考えている。けれども、「そんなことも知らないのか」という指摘はそれほど効果をもたらすものではない、むしろ逆効果であるとさえ思っているので、批判は違う場面の違う文脈でやったほうがよかった。前者については漢字を読めない人たち全体への侮辱につながりやすかったし、後者については、そもそもそういう政治的知識の欠如を問題とする人たちが支持しているわけではないからである。
後者についてさらにもう少し考えるに、医者が内臓の位置を正しく把握していない、くらいの無知を露呈してしまった現首相への根強い支持というものがいったいどこからきているのか。
上に書いたような有権者側の姿勢を掘り下げていくと、知性に対する強烈なカウンターというものが見えてくる。麻生の「未曾有」のときに「みぞうゆう」側の抱いた、読めなかったからってどうってことない、むしろ読めたからってなんか偉いのか、という知的階層・エリート層に対する鬱屈した感情が、いままさに爆発しているように感じられる。そういう面も、すべてとは言えないが一部にあるのではないか。もちろんこれは、米大統領選におけるドナルド・トランプの支持者たちの一部の傾向から得られた知見である。ポピュリズムのエネルギー源は、エリート・エスタブリッシュメントたちに対する積年の怨嗟なのであるから。

で、件の『新潮45』である。
まず、いまさらああいう雑誌に驚いたとか、杉田水脈雑文に驚いたなんていう、カマトトなリアクションはやめてくれよなってことは思う。なにも『新潮45』に限らず、ひどい出版社のひどい出版物ってのはあるし、伝説的な『ガロ』を出版していた青林堂は、いまや悲しいことにネトウヨ出版社に成り下がってしまっている(ガロ系の編集者はみな青林工藝舎に行ったはず)。もともと『カムイ伝』の発表の場として創刊された雑誌であったことを考えれば、現在はまったく正反対の態度である。また、そこでの執筆陣というのは、きちんとしたウォッチャー(僕は違うけれど)からすれば「いつものみなさん方」だったりするし、そういう連中はインターネット、テレビ、新聞、雑誌なんかでそれぞれ大活躍なさっているよ。それにまったく気づかなかったというなら、はじめにそのアンテナの鈍さを疑ってかかったほうがいい。
そのうえで、ああいう雑誌の愛読者層というのはやはり一定数いて、そのことは動かしがたい事実。その場所を一気になくしてしまうというのがリベラル側の勝利、なんていうふうにはなかなかとらえられない。
ツイッターやウェブメディアを中心とした言論でひとつの紙媒体のメディアを潰したことがもし成功体験となってしまうのであれば、その逆のアクションも起こりうる。この場合の「逆」は、思想や価値観の逆転Ver.ってことで、もしネトウヨ的な価値観がほんとうのマジョリティとなったとき、マイノリティな立場にある人たちの社会的地位をすこしでもよくしていこうという運動――そういう運動は往々にしてゆっくりと長くつづけられてきたものであるのだが――を、「ネットの運動」で簡単に潰しにいくということがありうるということだ。
そもそも、今回の休刊はほんとうに「リベラルの勝利」なんだろうか。冷静に考えれば違うだろう。新潮社の単純なリスクヘッジであろうし、臭いものにふた的処理の結果に過ぎない。その理由はどうあれ、今回「弾圧された」などと考えている連中は、この恨み晴らさでおくべきかと思っているよきっと。「『みぞうゆう』ぐらい読めないからってなんだ」という思いをずっと持っていたのと同様に、今回の件を親の仇のようにしっかりと記憶に刻みつけることだろう。もちろんここで挙げた「みぞうゆう」の例は象徴的なものに過ぎず、自分と価値観を異にする人たちが寄って集って自分たちの側を攻撃した、と記憶するすべての案件こそが彼らのモチベーションである。
そういう人たちが愛読する雑誌を急になくすということは、不満や恨みを抱えたまま彼らが、おそらくはよりひどい吹き溜まり、もっと濃度の濃い悪所へと移動することを意味し、それは彼らの攻撃をより先鋭化させることにつながると思う。
僕がなんとなく思い描いていたのは、
  1. 杉田批判特集をメインに置いた紙媒体の雑誌を出版し、徹底的に論戦の構えを見せる
  2. 1. の批判に対する応答が『新潮45』から出た場合、さらなるカウンターを1. 側が出版
  3. 2. の批判に対する応答が『新潮45』から出た場合、さらなるカウンターを1. 側が出版
  4. 以下つづく……
というように、何回もの議論を以て『新潮45』側の「全然お話にならない感」を炙り出して、その読者に「なんかおれ/わたしの読んでいる雑誌って言われっぱなしじゃん、ちょっとカッコ悪いな……」と思わせ離れさせていき、またそのファン自身の考えも少しづつマイルド化させていくという流れだった。2.以降は、テレビやラジオ、新聞などその論戦の場を違うところに移してもよいと思うが、ネットだけというのは悪手、避けるべき。長く、手間のかかるやり方かもしれないが、それが言論というものだと僕は思う。

あと、新潮社の看板に「あのヘイト本」という落書きをくわえ、「あのヘイト本、Yonda?」と読ませようとする愚かしい行為があったらしい。あのクソ忌々しいChim↑Pomのやり口を想起させるけれど(彼らは渋谷の岡本太郎の作品に原発事故の絵?みたいなものをくわえたという例がある)、まあ同一人物でなければ、手垢にまみれすぎた手法で藝術性のかけらもないが(Chim↑Pomにすら感じられないのだからなおさら)、それでもアートなんて持て囃すバカがいるもんだから始末が悪い。絶対安全地帯でやっている限りは表現でもなんでもないと僕は考えているので、実行した人物が特定され、新潮社に賠償請求されたり、器物損壊で実刑食らったりすれば面白いなと思っている。いざとなって「そういうことになるなんてまさか思いませんでした」なんて泣いて詫びを入れたら、例の弁護士たちへの大量懲戒請求をやったネットDE真実のみなさん方とおんなじだから、まさかそんなことはなかろうけれど、クラウドファンディングで賠償金を集めようなんていう「運動」にも発展したりしそう。そうなりゃなんだかんだで結局売名行為に加担させられるだけなんだろうけれど、加担する方は加担する方で、「おれたち/わたしたち、正義やってます!」みたいな自己満足感も得られるから、まあ利害は一致しているのかな? よくわかんねーけど。

ついでの蛇足ではあるが、新潮社を批判していたツイートのなかで、「新潮文庫に育ててもらったぼく/わたしだけど、」と前置きしたうえで、いまの新潮社の出版態度は度し難いみたいなものをいくつか見たんだけど、こういう連中の火事場泥棒的態度も見逃さないようにしような。
「度し難い」という意見の表明だけでよいはずなのに、なぜか「新潮文庫で育てられた」みたいな文言をつけくわえる。みぞうゆう側(僕も大別すればこっち)にいればなかなかわからないのだけれど、ある種の文系コミュニティにはウケがよいからではないか。
僕みたいに本をあまり読まない人間からすれば、国書刊行会、みすず、白水社なんていうところならともかく、新潮社ってけっこう大手でそんな名前を出してもむしろ「それほどでもない感」を感じてしまうくらいだし、またそれ以上に大切なのは本の作者と中身である。でもまあ、ある種のクラスタにはそういうちっちゃな(ちゃちな)コメントが訴えるものがなにかあるんでしょう。僕がひっかかるのは、いまそれを言う必要ある?ってことで、火事場に来て「たいへんだーたいへんだー」と大声出して人を集めて、それから自分の商売を始めているって感じがするんだよね。まあ、みんなビョーキですから当人も含めそんなの気にならなくなってしまっているんだろうけれど。

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前に書いたことがあるかもしれないが、「ブログ、まだ書いているんですね。がんばってください」みたいなコメントをもらったことがある。
どうもその人は、検索で飛んできてなにかの記事を読んで、トップページを見たら「お、こいつ最近また更新してんじゃん。まだブログなんてやってんだ。珍しいじゃん」みたいに思ったようで、上のようなコメントをしてくれたのだろうと思う。
「まだブログをやっている」の言葉の裏には、「SNSじゃなくて」という価値観が隠れており、さらにその後ろには「そっちのほうが人多いし、盛り上がってるのに」という価値観が潜んでいるのではないか。いまどき盛り上がっていないブログなんてまだ書いているんですね偉いですね、みたいな意味での応援をもらったのであれば、次のような返答をしたい。
ちがうちがう、盛り上がっていないからこそブログに書いているんだよ、と。別に誰かに読んでもらいたくて書いているわけじゃないんだ。


「新潮社出版部文芸」の公式アカウントが例の『新潮45』の批判ツイートをRTしていることが注目を浴びているらしいんだけど、まあなんというか、その界隈すべての反応がばからしい。
なにかやらないよりはマシ、の話ではあるんだけど、それ以前にそのSNS脳をなんとかしたらどうなんですかねって思う。ツイッターやフェイスブックなんかで変えられる世界、なんてものを頭っから信じてしまうような価値観を文学は与えたのかね? むしろ逆に、そういう甘ったれた安物エンターテインメント的な価値観に対して疑いを持つ目を与えてくれるもの、それが文学だったのではないか。
リツイートがなにかの意見の表明だなんて勘違いを素人がするのならまだしも、出版界の人間ですらそう思っていてしかも実行しちゃうんだっていうのが、しょぼい話だよな。てめえの責任でてめえの言葉でてめえの会社の批判をしないってのを、どうやって応援するの? どこに応援する要素あるの? まさかあれ? 組織に属する人間のその苦しい事情を汲めっていうの? 生活を捨てるわけにいかないじゃない、そういうぎりぎりのところで彼/彼女はがんばっているのよ、なんていうそういうクソみたいな日本的察しみたいなのを求めるの、こんな重要な場面でさえも? これ、政治家(特に小泉進次郎)がやったら確実に「出た! ガス抜き要員!」って大笑いされる案件だと思うんだけど、ブンガクの愛好家のみなさんは、美談にしちゃうの? そんなにエンタメ脳なの?
「応援ツイート」なるものをしている人たちも、そのプラットフォームの脆弱性に対して目を瞑っているという点において、やはりエンタメ脳、SNS脳の持ち主だと判断せざるを得ない。言論というのはSNSの中にあるだけではないのに、なぜかヘビーユーザーたちは、そこが世界のすべてだと勘違いしてしまっている。そんなのものからまったく隔絶した世界に住んでいる人間だって山ほどいるというのに。『新潮45』が紙媒体で発信した以上、もし「心ある人」なるものが「中」にいるのであれば、(オピニオン誌ではないけれど、だからこそ)『新潮』を使って一大展開をして反論すべし。そのなかで、文学ならではの実験や皮肉も織り込むことができるだろう。そこまでやってこそ、言論だと僕は思う。SNSで済ませるのはつまり、RTをするのにも「応援」するのにも、コストがかからないからだ。言葉に関わる世界の人間のそういう安直な姿勢を、僕はほんとうに情けないと思う。情けないというより、卑怯にすら感じる。

このあいだの台風・地震のときに「情報がなくて不安、情報がないから困った」なんていう意見がよく聞かれた。僕からするとまったく意味不明で、水が切れた・電気が来ない、なんてことが不安になる理由だと思うのだが、どうもその人たちは違うらしい。しかもよくよく聞いてみると、情報ってのはつまりスマホと同義のようで、スマホの電池が切れたとかつながらないってことがその人たちの「困ったこと」ということのようだ。しかも僕がラジオで聞いた例では、たかだか数時間つながらなかったことをもってして、いつつながるのかがわからないから不安だったと言っている人がいた。言っちゃあ悪いが、僕はその札幌のリスナーの話を大笑いして聴いた。ラジオ局も、もうちょっとまともなメッセージを読んでくれよ。
うちの近所で、高齢の家族が自宅で人工呼吸器を使っているところがあって、停電したときにその機械が止まってしまうということで緊急に行政が発電機を供給するという対応をし事なきを得た、ということを後から聞いた。われわれが直面する/した深刻な問題というのは、つまりこの種のものではないだろうか。
これに対し、スマホがなくて/使えなくて不安というのだって立派な困難じゃないか、不幸や災難は相対化されるべきではなく、みなそれぞれのフェイズで苦しんだのだ、という批判もあろう。それはそうだ。決して相対化なんてされるべきじゃない。けれども、ほんとうに苦しんだ、悩んだ、困ったなんていうのなら、一旦落着したのちにでもいいから、心療内科行って、スマホ依存症なのかどうかを調べたほうがいいと思う。
僕が上のリスナーの話で興味深く感じられたのは、「(SNS上で)自分の安否の状態を伝えられない」という点に特に困っていたことだ。情報うんぬんといって、自分の家族なり友人なり恋人なりの安否が確認できずに不安だ、とこう言うのならものすごくよく理解できる。大きな災害があったらそんなことをすぐに確認できることのほうが少ないよという冷静なツッコミもあろうが、心情はよくわかる。けれどもその人は、自分の安否を(おそらくはSNS上の知り合いに)伝えたいのにそれがかなわなかった、という点に拘泥していた。まあこれは僕にもそう言う資格があると思うから言うのだけれども、自分のことを心配している人がきっといる、なんていう前提がSNS脳のなせる業というかもうかなりおかしくて、そんなことねーよって言いたい。というか、実際ラジオを聴いていてそうつぶやいた。
(地震ではなく台風のせいで)停電したおかげで自宅からは電話もできず、PCのメールもできなかったので僕の場合、誰かに連絡するなんてことを考えるのはすぐにやめた。実家の家族はもしかしたら心配しているのかもしれないけれど、その心配や不安は僕のものではないので、僕がわざわざ積極的に抱えようとするものではないし、家族のほうはやきもきしているかもしれないけれど僕が技術的にどうこうできる問題でもないので、しょうがないけどやきもきしていてくれ、という思いだった。それだけだった。結果的に面白かったのは、やがて連絡ができるようになって、家族のうち両親は心配していて、弟は心配していなかった(「え? 停電してたの?」って感じだった)、ということが判明した。家族ですら確率50%よ。また、知り合いでも停電中に心配のメールをくれた人たちが幾人かいて、電気が復旧したのちその方々に返信したが、その反応を見ても、体裁だけの確認メールと、ほんとうに心配してくれたメールとで半分半分という感じだった。ま、こういう場面で「ありがたいことだなあ、心配してくれたんだなあ」と100%感謝するという姿勢にならず「うーむ半分か」なんて生意気な感想を持ってしまうこの僕の人間性と、あまり心配してもらえないという結果との相関性は大いにあると思うのだが、けれども、他人はけっきょく他人でしかなく、「その人のいちばんの関心が自分の安否にあるとは限らない」という前提くらいは、緊急時の飲料水やラジオ、懐中電灯なんかと一緒に、持っておいたほうがいいと思うよ、ほんとに。そうしたら、SNSに投稿しなくちゃなんてよけいな不安も抱えずに済む。なにかあったらすぐにポストしなきゃみたいな思考は、病気だと思う。病気だから悪いとかそういう話ではなく、せめて病識くらい持っておけば不安も軽減されるでしょって話。こういうけっこう親身なアドヴァイスをたとえ耳にしても、「情報がなくて不安」なんていう人たちはたぶん聞き入れないんだよな。「いやいや、この情報化社会においてね、スマホがない/使えないとかマジでありえないから」みたいな話でシャットアウトしちゃうのよ。たとえば誰かが、物流がぜんぶ止まってしまったおかげで酒が飲めない不安がずっとつきまとっていた、なんて言ったら、「あー、そりゃまず、依存症に向き合ったほうがいいかもね」って思うでしょ。それとおんなじよ。

話は新潮社に戻って。
実存と仮想のうち、われわれが実際に生きているのは実存の世界だし、社会問題――杉田アホとかそのサポーターとかバックの全員を含めたクソみたいな価値観の持ち主たちは立派な社会問題だし、僕の望む社会にとっては害悪でしかない――もまた、実存の世界の問題だ。上で書いたとおりそっちで応答すべきなのだ。
「内部からの批判ツイートRT(※繰り返すが、直接の批判ツイートですらない)」や「応援ツイート」なるものは、「正義」のツイッターユーザーたちの夕飯前のちょっとした前菜にすぎない。指先ちょちょいで得られたちょっとした達成感や爽快感を肴に、「きょうのメシ/酒もうまい!」ってしたいだけでしょ。ちょっと意地が悪すぎる言い方だろうか。けれども、喉元過ぎれば熱さを忘れるし、TL流れりゃ話題も変る。一瞬のうちに得られた熱狂はまた次の熱狂に取って代わられ、病的に主張を繰り返す連中の醜い呪詛だけが結果的に残ってしまう。それがあの界隈の特徴なんじゃないかと僕は思っている。だから、そんなプラットフォームでなにかした気になってんじゃねえよって僕はずっと主張している。
せめて応援ツイートなるものをしていたクリエイターたちは、紙媒体で杉田水脈批判批判批判特集が組まれた際には、ぜひ寄稿してくれよな! 後世にきちんと形を残そうぜ。

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いやなにがってこんな情報ゼロ人間の目にすら飛び込んできたここ数日の「安室ちゃん」情報ですよ。
同い年の彼女が早々に引退を決めてしまうということにショックを受けた、なんてことはまったくなくて「へー、そうなんだー」と思っただけだが、といって彼女の「すばらしい功績(?)」だとか「憧れとなる徹底したスタイル(?)」を貶めるなんてつもりもまったくない。気になるのは、(?)をつけた「功績」やら「徹底したスタイル」なんてものを褒めそやしている連中はほんとうにずっと長いあいだ彼女を追いかけ憧れつづけてきたのかなってこと。世の中には尊敬すべきほんとうの意味でのファンという人たちは大勢いて、新作を出せばシングル・アルバムに限らず購入し、ライブへ行って、ツアーを追っかけ、その都度グッズを購入し、家へ帰ってきても「あー、安室ちゃん、やっぱすごいわー」と独りごとを言うっていう、そういう人たちが言うのならわかるし、納得もする。けれども、「どーこーへでーもー」とか「キャンニュセレブレイー」とか「スイースイーナインティーンブルーウーウー」みたいなところで止まっているやつ(なんて言ったって僕自身がここに含まれる)も一緒になって騒いじゃいませんか、ってこと。え? ツイッターチェックしてますよって? YouTubeで新作毎回チェックしてますよって? おめー、一銭もつかわねーくせに偉そうにファンとか抜かすなよバカヤロー、なんてわたくしはお上品にも思ってしまいますのよ、おほほほほ。

すっごく不確かな記憶なので相手さんの選手の名前を伏せておくけれど、何年か前のなんらかの代表選考会のとき、ある選手の選考がかなり危うく「もう代表には選ばれないかな?」なんて思っていたのが、競っていた相手の演技が思いのほか低く評価されたため、結果、代表に選ばれたというときのその瞬間、観客席ででっかいフラッグというか幟というか垂れ幕というか、とにかくそのなにがしかを一所懸命ひろげて、いまにも大声で泣かんばかりの形相の女性ファンたちがいたのが目に映った。そこにはバーンとでっかい手書き風の文字で「高橋大輔」と書かれてあった。
あーあ、そんなことしちゃったら代表になれなかった○○選手やその家族やファンの人たちがかわいそーじゃん、もうちょっと高橋ファンも気を遣えばいいのに……と思わないでもなかったが、けれども高橋ファンたちの気持ちを考えてみたら「そんな『相手選手の気持ち』なんて考えてられっかい! わしらは大輔命なんじゃ! 大輔が代表に選ばれたのを心から喜んどるんじゃ!」と思うのは当然であるということにすぐに気づき、それこそが誠のファンの姿勢かもしれないと思い直したのである。
なんにしたって、現地に足を運ぶファンというのがいちばん「正しい」のである。相手選手に野次を飛ばすとかSNSで本人宛てにクソリプを飛ばしまくるとか、そういった非道徳的な行為に手を染めない限りは、彼女らの行動はそれぞれに価値を有する。「武士の情け」でそのとき垂れ幕を広げなかった人もいたかもしれないし、相手選手のことなんぞ一向に構わずきゃーきゃーと絶叫した人もいたかもしれない。仕事を休んで、宿泊するホテルを予約して、電車代・飛行機代を捻出して、観客席――もちろんその競技会場の入場料だって払っているのだ――にすわっているその彼女たちの反応は、みなそれぞれに意味を持っている。そういう意味で「正しい」のだ。
反対に、「いやあ、ファンも相手方の気持ちを汲み取るべきだよなあ、すくなくともおれ/わたしだったらそうする」なんて一歩引いたいかにも冷静な意見を、テレビやスマホの画面の向こう側で偉そうに抜かすやつらのことは無視してよい。彼ら/彼女らの意見はただのノイズでしかない。彼ら/彼女らは永遠に現場に行かない。それなのに、ときどき自身を「ファンだ」なんて自称する。すげーあつかましい。そういうやつらがいま、「安室ちゃん、お疲れ様でした」みたいなことをFBとかツイッターとかインスタで投稿してるんじゃない? さすがにここ最近では目立たないと思うけれど(でも確実にいるはず)、安室奈美恵が引退するってのが決まったというニュースが報じられたとき、ヤフコメで「昔の曲はよく聴いていましたが、最近のはあまり聴いていませんでした……。けれども、ほんとうにお疲れ様でした」みたいな謎のコメントがちょくちょく見られて、さすがヤフコメと笑いが止まらなかった記憶がある。そういう人たちの自己認識も、あんがい高い確率で「ファン」だったりして。
(余談だが、ヤフコメでは誰かの訃報のときでも「まったく知らない方ですが……ご冥福をお祈りします」みたいなコメントが載ることもちょくちょくあって、このなんにでもコメントせずにはいられない種族こそヤフコメ民だよなあ、と文字から溢れ出てくるその素朴性を微笑ましく眺めること頻にして繁。この場合の「素朴」という言葉に込めたせっかくの悪意のニュアンスも、「不器用」という言葉を褒め言葉だと受け取ってしまう人たちには通用しないので、まあ通用しないんだろうなあ。それはそれでいいんだけど)

そんなことを考えていると、毎年毎年、5次元だか7次元だかというカフェに集まって村上春樹のノーベル賞受賞のニュースを待っている人たちのことがなんかかわいらしく思えてきた。以前、村上春樹に質問しようみたいな企画があったとき、村上自身が賞レースの候補として見られることに「馬じゃないんだから」辟易していると発言している。当然、コアなファンであればその発言を承知しているのだろうが、それでも彼ら/彼女らは5次元だか7次元だかに集まってしまう(文字だけを読めばなんかものすごいSFみたいだ!)。村上発言を聴いた直後くらいは、「おいおい、御本尊がそう言ってるんだから、あんたたちもすこし理解してやれよ」なんて思っていたものだが、いまじゃ受け止め方が180度変ってしまった。薄暗い店内で、マヌケなマスコミ(この話題でいちばんマヌケなプレイヤーはマスコミだと断言できる)に「今年もだめでしたね?」と訊かれ、静かに照れた感じで「はい……また来年に期待します」なんてぼそっとつぶやく感じが、男女問わず、なんか愛らしく思えてきた。いやーいいよ、あれこそファンって気がする。ちなみに、ボブ・ディラン、カズオ・イシグロと来て、村上春樹はいづれ受賞するんだと確信するようになった。ノーベル賞には程遠いよ、なんて思っていたのだが、なんとノーベル賞のほうが近づいてきた、というのが僕の印象。これはけっして悪い意味ばかりではなく。
なお、このあいだ、村上ラジオが放送されて、きっと5次元だか7次元だかに集まってファンたちが聴いているに違いないとニュースをすこし探してみたら、やはり集まっていたみたいだ。映像や画像は見ることができなかったが、小さな新興宗教(この場合まったく悪意はない)の小さな集会みたいなものを想像し、なんだかすこしだけ嬉しかった。

「安室ちゃん」問題に戻る。
活躍して注目を浴びるってんならわかるけれど、引退が決まってから盛り上がるってのもどうなのよって思う。最盛期と較べりゃすこしは落ち着いたのかもしれないがそれでも安室奈美恵なんて最前線で活躍していたほうだと思うんだけど、アイドルなんかでも解散が決まると似たような問題が起こる。今年、アイドルネッサンスというアイドルグループの解散が発表されたとき、彼女たちとは無関係の音楽プロデューサーがすこしきつめのツイートをしたことが話題になった。本人がのちに謝罪しているくらいなのでほじくり返すつもりはないのだが、「解散を残念がる前に、できる”応援”はあったのだ」という自称「ファン」に自問を促すような内容に僕は100%同意で、そういう意味で僕はファンではないということも強く意識させられた(アイルネに関して盤はすべて入手しているけれど、それでも「ファンである」なんてそんな傲慢なことはもともと思ってもいなかったけれど)。
最近じゃ、音楽でも映像でも、けっこうなものがけっこうな割合で無料で鑑賞できる。それはそれでほんとうにすばらしいことなんだけど、いっぽうで、なにかに対する感覚が相当に麻痺してしまっているのだとも思う。「なにか」なんてもったいをつけずに言えば、正当な対価ということだ。ついこのあいだまでマンガを無料で読めるところがあった、なんてことは僕は例のブロッキングの問題としてニュースで知ったくらいなんだけど、そういうところに入り浸っていて、かつ自称「マンガ好き」の人たち(ここが重要)は、それと同じこと、つまり表現者自身が認めていないタダ読みやタダ聴きみたいなことを、自分がやっている仕事に対してされても平気でいられるのだろうか。僕はイヤだけどね。
闇市でモノを買うな、たとい餓死してでも、とそういうことじゃない。技術的に可能であれば、それに手を出してしまうのが人間。けれども、自分がそのつづきを見たいというものであれば、やはりどこかで応援しなければならないというのも、事実として存在するのだ。観念ではなく、事実。
たまたまだが、僕のいま気に入っているアイドルグループのリーダーが興味深いことを言っていた。長いリリースイベントがようやく終わったという段で次のリリースイベントを発表したとき、苦笑い(※たぶん、「またか……」とか「もう次?」みたいなことだと思う)という反応もあるのだという。それについて、「それぞれの想いがあると思うのでどうこういうものじゃないとは思う」ときちんと前置きしたうえで、「次が約束されてる事ほど安心するものはないと私は思ってます、この活動をするにあたって」とコメントしていた。これ、ほんとうのことなんだよな。ファンにとっても、またアイドル自身ひいてはクリエイターたち自身にとっても、次があるというのはほんとうにすばらしいことなんだよ。たとえいまは気づかないとしても、次がない、というときになって気づくはず。そのときになって泣いたって遅いのよ、ほんとうは。いちばんいいのは、17歳のリーダー(!)にこういうことを言わせないことだけど、まあ人間はなにか痛い目を見ないと気づかないということがいっぱいあるから。
いちおう註記しておくけれど、上に書いた「こういうことを言わせない」っていうのは、アイドルに不用意にブログなんかに書かせてはいけない、ということではもちろんなく、ファンなら苦笑しない、あるいはスタッフなり運営なりがすげー頑張ってメンバー自身に要らぬ心配をかけさせないってことだから。というよりむしろ、17歳がこれほど気を遣いつつ、世の中の実相をきちんと見極め、なおかつエンターテインメントに従事しているっていうこの事実に驚愕してくれよ、諸君。ときどき大企業の広報がクソみたいなSNS発信で炎上するけれど、いい年こいて頭が腐ってんじゃねえのかって思う。結局は脳味噌のできの違いってことになるんだろうけれど、すこしはアイドル界隈を注視して勉強しやがれって思います、ほんとに。
基本的にアイドルは活動期間が短いものだけど、ミュージシャンならもうちょっとスパンが長い。だからってけっこう気を抜いてしまうこともある。そりゃそうだよ。みんながみんな上記のような尊敬すべきファンたれなんて思わない。だったらせめて、「ずっとトップを走っていましたね、(ほんとうはしていないくせに)応援していましたよ」みたいな感動のタダ乗りはやめろよと思う。現代ほど、口をつぐむというマナーが求められている時代もないのだ。

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クーラー論争がアツいらしい。きょうもツイッターのまとめみたいなので盛り上がっているのを瞥見したけれど、発端となるツイートの内容の信憑性が不確かというかソースがなくて、そういうのに乗っかってあーでもないこーでもないと大勢がやっているのを見ると、頭沸いてんだなとしか思えなかった。
ソース至上主義ってのもあほらしくて嫌いだが、無根拠伝聞/限定体験話で盛り上がるのも「ひと昔以上前の議論」の感があって、どっちにせよ、人間って進歩しないんだなって思った。あと、無力な。そういう議論に参加している人間全員(僕も含めて)、社会的には屁の役にも立たないんだけど、本人たちだけは「議論している!」っていう無駄で暑苦しい充実感でいっぱいなんでしょうな。よござんすね。

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【その1】
NHK-AMのアーカイヴで入手できるものを片っ端から掘っているのだが、そのうち、「カルチャーラジオ 科学と人間」というプログラムの「太陽フレアと宇宙災害」というシリーズ(2018年1月5日~3月30日放送)の第2回「オーロラに導かれて」をたまたまきょう聴取していた。内容は、オーロラを構成する3要素であるとか、オーロラ観測についての専門家の話。

【その2】
昼休憩の時間にEテレ『サイエンスZERO』の録り溜めしていたものを視聴するのが好きなのだが、たまたまきょう観た7月1日放送回は「宇宙夜話 #0 とことんオーロラ」というもので、オーロラのメカニズムを説明するものだった。なお、ゲストである専門家とNHKの撮影班が取材に出かけたのは北極圏スバールバル諸島というところで、ここは冬の一時期、一日じゅう夜という日がつづく(白夜の反対)。ちなみに、なぜかもうひとりのゲストとして平野啓一郎が出演していたのにはびっくりした。

【その3】
TBSラジオ『荻上チキ Session-22』は僕の愛聴番組で、だいたい前日に録音したものを翌日の仕事中に聴いているのだが、たまたまきょう聴いた当該番組の特集が「太陽の昇らない冬の北極を一人旅」というもので、冒険家・角幡唯介が数十日間の極夜をひたすら歩く、というめちゃくちゃ面白い話を聴くことができた。彼の旅の出発地はシオラパルクというグリーンランド最北の村で、ここもやはり冬になると一日じゅう夜という日がつづく。この番組のなかで初めて「極夜(きょくや)」という言葉を知った。視聴の順番としては【その1】→【その2】→【その3】で、Eテレでは極夜という言葉は使われていなかったか、あるいは、僕が聞き落としたかのどちらか。


というわけで、これらをたまたま同日に視聴した僕は、ひとりで大昂奮。【その2】と【その3】は放送日がごくごく最近なので重なることは簡単にありうるが、【その1】は半年前の放送なので、やはりなかなかの偶然ということになるのではないか。満足。

以下、蛇足。
カルチャーラジオ関連は面白い内容が多いのだが、NHKがすぐにアーカイヴを削除してしまうのが相当もったいない。有料でよいから、過去のものにすべてアクセスできるようにしてほしい。
サイエンスZEROはこの4月からナビゲーターが南沢奈央から小島瑠璃子(こじるり)になって、当初たいへんがっかりしたのだが、回を追うにつれ、この子、(事前に台本に書いてあるわけじゃないのだとしたら)相当頭いいんじゃね? すくなくとも科学的勘所が鋭すぎじゃね?と思うことが多く、あまりにもできすぎなので、やっぱり「台本に書いてある説」を採るしかないというところまで至っているのだが、いづれにせよ、思ったよりは全然悪くないのでほっとしている。でもまあ、なおちゃんよかったよなあ(プロフィールに「落語好き」というのがあり、実際に市馬に稽古をつけてもらったことがあるようで、それを知って以来、激推し)。
角幡唯介の話が面白かったので、とりあえずデビュー作(『空白の五マイル』)を入手して読む予定。

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このあいだラジオ番組で、元アメフトプレイヤーで元アナウンサーのスポーツ解説者という人が出演して、例の問題について解説していたのだが、そのなかで、やたらと加害選手を「すばらしい選手・優秀な選手」と評し、「ほんとうはすばらしい選手なのに、うんぬん」としていた。また、コーチの説明が右往左往していたことについて、「やっぱり長い時間接していた選手を嘘つき呼ばわりすることはできなかった」というような説明をし、暗に師弟の愛情はやはりあるのだ的なことを匂わせていたけれど、どちらも噴飯ものだった。
スポーツの世界では違うのかもしれないが、一般的・常識的見地に照らし合わせれば、そういうのを客観的解説とは言わない。浪花節なんていうふうに言うかもしれないけれど。

本人が元プレイヤーで、当該スポーツに対して非常な愛着を持っているのはわかるし、今回の件でアメフトに悪いイメージがつきまとうのを払拭したいという思いもわかる。
でも、「ほんとうは優秀な選手が、パワハラ的環境に置かれて悪質的行為に向かわざるを得なくなったという悲劇」や、「ほんとうは選手に対して愛情豊かなコーチが、勝利に徹する冷徹な監督の指導方針に従わざるを得なくなり自らの言動に正常な判断ができなくなった悲劇」みたいなことを、いま解説(?)する必要がどこにあるんだろう?
そういう物語、もっといえば「おはなし」は、すべて原因が究明され、ある程度の時間経過ののちに、やりたい人たちがそれぞれ自分の望むものをつくって、盛り上がればいいだけのもの。その程度のものでしかない。その真偽がどうこうということではなく、無関係な人間たちが各自勝手にやる程度の価値しかないということ。

トキオの山口の件でも似たようなことを思った。社会的に許されないことをした山口に、社会的立場からNOをつきつけたトキオと、しかし人間的立場から拒絶しきれないトキオ、みたいな構図が、誰が企図したかわからないがあのとき報道された。
そういう括弧つきの「美談」はさ、5年後、10年後に「じつはあのときこういうことがあったんです」的に扱えばいいんじゃないの?と思った。もっといえば、誰にも言わず、5人のなかだけで共有すればいいだけの話。それを、なぜ大々的に拡散しようとするのよ? 残った4人の「商品的価値」をこれ以上下げないための広報、と読み取ってもそれほど的外れでもないはずだ。

こういうことを喜ぶ思考法を、僕はエンタメ脳と呼んでいる。重度の再生産によって生まれた安直なエンターテインメントに接しすぎたがために、安っぽい予定調和にほいほいと飛びつく思考・嗜好のことだ。
エンタメ脳の好物は、上記のような美談。そういうのに触れて、ときに涙し、「いい話だ~」と拡散する。拡散することで自分が美談に直接関わっているような気分になれるから、SNSはエンタメ脳の増強装置という機能を果たしている。
僕も、アイドルに対してはエンタメ脳に徹してたのしむことがあるが、そういう画一的な視点が、ときに界隈の闇の部分――性暴力、パワハラ、労働搾取等――を、ほんとうはわかっているくせに看過してしまう原因となっていることは間違いない。よくないことだ。

なお、くだんのアメフト解説者はその番組出演の最後に、「今回の件ではじめてアメフトというスポーツを知り、その面白さに触れることができた」というファンの言葉を紹介していたが、なるほど、そういう人もいるのか。僕なんかはアメフトといえば、京大のアメフト部員が集団強姦したことをすぐに思い出しますけどね、そうですか。

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おっさんたちの方が常軌を逸したひどさだからといって、それにひきかえ学生のほうはきちんと謝っていて誠実だ、よろしい、っていう意見は誤っていると思う。
あのような実際の行動について、たとえどんな説明をしようと――それが虚偽だとは思わないけれど――許されるべきではない。謝罪とかなんとか口で言うのはたやすいが(それすらしない人間が多いけれど)、極論すればそれはたった一日の苦痛でしかない。やられた側にもし後遺症がのこった場合、たとえン百万円の賠償金を払われたって、それで麻痺やしびれが消えるわけではなく、とりかえしがつかない。すくなくとも現状では、被害者はそのような不安のもとにあるはずだ。翻って、加害者はひと月後くらいにはどうせみんなから忘れられているだろうから、大手を振ってあのすばらしい大学のすばらしいキャンパスを闊歩することだって可能だ。また、クソ気持ち悪いナチス礼讃野郎からご指名なんかいただいちゃって、よかったよかったと笑みさえこぼしているかもしれない。もちろんこれは想像でしかないが。
驚いたのは、あの卑劣で理不尽な暴力行動を起こした人間に対して、意外にも寛容な人間が多いということだ。すごいな日本。五・一五事件の実行犯たちが、殺人をおかしたのにもかかわらず、世間の同情からごくごく軽い刑で出てきてしまったというエピソードを思い出す。この一連の結果がその後の日本に悪影響を与えたのは明らか。いっときの感情に流され短絡的な思考に直結してしまう人たちって、いつの時代もいるんだね。
指導者たちはあたりまえの話だが、こういう話は、「組織の論理」に流されてしまう実行犯たちに対しても厳しい目を向けるべき。日本には組織大好きな連中が多すぎて、そういうやつらが、いじめという名の暴力や、セクハラという名の性暴力などを、たとえ消極的ではあるのかもしれないが容認している。「いじめ/セクハラは悪いことだけど、でも被害者だって、そうされるだけの理由があるんだよね」みたいなゴキブリ並のたわごとをいうやつは少なくない。そういうのを見聞きするとき、もう無理するなよっていつも思う。無理して人間のマネをしなくていいんだよ、ゴキブリはゴキブリでしかないんだから、物事を考えているフリなんかしなくていいんだ。はい、フマキラー。
なーんか、学生のスポーツマンっていうのを世間が信用しすぎな気もする。爽やか? スポーツマンシップ? 人それぞれなんだろうけれど、僕は運動部の連中がひどいいじめをやっていたのを知っているから、とてもじゃないけれど「ああいう連中」って見方を変えたことがない。で、ああいう連中の行動規範が、やっぱり組織の論理だったりする。

あるひとつの事件に対して簡単に意見を言いたくなる場合、自分あるいは自分のとても親しい人間が被害者になった場合を想定しても同じことが言えるか、を自問すべきだ。全治三週間のケガを負わされたのは誰だったのか。
五・一五のとき、犬養毅の遺族が「わたしたちのほうが被害者なのに、世間からは冷たい目で見られた」という証言を残しているそうだ。また、当時、決行者たちの親を訪ね、「どのようにしてあのような立派な国士を育てることができたのか」というインタビュー記事がつくられたこともあったらしい。これらは、いまの時代から見れば、大本末転倒だということが火を見るより明らかではあるが、当時の世論というか一般庶民たちは大真面目だったに違いない。自らを無辜であると盲信する一般庶民たちは。
話はちょっとずれてしまうが、二・二六事件で殺された渡辺錠太郎という当時の陸軍教育総監がいる。その人の娘が渡辺和子といって、ノートルダム清心学園理事長になった。NHKラジオの「カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス 声でつづる昭和人物史」という番組で、今年の2月に3回にわたって彼女の特集がされたのだが、二・二六事件当時、9歳だった彼女の証言が非常に生々しく、また、聴いていてつらいものだった。父錠太郎は、彼女の目の前で惨殺されたのである。
二・二六もやはりその後に政治へ大きな影響を与えたのは間違いないのだが、いっぽう、昭和天皇が大激怒したせいか五・一五のような「同情の声」で罪が軽減されるということはなかったようだ。しかしあの事件の根底にある、目的のためなら手段の如何を問わないという姿勢・思想は、現代にも一部引き継がれているようで、このあいだの自衛官が国会議員を「国民の敵だ」と罵倒したという問題を、心情は理解できるといってけっして少なくない人間が共感を示したようだが、愚かである。それは自分たちがてっきり「国民」の側にいると信じきっているという愚かしさでもあるし、上に書いたように、目的主義的な愚かしさでもある。
まあいい。大事なのは、二・二六事件という歴史的問題にわれわれ一般人が接するとき、青年将校側の思想背景であるとか、あるいは鎮圧した政治側の視点などで総括されてしまい、被害者または被害者の家族側の視点が忘れ去られてしまいがち、ということだ。われわれの多くは、加害者や、加害者を裁く側に回ることより、被害者になる蓋然性のほうが高い、ということを銘記しておかなければいけない。
テレビであの信じられないほどの醜態をさらしつづけるおっさんたち(非常にアクロバティックな擁護をすれば、加害者学生から目を逸らすために愚行を重ねている、と思えなくもないという予感がちらと頭をかすめるかどうか、というところ)を裁いたり加害者側に同情したりすることよりも、まずは被害者側への支援や寄り添いが重要。加害者側を「赦せる」と思うのは勝手だが、いづれにせよおまえは「赦す」主体ではないし、たとえそうであっても、加害者が罪を償い贖ったあとからでもじゅうぶん遅くはないはずだ。その時点までおまえがこの事件を憶えているとしたうえでの話だが。

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