とはいえ、わからないでもない

カテゴリ: 詩・歌詞・短歌・俳句

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作詞家の岡本おさみが亡くなった。
この人の名前を知ったのは吉田拓郎の『野の仏』を聴いたときで、この非常にユニークで文学的な歌詞を書いた「岡本おさみ」という人は実にすごいと素直に感心したのだが、寡聞にして氏のそれ以外の作品を知らない。もしかしたら知っているものも多々あるのかもしれないが。
YouTube上にはなかなか音源がなく、拓郎ヴァージョンはライブものでちょっと声が聞えにくいので、こうせつヴァージョンを貼り付けておく。
上掲動画で、国民服を着た北朝鮮の指導者みたいな人が歌詞中に出てくる「高節くん」で、ご存知、南こうせつのこと。余談だが、南こうせつの本名は南高節(読みは「みなみ・こうせつ」)で、なにかのテレビ番組で自分の名前を八木節のような「南高ぶし」とも読めるとふざけて、つづけて「なん~こ~お~」と節をつけて唄っていたことが記憶に強く残っている。
この頃さっぱり釣りはだめです
と高節くんが言う
昔はこんな大物をと 両手をひろげて
野の仏 笑ったような 笑わぬような

ここにはいっぱい野鳥かいますね
と高節くんが言う
そらそら浮子(うき)にあたりがきてるよと 教えてあげたいけど
野の仏 笑ったような 笑わぬような

ぽっかり 浮んだ根なし人生ですよ
と高節くんが言う
彼はずっとしゃべってるんだね ほら魚が逃げちまうよ
野の仏 笑ったような 笑わぬような

鮒の病気が広がりましたね
と高節くんが言う
昔の鮒は健康でしたねと 淋しそうな顔をして
野の仏 笑ったような 笑わぬような

ぼくは野の仏になるんですよ
と高節くんが言う
だけどこんないい男ではと 顎などなでながら
野の仏 こんどはたしかに笑いました
 野の仏 こんどはたしかに笑いました 
(2015.12.18 追記)
岡本おさみのWikipediaを見てみたら『襟裳岬』『落陽』の作詞者でもあるのか。この二曲はさすがに知っていた。

吉田拓郎は、両親が世代のど真ん中なので子どもの頃からその名前と有名な曲を知らないわけではなかったが、アルバムとして聴いたのは二十代後半。たまたま職場の五十代の方がベストアルバム2枚組みを貸してくれて、そこに入った曲が思いのほかよく(完全に「旧世代の音楽」くらいにしか思っていなかったため)、そのことについて、貸してくれたのとは別の女性(たぶん五十代)とずいぶん話が合った。
その会話のなかで「『野の仏』っていいですよね」と言ったら、「あれって岡本おさみの詩よね」と言われて、それで「拓郎作詞じゃないのか」と少し驚いたことを記憶している。
この女性は、僕にとってのボスにあたる人だったが、些細なことで僕が彼女にいちいち反撥するようになってしまい、いまから考えると非常につまらないことをしたと後悔している。おそらく、その職場にいた誰よりも話があっただろうし、仕事を辞めたあとも付きあいをつづけていけるくらいに、趣味の方向性が似ていたようにも思っている。
残念なことにそのアルバムは数年前のHDDクラッシュの際にデータが消えてしまい、『野の仏』を聴くことはなくなってしまったのだが、ただ、そのタイトルを思い出すたびに、自分のつまらない行動についての羞ずかしさと悔恨の念も同時に浮かぶのだ。

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ラジオについて二、三のことをメモ。
僕の場合、数年前まで「ラジオ」はかなり抽象的な言葉だった。
人によってはラジオと聴けば、オールナイトニッポンであったり、パックインミュージックだったり、大沢悠里だったり、浜村淳だったり、小沢昭一だったり、伊集院光だったり、永六輔だったり、ジェットストリームだったり、赤坂泰彦だったりと、それぞれの記憶をたどり始めるのだろうが、僕にはほとんど思い出せるものがない。ごくたまに流れてくるものを耳にする程度のことはあったが、毎週この時間は、と決めてラジオの前にすわり耳をすますということは、これまでなかった。

実体験をともなっていない僕は、ガロ系のマンガ(?)に出てきた「鉱石ラジオ」という言葉のノスタルジックで幻想的な雰囲気に酔い、村上春樹『風の歌を聴け』に出てくるDJのセリフに心はげまされ、そして谷川俊太郎の『ラジオ』に詩的な匂いを感じ取っていた。
上掲動画について少しだけ書こう。

1998年、「詩のボクシング」 の第二回大会が行われ、これがたしかNHKで放送された。対戦は、ねじめ正一(前回チャンピオン)と谷川俊太郎。審査員には若き頃の町田康がおり、解説には若き頃の高橋源一郎がいる。なお、源ちゃんの隣の小林克也は、ピントはずれのことばっかり言っていて、「なんでこんなやつを起用したんだろ」とリアルタイムで不満を持っていたという記憶がある。
興味のある向きは、YouTubeの関連動画にすべてアップされているから1から7までを見てみればよいが、今回は最終戦の「即興詩」における、谷川チャレンジャーの『ラジオ』だけを挙げておく。
なお、ねじめ正一の即興詩「テレビ」は無残なものになってしまっていたが、そのかわり彼の『定休日ウンコ』はすばらしく、一見の価値あり。高橋源一郎の「この朗読は年季入っていますからねえ。もはや至芸です」の解説とともにたのしめる。
リアルタイムで観ていたときはそう感じてはいなかったのだが、いま観ると、全体的にねじめ正一はすごいなあと感じる。当時21歳だった僕は、ネームバリューに圧倒されたまま谷川俊太郎がすごいと思っていたが、いやいや、ねじめ正一のパフォーマンスとしてのポエトリー・リーディングはすばらしい。

しかし、 すべてはこの即興詩の『ラジオ』が朗読されるまでのこと。
当時、この番組を観ていた僕は、谷川俊太郎のアドリブに文字通り圧倒された。谷川が読み終えても、言葉が出なかった。解説の高橋源一郎もしばらく黙ってしまう。おそらく、会場にいた人たちもそうだったんじゃないだろうか。
そのあと知ったことなのだが、ポエトリー・リーディングにはいくつか技術的なコツがあり、即興詩にもいくつかのコツがあるらしい。何回かのちの大会で、作家の島田雅彦が即興で「聖書」を通貨にみなした詩を朗読したが、解説(源ちゃんだったっけ?)は、「技術的にうまい」という評を下していた。
どんなお題が来ても「通貨」の詩を前もって作っていれば、その「通貨」の部分を変数にして、そのXに、お題(これが「聖書」だったっけか?)を当てはめてしまえばうまくいく、という解説だったような……ここらへん、ちょっと記憶が曖昧。

谷川の『ラジオ』を、文字にしてあらためて読み直してみたら、いろいろと言い足りない点や甘い点がいくつも出てくるのかもしれない。けれども谷川は、即興でこの詩を生み出したのである。そしておそらく、上述したようなテクニックは用いずに、詩人としての経験に身を委ねて朗読したのだろう。
それを目の当たりにしてしまった僕には、「いま・新しい言葉が・生み出されていく瞬間」に立ち会っているという衝撃があった。総毛立った。総毛立つ、は本来恐怖に対する反応を意味するが、谷川俊太郎の詩人としての才能はおそろしかった。

当時の僕は、詩で戦う谷川とねじめを観て、こういうのこそ自分が本当にカッコイイと思う姿だ、と強く思った。
詩的で知的でありながら、上品さ下品さが綯い交ぜになって恥的でも痴的でもあった。当時の僕は、バカで騒がしくて下品であることを誇るような風潮を社会に感じていて、それが非常に疎ましかった。
そういうなかで、詩や知性というものに真正面から取り組んでいることが、僕の目には本当に恰好よく映った。そしてその感想は、いまでも全然変っていない。


だから僕は、ラジオについては少し特別な思い入れをしている。実際にチューナーを回したり、アンテナを伸ばしたりしたことは本当に少ないくせに。
僕がラジオを模してなにかを書いているとき、それはなにか具体的な番組を念頭に置いているわけではない。
奇しくも上の『詩のボクシング』にも出てくる町田康がかつて、「キャバクラという場所に一度も行ったことはないんだけれど、たぶんこういうものなんじゃないかと思って小説に書いている」と言っていたことがあった。取材の労を惜しむただの手抜きということではなく、現実のキャバクラより、僕の書く想像上のキャバクラのほうがきっと面白いでしょ、というニュアンスを言外に感じた。
たぶんそうなんだろうと思う。僕も、同じような理由から、想像上のラジオのマネをしているのだから。

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皇后美智子さまのうた
安野光雅
朝日新聞出版
2014-06-06


当地に引っ越してきてはじめて図書館でカードを作り、三冊借りた。
  • 安野光雅『皇后美智子さまのうた』
  • 河野裕子『蝉声』
  • スティーブン・キング『11/23/63』(上)
かなり小さな図書館だったので、「詩・短歌・俳句」の書架にはあまりめぼしいものがなかったのだが、その中で偶然にも、最近気になっていた歌人ふたり(美智子さん、河野裕子さん)の歌集があったのでちょっと嬉しかった。


はじめに書いておくと、僕は天皇をはじめとする皇室に対して特別な敬意などいっさい持っておらず、歌人としての美智子さんについてだけ興味があった。
『皇后美智子さま~』は、安野光雅が選んだいくつかの歌を、エッセイ込みで紹介しているもので、厳密にいえば歌集ではないのだが、その歌の背景にある事情をなるべく僕のような皇室事情に疎い人間(逆に詳しい人なんているの?)にでもわかるように説明されているのがまず理解しやすかった。
エッセイ内では、安野自身の平和に対する希求が繰り返し主張されていて、ずっと以前に読んでいた彼のいくつかの洒脱なエッセイの雰囲気とはがらりと異なる印象を得、さすがに年齢(今年で八十九歳)がしゃべらせるものがあると感じた。
また、年齢というか世代のせいか、美智子さんや天皇に対する安野の敬意(という言葉では少し足りないか)が随所に感じられ、この部分については、読み始めはたいへん鬱陶しく感じられた。
しかしその鬱陶しさも読み慣れていけば、憧れている人に対する率直な愛情のようなものに感じられ、悪くないと思えるようにまでなった。
安野に限ったことではないのだが、美智子さんの容姿とかたたずまいとか歌に対して、「気高い」とか「誇らしい」とか「深いお心をお持ちである」というような表現というのはいろいろな場所で散見される(ex. 本書のアマゾンレビューで一番有用性の高いとされているレビュー内容とか)が、こういうのは、僕の有している時代感覚にはまったくそぐわない。
ひとつの価値体系のなかで特別なポジションにある人に対して、無条件の信頼や敬慕する気持ちを持つ人たちがいる、ということはわかっているつもりだ。宗教でいうところの信者であり、スターに対するファンがそれである。その人たちが自分たちの価値観の範囲内でそれをたのしんでいることじたいは、もちろん否定しない。 けれども、その人間たちが自分たちのグループの枠内を超えてその価値観を押しつけようとしてきたら、それに対しては大いに反対する。

長い前置きになったが、実際にこの本に載っていた歌は、非常によかった。皇室の人が歌っているからということではなく、やはりひとりの歌人としてすばらしい歌を詠んでいるということ。
「え、ここまで詠むの?」と思うところがいくつもあった。たとえば、
知らずしてわれも撃ちしや春闌(た)くるバーミアンの野にみ仏在(ま)さず (S46)
これは、タリバンによるバーミヤンの石仏破壊についてなのだが、「知らずしてわれも撃ちしや」は、言い方は悪いかもしれないが、皇室の人が詠める内容ではないと思った。そんなことを書くと、「ファン」の人は「美智子さまはそういう御心のお優しい方なんだよ!」などと怒るのかもしれないが、ちょっとびっくり。
他にも戦争を詠ったものは、この本に記載されているだけでも、いくつもある。
いくさ馬に育つ仔馬の歌ありて幼日(をさなび)は国戦ひてありぬ (S50)
やがて国敗るるを知らず疎開地に桐の筒花ひろひゐし日よ (H4)
いまはとて島果ての崖踏みけりしをみなの足裏(あうら)思へばかなし (H17)
いちばん下はサイパン島での歌。「『かなし』と言ったって、おたくの『家』と関係のないことじゃないんだから!」という遺族の怒りはどこかにあるかもしれない。僕が遺族だったらそう思うだろう。けれども、そういう批判の声もあるかもしれない、ということをおそらく美智子さんは知っているんじゃないかと思う。
慰霊碑は白夜に立てり君が花抗議者の花ともに置かれて (H12)
これは、天皇と一緒にオランダ訪問した際に、慰霊碑に供花した際に、抗議者が白い花を持って行進したのだと言う。それらがやがてまとめられて一緒に供花されたということを詠ったものらしいが、自分たちが批難されているということをきちんと知り、きちんと受け止めているからこそ、「抗議者」と記しているのだろうと思う。直面したものに対してごまかしていないのだ。
戦争についての歌をもうひとつだけ。
初夏の光の中に苗木植うるこの子供らに戦あらすな (H7)
勤皇の人間であれば、こういう歌に感銘を受けて、戦争を絶対に起こさないということに命を賭けてもらいたいものだが、世の中ふしぎなもので、勤皇の人間(のようにふるまっている人間)たちこそが、好戦的なのである。

ブブゼラの音も懐かしかの国に笛なる毎(ごと)にたたかひ果てて (H22)

サッカーワールドカップ南アフリカ大会の歌。これなんかを読むと、「へー、観てたんだあ。で、ブブゼラをけっこう好きになっていたのね」と知ることができ、ちょっと面白い。そりゃまあ、世の中について興味を広く持っていなきゃ歌が詠めるはずもないんだけど、皇室の人たちって、どっちかというと牢獄のなかにいるような多くを制限されている生活を想像してしまうから、サッカー観戦というのが少し新鮮に感じられた。
この歌の隣には、いままさにタイムリーな歌が記載されている。同じ南アフリカでのこと。
窓開けつつ聞きゐるニュース南アなるアパルトヘイト法廃されしとぞ (H3)
曽野のおばはんはまだこのこと知らないんじゃないだろうか。教えてやんなきゃ。


最後に、この本を読んでいていちばん衝撃を受けたことを。
64ページに突然、河野裕子の名前が出てくる。彼女が宮中歌会始の選者をしていた、ということはすでに知っていた。しかし僕が図書館で河野さんの歌集(しかも最終歌集)を一緒に借りたのは、まったくの偶然で、そこに連関があるとはまったく思ってもいなかったのだ。
惜しまれて平成22年に早世した河野さんの辞世(『蝉声』所収)、
手をのべてあなたとあなたにふれたきに息が足りないこの世の息が
が紹介され、次いで故人をしのぶ美智子さんの歌が載っている。
いち人(にん)の大き不在か俳壇に歌壇に河野裕子しのぶ歌

なぜだか知らないが、読書をしていると、こういう偶然のつながりをよく経験する。
そしてこのあとに『蝉声』のほうも読み終えたのだが、そちらにも美智子さんのことを詠った歌が出てくる。ほんとうに不思議なことだ。

初学者の浅見かもしれないが、短歌や俳句というのは、過去からずっと共鳴がつづいている文学なのだと強く感じている。
「本歌取り」などという気の利いた言葉をもっていいかげんなことを言いたいのではない。たとえば春なら、春を詠んだ歌なり句なりが、それを知っている者のなかにある種の感情を催させる。そして、「春」という言葉を見聞きしたり、あるいは実際に春の訪れを身体が知覚したとき、その感情が増幅され、それによって、もしまた歌なり句なりがその者から生まれれば、あらたな響きを他者にもたらす。そうやって増幅された響きが、時間と空間を超え、「いま、ここ」までやってきているのではないだろうか。

たとえば、河野さんの夫、永田和宏『近代秀歌』に記載されていた島木赤彦の辞世、
我が家の犬はいづこにゆきぬらむ今宵も思ひいでて眠れる
も、同書に引用されていた斎藤茂吉『島木赤彦臨終記』の記述も手伝って、よりリアリティのあるものとして鑑賞することができ、まるで自分が赤彦死去の数日前に立ち会っていたかのような錯覚まで得られた。

人間は、多くの場合は孤独で、だから、他人のほんとうのことを知ることなどできない。しかしおこがましいことだとは思いつつも、こういう歌や句や詩、あるいは絵や音楽などであれば、そのほんの一部はつながりを感じることができるのではないか、と僕は思っていて、そして、今回の読書で感じた偶然に、さらにその思いを強くしている。

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濃やかな女店員の面立ちに似る女優(ひと)の名を忘れゐしまま

なんだかずっと歩き回っていた印象の金沢ともあと少しでお別れ。かといって、おみやげを買うでもなく、なんとなく駅の前をうろうろ。

近江町市場という、いかにも「金沢の台所」とでも呼ばれていそう(&紹介されそう)なところを回って、海鮮物や野菜がずらりと並んでいるさまをたのしむ。
そりゃ生牡蠣だのブリだのノドグロだのを見ているのもいいのだが、やはり気になるのは野菜。ほうれん草なんかは形はきれいだったがいい値段だった。印象的だったのは大カブで、これまたいい値段だったのだが、かなり肌がきれいだったので思わず見入ってしまった。どこの八百屋でもカブはきれいだったので、もしかしたら産地が近いのかもしれなかった。
有機信仰の人たちは、きれいでない野菜を殊更ありがたがり、きれいな野菜を批難しがちだけれど、一朝一夕に作れないのはきれいな野菜のほうなんだよね(もちろんこれは外観の話)。僕は単純にきれいな野菜をすごいなあと思ってしまう。
アジア系の外国人観光客も多かったけれど、なかなか買うところまではいかないかもなあ。ブリまるまる一本(3万円近いのもあった!)を 飛行機に乗せるわけにもいかないしね。
僕個人は、 端から端へ行ったり来たりはしたものの財布を出すところまではいかなかったのでどうにも写真を撮る気にはなれなかった。売る側にしてみれば、「おいおい、写真を撮るならまず買ってくれよ」と思うだろうから。

残り時間もわづかになったので、スターバックスに入って時間を過ごす。メモを見直し、短歌を推敲しながら、なんとなく隣の席の女の子ふたり組の会話が耳に入ってくる。
「はじめまして、ですね」
「はじめまして」
「やっと会えましたね」
「やっと、です」
「うわー嬉しい」
「ほんとー」
とか。さすがにふたりの会話をメモしたりはしないのだが、聞きながら、これはどういう状況なのだろう、と考える。顔は見ないが、声の様子からふたりとも二十代ちょっと、という感じ。きょう、この瞬間にはじめて会ったらしく、ひとりが、自分の家の場所を紙に地図を書きながら説明している。それが通用するくらいだから、まったくの近所というわけではないが、金沢市内同士くらいではあるらしい。
かなり丁寧に家の場所を説明しているのも、それが本当に必要だからしているのではなく、たまたま会話が長つづきしそうだから引き延ばしているという印象だった。けれどもそれが無益というわけではなく、そのだらだらとした引き延ばしそのものをたのしんでいるという感じ。
同性愛という印象はなかった。なんというか、本格的な異性愛に目覚める以前の関係性に近いかな。異性より同性のほうが信用できるという時期特有の心理なんだと思う。学校が同じということはないだろうから、だとすればネット経由で知り合ったのかな。ふうん。そういう時代なのかもね。同性で同年代同士だったら、とりあえずそれほど心配はないか。もしかしたら、なにかのミュージシャンとかアイドルのファンつながりなのかもしれない。いいかもね、そういうのも。

若い女性の会話を盗み聞き、なんてみっともなさすぎるので早々に切り上げ、手元の『現代秀歌』を読む。最終章は「病と死」と題し、それらに関連する歌が挙げられていく。
当然のようにその一首一首は重く、「みそひともじ」が心に響く。
時間をチコに返してやらうといふやうに父は死にたり時間返りぬ - 米川千嘉子
軽々と論ずることのできない歌である。父に「チコ」と呼ばれていた作者が、その父の介護に接し、そしてその死に接して生まれた歌のようだ。この歌をどうこう言う資格は、少なくとも僕にはないし、そして、米川と同様に肉親の介護に携わり、見送ってきた多くの人たちにもそんな資格はないのではないだろうか。
この一首が、もはや短歌というものの技術や表現の方法などを超えて、代替しがたい「なにか」になっているのである。その「なにか」を端的になんと呼べばいいのかはわからないが、陳腐な言い方をすれば、これは作者の人生――この言い方が少し気障だとしたら、「生活」とでも言い換えよう――の一部、彼女という存在から引き離し難い生の一部になっているのが感じられる。そこに他者による共感はあっても、批判の入る余地はあるまい。

このように生に裏打ちされた表現は、強靭さを持っている。言葉遊びや、手法の目新しさや、そのほか人の目を惹きつけるためだけに特化されたヴァリエーションの種々なんかを超越し、存在しているように感じる。これこそが文学という感じがある。
あるいは、同書に掲載されている上田三四二(みよじ)の歌、
死はそこに抗ひがたく立つゆゑに生きてゐる一日(ひとひ)一日はいづみ
も、言葉の上澄みだけを浚うのではなく、作者の、歌人でもあり医師でもあるというプロフィールや、癌の宣告を受けたのち(ただし手術は成功したらしいが、昭和四十一年の癌宣告は死の宣告に近かったろう)に詠まれた歌ということを知れば、またこちらの態度も少しは引き締まるに違いない。
そしてそのことを妻に告げたときの歌、
たすからぬ病と知りしひと夜経てわれより妻の十年(ととせ)老いたり
は、ときに「死はそこに」の一首以上に、われわれの胸に迫るものがあるのではないか。


隣の席に「よっこらせ」と大仰にすわる人があった。年配の女性で、杖をついている。膝なり腰なり(あるいはその両方とも)がいかにも悪そうで、動作が緩慢になっている。一挙手一投足がたいへんそうだ。まだ注文はしていないらしく、テーブルの上にはなにもない。
その女性の着席からあまり時間を置かずに店員さんがやってきて、その女性にメニューを見せた。そして、「お会計はこちらで構いませんからね」とひとこと。彼女の足の具合を考えて、すべてテーブルで済ませてくれるということらしい。おお、なんというサービス!
ふつうスタバと言ったらカウンター会計で、註文を終えてからそれから席へ、という流れを客に求めるはずだ。それが、客の健康状態を勘案し、臨機応変に、しかも柔和な態度を添えて対応している。
見れば店員さんは、北陸美人とでもいうのだろうか、色白でほっそりとした黒のタートルネックの似合う女性で、その対応と同様に、非常にさっぱりとした清潔感のある方。彼女を思わず見つめてしまったこっちは、先刻ドロドロラーメンを食して、身体の内側からドロドロになっていたので、好対照であったろう。
しかしまあ、最後の最後まで、金沢の人たちは、そのほとんどが気持ちのよい人たちだった。

雪積もる凍へる土地を走り抜く電車に乗りたる吾も逸れる

サンダーバードに再び乗る。
 急いで撮影したのでブレているが、これはどうやら新型。
サンダーバード(新)
 僕はこれより、「行き」で乗った旧型のほうを恰好良く感じる(下はWikipediaにあった画像)。
サンダーバード(旧)

 石川は雪国という印象があり、かなりの寒さを覚悟していたのだが、結局それほど寒い思いをせずに済んだ。雪も、隣の福井が積雪何十cmであろうというのに対し、(たまたまの話なのかもしれないが)金沢では雪がほとんど残っていなかった。
よって、帰りの電車の窓から覗ける福井通過中の風景は雪国そのものであり、そこに僕は勝手な「異国情緒」を感じて、満足まで覚えてしまうのである。 
これは、自分の場合に置き換えてみれば「観光客がのんきなことを言っている」という状況なのだということは、容易に想像もつくのだが、観光客っていうのはそういうのんきさ・無神経さ・鈍感さでもって自ら異邦人となっているわけだから仕方ない。むしろ、ちょっと訪れただけで、「○○という土地の問題点はこれこれこうである」と断じてしまうほうがおそろしい。

雪の中を進む列車から外を撮影してみるのだが、どんどんと光量が落ちていくので、(ISOを上げるのは好きではないので)シャッタースピードが落ちていく。風景が残像を少し曳くくらいならまだいいのだが、だんだんとその像が伸びていき、抽象画のようになってしまい、撮影を諦める。ところへ限って、美しい夕景。まあいいさ。

紺青(こんじょう)へとはや今日の日が沈みゆく 車窓に映る吾(あ)は左利き

窓外が暗くなってくれば、自然、僕の顔が窓に映る。メモを取りつつ、「彼」は『現代秀歌』の「おわりに」部分を読んでいるらしい。

この「おわりに」 なのだが、十ページとかなり長い。というのもその半分は、最終章「病と死」を継ぐように、筆者永田和宏の実の妻であり、歌人でもあった河野裕子の病に対する筆者とその家族の苦悩に割かれている。
妻の河野裕子に乳がんが見つかったのは、二〇〇〇年の秋であった。すぐに手術。乳房の温存手術ということになったが、その後八年間の闘病期間を経て、二〇〇八年に転移が見つかる。二年間の抗がん剤治療ののち、二〇一〇年八月一二日、帰らぬ人となった。
 このときの一首を、筆者は「番外編」として挙げている。
一日が過ぎれば一日減ってゆくきみとの時間   もうすぐ夏至だ
ここらへんは非常にデリケートな部分なので、引用をつづける。
河野の病状が予断を許さないまでに悪くなっていったとき、私がいかに彼女を思っているかを、なんとか彼女自身に伝えたいと思うのは自然である。しかし、私が河野の死を思い、それを詠えば、当然河野がそれを見る。河野を思う歌を詠うことは、どうしてもその死を前提にした歌にならざるを得ない。先の一首なども、ある意味では、ほとんど挽歌と言ってもいい歌であろう。それを本人の目に触れさせるのはあまりにも残酷である。しかし、私の思いは知っておいてほしい。このどうしようもない葛藤。
 やはり僕は、上記文章になんの言葉も加えることはできない。本書に書かれた「事実」としては、子どもたち(同様にみな歌人) に相談し、賛同を受けた上で、歌は詠んだのである。ほかにはこのような歌もあったらしい。
歌は遺り歌に私は泣くだらういつか来る日のいつかを怖る
そして、筆者と河野との歌の応酬がいくつかつづく。河野も歌人として、最期まで歌を詠んだのだった。
死の前日、河野裕子の口を漏れた最後の歌は、次の一首であった。この一首を私が自分の手で書き写せたことを、誇りに思うのである。

手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が - 河野裕子『蝉声』
 この文章は、ここで終わる。


 そして僕のとりとめのない金沢旅行の記録も、ここで終わることにする。このあと、サンダーバードは大阪駅に着き、そこから御堂筋線でなんば駅に行き、ジュンク堂で永井陽子の歌集を探したのだが、あったのは「全集」のみで、価格の高さと、ご丁寧なパッケージングによって中身すら読めないという状況に打ちのめされ、そこからさらに二時間半ほどかけて自宅に帰って来たのだ。
本屋では、立ち読みついでに話題となっているらしい『その女アレックス』を購入し、三日で読んでしまったが、その感想は、また別の機会に書くとする。

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美術館と見紛う図書館<海みらい> 住所が「イ」なんてそんなのありかよ

夜は明けた。
外はどんより雲だったが、昨夜の天気予報では確実に雨になるということを知っていたので、別に落ち込まなかった。

まず、バスで大野という港のあるところに行ったのだが、漁港ってだいたいこういうものなのか、内側にくぼんだ湾が見えるだけで、港っぽさがあまり感じられなかった。
あまり海を知らない人間としては、霧笛が聞こえて、カモメだかウミネコだかがにゃあにゃあ言っていて、ついでに野良猫もみゃあみゃあ言っていて、小魚を天日干ししてある棚がずらっと並んでいて、膝丈まであるゴム長靴と重たそうなゴム製のエプロンをつけたおっさんが、市場用のキャップをかぶってなんだかこちらを疑り深い目で見ていて……ってそういう感じを想像していたのだが、カモメだかウミネコがちょこっといただけで、あとは中型(?)くらいの船がいくつか繋留してあるだけで、それ以外に港を匂わせるものもなかった。「におい」といえば、潮の臭いもそれほどなかった。
なお、ここらへんではいまでも醤油の醸造をしているらしく、醸造所がいくつか見られた。しょうゆソフトクリームなるものを販売しているところもあったのだが、時間が早すぎてまだ営業しておらず食べることはかなわなかった。
DP3M0613
ここに来る頃には雨はもう降り出していて、風も強かった。折り畳み傘は持ってきていたのだけれど、すぐにおちょこになってしまって用をなさなくなってしまったので写真を撮るのが非常に厳しく、けっきょくカメラをリュックにしまった。ついでに言うと、「傘がおちょこになる」ってなんか懐かしい言い方かも。

さて、ここにはとある博物館的なところ(わざとボカしております)があるのだが、辺鄙も辺鄙、大辺鄙な場所にあるので、ほとんど客はいなかった。いま、あらためて地図を見たら、「誰が来るんだ」っていう場所にある(公式ブログを見てみたら、おととしに来館70万人を達成しているみたい)。
ここにはいろいろなからくり細工が集められていて、それが一斉に展示されている。なかには、寄木細工やサイコロのパズルのように実際にいじって遊べるものがあり、ハマると時間が経つのを忘れてしまう。
僕は、大広間のいちばん手前にあったサイコロのパズルと三十分以上格闘していた。複雑な形の9ピースに分かれていて、 それをきちんと組み合わせると、一辺が30cmほどのサイコロ(けっこうデカイ)になるというのだが、ルービックキューブや知恵の輪がかなり苦手な僕は当然できず、リュックとカメラを地面に置いて、うんうん唸っていた。

ちょっと頭を休めるために、サイコロをそのままにしておいて、 隣の、そしてそのまた隣のパズルを試していき、「ああ、これくらいならできるや」とか「うーん、これはちょっと難しいかなあ」なんてひとりごとを言っていた。小学校の体育館くらいはある大きな部屋にそのとき三人しかいなかったので、そんなことが許されたのだが、そこへ、施設のスタッフであろうおばさんがでかい業務用の掃除機を持ってきて、フロアのカーペットを吸い込み始めた。
え、いまやるの?
こんなクソ暇そうな平日の雨の日に、たった三人しか客がいないっていうのに(むしろそれだから?)、いま、その「ブイーン!」ってクソうるさい掃除機をかまさなきゃいけないのかよ!
なんかガッカリした。
しかも、僕のやっている途中だったサイコロパズル(途中まで組立中)を、「ああ、きちんと片付けられないのかねえ」みたいな感じですべてバラバラにしてしまった。
たしかに、次のお客さんのヒントにならないよう、すべてバラバラにしてあげるっていうのは施設スタッフとして当然の行為なんだけど……な・ん・だ・け・ど、いま三人しかいないんだよ! 「次の客」なんてあと数時間くらいしかしないと来ないっていうのは、子どもでわかりそうなものなのに……。
DP3M0630
いじくれるパズルだけでなく、こんなふうな昔のゼンマイ仕掛けなんかも展示してある。古いものらしいが、これを撮影しながらも、頭の中には、あくまでも淡々と仕事をこなしていくスタッフのおばちゃんの振る舞いのことしかなかった。
DP3M0622

とはいえ、思いのほかたのしめた(たのしみすぎてしまった)ので、乗らなきゃいけないバスの時間が迫っていることに気づいて慌てて帰ることになった。その際に、出口そばにのぞきからくりの装置があったので、ちょこっとだけ覗いた。これがあの、落語『くしゃみ講釈』に出てくるのぞきからくりなのねえ、とちょこっと感動。
感動を覚えたついでに便意も覚えたので、施設内のきれいそうなトイレへ。これはさっきたまたま知ったのだが、僕が行った二週間ほど前に洋式トイレに改修したばかりらしく道理でたいへんきれいだった。そのたいへんきれいなトイレを、たいへん気持ちよく使っていたのだが……。
バダン! と大きな音を立てて誰かがトイレに入ってきたらしい。その音にちょっとびっくりする。誰だろう?
すると、隣の個室のドアが開いた音がして、次いで、キュッと蛇口をひねる音のあとにシャーっと水が勢いよく出る音。ジャブジャブジャブジャブ。
たぶん便所掃除用のモップを洗い出したんだ……ってことは、十中八九さっきのおばさんだ。おいおいおい、きょうは死ぬほど便所掃除する時間があるだろうっていうのに、選りに選って僕が用を足しているときに、その隣で思いっきりモップの洗浄ですか。きょうみたいに客の少ない日だったら、もうちょっとタイミングを考えてもいいんじゃないですかねえ……。

おかげでってわけじゃないけれどバスには乗り遅れた。せっかくだから全然観光地ではないところを、とバスの停留所づたいに一時間ほど歩いた。 金石(これで「かないわ」って読むみたい)という停留所が少し大きなところだったので、そこであらためてバスを待つことにした。時間がまだあったので、あの天下一品という有名なラーメン屋を見つけ、入って食べたのだが……あれ、すごいね。よせばいいのに「あっさり」じゃなくて「こってり」を頼んだら、スープが半固体だった。食べながら体中の血管が詰まっていくイメージ。
熱狂的に好きな人がいるからこそ、あんなに大きく展開しているのだろうけれど、ワタクシはあと半世紀は食べなくていいです。

停留所に戻り、バスに乗った。
これは本当は帰りのバスではなくて行きのバスで気づいたことなのだが、国道のそばに大きな美術館があって、それが見えたのは一瞬だったがずいぶんきれいな建物だと思った。
それでさっきそれをネットで調べてみたら、なんと図書館(下はWikipediaの写真)だった。
1024px-Umimirai_Library
「金沢海みらい図書館」というらしい。それはいいのだけれど、住所を見て、「ん?」と思った。
石川県金沢市寺中町イ1番地1
「イ」ってなんじゃ?
 結論から言うと、「イロハニホヘト」の「イ」のようで、ネット情報では、石川県にはそういう地名が多いとのことだった。
七尾市役所: 七尾市袖ヶ江町部25
加賀市役所: 加賀市大聖寺南町41
JR森本駅: 金沢市弥勒町61-2
これもネット情報(いまでもこれっぽい)なのだが、上記赤字で示したものも、「イ」だから気づけるようなものを、「ニ」は「二」と間違ってしまうし、「ロ」も「口」と間違えたって仕方ないだろう。両方とも後者が「(漢字の)に」と「くち」ね。
それにしても、地名っていろいろありますなあ(それが結論?)。きょうはここまで。

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石川は竜頭に似たり 和歌山は膨らみゐたるチリ国なりしか

21世紀美術館ではなく、県立美術館そばのカフェで一服したのち、わりと近い場所にあった鈴木大拙館に文字通り駆けて行った。入館リミットである午後四時半に近かった。
鈴木大拙については、ほとんど知らない。そしてこの施設に来たのは、大拙に対して理解を深めるというよりは建築を見たかったから。エフェクトをかけているけれど、だいたいこんな感じ。
    
鈴木大拙館
鈴木大拙館
鈴木大拙館
鈴木大拙館

 それから長町武家屋敷跡という場所に寄って、ここで土塀にかけられた筵(たしかこれも、雪に寄る劣化を防ぐためだったはず)や、やはり松の雪吊りをさっと眺めた。
雪吊り

とにかくまあ金沢というところは、都市部なのに歴史的な面影を残しているところがそこかしこに残っている。このときの僕は金沢に着いてから七時間ほど経っていたので、もはや「ふうん、これも(雪吊り)かあ」くらいの感動しか残っていなかったけれど(かなり歩きつづけていたので、そちらの疲労も少し出てきていた)、実際はものすごくいいところだった。

さて、このあともまだある。尾山神社という、なぜかステンドグラスの嵌められた建物のある神社へ。
尾山神社
ここでおみじくを引いたら、大吉。信心なんてこれっぽっちもない僕としては、大吉であろうと大凶であろうと、あとから「ああ、やっぱり!」と思ったことがないのでやらなくてもいいんだけどね。
門のところにあったこの彫刻は、たぶん前田家の紋。いい仕事してますねえ。
尾山神社

ここから昼に行ったひがし茶屋街を再び訪れ、夜の花街を闊歩してみるが、開店休業状態なのか、それともみながひそやかに遊びに興じているのか、人通りもほとんどなく、夕方六時という時間を考えるとやや寂しい。
 
浅野川
ここでようやくバスに乗ろうと停留所に行くと、どうやら自由券が使える巡回バスはもう終わってしまったようだった。
うーむ、自由券は使えないJRのバスなら回ってくるんだけど、ここで金を払うのもなんだかもったいないなあと時刻表のまえで首を傾げていると、そこで待っていたおそらく地元の女性の方が、「どこまで行くんですか?」と声をかけてきてくれて、金沢駅まで、と応えると、いまから来るバスは金沢駅へ行くことは行くんだけど、だいぶ迂回するので時間がかかりますよ、と丁寧に教えてくれた。歩いて行ったらどれくらいになります、と訊いたら、二十分ほどと教えてくれたので、それなら歩きます、ありがとうございました、とお礼をして歩くことにした。 
朝のバスの運転手(それもたったひとり)以外 は、本当に親切な方が多くて、町全体でお客さんを歓迎しようという姿勢が見て取れた。いや、そういう商売根性によるものではなくて、ごく自然な親切心の発露なんだろうな。こういうのは、ほんとうに嬉しい。

てえことで、元江戸ッ子はてくてくと歩を進めて金沢駅を目指した。ここらへんは朝から何度もバスで回ったり歩いていたりしたうえに、道もごく単純なので、きょう一日の総仕上げとばかりに歩きに歩いた。
途中、疲れた場所もあるにはあったが、歩いた距離に比すれば意外に疲れていなかった。後日談になるが、この日、「きっと数日してから筋肉痛が起こるのだろう」と覚悟はしていたのだが、それはついに起こらなかった。これがたいへん不思議。普段から歩いているわけでも運動しているわけでもないのにねえ。

金沢駅
金沢駅に着くと、さらに周りをうろちょろしてライトアップされた「鼓門」を見上げたり写真を撮ったりしてたのしんだ。
それから近くで適当にそば屋を見つけて夕食を済ませ(ここがけっこう安くおいしかった)、外資系のホテル(といっても安いやつ)にチェックインした。ひとり2800円の部屋だったが、なぜか当日になって、「同じ金額でひとつグレードがうえのお部屋にご案内します」と言われ、なんだか知らないがラッキー。ああ、これが大吉ね。あと、昼のランチもか。

部屋のテレビで天気予報を確認していると、予報図の範囲がいつも見慣れている関西地方と異なっていて(当然のことだが)、それが新鮮だった。
こうやってみると、石川県の形ってだいぶ変わっていて、恐竜の頭みたいだと思った。
ishikawa

きっと上(能登地方?)と下(加賀地方?)とでは、言葉とか習慣とか、いろいろと大違いなのだろう。金沢は中心地にあって海に面してはいないけれど、能登半島はなんだか気象的にもハードそう。
そんなこといったら、和歌山だって、南北に無駄に長くて、紀北と紀南じゃ全然べつものだからね。
かつてテレビで観たカクスコという劇団の最終公演で、和歌山出身である中村育二(いまでもいろんなところで活躍している)が「日本のカリフォルニア」と紹介し、周りのメンバーに「クジラとみかんしかないくせに!」とツッコまれると、「ふたつもあれば充分だろ!」と言い返していたのを思い出すが、それは紀南の話で、紀北はけっこう寒いところもあるよ。高野山にはスキー場もかつてあったみたいだし(いまもあるのかな?)。

そんなわけで、ようやく一日目が終わったのだった。二日目はたいしことないので、やっと終りが見えてきた。

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金沢で永井陽子の歌を知る 都会の景は孤独を容れず

年末に数十冊にもなる積読本(文字通り積んでいた)をいいかげん片づけようと大鉈を振るったら、そのとき読んでいた永田和宏『現代秀歌』がどこかへ行ってしまい、ひと月ほど行方不明になっていた。
それが、旅行の直前に発見することができ(片付けの際に「これはあとで読むから」と一時的に雑誌類の棚に置いていたために何度探しても見つからなかったのだ)、喜んでリュックサックに詰め込んだ。


しかしそれにしても、短歌というのはものすごく奥が深いということをこの本によって知ることができてたいへんありがたく思っている。
たとえば先月の十七日は阪神淡路大震災発生から二十年ということで記念式典が行われていたが、1999年(震災から四年後)にこのように詠んでいる人がいた。
居合はせし居合はせざりしことつひに天運にして居合はせし人よ
竹山広という作者は、昭和二十年八月九日、長崎で被爆し、兄を失っている。そのときのことを詠うまでに四半世紀の時間を必要としたらしい。
人に語ることならねども混葬の火中にひらきゆきしてのひら
また別の歌集では、
一分ときめてぬか俯す黙禱の「終り」といへばみな終るなり
とも詠んでいる。前者には「人に語ることならねども」という部分に、その情景を見ざるを得なかった「居合はせし人」として抱えた重さがあり、後者には、「居合はせざりし」人であるわれわれの心根を見透かすような鋭さがある。
ちょうど二十年式典時には各局が一斉に報道し、「被災者」たちのいまだ復興を見ない現状について丁寧にレポートがなされていた(もしかしたらそれは関西ローカル局であるから余計にそうであったかもしれない)が、十七日を過ぎれば、阪神淡路大震災のことを忘れてしまう人がほとんどだったのだと思う。そのようにしてしか生きてゆかざるを得ないのが人間だとも思うのだが、そういう「仕方ないか」という自身への甘えを、「けれどもほんとうにそうか?」という問いが明らかにする。これも歌なのである。


この中で、永井陽子という歌人の名前を知った。「旅」という章で、
ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり
という歌で紹介されていたが、僕個人はこのあとに掲載された三首、
ここに来てゐることを知る者もなし雨の赤穂ににはとり三羽
死ぬまへに留守番電話にするべしとなにゆゑおもふ雨の降る夜は
父を見送り母を見送りこの世にはだあれもゐないながき夏至の日
に非常な衝撃を受けた。
紹介者の永田和宏によれば、彼女は四十八歳という年齢で自ら命を絶ったという。その報を受けて、驚きはあったものの「なぜ」という問いが浮かばなかった、と永田は書いている。
私たちがそれまでの彼女の歌にある、しんとした寂しさ、どう救いようもない孤独の影を強く受け止めていたからだろうと思う。
(167p)
このあと永田は、「赤穂」の歌を取り上げてこう書く。
圧倒的な寂しさのなかで、早くから自らが死ぬ日のことを思い続けてきたのだろうと今からは思われる。人間は、たった一人でいいから、自分のことを見ていてくれる人がありさえすれば、それだけで生きてゆけるものである。永井陽子の歌に注目していた仲間は多くあったはずだが、それを実感できないままに独りの思いのなかに逝ってしまったことを、寂しく思わないでいられない。
(168p)
永井陽子の持っていた孤独は彼女のものであり、そしてときに孤独は誇りともなるので、それを周りの人たちはどうこうすることはできなかったのだろう。それが現代的な人間同士の距離感という気がする。
けれども永田はそこから一歩だけ踏み込み、人間の生きがいについてまで、あえて書いている。見方によってはかなり青臭いことなのかもしれないが、そう書いてまでも永井の死を悼み、そして悔しがっている。僕にはこの書き方が、「なぜ死んでしまったのか!」というワイドショー向けの追悼の仕方よりよほど心打たれた。

ちょうどこの部分を読み終えて、僕は特急サンダーバードを降りたのだった。


現在では、インターネットというものがわれわれの孤独というものを(そう望むのであれば)取り払ってくれている。たとえひとりで旅行をしようとも、スマホで写真を撮り、それをツイッターやフェイスブックやインスタグラムに投稿すれば、「いいね」してもらうこともできる。AppleのCMのように、「遠くにいてもつながっている」という感覚を望めば、それに近いものが得られるのかもしれない。
けれども僕はその一方で、誰にも読まれる予定のない手帳や日記というものの方を愛する。このようなオープン状態のブログを書いていながらよく言うよと自分で思わないでもないのだが、だからこそ、なのかもしれない。
にぎやかで、みんながハッピーで仲良しのような空間には、永井の歌は生まれなかっただろう。それでは、そういう場所なら彼女のような人間も幸せに生きられたのだろうか。
うまく説明はできないが、僕はそうではないだろうと思う。そもそも永井陽子が不幸だったということは誰にも言えないことであるし、それに、いつの場合も静かな場所を好む人間もいるのだ。

金沢は非常ににぎやかなところに感じられた。
新幹線が開通し、これからいろいろと人がやってきて経済が動くということを多くの人が期待しているらしい。それはそれでいいことだ。ぜひそうなればいいと思う。
けれども、(これは比喩として言うのだが)すべての場所に照明が灯って、陰がまったくなくなってしまうような世の中を僕は望んでいない。
そして、大勢の人間が集まっている場所へあえて背を向けるような人間にとって居心地のよい場所が、これ以上消えてしまわないことを望む。


このように考えたことも、僕の金沢旅行の一部なので、ここに記しておく。

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偽物の水底覗く歯並びの悪(わろ)き女の笑み忘れえず

さて、腹ごしらえが終わったので、金沢21世紀美術館を訪ねる。
僕の中ではここは『ロン・ミュエック展』のあったところという印象が強い。調べたらもう七年も前のことで、当時はこの展示を見に行きたくて仕方なかったのだが、そこまでの行動力があるわけもなく、「行きたいなあ」のままで終わった。
そういう「行きたくて仕方のなかった場所」なのでけっこう期待したのだが……なんつうかイマイチであった。

詳しくはよくわからないのだが、この施設は有料のスペースと無料のスペースがあって、、かの有名なプール(後述)については、上から覗くのは無料だけれど、下に行くには有料とかいう設定だった気がする。ちょっとめんどくさい。
特別展示は、日本の建築を特集していた。戦後から2010年までの建築を扱ったものと、2011年以降の建築とが別展示で、料金が別々にとられる。セット料金もあったのだが、そこまで観たい内容ではなかったので、「2011年以降」を選択。
2011年というのはもちろん震災の年であって、あの震災を経て建築がどう変ったのかということを扱っているようだったのだが、堂々と銘打つほどのことをやっているのか、というのが展示を観た門外漢の僕の印象。
みんなの家」というプロジェクトがあったらしく、これは説明書きを読んだところでは「ああ、こういうのはいいかもね」という感想を持ったが、衝撃というほどではなかった。
そもそも僕は、建築というものは、利用者の利便性を差し置いて建築家の自己顕示欲の発表の場みたいになっていることが多いんじゃないのという偏見(特に公共施設などにおいて)を持っているので、どうしても反撥心を持ってしまうのだ。
震災だけでなく、災害時の建築といえばあの人……と思い出していた坂茂の特集もあって、これには納得。とはいえこの人は、2011年以前から紙管をつかった建築を世界中で実践していて、そのことは数年前の『情熱大陸』で知っていた。
あとは……申し訳ないけれど、たいしたことねーなーとしか思えなかった。こちらの知識不足は相当あったとしても。

で、例の『レアンドロのプール』に行った。
はじめに下側(階段で一回分降りなければならない)に行ったのだが、その日は撮影取材が入っているだかでやたらと混んでいた。もともとこの美術館じたいがやけに混んでいて、外国人旅行客やあまり似つかわしくない感じの女子大生グループ(似つかわしくないでいえば僕も同類なんだけど)なんかがそこらへんをうろちょろしていて、猥雑だった。
プールは、いわばこの美術館のメインなわけだから当然人が集まる。そこでなんで撮影するんだよ。もっと早い時間にやってきて撮れよ、とぶつぶつ思いながら入り口で待つもののなかなか終わる気配がないので、いったん上に行く。上に行くときは、係員の人に「すみません、再入場するときは半券を提示してくださいね」と言われる。そういうシステムで、係員の人にはなんの罪もないのだけれど、面倒だなあと思う。

そしてやっとプールの上から覗き込むと……まあ、いままで写真や映像で観たとおりですわな。
プール(下)
 
ふーんという感じで、それから下部分に再度挑戦。当然、入り口で半券を再提示。
今度こそは入れるだろうと思ったら、まだ撮影してやがんの。いったいどれだけやっているんだよ、とムカムカと思っていたら、下側部分の入り口そばに待機している係員の人が、僕が二回目にやってきたのに気づいて、「あ、どうぞどうぞ。入れますので」と申し訳なさそうに言うので、気を遣わせては申し訳ないので我慢して入る。
中は思った以上に狭い。ほんとは、プールの底にあたる部分の写真を撮りたかったのだけれど、結局一隅を撮影隊が占領してしまっていたので、なんとなくそちらのほうを見ないようにしなくちゃならず、やっぱり腹が立つ。くわえて、これだけ長ったらしく撮影するなんて、どれだけかわいい子を写してるんだよと思ってモデルさんの顔を見ると、「ええ~!?」と叫びたくなった。なんじゃい、こんなどこにでもいるような子をだらだらと撮影しとんのかい! そんなんだったら、さっき僕の隣で同じように中に入るのを待っていた美大生っぽい女の子のほうがよっぽどかわいかったわ!
ますます腹が立ってきたので、プールの「水面」部分をさっと撮影しておしまい。
プール(上)



ほかにも、いろいろと展示物はあったが、前述したようになーんかイマイチでやんした。美術というよりはアートって感じ。ハイカルチャーというよりはサブカルチャーのノリっていうのか。たまたまだったのかな。でっかい穴のやつは面白かったけれど、「けれど……」なんだよな。なんつうかその先があるようでない気がしちゃう。リンク先の解説には、
私たちの知覚を揺さぶり、深い思考へと誘う作品
とあって、美術評論家の人なんかは「深い思考へと誘」われてしまうかもしれないけれど、僕なんかは作意がなんとなく直観されてしまい、それ以上の動かされるものはなかった。でもまあ、面白いとは思ったけど。

まあ、前の記事に書いたランチ(時系列で言って、この美術館の直前になる)のほうがよっぽど感激があったのだ。味だけでなく、おやじさんの人間やその出会いも含めて。
展示されているものの多くはいくら体感型だったとはいえやっぱり静的であって、「人と話す」とか「ごはんを食べる」っていうダイナミックな行為がそれらを上回ることあるっていうのは当然のことなんだろうな。


このあと、県立美術館そばにある有名なカフェで一休み。それはそれでいいのだけれど、ここでお茶受けとしてでてきたお菓子がオリジナルの「YUKIZURI」というものだった。
ほっほー、「行きずり」たぁ大胆な名前をつけたもんだなあ。「ゆきずりの縁」とか「ゆきずりの恋」とかそういう言葉しか浮かばないけれど……いや、たしかにここのパティシエは大胆な感じだから、「旅行中に人と人が出会うように、あるいは、人と人とが恋に落ちるように、このお菓子で縁を感じてほしい」なんていうコンセプトなのかも、と勝手に解釈していたら、会計時にそのお菓子の広告に「雪吊り」の写真があって、「ああ、そっちのことなのね!」と思った。
でもさあ、それだったら、「YUKIDSURI」じゃないの? 「ゆきづり」と「ゆきずり」は別もんだと思うんだけどね。


きょうはここまで。なお、冒頭に書いた短歌は実景で、レアンドロのプールの上のところで、下にいる友だちに向かって笑っている女の子の口から八重歯が覗いて、「ああ、いまどき八重歯かぁ。いいねえ。実に懐かしいなあ」と思ったことは憶えているのだが、どんな顔をしているのかは結局忘れてしまいました。「忘れえず」とメモしてあったのですが。

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はやくも三回目。
で、ひがし茶屋街を出てから再びバスに乗って今度は兼六園へ向かった。
バスはこんな感じ。かわいいでしょ(どうでもいいことだけれど、ワタクシ、意外と「かわいい」を連発する男なんだよな。けっこうみっともない)。
レトロバス
金沢市内では、通常の路線バスだけでなく、周遊しているものもある、ということを前々回の記事に書いたが、そのほかにこんなレトロなタイプのバスも時たま走っている。自由券を持っていればフリーで乗れるのでなんだか得した気分だった。

赤松の幹の鱗や兼六園

さて。兼六園は有名なところだが、実になんというか、時期的に言えば完全にオフで、「散策コース」という感想を出るものではなかった。
とはいえ、松はやはり見事。見事なのだが、雪がないと、なんとなく物足りないのである。
GR000379
雪吊りもしてあったが、率直なところを言えば、たいへんな仕事であり、実用の美というものが感じられるものの、「うわあすごい」というところまでいかなかった。
GR000394
お客さんもそれほど多くはなく、歩いていて気持ちはよかったので、特別な期待をせず、肩の力を抜いて訪れればいい場所だと思った。僕のなかでは、新宿の御苑とか京都御所なんかに近い感じ。

まあとにかく、至るところに松があって、個性豊か。
GR000396
たとえばこいつ(↑)なんかは、直立せず、にゅにゅにゅにゅにゅと脇に伸びて行ってしまい、自立できないのである。それゆえ、僕はこれを「ニート」と名づけた。「ニート」と言ったって、その幹に近づいてみるとまことに立派で、ほれぼれする。
GR000397

ひととおり歩き回り、それからおとなりの金沢城にも足を伸ばし(これがものすごく広い!)、やっと昼食。12時に食べるつもりが、2時半を回ってしまった。

店に着いてみると、3時までは営業しているはずだが、「準備中」の札が。
「ああ、閉まっちゃった」とつぶやいて、さてこれからどこを探そうと思っていると、その店の脇で缶コーヒー飲んでいたおっさんが笑いながらなにか言った。
「え?」
 はじめは酔っぱらいかなにかだと思ったので、適当に流してその場を離れようと思ったのだが、よくよく聞くと、その店の人間らしい。「閉めたけど、いいよ。つくるよ」
ああよかった、と店の扉を開けつつも、半分くらいは「あのおっさんはほんとうの酔っぱらいで、適当な冗談を言っただけじゃないか」という疑念が拭えなかった。
 
結果から言えば、コーヒー飲んでにたにた笑っていたおっさんは店主であり、料理人であった。 ものすごく忙しかったのできょうはもう早じまいしようと看板を出して、コーヒーを飲んで休憩してところへ僕らが来て、それが「ものすごく食べたいなあ」という表情に見えたので、入っていいよ、ということになったのである。
繁盛店というのは本当のことらしく、いわゆる「行列のできるお店」のようだ。ふだんの僕なら、こういう店自慢は受けつけないタイプなのだが、今年のモットーは「馬には乗ってみよ、人には沿うてみよ」だし、それに都会ではない、田舎(と言うには金沢はじゅうぶん都会なのだが)の人の「お国自慢」だと思えばまったく悪い気がしない。
話し好きの店主の嫌味のない自慢をたのしく聴いていたら、相手も興が乗ったのか、「よおし、サービスしたるわ」と次々と刺し身を切っていく。こういう発言を話半分、リップサービスだろうと聴いてしまう癖があるのだが、たしかに大盛りというか特盛りの様相。大トロ、いくら、クジラ、ウニ、タイ、イワシ……豪華すぎ。
味もびっくり。大トロってほんとうにとろけるように甘いし、ウニも甘いし食べやすい(実はウニってあまり好きではないのだが、これはおいしく食べられた)。
これからの人生、たぶんこのときに食べた刺し身がいちばんおいしかったということを言いつづけていくことになるんだろうと思う。それくらいうまかった!
他の刺し身もものすごくおいしくて食べることに集中したいのだが、おやっさんの会話も止まらず、痛し痒し。しかしそのおかげでその店の開店した経緯とか、そのおやっさんの経歴、そして息子さんがいまなにをやっているか(プロスポーツ選手)までも教えてくれて、これまた充実した時間。
くわえて、一泊二日の金沢旅行中に話した人たちのうち、このときのおやっさんだけが金沢弁をしゃべる人だったということは特記しておきたい。「ほうや~(≒そうだよ~)」くらいしか憶えていないけれど、福井弁のニュアンスと似た実にいい言葉だった。
きょうはここまで。


※読んでいる方へ:
この記事には、一文字だけ、読むと「ん?」と思える文字を入れているけれど、 誤植ではない。その一文字でだいたいのところを察してもらえればありがたい。

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ひっじょーに、書きづらいのでなかなか更新しようという意欲が湧かない。単なる「慣れ」の問題かな。
(たぶんHTML関係を完全にスルーしてしまえば、ストレスはそれほどたまらないと思う)


曇り日の小松駅前の大広場 巨大重機が獣坐してをり

前回の記事にちらと書いたように小松という駅があったのだが、駅前にものすごく大きなトラックがあって、それが特急の車窓から見えた。
どれくらい大きいかというと、なにも知らないでぼんやり外を眺めていると 「うぉっ」と声を出してしまうくらいである。
有名なのだろうとさきほど調べてみると、やっぱりあった。930Eという世界最大級のダンプトラックらしい。
上記サイトにあった記述では、小学生を7,400人載せることができるということで、なんというか、実物を見たことのない人であれば想像もつかないと思う。
その巨大重機に描かれていたロゴを見て、「あ、小松って、あの建機なんかのKOMATSUのことか!」と気づいた。
そうこうしているうちに、列車は金沢へ。

モノクロのお茶屋に住まふ布袋さん

金沢駅に着く。
金沢駅
ちかぢか新幹線が開通するせいか、はたまたもともとそうなのか、金沢駅は近代的で、京都駅を思わせる。
駅前で北陸鉄道という会社のバス自由券を購入。500円で、同社のバスであれば自由に乗り降りできる。同社は、路線バスだけでなく、観光用の周遊バスなども走らせており、利用すればわりとアクセスが容易になる。
ところが、はじめに乗ったバスの運転手が最悪だった。停留所に停車中、観光客である年寄りがバスの外から「○○へ行きますか?」と尋ねると、無愛想に「行きますよっ、乗って」と半分命令形。それを見た瞬間、「ああ、イヤだなあ」と思った。運転手の年齢は四十前後。名前はフルネームで覚えた。S下。
三月から新幹線が開通し、観光客をもっと呼び込もうという矢先にこの程度の接客を見せられると、うんざりしてしまった。接客とかおもてなしとか言う前に、最低限のマナーができていないのだ。
そりゃおまえは毎日ここを何十回とぐるぐる回っているんだろうけれど、観光客はどのバスがどこへ行くかなんて簡単にわかるわけがないのだ。ましてや、年寄り。自分の親くらいの年齢の人間に対して、「はい、乗って!」はないだろうよ。
もちろん、丁寧語を遣わなくても気持ちが伝われば「はい乗って」でもよい。しかしその男の遣ったのは、苛立ちをただぶつけるだけの「乗って!」で、不愉快極まりなかった。
なお、同社の名誉のために書いておくが、このあと、五、六回は同社のバスに乗ったが、他の運転手の方々はみな本当に愛想がよかった。なので、S下を例外と見るべきなのだろう。北鉄さんは、こいつをクビにしたほうがいいと思うよ、ほんと。金沢の印象がめちゃくちゃ悪くなると思う。

さて、金沢というところは、たしか小京都という渾名があったと思うのだが、川が走っていて、そこへ橋が架かっているところなんかを眺めると容易に鴨川が浮かぶ。
ひがし茶屋街というところへ行き、建築された1820年当時のままに保存されているという建物を訪う。これがよかった。
入館料を払うと、建造物のために必要な荷物以外はロッカーにしまってほしい、という。はじめは「変なの」と思ったが、狭い梯子を登って行くと、なるほどその理由がわかる。たしかに建物全体が古く、一歩一歩あるくたびにぎしぎし言うのだ。そのために、少しでも傷がつかないよう、あるいは建物に負担をかけないようになるべく荷物を持たないでもらう、という配慮だった。
建物内部は薄暗いので、多くの写真はモノクロで撮影した。
志摩1
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志摩5
こういう場所は、落語を聴くときにものすごく参考になるので、観ていて飽きない。説明書きもところどころに置いてあって、ひとつひとつ「なるほど」とうなづきながら見て回る。
ところが、だ。
黒い服を着たおっさんが来て、「こんにちは」と挨拶してくる。イヤな予感。
いきなり、「はい、説明しますからね。こちらに集まってください」と有無を言わさずに、そのフロアにいた客を呼び集める。いや、頼んでいないんですけど。
無視してやろうかと思って距離を置いていたら、「どうぞ? そちらの方も。……はい、そちらの方です」とこちらをご指名。仕方ない。
そしてそのおっさんの説明したことは、意外や意外、どこにも書かれていない豆知識ばかりで「一聞の価値あり」だったのだ……なんてことはまったくなく、全部説明書きのところに書いてあることばかりだった!

こういうところに必ずうろちょろしている「説明してあげる星人」 。わたくし、文盲ではないので、文字がいろいろと読めるんだけど、星人にとっては、われわれはみなよだれを垂らしながら歩き回っている白痴のようなもので、「いちいち説明してやらないとわからない連中」なのだろう。

つまらない時間が終わり、そのおっさんがいなくなってから、また細部を見てたのしむ。たとえば、茶屋は基本的には仕出しを頼んでいたので、煮炊きをすることは少なかった、とか。
当時としては、ものすごい贅沢なつくりになっているらしく、それは観ていてもわかる。
入館したときに 抹茶&生菓子セットの券も購入したので、別室の茶室に入ると……これが予想外に豪華!
豪華っていうのは、茶菓子や抹茶が、ということではなく、建物が、ということ。
あとから聞くと、当時のお茶屋での遊びは、一晩で(現在価値に直すと)だいたい数十万円したそうな。つまり、そのくらいをぽんと払える財力とそれなりの地位がなければ、そんな茶室なんて入れなかったわけで、そういう部屋に数百円で入れるというのが豪華だ、とこういうわけ。
志摩6

志摩7
志摩8

あと、単純に建物としても一見の価値あり。写真では見えないのだが、カウンターの下は掘りごたつのようになっていて、足の接地面が暖かくなっており、ものすごく居心地がよい。
生菓子は「うわー、おいしい!」というふりをして食べたが、やっぱりあんこは苦手だったので、なかなか食べきれなかった。
 
建物を出るという段に、入り口にいた案内役の女性が話しかけてくれて、いろいろと説明をしてくれたが、今度はこれがものすごくわかりやすく丁寧で、その理由を考えるに、
  1. その女性がきれいな方だった
  2. その女性がつねににこにこしていて感じがよかった
  3. 「~ということらしいですよ」とあくまでも伝聞の形をとり、視点を入館者と同位置にしている
の三点が挙げられる。
1. と2. は本来は非常に大事なことなのだが、いったん脇に置いておくとして、やっぱり3. の「視点の高さを合わせる」ということが重要なのだと思う。
彼らの知っている知識・エピソード等は、実はすべての入館者が知りたいわけでもない。別にどうでもいいわい、そんなことより写真が取れればええんや、という人もなかにはいよう。そういう人たちを責めることはできまい。
「せっかくだから教えてあげたい」というのは彼らの親切心なのではあるけれど、しかしそれを「どうせ相手も聞きたいだろうし」と思い込んではいけないということだ。
また、自分の体験していない過去のことを、さも目の当たりにしたような表現をする人間はまず信用しなくてよい。であるから、伝聞表現は非常に大事で、たしかにすべての語尾を「~だそうですよ」「~らしいですよ」とすると、やや煩わしいところもあるのだが、そこらへんは臨機応援に、断定調とうまくミックスさせればいい。

まあ結局は、きれいな女性がにこにこと優しく説明してくれれば僕の場合は悪い気はせず、それがいわゆる「上から目線」のおっさんよりは数百倍感じがよかった、というだけなのかもしれないが。
いづれにせよ、総合的に言って、ここの建物は非常によかった。まさしく、けっこうなお点前でございました。
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きょうはここまで(まずい、たいした中身を書いていないのに全然進まないぞ)。 

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