とはいえ、わからないでもない

カテゴリ: マンガ

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ずっとむかしからつきあいのある人にメールを書くことが難しくなったと感じている。
おととしあたり、これは男の人からの年賀状で、「年とって仕事が落ち着いたら連絡するよ」という文言があって、その人は四十ちょっとくらいの人なんだが、この人が「年とって」となるのを考えると、だいたい二十年くらいは音沙汰無しになるんだなあ、そうであればこちらも相手の都合を考えて連絡しないほうがいいんだろうなあ、なんて思っていたら、今年も年賀状が来て、「あれ?」と思った。こちらとしては、一種の絶縁状みたいに思っていたのに、肩透かしを食らった気分だった。 

また別の人で、これまた十数年の付き合いになる女性からメールが来たのだが、返信になにを書いていいのかさっぱりわからなくて困った。
書くことがない、というわけではない。近況や最近の天気、うちの動物のことなど書けることは書けるのだが、書いていて自分で面白い内容とは思っていない。で、そういう文章は書いていてたのしくない。苦痛に近い。
じゃあ自分のたのしいことを書けばいいようなものだが、それはきっと彼女が受け付けない。あるいは、たのしいと思えない。それよりももっと悪いことに、そこになにかの意味を探したりしようとしてしまう。そうなると、意味づけしようのないことを書くのが次善策ということになり、しぜん当たり障りのない事象に書くことが限られる。 

森雅之のマンガ『追伸 二人の手紙物語』を本棚から引っ張りだして読んでみた。
このマンガは、1988~1989年に連載されたもので、主人公の男女が手紙をやりとりする物語で、以前も書いたことがあったはずだが、やはり今回もじいんと感動してしまった。1ページ1ページをめくるごとに、マンガ内で描かれる「手紙」の文言と優しいイラストとを噛み締め味わっていたものだから、誰に見られているわけでもないのに、「こんな姿、人に見られたくないな」と思いながら読んでいた。
このなかの第三話に「胸の中の手紙」というタイトルが設けられているのだが、このタイトルにまずやられてしまう。つづいて、男性主人公のモノローグがあって、やっぱり「そうそう!」とうなづいてしまう。
小林さん
いつからか僕は――気がつくといつも
こうして君への手紙 考えています。

きれいなものを見た時、うれしい事に会った時、
それからなんでもない時も胸の中でいつも君に手紙 書いてます。

僕は、
僕の見ているもののすべてを君に見せてやりたい。
それは きっと
君もよろこんでくれると思うんだ。
こういう気持ちがかつては僕にもあったし、多くの人にもあったのではないかと思う。
恋愛という言葉で単純にくくるとかえって矮小化してしまう気がするけど、誰かのことを大切に思っているときって、そういう言葉をいつも心のなかでつぶやくというか書いているというか送っているというか贈っているところがある。もしかしたら、実際に書かれることのほうが少なくて、自分の「胸の中の手紙」のほうが分量が多いということもあったのかもしれない。
携帯電話が普及してうんぬんとか、ネットがデフォルトの現代じゃうんぬん、などと言いたいわけじゃない。そもそも、「序」のところには、携帯やメールの登場する以前で、長距離電話の電話料金が高かった、というのが手紙のやりとりの背景にあった、ということが書かれていて、つまりコスプレとかおしゃれとか「丁寧に生きる」とかのニュアンスではなくて、あくまで実用のツールとして手紙が用いられていた、ということがあらためてわかる。だからこそ、四半世紀経ったいまでも、ごく自然なものとして、鼻につかないものとして読むことができるのだろう。
また、今回あらためて気づいたのは、作者の「あとがき」での記述。この物語は、雑誌連載が上述したように'88~'89だったのだが、単行本化されたのはそこからさらに十五年後の2004年だった。そのことに触れて、
(前略)実はこの作品、今となっては、僕にはなかなか読み返すのがつらいものでした。
技術の未熟さはもちろんのこと、その当時の僕自身の青くささ、融通のきかぬ生まじめさと面と向きあうのには、かなりの勇気が必要でした。
にもかかわらず、こうして一冊として出してもらうことにした理由は、編集氏の強い勧めがあったことはもちろんですが、これまでに、そしてたまたまこの時期に、「もう一度あの漫画を読みたい」という人が何人かいたことです。
「描かれた作品」は、作者の手を離れて、常にどこかにあるのだ、ということを改めて思い知らされました。
いまから十二年前という時代に、作者あるいは編集者に「十五年前に雑誌連載されたあのマンガを読みたい」と伝えた読者たちのことを想像する。
誰かが死ねば、(日頃はすっかり忘れていたくせに)その作品などを取り上げてしたり顔でツイートしたりブログに書いたりしてみんなで一斉に消費しようとする時代とはまったく違う、と感じてしまう。

(亡くなったわけじゃないけど)森雅之はものすごくいいマンガを描いている。そのことを読者はきちんとわかっている。けれども、よくある話でものすごく売れている作家というわけではない(と思う)。一読者としてそれはちょっと残念なことなんだけど、また一方で、バカ売れしてどの書店に行っても平積みされている、という状況にはなってほしくない。極端な話、僕だけが知っている森雅之でいい。いや、僕が「この人はわかっているな」と思える人たちだけが知っている森雅之、かな。偉そうだけど。

ほんとうは、こういうことだったらずっと手紙を書いていられる。けれども、こういう内容をもらって喜ぶ人は、少なくとも僕の周りにはいない。いないもんだから、こうやってブログに書いている。そうすれば、読んでもらうということを期待しないですむ。 書き上げて公開して、あとは放り投げてしまうようなもんだ。
それでも、森雅之の話ほどではもちろんないが、「そういや、誰かが森なんとかっていう人のなんとかっていうマンガを褒めてたなあ」と誰かが思い出すことがあればいい。

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『孤独のグルメ』が深夜のテレビドラマになってなんだか流行っているらしい、ということをいつ頃からか仄聞していた。
それまで僕は、『孤独のグルメ』を理想の食事が描かれているマンガとしてサービス業の人に薦めたり、場合によってはプレゼントしてきた。うちの本棚にある文庫本は三冊目で、はじめは単行本を持っていたように記憶しているが、それも誰かに貸したままになっているらしい。
そういう十数年のつきあいになるマンガを、テレビドラマを見てきのうきょうファンになった連中が騒いでいるというのを聞くと、とても気分が悪い。僕はもともと流行っているもの・ことが大嫌いな性分で、なるべくそういうものには近づかないようにしているのだが、「連中」がこちらのテリトリーにずかずかとやってきて、ぎゃあぎゃあと喚き出すというのを目の当たりにすれば、気分が悪くなるのは当たり前だ。本が売れ、作家の儲けになるということは非常に喜ばしいことなのだが。
なので、十八年ぶりに続編が出るということはなんとなく知っていたものの「数年後に読めばいいか」くらいにしか思わなかった。
それを、このあいだ誕生日だということである人からプレゼントしてもらった。

前作の『孤独のグルメ』(便宜上「1」とする)では、主人公はやや偏屈なところを持った中年男性で、学生時代に柔道をやっていたということで少しがっちりしている。この「やや偏屈」という部分が僕は好きだった。
「好きだった」と書いたのは、「2」では「1」に感じたような偏屈さはだいぶ消え、どころか主人公は、ダジャレを多用するような親父臭いおっさんになっていたからだ。顔の線も少し細くなっていて、これがあの主人公だったか、と少し疑わしくなったほどだ。あとこれは作画の技術的な問題なのかもしれないが、背景からキャラクターが浮いているように感じられ、そこにも違和感が。

原作者の久住昌之といえば、僕はQ.B.B.名義のマンガがいちばん好きで、彼らの『とうとうロボが来た!』は20世紀に描かれたマンガのなかで好きなものトップ10には必ず入れる。『中学生日記』もすばらしい。『孤独のグルメ』が好きなのであれば、泉昌之名義で『ガロ』に描かれた『夜行』も面白く読めるはず。これは『かっこいいスキヤキ』のなかに収録されている。
作画の谷口ジローには『坊っちゃんの時代』という名作(これも人にプレゼントしてしまった)があるが、それ以外にも『犬を飼う』 という地味だが優れた作品もある(と偉そうなことを言っておきながら『神々の山嶺』という有名作品は未読)。

これらの作家陣がだいぶ年をとってしまったということなんだろうか。
ダジャレを言うなどして主人公がサービス感たっぷりなのは、多分に「読者」というものを意識しているからのように感じられたのは邪推だろうか。「1」ではイヤな客に主人公がアームロックを極めるシーンがあったが(ドラマでも採用されたようだ)、「2」でもやっぱりイヤな客に極め技を仕掛けるシーンがあって、これを読んだときにはずいぶん興醒めした。同シリーズの作品で同じモチーフの展開をするだなんて、あけすけな「ファンサービス」以外になにがあるというのか。
作品中、材料がどうこうだからおいしいとか、料理法がどうこうだからうまい、などと語られることは一切なく、店の雰囲気や客の様子があってこそのごはん、という捉え方は「1」と同様「2」にも通底していて、この点は、「絶対的なおいしい料理」というものが存在しているという設定の、蘊蓄重視の薄っぺらいグルメマンガ・料理マンガとはやはり一線を劃していると感じた。
が、前作にあった乾いた孤独が、本作ではかなり薄まってしまっている。
なぜ、『孤独のグルメ』というタイトルなのか。それは、好むと好まざるとにかかわらず主人公はつねに独りでいるからであり、その孤独をたのしみ、また同時に少し寂しくも思っている。そういう男が食事をするときに、誰にも聞かれない心の内でいろいろとしゃべっているのを、われわれ読者だけが聴いている。それが『孤独のグルメ』という意味だったのだと思う。
ところが、「2」の主人公は、はじめからわれわれ読者の存在を知っていて、自分の「内なる声」がそこに届くことをちゃんと知っているように見える。直截的な描写がもちろんあるわけではなく、描く側のそういう心構えが透けて見えるように思うのだ。
われわれでも似たようなことが言える。それまで、「ひとりで食事をする」ということは文字通りの意味しか持たなかったのだが、いまではSNS(ブログでも同じだけど)にアップすることによって、「ひとりで食事をする」ことを他人に見せることができる。他人に「ひとり」を見せつけることは、はたして本当に孤独ということになるのだろうか。
僕はなにも、人間関係の希薄さや、存在そのものの無常観、あるいはどのようにツールが発達しても払拭しきれない精神的飢餓というものを訴えたいわけではない。そうではなくて、「孤独」というもののあり方が変ってしまったということをただ言いたいのである。

「1」にはハードボイルドな雰囲気が強く感じられたが、それは、孤独というものは嚙み締めるほかなかった時代の作品だったからなのかもしれない。「2」だって基本路線としては「1」を踏襲しているが、表現のあちこちに見られる違和感に、年をとって下腹についてしまった脂肪を連想した。そこに熟年の苦楽を感じてもよいが、僕は拒否したい。
繰り返しになってしまうが、食事というものが、ただ食べることだけを意味した時代を僕は好む。食事を他人に見せることによって、「食事をする<私>」を表現しようとすることを、僕は浅ましいと思っている。
もちろんその批判は、ただマンガを読むだけで終わらずに、マンガについての感想を書くことによって、「マンガを読んだ<私>」を表現しようとしている当記事についてもそのまま言えることなのだが。

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最近はあまりマンガを読まない。アラフォーという年齢のせいも多分にあろうが、少年マンガが不必要に長編化しているのでもう飽き飽きしているのである。
みんな、もう一度確認しよう。岩明均『寄生獣』ですら十巻で完結しているんだぜ?
いま十巻を超える連続もののストーリーマンガで、あの作品を超えるものがいったいいくつあるというのか。
少年マンガではないが、その巻数に見合う物語は(僕の知っている範囲では)三宅乱丈の『イムリ』くらいしか思い浮かばない。あれは非常にスケールのでかいマンガで、もちろん、人気が出たからって無理矢理連載を引き延ばし、巻数を増やしているだけのマンガとは別次元にある。

そんな中、最近買ったマンガがある。松本英子の『謎のあの店』の1と2。
内容については割愛するが、この中で作者がいくぶん精神世界(←これ、本屋の棚の名称で、言い換えるとスピリチュアルだったりする)にぐっと寄っている回がいくつかあるのだが、ふうんという感じで読んでしまう。
この「ふうん」に、否定的なニュアンスはまったくない。なるほど、この人(作者)はこんなふうに感じているんだなあ、と素直に思うだけである。
と言っても、僕はおよそ宗教行事はまったくしない人間で、墓参りもしなければ初詣でもしない。僕自身があまり信じてもいない世界だというのに、なぜこの作者の行動については興味を持つのか。
それはたぶん、この作者に対する信頼感のせい。立川談志という人間はあまり好きではないし、その落語も「いまいちだなあ」と思うのがいくつもあると思ってはいるものの、けれども談志の落語への姿勢(ときどき突き放したりもしていたみたいだが)はなんだか信頼できる、というその信頼感と似ている。
信頼できる人は、けっきょくなにをしたって支持をしたくなるのだ。少なくとも否定はしたくない。
それゆえに、松本英子のマンガを読んだときの「ふうん」という感想のなかには、自分の考えがぐらりと揺り動かされた驚きがしばしば含まれる。ただの「面白い!」では終わらない。

余談だが、今年からムラの役員(といっても十人ほどいる)になったので、神事仏事にはきちんと参加している。そのため、そこらへんのアマチュアさんたちなんかよりはよっぽどご利益があるんじゃないか、と勝手に思っている。
新年も、元日の朝から集まってお供え物をして、二礼二拍手一礼をきちんとしてきたので、リアル・ネット上の僕の知っている人たちにはそのご利益が行くようにはお願いしてきた。あちらの都合というものもあるでしょうが。


ネットでは疑似科学っていうのがときどき槍玉に上がる。
『奇跡のリンゴ』が映画化されたときも批判記事がこぞって書かれた。そういうところに群がって「そうだそうだ」の大合唱をするのは「疑似科学批判教」の信者なのではないか。僕にしてみれば、両者は同じ次元にあるように見えてしまう。
僕は、受け手がそう思うんならそれでいいじゃん、という考え方に拠っていて、わざわざ他人の考えを修正・訂正しようとするほどの動機が自分のなかに見当たらない。
でもたぶん、事実と言われるものだけを積み上げていってなにかを批判するのって、気持ちいいんだろうね。その気持ちよさに酔っている感じが、疑似科学に盲目的に心酔している人たちとそれほど変わらないように見えるけれども?

何ヶ月か前に、NHKで空き家についての討論番組があった。そのなかで宇野とかいう若い評論家が、七十代くらいの人の意見を、正論を以て真っ向から否定していて、ああこいつダメだなと思った。
正論に酔っちゃっているんだよね。「これはこれで正しいですよね? で、次のこれもこれで正しいですよね? ということは全体で正しいことになりません? ほら、僕の言っていることって正しいでしょう?」っていうニュアンス。
そんなに正しいものがあったら、世の中どこへ行っても苦労しないわっていうくらいに、「正しさ」みたいなのを信奉しているように感じられた。少なくとも、七十数年も生きてきて得られた感覚みたいなものに対してまったく敬意を払っていないところに、僕は軽蔑の念を感じてしまった。要は、コドモのように感じられたのだ。

そもそも、若く(僕と同輩)、苦労知らず(たぶん)の正論になんの意味があるのか。
最近読んでいる毎日新聞の『万能川柳』(単行本)にぴったりのがあったよ。
順調な人の正論鼻につき (四日市 い藤をか志)

落語『酢豆腐』で、若い連中がおおぜい集まったはいいが、酒の肴がないということでああだこうだと鳩首しているとき、あるひとりが言う。糠床を浚えば野菜の切れ端が出てくるだろう、それをトントントンと包丁で切りゃあいいじゃねえか。
これを聞いてみんなのまとめ役である人間が「さすが苦労人」と褒める。
これは、ただ苦労した人という意味ではない。苦労をしたからこそ、人の情に通じ、世間知に長けているという意味での褒め言葉である。


ある程度の年齢を経ると、以前は嫌いだったものが、「まあ、これもいいのかもな」と許容できるようになる瞬間がある。
その対象をはじめから好きな人がいて、「わたしはずっと若いときからいいって言っていたよ」と言われても、嫌っていた時間を決して損したとは思わない。むしろ、その迂回路が愛おしい。
遠回りをして長い時間をかけて得られた感慨というものは、近道して得られたそれとは、たとえ到着点が同じであっても異なるものだ。
苦労をして到達した場所には、きっとそれなりの意味があるのではないか。
だから僕は、松本マンガの歩いて来た道、そしてこれから歩いて行くであろう道を好むのだと思う。

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小賢しい少年マンガが多い、ということをここ最近ずっと思っている。
ストーリーやキャラクターの魅力を中心に置くのではなく、どちらかといえば、キャラクターのスペックや属性、あるいは諸々のディテールのヴァリエーションをたのしむマンガのほうが増えているような気がしている。こういうマンガは打算と惰性と蛇足で成り立っているので、読んでいても面白くない。

王道を『ワンピース』が行っている以上、それ以外の道を模索するとなると、そういう枝葉末節に拘泥する方向に行かざるを得ないのだろうか。
余談。『ハンターハンター』なんかも、わりとディテールのうるさいマンガだと僕は考えているのだが、それでもいちばん面白かったのは、ネテロ・メルエム・コムギらの絡み合いであって、ああいうところに作者の本当の興味のあるところが見えたような気がしたものだ。最強が最弱に負ける、というのはこれまでの作者のひねくれ具合から考えるとベタ中のベタのようにも思えるが、しかしあの作者は、『幽☆遊☆白書』の桑原和真、そして『ハンター』のナックルやレオリオなど、ああいうどストレートなキャラクターを好み、かつ重要な役割を与えているところからして、ああいう展開もキライではないはずなのだ。余談終わり。
しかしまあ、読み手側のニーズに応えてディテール(の差異)重視になっているということを鑑み、これから描かれていくだろうマンガもきっと、これまでと似たような、いやこれまでよりもっと薄まった、なにかのマネをマネしたものをさらにマネしたものになるであろうことを思えば、惨憺たる未来しか思い浮かばない、とそういう日々がここ数年つづいていたと思う。いくつかの例外はあったにせよ*1

(鼻濁音)、珍しく昂奮できるマンガがジャンプに最近連載されはじめた。『戦星のバルジ』で個人的には大期待したのだが、『動物園』につづいてまたもや打ち切りを食らってしまった作者による、『僕のヒーローアカデミア』だ。

僕のヒーローアカデミア 1 (ジャンプコミックス)

僕のヒーローアカデミア 1 (ジャンプコミックス)

まず、『バルジ』のときにもちょっと書いたが、この作者は、異星人とかを書くとめちゃくちゃハマる。もともと奇抜なデザインなんかを描くのが好きなのだと見えて、しかも今回はそのテーマがヒーローときているから、これ以上のマッチングはないんじゃないか。
そして、このヒーローというテーマがすばらしい。これぞ王道。これぞ少年マンガだろう。
僕みたいなふつうの読み手なら、いまどきヒーローが主人公のマンガなんて描こうと思うだろうか*2、という疑問がすぐに浮かんでしまう。
ジャンプだけでも過去にドラゴンボールがあって、それから現在ワンピースがある。ということは、ヒーローはすでに間に合っているということだ。わざわざヒーローと標榜するマンガなんてもってのほか。
でもさあ、そういうのこそ読みたいんだよ、ほんとは。少年マンガの王道の真ん真ん中を駆け抜けていくマンガをさ。

第一話はわりあい構成が複雑である。読みにくいということではない。むしろ心憎い。
物語中「個性」と呼ばれるヒーローの才能を先天的に欠如している主人公は、幼年期にそれを医者に指摘される。ヒーローになれないことがわかりつつも、大好きな憧れのヒーローの動画を観て「僕もなれるかなあ」と泣く主人公に、母親も泣いて彼に謝る。「ごめんね ごめんね」と。このとき主人公は独白する。「違うんだお母さん あの時 僕が言ってほしかったのは……」
この「答え」がわかるのが、最終ページ。なんと34ページもあとのことなのだ。まあ、数字なんてほんとうにどうでもいいことで、読めばこの「答え」にきっと鳥肌が立つことだろう。
また、「誰か」と「私」と「僕」というのも第一話のひとつのキーワードになっている。
世間にありふれた存在となった「個性」のおかげで、「ヴィラン」と呼ばれる「敵」があらわれても一般市民はたいして驚かなくなった。この世界のなかではヒーローが職業化されていて、そのなかの「誰か」が助けに来ることがすでに日常の一部となっているのだ。実際に作中でも、敵が市中で暴れまわっているなか、「誰か」というセリフが何回も吐かれる。
「すぐ誰か*3来るのにな」「誰か有利な”個性(やつ)”が来るのを待つしかねえ」「何!すぐに誰か来るさ!」、そして、暴れ回っている敵が乗っ取ったのはクラスメート(ふだん主人公をいじめるやつなのだが)の身体だったということがわかった主人公までもが、「頑張って…! ごめん! ごめんなさい…! すぐに救けが来てくれるから…誰か…ヒーローがすぐ…」と立ち竦むのだが……、しかし次の瞬間、彼は敵の前に飛び出す。クラスメートを救けるために身体が勝手に動いてしまったのだ。
いつも「誰か」に困難を押し付けている世界のなかで、真のヒーローであり主人公の憧れの対象でもあるオールマイトは、いつも「『私』が来た!」というセリフとともに、満身創痍ながらも戦い、その困難を排除する。そして第一話の最後は、主人公の「僕」のこんなモノローグで終わる。

言い忘れてたけど これは僕が最高のヒーローになるまでの物語だ

陳腐な言い方になってしまうが、とにかくアツいマンガなのである。

もうひとつだけ。ヒーローになるための名門高校のヒーロー科(という「科」がある)に入ろうとする主人公は、その入学試験で他人を救けるために自らの危険も省みない行動をするのだが、しかし試験じたいは点数を落としてしまう。不合格を信じて疑わない主人公のもとに、後日ヴィデオが送られてくる。ここでのオールマイトのセリフがいい。

人救け(正しいこと)*4した人間を排斥しちまうヒーロー科などあってたまるかって話だよ!!
きれい事!? 上等さ!! 命を賭してきれい事実践するお仕事さ!!

大袈裟な話になってしまうが、2001年のニューヨークの同時多発テロ以後、世の中には多様な価値観や文化があってそれを尊重し合うべし、というのがたいていの人たちのデフォルトの認識になっている。その文脈では「正しさ」は相対的なものとして扱われ、「正しさ」を声高に主張するものは、時代遅れにとらえられても仕方がない。
しかしその一方で、一定の強度を持った「正しさ」というものはやっぱりあるのではないかという思いが――特にフィクションの分野では――どうしても拭えない。そのもやもやとした、いわば霧みたいに曇っている部分を、上のオールマイトの言葉は「SMASH!」と吹き飛ばしてくれた。「人救け」は「正しいこと」なのだと。
僕はこのシーンを読んでいて、島本和彦アオイホノオ』のある部分を思い出した。第四巻で、新人賞向けに描こうとしているマンガの内容を、時代のウケを考えて学園モノにしようとする主人公。しかし、マンガに詳しい友人たちにそれを話すと、「面白くないよ」と頭から否定される。
「宇宙も怪獣もヒーローも出てけえへんやん!」「変身もせえへんのやろ!?」「あかんわー、戦って勝つやつやないてよう読まれへんわー」「絶対あかんて!」「時間の無駄やて」
このアドバイスを受けての主人公ホノオのモノローグ。

やはり…せめてフィクションの中でくらい…
人類を守らないと…! 地球くらい守らないと…!!
正義とは何か!? 悪とは何かを問わないと…
スポーツなら体が砕けても…必殺技を…
あるいは野球どアホウにならないと…!!

このセリフの背景では、キャプテンハーロックやらサイボーグ009やら巨人の星やら男どアホウ甲子園やらデビルマンやらマジンガーZのマンガが描かれている。一見、ここはギャグのシーンのようでもあるのだが……でもそうじゃないんだよなあ。繰り返しになってしまうが、やっぱり少年マンガの王道の真ん真ん中を駆け抜けていくマンガを、僕らは読みたいのである。

弟に指摘されて気づいたのだが、『ヒーローアカデミア』一巻のカバーの作者コメントに「乱暴な言い方ですが、まず自分が一番楽しめる漫画に、という考えで描いています。いずれ通用しなくなるのかもしれませんが今んとこ僕は楽しいので、皆様にもたのしんでいただければ幸いです」とある。
この「いずれ通用しなくなるのかもしれない」という予感はけっこう正直なもので、人気を上げるために、必要(=作者の考える)以上の女性キャラor男性キャラのヴァリエーションを増やしたり、ということが今後あるかもしれない。また、打ち切りの憂き目に遭うかもしれない(いまのところその心配はないが)。
けれども、今はこのまま王道をダッシュして行ってほしい。また、こういうマンガこそ受け容れられてほしいとも思っている。心から応援している。

*1:スポーツマンガとしての『ハイキュー!』は特筆に値する。

*2:ギャグマンガだったらこれからも見込みが望める分野であって、現に島本和彦が『ヒーローカンパニー』を連載中。過去にも、少し趣向が異なるがジャンプで麻生周一ぼくのわたしの勇者学』が連載されていた。

*3:この部分だけ、「誰か」に傍点が打たれている。

*4:念のために註記するが、「人救け」と書いて、「正しいこと」とふりがなを振っているのだ。

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当たり前だと思っていたのだが、子どもの頃、家にマンガなんて何冊もなかった。『こち亀』が数冊、『キン肉マン』が数冊、横山光輝三国志』が数冊、『夕焼けの詩』が数冊と他にちょろちょろ、くらいなものだったと思う。いや、こう数えてみると、「何冊」かはあったわけだが、全て揃っているマンガなんてひとつもなかったと思う。
横山『三国志』は当然興味があったが、吉川英治の小説本(たしか八冊)を手に入れて満足した。もしかしたら図書館で借りたのかもしれないが、いづれにせよマンガ本全六十巻を手に入れられるなんて思っていなかった。
うわー買って買って、などとおねだりすることはなかった。困窮しているわけでもなかったがそんなに余裕がある家でもない、ということは子どもの頃からなんとなく知っていたから。

でも、マンガは好きだったので、家にあるマンガは何度も何度も繰り返し読んだ。それから、図書館の児童コーナーにあったわづかなマンガも読んだ。「揃い」であったのは『はだしのゲン』で、悲惨な内容だったが、それでも繰り返し読んだ。
やがてそれに物足らなくなり、一般の書架を探しまわり、たしか「絵画・漫画」のコーナーだったと思うが、そこでお宝を発見した。白土三平の愛蔵版『カムイ伝』全四巻、藤子・A・不二雄の愛蔵版『まんが道』全四巻、どちらも広辞苑ばりの厚さの本が四冊。これは何度も何度も読み返したなあ。
ついでに、何巻本だったか忘れたが、中国の人の書いた漫画(といっても中国風)版三国志もあり、これも読んだ。たしか赤瀬川原平の『櫻画報』もあったんじゃないかな。背景が水木しげるっぽかったから読めなくはなかったけれども、ちょっと意味がわからなくって(しかもちょっとアヤシイということは小学生ながらも気づいていた)一回きりだった。

とにかく、『カムイ伝』と『まんが道』だった。
カムイ伝』は、最初読んだとき、結末の意味がわからなかったと思う。とにかくゴンの最期がものすごく印象的で、代官たちに拷問を受けた際に、甕のなかの煮え立った鉛を自ら飲み干し、「こんなもんで、われらの心まで溶かすことはできん!」と叫び、絶命する。
あと、主人公が死んだら双子を疑えということも知ったし、狂人のふりをしたスパイもいるということも知ったし、抜け忍は死ぬまで命を狙われるし、蚕は大事で、鐘楼流しで海に流された野菜を集めて漬物にすれば大儲けできて、と、とにかくいろいろなことを知った。関東では馴染みの薄い被差別部落の問題も『カムイ伝』で知った。
一方、『まんが道』では、マンガ家の大変さを知った。そこで、なろうなろうあすなろうとマンガ家を目指すことになったのだ、とはならなかったが、すぐれたマンガを描くマンガ家を尊敬し、マンガをそれまで以上に愛するようになっていた。あれを読んだら、手塚治虫を神と思わないわけにはいかなかった。

今の子どもたちは、家に『ワンピース』七十何巻とかがふつうにあるのかな。あるいは他の何十巻揃いなんていうマンガも、当たり前のこととして家の本棚にあるのかな。羨ましい……とはあまり思わないんだよなあ。島本和彦アオイホノオ』を最近また読み返していて、あの欠乏感って大事だったんだなあと思うようになっている。
手元にない。でも、知りたい。読みたい。触れたい。そういう思いが情熱を生み、大きなモチベーションになったという部分もたしかにあると思う。
もし子どもの頃に横山『三国志』が全巻揃っていたとしたら、吉川英治版の『三国志』を読まなかったかもしれないし、その後の読書全体にも影響を与えたかもしれない。『まんが道』も知らないままだったろうし、手塚治虫はただのマンガ家だったろうし、だいいち図書館に通っていなかったかもしれない。

手元になんでも揃っているって、でも結局はそれしかないってことでもある。それしかないってことに気づかないってことでもある。
はじめからなければ、いろいろと探そうとする。作ろうとしたり、想像してみたりする。いまじゃけっこうそれが役に立っているんだよな、と書いて、これは僻みなのかもしれない、とも思う。

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きょうは八月最後の金曜日。


「ジンジャーのかおりで目覚めた」という一文で始まるマンガがある。萩尾望都『金曜の夜の集会』。
主人公の男の子マーモの、八月最後の金曜日の話だ。
彼は、自分より背の高いクラスメートのセイラに好意を抱いていて、ちょっとしたタイミングをつかまえて、来週の金曜の夜に新しい映画が来るのでそれを観に行こうと約束する。彼は、来年あたりには背が伸びて、そのときになったらセイラの背に追いつくだろうと心のなかで思っている。

その夜、マーモの両親は集会に行くと言って、彼と病弱の姉を残して外出する。
しばらく経ってマーモの友だちがやってきて、町中の大人がいないようだ、と彼に告げる。まさかとは思うものの彼は、友だちと一緒に大人たちを探しに行くことにする。
星のきれいな夜。お城のまわりに大人たちが集まっていた。そこで彼は見つかってしまう。
学校の先生が、マーモに説明する。この町は、夜の十二時を境に消えてしまう。おそらく戦争によって、と。マーモの姉は予知能力を持っているのでそのことを知っており、滅亡を回避するために、町が消滅する原因となるエネルギーを利用して、時間軸を過去に向かって回転させ、ちょうど一年ぶんだけ戻る。そうやってこの町は、ずっと同じ一年間を繰り返している、というのだ。
マーモは気づいていなかったが、ずっと同じ一年が繰り返されていた。毎回、細かな変化は起こるが、同じ日々の繰り返し。
「いつも同じ夏。同じ夏の終わりがきたら、またみんなで同じように時をもどす」

彼は家に帰り、ベッドに横になっている姉と話す。姉は言う。未来の夢を持つ子どもたちは、記憶を消してまた新しい一年を送れるようにしている。
それを聞き、マーモは泣く。

そして明日はこないんだ
セイラと約束した金曜日もこない
いつかぼくの背が高くなる日もこない
ザリガニを食ったチビのおねしょがなおる日もこない
中学生になる新学期もこない
ぼくがおとなになって天文学者になることもないんだ


このぼくらはみんなまぼろしだ
とうに存在しない影なんだ

あと三十分できょうが終わると気づき、マーモは外に飛び出す。彼にはやりたいことがあった!
行く先は、セイラの家。窓ガラスを叩いてセイラを起こし、「いまからほうき星をみにいこう」と言う。

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©萩尾望都
このエンディングを見ると、いつも胸が詰まる。


ほぼ一年前、僕は前のブログの更新を終了し、アカウントも変更した。

そのとき、とりあえず一年はつづけてみようと思い、タイトルを「そして明日はこない」とつけた。細かな違いはあっても、もしかしたら去年と同じような一年になるかもしれない。前のブログと同じように、また嫌気がさしてやめてしまうのかもしれない。どうなるかわからないが、既視感とささやかな希望をもってブログを始めてみた。
そしてきょう、八月最後の金曜の夜がやってきた。


ちょっと前まで、きょうを境に他のブログもすべて閉じようかと思っていた。理由はいろいろとあって、それも書いてきた。
『金曜の夜の集会』の物語と同じように、ちょうど一年でブログを消してしまえたら、それはそれできれいにまとまるなという考えもあった。前のブログも、そしてこのブログも、まるでひとつの物語のように円環の中に封じ込めることができ、そこにわづかな自己満足も一緒に押し込めると思っていた。

また、僕のこの頃(といってもけっこう長いけれど)の考えとタイトルとに合致する部分もあった。いままでふつうにつづくと思っていた日常は、いきなり終わりを告げ、その姿を一変させてしまうこともあるんだ、というような。だから、ある日ばっさり終ってもいいと思っていた。

その一方で、きれいにまとまるってのは、ちょっと恰好悪いという思いもあった。
千利休が庭を徹底的に掃き清めたあとで、もみじの木を揺らしてその葉を散らさせたという、あの創作っぽいエピソードを僕は好ましく思っている。
予定通りに一年できれいに閉じてしまうブログ群は僕にしちゃきれいに行きすぎで、反対にちょっと恰好悪いのだ。きれいにまとめようとしてもまとまらず、足掻き、悶え苦しんで、誰彼かまわず撒き散らし、みっともない感じが残っていくほうが、なんとなくいまこの瞬間の気分に合っている。

だから、これまでどおりにする。「利休の落ち葉」とかそういうタイトル変更もせずに、これまでどおりに。

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個人用メモ。

ここ数日で、例の三十数年惰性番組の最終回を華々しく「祝福」している(であろう)記事の見出しをいくつも見かけたが、そんなに「万人」に祝福されるような番組だったら終わっていないよ、と思った。かつてのようには見向きもされなくなったのだから終わったのだろうに。この何日間であほみたいに「ありがとう」とか「感動した」などというメッセージや意見を発信しているやつらの、いったい何割があの番組をずっと観つづけていたというのだろうか。おまえらの全員がこれまでずっと観てきたのなら視聴率の低迷などということは起こらず、司会者当人がやめるって言い出すか、あるいは、死ぬかするまでつづけられたはずじゃないか。
また、司会者がもともと持っていた反体制的な匂いはずっと前からデオドラントされていて、(フジサンケイグループとはいえ)現職の総理大臣が出演したことで、僕には最後の最後のダメ押しというふうに映った(観てないけど)。「国民的」などというくだらない形容詞が冠されてからつまらなくなったという点で、『こち亀』の両津とよく似ている。考えてみればあれも、「長寿」とは称されるものの実態は質の低い惰性連載マンガだ。

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上は面白かった頃のこち亀*1。ここにあった毒は、もうない。
例のテレビ番組について、都合8054回と聞かされてもなんの感慨もないし、祝福も、感動もない。ついでに、この文章のオチもない。

*1:偶然にも今週のこち亀にも大阪出身のキャラが出てきてそいつが「活躍」するのだが、ここ数年(十数年?)は大阪に対するヨイショが気持ち悪い。両津いわく「大阪のやつらにはかなわない」みたいな。昔の両津だったら考えられない台詞。

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アマゾンが「オールタイムベスト」と題してコミックを百冊選んでいたのに気づいたのだけれど、「オールタイムベスト」ってどういう言葉なんだろうと思ってしまった。まさか「最近の売れ線」って意味じゃないよね?
ざっと見、いつもの面々という感じで、その作品個々についてなにか言いたいのではなくて、セレクションに対して「貧しい」という感想しか持てない。どこかの本屋が同タイトルでこういう陳列をしていたら、「けっ、センスねーの」と思ってその場を立ち去ることになろうが、ただひとつ、高野文子『黄色い本』があったことだけが嬉しかった。

黄色い本 (アフタヌーンKCデラックス (1488))

黄色い本 (アフタヌーンKCデラックス (1488))

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とりあえず長文を書く気力がないので、ランキングと一言コメントのみ。

第一位 三宅乱丈『イムリ』

イムリ 1巻 (BEAM COMIX)

イムリ 1巻 (BEAM COMIX)

現在、十四巻まで出ている。舞台は地球ですらなく、主人公は人類ですらない。壮大な世界観、綿密に練られたストーリー、そして、人間の残酷さ。今まで知らずにいてごめんなさい、というしかない。イムリ(というのは、ある種族の名前)のイノセンスは、描かれている世界が圧倒的に残酷だからこそ際立ち、美しい。カーマ(同じく種族の名前)の狡猾さは、われわれの持っている悪そのものであり、醜い。僕のマンガ経験が少ないせいかもしれないが、本作のようなスケールのファンタジー作品には出会ったことがなかった。いま僕は、日本マンガ史に金字塔が立つ瞬間を目の当たりにしているのかもしれない。

第二位 松本英子『荒呼吸』

荒呼吸(1) (ワイドKCモーニング)

荒呼吸(1) (ワイドKCモーニング)

全五巻。『イムリ』がなかったら、おそらくこれが昨年のベスト。というくらいに、作者の感性に強烈に惹かれた。エッセイマンガらしいエピソードのあいだに挿入される作者個人の哀しみや苦しみは、文学のレベルにある。先の震災で軽いパニック症候群に陥った弟は、この作品を読んで、「自分の経験したこととまったく同じことが描かれていた」と言っていた。それは「少し救われた」というようなニュアンスだった。生きるのは辛いこと。けれども、その先にある小さな喜びも、この作品には描かれている。傑作。

第三位 百名哲『演劇部5分前』

演劇部5分前 1巻 (BEAM COMIX)

演劇部5分前 1巻 (BEAM COMIX)

これは前のブログでも言及した。高校演劇の「公演が終わったらなにも残らない感じ」が見事に描かれていて、何度読み返しても涙が出てくる。すべてを読み終えたあと、最終巻(第三巻)の裏表紙を眺めると、非常に感慨深い。

第四位 安永知澄『赤パン先生!』

赤パン先生! 1 (ビームコミックス)

赤パン先生! 1 (ビームコミックス)

主人公は異母姉妹。一言では説明しにくいが、これも純真さと残酷さの物語といえるか。きらきらとした少女時代が、ちょっとした悪意やトラブルでその輝きを失っていく。読者は、ページをめくるたびに、胸に小さな痛みを感じつづけることになる。第一巻最初の、少女がプールの中を泳いでいく場面から読者はすっかり引きずり込まれてしまう。それからずっと僕は、どうか、どうかこれ以上不幸が起こらないようにと祈るようにして読み進めている。現在二巻まで刊行中。続刊が待たれる。

第五位 山本直樹『レッド』

レッド(1) (イブニングKCDX)

レッド(1) (イブニングKCDX)

連載開始七年にして、単行本七冊。まだ物語は核心に至っていない。この物語のヒロイン赤城は、連合赤軍永田洋子がモデル。おそらく、ほぼ実際にあったことに基づいて描かれているのであろう。僕は、山岳ベース事件は母から聞いた程度でしか知らないが、そのとき母は「永田洋子なんていうのは、鬼か悪魔だ」という言い方をしていた。このマンガを読むと、そのようには思えない。これは、極めて特殊な思想を持った鬼か悪魔のような人間が、その仲間たちを殺戮していく物語なのではない。われわれふつうの人間が、状況によっては鬼か悪魔になる可能性があるということを描いているのだ。なお、第一巻の最初の見開きで登場人物たちがみな瞑目しているのだが、圧巻。

第六位 伊図透『エイス』

エイス (1)

エイス (1)

『ミツバチのキス』『おんさのひびき』の伊図透。現在二巻まで刊行されているが、描かれる世界は信じられないくらいに広大で、全容はまったく見えてこない。ただ、伊図らしい純粋さと残酷さの対立はそちこちに見られ、これまた胸がかきむしられるような思いをしなければならない。伊図の前二作は、どうも尻切れトンボになってしまったのだけが玉に瑕だったが(それ以外は文句のつけようがない!)、今回はじっくりと最後まで描き抜いてほしい。そろそろ三巻が出るはず。

第七位 あすなひろし青い空を、白い雲がかけてった

ほんまりう『息をつめて走りぬけよう』と勘違いして、古本でチャンピオンコミック版全三巻を入手。連載期間は'78-'81というからだいぶ昔だ。物語は一話構成、だいたいの場合、三分の二がドタバタギャグで終盤数ページでシリアス調に、という展開。その中で思春期特有の悩みが描かれるのだが、これが素晴らしい。特にチャンピオンコミック版第二巻の「ビューティフルサンデー」は、扉絵も含めて最高。実に他愛のない話なのだが、胸を熱くせずにいられない。丁寧なタッチ、巧みなデフォルメ、良心にあふれたストーリー。これこそが少年誌に掲載されるべきマンガなのだと思う。

第八位 堀尾省太『刻々』

刻刻(1) (モーニングKC)

刻刻(1) (モーニングKC)

時間の止まった「止界」の中での話。現在七巻まで刊行されているが、登場人物たちは、ずっと午後六時五十九分の中にいる。この設定にリアリティを持たせているのが、作者の画力の高さ。「止界」を動き回るヒロインはエプロン姿だし、その祖父はジャージ姿だ。この斬新なミスマッチひとつをとっても作者のセンスは非凡だとわかる。単純な絵のうまさだけでなく、構図も素晴らしいので迫力が尋常ではない。また、どこかの週刊連載のように行き当たりばったりで描かれるのではなく、周到な構成が随所に感じられ、このマンガを単なる「時間SF もの」「戦闘もの」から一段も二段も上のレベルに押し上げている。さらに、それにくわえて登場人物たちの戦略的駆け引きも看過できない。どうやら来秋刊行予定の八巻をもって完結するらしいので、それから読み始めてもいいだろう。

第九位 ムライ『路地裏第一区~ムライ作品集~』

路地裏第一区 ―ムライ作品集― (IKKI COMIX)

路地裏第一区 ―ムライ作品集― (IKKI COMIX)

ネットで以下の作品を知ったのがそもそものはじめ。

この『作品集』、前半は西岡兄妹の作品を思わせる。静謐で詩的で繊細な世界だ。ひとコマひとコマが挿画のようであり一枚のイラストレーションのよう。まず、絵を観ているだけでもたのしい。それが、真ん中くらいの『はじめての床屋』あたりから、キャラクターたちが少し活発に動き始める。作品には「不思議さ」だけでなく「かわいらしさ」が目に立つようになり、初期(?)の詩的な世界もよかったが、これはこれでたのしい。ものすごく売れるマンガではないのかもしれないが、それでも、できるだけ多くの人の手にとってもらいたい。

第十位 吾妻ひでお失踪日記2 アル中病棟』

失踪日記2 アル中病棟

失踪日記2 アル中病棟

前回の『失踪日記』から八年経ったが、話の内容は前作のつづき。アルコール依存症のどうしようもない人間たちが登場して、どうしようもない振る舞いをする。さしたる感動的なことは起こらず、ただ淡々と描かれるというのが本書の一番の特徴であろう。巻末にとり・みきとの対談が掲載されているが、作者の視点という問題をとりが取り上げていて、興味深く読んだ。病棟のシーンでは、作者自身を含めた登場人物たちがわいわいと騒いでいることが多いが、それは作者吾妻が、現実を突き放して観察しているようなところがあったからだろう。佳作*1

まとめ

もともとはカウントダウン方式で書くつもりで、下位の方(ただし『アル中病棟』は除く)は精読したのだけれど、気力がなくなり、上位は不徹底となってしまった。また、『イムリ』や『エイス』などは物語がどのように落ち着くかがまだ見えないので、はっきりとした判断を下すのは難しかったのだが、それでも、面白いことに間違いはない。
文中にも書いたが、今回は「純粋さと残酷さ」を感じさせる作品が多かった。それほど多くマンガを購入しているわけではないので、たまたまそういう傾向のものを多く手にしたということなのだろう。
イノセンスというのはわりあい簡単に手をつけたくなるモチーフなのかもしれないが、それを成立せしめるのは実は難しいということを昨年は強く感じた。みんながにこにこ平和に笑っているような世界では、イノセンスはその存在価値がない。『イムリ』のところでも書いたが、悲惨な世界の中でこそ、純粋さは輝く。そのため、読む側もじゅうぶんに傷つく。傷ついたぶんだけ、心にしっかりと残るのだろう。

*1:ただ、個人的には同作者の『地を這う魚』の方を大傑作と呼びたい。

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上記のつづき。まだ、次点グループ。

相原コージ『Z』

今年の五月のこと。まだ持っていたアカウントにこんなツイートが流れてきた。

このツイートを読んだときに愕然とした。あの相原コージが、「没落した」とされるのむらしんぼを「他人事ではない」だと? 
相原コージは尊敬する漫画家だ。僕は、自分がマンガを描く技術を最初から持っていないせいか、漫画家に対して敬意を抱くということは少ない。
けれども相原に対しては、ギャグマンガの分野で相当な無理をして新たな地平を切り開いてきたというその功績を考えると、尊敬せずにいられない。その相原が、いわば「消えてしまったマンガ家」を他人事ではないだと?
われわれは、相原をそんな目に合わせてはいけないのである。
そもそも、僕がこういう記事を書くのも、誰かがこれを読んで興味を持ち、新刊を買ってほしいがためでもある。貼りつけたアマゾンのサイトになんて行かなくていい。欲を言えば、本の名前だけメモし、それからよく行く本屋に行って註文をして買ってほしいと思っている。これらは、ささやかな応援記事でもあるのだ。

話を戻すと、僕の知っている相原作品には、『コージ苑』『サルでも描けるまんが教室サルまん)』『なにがオモロイの?』、そして『ムジナ』がある。
前者三作は、メタ系のギャグマンガ(いづれも傑作!)なのに対して、『ムジナ』は、かなりハードな忍者マンガだ。ユーモラスな下ネタギャグはいつものとおりだが、ストーリーはかなり残酷で、シリアス。しかしその途中にも「実験シリーズ」と称して、パースをいじくったり、視点をいろいろと変更したりして、マンガ表現そのものについて分析・再構築しようと試みた。ストーリーもよくできていて、終盤の盛り上がり方はものすごい。数十分前までげらげら笑って読んでいたのに、いつのまにか総毛立ち、最後、血みどろになりぼろぼろに傷ついたムジナが立っているのを見ると、感動が湧き起こってくる。
最後の白土三平忍者武芸帳』からの引用、「われらは遠くから来た、そして遠くまで行くのだ」を見ればわかるように、『ムジナ』は、白土三平の忍者マンガの正統な後継なのだ*1

本作『Z』も、『ムジナ』のようなシリアスさとをベタベタの下ネタギャグにあふれている。ただしこちらはゾンビマンガ。

ある山小屋にゾンビに追われた男女ふたりが逃げ込むが、男の方はすでにゾンビに傷を負わされてやがてゾンビになるのが目に見えている。そこで女の方に自分を殺してくれ、と頼む。その前に。

最後に裸を見せてくれないか


『Z』一巻のレビューにおいて、かなりの高確率でこのエピソードが紹介されるのだが、僕は第4話、「登山者の場合」が気に入っている。
山から滑落して死亡したと見られる登山者が、死後しばらく経ってからゾンビとして生き返る。が、山奥のために周りには誰もいない。カラスがやってきてその脳みそをつっついたり、マムシに足を咬まれたりもするのだが、依然として周りには人間はいない。彼はぎくしゃくとしたあのゾンビ特有の動きで、「ウガァー」と唸ったまま直進して行き、やがてまた崖から滑落し、川へと落下する。
彼はそのまま仰向けの状態で流されていく。両手をぱたぱたと前後させ水面をちゃぽちゃぽと鳴らしながらどんどんと流されていく。やがて川から海の入り口へ。彼の存在に気づいているものは、やはりいない。彼は死なずに両手をぱたぱたと動かしているまま。ちゃぽちゃぽ。そしてついに、彼の身体は大海の沖合へと出る。あたりには依然としてなにも見えない。船もないし、空を飛ぶ鳥もいない。それでも彼は生きており、手を動かす。ちゃぽちゃぽ。物語はそこでおしまい。
この、「誰にも遭遇しないゾンビ」という抒情的な設定に鳥肌が立った。グロテスクなゾンビが愛おしくさえ思える。やっぱりすげえな相原コージは、と思った。

上記でわかるように、基本的には一回ごとの完結になっている*2のだが、その時系列が入り乱れているのが面白い。その中でキャラクターたちがちょこちょこと話を跨いで登場するために、「あ、この第3話に出てくるヤクザゾンビって、第2話に出てきたヤクザだ」などと細かい発見ができる。何度読み返してもたのしめるのだ。
そして、一巻のラストでは、今後のストーリーが大きく展開しそうな予感が示され、目が離せない。

そうそう。冒頭のツイートのあった数日後、こんなツイートが流れてきた。

本当によかった! 二巻もたいへんたのしみな作品。お世辞じゃなくて。

松田奈緒子重版出来!

重版出来! 1 (ビッグコミックス)

重版出来! 1 (ビッグコミックス)

さて。マンガ好き界隈では、今年はこのキーワードがけっこう流行語になったのではないだろうか。重版出来。「しゅったい」という言葉は知っていたが、「重版」が上にくっついた場合はずっと「でき」と読むものだと思っていた。恥ずかしい。
この作品は、マンガ編集者の話である。オリンピックを目指していた女の子が、けがのために柔道を諦め、出版社に入社し、マンガ雑誌の編集に携わる。感傷的に言ってしまえば、2010年代の『編集王』である。土田世紀の魂はここに引き継がれた。

いろいろと見どころはある。まず、作者が女性のために、全体的にかわいい! ヒロインの黒沢心は体育会系でいわゆる女子っぽさは少ない。でも、かわいい。
それから、ひとりひとりのキャラクターが非常に魅力的。ヒロインはもちろん、先輩編集者の五百旗頭(いおきべ)、壬生、それから阪神ファンの和田編集長。その生い立ちがまるごと一話になっている社長。このエピソードは、これだけでひとつの小説にすることだってできるんじゃないかってくらいに凄まじさを感じさせるし、本好きであるなら、『雨ニモマケズ』を読んだ若かりし頃の社長と一緒に落涙することだろう。
あまりにも各々のエピソードがよくできているので、これは二巻になったらテンションダウンするかと思っていたら、さにあらず、二巻も面白く、期待を裏切らない!

第一巻のクライマックスは、営業と編集が共闘して『タンポポ鉄道』第三巻をセールしていくところだろう。
返品本をバラバラにして試し読みの冊子を作り、全国の書店に配布する。それだけでなく、書店に出向いて、コミックコーナーだけでなく、関連性のある鉄道コーナーにも置いてもらうように交渉する。作家にサインを入れてもらった本を書店に置いてもらう。

僕は書店のアルバイトを(短期間だけど)やったことがあるからなんとなくわかるけれど、出版社の営業さんの熱意に動かされるってことはよくある。雑誌(男性誌中心)担当だったのだが、註文すると必ず翌日に持ってきてくれる阪急コミュニケーションズの雑誌に対しては、「絶対に売ろう」という思いはあったなあ。
具体的に言うと『pen』だったけれど、デザイン特集であれば、美術の担当の女の子のところへ行って「今回、一冊分のスペースでいいから、平積みさせてくれないかな?」と相談したり、レストラン特集だったら、女性誌担当の女性のところへ行って、「これもちょっと……」とお願いしたり、それが売上にちょっとでも効果があったりすると、やっぱり嬉しかったなあ。なんだろう、自分の給料なんて一銭も増えるわけじゃないんだけど、すごくたのしいんだよな。
余談だが、弟の勤めていた書店では、地図の昭文社の方だったけかな、いい営業さんがいたと聞いたことがある。売れて「抜け」てしまったものをチェックしてくれるだけでなく、棚の整理もしてくれるし、探しものをしているお客さんに案内してくれたりする*3。それが、自社の本を薦めるのではなく、お客さんが本当に必要としているものであれば他社のものでも薦める。理由を尋ねると、業界全体で売上が上がっていくことが大事とのこと。

営業のプッシュが実り、各書店がフェアを仕掛けてくれて独自のディスプレイを設けてくれるシーンがある。ヒロインがその写真を撮り、ちょうど打ち合わせ中の作家のところへ送信する。受信した担当編集は、作家にそれを見せ、ふたりで泣いてしまうのだが、ここは、読者の方も泣かされてしまうのではないか。
実は、この『重版出来』の一巻が発売されたときもフェアが仕掛けられ、その写真が作者によってリツイートされたことがあった。

この幸福感はものすごいものだった。僕はもう一消費者でしかないけれど、すごく「いいもの」をリアルタイムで体験している感じがあった。

ヒロインたちの努力は実り、『タンポポ鉄道』はヒットする。その最後のところに、営業の責任者の言葉がある。

…なんで売れたかわかんないって?
「売れた」んじゃない。
俺たちが――売ったんだよ!!!

これ、文章だとわかりにくいんだけど、「俺たち」のところには、営業と店員さんがずらーっと並んでいる。
もしかしたら、ここに「なにを偉そうに」と違和感を覚える人もいるかもしれない。でも、これは(ほんのちょっとの)体験的に言って事実だと思う。作家は作るのが仕事。そこから先は、営業や販売の仕事なのだ。そのことについて胸を張ることは全然間違いじゃない。
本のセールスは作品の良し悪しとは完全には一致していないと僕は考えていて、それについては前回の『斬り介とジョニー四百九十九人斬り』のところで島田虎之介の言葉を引用したけれど、面白いからといって売れるとは限らない。売れないものもあるのだ。
このマンガでは、「売れないマンガ」についてはひとまず目をつむり、「売れたマンガ」についての考えを、ある書店員のセリフでもって示している。

「なぜ売れないか」はわからないけど、ひとつだけハッキリ言えるのは――
売れる漫画は愛されてます。

愛されるように仕向けるのは、作品がほんらい持っている力とプラスアルファがあって、そのプラスアルファの部分が編集者、営業、全国の書店員、そして作品のファンたちの力だと僕は思っている。そういう意味での「俺たち」なのだ。

最後に。この作品自体も、めでたく重版出来された。

この実際の編集者さんのツイートが流れてきたときも、ちょっと目頭が熱くなった。
本当ならトップ10に入れたい作品だが、すでに売れているだろうからよしとする。

業田良家機械仕掛けの愛

機械仕掛けの愛 1 (ビッグ コミックス)

機械仕掛けの愛 1 (ビッグ コミックス)

業田良家らしい優しさに満ちた作品。すべてロボットを扱った短編集。ハッピーエンドの場合もあるけれど、「心を持ったロボット」という言葉からすぐさま連想されるように、せつない話が多い。そのひとつひとつに、目からウロコが落ちたり、度肝を抜かれたりすることはない。オーソドックスということなんだけれど、じゃあ読むほどではないかというとそうでもなくて、なんというか、「こういうマンガが必要なんだよ!」と思わせるマンガ。マジメな話、『ジャンプ』はこういう作品を掲載させるべし。

それとはまた別の話なのだが、ロボットというほんらい無機物なものに対してまるで人間のように感じてしまうことと、フィクションというほんらい仮想のものに対してまるで現実のように感じてしまうこととは、構造的には一緒なのだと思う。だから、フィクションが存在する限りは、ロボットもののストーリーはなくならないだろうし、ロボットはイノセンスの象徴でありつづけるのだろう。
現在、二巻まで刊行されている。漫画界の良心だね。

*1:『ナルト』は忍者マンガではなく、忍者コスプレマンガだと思っている。

*2:シリーズになっているエピソードもある。

*3:お客さんにとっては、書店員か出版社の営業か、なんていうのは区別がつかないので、棚を整理していれば店員だと思ってしまう。

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