とはいえ、わからないでもない

カテゴリ: 読書

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なんだかトースターのタイマーがやけに長く感じられたので、キッチンタイマーをつかって計測してみたら、トースターの10分が、実時間では12分だということを知った。

さて。この時期になるとこんな過疎ブログへのアクセスがやや増える傾向にある、ということは毎年言っていることかもしれないけれど、たったきのう、自分のブログのURLがdoroteki2.blog.jpではなくて、doteki2.blog.jpであることに気づいたという、つまり自分のURLを決定するときに誤タイプしてしまい、かつ数年ものあいだそれに気づかないままでいた程度のブログになぜアクセスが増えるのかというと、おそらく宿題かなにかになっているのであろう読書感想文をつくるためのコピペや参照元としてネットを渉猟するアホどもが大発生し、そのサーチに当ブログもすこし引っかかってしまった、というのがその原因だと僕は見ている。
まあ、「○○(書名) 感想」みたいな感じで検索し、ダイレクトにそのページにアクセスするものだろうからこの記事を読むはずもないのだが、せめてもの抵抗で当記事に「読書」のタグをつけておいたので、「うーん、ほかにないかなあ」と探した人間の目に引っかかれば僕の試みの半分は成功だ。

こういうとき、「いやまあ、そういう読書感想文みたいなものは、他人のコピペなんかをするんじゃなくてね、自分で読書して、自分の頭で考えて、自分で書いたほうがいいよ、そのほうが身のためだよ」みたいな注意をする人は少なくないのではないかと思うが、僕はそういう言い方は嫌いだ。「身のため」の心配をするというのは、前述の大量発生しているアホどもに寄り添い、親身になってやるということじゃないか。そんな大海原みたいな心の持ち主なんかじゃないんじゃ、こちとら。はっきりと、「そういうコピペするやつら、一生苦労しろ!」って言ったほうがはるかにマシ。
でも、実際のところは、そういう括弧つきの「要領のいいやつ」ってのは社会的にもうまく行ったりする輩が多いんだと思う。そりゃそうだろう、抜け目がないため効率的なやり方を見つけるのが誰よりも早く、バレなければ規定外のことも簡単にやってのけるという胆力と実行力も持っている。人格がどうのこうのと陰口を叩くやつもいるかもしれないが、そんなのはしょせん負け犬の僻み。勝てば官軍、負ければ宦官。人生、勝ったもん勝ちですよ。
その結果、上司のお覚えめでたいてなことになる。
「おまえ、同期の連中より頭ひとつ抜けてるな」
「あざーす!」
「よし、会社はおまえを高度にプロフェッショナルな人材として認定することにしよう」
「あざーす!」

数ヶ月後。

ああ、つらい。電車。連れてかれる先は地獄だってのに、地獄でしかないってのに、待ってる。終わらない仕事がたくさんあって。ずーっと、ずーっと、ずーっと、目の前にはなんかある。塊。大量の。仕事の山。やらなきゃいけない、山。動かせない。消えない。なくならない。なくせない。ずーっと、そこには山。休めない。とてもじゃないけど、休めない。休日なんて、連休なんて、あったんだなあ。はは。考えられない。なにしてたっけ。2日も休んで、なにしてたんだっけおれ? ああ、つらい。もう足を前に動かせない。電車に乗りたくない。会社に着いちゃうから。そうだ、飛び込んじゃおうか。電車にぶつかっちゃえば、会社に行かなくてすむ。寝れる。かなり寝れる。もう死んでもいい。死んだらラクだ。死んだら寝れる。怒られないまま、寝れる。気にせず、寝れるんだから……。ああ、やってきた。もうほんとうにそうしてしまおうか。一歩。どうせ足を出すなら、ラクなほうへ……。
ああ……いったい、どこでどうなって、こうなっちゃったのかなあ……。

それが、このページの呪いだ!
こうならないうちに、改悛するのだ。おまえの、合理化や効率化の行く先は、実はたいしたことじゃない。どころか、おまえの寿命を縮めることだってある。だいじょうぶ、人生はやり直せる。おれだって、むかし過ちを犯した。そのために、ものすごく重い呪いがかけられ、しかもそれはいまだに解かれていない。その呪いのためにおれは、2分余計に焦げたトーストを毎日喰っているのだ。

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きょう、火星が地球に大接近するのだとか。といわれても、天文ファンでない僕にはちょっとピンとこない。
ともあれ、ブラッドベリの『火星年代記』を読み直すにはふさわしい夜。このクソ暑い夏のクソ暑い夜を、想像力とロマンティシズムでやり抜けようじゃないか。

あらかじめ書いておくと、ハヤカワ文庫では2010年に刊行されたらしいこの「新版」を読むのは初めて。解説を読むと、旧版との相違は、収録作の変更と、年号が「1999年」から「2030年」になったこと。これはブラッドベリ本人による改訂とのことで、いささか驚いている。
全体の雰囲気としては20年前に読んだものと変わらなかったが、しかし1999年1月から始まるこの物語が、この版から2030年1月からの物語となっていて、その微妙な近未来感に違和感を覚える。
本書はもともと1950年(!)に書かれた。そこからほぼ半世紀後の1999年という年代設定をそのままスライドさせるのであれば、この原書での「改訂」がおこなわれた1997年から丸々50年をくわえた2047年くらいにでもしておけばまだよかったものを、なんで33年プラスという中途半端な数字を選んだのだろうか。しかもそこからほぼ20年を経た現在に読んだものだから、「未来」がただの「もうすこし先の話」に成り下がってしまった。もちろんそれはブラッドベリのせいではないが。

しかしながら、こんな些末なことは本書に収められている「荒野」を読めばすべて吹っ飛んでしまう。この一篇が今回あらたに加わったことのみをもってしても、この「新版」は手に入れて読む価値がある。わづか17ページの小品ではあるが、ここに「火星年代記」のエッセンスのすべてが詰まっている。
あまりやらないことだが、今回はこの作品の梗概と引用を記して感想に代える。
ときは2034年。まだ地球にいて、火星に先に行った男たちから連絡を待っているふたりの女、ジャニスとレオノーラ。ふたりは荷造りに勤しみ、あすには火星へと発つロケットに乗り込むことになっているのだが、とはいえ「別世界」に行くことへの躊躇がないわけではない。もう二度と地球に戻ってこれないかもしれないこと。これまでの生活をすべて後ろに残していかなければならないということ。
不安を振り払えないジャニスは、すでに火星に着いてふたりのための家を建て、その写真を送ってくれたウィルの手紙を読み、元気を出す。6千万マイルも離れたところにある、ふたりの家。
ジャニスとレオノーラは、地球での最後の夜をたのしみ、家へ帰ってくる。そこへ電話がかかってきた。「もしもし!」
星々と時間にあふれた永い間だった。過去三年間にどこか似たところのある待ち時間だった。やがてそのときが来た。初めはジャニスが喋る番だった。流星と箒星にあふれる数千万マイルの彼方へ、ことばを焼き、その意味を焦がすおそれのある黄色い太陽を避けて、うまく話を通じさせねばならない。だがジャニスの声は銀の針のようにすべてをつらぬき、巨大な夜を越えて、火星の月にぶつかった。そこから声は屈折して、新世界の街に住む一人の男に伝わった。その間、所要時間は五分。
「もしもし、ウィル。わたし、ジャニスよ!」

(234p)
同時にしゃべることができないので、まずジャニスが話す。彼女はそれまでの思いをウィルに伝える。彼女の決心と、そして彼女の愛を。
ジャニスの声は未知の世界へ飛んで行った。いったんことばを送り出してしまうと、ジャニスはそれらのことばを呼び戻し、検閲し、並べ直し、もっと美しい文章を作り、自分の精神状態をもっとみごとに説明したいという衝動に襲われるのだった。しかし、ことばはすでに惑星間の空間にあり、もしもなんらかの宇宙の光輝によって照らし出されたそれらのことばが、熱に耐えかねて発火したとするならば、ジャニスの愛はいくつかの惑星を照らし、地球の夜の側を時ならぬ夜明けの光でおどろかせるかもしれない。ジャニスは思った。もうあのことばはわたしのものではない。それらは宇宙のものなのであって、到着するまでは誰のものでもない。ことばは一秒間に十八万六千マイルの速さで目的地へ飛んで行く。
(235p)
そして彼女は、ウィルの返事を待つ。彼の答えられる時間は一分しかないという。
「返事はまだ?」と、レオノーラが囁いた。
「しいっ!」とジャニスは気分がわるいときのようにかがみこんだ。
すると男の声が空間の彼方からきこえた。
「きこえたわ!」とジャニスが叫んだ。
「なんて言ってる?」
その声は火星から発し、日の出も日没もない場所、常闇の中に太陽が輝いている場所を通過して、地球に届いたのである。そして火星と地球の中間のどこかに、何か電波を妨害するものがあるらしかった。それは流星雨のようなものかもしれない。いずれにせよ、些細なことばや、重要性をもたぬことばは洗い落とされてしまい、男の声はただ一つのことばを語った。
「……愛……」
そのあとは、ふたたび巨大な夜、回転する星々の音、独り言をいう無数の太陽、そしてジャニスの心臓の鼓動がまるで別世界の音のようにイヤホーンを満たすのだった。
「きこえたの?」と、レオノーラが訊ねた。
ジャニスは無言でうなずいた。
「なんて言った、なんて言ったの?」と、レオノーラが叫んだ。
だがジャニスはだれにも話したくなかった。あんまりすばらしくて話せない。記憶の録音テープを再生するように、ジャニスはその一つのことばに何度も耳を傾けた。レオノーラはジャニスの手から受話器を取り上げ、電話を切り、それでもジャニスは耳を傾けていた。

(236p~237p)
このあとにつづく最後の文章も実にまたすばらしいのだが、引用はここまでにしておく。

宇宙あるいは未知の世界への憧憬と、そこに触れ、侵し、穢してしまうことへの先取りした恐怖や失望、幻滅。地球、火星、そして宇宙。これらのあいだにあるちっぽけな人間。どこへ行こうと不変の部分を持つ人間。愛すべき人間。あわれむべき人間。
上記引用からわかるように、全篇が詩情でつらぬかれているために長大な詩篇を読んでいるようにすら思えるが、もちろんその美しさは破滅の予感を孕んでいる。
美しい世界――それは地球かもしれないし火星かもしれない――に住み、そして滅んでしまったもの。あるいは、いままさに滅び去っていこうとするもの。不思議なことに読者は、まだこの物語にあるようなできごとに直面したわけでもないのに、懐かしく、傷ついたような気分を味わう。その感情をわれわれは、郷愁と呼ぶ。本書は、とても感傷的な未来への郷愁の物語である。

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あとがきにこうある。
あなたはこの本を書くことで、いったい社会に対して何を訴えたかったのか。
(角幡唯介『空白の五マイル』集英社文庫 299p)
これは、「この本が発売されるかされないかという頃」にアウトドア系雑誌のインタビュアーがおこなった質問。これに対し著者は「思わずうろたえてしまった」という。

「何を訴えたいのか」という質問は、裏を返せば「どんな意味があるのか」とか「どんな価値があるのか」ということである。
勉強不足のため今回の読書までまったく知らなかったツアンポー峡谷。そこにおいて単独踏破を挑んだ作者の冒険について、なにかの価値に置き換えられるのかという、これほど無価値な質問もないだろう、と僕のように何も知らない人間でさえ本書を読んでからはそのような感想を抱いてしまう。
本書では、具体的で強固な一回性を持つ冒険が描かれているのと同時に、そもそも冒険というものが現代においてなにを意味するのかという大きな問いが投げかけられている。前者の「冒険」が必ずしも歴史的・地理学的成功を収めなかったとしても、いささかも本書の価値が減ずることはない。価値うんぬんというのなら、冒険家が死に直面し、体力的にぼろぼろになり絶望の底から生還することだけで大きな価値がある。
最近、ある登山家が遭難し死亡した。あのとき、多くのメディアが「真実」というようなタイトルを付した記事を発表し、それを読んだ僕は「なるほどそんなものなのかなあ」とわかったような気になった。しかしそれは、「わかったような気」でしかなかったのだと思う。世のため社会のために「真実」を訴えた人たちも、所詮はわかったような気でいただけなんだろうと思う。死に直面した人間の思いを、その場にいない人間がいかに語ることができようか。客観的事実とやらを積み上げれば語れるはずだという信念は、冒険という圧倒的事実の前ではあまりにも無力だ。死者に対する礼儀とかうんぬんではなく、そう感じられた。

たまたまNHKのカルチャーラジオで近代文学の講座を連続して聴いていた。そのなかで近代の文学者たち(鷗外、漱石~太宰まで)は、もしかしたら同時代の多くの人間たちですら理解できなかった文学というものに、人生を捧げたり、あるいは人生を捧げるほどの価値があると信じていた。
その価値観を現代人が理解するためにはときおり、身に染みついてしまっている現代の価値観というものをいったん保留して思考操作をしなければならなくなる。つまり、「いまではちょっと考えられないことだけど、むかしの人たちは、文学のために人生を捧げる、なんてことも珍しくなかったんだなあ」と。近代人でもなく、かつ文学に対して一定の興味の範疇を出ない程度の人間であれば、そのように考えるのはごく自然のことだ。
この文学の「価値」の変容と似たようなことが、冒険においても言えるのではないか。著者が本書エピローグ部分で述べているように、冒険の本質も変容している。
どこかに行けばいいという時代はもう終わった。どんなに人が入ったことがない秘境だといっても、そこに行けば、すなわちそれが冒険になるという時代では今はない。
(同上 292p)
それでは現代はいったいどういう時代なのか。
それは、読者ひとりひとりが感じることである。著者はそれに容易に答えを与えないし、そもそもわからないというようなことを書いている。死のリスクに直面し、その瞬間に凝縮された生を感じるという点に冒険の意味を見出しているようではあるが、しかし次のようにつづけているのだ。
とはいえ究極の部分は誰も答えることはできない。冒険の瞬間に存在する何が、そうした意味をもたらしてくれるのか。なぜ命の危険を冒してツアンポー峡谷を目指したのか、その問いに対して万人に納得してもらえる答えを、私自身まだ用意することはできない。そこはまだ空白のまま残っている。しかしツアンポー峡谷における単独行が、生と死のはざまにおいて、私に生きている意味をささやきかけたことは事実だ。
冒険は生きることの意味をささやきかける。だがささやくだけだ。答えまでは教えてくれない。

(同上 295p)
僕がこの記事の冒頭で雑誌インタビュアーの質問を無価値だと断じたのは、著者の冒険が、「社会」などという不確かで漠然としてコミュニティに対しなんらかの意味をもたらすのかと問うているからで、そもそもを言えば、そんなもののために著者の冒険はあるわけではない。
(しかしもうちょっと深く読み解こうとすれば、著者の冒険の意味するところはきっとあり、それは「社会」に対してもきっと大きな意味をもたらすものだと僕は信じるが、しかしそれは上述したように、読者個人個人が読書という体験を通じて得るべきものであって、ガイドブック的にあらかじめ著者や出版社などによって提示されるものではない。そのようなショートカット的PR文を著者本人に吐き出させようとするインタビューこそ無価値である)
著者はあとがきのなかで「私が書きたかったのは自分自身のひとりよがりな物語だった(300p)」と告白している。そして僕は、この点に、この本と文学との共通点を見出したのだった。かつては定義の容易だったもの、無条件に称讃を得ていたもの、目標がもっと明瞭であったもの……。もっと言ってしまえば、エゴイスティックであり、ときに非道徳的であり、社会的な意義や価値の有無などというものとは独立して存在しているものでもある。
本書が僕につきつけたのは、「おまえはなにをして/なにのために生きているのか」という問いであった。「毎日が平穏無事であるならそれでよい」というような常套句的/無思考的解答ではなく、まさしく僕個人の体験によって生まれた答えが、はたして僕のなかにあるのか。その問いもまた、文学と共通なのである。

なお本書は、著者が単独行を思い立った発端や経緯、顚末と、人類によるツアンポー峡谷の「発見」の歴史が交互に描かれ、そのような構成のためもあって、非常に読みやすく引きずり込まれる。いい読書だった。

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うーん、めちゃくちゃつまらないというのが率直な感想。
いろいろなところで称讃されているのを目にしたような気がして、ついに購入し読んでみたのだけれど、いまの時代で金を払って読むようなものなのかは甚だ疑問。この手のものは(という言い方はひどいかもしれないけれど、実際そう感じた)ネットで探していけばいくつも辿りつけるようなものなのではないか、個人ブログ等で。

文章は平易であるが、その背景にある思考の骨格みたいなものも、また平易に感じられる。平易だから悪いということではなく、書かれていること以外に書かれていない、ということに不満を感じている。
書かれていること以外になにかを感じたり読み取ったりすることが文章のたのしみであるとするならば、ここにその余地や余白みたいなものは受け取れなかった(断っておくが、より複雑であればいいという難解至上主義ではけっしてない)。哲学や文学じゃないんだから、といわれればそれまでだけど、よろしい、それじゃあなに? エッセイ? 日記?

私小説のように、実在の人物が幾人も登場し、なかには悲惨な自殺の場面なども描かれてはいるので、簡単に切り捨てるのが忍ばれる気もするが、いちおう著作物だし、対価は払っているのだからあえて書くと、好みとして、まずここに描かれているような人たちが好きではないということに尽きるのかもしれない。
それは、僕がイヤな人間で、子どもじみていて、狭量だということに大きく起因するのだろうけれど、好きではない人たちの自己肯定観というものは、否定することはしないけれど、肯定も、また共感もできないので、「ふうん」で終わってしまう。
たとえば自分の両親が心中した女子高生がその遺体の前で笑っていた、という体験談が出てくるが、それについては、ああ、それってこれこれこういう理由があっての反応なのかな、ということくらいは考えたりするけれど、不謹慎だ、とは思わない。しかし不謹慎と思わないと同時に、肯定もできない。めんどくせえな、ってのが偽りない本音だ。僕は、そういう感じの言動を見聞きすると、「嫌い」とか「むかつく」などと思うのではなく、めんどくせえと思うのだ。排除するわけでもないから、否定しているわけではない。ただ、めんどくせえから好きになれないと思うだけで。

だから、価値観がまったく違うところで生きている人たちが、自殺せずに頑張って生きていこうとするのは、他人事として、いいんじゃないでしょうか、と思うだけ。また、「ほんとうに死ぬ!」となったって、それはそれで、ま、いいんじゃないでしょうか、と思うだけ(ただしこれは突き放しているわけではなく、自殺したいと思っている人が死ねたというのはある意味で希望を実現できたことなんだから、そこを否定したくないとは思っていて、その点だけは著者と意見が一致する)。
お互いがお互いに関心ないんですから、好き好きにやっていきましょうよ、というのが読後の感想かな。それが、「自殺」というタイトルの本を読んだ感想だとしたら、さみしいもんだよな。つまり、それくらい、得るものがなかったってことになるわけだけど。

【2018/2/2追記】
補足記事を書いた。

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図書館の書架にぽんと置いてあったのをたまたま見つけ、そういやこれ話題になっていたよなということを思い出し、その安直なタイトルの本を手にとってカウンターにまで持って行った。

まず、この一見ストレートにストレートを上塗りしたようなタイトルがどれほどの意味を持つのか、田中角栄という人間をリアルタイムで知らない僕には最終的に判断できないかもしれない、というおそれはあったが、しかしまた慎重に考えてみるに、おそらくこの天才というのは、われわれがその単語について簡単に思い浮かべがちなイメージとはまったく別種の相当なメタファーなりアナロジーなりを内包する言葉であろうから(なんといっても彼は「作家」なんだから!)、読了後にきっと味わえるはずの意外性をたのしみにすることも可能だ、と思い直してページを開くと、その行間のスペースの広さや文字のフォントの大きさに驚かされる羽目になった。

都の百条委員会に呼び出しを食らったときだったか、マスコミの前で威勢のいいことをぶちまけてそれから車に乗り込んでいこうという場面でのその後姿や歩く恰好のあまりにも年老いた様子を、おそらくは彼が若い頃からずっと嘲笑してきたであろう存在に彼自身がなってしまったのだという皮肉な思いで眺めたが、あの印象の強さのためか、これはもしや口述筆記による「角さん」の追憶記かと思って奥付あたりをぱらぱらと調べると、
この作品は現実の人物・事件・団体等を素材にしておりますが、すべては筆者によるフィクションであることをお断りしておきます。
という但し書きがあって、やはり小説なのかと再認識した。
ほんとうは、小説でもエッセイでもドキュメンタリーでもジャンルはなんでもよいのだが、しかし実際の人物を描くというとき、そこに含まれる真実味がどの程度のものなのか、というのはその対象人物をほとんど知らない読者にとってはとても重要な問題なのは間違いない。
小説というのは非常に自由な表現藝術なので、いかように描くこともできる。高橋源一郎はその初期作品において伊藤整や金子光晴という名前のキャラクターを登場させ、(これまた「おそらく」となってしまうのだが)実在の人物がしなかったであろう振る舞いをさせたりした。
また小島信夫は、その小説に「保坂和志という小説家」という人物を登場させ、これはいかにも当人と思えるような言動をさせるのだが、保坂自身によれば「そんなことやっていない/していないのに」みたいなこともあるという。というかそもそも小島信夫の作品には、一人称で書かれ始めたのに「小島信夫という作家」が登場することもあり、三人称に移ったのか、はたまた「わたし」とは別の人物なのか判然としない、と読者が混乱を来すものもあるのだが、石原慎太郎は十中八九そんな「文学的」なことは考えていないだろうから、そうなるとフィクションという言葉を頭の片隅に置きつつ、かの人物のいわば人物伝を、小説の形で読むのだなと自分に言い聞かせた。

しかしそうなると僕としては、ますますどう読み、どう感じてよいのかがわからなくなった。この「小説」に描かれているうち、はじめの五分の一ほどは田中が東京に出てくるまでの話なのだが、面白いのはここだけだった。彼の生い立ちや家族、そして淡い恋愛感情などがたぶん虚実綯い交ぜで書かれているのだろうが、その真偽などはどうでもよく、それなりに面白い。それは、その立志伝の一過程が、現在となってはなかなか想像しにくいことによるものであり、その想像のしづらさは、日本人の生育環境や経済環境というものが表面的にはより画一的になったことに由来するものだろう。

けれどもそのあとの五分の四は政治家になってからの記述が主で、事実が、そのときの田中の感慨(という体)をもって描写されていくのだが、ここに物足りなさを感じた。というより、なにかの弁明のようにも感じられてしまい、それが石原の弁明なのか、あるいは最後のページに三十も挙げられている参考文献に依拠したものなのかはわからないのだが、これまたわかってもわからなくても、そのいづれにしても面白くない。はあ、そういうものなのかなあという感想で終わってしまうのだ。

ある政治的に困難な状況や重要な課題に直面したときだけをピックアップして、そのときの人間模様を大胆に描くというのであれば、これはこれで面白さはあったはずだろう。しかし回顧録みたいな体裁なものだからどうしても記述は淡白なものとなっており、物足りなさだけが残る。
それではドキュメンタリーとしての興味深さはあるのかというと、たぶん事実に即しているのであろうということくらいは判断できるのだが、それにしては記述量が圧倒的に不足しており、やはりこちらでも不足感が残る。結局、どっちつかずなのだ。

200ページの本文に対する15ページのあとがきには、本人もわざわざ「長い後書き」と題しているのだが、このなかに出てくる石原の田中との対話は魅力的だった。石原がまっこうから田中の金権政治批判をしていたとき、テニスのクラブハウスで彼とたまたま出会ってしまうのだが、そのときのやりとりに石原は特に強い印象を持ちつづけているようで、その昂奮を隠していない。
”これは何という人だろうか”と思わぬ訳にはいかなかった。私にとってあれは他人との関わりに関して生まれて初めての、そして恐らくたった一度の経験だったろう。
一礼して別れ、仲間たちと食堂で合流した後も、私はたった今味わった出来事の余韻を何度となく嚙みしめていたものだった。

(214p)
本文にこのような種類のものがまったくないかといえば嘘になる。たとえば毛沢東と対話する場面などにほんのちょっと人間の面白さというものが描かれているようにも感じるのだが、しかしそれにしたって分量がすくなく、あっという間に印象が過ぎ去ってしまう。

文体についてすこし言及すれば、石原節みたいなものは随所に感じられた。
たとえば、「○○についての調査はなかった」というようなことを言う場合、石原は「○○についての調査はありはしなかった」とよく書く。「いなかった」を「いはしなかった」と書くし、「~していて、」というところを「~してい、」と書く。これはたぶん彼のこだわりなんだろう。
余談だが、「味わう」という言葉の使役形を「味わわす」とはっきり表記しているのを見たのは、彼の文章(本書ではないけれど)が初めてだった。これは音だけを聴いていると、「あじわわせる」なのか「あじあわせる」なのかがいまいちわからなく、発話者もそこらへんを曖昧に認識しているということが多いのだが、文章でそのようにはっきりと書いているのを見ることもなかった。おそらくその理由は、「苦労を味わわす」と書いて自分でも不確かな思いをするよりは、「苦労させる」と別の表現を遣ったほうがよいとした文筆家のほうが多いからではないか、と愚察する。
話を戻すと、上記のような石原の文体は読者に引っ掛かりを与えることも少なくないだろう。悪文という人もいるかもしれない。その指摘を間違いとは思わないまでも、しかし僕自身はあまり悪くは受け取らなかった。この直前にライトノベルをたまたま読んでいて、その引っ掛かりのあまりのなさに物足りなさを感じていたということもある。
現在ネットにあふれている文章のほとんどが引っ掛かりのなさに注力されており、僕はそういう文章を好まない。書かれている内容も陳腐なうえにその書かれ方も陳腐であれば、なにも残らない。おそらく数年以内には、AIがそういう文章をわれわれに提供するようになる。なので、わざわざ人間が書く必要がないのだ。

数行で終わらせるつもりだった感想は、結局まとまらない。
しかし、「長い後書き」のなかに、「田中角栄という未曾有の天才」とか「田中角栄という天才の人生」などという箇所を見つけ、「相当なメタファーなりアナロジーなり」はおそらくないということを確認することはできた。
繰り返しになるが、参考文献の量は多いようだ。その「まとめ」を簡単に読めるという点以外でこの本の興味深い箇所を強いて探すとするならば、「三番クン」という名前で登場する女性と青年田中との恋愛未満のようなエピソードに、石原慎太郎という人間がそれなりの重きを置いているというところかもしれない。
あのように無神経で傲慢で、愚かしい言動に事欠かない人物も、わりあい純粋なものを信じているふしが見られるのである。もちろんこれを指差して嘲笑する気はない。ただ、純粋なものを信じる人間が必ずしもやさしく心のこもった行動をするわけではない、という新たな例証――けっして新奇なものではないが――がわれわれの知識にくわわるのみである。

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テレビドラマで二宮主演の『坊っちゃん』を観て、こんなはずじゃなかったという思いを持って、関川夏央・谷口ジロー『「坊っちゃん」の時代』を参考書として岩波文庫版『坊っちゃん』を読み直した、という話は以前書いた
実はそのとき同時に、たしか数年前に小林信彦が登場人物のひとり、うらなりを主人公とした続篇を書いていたよな、ということを思い出し、ネット書店(僕はアマゾンではなく、丸善・ジュンク堂を利用している)でその小説『うらなり』を註文しようとすると、「お取り寄せするのに二十日ほどかかります」という趣旨のメッセージが出ていて、少し驚いたということがあった。
この小説は、文芸誌連載時にすでに話題になっていたはずで、文芸誌をそれまで一度も読んだことのない僕(そしてその「未体験」はいまでもつづいているのだが)ですら、「ん? 『坊っちゃん』の続篇?」と一度ならずチェックしていたのだった。チェックをするだけで読まないままであったけれど、それはそれとして、それほどに有名な小説が在庫として常備されていないだなんて。
いま調べてみると、「数年前」の記憶を、「十年前」に訂正しなければならない、ということを知る。きっかり十年も前に、僕はどうやってふだん読みもしない雑誌の内容を知ったのだろうか。そこが不思議なのだが、書店の雑誌売場を通りかかって、おそらくは表紙に書かれていたであろうそのタイトルに惹かれたのかもしれない。うらなり、と書いてあれば、あのうらなり以外に思いつかないのだから(しかし、その「書店で見かける」以外にもどこかで目にしたはずで、そうでなければ、「話題になっていた」というような記憶にはなっていないはず)。

ともかく以上のような経緯で、その『うらなり』がうちに届いたのは、ドラマや小説の余韻をすっかり失ってからだった。単行本化されたのが2006年で、文庫化されたのが2009年。それから一度も版を重ねることなく僕の机の上にやってきた文庫本は、そこからさらにしばらく放置され、猫の毛と涙(よくこれを本になすりつけるのだ)とに少し汚されたままになっていた。

読後の感想を率直に書いてしまえば、まあ作者本人による「創作ノート」の通りだろうね、というもので、ここまであからさまに書かれてしまえば、それ以上に「解説」しようとしたり「解釈」したりするのは野暮だ。けれども「解説してしまおう」とする野暮と、ここまで書いてしまう作者の野暮とはいったいどっちのほうが野暮なんだろうね、とも思ってしまう。
製作動機、作者の『坊っちゃん』との出会いとその当時の感想、資料集め、漱石研究における『坊っちゃん』の位置づけと評価、「うらなりから見た『坊っちゃん』」という仕掛け、うらなりのキャラクター造形に対する苦労、等々。文庫本にして150ページ弱の小説本体に対し、30ページ弱の「創作ノート」は、後世の文学研究者たちにとっては非常にありがたいものとなるのだろうが、同時代に生きている僕にとっては、やはり有用と思われる部分がないではないにせよ、いささか鼻につく蛇足の資料のようにも感じられたのだった。

皮肉のし通しで擱筆するのもなんなので、よかったところを挙げておくと、ひとつはドラマティックなことがほとんど起きないところ。おそらくかなり意図されているのだろうが、ここにはいかにもそれらしいおそるべき退屈さがある。日本文学の特徴(あるいは悪習)とも言うべき、あの「なにも起こらない」感じ。退屈であるにもかかわらず、いや、むしろそれゆえに小説世界が浮かび上がってくるようなあの感じを、僕は好ましく抱きながら読んだ。
また、あの「坊っちゃん」事件から三十年ほどが経ち、東京で再会するうらなりと山嵐が、「坊っちゃん」をわけのわからないやつだった、と回想する面白さ。ここがこの小説のひとつの眼目でもあろう。
これらの総合として、この小説はとても面白く、よくできている。だからこそ、創作ノートなどは書かずに知らんふりをしていればよかったのに、と思ったのだった。
なお、解説の坪内祐三が、作者が「創作ノート」を書いたことを、文芸評論家というものはほとんど馬鹿だから、それでわざわざ作者本人が説明を買って出ている、と擁護していた。うーん、そういう援護射撃は、かえって作者を貶めているのではないだろうか。

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ちょっとしたわけがあって、中隅哲郎『ブラジル学入門』(無明舎出版)という本を古本で購入し、読んでいる。
これが、想像した以上に面白く、文学の分野でラテンアメリカの「マジック・リアリズム」という言葉があるが、あれはラテンアメリカの人たちにとっては、ごく身近な感覚のちょっとした延長にすぎないのではないかという気がしてくる。
ブラジルという国は、なにしろスケールが大きい。土地が広大なのだから当たり前なのかもしれないが、歴史上、先住民のインディオや植民してきたポルトガル人以外に、多くの国から移民や奴隷が入ってきて、非常に多元的な文化をつくっている。
たとえば、1877年~79年の大旱魃で、セルトンというブラジル東北部の奥地の地方では、人口の半分にあたる50万人が死亡したらしい(83p)。
 (※このあとにも、やはり1977年の大旱魃によって、ある町での人口激減の例が挙げられているのだが、この人口の数が、Wikipediaの数字を見てもどう考えても桁がひとつ間違っているようなものになっていて、このこと以外にも、「あれ、ほんとにそうなの? 他の資料に当たるとそんなふうには書いていないけど……」という記述が多いように感じるのだが、これを「感じる」だけで精査をしない、まったくのものぐさ精神のままに読んでいるだけであり、まあ話半分数字半分程度に理解することにした)
この「50万人の死」という記述を即物的に読むような読み方によって、はじめて面白いと思えるような本だった。
反対に言えば、3歳の男の子が虐待死されたという事件を取り上げて、その虐待の様を事細かに報じ、またそれを受け取るほうもそのいちいちについて心を痛め苦しむという現代とはまったく異なる態度を強いられるということだ。
なにも僕は、虐待はつねにあったものだし子どもがひとり殺されたってたいしたことではない、と言うのではない。そういうシニカルな態度というのは、ある意味もっとも臆病な人間のそれであり、そういう人間は、いつまでも己が傷つかない場所に居座りつづけ、いつまでも判断停止をするという選択をしただけなのだ。そういう人間の意見を傾聴する価値はないだろう。
僕はむしろその逆のことをあの虐待死の報道について感じていて、ここ数日、Yahooの「人気記事ランキング(?)」のトップに「いかに○○ちゃんは苦しみ傷めつけられ殺されていったのか」についてのヘッドラインが鎮座しつづけているのを苦々しい思いで確認するたびに、こういう記事を、いったいどういう人間が書き、また、いったいどういう人間が読んでいるのかということに思いを巡らせるだけで、人間の心性というものが、時代がくだるにつれ特段やさしくなったり慈悲深くなったりしているわけでもなく、お上品に振る舞うという新しい文化様式を身につけはしたものの、その中身にあるのは、他人の不幸な状況を確認し翻って自身の相対的幸福な状況を再認識するにとどまるという、ごくごくありふれたもののままであることを、これまた再認識するだけなのだ。
「こういう事件は悲しいよね」とか、「あってはならないことだ」と悲嘆・憤慨することじたいは当然ありうることなのだが、ただ、それをウェブ上で意見表明をすることがいったいどういうことなのか、ということまでが考えられることは少ないという気がしている。
もし「あってはならない」というだけのお気楽なコメントが、虐待者や虐待者予備軍に読まれ、それによって彼らが人生の指針をドラスティックに転換してくれると本気で期待しているのだとしたら相当にお気楽であるのだが、しかし、もしそうでないのだとしたら、そのコメントはいったいなにをあらわしているのだろうか。いったい、なにをあらわそうと意図されたものなのだろうか。
これはまさにこの記事の文章にも関わってくることなのだが、現実に起こったなにかの事件を「材料」として平生の自分の意見や主張をすることは、社会への有意義な提言とならない限りは、相当にエゴイスティックな行為なのである。その「材料」により具体性を持たせるために、日を追うにつれよりつまびらかにされていく残虐残酷な事件を追っかけ読んでいるのだとしたら、そこへの自己批判はまったくないのだろうか、という不審が僕にはある。「真実を知りたい」という言葉はマスコミやその情報の消費者がよく口にすることだが、そこで用いられる「真実」と「野次馬的好奇心」との相違をどうか教えてほしい。

話は戻るが、ブラジルでの非常にスケールの大きい各々のエピソードは、野次馬的好奇心というメガネをかけて読めば非常に面白い。げらげら笑えるというのではなく、知らなかったことを知ることができるという意味での面白さだ。
また一例を挙げるが、「奴隷」という単語に脊髄反射をして判断停止をするのではなく、それがいったいどのような歴史を持つのかということに興味を持てば、秀吉の時代、ポルトガルの南蛮船によって日本人奴隷が連れて行かれたという記述に当たることができる。その正確な数字はわからない、としながらもこの本では五十年間で2万人近くになったのではないか、と推定している(165p)。つまり、奴隷というのは商人たちにとっては重要な商品だったのだ。
あるいは、1896年末、アマゾンに作られた豪華なオペラハウスの話などどうだろうか。
Amazon Theatre
見づらいが、場所はこんなところ。当時、アマゾンは空前のゴム・ブームに湧き、それによって大金を得た連中が提案したのが、豪華なオペラハウスを建設すること。この計画が1892年にアマゾナス州議会を通過して定礎式が行われた。ここらへんの描写は面白いので、そのまま引用しよう。
世界で最も富める町にふさわしい劇場をめざして豪華な上にも豪華なものが要求された。金はいくらかかっても構わないのである。劇場の柱、屋根、ドーム、階段、テラスの鉄骨はすべてイギリスで一度組み立てられた後、分解されて船で運ばれた。イタリアからは白大理石が多量に持ち込まれ、ドームの色瓦六万枚は当時ドイツ領だったアルザス地方に特別注文してつくらせた。オペラハウスは六五〇席、舞台は間口三〇m、奥行き一五m、オーケストラ・ボックスは水圧式で三m下がるようになっている。照明は三八〇基。客席の下には水を通し、水冷式の冷房装置を施したのだから驚きである。
(114p)
このアマゾナス劇場が建てられたことにより、オペラ歌手たちだけでなく、フランス、イタリア、スイス、イギリス、ポーランドから娼婦も集まってくる。そしてそのあとにつづく以下の記述がたまらない。
ゴム成金たちはキューバから取り寄せた最高級の葉巻ハバナに五〇〇ミル・レイス紙幣で火をつけた。
(同上) 
これがブラジルの歴史のごく一部なのである。

他にもまだまだある。1899年、ボリビア領事館で働いていたガルベスという男が、当時ボリビア領だったブラジル最西部のアクレという地方に30人の義勇軍(といっても興行に来ていたスペインの喜歌劇団の団員を中心とした男女混成部隊)を引き連れて攻め入った。ガルベスは無血占領に成功したばかりでなく、なんと「アクレ共和国」として独立宣言をし、自身が大統領におさまるも、半年後に辞職し、国は解体した、という嘘みたいな話がある(118p-126p)。
また、第二次世界大戦直後、ブラジル在住の日系人のなかで、敗戦を信じない「勝組」と敗戦を信じる「負組」とが分かれて抗争を起こした。これは、増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』にも書かれていたが、実際に死亡者が23人も出るような大きな事件だったようだ(181p-186p)。現代のような情報化社会では信じられないような出来事だが、当時は情報不足の上の混乱でによって、狂騒状態になってしまったのだろう。

はじめに書いたとおり、こんな話がぽこぽこと出てくる歴史を持つ国々であれば、マジック・リアリズムというのは、大幻想というよりは、現地の人たちにとっては「ちょっとだけ妄想」程度なのかもしれない。
文学者は、想像力によって得たモチーフと作品内でのリアリティとを同時に成立させるために、ときにSFという設定や時代ものという枠組みを必要とする。それらは、小説家にとっては現実よりちょっとだけ向こうにあるのだ。それと同じように、ラテンアメリカの作家たちにとっては、現実のなかに、その「ちょっとだけ向こう」があるのかもしれない。
といったってよく言われる「ラテンアメリカ文学」ってのが流行ったのは1960年代のことだから、すでに半世紀も前の話。現在の南米では、いったいどのような物語が語られているのか、興味深い。

最後に、これはベネズエラになってしまうのだが、Gustavo DudamelとOrquesta de la Juventud Venezolana Simón Bolívarで『Mambo from "West Side Story"』を貼っておく。
音楽も映像もすばらしい。祝祭とはこういうことを言うのだろう。

編集
大晦日の深夜はテレビもつけずに、ブログを書いたあとは本を読んでいた。スティーヴン・キングの『シャイニング』。そしてたぶん、年明けの瞬間は風呂に入っていたように思う。
『シャイニング』を読み終え、すぐに思いついたのはやはり映画との比較である。実はこの比較についてはWikipediaが詳しく、興味深い記述がいくつか見られるのだが、今回はここから、キング自身はキューブリックの映画作品について批判的だった、という内容だけを引用しておく。

小説は、前半は掛け値なしに素晴しい。主人公の父親、というよりこのジャック自身も僕の考えでは主人公のひとりなのだが、彼が高校教師という職を失い、冬季は閉鎖するホテルの管理人に就職しなければならなかった経緯が遡って語られ、そこではアルコール依存がよりひどくなっていく様子と、そこで起こった警告とも思える不思議なできごとなどが触れられる。その一方で、現在進行形としてジャックはホテルのメンテナンスに携わり、そこでスズメバチの巣と格闘する羽目になるのだが、このスズメバチがジャック家族に襲いかかる災厄のメタファーとして機能している。これらのエピソードのひとつひとつがたいへん映画的であり、これらの描写をもとに映画をつくるのは実に容易いのではないかと思わせてくれるほどだ。
物語は、ジャックだけでなく妻のウェンディの視点でも描かれるし、息子のダニーの視点からも描かれる。面白いのは、彼らは互いを愛すべき対象として認識しているのだが、同時に距離も感じているという点。家族が「絆」を確認するための単純な装置に堕しておらず、それどころか、トラブルの根源のようにも見えるのが非常に現実的に感じられた。
また、ダニーが「かがやき(the shining)」という超能力を持っていることが、この三人の関係をより複雑にしている。ダニーはその「かがやき」によって、子どもながらも両親の思考のぼんやりとした輪郭くらいは把握している。ウェンディはそんなダニーを愛しながらも、その能力の不気味さに少し怯え、またダニーとジャックとの仲の良さに嫉妬している。ジャックといえば、ダニーは寵愛の対象ではあるのだが、自身をアルコールから遠ざけたウェンディに疎ましさを覚えているし、さらに、ジャックはその父親に、ウェンディはその母親に対してトラウマを持っている。この同性の親に対するコンプレックスの図式は後年の『11/22/63』にも見られたので、もしかしたらキング自身の体験に拠るものなのかもしれない。
これらを総じて登場人物の複雑な性格を端的にあらわすことは難しいし、あまり意味はない。大切なのは、キングがそれだけの紙数(文庫本一冊分ほど)を割いてホラー部分ではなく、人物の内面を描いたということなのだ。
ストーリーの後半は、ダニーの予知夢や、ジャックやウェンディの直感が伝えてくれていたように、ホテルのなかに「なにものか」がある/いるということが段々とわかってきて、それが最終的には形をとる。実際に文章中でも、ホテルそのものが幽霊となっているという説明がなされる。ホテルは、ジャックに憑依して最終的には能力者のダニーをその内部に取り込もうという意図を持っているのだ、と。それを知ったジャック・ダニー・ウェンディの運命やいかに、というところなのだが結末までは書かないでおこう(ほとんど書いてしまっているけれど)。

全体の感想を書く前に、キューブリックの『シャイニング』に話題を移す。
十年ほど前に観た映画なので、記憶を頼りに簡単に要約すれば、映画版では、狂ってしまったジャックがダニーとウェンディを襲うという設定になっている。その有名な(と僕が勝手に思っている)シーンが以下だ。アマチュアの物書きでもあるジャックがタイプライターに日がな一日かじりついていったいなにを書いているんだろう、とウェンディが覗いてみると、ある文章だけが延々と打たれただけの紙・紙・紙を見つける。
「All work and no play makes Jack a dull boy.」という文章に対して、「仕事のしすぎでジャックは頭がおかしくなってしまった」というような字幕が出ていたのではないか。
ジャックが狂気に侵蝕されていくために、やはり不気味なホテルの存在は重要で、グロテスクな場面がフラッシュバック的手法によって描かれるシーンはいくつか存在するが、「ホテルそのものが幽霊である」というよりは、「ホテルに幽霊がいる」といったほうが近い描き方であり、それに感化されるような形で、ジャックの頭も文字通り「おかしくなってしまった」ととらえるほうがより自然だ。
その描き方の差異が、まさにキングの批判のポイントだったらしい。原作者の意図がきちんと反映されていない、ということなのだろう。


話はまた変る。
このあいだ弟とスカイプで怖いホラーとそうでないホラーについて、話したことがあった。弟は三津田信三の小説を例に挙げ、きちんとミステリー的結構は満足させつつも、最終的には怪奇現象の存在する余地を残しているところがよい、と指摘。僕も小説『少年十字軍』で、極めて現実的に描写されながら、やはり最終的には「奇蹟」の存在する余地を残した皆川博子の鮮やかな手並みを思い出し、それに同意した。
一般的に、怪談などにおいて動機や理由や結末が不明な話のほうがより記憶に残るし、恐怖心も残ったままになる。おそらく全景が見渡せないことへの不安が恐怖心と直結しているのだろうと思われる。
ホラー映画について考えてみても、主人公たちの恐怖に観客が最高潮に同調するのは、恐怖の対象を完全にとらえることができない時点であろう。反対に言えば、画面内に「なにか」がつねに――しかもはっきりと――映っていれば、それはホラーではなくなってしまう。そこから先はアクションの領域なのだ。真っ暗な部屋と完全に照明の行き届いた部屋とのどちらを怖がるか、ということからもこれらは理解できよう。

なにが言いたいのかというと、キングの『シャイニング』はきちんと伏線が回収され、しっかりと秩序立った物語になっている。それはとても丁寧な仕事と言えるし、クリエーターとしては重要な姿勢だといえよう。しかしその一方で、われわれ読者の感じた恐怖の輪郭線もはっきりととらえられるようになり、当初、測りようもないように思われた不安の形が案外小さいものだったことに気づいてしまう。人間がわからないものに対して抱いてしまう期待・想定・憶測は思いのほか大きく、その実体が明らかになったときには、その反動でどうしても過小評価に落ち着いてしまうのだ。簡単にいえば、「なあんだ」ということ。
具体的にいえば、「ホテルの幽霊」という存在がまだ明らかになっていない時点で、ダニーたちが不気味にも不穏にも感じていたエレベーターや消火ホースなどは、ついにホテルがその正体を隠さないようになってしまえば、ダニーたちの逃亡を妨げる役割を担ったいくつかの装置のひとつに成り下がってしまう。それは、なんだか非常にもったいないことのようにも思えた。
これに反して、キューブリックの『シャイニング』はジャックの狂気にフォーカスしている。この狂気というものは、それ自身は形・姿が見えないものなので、「ジャックが狂ってしまった」とわかったのちも、それがジャックの行動に及ぼす影響・範囲・程度はいったいどれほどのものなのか、ということまではしかとわからない。そのため、視聴者は一定の恐怖心を抱いたままでいられる。そうなれば、ジャックが斧を持って怒鳴り叫んでいるところだけではなく、げらげらと笑っているシーンにも怯えることになる。判然としないがゆえに恐怖を多く見積もってしまうのだ。

ただこれは、あくまでも恐怖にスポットを当てて考えた場合であって、小説『シャイニング』は、特にジャックのホテルにやってくるまでの過去だけをとっても充分に読み応えがある。
また、上にちらと書いたのだが、アルコールの深みに嵌まってしまうというまさにそのときに起こった「不思議なできごと」というのは、物語内では(僕が憶えている限りでは、の話だが)回収されておらず、もし、ホテルの幽霊という存在がなければ、このエピソードはもっと輝き、また重要なものとなったに違いない。そして、キングについて語るときのいつもの繰り返しになってしまうのかもしれないが、相変わらずの固有名詞や事物の描写が徹底していて、われわれの鼻先には冬山に閉ざされた豪奢なホテルが突きつけられることとなる。個人的には、小説では非常に重要な人物となるホテルのコック、ハローランが登場する場面はなぜだかすばらしいことが多かったように感じられた。バカンスをとっていたものの、ダニーの「かがやき」の声を聴いて急遽ホテルに戻ろうとハローランは飛行機に乗るのだが、このとき隣の席にすわった婦人とのやりとりが僕にはものすごく感動的だった。わづか数ページのことで、とりわけびっくりするようなことが描かれているわけでもないのに。

ただ面白い/面白くないというだけでなく(実際に面白かったのだが)、人に恐怖を感じさせるものの正体(のようなもの)について考えるいいきっかけとなった。三十数年ぶりに出版されたという、この続篇『ドクター・スリープ』は当然気になっている。
最後に、深町眞理子の訳は風格があってとてもよかった。金銭登録機(おそらくレジキャッシャーと思われる)という古臭い訳語がいくつか見受けられたものの、1978年翻訳だと思えば仕方のないことだろう。 
なお、文庫の奥付の直前に書かれた以下の文章が気に入った。
*本作には差別的表現ととられかねない箇所があります。これは、作者が描いた人間の心に巣くう悪意や憎悪を、原文のニュアンスに忠実に映し出した訳出の結果であり、もとより差別を助長する意図はありません。読者諸賢が本作を注意深い態度でお読みくださるよう、お願いいたします。
文春文庫編集部 

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山口雅也の『日本殺人事件』を読了。

外国人が抱く誤ったイメージそのままの「ニッポン」を舞台としたミステリ。時代は現代なのだが、帯刀したサムライもいるし、ジンリキシャも走っているし、吉原まがいの公娼街はあるし、とまさに「ハラキリ、ゲイシャ、ニンジャ」の世界なのである。そこへやってきたトウキョー・サムという外国人が私立探偵となっていくつかの事件を解決するという筋なのだが……はじめの「はは、おもしろい」という驚きはすぐに去ってしまい、以降、すべてが予想の範囲を超えることのない展開にいささか退屈を覚えた。
なるほど、誰でも思いつきそうな設定をきちんと細部にわたるまで築き上げるという技倆はなまなかなものではないにせよ、その精巧なミニチュアをすべての人がよろこびたのしむというわけではないだろう。
設定そのものをたのしむ、という読み方ができなかった僕としては、「で?」という言葉が口から漏れ出でてしまうことを幾度封じたことか。「恥」や「わび」や「見立て」など、日本に特有とされる感覚や精神をうまく殺人事件に取り込んでいるのもよくわかる。ましてやこの小説は、著者の山口雅也が雑貨屋で英語で書かれたペーパーバックを見つけそれを翻訳して出版している、という体をとっており、その経緯を冒頭に「覚書」として4ページにわたって記すという凝った構造になっている。まさしく「見立て」の世界だ。
が、それでも「で?」と思ってしまう僕は、読者として贅沢なことを要求しているのだろうか。
麻耶雄嵩の小説のところでも書いたが、箱庭的な世界を呈示されても、どうしてもスケールの小ささというものが気になってしまう。構造が精緻であるからこその嵌め込まれたようなキャラクター描写に不満を感じてしまうし、初期設定以上の奇想天外さのなさ、つまりいわゆる「出落ち感」を払拭できないところに、傑作と呼ぶことをためらわすものがある。
十五年前に読んだ『生ける屍の死』は面白かった記憶がある(といっても、いま読んだらまた違う感想を持つかもしれない)ので、他の作品を読むことはやぶさかではないのだが。

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なんか書名は聞いたことがあるな、くらいの理由で図書館で借りた。三上延『ビブリア古書堂の事件手帖』のシリーズ一巻目。
なかなか読むのに苦労した。文章も話もストレートでごくごく簡単なのだが、いちいちに腹が立って読み進めるのが大変だったのだ。
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これがヒロインの人。名前忘れた。
主人公の男(これも名前忘れた)が「本が読めない体質」でそれでも本のことがものすごく知りたがっている(意味がわからない)のに対して、古書店店主であるこのヒロインは、極度の人見知りだが、本のことになると一転しておしゃべりになり、また本にまつわることであれば驚異的な推理力を発揮するし、巨乳である(この品のない表現が実際に単語として登場する)……っていう設定なのだが、こういう設定だと知っていたらそもそも読まなかった。
たぶん読者の対象年齢は中高生くらいなんだろう。しかも男子。少年ジャンプとかで、ハーレムもののマンガ読んで温泉シーンとかでにやにやしているくらいの子たち。

極度の本好き(調べたらビブロフィリアって出てきた)とか古書店じたいが萌え属性とか萌え要素と呼ばれるようなものであるというのはわかるんだけど、それ以上の深みはない。総体としてはなんだか薄っぺらい物語だな、という感想を持つばかり。
同じ古書(といっても稀覯本だけど)を扱うのなら、ジョン・ダニングの『死の蔵書』のほうがよっぽど読み応えがあった気がするけど。

逆にいえば、上のイラストにピンとくるひとだったら、じゅうぶんにたのしめるのではないか。四話に分かれている物語も最終的にはきちんとまとまるし、それなりのミステリも提供されるので読めない本ではない。
ただ僕には、読んで価値ある本ではなかった。 

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