とはいえ、わからないでもない

カテゴリ: 気づいたこと・考えたこと

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このあいだラジオ番組で、元アメフトプレイヤーで元アナウンサーのスポーツ解説者という人が出演して、例の問題について解説していたのだが、そのなかで、やたらと加害選手を「すばらしい選手・優秀な選手」と評し、「ほんとうはすばらしい選手なのに、うんぬん」としていた。また、コーチの説明が右往左往していたことについて、「やっぱり長い時間接していた選手を嘘つき呼ばわりすることはできなかった」というような説明をし、暗に師弟の愛情はやはりあるのだ的なことを匂わせていたけれど、どちらも噴飯ものだった。
スポーツの世界では違うのかもしれないが、一般的・常識的見地に照らし合わせれば、そういうのを客観的解説とは言わない。浪花節なんていうふうに言うかもしれないけれど。

本人が元プレイヤーで、当該スポーツに対して非常な愛着を持っているのはわかるし、今回の件でアメフトに悪いイメージがつきまとうのを払拭したいという思いもわかる。
でも、「ほんとうは優秀な選手が、パワハラ的環境に置かれて悪質的行為に向かわざるを得なくなったという悲劇」や、「ほんとうは選手に対して愛情豊かなコーチが、勝利に徹する冷徹な監督の指導方針に従わざるを得なくなり自らの言動に正常な判断ができなくなった悲劇」みたいなことを、いま解説(?)する必要がどこにあるんだろう?
そういう物語、もっといえば「おはなし」は、すべて原因が究明され、ある程度の時間経過ののちに、やりたい人たちがそれぞれ自分の望むものをつくって、盛り上がればいいだけのもの。その程度のものでしかない。その真偽がどうこうということではなく、無関係な人間たちが各自勝手にやる程度の価値しかないということ。

トキオの山口の件でも似たようなことを思った。社会的に許されないことをした山口に、社会的立場からNOをつきつけたトキオと、しかし人間的立場から拒絶しきれないトキオ、みたいな構図が、誰が企図したかわからないがあのとき報道された。
そういう括弧つきの「美談」はさ、5年後、10年後に「じつはあのときこういうことがあったんです」的に扱えばいいんじゃないの?と思った。もっといえば、誰にも言わず、5人のなかだけで共有すればいいだけの話。それを、なぜ大々的に拡散しようとするのよ? 残った4人の「商品的価値」をこれ以上下げないための広報、と読み取ってもそれほど的外れでもないはずだ。

こういうことを喜ぶ思考法を、僕はエンタメ脳と呼んでいる。重度の再生産によって生まれた安直なエンターテインメントに接しすぎたがために、安っぽい予定調和にほいほいと飛びつく思考・嗜好のことだ。
エンタメ脳の好物は、上記のような美談。そういうのに触れて、ときに涙し、「いい話だ~」と拡散する。拡散することで自分が美談に直接関わっているような気分になれるから、SNSはエンタメ脳の増強装置という機能を果たしている。
僕も、アイドルに対してはエンタメ脳に徹してたのしむことがあるが、そういう画一的な視点が、ときに界隈の闇の部分――性暴力、パワハラ、労働搾取等――を、ほんとうはわかっているくせに看過してしまう原因となっていることは間違いない。よくないことだ。

なお、くだんのアメフト解説者はその番組出演の最後に、「今回の件ではじめてアメフトというスポーツを知り、その面白さに触れることができた」というファンの言葉を紹介していたが、なるほど、そういう人もいるのか。僕なんかはアメフトといえば、京大のアメフト部員が集団強姦したことをすぐに思い出しますけどね、そうですか。

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おっさんたちの方が常軌を逸したひどさだからといって、それにひきかえ学生のほうはきちんと謝っていて誠実だ、よろしい、っていう意見は誤っていると思う。
あのような実際の行動について、たとえどんな説明をしようと――それが虚偽だとは思わないけれど――許されるべきではない。謝罪とかなんとか口で言うのはたやすいが(それすらしない人間が多いけれど)、極論すればそれはたった一日の苦痛でしかない。やられた側にもし後遺症がのこった場合、たとえン百万円の賠償金を払われたって、それで麻痺やしびれが消えるわけではなく、とりかえしがつかない。すくなくとも現状では、被害者はそのような不安のもとにあるはずだ。翻って、加害者はひと月後くらいにはどうせみんなから忘れられているだろうから、大手を振ってあのすばらしい大学のすばらしいキャンパスを闊歩することだって可能だ。また、クソ気持ち悪いナチス礼讃野郎からご指名なんかいただいちゃって、よかったよかったと笑みさえこぼしているかもしれない。もちろんこれは想像でしかないが。
驚いたのは、あの卑劣で理不尽な暴力行動を起こした人間に対して、意外にも寛容な人間が多いということだ。すごいな日本。五・一五事件の実行犯たちが、殺人をおかしたのにもかかわらず、世間の同情からごくごく軽い刑で出てきてしまったというエピソードを思い出す。この一連の結果がその後の日本に悪影響を与えたのは明らか。いっときの感情に流され短絡的な思考に直結してしまう人たちって、いつの時代もいるんだね。
指導者たちはあたりまえの話だが、こういう話は、「組織の論理」に流されてしまう実行犯たちに対しても厳しい目を向けるべき。日本には組織大好きな連中が多すぎて、そういうやつらが、いじめという名の暴力や、セクハラという名の性暴力などを、たとえ消極的ではあるのかもしれないが容認している。「いじめ/セクハラは悪いことだけど、でも被害者だって、そうされるだけの理由があるんだよね」みたいなゴキブリ並のたわごとをいうやつは少なくない。そういうのを見聞きするとき、もう無理するなよっていつも思う。無理して人間のマネをしなくていいんだよ、ゴキブリはゴキブリでしかないんだから、物事を考えているフリなんかしなくていいんだ。はい、フマキラー。
なーんか、学生のスポーツマンっていうのを世間が信用しすぎな気もする。爽やか? スポーツマンシップ? 人それぞれなんだろうけれど、僕は運動部の連中がひどいいじめをやっていたのを知っているから、とてもじゃないけれど「ああいう連中」って見方を変えたことがない。で、ああいう連中の行動規範が、やっぱり組織の論理だったりする。

あるひとつの事件に対して簡単に意見を言いたくなる場合、自分あるいは自分のとても親しい人間が被害者になった場合を想定しても同じことが言えるか、を自問すべきだ。全治三週間のケガを負わされたのは誰だったのか。
五・一五のとき、犬養毅の遺族が「わたしたちのほうが被害者なのに、世間からは冷たい目で見られた」という証言を残しているそうだ。また、当時、決行者たちの親を訪ね、「どのようにしてあのような立派な国士を育てることができたのか」というインタビュー記事がつくられたこともあったらしい。これらは、いまの時代から見れば、大本末転倒だということが火を見るより明らかではあるが、当時の世論というか一般庶民たちは大真面目だったに違いない。自らを無辜であると盲信する一般庶民たちは。
話はちょっとずれてしまうが、二・二六事件で殺された渡辺錠太郎という当時の陸軍教育総監がいる。その人の娘が渡辺和子といって、ノートルダム清心学園理事長になった。NHKラジオの「カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス 声でつづる昭和人物史」という番組で、今年の2月に3回にわたって彼女の特集がされたのだが、二・二六事件当時、9歳だった彼女の証言が非常に生々しく、また、聴いていてつらいものだった。父錠太郎は、彼女の目の前で惨殺されたのである。
二・二六もやはりその後に政治へ大きな影響を与えたのは間違いないのだが、いっぽう、昭和天皇が大激怒したせいか五・一五のような「同情の声」で罪が軽減されるということはなかったようだ。しかしあの事件の根底にある、目的のためなら手段の如何を問わないという姿勢・思想は、現代にも一部引き継がれているようで、このあいだの自衛官が国会議員を「国民の敵だ」と罵倒したという問題を、心情は理解できるといってけっして少なくない人間が共感を示したようだが、愚かである。それは自分たちがてっきり「国民」の側にいると信じきっているという愚かしさでもあるし、上に書いたように、目的主義的な愚かしさでもある。
まあいい。大事なのは、二・二六事件という歴史的問題にわれわれ一般人が接するとき、青年将校側の思想背景であるとか、あるいは鎮圧した政治側の視点などで総括されてしまい、被害者または被害者の家族側の視点が忘れ去られてしまいがち、ということだ。われわれの多くは、加害者や、加害者を裁く側に回ることより、被害者になる蓋然性のほうが高い、ということを銘記しておかなければいけない。
テレビであの信じられないほどの醜態をさらしつづけるおっさんたち(非常にアクロバティックな擁護をすれば、加害者学生から目を逸らすために愚行を重ねている、と思えなくもないという予感がちらと頭をかすめるかどうか、というところ)を裁いたり加害者側に同情したりすることよりも、まずは被害者側への支援や寄り添いが重要。加害者側を「赦せる」と思うのは勝手だが、いづれにせよおまえは「赦す」主体ではないし、たとえそうであっても、加害者が罪を償い贖ったあとからでもじゅうぶん遅くはないはずだ。その時点までおまえがこの事件を憶えているとしたうえでの話だが。

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あと一年で平成も終わるとか。元号も一緒にやめてほしい。
あと、不謹慎なので誰も言わないのかもしれないが、いまの天皇、退位前に死んでしまったらそれこそ世の中じゅう引っくり返って大騒ぎするだろうな。なんとかそれまではもってくれよ、っていう気持ちを持っていない宮内庁の人間はいまい。おくびにも出しやしない思いだろうが。

新元号とかほんとどうでもいいんだけど、けれど保守趣味の方々なんぞは死ぬほどありがたがるんだろうな。ご苦労なこって。
「いやね、このあいだ時間が空いてしまってね、そのときに新元号かんがえちゃったんですよ」
「なになに? そんなヒマあったの? こっちはセクハラとかなんだとかでひどく忙しかったってのに」
「だって、自分から騒ぎを大きくしたんじゃないの、あれって?」
「だってさ、あまりにもマスコミのやつらが生意気だから、なにか言ってやろうって思うじゃない? そうしたら、それでまたやつら騒ぐんだもん、嫌ンなっちゃうよ」
「わたしも、このところ突かれっぱなしでくさくさしててね、それで気晴らしを、と思って」
「で、なに考えついちゃったの?」
「わたしとね、あなたの苗字から一文字ずつ」
「やっちゃったの?」
「ええ、中国の古典から採るとか、もうそういうの面倒じゃない? 第一、中国ってのが気に食わないでしょう」
「おれも前からそう思ってた。支那のなんてイヤだよな」
「だから、もっとわかりやすいのが、きっと国民にも受け容れやすいかと思って」
「で、なににしたの?」
「『安心して生きられる時代』ということで、安生(あんせい)っていうのはどうでしょう?」
「お、いいね。グーじゃない」
「でしょう。誰もわれわれの苗字から採ったなんて気づかないだろうし」
「閣議決定すればだいじょうぶだろうしな」
「ね、これでいきましょうよ。歴史に名前残せますし」
「そうだよな。これくらいやってもらったってバチはあたらねえだろう」


まあ天皇関連のこととなると、すくなくともテレビは口をつぐんじゃうよね。NHKのラジオでまとめて秩父宮、高松宮、三笠宮のラジオ音源を解説とともに聴く機会があった(実際には何回にもわたって放送された)が、実に面白かった。インタビューのものもあったが、インタビュアーもけっこう気さくで、言葉遣いは丁寧だが、いまよりよっぽど距離感は近かったように思う。
反対に、いまは言葉遣いはちんぷんかんぷんで、そのかわり距離は天文学的に遠いものだととらえる層も少なくないようだ。ときどきではあるけれど、そんな原始的な脳味噌が羨ましいこともあるよね。世の中、さぞ単純に見えることでしょうよ。

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ニュースのいちいちを気にしていたら、無意識に「ksg(クソが)」とつぶやいてしまうことしばしばである昨今だが、ふと、このk→gあるいはs→zの関係が気になった。
日本人であれば、「か」と「が」、あるいは「さ」と「ざ」の関係をとても深いものだと理解していることが多いと思うのだが、アルファベットで表示したときの子音である「k」と「g」、あるいは「s」と「z」の関係って、発声学(?)的見地からすると、どうなんでしょう?
つまり、k→g / s→zの「→」にあたる処理を日本人は当然のように、「だから『゛(濁点)』がそうでしょ」と認識しているわけだけど、他の外国人たちは、kとg、sとzの関係をどう認識しているのだろうか?
なんとなく、と前置きするけれど、無声音であるkを有声音にすると、gになるっぽい気はする。同様に、sも声帯を震わせればzになりそうな気はするけれど、でも、濁点の有無の関係をあらかじめ知っているためにかなり恣意的な操作をしているようにも感じてしまう。
また、「は」→「ぱ」の問題もあるが、奈良時代だったかでは、p音が普通で、そこから半濁音が抜け落ちてh音になった、というのはなにかで読んだことがある。より詳細に言うと、pa, pi, pu, pe, poがfa, fi, fu, fe, foになって、そこからha, hi, fu, he, hoになったみたい。「ふ」の音にだけ、fが残っているという話。そこから考えると、「ぱ」→「は」と捉えたほうがより正確なのかもしれないけれど。
ちなみに、幼児の最初期の発声においては、b, m, pの破裂音が先行してなされるという。だから、幼児語にはこれらの音の組み合わせでできたものが多いのかと納得したことがある。「パパ」「ママ」「まんま」「ぽんぽん」「ぶーぶー」などなど。

日本語しか遣えないので日本語の常識をすべての言語のそれとついつい考えてしまうけれど、だいたいからして「母音」という言葉を聞いてそれが5つしかないものと思い浮かべてしまうのも、日本人ならではなのかも。他の言語では、曖昧母音や二重母音もあって、「あ・え・い・う・え・お・あ・お・あ・お」の練習は、日本人だけしかやらないのかも? 英語圏の人間たちからすれば、「なんで日本人はlとrの区別がつかないんだよ!」って不思議がっているのかもしれない。いやいや、それを言うなら、舌を前歯で挟む英語のthとか、フランス語のr音なんて、なんでわざわざそんな難しい発音すんのよっていう反論もあるよね。
それに、日本国内にしたって方言という問題もある。ほんらい話し言葉というものは、書かれることを企図して生まれたものではないためどうしても記述が追っつかず、言語化が難しい部分もあるということ。
ところが最近は、コミュニケーションのなかでウェブ上での表記がかなりのウェイトを占めるようになったために、「書き」先行ということも少なくなくなった。たとえば笑いを意味する語尾の「w」ってなんて読んでるの? 「ワラ」と読まれることが多いような気がするけれど、違う読み方あるのかな。
ちょいと昔でいえば「orz」とか「ノシ」とか、ずっとなんて読むかわからなかったし、そもそも意味もわからなかったからなあ。「おーず」とか「のし」と頭のなかで読んでいた。

ちょっと前に友人と話していて、そのうちSNSもタイプやフリック入力という形から音声認識入力が主流になるだろう、そうなった場合、発声することが躊躇われるような表現は廃れていくのだろうか、ということが話題になった。
いま現在のわれわれはある程度の「乖離」というものはすでに織り込み済みでウェブ上のやりとりをしている。たとえばツイッターなんかでの「え、ちょっと待って」という文章は、じゅうぶんに「待たれた」状態で入力されている。入力までの数秒~数分のタイムラグというのは、いわば「ないもの」という共通理解のもとでコミュニケーションをしているわけだが、音声入力が中心となっていくと、この誤差はより埋まっていくに違いない。よりリアルタイムで「ちょっと待って」という言葉が入力され、その言葉に実感がより伴うということになる。
でもその先に当然予想されるのは、認識→入力という技術革命だろう。頭に針をぶっ刺すなんていう野蛮な解決方法ではなく、「耳のちょっと上あたりに小さなパッドをぺたっと貼るだけであとは微弱な電波を読み取ってうんぬんかんぬん」というSF的ブラックボックス・テクノロジーによってわれわれは「入力」という煩瑣な作業から解放されるに違いない。しかしまあそんなことになったら(僕の生きているうちに実装されることはないんじゃないかと思っているけれど)、われわれのやることはより増えることになるだろうね。よっぽど慎重にならない限り、構造的に意見や考えを簡単に「漏洩」させてしまうことになるだろうから、その事後処理に余計に時間をとられそう。あるいは、発信する前の推敲にものすごく時間がかかってしまうとか。
もっとイヤな未来は、「電波を読み取って」までは同じだとして、あとは膨大なビッグデータから採取されたテンプレートにAIが自動的にマッチングしてくれる、なんて技術の発展。つまり、「あなたの考えはたぶん次の文章に近いものではないですか? 『このあいだの合コンでの印象がとてもよかったので、今度ふたりで食事に行ったりしませんか?』」という提案に「OK」をタップするだけの未来。
まあAIの話題には、最近のケンブリッジ・アナリティカの疑惑に見られるような無意識領域への操作みたいな問題が現在においてさえ顕在化しているくらいだから、将来においてはより深刻な問題を孕むことになるんじゃないでしょうかね。かいつまんで言ってしまえば、ディストピアですよ。まさしく、「クソが」って感じ。

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前の記事とはあえて独立して書く。
当該書には、自殺未遂に至った経緯として、自分を特別な存在と考えて、それが実現されないことへのフラストレーションからそうなった(かなり簡略しているけれど)、という人が登場していた。
また、著者自身は「表現者」としての自負があったみたいで(彼は自殺未遂は起こしていなかったはず)、また、親の遺体の前で笑ったという女子高生も、表現に興味があって、みたいな記述があった。はっきり言ってしまうと、こういうくその役にも立たない自意識を自分でコントロールできない人たちにわざわざ近寄りたいと思わないのだ。当然、興味も湧かない。

ちょっと曖昧に書くのだけれど、自意識の暴走からいろいろなものが手詰まりになってしまって心身不調を起こしていた人を近くで見ていたことがある。そのときは、話を徹底して聞いてみたり、あるいはアドバイスしたりしてみたんだけど、その人自身が閉じてしまっているというか自分の信じ込んでいるループの中から出て来ようとはしなかった。そこで僕も閉じてしまって、いやいや、家族でも友だちでもないんだし、もう放っておいていいだろうという気持ちになった。というか、友だちでも限度がある。その人が自分のなかにとことん沈み込んでいるのであれば、おれだっておれの好悪にとことん沈み込んでしまおうと考えてしまうと、結局突き放すしかない。それを諦めずに何年もかかって彼/彼女を救うことができた、みたいな話は他人から聴けば美談かもしれないけれど、僕の場合は、僕自身が自己中心的にできているので、他人のために自分の人生を費やすみたいなことはとうていできなかった。その人間にかつて救われたことがある、というのであれば話は別だけれど。

『自殺』の作者は、恋愛関係もめちゃくちゃだ。結婚しながら愛人関係をいくつも(!)持っていて、そのうちひとりは自殺未遂して重傷を負ったりしているようだ。作者はそれを心の底から反省しているみたいなのだが、そういう反省をしたとかどうとかは別に、こういう人たちっていうのは、自分を「弱い」とか「不器用だ」とかいうことを言い訳にして周囲を傷つけまわる人間だと僕は思っているので、いま現在は幸福みたいだけれど、いつ破壊マシーンに変容するかわからない。言い方は悪いが、そういう症状を起す病気を持っているのだと考えている。
そういう人が、他人の自殺を止めるために本を書く、というのはたぶん嘘偽りのない本心からのことで、それはそれでいいことだと思うが、それによって救われるのは、もしかしたら同じ症状を抱えた人たちだけなのではないか、とも思ってしまう。同病相憐れむというか。
また、かなり深刻に自殺をしようかどうか迷っている、という人はこのような本を読んで「当たるも八卦当たらぬも八卦」に賭けるよりは、心療内科なり精神科なりに行ってきちんと治療を心がけるほうがよっぽどよいのではないだろうか。素人の体験記みたいなのを読んで「救われた!」みたいに思える人は、それほどシリアスな状況じゃないのかもしれないし、そういう人だって、医療にかかることが悪いことだとは思えない。たぶん医療従事者のほうが数多くの人を診ているはずで、そういう人たちの知見やアドヴァイスはバカにしたものではないはずだ。
専門家を頼るのがいちばんの近道で、素人のもっともらしいご託宣(「おれ/わたしのときはこうだった」話)を盲信するのがたぶんいちばんの遠回りだと思う。でも、だいたい逆を選びがちなんだよね。

人ってわりと簡単に死ぬことを考えがちだと思う。それは上から下までっていう言い方はおかしいかもしれないが、さまざまな理由から「もういいや」っていう気持ちにすぐ振れてしまうものなのではないか。
そういう「病んでいる」状態を誇る人たちっていうのが昔からいて、僕はそういうのが大っ嫌いなんだよなあ。嫌いだと言うと、それは強いからだ、みたいな批判がそういう自称弱者さんたちから返ってくるのだけれど、じゃあ反対に訊きたくなるのは、(僕のことではないけれど)死にたいという気持ちを振り切って社会に勇気をもって関わっていく人たちの大変さ・苦労ってものを斟酌したことはあるのか、ということだ。
たとえば、自分は不器用なのだ、とか、人見知りするので、というのを言い訳にしていつまでも黙っている人たち(このあいだの場面緘黙であるとか吃音症の人たち、あるいは失語症だってあるだろうけれど、そういう人たちのことではもちろんない)は、けっきょく誰かが話しかけてくれるのを待っているわけだけど、その話しかけてくれる誰かっていうのは、「いつまでもしゃべり始めない人たちに対して話したくてたまらない人」とは限らない。その人たちだって、ほんとは話しかけてくれたらそれに越したことはないとは思っているのだけれど、それだといつまでも事が進まないので、その人たちなりの勇気を振り絞って話しかけてくれているのかもしれない。
自分はつまらないやつだ、という自己嫌悪に陥っていると、他者の大変さまでは見えなくなって、あるいは見えたとしても、その大変さ・苦労を比較して自分の自己嫌悪のスパイラルをより深めていくというだけで、まあ結局は自己中心になるだけなのだ。そういう人が「もういい! 死にたい!」と思っているのを、僕は無理に止めようとは思えないんだよな。めちゃくちゃ迷惑になる死に方さえしなければ、どうぞお気の済むままにすればよろしいのでは?と思ってしまう。

『自殺』の作者であるスエイさんは、いまはもう鬱から抜け出て幸せを感じているのだと思う。不倫の末の結婚もうまくいっているようで、そりゃよかったですねと思う。
本をひとつの区切りとして読んでしまうと、「作者はいつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」というふうについ感じてしまうが、これで終わりだというのでは予定調和で面白くないでしょ。「表現者」や「特別な人」たちには、やっぱり特別な展開がふさわしいと思うんだ。
僕がストーリーをつくるのであれば、自殺に失敗して一生癒えることのない傷を負ったという昔の愛人がここでやってきて、「幸せなふたり」に刃物を振りかざすっていうのはどうだろう。
冗談じゃねえやな。好き勝手やったあげく、やっぱりてめえ勝手で後悔して悪かったって泣いて反省して、それから改心して幸せになって、誰かの救いになれれば、だなんて。あんたに不幸にされたわたしはどうなんだよ。このわたしを救ったのかよ、あんたは。このわたしの憎しみをあんたは受け止める必要があるんだ。この憎しみは愛なんだ。愛を受け止めろよ。死ぬほどの愛だ。
こんな台詞はどうかな。陳腐だねえ。月並だねえ。心底凡庸だ。けれども、安っぽい台詞で因果の輪が閉じるのなら、それこそ予定調和で、同じ予定調和ならバッドエンディングも悪くないでしょ。
もちろんふたりのあいだになにがあったか全然わからないし上の「台詞」はフィクションでしかない。しかし僕は、愛人とのやりとり、つまり個人間のプライバシーを勝手に書き晒している部分を読んでいて、腹が立って仕方なかった。こういうことを藝術だと称していとも簡単にやってしまう連中がいつの時代もいて、僕はそういう人間をクズとしか思えない。
この本を褒める人間は、その自殺に失敗した人がいまどういう気持ちでいるのかということを少しでも考えたことがあるのだろうか。そういうことを、少なくとも本の中では忘れたふり(いまどうなっているかまでは書いていなかった)をしている作者と同様に、賞賛者たちも気がつかないふりをしつづけていられるものなのだろうか。
本に書き残した以上は忘れているわけはなく、もちろん悔いているであろう作者のその悔いは、簡単に言ってみれば自己満足でしかない。「表現」という名を騙ったそのちんけな自慰行為と、(もしあるとするならば、だが)相手に残っている復讐心とはまったく無関係・別問題であって、その報復行為がたとえどんなものでも成就すればいいと僕は思っている。そういう連環が完成したときこそ、本当の作品となるんじゃないですかねえ。凡庸なおれはそう考えるのだ。

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フランスの作家、ルイ=フェルディナン・セリーヌの墓石にはただ一言、《否》(ノン)の文字が刻まれている、っていうのは中公文庫の『夜の果ての旅』の解説でたしか知ったことだったが、はて? いや待てよ、この時代のことだから、あれももしかしたら「創作」ということでひっくり返っているかも、と思って調べてみると、はたして「神話」であったと指摘している文章を発見。うーん、それはそれで、さみしいな。
小学生くらいの頃はよく、夜、ふとんのなかで”神様”に「どうか、死ぬまでにデビッド・カッパーフィールド(知らない人がまさかこの世の中にいるとは思えないけれど、自由の女神を消したり空を飛ぶ人)のマジックのトリックを教えてください。一生のお願いです」とよく祈っていたものだが、その功あってか、ネットで一発検索できる世の中になりました。みんな、「集合知の成果!」とか勘違いしているかもしれないけれど、すべておれのおかげだぞ。
なにが言いたいかっていうと、すべてが明るみに出てしまえば、そりゃ知的好奇心は満たされるかもしれないけれど、いっそう野暮な世の中になってしまっているということもあるんでござんす。明らかになった事実や真実というものが、われわれから昂奮を奪うということはそう珍しいことではない。
まあまあ、創作か勘違いかはともかくとして、「セリーヌの墓の話」はなかなかのものだと思うよ。だって、そういう偽りの逸話が僕の心の中におよそ二十年弱ほど居座って、強烈な印象を与えつづけてきたのだから。ただ一言、《否》(ノン!)。すてきじゃないか。


年末に録音していた大友良英のラジオ番組をやっときのう聴くことができたのだが、そこに元・能年玲奈が出演していて、彼女の口からその近況というのを聞いてうーんと唸る。
干されて苦労したらしい、ってのはもはや公然の秘密となっているが、その反動と『この世界の片隅に』ヒットにあやかってなのか、なんだかミュージシャンをやったり、あるいは、絵を描いてルーブル美術館関連の施設で展示されたりしたのだとか。
絵のほうは知らんけれど、音楽は……これだけアイドルに対して東大寺の盧遮那仏像もびっくりの寛容な精神を涵養してきた僕ではあるが、彼女はアイドルではないので、こと音楽活動についてはかなり厳しめに見てしまう。そのうえ、「『あまちゃん』の栄光よ、もう一度」的な売り方・肩入れのされ方がどうにも鼻につくところがあるので、よけいに厳しく映る。
さらに、ラジオ出演しているっていうのに、『あまちゃん』時からほとんど成長を感じさせないボソボソっとした「あまり主張することはありません」的な発話。こういうのを、「アイドルちゃん」とか「お人形さん」なんていうふうに揶揄してきたものだと思うのだが、いやいや、すくなくともいまのアイドルでこんな人いませんから。みんなもっと主張するし、積極的。そりゃそうだよね、黙っていたって仕事くれないだろうから。いろいろな業界の力のある人たちが寄って集って下駄を履かせてくれることなんて、滅多にないから。
最近じゃワタクシの心にも慈しみというものが芽生えまして、個人についての批難というものをできるだけ控えてきたのだが、まあ高下駄の長い歯を足払いするくらいはたいしたことがなかろうと思い立ったが吉日。実を申せば、なんじゃいこいつは、カワイイからってちやほやされてんじゃないよ、「骨隠す皮には誰も迷うなり 好きも嫌いも皮の業(わざ)なり」って言葉があるが、生まれたときにその「皮の業」がたまたまうまくいっただけじゃねえか、と腹が立ったのであります。のん? ……《否》!

立腹の原因の八割くらいは、リップクリームを塗らなければならないほど唇が乾燥しているからではなく、僕の溺愛していたアイドルグループが明確な理由の見えないまま解散することがつい先ごろ発表されたことにある。最初は運営の頭の鉢を割ってやりたいと思うくらいだったが、やっと落ち着いてきて、その感想はちかぢか書こうと思っている。

これもまた数日前の話で、Eテレの『バリバラ』をたまたま途中から観たら、「会話の苦手な人たち」が8人で一緒の行動をして親睦を深めるというのがやっていて、これがとても面白い企画だった。
男女半々だったと思うのだけれど、男性は吃音の方が多く、女性はたぶんみんな緘黙症。緘黙症(番組では場面緘黙症という紹介がされていた)は、違うテレビ番組でたまたま知っていたので、ただのアガリ症というのとはまったくわけが違う、ということくらいはわかっていたつもりだが、実際にそのコミュニケーションのやりとりを見ていたら、ちょっと驚くくらいに、無反応になったり、あるいはものすごい小声になってしまっていたりして、なるほど、これは他人から誤解されたりすることも多いだろうなあと思った(実際に他の男性参加者からは「嫌われているのかと思った」という印象を持たれる場合もあった)。
その人たちがいろいろとそれぞれに工夫をしながら、他者と会話をしようとしていたのだが、吃音の男性陣はともかく(それでも、しゃべることにものすごく勇気が要るとは思う)、女性陣がそれに輪をかけてたいへんそうで、みんなやっぱり固まって無口になり、視線も合わせられなくなっていた。けれども彼女たちに別の場所で感想を訊いたり、筆談してもらうと、「たのしい・おもしろい」という本音を吐露していたりして、ほんと、人って見かけだけではわからないものだなと痛感した。
日中のグループデートが終わって、ちょっと広めの場所でみんな一斉での夕食となったのだが、やはりここでも会話は長つづきせず、しいんとなってしまう。そのとき、ひとりの女性が途中で席を立ち、しばらくしてフラミンゴのかぶりもの(!)をかぶって戻ってきた。
みんなびっくりして、やがて笑い、それにツッコむ。「なんですか、それ?」「フラミンゴの……かぶりものです」「見たらわかります」
クスクス、クスクス、クスクス。みんな噴き出してしまい、その場を重苦しく支配していた氷のように固まった空気がすこしづつやわらかく溶けていくのがわかった。そうしたらもうひとり、かなり重度の場面緘黙を抱えている女性が、無表情で黙ったままイカのかぶりもの(さっきの女性がついでに持ってきたものかも)をかぶり、みんながそれを笑った。僕も大笑いした。
あとでそのイカをかぶった女性がスタッフに漏らしたところによると、「そう見られることは少ないけれど、じつは人を笑わせることが好きなのだ」という。なんだか、じいんとしてしまった。
ほんと、人間なんて傍から理解できることのほうが少ない。そして、ユーモアの力は偉大だ!
この番組は前半がそこまでで、4日後の28日(日)に後編を放送するらしい。これは絶対観なければ。

会話が苦手、といっても千差万別で、「コミュ障なんで」とか「人見知りでね」なんかが口癖のよくしゃべる人もいれば、放送に出てきた方々のようにものすごく辛い状況に追い込まれている人たちもいる。
「無口な人」というのはだいたいどこのコミュニティにもいるが、その人たちがしゃべらない理由もさまざまであろうし、「しゃべらない」のではなく「しゃべれない」ということだって充分ありうる、というのがよく理解できた。
そういう人たちに「自分を主張しないと」と促すのは、ほとんど暴力みたいなものだ。もしほんとうに相手に配慮するならば、その人たちがゆっくりとしゃべりだし始めることを、あるいは、別のコミュニケーションの方法を採ることを、待ち、認めなければならない。
しゃべるというじたいことが苦手であっても、たとえばSNSなどでの発信は得意だったりして、信じられないほどのフリックさばき(?)で、次々とメッセージを連発できるのかも。僕のようなスマホ&SNS原始人はボコボコに叩きのめされてしまうかもね。
であるならば、ついつい思ったり言ったりしてしまいがちな「やっぱり人間っていうのは面と向かってコミュニケーションしなくちゃね」みたいな言説ってのは、一部の人たちに窮屈な思いをさせるだけで、他人に対して無理に言う必要はないのだろう(そもそも、他人に向かって教訓めいたことを言う必要はないんだよね)。

となると、だ。さっき、あれほど批難したのんさんに対しても、上記で得られた知見――無口だからってなにも考えていないわけではない/しゃべることが得意でないならばそれ以外で表現できればいい、という考えを適用させるべきだ、ということに思い至る。心の底から、というわけではないが、フェアではないという気持ちが先行して、至らざるを得ないのだ。
カワイイからってちやほやされているんだからその反動で批難されてもいいんだ、というのはけっきょくは外見至上主義に陥ってしまっている、ただ倒錯しているだけで。「皮の業」をもって批難している僕自身が、その「皮の業」にとらわれてしまっている。音楽は好きじゃないし、絵もへたっぴで、芝居もあんまり成長していないな。せめて、そこまでにとどめておくべきなんだろう。

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元日ももう終わろうとしている。
きのうは紅白を観たりして、音楽を聴いているはずなのにこれほど心の動かない、つまり僕にとっては「費用対効果」の著しく低い音楽体験も珍しいよなあとぼんやりしていると、superflyが好きな歌を唄ってくれて、ああそうそう、この「この込み上がる気持ちが愛じゃないなら何が愛かわからないほど」っていう二重否定の表現がちょっと翻訳文みたいでいいんだよなあ、なんて思う。そして、この歌が僕の「最高曲!」にはならない理由である、ちょっと激しすぎる間奏部分が紅白Ver.(というかテレビVer.ともいえるか)ということでカットされていて、それもよかった。
三浦大知も、ダンスと歌をきちんと両立させていて、観るたびにマイケルからの正統というものを承け継ごうとしている(のではないかとぜんぜん観ていないくせに勝手に推察しているだけなんだけど)感じがあって、めちゃくちゃ売れてしかるべきなんだと思うんだけれど、実際のところはどうなんでしょう。
弟の彼女から欅坂のパフォーマンスを勧められていたのであらためて観たんだけれど、うーむ、僕がふだん観ているアイドルが小劇場の芝居だとしたら、48とか46の系統ってよくも悪くも商業演劇って感じだよなあ、とやっぱり心がぴくりとも動かない状態で思う。あと、20代くらいまでならまだしもそれ以上の年齢の人間なら、あの歌詞で心を動かすのは難しいよなあ。え?  ぜんぜんいけるって?  あ、そうですか……。
倒れちゃった子とか、痙攣していた子がいて、そのことでいろいろとかまびすしく騒いでいるようではあるけれど、ファンのなかに「それだけ欅は命削っているってことなんだよ!」みたいなコメントしている人がいて、ちょっと笑った。(縁起でもないが)たとえパフォーマンス中に死んでしまった子がいてもその人は「やっぱ欅は尊い!」とか言って、事故のことをまったく省みなさそう。特攻隊員を神聖視して戦争礼讃する人間とマインド同じ。
まあ去年からそんな話題はいろいろと出ていて、消費者(あえてファンとかヲタクという言葉を遣わない)は残酷ショウをたのしんでいるところがあるよね、ってのは僕自身にも身に覚えがあるところ。
なにもアイドルに限らず、甲子園の「連日連投」とか箱根駅伝の「フラフラ走」なんかについてだって、単純に「感動をありがとう!」と言ってしまう人のほうが多くて、選手の体調という観点から観戦している人のほうがまだ少数派なんだろう。

てなてな感じで、心配だった『ひよっこ特別篇』が心配していたとおりの大失敗にはならなかったことにとりあえず安堵し、それにしたってところどころに挟まれる寸劇というかコントを直視することができず、チャンネルをガチャガチャとひねったりした。平成も三十年になんなんとするところに、この昭和的表現。
昭和というので思い出した。新元号のことだが、最近ひとつ気づいたことがある。もしかしたら世の中では「そんなのは当然」ってことになっているのかもしれないが、新元号のイニシャルは、M、T、S、H以外の21文字のいづれかになるに違いない。
官庁ではいまだに愚かしく元号表記を旨としているが、それであるのならいろいろなデータを元号表記でアーカイヴ(そのくせ、最終的には二度手間で西暦変換していると思うんだよねえ)しているはずで、そうなると明治、大正、昭和、平成のイニシャルを遣うのはNGになるのでは?
といっても21個もあるから絞ったって言えないな、たとえばAで思い浮かぶものは……とやろうとしたら、ふと「安倍」という言葉を思いつき、ついで「安倍晋三記念小学校」という単語を連想し、その言葉のセンスにあらためて噴き出さずにいられなかった。いやあ、ぜひそんな名前の小学校を創立してほしかったものだ。

けっきょく紅白は終まいまで観ずに、風呂に入って、ふつうに寝た。1匹のネコが布団に入ってきて、そのあともう1匹も入ってきて喧嘩になって、それから出ていったほうが僕の机に乗っているいろいろなものを落として僕を起こそうとするのもいつもと同じ。真夜中だというのに。

12月の31日になって「旧年中はお世話になりました」となんとなくしんみりと書いていたかと思うと、その翌日になればまるで別人のように「おめでとうございます! 今年もよろしくお願いします!」と明るくなる、この切替っていうのが僕にはあまりうまくできない。
特にここ最近は、ムラの行事として大晦日と元日に神事の手伝いをやらなくてはいけないので、大晦日には「ああ、どうせ明日の午前中にはまた来て祭事をせねばなあ」と思っているわけだし、明けて元旦、前日というか十数時間前に会っていた連中とまた顔合わせをするわけだから、そのときにあらためて「明けましてむにゃむにゃ」はやらず、結局はいつもの「おはようさん」(僕は「おはようございます」だけど)で済ませてしまい、ついでに神事もとっとと済ませてしまう。掛けまくも畏き~云々。
そんなものだから、元日が特別な感じというのがあまりしなくなってしまった。年賀状は業者から何通か来るだけだし、そのうちの1通は、5年ほど前に一日だけリースした重機の会社から。
ミニとはいえ、500kg超のショベルを軽トラの荷台(軽トラの最大積載量を調べてみよう)に載せて勾配のきつい坂道を下っていったときのあの心臓に悪い感じを、なんとなく思い出す。かなり遅めの昼飯となったマックの冷えたポテトの匂いとともに。

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このあいだヤフーのヘッドラインで「みなおか」って文字を見て、なんのことじゃいと思ったら「みなさんのおかげです」の略と知った。はじめて聴いたぞ、そんなの。まあ、観たことない番組だけど。

ミュージックステーションが「Mステ」って言われだしたのはけっこう古かったような気がする。96年に就いたバイト先の女子高生が「Mステ」というのを聞いて、へえそういう言い方するんだと驚いた記憶がある。僕の同級生でそんなことを言っているのはひとりもいなかった。

以前にも書いたことがあったことをふたつ。
もちろん後追いなんだけれど、僕の中高生のときの『サウンド・オブ・サイレンス』の唄い手は「サイモンとガーファンクル」であって、「サイモン・アンド・ガーファンクル」なんてしゃれた言い方は知らなかった。ましてや「S&G」だなんて、カレーの会社みたいだ。
「ファストフード」っていう言い方については、いつ頃から主流になったのかは調べられそうな気がする。それくらい、「いっせーのせ!」で変わった気がする。ずっと「ファーストフード」だと思っていたけどね。

「ボージョレ/ボジョレー」問題もそろそろ飽きた。どっちにせよマーケティングの一環というか、目新しい言い方で売ってやれという観点から広まった(?)表記だろうし。
「SSW」は「スーパースターウォーズ」じゃなくて、「シンガー・ソング・ライター」っていうのがいまだにしっくりこない。無理してんだろ、ってツッコミがまずあって。
最近のところでいうと、「ハロウィン」か、それとも「ハロウィーン」なのかについて触れている場面に何回かでくわしたので、今後もちょっとした小ネタになっていくのだろう。

そこで本題。
きょうテレビを観ていたら「ドーナツ」という言い方をしているのを聴いて、びつくり。いやいや、そういう表記は知っていたけれど、促音(「っ」)をきちんと強調して発音するのは初めて聴いたかも。わしはいままでずっと、「ドーナツ」じゃった。「ピザ」を「ピッツァ」って言われたような衝撃。「チャンピオン」という言葉も、「ちゃんぴょん」的言い方は鳴りを潜め、今後は「ちゃんぴおん」という表記に即した発音がメジャーになっていくのだろうか(これについては、「ぴょん」的言い方がそもそも間違いなのかもしれない、とも思っている)。

まあ、「フィロソフィーのダンス」というアイドルグループの「フィロのス」っていう略称は最高だな、ってことが言いたいだけ。
もちろん、楽曲・パフォーマンスも最高で、2017年ベストアイドルグループのひとつです(ベスト、の意味が崩壊してる)。

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このあいだちょっとした場所へ、船に乗って行ってきたのだが、そこはもうフォトジェニックな場所であって、手っ取り早くいえば人気スポットだった。
船に乗るところからやっぱりみんな大盛り上がりで、そりゃそうだろう、漁師でもないかぎり非日常な体験なんだから。船酔いなどは起こらない程度にいい感じに揺られながら離れ島に到着すると、というか、乗船中からみんな写真撮影にはしゃぐ。大学生くらいのグループがあったり、カップルがあったり、というなかで、ひとりきりの女性というのもいて、悪い癖なのだがなんとなく見てしまう。どういう愉しみ方をするのかが気になってしまうのだ。

僕がたまたまちらっと観た方は、カメラだけじゃなく、見たことのない道具(360度カメラとか?)をいろいろと使いこなしていて、けれども表情は無表情で、なんかそれがとても面白いことのように思えて。
彼女はたぶん頭のなかで、その場にいる人たちと同じくらいにおしゃべりをしていたはずで、知っているけれどもその場にいない誰かや、あるいは顔も知らないのだけれどつながりのある誰かなどに、いろいろと目の当たりにしている風景について「きょう晴れていてよかった」とか「細かく飛んでくる波飛沫が気持ちいいんだよ」とか話しかけていたのだと思う。
僕自身はけっこうおしゃべりなので、いろいろと面と向かってしゃべるのが好きだが、けれども心の中でずっとしゃべっているのも好きで、そういう「結局は誰の耳にも届かなかったコミュニケーション」がいまの僕の大部分を構成していると思っている。それらは、実在の人物に話すことよりすくなくとも量的には多いし、少なからぬ人たちもたぶん同様なんじゃないかと思っている。

島に上陸して、思い思いの場所へ各人が足を運ぶ。きっとみんな事前に「ここにはぜひ行っておきたい」という場所を調べておいているみたいで、迷いがない。といっても、もう12月だし、大都会の話ではないので、上陸客は多いとは思ったものの芋洗いという状況ではもちろんなかったし、そのまばらな感じがなんとなくよかった。撮ろうとする気持ちはみんな一緒だよね、というような共犯意識もあったのだと思う。
なんだかんだとけっこう歩き回って、しかも思ってもみずの山歩き的なところも多かったので、厚手のブルゾンを脱ぎ、内側に着込んだフリースもニットキャップも脱ぎ、と汗を拭き拭き適当な場所へ足を向けていると、「この島へ来たらここでしょ」的なスポットに行き当たり、しかも他に人がほとんどいなかったので、休みがてら、その廃墟となった軍事施設の薄暗い部分に入り込んで、光が遠いところから射して美しいシルエットを作り出すのを楽しんでいた。
と、例の女性がいたのである。やっぱりひとりのままで。

もちろんひとりきりの女性をじっくりと眺めていたら、それほど気持ち悪いことはないので、視界に入れるような入れないようなくらいのニュアンスでゆっくりとその場を立ち去りながらも、その様子を窺っていた。ほんと、趣味が悪いと自分でも思いますよ。
彼女は、三脚を立て、そのうえにカメラを乗せて、リモートコントロールできるデバイスをつかって、自分自身を撮影していた。何度も何度もカメラの位置を確かめるようにしながら、しかし自身がごく自然な被写体となるように振る舞い、シャッターを押していた(のだと思う)。
僕はその場に30秒といなかったが、その様子をなんとなく意識の端っこでとらえながら、すごくいいなと感じていた。

インスタ映えという言葉が流行語大賞を獲ったとかで、こうなると(こうなったからこそ)おおっぴらに批判の対象として難ずる人間が出てくるというものだが、そういう言葉が流行る前から、事象じたいを把握し批判するのならまだしも、大々的に知られるようになってからケチをつけだす人間の感覚の鈍さってのはだいたい無視していい程度。といっても、僕もそれほどその行為というものをあまり好きにはなれずにいた。
しかしその女性が、完全に個人のローカルフォルダにひたすらアーカイヴするためだけに撮影しているというわけではないのなら(もしそうだとしたらすごいことだ!)、やはりSNSにアップロードすることを前提にしてイメージをつくりあげ、それを現実化させるための機器を準備し、かつ、巧みに扱うというこの労力は、称讃に値しないわけがない。

インスタ映えのする写真をアップするのは、端的に言って、カッコイイとかかわいいとかお洒落とかいいなあなんてことを誰かに思われたいがためだと思う。「ただの日常の記録」とか「自分らしさ」なんていう表現の仕方もあるかもしれないけれど、それについてカッコイイとかかわいいとかお洒落とかいいなあなんて思われることがイヤなわけではないだろう。
僕は面倒だから「カッコイイでしょ」と言えるかもしれないけれど、若い人ならそういうふうにストレートに表現することを好まないだろうから、いかに婉曲するかに苦労しているというのも容易に想像できる。
ツールが発達していろいろと便利になったぶん、そういうインフラが当たり前の世代にとっては、全方向への配慮がたいへんだろうなと思う。へたにレスポンスがある可能性があるから、賢く振る舞いたい人は、空気(というかいろいろな場所でのいろいろな人間によるリアクション)を読みまくってからでないと自分の意見を吐き出すのに苦労しそう。
だから「(笑い)」や「www」をつけてナルシシズムに陥らないよう自身を客観化したり、客観化できているように振る舞ったりするってのも想像できる。「インスタ映えしそうwww」とか言いながらでもやっぱりスマホを向けて写真を撮るんでしょう? わかるわかるよ、わかりますよ。
でもさ、そういうのってつまらないんだよね。自己顕示欲は強いくせに全部防御線張りまくって傷つかないようにするのって、つまらない。行為の濃度は希薄になるだろうし、その結果は表層的で薄っぺらなものになるし、だいいち、そういうものを見た僕がフラストレーションのあまりウキーと髪を掻き毟ったあげく余計に薄くなるっていう、世界のいろいろな薄さに寄与しているだけなんだよな。
そういう時代だからこそ、ストレートにカッコつけることがいかに恰好のいいことか。気障でいいじゃん。ロマンティストでいいじゃん。ポエム詠めよ。最大限に気取れよ。嘲る連中を笑い返してやればいい。

……というようなことを、そういう人が身近にいるわけでもないのに思っていて、つまり妄想していたわけだが、その島で、件のひとりの女性がロマンティックか、かわいいか、はたまたカッコイイ写真を工夫して撮影しているところを目の端でちょこっと見たときに、つまらないことはいっぺんに吹き飛んでしまった。
すごくいい!
その人がアップするときにどんなキャプションをつけているのかは知るよしもなかったけれど、すくなくとも写真撮影の現場での行動はいい意味で泥臭いもので、誰ともしゃべらずに黙々とやっていたぶん、ただならぬ情熱を感じたのだ。
彼女の、そのときの心中でのおしゃべりがどんなものか聴いてみたかった。それは出来あがりの写真画像よりも僕には興味のあることで、彼女が誰になにを語りかけながら写真を撮り、そしてそのできたものについてまた誰かに話すのか、そういうことを知りたいと思った。
「いいでしょ? この写真。ね、いいよね? うん、いいよね。よく撮れたんだ」とか、「ここすごいよね、すごい。うん、こんな感じ、映画みたいだし、わたし、いま、ここの世界にぴったりハマってる」とか、自身をめちゃくちゃ肯定している感じだったら、なんだか嬉しい。そういう肯定している印象が少しでも感じられたから僕は興味を惹かれたわけだけれど、ハッシュタグでごまかしたり、どんな照れ隠しのキャプションをつけていようと、その場での「生の声」がストレートなものであれば、全然問題ないのだな、と思った。
僕は心の中で、その女性に、どんな写真が撮れたのか、とか、どんなイメージで写真を撮ったのか、とか、誰かに撮ってもらうことはあるのか、とか、写真を始めたきっかけは、などと質問を投げかけていた。もちろん、返事はない。それでいい。
あなたのおかげで、いろいろと新しいことを感じることができました。あなたのことについて、文章を書いてみようと思いました。いいえ、あなたを貶すようなものでは決してありません。あなたを通して、物事の見方がまた変わったんだ、そんなことを書こうかと思っています。ええそうです、あなたの知らない場所で。

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こういうことを書くと、自分でも保守的な人間だなあと思ってしまうのだけれど、やっぱり例の赤ちゃん連れの市議の行動については疑問を持たざるを得なかった。

あの人のインタビューも聴いたし、主張も理解したうえでやはりそう思っている。
あの件を認めるとなると、形式論的にいえば、「ある目的を正しいと信じた人間が確信してルール違反を犯したことを認める」ということになる。
その結果よりよい社会になるではないか、というのは実は論理的な反論ではない。どちらかといえば感情に訴える話だ。しかし一方で、今回の件の主体は、立法者である。感情論に任せていいものだろうか。

こんな場合はどうか。
「この愛する国をよりよくし、そして守り抜くのだ」と信じた人間が、かなりイレギュラーで強引なやり方をもって法案を通し、立法化する。
どこかで見たような例だが、この場合は、形式論的には法律(≒ルール)違反を犯していないので、「赤ちゃん」の場合より適切である、ともいえる。

このふたつを同時に支持する人は少ないと思う。
けれども両者は、細かな違いをちょっとだけ無視すると、「正しい」目的の実現のためなら多少の違反(ルール違反だったり前例違反だったり)は許されるべきだと考えている(ように見える)、という意味において同じような行為なのではないか(ルール違反だとは思っていなかった、は個人の内心の話になるので、あくまで形式に拘泥している)。

一般的な話でなら、感情論に傾くことはあるかもしれないが、立法者や行政者など、権力が与えられている者であればこそ手続きに則ることが大原則で、そこから逸脱するには相当の理由がなければならない、と僕は考えるが、今回の問題でも、あるいは他の問題でも、たいてい我を通した人間は「相当な理由があった」とする。
あと、「赤ちゃん」や「愛国」がなにかひとつの暴力性を持っていることも気になる点だ。それを片手に抱いているだけで相手を黙らせられるような場合がある。「○○のことだから、プロセスは気にしなくていい」という考え方は、自分の嫌う概念が「○○」に代入されることを想定し、それでも許せる場合にだけ認めるべきだ。

件の市議は、市議会だけにとどまらずに県議会や国会に呼びかけ、議員(なにも女性に限ったことでなくてもいいはず)が子どもづれで議会に参加できることを認める法案を提案するよう促してみてはどうだろうか。
ワンアクションで変わることなどほとんどないと思っているし、もし変わったとしても、それは別のワンアクションで簡単にひっくり返ると思っている。
ほんとうに大切だと思っていることなら、腰を据えてじっくりとやってみてほしい。そういう行動のほうが、より多くの人間の賛同を得られるはずと思うのだ。

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