とはいえ、わからないでもない

カテゴリ: マンガ

編集
読んでからずいぶんと経っているのに、きょうのきょうまで感想を書けなかった。
というか、このマンガを読んでいるあいだに浮かんだ言葉を、まとめ・要約することに意味を見いだせなかった。そのままにしておこうとも思っていた。
それがきょう、机の引き出しの整理をしていたらしまいっぱなしの本書を見つけてしまい、深呼吸してから読み直す。

……やっぱり、自分の魂の一部が殺されたように感じた。特に「夕凪の街」のほうを初回に読んだときもそうだった。心がすうっと冷えて、すこしだけ死に近づいたような気がした。けれども実際には僕は殺されず、かわりに、ある女性が死ぬ。
このわづか三十ページあまりのマンガには、ひとりの殺された人間のことが描かれている。架空の人物の死ではなく、きっと実在したであろう人物の死。それは、昭和二十年八月六日、広島に落とされた原子爆弾によってもたらされた。
元プロ野球選手の張本勲は原爆によってその姉を亡くした被爆者であるが、その姉やその他大勢の人たちの死を、「犠牲ではなく身代わりだ」と表現していたことがある。誰が死んでもおかしくなかった、ということなのだろう。そのような意味において、「夕凪」の女性はまったく空想の存在ではない。
そして、実在したであろうからその個人の死の重みが読後を支配する。その死が、読者の魂の一部を損なう。傷つき欠損した部分を充填するように、悲しみや怒り、そして恐怖などの綯い交ぜになった感情が生じるが、癒やしは与えられない。カタルシスは得られず、いつまでも魂に穴の開いてしまったことを感じつづけることになる。当然のことだ。これは、癒されるための作品ではない。

ほかに収録されている「桜の国」もすばらしい作品だ。これとて、前後篇あわせて六十ページあまりしかない。けれどもそのなかに、人間のやさしさ、人間が生きていくことのかなしさ、そして作者の慈愛に満ちたユーモアが余すことなく描かれている。
しかしそれ以上に強調したいことが僕にはある。それはこのマンガの持つ、表現のすばらしさ・美しさである。
この非常に短い短篇は、「ヒロシマ」を扱っているということでともすれば「戦争もの」「原爆もの」というタグを貼られ、恭しく奉られておしまいということになりかねない。しかし、このマンガのかけがえのない部分は、けっしてそれだけではないのだ。
たとえば、凪生のいる病室で姉の七波がベッドの上に立って大量の桜の花びらをばらまき、桜吹雪を演出するシーンの美しさ。そして、若い頃の七海の父と母とが、東京の橋の上で桜吹雪を眺めながら笑っているシーンの尊さ。
大胆な省略法を用いて「夕凪」からの物語を結びつけ、さらに、「夕凪」の持つ絶望を超えて、「それでもなお生きていこう」と思わせる構成がみごと。端的に言って、読者はすこしだけ救われるのである。

しかし、また「夕凪」のほうに話を戻そう。ほぼ半世紀経った時代の物語(「桜の国」)でちょっとだけ救われた気分になること――もちろん話はそんなに単純ではないのだが――はそれはそれでありがたいのだが、やはりこの短篇集でより重要なのは、「夕凪」における死だ。
前述したとおりここに描かれているのは実在したであろう人物の死であり、おそらく同じ時期に同じ場所で――あるいは長崎において――同様に命を落とした何十万人のうちの、たったひとつの例でしかない。これは、めまいがするほどにおそろしく、しかし残酷な事実である。
この想像もつかない膨大な数字は、まさにその想像のつかなさゆえに、えてして捻じ曲げられた「利用」のされ方をしてしまう。いわく、「これに較べたら○○なんてたいしたことない」というような。
冗談じゃない。死はつねに究極的に個人的な行為であり、死んだ人・殺された人は、つねに独りである。また、他者の死について悲しみ、怒り、恐怖する主体であるわれわれも、それぞれに独りなのである。
この孤独で唯一の<私>が死んでしまえば、事象の大小、犠牲者の多寡など無意味となる。誰かの死というのは、ひとつひとつがそのような代替不可能な死なのである。その部分を矮小化してはならない。
「夕凪」には、呪いの言葉が描かれている。この作品のなかで失意のうちに死んでゆく人は、「戦争の悲惨さ」とか「生き延びていくことの無常さ」なんていう抽象的なものについて不満を述べるのではなく、はっきりと、原爆を落とした人間、落とした国に対して、呪詛を投げかけている。これは、非常に重要なことだ。
現代において――特に八月ともなればどのメディアにも戦争報道が増えるが――戦争や戦争行為中における犯罪について批判をおこなうとき、ときどき「原爆を落としたアメリカだけが悪いのではない、悪いのは戦争そのものだ」というような抽象論が聞かれるが、あれは欺瞞だ。
Aという国だけでなく、Bも悪いことをしていた。いやいや、CもDも被害者のような顔をしているけれど実際は加害者でもあるのだ、という事実があったとして、それらは、Aの行為の罪の重さをいささかなりとも減ずるものではない(慰安婦問題においても、「他の国だってやっていたじゃん説」を主張する人間は多い)。昭和二十年当時、広島と長崎に原爆を落とした主体であるアメリカは、まずはっきりと批難されなければならない。「戦争そのものの罪」を問うていくのは、そのような個別の反省のうえではじめて成り立っていくものであろう。抽象的な問いや、抽象的な批判で済ませられるのはきっと、先述の死の代替不可能性というものを自分に照らし合わせて考えてみたことがないからなのではないか。学者や研究者でもないのに、歴史を為政者の視点で語る人間が多すぎる。われわれのほとんどは、戦争が起こった際には理由もなく殺される側の人間だ。理不尽に、無慈悲に殺される存在であるという認識のうえに立っても、まだ「よい戦争」や「よい攻撃」というものを想定できるのだろうか。


去年のノーベル平和賞をICANの人たちが受賞した(個人的素人的感想としては、最貧国のひとつであるバングラデシュがロヒンギャを受け入れたことのほうがよりすごいと率直に思った)が、その意図は、彼ら/彼女らの運動に承認を与えるということにあるのだろう。
であるならば、この『夕凪の街 桜の国』の翻訳ヴァージョンをICANに贈ってみてはどうだろうか。はじめは英語で、それから次々といろいろな言語に訳していけばいい。
『この世界の片隅に』はなかなかに大部だから読みづらいかもしれないけれど、この作品であれば、すぐに読めるし、ストーリーが短いだけにインパクトも大きい。
この作品が強く喚起するものはいろいろあるし、その最たるものは藝術的感動であると僕は思っているのだが、しかし客観的にいって、多くの読者にまずもたらされるのは厭戦感ではないだろうか。残念ながらこの世界から戦争がなくなることはなさそうだが、独裁国家ならまだしも民主主義国家であるならば、厭戦感情、反戦感情を持つ市民たちが大きな声で主張して政治を動かしていくことはそれほど難しいことではないのではないか。
われわれの誰ひとりとして、「死なずにすんだ人」になれる保証はないのだから。

編集
ずっとむかしからつきあいのある人にメールを書くことが難しくなったと感じている。
おととしあたり、これは男の人からの年賀状で、「年とって仕事が落ち着いたら連絡するよ」という文言があって、その人は四十ちょっとくらいの人なんだが、この人が「年とって」となるのを考えると、だいたい二十年くらいは音沙汰無しになるんだなあ、そうであればこちらも相手の都合を考えて連絡しないほうがいいんだろうなあ、なんて思っていたら、今年も年賀状が来て、「あれ?」と思った。こちらとしては、一種の絶縁状みたいに思っていたのに、肩透かしを食らった気分だった。 

また別の人で、これまた十数年の付き合いになる女性からメールが来たのだが、返信になにを書いていいのかさっぱりわからなくて困った。
書くことがない、というわけではない。近況や最近の天気、うちの動物のことなど書けることは書けるのだが、書いていて自分で面白い内容とは思っていない。で、そういう文章は書いていてたのしくない。苦痛に近い。
じゃあ自分のたのしいことを書けばいいようなものだが、それはきっと彼女が受け付けない。あるいは、たのしいと思えない。それよりももっと悪いことに、そこになにかの意味を探したりしようとしてしまう。そうなると、意味づけしようのないことを書くのが次善策ということになり、しぜん当たり障りのない事象に書くことが限られる。 

森雅之のマンガ『追伸 二人の手紙物語』を本棚から引っ張りだして読んでみた。
このマンガは、1988~1989年に連載されたもので、主人公の男女が手紙をやりとりする物語で、以前も書いたことがあったはずだが、やはり今回もじいんと感動してしまった。1ページ1ページをめくるごとに、マンガ内で描かれる「手紙」の文言と優しいイラストとを噛み締め味わっていたものだから、誰に見られているわけでもないのに、「こんな姿、人に見られたくないな」と思いながら読んでいた。
このなかの第三話に「胸の中の手紙」というタイトルが設けられているのだが、このタイトルにまずやられてしまう。つづいて、男性主人公のモノローグがあって、やっぱり「そうそう!」とうなづいてしまう。
小林さん
いつからか僕は――気がつくといつも
こうして君への手紙 考えています。

きれいなものを見た時、うれしい事に会った時、
それからなんでもない時も胸の中でいつも君に手紙 書いてます。

僕は、
僕の見ているもののすべてを君に見せてやりたい。
それは きっと
君もよろこんでくれると思うんだ。
こういう気持ちがかつては僕にもあったし、多くの人にもあったのではないかと思う。
恋愛という言葉で単純にくくるとかえって矮小化してしまう気がするけど、誰かのことを大切に思っているときって、そういう言葉をいつも心のなかでつぶやくというか書いているというか送っているというか贈っているところがある。もしかしたら、実際に書かれることのほうが少なくて、自分の「胸の中の手紙」のほうが分量が多いということもあったのかもしれない。
携帯電話が普及してうんぬんとか、ネットがデフォルトの現代じゃうんぬん、などと言いたいわけじゃない。そもそも、「序」のところには、携帯やメールの登場する以前で、長距離電話の電話料金が高かった、というのが手紙のやりとりの背景にあった、ということが書かれていて、つまりコスプレとかおしゃれとか「丁寧に生きる」とかのニュアンスではなくて、あくまで実用のツールとして手紙が用いられていた、ということがあらためてわかる。だからこそ、四半世紀経ったいまでも、ごく自然なものとして、鼻につかないものとして読むことができるのだろう。
また、今回あらためて気づいたのは、作者の「あとがき」での記述。この物語は、雑誌連載が上述したように'88~'89だったのだが、単行本化されたのはそこからさらに十五年後の2004年だった。そのことに触れて、
(前略)実はこの作品、今となっては、僕にはなかなか読み返すのがつらいものでした。
技術の未熟さはもちろんのこと、その当時の僕自身の青くささ、融通のきかぬ生まじめさと面と向きあうのには、かなりの勇気が必要でした。
にもかかわらず、こうして一冊として出してもらうことにした理由は、編集氏の強い勧めがあったことはもちろんですが、これまでに、そしてたまたまこの時期に、「もう一度あの漫画を読みたい」という人が何人かいたことです。
「描かれた作品」は、作者の手を離れて、常にどこかにあるのだ、ということを改めて思い知らされました。
いまから十二年前という時代に、作者あるいは編集者に「十五年前に雑誌連載されたあのマンガを読みたい」と伝えた読者たちのことを想像する。
誰かが死ねば、(日頃はすっかり忘れていたくせに)その作品などを取り上げてしたり顔でツイートしたりブログに書いたりしてみんなで一斉に消費しようとする時代とはまったく違う、と感じてしまう。

(亡くなったわけじゃないけど)森雅之はものすごくいいマンガを描いている。そのことを読者はきちんとわかっている。けれども、よくある話でものすごく売れている作家というわけではない(と思う)。一読者としてそれはちょっと残念なことなんだけど、また一方で、バカ売れしてどの書店に行っても平積みされている、という状況にはなってほしくない。極端な話、僕だけが知っている森雅之でいい。いや、僕が「この人はわかっているな」と思える人たちだけが知っている森雅之、かな。偉そうだけど。

ほんとうは、こういうことだったらずっと手紙を書いていられる。けれども、こういう内容をもらって喜ぶ人は、少なくとも僕の周りにはいない。いないもんだから、こうやってブログに書いている。そうすれば、読んでもらうということを期待しないですむ。 書き上げて公開して、あとは放り投げてしまうようなもんだ。
それでも、森雅之の話ほどではもちろんないが、「そういや、誰かが森なんとかっていう人のなんとかっていうマンガを褒めてたなあ」と誰かが思い出すことがあればいい。

編集
『孤独のグルメ』が深夜のテレビドラマになってなんだか流行っているらしい、ということをいつ頃からか仄聞していた。
それまで僕は、『孤独のグルメ』を理想の食事が描かれているマンガとしてサービス業の人に薦めたり、場合によってはプレゼントしてきた。うちの本棚にある文庫本は三冊目で、はじめは単行本を持っていたように記憶しているが、それも誰かに貸したままになっているらしい。
そういう十数年のつきあいになるマンガを、テレビドラマを見てきのうきょうファンになった連中が騒いでいるというのを聞くと、とても気分が悪い。僕はもともと流行っているもの・ことが大嫌いな性分で、なるべくそういうものには近づかないようにしているのだが、「連中」がこちらのテリトリーにずかずかとやってきて、ぎゃあぎゃあと喚き出すというのを目の当たりにすれば、気分が悪くなるのは当たり前だ。本が売れ、作家の儲けになるということは非常に喜ばしいことなのだが。
なので、十八年ぶりに続編が出るということはなんとなく知っていたものの「数年後に読めばいいか」くらいにしか思わなかった。
それを、このあいだ誕生日だということである人からプレゼントしてもらった。

前作の『孤独のグルメ』(便宜上「1」とする)では、主人公はやや偏屈なところを持った中年男性で、学生時代に柔道をやっていたということで少しがっちりしている。この「やや偏屈」という部分が僕は好きだった。
「好きだった」と書いたのは、「2」では「1」に感じたような偏屈さはだいぶ消え、どころか主人公は、ダジャレを多用するような親父臭いおっさんになっていたからだ。顔の線も少し細くなっていて、これがあの主人公だったか、と少し疑わしくなったほどだ。あとこれは作画の技術的な問題なのかもしれないが、背景からキャラクターが浮いているように感じられ、そこにも違和感が。

原作者の久住昌之といえば、僕はQ.B.B.名義のマンガがいちばん好きで、彼らの『とうとうロボが来た!』は20世紀に描かれたマンガのなかで好きなものトップ10には必ず入れる。『中学生日記』もすばらしい。『孤独のグルメ』が好きなのであれば、泉昌之名義で『ガロ』に描かれた『夜行』も面白く読めるはず。これは『かっこいいスキヤキ』のなかに収録されている。
作画の谷口ジローには『坊っちゃんの時代』という名作(これも人にプレゼントしてしまった)があるが、それ以外にも『犬を飼う』 という地味だが優れた作品もある(と偉そうなことを言っておきながら『神々の山嶺』という有名作品は未読)。

これらの作家陣がだいぶ年をとってしまったということなんだろうか。
ダジャレを言うなどして主人公がサービス感たっぷりなのは、多分に「読者」というものを意識しているからのように感じられたのは邪推だろうか。「1」ではイヤな客に主人公がアームロックを極めるシーンがあったが(ドラマでも採用されたようだ)、「2」でもやっぱりイヤな客に極め技を仕掛けるシーンがあって、これを読んだときにはずいぶん興醒めした。同シリーズの作品で同じモチーフの展開をするだなんて、あけすけな「ファンサービス」以外になにがあるというのか。
作品中、材料がどうこうだからおいしいとか、料理法がどうこうだからうまい、などと語られることは一切なく、店の雰囲気や客の様子があってこそのごはん、という捉え方は「1」と同様「2」にも通底していて、この点は、「絶対的なおいしい料理」というものが存在しているという設定の、蘊蓄重視の薄っぺらいグルメマンガ・料理マンガとはやはり一線を劃していると感じた。
が、前作にあった乾いた孤独が、本作ではかなり薄まってしまっている。
なぜ、『孤独のグルメ』というタイトルなのか。それは、好むと好まざるとにかかわらず主人公はつねに独りでいるからであり、その孤独をたのしみ、また同時に少し寂しくも思っている。そういう男が食事をするときに、誰にも聞かれない心の内でいろいろとしゃべっているのを、われわれ読者だけが聴いている。それが『孤独のグルメ』という意味だったのだと思う。
ところが、「2」の主人公は、はじめからわれわれ読者の存在を知っていて、自分の「内なる声」がそこに届くことをちゃんと知っているように見える。直截的な描写がもちろんあるわけではなく、描く側のそういう心構えが透けて見えるように思うのだ。
われわれでも似たようなことが言える。それまで、「ひとりで食事をする」ということは文字通りの意味しか持たなかったのだが、いまではSNS(ブログでも同じだけど)にアップすることによって、「ひとりで食事をする」ことを他人に見せることができる。他人に「ひとり」を見せつけることは、はたして本当に孤独ということになるのだろうか。
僕はなにも、人間関係の希薄さや、存在そのものの無常観、あるいはどのようにツールが発達しても払拭しきれない精神的飢餓というものを訴えたいわけではない。そうではなくて、「孤独」というもののあり方が変ってしまったということをただ言いたいのである。

「1」にはハードボイルドな雰囲気が強く感じられたが、それは、孤独というものは嚙み締めるほかなかった時代の作品だったからなのかもしれない。「2」だって基本路線としては「1」を踏襲しているが、表現のあちこちに見られる違和感に、年をとって下腹についてしまった脂肪を連想した。そこに熟年の苦楽を感じてもよいが、僕は拒否したい。
繰り返しになってしまうが、食事というものが、ただ食べることだけを意味した時代を僕は好む。食事を他人に見せることによって、「食事をする<私>」を表現しようとすることを、僕は浅ましいと思っている。
もちろんその批判は、ただマンガを読むだけで終わらずに、マンガについての感想を書くことによって、「マンガを読んだ<私>」を表現しようとしている当記事についてもそのまま言えることなのだが。

編集
最近はあまりマンガを読まない。アラフォーという年齢のせいも多分にあろうが、少年マンガが不必要に長編化しているのでもう飽き飽きしているのである。
みんな、もう一度確認しよう。岩明均『寄生獣』ですら十巻で完結しているんだぜ?
いま十巻を超える連続もののストーリーマンガで、あの作品を超えるものがいったいいくつあるというのか。
少年マンガではないが、その巻数に見合う物語は(僕の知っている範囲では)三宅乱丈の『イムリ』くらいしか思い浮かばない。あれは非常にスケールのでかいマンガで、もちろん、人気が出たからって無理矢理連載を引き延ばし、巻数を増やしているだけのマンガとは別次元にある。

そんな中、最近買ったマンガがある。松本英子の『謎のあの店』の1と2。
内容については割愛するが、この中で作者がいくぶん精神世界(←これ、本屋の棚の名称で、言い換えるとスピリチュアルだったりする)にぐっと寄っている回がいくつかあるのだが、ふうんという感じで読んでしまう。
この「ふうん」に、否定的なニュアンスはまったくない。なるほど、この人(作者)はこんなふうに感じているんだなあ、と素直に思うだけである。
と言っても、僕はおよそ宗教行事はまったくしない人間で、墓参りもしなければ初詣でもしない。僕自身があまり信じてもいない世界だというのに、なぜこの作者の行動については興味を持つのか。
それはたぶん、この作者に対する信頼感のせい。立川談志という人間はあまり好きではないし、その落語も「いまいちだなあ」と思うのがいくつもあると思ってはいるものの、けれども談志の落語への姿勢(ときどき突き放したりもしていたみたいだが)はなんだか信頼できる、というその信頼感と似ている。
信頼できる人は、けっきょくなにをしたって支持をしたくなるのだ。少なくとも否定はしたくない。
それゆえに、松本英子のマンガを読んだときの「ふうん」という感想のなかには、自分の考えがぐらりと揺り動かされた驚きがしばしば含まれる。ただの「面白い!」では終わらない。

余談だが、今年からムラの役員(といっても十人ほどいる)になったので、神事仏事にはきちんと参加している。そのため、そこらへんのアマチュアさんたちなんかよりはよっぽどご利益があるんじゃないか、と勝手に思っている。
新年も、元日の朝から集まってお供え物をして、二礼二拍手一礼をきちんとしてきたので、リアル・ネット上の僕の知っている人たちにはそのご利益が行くようにはお願いしてきた。あちらの都合というものもあるでしょうが。


ネットでは疑似科学っていうのがときどき槍玉に上がる。
『奇跡のリンゴ』が映画化されたときも批判記事がこぞって書かれた。そういうところに群がって「そうだそうだ」の大合唱をするのは「疑似科学批判教」の信者なのではないか。僕にしてみれば、両者は同じ次元にあるように見えてしまう。
僕は、受け手がそう思うんならそれでいいじゃん、という考え方に拠っていて、わざわざ他人の考えを修正・訂正しようとするほどの動機が自分のなかに見当たらない。
でもたぶん、事実と言われるものだけを積み上げていってなにかを批判するのって、気持ちいいんだろうね。その気持ちよさに酔っている感じが、疑似科学に盲目的に心酔している人たちとそれほど変わらないように見えるけれども?

何ヶ月か前に、NHKで空き家についての討論番組があった。そのなかで宇野とかいう若い評論家が、七十代くらいの人の意見を、正論を以て真っ向から否定していて、ああこいつダメだなと思った。
正論に酔っちゃっているんだよね。「これはこれで正しいですよね? で、次のこれもこれで正しいですよね? ということは全体で正しいことになりません? ほら、僕の言っていることって正しいでしょう?」っていうニュアンス。
そんなに正しいものがあったら、世の中どこへ行っても苦労しないわっていうくらいに、「正しさ」みたいなのを信奉しているように感じられた。少なくとも、七十数年も生きてきて得られた感覚みたいなものに対してまったく敬意を払っていないところに、僕は軽蔑の念を感じてしまった。要は、コドモのように感じられたのだ。

そもそも、若く(僕と同輩)、苦労知らず(たぶん)の正論になんの意味があるのか。
最近読んでいる毎日新聞の『万能川柳』(単行本)にぴったりのがあったよ。
順調な人の正論鼻につき (四日市 い藤をか志)

落語『酢豆腐』で、若い連中がおおぜい集まったはいいが、酒の肴がないということでああだこうだと鳩首しているとき、あるひとりが言う。糠床を浚えば野菜の切れ端が出てくるだろう、それをトントントンと包丁で切りゃあいいじゃねえか。
これを聞いてみんなのまとめ役である人間が「さすが苦労人」と褒める。
これは、ただ苦労した人という意味ではない。苦労をしたからこそ、人の情に通じ、世間知に長けているという意味での褒め言葉である。


ある程度の年齢を経ると、以前は嫌いだったものが、「まあ、これもいいのかもな」と許容できるようになる瞬間がある。
その対象をはじめから好きな人がいて、「わたしはずっと若いときからいいって言っていたよ」と言われても、嫌っていた時間を決して損したとは思わない。むしろ、その迂回路が愛おしい。
遠回りをして長い時間をかけて得られた感慨というものは、近道して得られたそれとは、たとえ到着点が同じであっても異なるものだ。
苦労をして到達した場所には、きっとそれなりの意味があるのではないか。
だから僕は、松本マンガの歩いて来た道、そしてこれから歩いて行くであろう道を好むのだと思う。

編集

小賢しい少年マンガが多い、ということをここ最近ずっと思っている。
ストーリーやキャラクターの魅力を中心に置くのではなく、どちらかといえば、キャラクターのスペックや属性、あるいは諸々のディテールのヴァリエーションをたのしむマンガのほうが増えているような気がしている。こういうマンガは打算と惰性と蛇足で成り立っているので、読んでいても面白くない。

王道を『ワンピース』が行っている以上、それ以外の道を模索するとなると、そういう枝葉末節に拘泥する方向に行かざるを得ないのだろうか。
余談。『ハンターハンター』なんかも、わりとディテールのうるさいマンガだと僕は考えているのだが、それでもいちばん面白かったのは、ネテロ・メルエム・コムギらの絡み合いであって、ああいうところに作者の本当の興味のあるところが見えたような気がしたものだ。最強が最弱に負ける、というのはこれまでの作者のひねくれ具合から考えるとベタ中のベタのようにも思えるが、しかしあの作者は、『幽☆遊☆白書』の桑原和真、そして『ハンター』のナックルやレオリオなど、ああいうどストレートなキャラクターを好み、かつ重要な役割を与えているところからして、ああいう展開もキライではないはずなのだ。余談終わり。
しかしまあ、読み手側のニーズに応えてディテール(の差異)重視になっているということを鑑み、これから描かれていくだろうマンガもきっと、これまでと似たような、いやこれまでよりもっと薄まった、なにかのマネをマネしたものをさらにマネしたものになるであろうことを思えば、惨憺たる未来しか思い浮かばない、とそういう日々がここ数年つづいていたと思う。いくつかの例外はあったにせよ*1

(鼻濁音)、珍しく昂奮できるマンガがジャンプに最近連載されはじめた。『戦星のバルジ』で個人的には大期待したのだが、『動物園』につづいてまたもや打ち切りを食らってしまった作者による、『僕のヒーローアカデミア』だ。

僕のヒーローアカデミア 1 (ジャンプコミックス)

僕のヒーローアカデミア 1 (ジャンプコミックス)

まず、『バルジ』のときにもちょっと書いたが、この作者は、異星人とかを書くとめちゃくちゃハマる。もともと奇抜なデザインなんかを描くのが好きなのだと見えて、しかも今回はそのテーマがヒーローときているから、これ以上のマッチングはないんじゃないか。
そして、このヒーローというテーマがすばらしい。これぞ王道。これぞ少年マンガだろう。
僕みたいなふつうの読み手なら、いまどきヒーローが主人公のマンガなんて描こうと思うだろうか*2、という疑問がすぐに浮かんでしまう。
ジャンプだけでも過去にドラゴンボールがあって、それから現在ワンピースがある。ということは、ヒーローはすでに間に合っているということだ。わざわざヒーローと標榜するマンガなんてもってのほか。
でもさあ、そういうのこそ読みたいんだよ、ほんとは。少年マンガの王道の真ん真ん中を駆け抜けていくマンガをさ。

第一話はわりあい構成が複雑である。読みにくいということではない。むしろ心憎い。
物語中「個性」と呼ばれるヒーローの才能を先天的に欠如している主人公は、幼年期にそれを医者に指摘される。ヒーローになれないことがわかりつつも、大好きな憧れのヒーローの動画を観て「僕もなれるかなあ」と泣く主人公に、母親も泣いて彼に謝る。「ごめんね ごめんね」と。このとき主人公は独白する。「違うんだお母さん あの時 僕が言ってほしかったのは……」
この「答え」がわかるのが、最終ページ。なんと34ページもあとのことなのだ。まあ、数字なんてほんとうにどうでもいいことで、読めばこの「答え」にきっと鳥肌が立つことだろう。
また、「誰か」と「私」と「僕」というのも第一話のひとつのキーワードになっている。
世間にありふれた存在となった「個性」のおかげで、「ヴィラン」と呼ばれる「敵」があらわれても一般市民はたいして驚かなくなった。この世界のなかではヒーローが職業化されていて、そのなかの「誰か」が助けに来ることがすでに日常の一部となっているのだ。実際に作中でも、敵が市中で暴れまわっているなか、「誰か」というセリフが何回も吐かれる。
「すぐ誰か*3来るのにな」「誰か有利な”個性(やつ)”が来るのを待つしかねえ」「何!すぐに誰か来るさ!」、そして、暴れ回っている敵が乗っ取ったのはクラスメート(ふだん主人公をいじめるやつなのだが)の身体だったということがわかった主人公までもが、「頑張って…! ごめん! ごめんなさい…! すぐに救けが来てくれるから…誰か…ヒーローがすぐ…」と立ち竦むのだが……、しかし次の瞬間、彼は敵の前に飛び出す。クラスメートを救けるために身体が勝手に動いてしまったのだ。
いつも「誰か」に困難を押し付けている世界のなかで、真のヒーローであり主人公の憧れの対象でもあるオールマイトは、いつも「『私』が来た!」というセリフとともに、満身創痍ながらも戦い、その困難を排除する。そして第一話の最後は、主人公の「僕」のこんなモノローグで終わる。

言い忘れてたけど これは僕が最高のヒーローになるまでの物語だ

陳腐な言い方になってしまうが、とにかくアツいマンガなのである。

もうひとつだけ。ヒーローになるための名門高校のヒーロー科(という「科」がある)に入ろうとする主人公は、その入学試験で他人を救けるために自らの危険も省みない行動をするのだが、しかし試験じたいは点数を落としてしまう。不合格を信じて疑わない主人公のもとに、後日ヴィデオが送られてくる。ここでのオールマイトのセリフがいい。

人救け(正しいこと)*4した人間を排斥しちまうヒーロー科などあってたまるかって話だよ!!
きれい事!? 上等さ!! 命を賭してきれい事実践するお仕事さ!!

大袈裟な話になってしまうが、2001年のニューヨークの同時多発テロ以後、世の中には多様な価値観や文化があってそれを尊重し合うべし、というのがたいていの人たちのデフォルトの認識になっている。その文脈では「正しさ」は相対的なものとして扱われ、「正しさ」を声高に主張するものは、時代遅れにとらえられても仕方がない。
しかしその一方で、一定の強度を持った「正しさ」というものはやっぱりあるのではないかという思いが――特にフィクションの分野では――どうしても拭えない。そのもやもやとした、いわば霧みたいに曇っている部分を、上のオールマイトの言葉は「SMASH!」と吹き飛ばしてくれた。「人救け」は「正しいこと」なのだと。
僕はこのシーンを読んでいて、島本和彦アオイホノオ』のある部分を思い出した。第四巻で、新人賞向けに描こうとしているマンガの内容を、時代のウケを考えて学園モノにしようとする主人公。しかし、マンガに詳しい友人たちにそれを話すと、「面白くないよ」と頭から否定される。
「宇宙も怪獣もヒーローも出てけえへんやん!」「変身もせえへんのやろ!?」「あかんわー、戦って勝つやつやないてよう読まれへんわー」「絶対あかんて!」「時間の無駄やて」
このアドバイスを受けての主人公ホノオのモノローグ。

やはり…せめてフィクションの中でくらい…
人類を守らないと…! 地球くらい守らないと…!!
正義とは何か!? 悪とは何かを問わないと…
スポーツなら体が砕けても…必殺技を…
あるいは野球どアホウにならないと…!!

このセリフの背景では、キャプテンハーロックやらサイボーグ009やら巨人の星やら男どアホウ甲子園やらデビルマンやらマジンガーZのマンガが描かれている。一見、ここはギャグのシーンのようでもあるのだが……でもそうじゃないんだよなあ。繰り返しになってしまうが、やっぱり少年マンガの王道の真ん真ん中を駆け抜けていくマンガを、僕らは読みたいのである。

弟に指摘されて気づいたのだが、『ヒーローアカデミア』一巻のカバーの作者コメントに「乱暴な言い方ですが、まず自分が一番楽しめる漫画に、という考えで描いています。いずれ通用しなくなるのかもしれませんが今んとこ僕は楽しいので、皆様にもたのしんでいただければ幸いです」とある。
この「いずれ通用しなくなるのかもしれない」という予感はけっこう正直なもので、人気を上げるために、必要(=作者の考える)以上の女性キャラor男性キャラのヴァリエーションを増やしたり、ということが今後あるかもしれない。また、打ち切りの憂き目に遭うかもしれない(いまのところその心配はないが)。
けれども、今はこのまま王道をダッシュして行ってほしい。また、こういうマンガこそ受け容れられてほしいとも思っている。心から応援している。

*1:スポーツマンガとしての『ハイキュー!』は特筆に値する。

*2:ギャグマンガだったらこれからも見込みが望める分野であって、現に島本和彦が『ヒーローカンパニー』を連載中。過去にも、少し趣向が異なるがジャンプで麻生周一ぼくのわたしの勇者学』が連載されていた。

*3:この部分だけ、「誰か」に傍点が打たれている。

*4:念のために註記するが、「人救け」と書いて、「正しいこと」とふりがなを振っているのだ。

編集

当たり前だと思っていたのだが、子どもの頃、家にマンガなんて何冊もなかった。『こち亀』が数冊、『キン肉マン』が数冊、横山光輝三国志』が数冊、『夕焼けの詩』が数冊と他にちょろちょろ、くらいなものだったと思う。いや、こう数えてみると、「何冊」かはあったわけだが、全て揃っているマンガなんてひとつもなかったと思う。
横山『三国志』は当然興味があったが、吉川英治の小説本(たしか八冊)を手に入れて満足した。もしかしたら図書館で借りたのかもしれないが、いづれにせよマンガ本全六十巻を手に入れられるなんて思っていなかった。
うわー買って買って、などとおねだりすることはなかった。困窮しているわけでもなかったがそんなに余裕がある家でもない、ということは子どもの頃からなんとなく知っていたから。

でも、マンガは好きだったので、家にあるマンガは何度も何度も繰り返し読んだ。それから、図書館の児童コーナーにあったわづかなマンガも読んだ。「揃い」であったのは『はだしのゲン』で、悲惨な内容だったが、それでも繰り返し読んだ。
やがてそれに物足らなくなり、一般の書架を探しまわり、たしか「絵画・漫画」のコーナーだったと思うが、そこでお宝を発見した。白土三平の愛蔵版『カムイ伝』全四巻、藤子・A・不二雄の愛蔵版『まんが道』全四巻、どちらも広辞苑ばりの厚さの本が四冊。これは何度も何度も読み返したなあ。
ついでに、何巻本だったか忘れたが、中国の人の書いた漫画(といっても中国風)版三国志もあり、これも読んだ。たしか赤瀬川原平の『櫻画報』もあったんじゃないかな。背景が水木しげるっぽかったから読めなくはなかったけれども、ちょっと意味がわからなくって(しかもちょっとアヤシイということは小学生ながらも気づいていた)一回きりだった。

とにかく、『カムイ伝』と『まんが道』だった。
カムイ伝』は、最初読んだとき、結末の意味がわからなかったと思う。とにかくゴンの最期がものすごく印象的で、代官たちに拷問を受けた際に、甕のなかの煮え立った鉛を自ら飲み干し、「こんなもんで、われらの心まで溶かすことはできん!」と叫び、絶命する。
あと、主人公が死んだら双子を疑えということも知ったし、狂人のふりをしたスパイもいるということも知ったし、抜け忍は死ぬまで命を狙われるし、蚕は大事で、鐘楼流しで海に流された野菜を集めて漬物にすれば大儲けできて、と、とにかくいろいろなことを知った。関東では馴染みの薄い被差別部落の問題も『カムイ伝』で知った。
一方、『まんが道』では、マンガ家の大変さを知った。そこで、なろうなろうあすなろうとマンガ家を目指すことになったのだ、とはならなかったが、すぐれたマンガを描くマンガ家を尊敬し、マンガをそれまで以上に愛するようになっていた。あれを読んだら、手塚治虫を神と思わないわけにはいかなかった。

今の子どもたちは、家に『ワンピース』七十何巻とかがふつうにあるのかな。あるいは他の何十巻揃いなんていうマンガも、当たり前のこととして家の本棚にあるのかな。羨ましい……とはあまり思わないんだよなあ。島本和彦アオイホノオ』を最近また読み返していて、あの欠乏感って大事だったんだなあと思うようになっている。
手元にない。でも、知りたい。読みたい。触れたい。そういう思いが情熱を生み、大きなモチベーションになったという部分もたしかにあると思う。
もし子どもの頃に横山『三国志』が全巻揃っていたとしたら、吉川英治版の『三国志』を読まなかったかもしれないし、その後の読書全体にも影響を与えたかもしれない。『まんが道』も知らないままだったろうし、手塚治虫はただのマンガ家だったろうし、だいいち図書館に通っていなかったかもしれない。

手元になんでも揃っているって、でも結局はそれしかないってことでもある。それしかないってことに気づかないってことでもある。
はじめからなければ、いろいろと探そうとする。作ろうとしたり、想像してみたりする。いまじゃけっこうそれが役に立っているんだよな、と書いて、これは僻みなのかもしれない、とも思う。

編集

きょうは八月最後の金曜日。


「ジンジャーのかおりで目覚めた」という一文で始まるマンガがある。萩尾望都『金曜の夜の集会』。
主人公の男の子マーモの、八月最後の金曜日の話だ。
彼は、自分より背の高いクラスメートのセイラに好意を抱いていて、ちょっとしたタイミングをつかまえて、来週の金曜の夜に新しい映画が来るのでそれを観に行こうと約束する。彼は、来年あたりには背が伸びて、そのときになったらセイラの背に追いつくだろうと心のなかで思っている。

その夜、マーモの両親は集会に行くと言って、彼と病弱の姉を残して外出する。
しばらく経ってマーモの友だちがやってきて、町中の大人がいないようだ、と彼に告げる。まさかとは思うものの彼は、友だちと一緒に大人たちを探しに行くことにする。
星のきれいな夜。お城のまわりに大人たちが集まっていた。そこで彼は見つかってしまう。
学校の先生が、マーモに説明する。この町は、夜の十二時を境に消えてしまう。おそらく戦争によって、と。マーモの姉は予知能力を持っているのでそのことを知っており、滅亡を回避するために、町が消滅する原因となるエネルギーを利用して、時間軸を過去に向かって回転させ、ちょうど一年ぶんだけ戻る。そうやってこの町は、ずっと同じ一年間を繰り返している、というのだ。
マーモは気づいていなかったが、ずっと同じ一年が繰り返されていた。毎回、細かな変化は起こるが、同じ日々の繰り返し。
「いつも同じ夏。同じ夏の終わりがきたら、またみんなで同じように時をもどす」

彼は家に帰り、ベッドに横になっている姉と話す。姉は言う。未来の夢を持つ子どもたちは、記憶を消してまた新しい一年を送れるようにしている。
それを聞き、マーモは泣く。

そして明日はこないんだ
セイラと約束した金曜日もこない
いつかぼくの背が高くなる日もこない
ザリガニを食ったチビのおねしょがなおる日もこない
中学生になる新学期もこない
ぼくがおとなになって天文学者になることもないんだ


このぼくらはみんなまぼろしだ
とうに存在しない影なんだ

あと三十分できょうが終わると気づき、マーモは外に飛び出す。彼にはやりたいことがあった!
行く先は、セイラの家。窓ガラスを叩いてセイラを起こし、「いまからほうき星をみにいこう」と言う。

f:id:doroteki:20140829212550j:plain
f:id:doroteki:20140829212556j:plain
©萩尾望都
このエンディングを見ると、いつも胸が詰まる。


ほぼ一年前、僕は前のブログの更新を終了し、アカウントも変更した。

そのとき、とりあえず一年はつづけてみようと思い、タイトルを「そして明日はこない」とつけた。細かな違いはあっても、もしかしたら去年と同じような一年になるかもしれない。前のブログと同じように、また嫌気がさしてやめてしまうのかもしれない。どうなるかわからないが、既視感とささやかな希望をもってブログを始めてみた。
そしてきょう、八月最後の金曜の夜がやってきた。


ちょっと前まで、きょうを境に他のブログもすべて閉じようかと思っていた。理由はいろいろとあって、それも書いてきた。
『金曜の夜の集会』の物語と同じように、ちょうど一年でブログを消してしまえたら、それはそれできれいにまとまるなという考えもあった。前のブログも、そしてこのブログも、まるでひとつの物語のように円環の中に封じ込めることができ、そこにわづかな自己満足も一緒に押し込めると思っていた。

また、僕のこの頃(といってもけっこう長いけれど)の考えとタイトルとに合致する部分もあった。いままでふつうにつづくと思っていた日常は、いきなり終わりを告げ、その姿を一変させてしまうこともあるんだ、というような。だから、ある日ばっさり終ってもいいと思っていた。

その一方で、きれいにまとまるってのは、ちょっと恰好悪いという思いもあった。
千利休が庭を徹底的に掃き清めたあとで、もみじの木を揺らしてその葉を散らさせたという、あの創作っぽいエピソードを僕は好ましく思っている。
予定通りに一年できれいに閉じてしまうブログ群は僕にしちゃきれいに行きすぎで、反対にちょっと恰好悪いのだ。きれいにまとめようとしてもまとまらず、足掻き、悶え苦しんで、誰彼かまわず撒き散らし、みっともない感じが残っていくほうが、なんとなくいまこの瞬間の気分に合っている。

だから、これまでどおりにする。「利休の落ち葉」とかそういうタイトル変更もせずに、これまでどおりに。

編集

個人用メモ。

ここ数日で、例の三十数年惰性番組の最終回を華々しく「祝福」している(であろう)記事の見出しをいくつも見かけたが、そんなに「万人」に祝福されるような番組だったら終わっていないよ、と思った。かつてのようには見向きもされなくなったのだから終わったのだろうに。この何日間であほみたいに「ありがとう」とか「感動した」などというメッセージや意見を発信しているやつらの、いったい何割があの番組をずっと観つづけていたというのだろうか。おまえらの全員がこれまでずっと観てきたのなら視聴率の低迷などということは起こらず、司会者当人がやめるって言い出すか、あるいは、死ぬかするまでつづけられたはずじゃないか。
また、司会者がもともと持っていた反体制的な匂いはずっと前からデオドラントされていて、(フジサンケイグループとはいえ)現職の総理大臣が出演したことで、僕には最後の最後のダメ押しというふうに映った(観てないけど)。「国民的」などというくだらない形容詞が冠されてからつまらなくなったという点で、『こち亀』の両津とよく似ている。考えてみればあれも、「長寿」とは称されるものの実態は質の低い惰性連載マンガだ。

f:id:doroteki:20140403204035j:plain

上は面白かった頃のこち亀*1。ここにあった毒は、もうない。
例のテレビ番組について、都合8054回と聞かされてもなんの感慨もないし、祝福も、感動もない。ついでに、この文章のオチもない。

*1:偶然にも今週のこち亀にも大阪出身のキャラが出てきてそいつが「活躍」するのだが、ここ数年(十数年?)は大阪に対するヨイショが気持ち悪い。両津いわく「大阪のやつらにはかなわない」みたいな。昔の両津だったら考えられない台詞。

編集

アマゾンが「オールタイムベスト」と題してコミックを百冊選んでいたのに気づいたのだけれど、「オールタイムベスト」ってどういう言葉なんだろうと思ってしまった。まさか「最近の売れ線」って意味じゃないよね?
ざっと見、いつもの面々という感じで、その作品個々についてなにか言いたいのではなくて、セレクションに対して「貧しい」という感想しか持てない。どこかの本屋が同タイトルでこういう陳列をしていたら、「けっ、センスねーの」と思ってその場を立ち去ることになろうが、ただひとつ、高野文子『黄色い本』があったことだけが嬉しかった。

黄色い本 (アフタヌーンKCデラックス (1488))

黄色い本 (アフタヌーンKCデラックス (1488))

編集

とりあえず長文を書く気力がないので、ランキングと一言コメントのみ。

第一位 三宅乱丈『イムリ』

イムリ 1巻 (BEAM COMIX)

イムリ 1巻 (BEAM COMIX)

現在、十四巻まで出ている。舞台は地球ですらなく、主人公は人類ですらない。壮大な世界観、綿密に練られたストーリー、そして、人間の残酷さ。今まで知らずにいてごめんなさい、というしかない。イムリ(というのは、ある種族の名前)のイノセンスは、描かれている世界が圧倒的に残酷だからこそ際立ち、美しい。カーマ(同じく種族の名前)の狡猾さは、われわれの持っている悪そのものであり、醜い。僕のマンガ経験が少ないせいかもしれないが、本作のようなスケールのファンタジー作品には出会ったことがなかった。いま僕は、日本マンガ史に金字塔が立つ瞬間を目の当たりにしているのかもしれない。

第二位 松本英子『荒呼吸』

荒呼吸(1) (ワイドKCモーニング)

荒呼吸(1) (ワイドKCモーニング)

全五巻。『イムリ』がなかったら、おそらくこれが昨年のベスト。というくらいに、作者の感性に強烈に惹かれた。エッセイマンガらしいエピソードのあいだに挿入される作者個人の哀しみや苦しみは、文学のレベルにある。先の震災で軽いパニック症候群に陥った弟は、この作品を読んで、「自分の経験したこととまったく同じことが描かれていた」と言っていた。それは「少し救われた」というようなニュアンスだった。生きるのは辛いこと。けれども、その先にある小さな喜びも、この作品には描かれている。傑作。

第三位 百名哲『演劇部5分前』

演劇部5分前 1巻 (BEAM COMIX)

演劇部5分前 1巻 (BEAM COMIX)

これは前のブログでも言及した。高校演劇の「公演が終わったらなにも残らない感じ」が見事に描かれていて、何度読み返しても涙が出てくる。すべてを読み終えたあと、最終巻(第三巻)の裏表紙を眺めると、非常に感慨深い。

第四位 安永知澄『赤パン先生!』

赤パン先生! 1 (ビームコミックス)

赤パン先生! 1 (ビームコミックス)

主人公は異母姉妹。一言では説明しにくいが、これも純真さと残酷さの物語といえるか。きらきらとした少女時代が、ちょっとした悪意やトラブルでその輝きを失っていく。読者は、ページをめくるたびに、胸に小さな痛みを感じつづけることになる。第一巻最初の、少女がプールの中を泳いでいく場面から読者はすっかり引きずり込まれてしまう。それからずっと僕は、どうか、どうかこれ以上不幸が起こらないようにと祈るようにして読み進めている。現在二巻まで刊行中。続刊が待たれる。

第五位 山本直樹『レッド』

レッド(1) (イブニングKCDX)

レッド(1) (イブニングKCDX)

連載開始七年にして、単行本七冊。まだ物語は核心に至っていない。この物語のヒロイン赤城は、連合赤軍永田洋子がモデル。おそらく、ほぼ実際にあったことに基づいて描かれているのであろう。僕は、山岳ベース事件は母から聞いた程度でしか知らないが、そのとき母は「永田洋子なんていうのは、鬼か悪魔だ」という言い方をしていた。このマンガを読むと、そのようには思えない。これは、極めて特殊な思想を持った鬼か悪魔のような人間が、その仲間たちを殺戮していく物語なのではない。われわれふつうの人間が、状況によっては鬼か悪魔になる可能性があるということを描いているのだ。なお、第一巻の最初の見開きで登場人物たちがみな瞑目しているのだが、圧巻。

第六位 伊図透『エイス』

エイス (1)

エイス (1)

『ミツバチのキス』『おんさのひびき』の伊図透。現在二巻まで刊行されているが、描かれる世界は信じられないくらいに広大で、全容はまったく見えてこない。ただ、伊図らしい純粋さと残酷さの対立はそちこちに見られ、これまた胸がかきむしられるような思いをしなければならない。伊図の前二作は、どうも尻切れトンボになってしまったのだけが玉に瑕だったが(それ以外は文句のつけようがない!)、今回はじっくりと最後まで描き抜いてほしい。そろそろ三巻が出るはず。

第七位 あすなひろし青い空を、白い雲がかけてった

ほんまりう『息をつめて走りぬけよう』と勘違いして、古本でチャンピオンコミック版全三巻を入手。連載期間は'78-'81というからだいぶ昔だ。物語は一話構成、だいたいの場合、三分の二がドタバタギャグで終盤数ページでシリアス調に、という展開。その中で思春期特有の悩みが描かれるのだが、これが素晴らしい。特にチャンピオンコミック版第二巻の「ビューティフルサンデー」は、扉絵も含めて最高。実に他愛のない話なのだが、胸を熱くせずにいられない。丁寧なタッチ、巧みなデフォルメ、良心にあふれたストーリー。これこそが少年誌に掲載されるべきマンガなのだと思う。

第八位 堀尾省太『刻々』

刻刻(1) (モーニングKC)

刻刻(1) (モーニングKC)

時間の止まった「止界」の中での話。現在七巻まで刊行されているが、登場人物たちは、ずっと午後六時五十九分の中にいる。この設定にリアリティを持たせているのが、作者の画力の高さ。「止界」を動き回るヒロインはエプロン姿だし、その祖父はジャージ姿だ。この斬新なミスマッチひとつをとっても作者のセンスは非凡だとわかる。単純な絵のうまさだけでなく、構図も素晴らしいので迫力が尋常ではない。また、どこかの週刊連載のように行き当たりばったりで描かれるのではなく、周到な構成が随所に感じられ、このマンガを単なる「時間SF もの」「戦闘もの」から一段も二段も上のレベルに押し上げている。さらに、それにくわえて登場人物たちの戦略的駆け引きも看過できない。どうやら来秋刊行予定の八巻をもって完結するらしいので、それから読み始めてもいいだろう。

第九位 ムライ『路地裏第一区~ムライ作品集~』

路地裏第一区 ―ムライ作品集― (IKKI COMIX)

路地裏第一区 ―ムライ作品集― (IKKI COMIX)

ネットで以下の作品を知ったのがそもそものはじめ。

この『作品集』、前半は西岡兄妹の作品を思わせる。静謐で詩的で繊細な世界だ。ひとコマひとコマが挿画のようであり一枚のイラストレーションのよう。まず、絵を観ているだけでもたのしい。それが、真ん中くらいの『はじめての床屋』あたりから、キャラクターたちが少し活発に動き始める。作品には「不思議さ」だけでなく「かわいらしさ」が目に立つようになり、初期(?)の詩的な世界もよかったが、これはこれでたのしい。ものすごく売れるマンガではないのかもしれないが、それでも、できるだけ多くの人の手にとってもらいたい。

第十位 吾妻ひでお失踪日記2 アル中病棟』

失踪日記2 アル中病棟

失踪日記2 アル中病棟

前回の『失踪日記』から八年経ったが、話の内容は前作のつづき。アルコール依存症のどうしようもない人間たちが登場して、どうしようもない振る舞いをする。さしたる感動的なことは起こらず、ただ淡々と描かれるというのが本書の一番の特徴であろう。巻末にとり・みきとの対談が掲載されているが、作者の視点という問題をとりが取り上げていて、興味深く読んだ。病棟のシーンでは、作者自身を含めた登場人物たちがわいわいと騒いでいることが多いが、それは作者吾妻が、現実を突き放して観察しているようなところがあったからだろう。佳作*1

まとめ

もともとはカウントダウン方式で書くつもりで、下位の方(ただし『アル中病棟』は除く)は精読したのだけれど、気力がなくなり、上位は不徹底となってしまった。また、『イムリ』や『エイス』などは物語がどのように落ち着くかがまだ見えないので、はっきりとした判断を下すのは難しかったのだが、それでも、面白いことに間違いはない。
文中にも書いたが、今回は「純粋さと残酷さ」を感じさせる作品が多かった。それほど多くマンガを購入しているわけではないので、たまたまそういう傾向のものを多く手にしたということなのだろう。
イノセンスというのはわりあい簡単に手をつけたくなるモチーフなのかもしれないが、それを成立せしめるのは実は難しいということを昨年は強く感じた。みんながにこにこ平和に笑っているような世界では、イノセンスはその存在価値がない。『イムリ』のところでも書いたが、悲惨な世界の中でこそ、純粋さは輝く。そのため、読む側もじゅうぶんに傷つく。傷ついたぶんだけ、心にしっかりと残るのだろう。

*1:ただ、個人的には同作者の『地を這う魚』の方を大傑作と呼びたい。

このページのトップヘ