とはいえ、わからないでもない

カテゴリ: テレビドラマ

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いまさらながら観始めていて、いま第4話まで来た。みくり「恋人をつくろうと思いますが、考えた結果、ひらまささんにします」というところで終わる回。
やらなくちゃならないことが多いのですごくさらっと書いておくと、観る前には絶対萌えると思っていたガッキー、というか、ガッキーに萌えるために観ようと思っていたのだが、いざ蓋を開けてみると、まったく萌えない。どころか、このみくりさんという人物が大っ嫌いだということがわかった。まあ、ドラマを観ているとだいたいの女性キャラクターをキライになる、っていうのはよくあることなのだが。
で、石田ゆり子は……やっぱりうーん、という感じ。流行っていた当時は、「○○歳とは思えない!」なんていう褒められ方をしちゃっていたのかもしれない(というかそういうフレーズを実際目にした)けれど、ふだんからあんまりそういうところを気にしたことがない――つまり、年齢のわりに若い!とか、そうでないとか――僕は、フラットに見て、女性としてそれほど魅力的には思えないというのが正直なところ。容姿が整っているために彼女のセリフや存在感に重みがあるのだとしたら、それはキャラクターの魅力じゃなくて、石田ゆり子の魅力だろうから。
同じ理窟で、みくりさんが、ガッキーじゃなくても好きかどうかっていうと、ガッキーの容貌をもってしても「こんなやつ、どーでもいーや」と思ってしまうのだからなあ……。これ、つづきを観ていくと好ましく思えるんだろうか?

じゃあまったく観る気がしないかっていうと、そんなことはなくて、星野源がめちゃくちゃかわいいから観ている。愛されない感じ、とかすごくよくわかる。ふんぎりをつけるために、もういっそ手放しちゃえばいい、とか。
あとは、古田新太と藤井隆のところがおもしろい、っていうのがなんとかドラマの推進力になっているのかな、というふうに見ている。それ以外の場面は、僕にとってはけっこう中だるみに感じてしまって、まだるっこしい。というか、全だるみのなかにポイントポイントで「お」と思えるところがあって、なんとか観つづけられるというのが現在までのところ。
風見さんとか、申し訳ないんだけど下手くそすぎて、観ている側が素に戻っちゃうんだよな。ガッキーも、特別うまいっていうわけじゃないから、星野源との対話なんかだとなんとか立脚していられるものを、風見さんとふたりで話していると、けっこうきつい。なので、このドラマを観るときは必ずアルコールを入れるようにしている。たぶんシラフだと電源オフにして終わりにしてしまうから。

どうしても杏&ハセヒロの『デート』と比較してしまうのだけれど、丁々発止という言葉がまさにふさわしかったあちらの脚本とくらべて、こっちの脚本はどうも隅の隅まで締まっている感じがしない。たとえば、風見さんに対してイケメンイケメンと臆面もなく連発するみくりさんだけど、これって、男女逆転させたら、けっこういやらしい男じゃない? 美人に対して「美人はいいですよね」ということを連発する男って、意図的であれば当然気持ち悪いし、無意識であっても、なーんか気持ち悪いものを感じる。わざわざそんなこと面と向かって言わねーよ、っていうのが僕の感覚なんだけど、そっちのほうがおかしいのだろうか。もちろん、みくりさんを自信満々に口説き気味の風見さんは男女をどう入れ替えたって気持ち悪いんだけど。
あと、いろいろなテレビ番組のパロディをやるにしたって、ちゃんとやりきったほうが面白いと思うんだけどなあ。情熱大陸はTBS系だからちゃんとロゴまで使って窪田等つかってやっているのに、ビフォーアフター(テレビ朝日)のパロディでは加藤みどりを使わなかったのに、なんだかなあ、と思ってしまった。「他局」だから? 視聴者にとっては知るかそんなもん、だよね。
あと、『奥様は魔女』をはっきりと言及してしまっていたのは野暮ったかったなあ。で、エヴァは言及しないんだよね。ここらへんに、振り切れていなさを感じてしまった。
あと、キャストの8割が不満。風見さん、石田ゆり子の部下たち、ガッキーの幼馴染等々……なんか、一定基準すら満たしていなくて……ヒットして注目浴びたかもしれないけれど、今後は辛いだろうなあ。あと、新垣結衣というタレントはキライではないからけっこう大目に観ているけれど、みくりさんは、『精霊の守り人』をやっている綾瀬はるかに対する「うわあ……」という気持ちといまのところはあんまり変わらない、ってことは書いておくことにする。

まあとにかく、いちおう主人公はガッキーなはずで、彼女の一人称的独白部分は多いのだけれど、でもやっぱりその彼女がどうしても空虚に思えてしまって、これが工夫の凝らされた演出のせいで、もしかしたら、回を重ねることによって感情移入できるようになっていくのかもしれないが、いまのところは、あまり期待できない。でも、つづきは観ることにする。
なんだかんだいって、でもやっぱり星野源はかわいいよ。

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去年の春のドラマ『ゆとりですがなにか』の録り溜めしたやつをいまごろ見ている。
毎回どきどきした状態のままドラマのエンディングを迎えると、その直後に必ず同局の別の日のドラマ(『世界一難しい恋』とかいうやつ)の番宣が入っていて、それが波瑠と嵐のリーダーがどうやら主人公の恋愛ものっぽいのだが、どうにもこちらの見る気をわざと起こさせないような雰囲気がぷんぷんと臭ってくる感じなので、いつも鼻を鳴らして「停止」ボタンを押すのだが、おととい、『ゆとり』のほうの第6話か7話かを観て「おお」となって、それからまた番宣の波瑠が出てきて「けっ」となって、そこで停止ボタンを押したら、画面に柳楽優弥と波瑠が一緒に登場してなにやら仲良さそうに話しているのを観て、「え? え? え?」となった。柳楽優弥は『ゆとり』で、波瑠は『世界一なんちゃら』だろ? え? え? え?
ほんとに一瞬なんだかよくわからなくなってしまったのだが、これはつまり、いま現在、NHKの金曜のドラマ10で、柳楽優弥と波瑠が共演しているっていうただそれだけの話なのだ。
たまたま9ヶ月ほど前に毎週日曜に日テレの『ゆとり』を観ていた人なら、「あれ、なんか既視感のある組み合わせだけど、なんだっけなあ?」と首を傾げる程度なのだろうが、僕のようにいまさら録画物を観ている人間は、「すっげー奇遇!」となったことだろう。まあ共感してくれる人間は日本中に3人くらいしかいなさそうだけど。

で、『ゆとり』のほうの柳楽優弥は客引きをやっていて、「おっぱいいかがですか、おっぱいいかがですか」ばっかり言っている。それ以外のセリフもけっこう(というかかなり)いいことを言っているんだけど、いざ彼を思い出すと「おっぱいいかがですか、そろそろおっぱいなんじゃないですか」と言っているイメージしか浮かばない。その柳楽優弥が、あのお嬢様然とした波瑠と談笑なんかしつつ「つきあってもらえるんですか?」などと言っているところを観ても、どうしても「騙して店で働かすんじゃねーの?」とかしか思えない。
とは言いながらも、ほんとは『ゆとり』の柳楽優弥は大好きで、まあそのことを書く日がいつかあるかもしれないね。

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年末は三谷作品にどっぷりという感じで、年が明けてから軽い喪失感。
とはいっても、『真田丸』ではない。あれは大坂城で哀川翔と岡本健一とがやたらと幅を利かせて「ザ・学芸会」をかましてくれたので辟易し、ついに我慢ができなくなってネットに避難していた際に、たまたまYouTube上で舞台版『ラヂオの時間』を観たのであった。いまこれを書いている現時点でも、『真田丸』は残り2回を残して未見のまま。うーむ、興が削がれすぎてしまったんだよなあ、あの2人のせいだけで。
それはともかく、『ラヂオの時間』が予想以上に面白かったのでほかになにかなかったかと検索してみると、『王様のレストラン』がヒットした。第1話から最終話の第11話まですべてあって、それぞれ2回~3回観た。
1995年のリアルタイムでは家族が観ているものをちょこちょこと覗くといった程度で、本腰を入れていなかった。いまになってその家族に訊いてみると、両親にしても弟にしてもやはり本腰を入れて観ていなかったようで、特に弟はギャルソンやコック連中の態度がどうにも好きになれなかったということを言っていて、それを聞いてたしかに僕も、稲毛(梶原善)や梶原(小野武彦)らが松本幸四郎演じるギャルソンに陰で文句を言っているという点に苛立ちを覚えてなんとなく距離を置いたことを思い出したのだ。

といっても時は20年以上経ち、それなりに感ずるところも変っているであろうと観てみたわけだが、これがとても面白かったのである。
とりあえず観終えて日も浅く役名を書くほうがラクなので、参考となるよう役名/俳優名をリストアップしておく。
  • 千石 武 - 松本幸四郎
  • 原田 禄郎 - 筒井道隆
  • 磯野 しずか - 山口智子
  • 三条 政子 - 鈴木京香
  • 水原 範朝 - 西村雅彦
  • 梶原 民生 - 小野武彦
  • 稲毛 成志 - 梶原善
  • 大庭 金四郎 - 白井晃
  • 和田 - 伊藤俊人
  • 畠山 秀忠 - 田口浩正
  • 佐々木 教綱 - 杉本隆吾
  • ジュラール・デュヴィヴィエ - ジャッケー・ローロン
  • ナレーション - 森本レオ
当時を知る人にとってはなんとも懐かしい顔ぶれということになろう。和田役の伊藤俊人はすでに故人となっているし、そのほかにも、自らがそのキャラクター演技に縛られ飽きられてしまった者(僕の印象では三谷組はそういう人たちが多い)、スキャンダルによってあまりその名前を見なくなってしまった者、代替する役者に取って代わられてしまった者、などもいないわけではないが、しかしこの当時はまったく輝いていた。この作品になぞらえて言うならば、「誰かが言った、すべての舞台には光がある、と。このドラマには、いわゆる奇跡が詰まっていた。脚本家は脂が乗っていたし、役者たちは、その誰もが、掛け値なしにぴかぴかに輝いていた。まるで、まだ誰も使っていない厨房のように(森本レオ)」ということになる。


松本幸四郎はまぎれもない日本の伝統文化の担い手の中心人物であり、そのような人間をこともあろうにフレンチレストランのギャルソンに据える、というのはいまとなればものすごい奇策のようにも感じるが、どうあれ、それは最高のマリアージュとなった。彼の持っている独特なブレスの使い方があまり類を見ない間(ま)をつくりだし、エレガントかつコミカルなキャラクターを形成させた。彼のいない『王様のレストラン』は考えられないし、またこの作品を観た者は、彼の役者人生のなかに千石という役名が大きく刻まれているのを見るはずだ。

オーナー(ロクロー)を演じる筒井道隆は、20年前はどうにも好きになれなかった。優しすぎてただのマヌケに見えるし、彼の一本調子のしゃべり方も気に食わなかった。それが、いま見ればなんとなく許せるようになった。思えばこの「優しさ」というのは三谷作品にはけっこう見られるもので、いまより若い頃の僕には優柔不断のようにも映ったのだ。そして、優柔不断は僕にとっては非常な悪だった。
いまでも優柔不断は好きではないけれど、それでも「そういうこともあるかもね」という一定の理解を持つことはできるようになったし、そもそもこのロクローというのは優柔不断ではなく、情の深い芯のある人物だということもわかった。ただ、底抜けにお人好しだったわけだが。そんなキャラクターを愛せるようになったというのは、僕にとってはちょっとした驚きで、嬉しくもあった。
後に詳述するが三谷の作品には、日和見主義だったり、すこし意地悪だったり、裏表のある人物が出てくることがある。しかし、彼らは底の底では悪人ではなく、どこか愛すべきところが残されている。少なくとも作者はそう思って人物をつくっている。たしかカート・ヴォネガットが父親に「おまえはほんとうに悪い人間を描くことができない」と言われたと記憶しているのだが、三谷にもどことなく同じ言葉が言えそうだ。そしてまた、ロクローのみんなに対する優しさは、上に挙げたような小人物たちの救いにもなっている。そういう意味で、このドラマのシンボルにもなっている存在なのだと気づいた。

シェフ(しずか)の山口智子はとてもキュートで、同じような言葉を重ねてしまうがとにかくまあチャーミングなのだ。
女性でいえば、三条さん役の鈴木京香は対照的に美人で、自ら「愛人顔」と称し、実際に愛人役でもあるのだが、こちらはごくごく一般的な恋愛をしていると感じてしまう。こんな美人だったらまあ愛されるし、くわえて当人も他人に優しいのだから、それってつまりあまり変化球のないストレートな恋愛だよね、と憧れを抱きながら思うわけだ(鈴木京香は鈴木京香で、他には得難い個性というものを魅せていることは註記しておくけれど)。
けれども千石に対するしずかの言動っていうのは、男子学生のファンタジーみたいなところがあって、あまりにも天衣無縫でうぶでそのくせ天邪鬼で、観ているとこちらが赤面してしまう。これは万人の好むものではなく、なかにはものすごく嫌いという人もいるだろう。だが僕の場合はいまだにティーンエイジ・スピリッツを抱えて生きているので、ああいうのは全然アリなのだ。

他を一挙まとめて書くと、メートル(梶原)の小野武彦と、コミ(和田)の伊藤俊人、パティシエ(稲毛)の梶原善と、スーシェフ(畠山)の田口浩正は、先に書いたような小人物ということになる。それぞれが心中で相手を見下してはいるもののなにかというと結託をし、すぐれた者や意識の高い者の足を引っ張ろうと躍起になる。
しかし第6話で、梶原(小野武彦のほう)が別れた妻に、ほんとうはメートル・ド・テル(食堂主任)なのに見栄を張ってディレクトール(総支配人)だと嘘をつき、それによって大混乱が起きるという回がある。これぞシチュエーションコメディの見本というような大傑作回で、結局はすべて露見してしまうのだが、そこで梶原の元妻が千石に、「どうしてみんな梶原の嘘につきあったのか?」と問う。このときの千石の答えがなかなかいい。
「彼には、人を不愉快にさせない人柄というものがあって、それは、ギャルソンにとってなにものにも代えがたい宝物なんです」
そして最終回の第11話でも、このベル・エキップの面々をナレーションが紹介するとき、梶原・和田のコンビを指して「愛すべきメートルたち」と言っている。
しずかに惚れていることが最大でもしかしたら唯一のモチベーションであるパティシエもスーシェフも、お世辞にも誰もが好きになるようなキャラクターとは言えない。でも、三谷は暗に「日本人ってだいたいそんなもんじゃない? 真面目で、立派で、どこに出したって恥ずかしくないような人って、逆にいる?」と問いかけているような気もする。別に彼がそんな発言をしたという記憶も記録もまったくないのだが、しかし彼の描きたいのは、完全無欠の高邁な人格の持ち主などではなく、それよりは、いろいろと欠点はあるけれど、どこか愛すべきところが残っている人物、なのではないだろうか。彼の優しさは、そこをすくい上げたいのではないか。

ソムリエの白井晃には、少し変った立ち位置が用意されていて、かなりおいしい役どころだ。自尊心が高く物知りでちょっと気障だが、最終話で千石にまたベル・エキップに戻ってこいと言ったのはオーナーのロクローを除けば彼が最初だし、自分の考えをきちんと明言し、周囲を叱咤するときもあれば(第10話)、そうかと思えば「同僚を裏切ることはできない」とある意味同志であるオーナー&千石組に反抗することもある(第4話)。それだけならかなり完全無欠のソムリエになってしまうが、音痴だったり真面目がゆえの失敗などが用意されているので鼻持ちならないやつとは受け取られない。白井自身は、この役どころのイメージがあまりにも定着してしまって困ったことはなかったのだろうか、とこちらが心配してしまうほどだ。


と、わざとここまである人物に触れないで書いてきたが、そこに行く前に、「もし2017年に『王様のレストラン』をリメイクするのなら」という設定で、頼まれもしないのにキャストを考えてみた。ことわっておくが、かなりの自信作である。
重複すると煩瑣なので、左にわかりやすい役名/呼称/役職と、括弧書きで名前や渾名、右に新キャストを配した。
  • 千石さん - 堺雅人
  • オーナー(ロクローさん) - 東出昌大
  • シェフ(しずか) - 長澤まさみ
  • 三条さん(マーシー) - 吉田羊
  • ディレクトール=ソウ支配人(ノリトモさん / のりたま) - 松尾スズキ
  • かじわらさん(くどいようだけど、おれ「かじはら」だから。間違いないでくれる?) - 生瀬勝久
  • パティシエ(稲毛) - 濱田岳
  • ソムリエ(大庭さん) - 山本耕史
  • 和田くん - 野間口徹
  • 畠山 - 松尾諭
  • 皿洗い(佐々木くん) - 細田善彦
  • デュヴィヴィエ - 特になし
  • ナレーション - 窪田等
ちょっと注釈を。
まず千石には、やっぱり『真田丸』における演技で僕のなかで急激に株の上がった堺雅人を任せたい。松本幸四郎とはタイプがまったく違うけれど、それはそれでどういう表情を魅せてくれるのかたのしみ。次点で長谷川博己。彼は『デート』でみごとコメディを演じてくれたし、もともとスマートな感じなので、エレガントさについては問題なく表現してくれるだろうと思う。
オーナーは、東出昌大。身長と棒読み感がぴったり。
シェフは、 長澤まさみかなあ。これもやっぱり『真田丸』の印象が強くて、かのドラマでは一年を通して(といっても最後の2回は未見だけど)ほぼ一度として美人という扱いを受けてこなかったという事実に、資生堂のCFだかに出演しているのを観て愕然として気づくという逆説的な認識をしたわけだが、まあこういう役どころを受け容れられるというのは将来がたのしみである(小者ほど、役柄についてあーだこーだ言いそう)。次点で優香。これはやっぱり『ちかえもん』の印象。かわいらしくて優しくて、でも気が強くて、ものすごく魅力的だったもんなあ。
三条さんは、吉田羊。当時の鈴木京香よりは年齢が上かもしれないがどうせ年齢非公開(なはず)だし、美人だからよしとする。次点は若い頃の和久井映見。いまでもとても素敵で、僕個人としては露ほどの不足もないけれど、とりあえず「若い頃の」という条件を付しておく。こっちは『デート』や『ちりとてちん』での印象がある。
かじわらは……え? あ、かじらね。わかったわかった。かじはらは、生瀬勝久なんだけど、あれ? 生瀬って一回梶原やっていなかったっけ? ってくらいのハマリ役な気がする。 次点で近藤芳正。95年版にはゲスト出演しているけれど、あの頃よりさらに味が出ていると思うから十二分に演じられると思う。
パティシエは濱田岳。濱田岳はきちんとその演技を観たことはないんだけど、まあ背が小さいところが採用した一番の理由。東出と反対だね。
ソムリエは山本耕史。といっても、石田三成の印象からではなく、『夜のせんせい』の、外面は怖いけれど中身は抜けているヤクザ、がとても好演だったため。
和田くんは野間口徹。メガネだから。
2番シェフの畠山は、なんといっても松尾諭。以前から言っているが、少し前まで田口浩正が独占していた「小太り・メガネ」の枠は、現在すべて彼が総取りしようとしている。
皿洗いの佐々木くんは率直に言って誰でもよかったが、せっかくだから最近頑張っている細田善彦にしたい。
あと、ナレーションは窪田等。任天堂のCMをやらせている場合じゃない。日本の宝やで。


で、ここでもやはり触れなかったのが、つまり僕が最大のお気に入りのキャラクターである、水原範朝または「のりたま」、あるいはディレクトール、a.k.a ソウ支配人だ。
95年のリアルタイムで観たとき、西村雅彦をきちんと評価できる眼を僕は持っていなかったのだと思う。なんだか西村雅彦はまたヘンなしゃべり方してるなあ、辛気臭いなあ、くらいで止まっていたのではないか。
しかししかし、西村雅彦はそんなもんじゃないのだ(ということを、この記事を書く前に弟に言ったら、「そんなのわかってるよ! 西村雅彦、超うまいよ!」って言われた)。彼の実力がいかんなく発揮されるのが第9話。借金を返すために店の売上に手をつけて、しかもそれが従業員にバレてしまい、みんなの前で弾劾されるとき、弟のロクローが必死にとりなすのをよそに、自ら店を去ろうとする。それを止めようとするロクローに対するセリフ。
悪いがおれにだってプライドがある。親父がいた頃は親父にさんざんバカにされてきた。
やっと死んだと思ったら、今度はおまえらだ。いつだっておれはダメな男の代表だ。
ロクローは「そんなことないよ」と応える。
おれを、ただの役立たずだと思うな。運が悪かっただけなんだ。ほんのちょっと歯車が噛み合わなかっただけなんだ。とてつもなく長い厄年がつづいているだけなんだ。
ロクロー「(強くうなづき)そう思う」
ノリトモ「ばか言え、おまえにわかるか」
「わかるよ」
「わかっていない」
「わかってるから、役に立ちたいんだよ!」
おれは兄貴で、おまえは弟だ。おまえから、優しい言葉をかけられるたびに、おれの心はずたずたになっていくんだ。
もう、ここらへんの西村雅彦のセリフの吐き方がものすごくて、というのも全然感情的ではなく反対にまったく抑えたようにしゃべるのだが、かえってその淡白な部分に兄としてのやるせなさが滲んで感じられ、こちらの胸が詰まってくる。これが情熱にまかせて叫んだり、あるいは自己憐憫にひたりきったモノローグに堕してしまえば、視聴者はかえって冷静になってしまう。
強く断っておくが、淡白とはいっても、たとえば上のセリフの「とてつもなく長い厄年がつづいているだけなんだ」の部分は、「とてつもなく、」でちょっと切れて、「長い厄年が~」とつづく。あるいは、「おまえから優しい言葉をかけられるたびに」のところの、「かけられるたびに」も、少しだけ声量が落ちる。これらはおそらく、情感が溢れてきてしまって一瞬だけ言い淀んでしまったのではないだろうか。
また、この回のエンディングちょっと手前で、やっぱりみんなのことを考えて店を去ろうとするノリトモを、今度は千石が呼び止めて説得する。「自分を信じるんです。ノリトモさん、あなた自身が信じてやれなくて、いったい誰が信じるんです」
このあとの西村雅彦は、きちんと松本幸四郎に向き直って、
ふしぎだなあ……、あんたと話してると、親父を思い出すよ
と感に堪えない様子でつぶやくのだが、このときの「ふしぎだなあ」にも、辞書的な意味における言葉とは別に、思わずこぼれてしまった情緒というものが込められている。
これらの表現は、単なる棒読みとはまったく一線を劃すものである。西村雅彦はけっして器用ではないが、けれども感情の込め方がわからないような、そんな二流三流の役者ではない。三谷幸喜は当て書きをするとはよく言われているが、これらのセリフは、西村雅彦の口から出てくることでより強度を持った言葉になっている。
そうなんだよなあ、「とてつもなく長い厄年」というのも、「ほんのちょっと歯車が噛み合わなかっただけ」というのも、ほんとうにあることなんだよなあ。20年が経ってそんなことがじんわりと理解できるようになったよ。
そしてこの場面では、ロクローの優しさが万能というわけではないことをはっきりと描いている。他のスタッフたちの救いとなってきた優しさも、ときに人を傷つけていることがある。それも、いちばんたいせつに思っている相手を。
しかしそこは三谷幸喜、無邪気な善意で失敗して兄に文句を言われても、さらに「覚悟の善意」とでも呼ぶべき優しさで相手を包み込むことで解決させる。互いに理解のできぬまま別れてしまうというのは、リアルなのかもしれないが、カタルシスがない。プロセスはリアルであってもよい。あーだこーだと登場人物が視聴者を引きずり回し、感情をぐらぐらにさせたっていい。けれども、われわれが最終的にドラマに求めるのは、なんだかんだいってカタルシスなのだ。最後までぶちまけっぱなしの物語なんて、誰が必要とする?
ディレクトールのノリトモは、運がなくて、頭もそれほど切れるわけじゃなくて、小心者で、小ずるくて……、けれども、そんな彼にも陽の当たる日が来る、というのがこのドラマのクライマックスだと僕は感じた。なんといったって彼も、こと動物に関しては優しいし、動物を愛する者に対してはロクロー並のお人好しを見せる。彼こそ、このドラマのほんとうの主人公なんじゃないかと感じた。よく、「本当の主人公は○○だ」と指摘して得意げになっているやついるけどね。


もう書きたいこともだいぶなくなってきた。
あ、新版(って勝手に名づけちゃっているけど)キャストのディレクトールが松尾スズキってのもいいでしょ。これはもちろん『ちかえもん』での好演が頭に残っていたから。なお、このドラマ(『王様のレストラン』のほう)に興味があればVHSなりDVDなりをレンタルして観るべきだと思う。YouTube上にアップロードされている動画はかなり音質・画質が悪いので、かなり苛々することになるからだ。
ドラマ全体については、格別の言葉をくわえる必要もないだろう。脚本や配役やその演技だけでなく、構成、演出、音楽など、どれをとってもたのしめる箇所が多い。特に音楽であるが、服部隆之のサントラは一聴どころか所有する価値あり。アマゾンレビューには、「人気があるようなので」結婚式用に購入した、というレビュアーが、「(あまりにもいいので)ドラマのサントラにしておくには、もったいない」と書いていたが、こういうのを厚顔無知というのだろうな。違う違う、そうじゃ、そうじゃない、という90年代的ツッコミをした御仁よ、わかってま。けれども、無知は無恥であり、それをさらけだすのはやはり厚顔なのだ。まあ、この人間はドラマを観ていないでそう書いているのだろうね、というところで筆を止めておくが。
構成といえば、やはり最終話で千石が戻ってくることを決めたセリフに、物語上ずっとつかわれていた「あの表現」を持ってくるなんて、と思い出すだけでしみじみしてしまう。
そういえば僕のアルバイトしたことのあるイタリアン・フレンチのシェフは、けっこう「あの言葉」を多用していた気がする。書き言葉ではよくつかわれるけれど、口語ではあまりつかわれないものだからとても印象に残っていて、「ああ、『王様のレストラン』の影響かな」と思ったものだ。影響といえば、千石が一度ベル・エキップを去るとき、すべてのテーブルの準備をし、すべての鍋をぴかぴかに磨いておく、というのがあって、あれは一度真似をしたいと思っていたが、ついに叶わなかったな。いざやるってなると、「めんどくせーし、まいっか」となった。
話を戻すと、この記事においても「その言葉」はあえてつかわずにここまで来た。とても気に入ったドラマに対して精一杯の愛情を表現したいのに、この言葉をつかわないことがどんなにたいへんだったか。それでもそこそこの記事が書けたのではないかと自負はあるのだが……、それもついに解禁だ。ん?


この記事が「そこそこ」ですって? ふふ、ご冗談でしょう。
この記事の書き手は、ドラマへの愛情とやらを示すためにいろいろと書いていますが、そのどれもが冗長で、これでは読んでいて退屈してしまう。
また、「ぼくのかんがえたさいきょうのきゃすと」をつくるのも結構ですが、脚本家の他の作品に依拠してばかりで、オリジナリティが低すぎる。
そして構成。文章というものは、はじめから整然と論理立てられて書かれるべきものであり、進んでいくほど濃密になり、また感動があるべきです。最初からあっちゃこっちゃに話が飛んでしまっては台無しです。
 要するにこの記事は、「そこそこ」にも程遠い、「そこそこ」を気取っているだけの、最低の記事です。最低の。……がしかし、最低ではあるが……ドラマはほんとうに、すばらしい!

編集
『逃げる女』をやっと観終えたのだが、前から「すばくそだ」と書いてきたとおり、嫌なところはとことん嫌で、流し聞きしたところも多数なので、批評ではもちろんないし、感想ですらないただの「思ったこと・感じたこと」をちょっとばかり。

第二話か第三話で、冤罪で8年の懲役から出所した水野美紀が実家に帰ったところでその父親の古谷一行と再会するのだが、この場面はほんとうに素晴らしかった。このドラマをまったく観る気がない人・なかった人も、ここだけは観てほしい。下手したらひと月以上前の記憶になるので相当不確かなのだが、このシーンには息が詰まった。
たしか古谷はほとんどしゃべらず、かぶっていた帽子を取り、自分の胸の前で握り締め、自分の娘に対して申し訳なさそうに頭を下げたのではなかったか。
それを見た水野は、呼吸を忘れたかのように息が吐けなくなってしまい、震えながら、こぼれるようになにかを言ったか、あるいは言えなかったか。
演技だけでいえばここは、今年観るもののなかでベストになると思っている。最高で最良のドキュメンタリーのまさにクライマックスというようなカットで、思い出すたびに胸がかきむしられる。その直後に、「なぜ無実を主張しつづけなかったのか」と姉を責める妹のセリフがつづくのだが、その途端に「ドラマを鑑賞している」という現実に引き戻された。この妹役の女優もけっして下手なわけではなかったが、たぶん最高で最良の時間にひびを入れてしまったのだと思う。
しかし水野美紀は、妹の言葉の暴力を浴びつづけながら瞳を大きく見開き、首を細かく横に振っていた。彼女は驚き、哀しみ、打ちのめされながらも、必死にそこに踏みとどまろうとしていた。水野美紀と妹役の女優との違いは、脚本のせいでもあるのだが、言葉のありなしの違いだった。水野はほとんどセリフを口にしていなかったはずだ。古谷一行もそう。ただ妹だけが少し説明的なセリフを叫んでいた。そこに悪い意味での演劇性を感じた。言葉じゃあるところまでは行けるけれど、その先は突き抜けられないということを思い知らされた。

なにかの呪いのように寡黙な刑事役をしてばかりの遠藤憲一は、なにかの呪いのように同じような演技を見せてくれたが、彼の演技についての疑問符は、ただ不器用だと解釈すればよいのだ、という天啓によって払拭され、その不器用さをうまい具合に活かした『真田丸』の上杉景勝は、けっこうハマっている。
一方、その部下の賀来賢人は、『Nのために』によってはじめて彼を知り、そのとき「単にチャラいだけじゃない、気遣いと優しさを見せることのできる青年」という演技によってなのか役柄によってなのかが未分化の、ともかくも好印象を持つこととなったのだが、その後はCMでしか見かけたことがなく、あらためて当ドラマで若手刑事役をしているのを観ていたら……「そろそろ変えていこうか?」と、いままで温厚に見守ってきた還暦間近の少年野球の監督が、飽きもせずただバットを振り回すだけの少年に対していいかげん嫌気が差し、ちょっとだけ目を据わらせたまま口にするような言葉が、この僕のなかにも湧き起こった。
そうなのだ、これまたけっして下手じゃないのだけれど、キャラクターに広がりというか可能性がまったく感じられず、たとえばこのドラマにはなぜか刑事たちのあいだに不穏な空気が、なにかの手違いで焚きすぎてしまったドライアイスの煙のように蔓延しており、彼らの上司である課長の加藤雅也にいたっては犯罪に手を染めているんだかいないんだか(ここらへん、セリフがよく聞えないうえに、巻き戻して確かめようともしなかったので不明なままなのだ)で、しかもそれを部下のひとりであるでんでんが勝手に内偵しているとかいう、「その情報、ここで必要?」といういまどきのツッコミがこれほどぴったり当てはまる刑事ドラマもなかろうに、とマカロニを食べながら、無理にストーリーに複雑さを加えようとする脚本に呆れ慨嘆し、幾度となくビデオの停止ボタンを押そうとしたものだが、話を戻すと、それほど不穏な刑事たちのあいだにあって、油汚れに強い洗剤でスポンジ除菌までしたのかってくらいに爽やかな彼(忘れてしまったかもしれないけれど賀来賢人の話題です、これは)の存在・演技はミスマッチ感たっぷりで、いやほんとうはこっちのほうがまともなんだろうけれど、エンケン、でんでん、という偶然にも韻を踏んでしまっているコンビがあまりにも異常で、そういう連中のなかにあっては「まとも」というより「つまらない」ように映ってしまって、損をしていたというのは事実。でももう少し芝居に工夫がないと、次は厳しいよね。

で、だ。
問題の仲里依紗の話に移る前に、脚本にもう少し触れると、完全につまらないというわけでもなく、ところどころに説明ゼリフがあったり、既述したようなとってつけたような複雑さに関してはもう眉を顰めるしかないのだが、 一方、ずっと一人称的に描かれ、冤罪に苦しむ完全な被害者であったヒロイン水野美紀が、8年前の事件当時に不倫仲を疑われた高橋克典によって、実は上昇志向が強く、(のちに偽証して彼女を陥れた)田畑智子と殺された子どもが彼女のことを愛し必要としていたことにまったく気づかないか気づかないふりをしていたというシビアな一面を持っていることが明かされる。思わぬ人物の証言によって、いままでわれわれに見えていたのとはまったく別の側面が浮かび上がる、というこの構成は実に秀逸だった。
インテリである彼女は、地方の幼児教育の場にフィールドワーク的に入り、そこでの経験をもとに本を出版するはずだったのだが、幻となったその本のタイトルは「さみしさの云々」とかいうもので、しかし彼女がほんとうに寂しさというものをわかっていたとは思えませんね、と告発するように刑事に話す高橋克典のちょっと老けた感じもかなりよかった。なお、ここらへんのディテールはかなり聞き流しつつなのでだいぶアバウト。
原作がどうなっているのか知らないが、物語を水野美紀と仲里依紗のロードムービーにしたかったために冗長を避けるべく無理に刑事側の混沌を描写したように僕には思えたのだが、ここらへんがかなり蛇足で非常にもったいないとも思った。あと、ものすごく繰り返しになるけれど、説明ゼリフが多すぎ。

で、その高橋の告白によって事態が思わぬ展開(話じたいは変わらないのだけれど、視聴者がヒロインを見る目がここで変ったのだ)になったのとたしか同じ回で、いままで「おいおい、ちょっとその演技はおじさん観てられないよ」とだいぶ僕もスルー・ザ・スプーン気味だった仲里依紗の演技が爆発した。
逃亡をつづける(この理由を考えることをもはや抛棄したまま鑑賞していたので、未見の人も深く考えなくていいです)水野と仲がある定食屋で話している。
水野は、妙な因果で一緒になった本来は縁もゆかりもない仲に、「いまはあなたしかいないのよ」と少し照れたように本音を告げるのだが、その言葉に仲が激しく反応する。
「ふざけるな! あたしはいっつも『あなたしかいない』『あなただけを大事に思ってる』と言われて、そうやって暴力をふるわれつづけてきたんだ!」 
実は彼女には、幼児期に実母の連れてきた男に、冬空のなか裸で冷水を浴びせられながらしつけられるという虐待経験があったのだが、このときの仲の演技は凄まじかった。自らの髪を引っ張りながら握り拳で自分の頭を何度も何度も叩き、叫び、目からは涙をひとすじ流していた。その涙が血の涙のように見えるほど、彼女の持つ怨嗟がこちらに伝わった。この芝居も、前述した水野のそれと優劣つけがたいもので、この場面を目の当たりにしながら僕が感じていたのは、いま彼女は「演技」という枠を突き抜けてしまっているということだった。画面に映っているのはまさしく、痛ましい幼児虐待の経験のためにおそろしくいびつな価値観しか持たない怪物のような少女だった。
そういう演技を観ていると、自然とこちらも息を止め引きこまれてしまう。仲の叫ぶ画面と幼女時の記憶の風景が重なる。
MA-1を着た作業員風の男が冷水の出るホースを手にし、こちらにその出口を向ける風景。その彼の後ろでタバコを吸いながら冷笑し、けれども心のどこかに空虚さと諦念を抱えたようにも見える実の母。これ、実際にこういう描写場面があって、さすがに水を浴びせられる下着姿の女の子(ずっと画面には背を向けていた)は寒そうには見えなかったんだけれども(なぜだろう、鳥肌とか本当に皮膚が寒さで硬直している感じとかがなかったからかな)、それでもこの「絵」は、単なる幼児虐待(「単なる」なんて言える問題じゃないんだけれど)というカテゴリーの暴力性を超えて、「ドラマでここまで描くのか」という強いインパクトを視聴者に与えたはずだ。ただただ凄まじかった。

ここらが最終回のひとつ前の回で、うわー、このドラマって実は大傑作だったんじゃないの? いったん最終回まで観たらオンデマンドで見返さなくちゃ、などと大昂奮していたのだがその最終回は……やっぱり面白くなかったんだよなあ。ある意味、それが面白い。
あまりにも面白くなかったから興味がほんとうに殺がれてしまい、最後がどうしてどうなったということがよくわからなかった。画面に人が出てきて、それが動いて、ときどき叫んで、拳銃を振りかざして戻してまた振りかざして今度は発砲して誰かが撃たれて……とそういう激しい展開は起こっていたのだが、気持ちがまったく動かず、演技の向こう側に突き抜けてしまったかに見えた仲里依紗は、ぼくの感動した第五回は奇跡だったとでも言うように、それまでどおりの絶叫芝居の枠内にみごと収まっていて、落胆のあまり「ふうん」という感想を持つだけだった。いや、冒頭に書いたとおり、感想ですらなかった。
きちんとすべてを観たとは口が割けても言えないので「思ったこと・感じたこと」をここに書くのさえ製作者に失礼っちゃ失礼なのだが、まあいろいろあって、最後に水野が原田美枝子の経営していたカフェを訪ねると、そのときにはすでにそこは閉店していて、けれどもたまたま鉢植えを取りに戻ってきた原田と会い、ふたりはまた入江の浜辺に行くのだが、ここは僕が以前にこのドラマの感想を書いたときに触れた場所で、ため息とそして涙が出るほどに美しく、物語は当たり前のようにしてそこで終わったのだった。その終わり方だけは、僕にとっては最高だった。

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今期の朝ドラ『とと姉ちゃん』は2週目の初日か2日目で見切った。

1週目初回の成長しきった高畑充希が放つ、いかにもわざとらしい「どうしたもんじゃろのお」にまず軽い眩暈を覚えた。狂ったように繰り返すことによって批判されるどころか甘受されてしまった「びっくりぽん」(じぇじぇじぇ、なんかもそうだけど)に味を占めたNHKの隠そうともしない底意に、もう少し受信側に批判精神はないものか、と嘆かわしい思いを一瞬抱いたのだが、もはやこれらの是非じたいがSNSのトレンドに(おそらく)組み込まれてしまっていて、軽い批判の、というか軽い話題のひとつのプラットフォームを提供している、という意味では成功しているんだろうな、と思い直した。
で、本篇の子ども時代なのだが、1週目の感想は一言に尽きる。浮世離れしすぎじゃねえ?(まったくの余談だが、「~しすぎじゃね?」、と「ね」で止めることにどうしても躊躇してしまう昭和の人間
たしか昭和5年という設定だったはずだけど、少女たちの部屋がメルヘンチックすぎて、いったいどれくらいのご家庭なんざんしょ、と思った。広い家。いつも落ち着いた様子で「おほほほほ」と笑っていそうな和装の母、木村多江。
それからものすごーーーーく優しい西島秀俊のお父さん。家族からは「とと」と呼ばれていたけれど、「父のとと」じゃなくて「カマトトのとと」かと直感したくらいに、現実味を感じない設定。モデルがいる以上じっさいそうだったのかもしれないが、あまりにも珍しい実例を持ちだされると困惑してしまうのだ。
で、その彼が早くも週末に死亡。残された一家はたいへんってなことになっていくようだが……。

ちょっと話がずれるのかもしれないけれど、これって貴種流離譚の変形なのかな、と。高貴な血を持つ人間が、転落したり漂流したりして苦労したのちに、その「血」にふさわしい地位にたどり着くっていうのが僕の(非学術的でかなりアバウトな)理解。
以前、少年漫画誌「ジャンプ」にあまりにもこの系統の物語が多すぎるってことを指摘したことがある(クソ映画『サマーウォーズ』について触れたとき)が、たぶんこういうのって好きな話型なんだろうな(ほんとうは「日本人の好きな話型」と言いたいのだが、外国文化と比較するほど知識がないので曖昧に書いておく)。
重要なのはこの「血」って部分で、「由緒正しい」とか「格式のある家の」とか「代々つづく」だのという、すべてカッコつきの正統性みたいなものが主人公やヒロインに付与されていて、そこをベースとしているからこそ視聴者は思い入れできる、みたいなスタイルなんだろうけれど、僕が思うのは、そういう与件がなければたのしむことができないのか、というほどこのパターンが多すぎる。
父親も母親もわからない(そして最後まで明かされない)ような最下層出身の主人公が頂点を目指す、というような物語はないもんかね。時代劇でいえば、両親はわかっていようが秀吉がこれにあたるか。むかしのドラマで言うと『おしん』? 僕は世代じゃないからよくわからないけれど、ひたすら苦労しているって話、っていう印象を勝手に持っている。
以前、安房直子の子ども向けの物語『まほうをかけられた舌』を読んでいたときに、そこに収められていた他の短篇の主人公たちのほとんどが貧しい子たちで、それだけでもうやたらと胸がしめつけられたのだが、その子たちが幸せになるというところにまた深いよろこびも感じることができた。
僕は児童文学にはまったく暗いけれども、ケストナーのいくつかの作品にもやっぱり貧しい子たちが出てきて、むしろそれだからこそこれらの物語は普遍性を持っていて、いまでも輝いているのだと思う。
しかし現代の日本ではそういう苦労に共感していくのがきっとイヤなのだろう。それよりは手っ取り早く、保証書付きの主人公/ヒロインのほうが安心できるってな具合なんだろうな。
そんなマインドが普及してしまっているから、簡単に二世議員が選ばれたり、まだなにもしていないのに「未来の総理」などと語られたりするんじゃないか、とこれはあえて横道に逸れた。

でまあそれはともかく、2週目に入って高畑充希が出てきたところで、はい終了。もう観る気がなくなった。
けっこう以前から家族内では指摘していたところなのだが、この女優は若いうちから活躍しているせいもあってか年齢のわりに技術があるのだけれど、既に演技が固定化しつつあるのだ。
NHKだけでいっても『ごちそうさん』『軍師官兵衛』で、だいたい似たような演技。それが僕の好みであればいいのだけれど、なんだか鼻について好きじゃない。この高畑充希じたいはものすごく好きなんだけど、演技が嫌い。そういえば深津絵里も同じような理由で、好きなんだけど演技が嫌いなんだよな。
具体的に例を挙げると、ちょっと無表情で首をちょこっと傾げるクセが彼女にはある。それによって、か弱い女性ではなく、かといって勝ち気すぎる女性でもなく、芯がありつつもけっして押し出しすぎないバランス感覚のよい女性を演じられているのではあるが、なんだか見飽きてしまった。
下手は下手で観ていて腹が立つのだが、ワンパターンの、いかにも「それらしい」演技ばっかりをしていると、「ほかにないのかよ!」と言いたくなる。たぶん器用であるはずなのに、いちど成功した技術に執着しすぎなんじゃないか、とこれは素人門外漢の完全な難癖つけにすぎないのだが、観る気がなくなってしまったのだ。

というわけで、以上の二点でもう今期の朝ドラは観ないことにした。
余談だが、次の朝ドラヒロインは芳根京子だということを知ったとき、やっぱりなとしか思わなかった。朝ドラにちょい役で出演した人がその後ヒロインという流れは最近顕著だったし、彼女の持っている「朝ドラヒロイン感」はオモコーのときからすでに感じ取っていた。朝ドラヒロインっぽくていまだになっていないのは黒木華なのだが、いまは忙しそうだから無理かな。
いづれにせよ、次回の朝ドラでも早いうちから「観るのやめた」ってことになるんだろうな、という予感が今からもうしている。

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やっと録っておいた第一話を観ることができた。

最初によかったところを挙げておくと、柳楽優弥の芝居がたのしく、特にキャッチを演じている部分は二度繰り返して観た。安藤サクラの演技はほぼ初見だが、これまた魅力的。大賀は『夜のせんせい』『八重の桜』以来だけど、いつものアツい演技とはまた違う表情を見せてくれてたのしめた。岡田将生も松坂桃李もきちんと役をこなしているように見えた。

けれども、なかなか第二話を観ようという気になれず、いまも見切るべきかつづけるべきか迷っているところ。
まず観る前からタイトルに対して「ん?」と思った。
いわゆる「ゆとり世代」というのが僕のなかでは現実味がなくて、もしかしたら実際に接触したことがないのかもしれないので具体的なイメージが持てないっていうのがあるのだが、そうであろうとなかろうと、ある特定の世代に対してレッテルを貼ってあーだこーだっていうのはあまりいい趣味じゃない。
もっと広く言うと、世代に限らずある特定の属性に対して云々っていうのは差別と変わらない。「おれ/わたしはそこに属していないけれど」というのが念頭にあるから「これだから○○は」と指摘できるのだろうが、これが指摘される側に立っても同じ顔をしていられるのかどうか。
……ということが前提としてあるから当然このドラマは、「ふだん世間でバカにされがちな『ゆとり世代』ですけれど、じつはこんなふうに頑張っているんですよ」的な、記号的に言ってマイナスをプラスに転換するような仕掛けになっているのだろうが、しかしそれが非当事者(調べていないからわからないがおそらく宮藤官九郎は「ゆとり世代」ではないだろう)によって製作されたものであったら、はたして純粋にたのしめるものなのだろうか。

ひと昔前、社会で働く女性の一部には結婚したらすぐに寿退社して家に入るから会社は腰掛けとみなしているのがいる、と思われていたところがあって、「これだから女性社員は……」という考えを持っている男性社員はおそらく少なからずいた。
その考えが(マジョリティだったのかどうかはわからないけれど)ともかくも社会の一部には確実にあって、そういう状況下において『女ですがなにか』というドラマが男性脚本家の手によって書かれたとする。しかしその内容が「いやいや、女性社員だってみんなが勘違いしているような人じゃないんですよ」というような擁護するものにたとえなっていたにせよ、僕からするとその擁護にはどこか半笑いをともなう印象が感じられ、その背景には無意識による差別意識が仄見える。
もしその作者が「女性なんて会社を腰掛けに思っている」と思っていなければ、そもそも価値観の転換によってドラマを成立させようなどとは思わないはずで、つまりは世間の思い込みや差別などといったんは同調することによって、その後に「でも実は違うんですよ……」とやったとしても、けっきょく彼は差別の一端に加担しているといえる。

あるいは、『オネエですがなにか』というドラマがLGBT側に属さない人間(この表現が適切ではない可能性はじゅうぶんにあるが、とりあえず)によって描かれたとしたら。
これをきちんと成功させるためには、ものすごく慎重なリサーチと丁寧な表現が必要で、それを実践するための根気を非当事者が持ち合わせているものだろうか、という問いが当然僕のなかに起こる。そして、そもそもそんなデリケートな問題をコメディで描く必要があるのかという根本的な問いも起こる。そこには単に扇情しかないのではないか、と。

ゆとり世代に翻って。
コメディなんだからそんな細かいことは気にしないでね、どんなことを描こうとたいていのことは許してよ、という甘えがもしあるのだとしたらそれは情けない話で、僕はなにも差別表現をまったくなくせと思っているのではない。
むしろ、多くの視聴者が閉口するような過激な表現をしつつ、それをみごとコメディによって回収してみせてほしい、とさえ思う。
以前にも言及したことがあるが、2001年の松尾スズキのラジオドラマ『祈りきれない夜の歌』では重度の障害を持った子どもが主人公で、彼は首から下の身体を動かすことができず、周囲に対しては「う~、う~」と獣のように呻くことしかできない。
というこの設定を知るだけで、たぶん少なくない人たちが「え、それはちょっと……」と思うだろう。
しかしこれが全篇通して聴いてみると、きちんと(ただしブラックユーモアに満ちた)コメディになっていることがわかるし、エンディングでは爽快感さえ覚えた(もちろん、「やっぱり嫌だった!」と思う人だって大勢いるだろう)。僕などは、はじめ設定を知ったときに感じた「悪趣味だなあ」という不快感を、聴き終えたあとは、自分自身の差別意識や嫌なもの・不都合なものを見ようとしない姿勢のあらわれだったととらえ直すことができた。
このように、舞台や小説、映画などでは、いわゆる非倫理・反倫理的な表現や描写によって鑑賞者の価値観を揺さぶるということがあって、その経験は尊い。
もし脚本家に「テレビドラマなんだから」という言い訳が用意されているのだとしたら、はじめからウェルメイドの作品を志向すればいいのであって、少し目を惹くタイトルや設定によって一部の人たちにフックを効かせるようなやり方は少年誌でエログロ表現を小出しにするようなもので、テレビドラマ全体のレベルを下げているように見えてしまう。

こういう僕の前持った予想に対して、ゆとり世代をコメディドラマの主人公に選んだことが、世間に流布する(きわめてしょうもない、という形容詞つきの)既成概念におけるマイナスからプラスへの単なる記号転換以上の意味を持つのだとしたら、いい意味で裏切ってくれるわけだからそれはそれですごいと思うし、そうなることを期待する。
けれどもそれが、はじめに書いたような半笑いをともなう視点転換だけで終るのだとしたら、鈍感なセンスによるタイトル、という僕の当初の印象は覆されないまままだ。

……ということを考えながら視聴していたら、大賀扮する山岸という若手社員がホームで飛び込み自殺したような、あるいはしなかったような、みたいなところでドラマが終わっていて、暗澹たる気持ちになった。
こうなったら第二話は、大賀の血まみれの死体のどアップから始めてもらいたい、と思った。あるいは、大賀ではない誰かの死体でもいい。
現実に起こっている悲惨で決して少なくないできごとをひとつのギミックとして扱うからには、そこを直視するような描写をして、さらにそこを越えて笑いに変えるべきだ。
まさか単純に、登場人物の死の可能性を次回への「引き」にしよう、しかも、本当に死んでいたら笑えなくなっちゃうからただの勘違いでしたってことにしよう、なんていう浅はかな考えだけでやっているとは思えない。もしそうだとしたら、殺人事件の「真相」をCMまたぎで放送しようとするワイドショーの、別の言い方をすれば、視聴者の人死にへの好奇心をスポンサーに売り渡すワイドショーのやり方となんら変わりない。

実は、NHKの『真田丸』の「祝言」の回の予告も、祝言の場でもしかしたら梅が死んだのかもしれない、と誤認するようなつくりになっていて、脚本家の意図したものではまったくないと思うけれど、あれはいやな演出だと思っていた。梅が九死に一生を得た、という筋書きならわかるが、本篇を観て彼女がまったく生き死にとは関係なかったというのがわかったときに、ある意味製作側の底が知れたようにも思えた。いいものをつくってそれを正々堂々と放送してくれればふつうに感動するのに、なぜそこで小賢しいことをするのだろうか。
そのせいもあって、第一部の最終回で梅が本当に死んでも、「あ、やっぱりな」という落ち着くところに落ち着いたというくらいの感想しか持てなかったのだ。登場人物への冷淡さは、「だっておまえらが一度殺しているんだから」という一部の製作側への嫌悪感と直結している。

てなわけでこの『ゆとりですがなにか』は、台詞のやり取りなんかは非常に面白いところがあり、役者たちの演技にも見逃せないところが多々あるのだが、冒頭にも書いたけれど、なかなか第二話を観る気になれず、このまま見切ろうかどうかと悩んでいる最中なのである。

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青春篇(?)の最後で梅が「死ななきゃいけないモード」に強制突入、唐突でまことにあっけない形で退場してなんだかなあと思っている間もあらばこそ、大坂篇となって小日向秀吉とともに多くの人間があらたに登場したが、これがけっこう現代劇風演技の人物が多く、信濃では浮き気味であった堺雅人が大坂ではジグソーパズルのようにぴたりとはまって生き生きとしている、というのがまずはじめに書いておきたい感想。
堺雅人の演技は長澤まさみの芝居とだけ相性がいい、と以前に書いたことがあったが、彼の古臭い大仰な演技(これは佐々木蔵之介をはじめて観たときにも感じたことだが)はコメディでこそ活きると言い換えたほうがよいのかもしれない。いや、ほんといいですよ。

信濃ではこれまでどおり時代劇の作法に則りながらもコメディをやっていて、たとえば傷心気味の大泉洋(僕のなかでは今ドラマの主人公として観ることにしている)が呆然と歩く横で、忍者出浦が弟子入りしたサスケの前で火遁の術を披露する場面はものすごくシュールで大傑作シーンだった。
この場面を「どうだ」と見せつけるような演出にしてしまえばかえって鼻白むようなものを、じつに淡々と描いていたところが心憎く、わざわざ現代劇風味に味つけせずともコメディを成立させうるということを自ら証明していて、僕の好みとしてはこちらの手法で大坂もやってほしかったというのはあるにせよ、それでもまあ慣れというのは恐ろしいもので、見慣れてしまえば大坂は大坂で面白みがある。いつもスルメをかじっている近藤芳正も、ここ数年でいちばん「らしい」演技をしているように感じられて非常によい。役者としては「らしい」なんて言われるのは最もイヤなことではあろうが。

あと特筆しておくべきは秀長役の千葉哲也。ドラマ『ペテロの葬列』におけるあのいやらしい孝太郎の部下役でこの人を知ってその演技に衝撃を受けたのだが、ラジオドラマの音源を漁っているときにこの人の声にけっこう当たることが多く、いつか大きいところで出てきてほしいなあと思っていたところだった。演技的に弛緩してしまいがちな大坂を山本耕史、片岡愛之助とともにこれから締めていくことになるのだろう。
そういえば『ペテロ』ではじめて知った人間で、細田善彦も氏直として登場していたな。いまとなっては大嫌いな清水富美加もあのドラマで知ったのだった。

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最近、「すばくそ」という言葉を考えついたのだが、もともとは『逃げる女』を観ていたときに思いついたもの。
観ながら、「いやあ、これはすばらしいな」というひとりごとと「いやあ、これはクソだな」というひとりごととが交互に口を衝いて出てしまう状況に気づき、なるほど、ものごとは必ずしも一元的に語られるものではないのだな、ということを再確認し、これを「すばくそ」と呼ぶことにしたのだった。
で、『真田丸』もなかなかにすばくそなのである。

なんといっても今回は、西村雅彦演じる室賀が主役であり、こういうなんとなく笑いをもたらすキャラクターはあまり死なないんだろうなあと思っているところが急転直下、徳川からの昌幸暗殺の命を半ば断れない形で受けることになってしまう(といっても、前々回か、室賀が信濃の他の国衆の説得を試みているところを高梨かが陰で見て、「室賀殿、乗っておりますな」と言ったときには、死亡フラグが立ったように感じられたが)。
昌幸はそのことを察していながらも室賀を碁に誘い、そして従属を持ちかけるのだが、彼はそれを肯んじない。ここがなんとも可哀想で、西村雅彦に対する「いつまで経ってもあまり芸が達者にならん人だなあ」などというこちらの評価が、妙に室賀の不運な状況とマッチしてしまい、二重に哀れみを感じてしまったのだった。つまり適役なのだ。
その西村室賀が、おそらく犬死覚悟で昌幸に斬りかかり、それを昌幸腹心の者どもが阻む。
もはや忍者コントにしか見えない寺島進はさておき、大泉洋の源三郎が室賀を斬りつけるも自身も腰を抜かしてしまうところもリアルだったし、突かれ、斬られて、口から大量の血を吐きながらも憑かれたように進もうとする室賀の先にあったのはきりであり、それを見かねた中原丈雄の高梨内記がさらに背後から一刀を浴びせるのだが、ここで、倒れた室賀のあとに映る中原の肩で息をする演技が最高だった。
また、ここで倒れながらもまだ這おうとする室賀が後ろから撮られているのも非常によかった。おそらく彼は人の顔をしていなかったのだろう。生命の限りを燃やし尽くし、獣のように呻き、芋虫のように這いつくばる彼はなにを見ていたのか。
彼はきりを殺そうとしたのではあるまい。もっと大きな、時代の不遇、昌幸への単純な嫉妬、そういう大きなものに対する怨嗟が、彼をして息も絶え絶えになりながらなお匍匐前進せしめたのであろう。この西村の演技(というか演出全体)も喝采に値する。
ここまでが非常にすばらしかったところ。これ以外の部分でも今回はコメディ要素もかっちりと歯車が合っている感じがところどころにあっていつも以上にたのしめた。

忍者コントをしている寺島進(もうちょっと演技つけようよ)によって室賀がとどめを差されたあと、途端に現実に引き戻される。
たまたまその場を目撃した長澤きり(このシチュエーションじたいの構成は見事だったと思う)が源次郎を連れ戻ってきて「ひどすぎる……いいの、これで!?」と絶叫するのだが、このときの長澤の演技にまずズッコケる。
いや、わかるよ。寺島がとどめをさしたところでおしまい、であれば僕はめちゃくちゃたのしめるんだけれど、三谷大河という感じはあまりしない。「え~ちょっと残酷すぎ~」とか「昌幸とかちょー共感できないんですけど~」みたいな90年代女子高生のボキャブラリーくらいしか再現できない己の拙さを呪いつつも、そういうふうに感じる層はたしかにいるはずで、そのような視聴者層に寄り添う部分が必要だというのは、脚本うんぬんというより、大河ドラマの構造上理解できる。
だから長澤に現代人としての感覚を代弁させている……のは理解できるのだが、長澤の演技がまるで現代からタイムスリップしてやってきた女子高生のそれみたいで、あまりにもひどいんじゃないか、と僕はズッコケてしまったのである。
まあ、一億歩譲ってここはよしとしよう。
その後、堺雅人が大泉洋とふたりで話していて、なんだか号泣しているようなんだが、いつもどおりの下手っぴな演技で、ここが大いなる噴飯ものだった。初々しい青年が泣いている、というのがこの場面なんだろうけれど、このときの源次郎がおそらく十八、九というところで、堺本人はそのつもりで演技しているのだろうが、役柄と役者本人との年齢・容貌における乖離が甚だしくてどうにも無理があり、この場面(といっても最後なんだけど)で、「うむむ……クソだな」と思ってしまったのである。

うめが提案したみたいなことになっている兵を傷つけないで戦に勝つ、みたいなことはいまのうちはいいんだけれど、それでも最終的にはなかなかきれいごとでは済まなくなるはずで、その「きれいごとではない部分」をいまのところは昌幸が全部引き受けているわけだが、それをいよいよ源次郎が引き受けるとなったとき、彼の演技にどう変化が出るのか、それとも出さないのか。
岡田官兵衛みたいな変身ぶりがあることを期待するんだけど、はてさてどうなのか。

ところで思ったのだが、若い坊っちゃんが組織の暗部にあまり意識的ではなく、けれども実際は相当ひどいことになっていて、結局自分もそこの深みにはまっていってしまうってところに映画『ゴッドファーザー』を思い出したのだが、これは僕の記憶違いだろうか。堺雅人のあの「七色の笑み」が人殺しの笑みになるのであれば、それはそれで非常にたのしみであるのだが。 

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「ははうえきっぱりけつだん」の回。

例によって一週遅れで、すでに最終回は放送されている。
実は、この一週間で本物の近松(ってヘンな言い方だが)の『曾根崎心中』を読んでいて、これがとてもよくできていることに感心しっぱなしであった。はじめは現代語訳で概略を頭に叩きこみ、そのあと本文を読んでいくのだが、角川ソフィア文庫(なぜか四年ほど前に買っておいて本棚に並べたままにしてあった)は解説もわかりやすく、しかも七五調の音もよいので、音読するのがたのしくさえあった。こんな調子である。

黑田屋の奸計に陥ち打擲の、限りを盡くされ投げ出さる、徳兵衛たつての願ひとは、せめてお初とひと目會ひ、ひと言申し置きたしと、そを聞き入れぬ兄哥(あに)さんと、兄哥さんの出來が少しほど、違ふ万吉決心し、二人羽織の趣向とて、徳兵衛背負ひ天満屋に、踊り入りたるその樣の、面白きこそ哀しけれ。

……とこれはまったくの創作だが、こんな具合に物語が綴られていくので、存外読みやすい。
また、お初と徳兵衛とが心中を誓い、夜中に天満屋を抜け出る場などは現代でいうサスペンスシーンであり、暗闇のなか、誰にも気づかれずに廓を出ていけるのか、とハラハラすること請け合いなので、これが当時の人間の心をどれほど動かしたか想像するに難くない。
そのほか、黒田屋の計略(証文・印判の偽造の罪に陥れるという点は原作と同じで、朝鮮人参の部分だけがドラマオリジナルとなっている)の狡猾さ、お初徳兵衛がもはや死を選ぶほかないと決心する場面の悲しさの描写は、現代人もきっと唸らすことだろう。
くわえて、ドラマではなかったが、黒田屋から逃げた徳兵衛が天満屋の縁の下に隠れ、お初がその上り口に腰掛け、打ち掛けの裾で徳兵衛の姿を隠すという場面があるのだが、ここも秀逸でものすごく印象的だ。
お初のうしろには黒田屋が来ていて、廓の主人に対して徳兵衛が詐欺を働いたと嘘を言いふらすのだが、腹立ち出ていこうとする徳兵衛を足でじっと押さえるお初。そして独り言を装って、徳兵衛に死ぬ覚悟はあるかと語りかける。
このとき徳兵衛は無言でお初の足を取り、その足先で自分の喉笛を撫でる、とあるのだが、この自害を決意するところは実にドラマチックであり演劇的。なかなか現代でもお目にかかれないような斬新な演出なのだった。
さてこのなかで、
七つの時が六つ鳴りて残る一つが今生の鐘の響きの聞きをさめ
という文句が出てくるのだが、これにピンと来る人はちょっとだけ落語に詳しい人であろう。
これは『小言幸兵衛』に出てくる文句なのだが、調べるとちょっとだけ直される場合もあるようだ。志ん朝の速記本を当たってみると、「七つの鐘を六つ聴いてェ、残るひとつが未来へ土産」となっていた。
それにしても、おそらく戦後くらいだったらこの文句を聞けば、「あ、近松の『曾根崎心中』だな」とわかった人も多かったのだろうと思う。

さて、前置きが過ぎたので、ドラマに話を戻す。
今回は細部に凝っているというよりは物語進行回であって、どんどんと話が進んでいったのだが、特に終わりの十分くらいでばたばたばたと進展があった。
いちばんのヤマ場は、なんといってもお初と徳兵衛が抱き合うところだろうが、このときのお初が、ほんとうに泣いているようでよかった。これまで早見あかりは、きれいだけれどもうちょっと芝居ができればなあという感じであったが、この場面だけは、顔をくしゃくしゃにして徳兵衛と別れることを「嫌や」と泣くところだけは、心を動かされるものがあった。いいものを見させてもらった。
またそのシーンのちょっと手前で、ふたりを天満屋の二階から俯瞰するところがあるのだが、ここの桜の花びらの降り方がたいへん興味深かった。
というのも、ふたりのそばには桜の木があって、それは二階ほどの高さしかないのだが、花びらは、もっと高いところから降り注いでいるのである。この天満屋の周りを天満屋より高い桜の木が囲っていて、そこから花びらが降ってくる、という説明ができないこともないのだろうが、それはかなり苦しい説明となる。
そうではなくて、この場面はもっと幻想的であるととらえたほうがいいのだろう。もともとここは、第二回あたりで、お初と徳兵衛とがはじめて出会った場所でもある。あのときも、急に雨が晴れてふたりが日に照らされていたが、あのシーンと対になっていると考えたほうがいい。

話はシリアスの極みに達したかと思ったところへ、黒田屋の企みは、朝鮮人参と不孝糖とのすり替え(無意識)によって一挙に崩され、いよいよ次回の最終回へとつなげるのだが、はたしてあと一回でまとまるのか? 最終回の予告はあえて見ないようにした。
以下は余談。

今回は歌がふたつで、『かあさんの歌』(×2)と『よこはま・たそがれ』。
オール阪神巨人のゲスト出演にも笑ったけど、それ以上に吉弥な! いやいや、前から「売り声指導」の名前に桂吉弥の名前が上がっていたし、吉弥の弟子も実はチョイ役で出演していたのも知っていたんだけど、まさか当人が出演するとは。
万吉と吉弥扮する医師とが会話するところがあったが、あれは『ちりとてちん』の兄弟弟子の関係、というところで余計にニヤニヤできた。

倒れた母が病床で帰郷すると言い、万吉が涙ながらに近松は必ず傑作を書くと約束する。ここでもやはり万吉の幼児性が強調されていた。母からすれば、信盛が直接言えないことを言えるよい聞き手であるし、また、信盛が直接言ってくれないことを言ってくれる代弁者でもある。つまり母にとっては、息子の代理人として万吉は存在している。
それにしても今回知った近松門左衛門の本名、杉森信盛って……もりもりだな!

不孝糖を口にしたのは、お初とお母はんと近松。これは意味があるのかも。
また、万吉が朝鮮人参のある平野屋の蔵で徳兵衛に言った「この五文はもろとく」も伏線になると見た。お母はんが倒れたときに医者に渡そうとしたけれども受け取らなかったので、違うところでこれが生きてくるかも。
あとは、お袖の帯と髷を結っている紐が鮮やかな緑色で揃っていて洒落ていた。しかしまあ優香は毎回かわいらしいなあ。この優香ともあと一回でお別れなのね。
はてさて、どうなりますことやら。

【関連記事】

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あまり観る気がなかったのだが、第一話からなんとなく観始めて、いろいろとツッコんで、おいおいこれじゃあ観る気がしないよ、とつぶやくだけじゃ物足りず、実家に電話をかけてさんざんあーでもないこーでもないと言っていて、それから、よせばいいのに文句つけたさになんとなく「ながら観」をつづけているうちに、「お?」とぼんやりだが面白さがわかってきて、というか、面白く観られる解釈の仕方を見つけて、それからはその解釈に乗せて観ていくと、今度は素直にげらげらと笑えるところが多く、おいおいこれけっこう面白いじゃん、とつぶやくだけじゃ物足りず、また実家に電話をかけてさんざんあーでもないこーでもないと言った、ってのがきのうのこと。

というわけで、腰を据えた鑑賞をしていないものだから、細かいところがよくわからないのだが、まあたのしんでいる。
第一話のはじめ、源次郎がミスって敵方のど真ん中に入ったところを「御免」と言って馬に乗って逃げちゃうところとか、第一話のラスト、野原のなかを進む一族の逃避行(女性含む)に野武士みたいなのが襲いかかるところでおしまいだったが、まずこういう部分に「なんじゃこりゃ、こんな状態にしておいて、次のシーンや次の回では『たいへんでしたなあ』で済ませちゃうのかよ。そんなの戦国時代じゃないじゃん。厳しさないじゃん」と腹を立てていた。
だが、何回か観ていくうちに、こりゃあわざとこうしているんだろうな、と思うようになった。つまり脚本家三谷幸喜は、意図的に戦争の悲惨さやむごたらしさの直接描写を回避しているのだろう、と。
僕は三谷ってそんなに好きじゃなくて、他の作品(特に最近のもの)は全然観ていないからなんとも言えないんだけど、『笑の大学』を観る限りは、逆方向からの反戦メッセージを感じた。「戦争反対!」と声高に言うのではなく、「笑うことを捨ててまで戦争をするなんて、ほんとうにバカじゃないか」という描き方で、戦争のつまらなさを批判的に浮かび上がらせるという手法。
もしその頃と同じような考えを三谷がまだ持っているのだとするのなら、舞台は戦国時代であるけれども、描きたいのは戦じゃない、とはっきり思っていることだろう。
それじゃあなにを描きたいのか。
人間の生きる力、武士としての誇り、家族の絆の深さ、などを描きたい、なんてことはNHKの記者会見みたいなところでは言うかもしれないが(そして近所の書店にある販促用の『真田丸』エンドレスビデオのナレーションではそんなことが語られているが)、実際はそんなこともあまり考えていないんじゃないか。もっと単刀直入に、「大河でも笑いたいでしょ!」ってことなんじゃないのかな。まあ気楽に観るのが正解なんじゃないか。

役者陣がいいよね。草刈正雄ってこんなにいい役者だったのか、と毎回驚く思いだし、兄貴の大泉洋の堅物の演技にも嬉しい驚きがあって、いままで大泉のことを軽く観ていたが申し訳ないという気持ち。姉の木村佳乃も母親の高畑淳子も祖母の草笛光子も自由闊達で文句のつけようがないし、なにより内野聖陽の家康が面白い。藤岡弘(読点抜き)と近藤正臣もいい味出していて、あの伊賀越えだって、賛否両論はあるのかもしれないけど、わざとコメディとして描いたわけだ。情けない家康がへろへろになって家臣一丸となって逃げるというのは、ある意味リアリティがある。英雄的じゃないんだよな。というか、この物語ではいまのところ誰も英雄じゃない。すべてを透徹した目を持つような人間がおらず、たとえば草刈の昌幸は、けっこう時勢に見放されて行き当たりばったりしているのだが、そこでもタフさを失わないし、でもそのタフさはわりと単なる見栄だったりもして、これまた英雄という感じがしない。英雄じゃないから、面白い。この草刈昌幸は、傑作のキャラクターだと思う。
この昌幸と家康とを観たいがために、最初は文句を言いながらも観つづけたのだ。
結局、みんなそれぞれの立場で四苦八苦したり謀略したり騙されたりしていて、つまり全視点でたのしめるのだ。なんだかやたらとにやにやしているけれども小者臭も拭いきれない高島政伸に期待してもいいし、ちょっと弱い部分や人の良さを見せたと思ったら手痛いしっぺ返しを食らった段田安則に同情したっていいし、あるいは、信之がなんか言おうとすると、そこに「黙れこわっぱ!」と西村雅彦がかぶせて怒鳴るというコントや、信之の奥さんが出てくると始まる病人コントに注目したっていい。
あと、見直したといえば長澤まさみ。このキャラクターもいい!
喧嘩するほど仲が良い、ということを証明するために源次郎と口喧嘩しているわけではない。おそらく長澤が源次郎の妻になるのだと思うんだけど、もう今まで星の数ほどあった「芯があって強くて、けれども慎ましくて夫を内助の功で支える女性」じゃないところがいい! これはもう声を大にして書きたいけれど、いままで佃煮にするほどあった大河ドラマのヒロイン像を大きく逸脱しているのがよいのだ。口うるさくてわがままで自己中心的で、まあ三谷ドラマではよくいそうなキャラクターなんだけど、これがヒロインっていうのが実に現代的でいい。
朝ドラのかまととヒロインとか、ジブリの健康優等生少女とか、すでに確立されたキャラクターをなんで金太郎飴みたいに繰り返すんだよ、と僕はつねづね言ってきた。少しは頭使えよ、と。新機軸のキャラクターをひねり出せよ、と。
それだけでも、この大河ドラマは一見の価値があると思う。しかも、あまりにも蔑ろにされてきたためか、本来は美人なはずの長澤まさみがほんとうにしょうもない感じに見えてきて、それが二重の意味でよい。長澤まさみの為にもよい。妻になる/ならないは別として、俳優として本当にいい役をもらったのは、黒木華じゃなくてやっぱり長澤なんだよな。

ただ、ひとつだけでっかい瑕疵があるとすれば、やっぱり堺雅人の優等生演技なんだよなあ。ほんとどうにかならんのか。彼について、喜怒哀楽のすべてを笑いで表現する男、とかいうキャッチフレーズを見たことがあるけれど、もし本人がそんなふうに思っているのなら決していいことじゃないよ、それって。俳優としての努力放棄じゃん。
他のドラマではいざしらず、と武士の情けをかけるけど、もうちょっと工夫せい、と思う。あまり目立たないところの役者でもいい雰囲気を醸し出している人がけっこういる(織田信忠や直江兼続など)というなかで、このいつも笑っているようなこの表情、いやたしかに、たしかにそれがうまく行っているシーンもあるんだけれど、その一番うまく行っているのが長澤まさみとのやりとりってのも、大河ドラマとしてはある意味哀しいことに感じる。
たのしめる大河、笑える大河なんだけれども、上述したように、草刈正雄とか大泉洋の演技なんかはけっこう力が入っていて戦国時代もののよさも充分感じられるのよ。それだけに、もったいないと感じてしまう。
堺が出るたびに、ああ、これってやっぱりミスキャストだったよなあ、『半沢』の影響ばりばりのときにキャスティング決まっていたしなあ、だいたい、いまだに「のどごし生」の抜擢も失敗しているって感じているしなあ、と思った挙句、誰だったらよかったろうか、と脳内オーディションが始まってしまうのだ。

あと現時点で感じたことは、遠藤憲一、同クールでどれだけドラマに出るつもりだ、と。
また、最新回では木曽義昌が出てきた。
木曽義昌
この人、どっかで見たことがあったなあ、誰だったっけかな? たしか役者じゃなかったよな、素人だったよなあ、と思っていたら、きのうやっとそれに気づいた。自民党の二階俊博だ。
二階俊博
実際は、石井愃一でした。

以上、思いついたところをだらだらと記した。 

【2016/2/24追記】
ふたつ思い出した。

ひとつめは、オープニングの音楽がかなりカッコイイってこと。
もうひとつは、地図。これはたぶんオフィシャルになっていると思うんだけど、ゲーム会社のコーエーが担当しているんだよね。コーエーっていうか、古いユーザーからすれば光栄。
これって、この大河が初めてなのではなくて、少なくとも、ちょうど去年の今頃に民放でやっていた『くりぃむしちゅーの歴史新発見 信長59通の手紙を解読せよ!』という番組のなかでもコーエーのマップが使われていた。
でね、歴女なんてえものが巷間では騒がれていますが、いやその騒ぎってのもだいぶ鎮静したのかもしれないが、それよりもっと前から、コーエーのゲームで戦国ものを好きになった人間も多いはずなんだよね。しかもそのゲームっていうのも、『三國無双』とか、カプコンの『戦国BASARA』とかじゃなくて、シミュレーションゲームの『信長の野望』。
でも、僕もそうなんだけど『信長の野望』のおかげで戦国時代にちょっと詳しいって、なんか恥ずかしいところがあって、おおっぴらに言えることじゃなかったんだよね。で、大河ドラマも、そういう層というかユーザーに対してたぶん徹底的に無視していたところがあったと思うんだ。
けれども、今回はじめて(たぶん)コーエーのマップが登用されたことで、『信長の野望』ユーザーがやっと許されたというか認められたっていう側面があって、個人的には非常に嬉しかった。
本当は、『天地人』なんかで妻夫木聡・北村一輝のBL具合をたのしむとか、そういうのよりもっと早くやるべきだった、と僕は思っているけどね。

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