とはいえ、わからないでもない

カテゴリ: テレビドラマ

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NHKの朝ドラ『ひよっこ』が始まった。
第一週を観終えて、ひさーしぶりに、観つづけてみようかなと思えた。これまで朝ドラにはさんざんと失望させられてきたから、「絶対観よう!」とまでは言えないのだけれども、それでも、「ん? これってかなりいいんじゃないの?」と感じている。それでも「いまのところは」だなんて留保はつけてしまうのだけれど。

まあ最初はこのドラマ全編にあふれる「かわいい」について書いておく。
有村架純は、これまでかわいいお嬢さんというイメージしかなくてほとんど興味が持てなかったのだけれど、頬にまでかかっていた髪を上げてついでに額まで見せたら、なんとまあ。劇中「たぬき」という表現があったが、まさに僕の好きな下ぶくれのたぬき顔。
そのたぬきさんが、いい意味で非常に朝ドラのヒロインらしいヒロインを演じてくれている。しかも訛って。厳密にいえば異なるのだろうが、僕は東北や北関東の言葉の響きがたまらなく好きなので(これは男女いづれがしゃべっても同様)、それだけでぐっときてしまう。ありがたやありがたや。
同級生のふたりもかわいい。時子(佐久間由衣)と部長(泉澤祐希)。 いや、部長ってのは役名じゃねーんだけんどもよ、前に『オモコー』ってドラマがやっていたことあって……知ってっか? そう、そのドラマんなかでよ、この泉澤ってのが、合唱部の部長さんの役さやってたことあってな、んでな、そのときの印象がかなりよかったもんだからよ、いまだに部長っておら呼んでんの、でもよ、はじめてこの泉澤ってのを観たのはよ、NHKの『ロング・グッドバイ』でよ、小雪のところの小使をやっていてよ、おら初めてその顔見てよ、なんかうしろの百太郎みてーな顔してんなー、って思ってよ、だからなーんか親近感があるっていう、そういう思い入れみてーなもんが、このわらすにはあんのよ。
時子もかわいいのは当たり前なのだが、初回と、それから3回目か4回目くらいに、朝、みね子(たぬき)が自転車に乗って「おーい!」と手を振りながら時子のうちにやってくるときに、その時子が、(内実嬉しそうに)「毎朝会ってるのに、なーにがそんなに嬉しいんだか」というセリフがあって、特段ものめずらしいものではないかもしれないが、僕にはものすごくいいセリフに感じられた。
二回目のそのセリフがあったとき、そのみね子の嬉しさは、東京に出稼ぎに行っていた父親が稲刈りのために帰ってくることによるものもあったのだが、この場面に限らず、一週目全体に流れる、なんの事件も起こらないまったくもってのどかな感じを、「ああ、いいものだなあ」と思うか、それとも「なんだか退屈で古臭いな」と思うかで、たぶんこのドラマの評は分かれると思う。
僕は、多くの朝ドラを「退屈で古臭いし予定調和で芸がないうえ芝居も下手で演出も手を抜いていやがってまあ観られたもんじゃないな」と見切ってきたが、今回のドラマの一週目に対してはなぜか、「いいもんだなあ」と好々爺のように目を細めて観ている。

気に入っている理由のすべてではないが、映像がきれいだなと感心することが多い。稲刈りのときなどは特にそう感じられたが、あの一連のシーンでの主人公は、人間ではなく、自然だった。
カメラが捉えているのは広がる里山と田園風景で、そのなかに愛すべき人物たちが慎ましやかに配置されていた。おそらくこれは、ヒロインたちが東京に行ってからのちに、より効果を発揮するようになるシーンで、何度も何度もこの心象風景に立ち戻ってくる演出がなされるだろうと思う。
それと、一週目を観ていて西岸良平の『夕焼けの詩』(いわゆる『三丁目の夕日』。子どもの頃からコミックに接している身としては『夕焼けの詩』というほうが実感が湧く)をよく連想した。映画の『ALWAYS』ではなく、あくまでも『夕焼けの詩』のほう。映画のなかで六さんが堀北真希というのは驚きはしたものの好ましくとらえられたが、しかしスズキオートの社長が堤真一ってのは……昔から原作を読んでいる人間からすれば別物として観るほかないっていう仕打ちだった。ああいう配役ができてしまう感性の雑さからは、雑で安直な表現しか生まれないと思っていて、これみよがしの「昭和30年代ノスタルジー」を直接的に刺戟しようとする意図は、映画をとても安っぽいものにしていたと思う。まあ、あくまでも別物ととらえればそう腹も立ちゃしないが。
で、『ひよっこ』で連想したマンガ版の『三丁目の夕日』だが、これはほんとうにいいマンガで、大学生くらいのときだったか、ある回を読んでいて、誰も悪人が出てこないのにストーリーが成立していることに新鮮な驚きを覚えたものだ。そして同時に、そういう表現は簡単に見えて実はものすごく難しいのだろうとも思った。
この『ひよっこ』というドラマも、派手な事件はなくてもいいから、「ああ、いいなあ」とずっと思えるものになってくれればいいかな、といまは控えめな期待をしている。「なーにがそんなに嬉しいんだか」というセリフが、そんな予感を僕に感じさせてくれたのだ。

東京は赤坂の宮本信子の洋食店で、みね子の父親役の沢村一樹がハヤシライスを食べて感動をする。それを見た宮本信子は、帰り際の沢村にポークカツサンドをお土産に持たせる。「東京を嫌いにならないでくださいね」という言葉を添えて。
ずるいだろう。 沢村一樹は特別なにかをしたってわけじゃない。ただ隠すことのできない素朴な人柄で、うめえなあ、田舎(「クニ」と言ったかもしれないし、そっちのほうが正確だろう)の子どもたちにも食わせてやりてえなあ、みたいなことを言っただけである。
たったそれだけなのに、宮本の目配せに、シェフの蔵之介が「あいよ!」みたいな感じでお土産を用意してくれたのである。
観ていた僕は、んなことあるわけねーじゃん、と実際声にも出したが、それでも心はじいんとしているのである。なんだこりゃ。でも、こういう話は、『夕焼けの詩』にもときどきあるのだ。
決して豊かでない人たちが、ちょっとした人のやさしさに触れ、あたたかい気持ちになる。そういう物語に触れた人間にも、そのあたたかさが伝わる。
かつて、安房直子『まほうをかけられた舌』(1971)を読んだときにその主人公たちがみな貧しいことにあらためて時代というものを感じた、ということを書いた。珍しく我田引水してみよう。
思えば、私の子どもの頃に読んだり、聞かされたりした昔話なんていうのは、基本的には貧しい人間が主人公だったのだが、おそらく最近では、そういうのは「暗い」ということで流行らないのだろう。安易な「キャラクターもの」で横溢している印象の昨今の子供向け市場だが、「貧しさ」なんて存在しないという認識の子どもを育てたいのか、あるいは、大人自身がそういう認識なのか。
翻って、最近の朝ドラ(『あまちゃん』以降に限って)はどうなっていたのか。

朝ドラ主人公の属性早見表
放送期間タイトル主人公の家庭環境物語開始時の時代設定
2013年前あまちゃん海女の孫娘
2008年(平成20年)
2013年後ごちそうさん東京の洋食店の娘
1922年(大正11年)
2014年前花子とアン貧しい小作農家の娘
1900年(明治33年)
2014年後マッサン造り酒屋の息子
1920年(大正9年)
2015年前まれ無職の娘
2001年(平成13年)
2015年後あさが来た豪商の娘
1865年(慶応元年)
2016年前とと姉ちゃん工場の営業部長の娘
1934年(昭和9年)
2016年後べっぴんさん商社の創業者の娘
1934年(昭和9年)
2017年前ひよっこ農家の娘
1964年(昭和39年)

まったく観ていないものもあるからWikipediaで確認した情報をもとにつくった。特に「物語開始時」をどう考えるかで数字は異なってくるが、あまり深く考えないことにした。
『あまちゃん』以降、『まれ』と『花子とアン』を除けば貧しい家庭はなく、どころか、スーパーリッチも含めた富裕層階級がたびたび描かれているのが特徴的だ。この「特徴」については、上記のようなやっつけ仕事ではなく、きちんとした研究者がおそらくは真面目に論攷しているのではないかと思う。
ともかくこういった歪な偏りの背景になにがあるのか、あるいは、ないのか、等の推察は頭の片隅に置いておいて損はないだろう。それにしても、『おしん』が記録的視聴率を誇った時代は遥か遠くになりにけり、だな。『おしん』、僕は観ていないけれど。

また、この場面で、僕自身がハヤシライスを初めて食べたときのことを思い出していた。
中学生の頃かそれとも小学生の高学年くらいかで、そのとき母がつくってくれたのを、はじめはカレーだと思って食べたらまったく別種の味がして(いわゆる「外の味」だった)、ものすごく感動した記憶がある。いまから思うに特別な料理ではなかったろうと思うが、そのときの「なにこれ? おいしい!」という感じは、まさに沢村の「うめえなあ、うめえなあ」とぴったり合致する。
僕の食事のレベルが子どもの頃から上がったとはまったく思わないが、それでも、ときどきは洒落た店に行って澄ました顔でワイングラスを傾けたりはする。しかしこれまで、子供の頃にハヤシライスを食べたときのような感動をしたことはないし、これからもきっとないだろうと思う。
誰かがアマゾンレビューかなにかで、アガサ・クリスティの名作について、「この本をまだ読んでいない世の中の人たちに嫉妬します。だって、まっさらな驚きと衝撃をもってページを読み進めて行くことができるのですから」みたいなことを書いていたが、それと似たようなことだと思う。あのときのハヤシライスは、真っ白なページにはじめて書き込まれた絵のようなものだった。いまどれだけ高いお金を払っても、そのページを上書きすることしかできない。はじめて描かれた絵に対する感動は、もう味わえないのだろうと思う。

それと、このハヤシライスとポークカツサンドのやりとりで、以前ラジオで聴いたあるリスナーの思い出話も思い出していた。といっても、かなりうろ覚えで、かつてブログに書いていたことがなかったかとちょっと検索してみたのだが、見つからない。やっぱりきちんと記録しておくべきだった。
たしか、戦中か戦後直後くらいの話で、ある人(女性)が小学校で遠足に行ったときに、同級生があんパンを半分割って分けてくれた。そのとき、あんパンなんてものを初めて知った彼女は、ちょっとだけ食べて感動し、そのほとんどを残して紙に包んで家に持って帰り、母親と妹に食べさせてやった。
母親も妹もそのときはじめてあんパンを食べて、ふたりとも「おいしい!」と喜んでくれた。
「まるで自分自身が褒められたように感じられて、そのときの嬉しさはいまでも忘れられません」
ディテールは忘れてしまっているが、話の核は誤っていないはず。いい話だな、と思う。

などと、褒めてばかり来たが、三点だけツッコミを入れておく。
ひとつは、みんなかなり歯が白い。殊に沢村一樹に関しては異常なくらいに白い。個人的に審美歯科のスポンサーがついているのかっていうくらいに白くて、さすがに黒くしろとは言わないけれど、もうちょっと自然な白さが望ましい。
もうひとつは、方言フェティシズムをたのしみつつも、茨城言葉って、もう少し激しいのかもしれない、というところ。というか、方言――特に昔は――っていうものは、通常それを聴いたことがない者にとっては「え? え? 聞こえなかった。なんて言ったの?」っていうくらいのものだと僕は思っていて、その仮説に対して、『ひよっこ』の訛は、訛っているということはわかるが、しかしそれでも意味は全然通じてしまうし、全然聞き取れてしまう。
唯一、峯田和伸のムネオのしゃべりは、半分くらい「ん?」という感じがあって、ものすごくいい。調べると、この人、山形の出身で高校まで山形にいたみたいだから、正確な茨城言葉かというのはともかく、言葉のニュアンスの発し方みたいなのが自然なのだと思う。
自分の言葉ではないのだから難しいとは思うのだが、より本物に近いずーずー弁になってくれると、おじさん嬉しくて悶絶してしまいます。
最後、増田明美のナレーションはいいのだが、ひとつだけ、ムネオが初めて登場したときに、「朝ドラってヘンなおじさんがよく出ますよね。なんででしょうね?」みたいなメタ的な内容のコメントがあったけれど、ああいうのはかえって物語の枠組みを矮小化するので、やめたほうがいいと思う。
物語全体にも言えることなのだが、まっすぐ、大きく、のびのびと行ってほしい。
 
とまあ、いまのところではあるのだが、かなり『ひよっこ』に対する期待は大なのであります。そうそう、稲刈りの稲架掛けのところで『いつでも夢を』がまた唄われていた。 また、っていうのは『あまちゃん』でも唄われていたから。『あまちゃん』以前、僕にとってはサントリーのウーロン茶の中国語版のイメージが強かったんだよな。それが、『あまちゃん』でイメージの上書きがなされた。
この『ひよっこ』でもふたたび唄われる場面があるのだろうか。もしあるとすれば、それはきっと重要な場面なんだろうな。 

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「うーん?」という感じが強まる。 2話目にしてすでにストーリーが失速している感じがあるのだ。
前知識をまったく持たないまま観始めたので、だいたいの設定とか展開をまったく知らない。4人が演奏家ということも知らなかったほど。そのため、ストーリーの求心力が奈辺にあるのかがわからず、初回に想定した、松たか子の夫失踪事件→連続殺人?→犯人は誰か、みたいなサスペンスが主軸でラブコメ要素は付随的なものというラインは、もしかしたらまったくの見当違いだったのかもしれない。

そのほか、いろいろと問題がありました。

個人的に他人の恋愛話に興味がないせいか、今回の松田龍平を中心とした恋バナには心がまったく動かなかった。風見さん問題もある。
風見さんはドラマ『逃げ恥』のキャラクターだが、扮する役者の演技が下手でまったく感情移入できなかった。あのドラマをすべて観終えて、彼がもう少しまともだったなら、あるいはもっとうまい役者が演じていたのなら、僕はもっと風見さんに感情移入できたし、その恋の行方にもう少し身を入れて注視することもできたのではないか、という疑念をいまだ払拭できないままでいる。
松田龍平にも同じことを感じ始めている。好きでもないし評価もしない役者が演じるキャラクターは、おそらく脚本以上(以下?)に低く評価してしまいがちだ。僕にとって松田龍平は、松田優作と熊谷美由紀の息子という以上のなにかになったことがない。世の中に役者は大勢いるというのに、なぜ彼を起用するのかを理解した瞬間はいままで一度もない。

今回、高橋一生はほとんど活躍するところがなかったが、寸劇しているときの髪型・表情にバナナマン日村との相似問題。
また、マミーDのでかい車に高橋一生を乗せたが、まあこれからピクニックに行くという様子にも見えなかったから借金とかかな。『夜のせんせい』でも高橋一生は借金をしていたな。

すずめちゃんはともかく、まきさんも不思議ちゃんで、松田龍平もわりあい不思議ちゃんっぽさがあって、主要キャラクターの3/4が不思議ちゃん問題。なんかこういうのって、脚本家の女性趣味みたいなものを疑ってしまう。
実はNHKのドラマ『トットてれび』を録り溜めしたまんまにしているのだが、はじめ少し観て、満島ひかり演じる黒柳徹子の奇矯っぷりが辛くて辛くて、そのうえ脚本の粗っぽさが引っかかって今日まで鑑賞し終えていない。
黒柳はともかく、男の描く「奇矯な女性」というのを女性はどうとらえるのだろう。
僕はときどき男女逆転というものを考えてみるのだが、出演する男性キャラクターがみな不思議ちゃんだったら、とてもじゃないけれど観ていられない。「お話」というのは理解したうえで、それでも受け容れがたいものはある。

菊池亜希子(八木亜希子とのW亜希子だ!)が証明するショートカット最強問題。

タイヤ(≒現実生活の象徴)について話すのを「つまらない男」と批判する人間(別府くん)が『人魚対半魚人』を大切にする、という描写が「うわ~、『サブカル層』ウケよさそう~」と苦笑してしまった。やたらとゾンビ映画推しする男子、とか、春画大好きアピ女子、とかがあるんだったら、タイヤについて語る男女も認めてくれよ! おれはすべて興味ないけど。
宇多田ヒカルの『Keep Tryin'』をはじめて聴いたとき(2006年頃らしい)、
「タイムイズマネー」
将来、国家公務員だなんて言うな
夢がないなあ
「愛情よりmoney」
ダーリンがサラリーマンだっていいじゃん
愛があれば
という歌詞が鼻についた。当時はまだ宇多田に対して批判的な感覚というのを持っておらずむしろその歌詞には好ましいものばかりを感じていたが、この部分にだけはイヤなものを覚えた。なんで「将来、国家公務員」だと夢がないのか。御身は「アーティスト」であらせられる宇多田による「サラリーマンだって」の「だって」の部分には、蔑視感情が多少含まれていると感じないわけにはいかなかったし。
「タイヤについて話す男はつまらない」と「国家公務員には夢がない」とには、通底しているものがあるように感じられる。僕は、タイヤのことしか話せない男も、幼稚さに引きこもって『人魚対半魚人』を面白がっている男も否定はしないけれど、けれども両者は同じ地平に等価値に配置されているべきだと単純に思っている。登場しないからといって片方が「手近なチェーン店」に喩えられてしまうほど、もう片方ははたして魅力的なのだろうか。それはただの脚本家の「趣味」だったり「自己弁護」だったりしないのか。
【今週のハルキくん】
すずめちゃんと別府くんがコンビニに買い出しにいくところ。
す「猫好きなんですか?」
別「ハリネズミ、かわうそ、猫の順で好きです」
「アリクイ、しろくま、猫の順です。3位・3位ですね~」
「3位・3位ですね~」
サンドウィッチマンの富澤と八木亜希子と吉岡里帆だけが心のオアシスとなりつつある。

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さっとメモ。

基本、満足&期待大。その上での以下。
わたくしイチオシの俳優、高橋一生、満島ひかりが主演クラス。そして松たか子(彼女の芝居は、野田の舞台『贋作 罪と罰』以来だと思うのだが、いまちょっとネットで調べたらもう11年も前の話……ってほんとかよ)。ここでもう僕のなかでは大三元なんだけど、松田龍平でちょっとケチがつく感じ。で、実際に始まるとやっぱり彼は『あまちゃん』のミズタクとおんなじで、観ていられないというわけではないけれど、残らない。まさかヴァイオリンの弓(bow)に掛けてあえてボウ読みをしているのかと一瞬疑ったが、まさかね。
「まさか」で思い出したけれど、「人生には3つ坂があって、上り坂、下り坂、まさか」っていう昭和の結婚式のスピーチみたいなのが決め台詞として出てきて、多少辟易した。
役者の芝居はいいし、つい引き込まれてしまうのだが、どうも脚本がすんなりと頭に入ってこない。難解というのではなく、むしろ書割的というか、上のような古臭い部分も多く感じられるし、あと村上春樹の影響がでかすぎる気がするんだけど、どうなんだろうか。
  • 「音楽ってのはドーナツの穴のようなものだ」
  • 「あー、みぞみぞしてきた」 「みぞみぞって?」「みぞみぞすることですよ」
なんていうのはそのまんまハルキの作品にあっても全然不思議はないという気がするし、
  • 平熱が7度2分ある人は、首元からいい匂いがする
  • 東北ではトマトに砂糖をかける
  • あしたのジョーの帽子
みたいなフレーズ・仕掛け・装置もやっぱりハルキ的だと思う。
あと、いちばん違和感を覚えたのが、壁に躊躇なく鋲を刺せるがどういう人間だとか、唐揚げにレモンをかけることについて黙っていれば夫婦じゃないとか、そういうかなり安直で一方的な価値判断が議論の場の意見を支配してしまう、という設定があまりにも予定調和にすぎるように感じられた。
反対に言えば、上記を言いたいがために、高橋一生はベンジャミンさんのチラシを持って帰ってきてわざわざ家の中で貼ろうとしたのだし、あるいは、唐揚げの皿に1/4レモンを4つ配置した、と言えてしまうのではないか。特に、はじめの唐揚げのくだりがとても面白かっただけに、ちょっと残念。
男が道を歩いていて、バナナの皮に滑って転ぶとする。腰をさすりつつ立ち上がりながらバナナを拾った男は、「人生とはバナナのようなものだ」というセリフを発し、それが物語のなかで重要なメッセージとなる……という筋書きがあったら、おかしいだろう。バナナがあまりにも唐突じゃありゃしませんか、とも言えるし、バナナの皮くらいで人生を喩えるなよ、とも言える。
これはもう好みの問題になってくるのだと思うが、ある人物たちがあって、あるシチュエーションがあって、ある事件や事故などがあって、そういう諸々に配された変数がすべて同じだと仮定して、100回その場面が繰り返されたら、100回すべてが同じ結果になる、というのがエンターテインメント系の考え方。それに対して、100回ごとに異なる結果に至る、というのが純文学系の考え方だと思っている。
であるから、エンタメはある程度の予定調和を排さないし、リアリティと言われるものの一部を放棄する場合がある。それはそれで構わない。が、程度が過ぎれば、気に障る。
第1話で判断するのは早計なので、ここらへんについては、しばらく様子見。上に書いたことは、「いまのところは」という留保つき。だいたい物語の全体がまだ見えていないし、マミーDの説明もまったくなかったからね。

以下、さらに余談。
楽器を演奏する演技のことを「あて弾き」とでもいうのかわからないが、わざとかっていうくらいにみんなうまくない。それを菊地成孔がラジオで「あれはわざと下手にやっていると思いますよ」と断言していたが、その理由は謎。
吉岡里帆、が元地下アイドルという設定で出演していて、面白く感じられた。
俳優については、まったく不満がないので、あとはストーリーが面白くなっていけばいいなあと思っている。明日からつづきを観る予定。

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1話を観て、すげー文句言って、それっきりにしておいたのを9ヶ月ほど経ってから観て、なおかつ感動したのでどうしてもそれを記録しておきたいっていう姿勢は、ネットにおける当世の一般的な態度――情報の正確さなんてものは二の次でとにかくなるべく早く新鮮なものにキャッチアップするというそれ――とはかなり距離があるが、まあ若人でもない僕はそんなことを気にもしないのだけれども。

すべてを観たのちの感想を思うがままに書くのだが(とここまで書いてさらに2ヶ月経ってしまった……)、まず思ったのは、この「ゆとり世代」の設定っていうのは、もしかしたら半沢直樹を書いて世にバブル世代の矜持というものを示したかった池井戸潤へのアンサーだったのかもしれない、ということ。僕自身はこういう「世代感」というものにまったく共感を覚えられない点は1話への批判として書いたのと同じで変わらないのだが、けれども池井戸の作品の一部には「世間ではバブル世代って悪く言われるけれどおれらは一所懸命だったんだ」というひとつの弁明の意図があったわけで、クドカンはクドカンなりに、「バブル組の弁明があるのなら」ということで、当事者ではないくせに「ゆとり世代」の弁明を意図したのではないか、と思う。

物語は、特に前半、各話の終わりで次の大きな問題が提示され、そのいちいちが重く、かなり本格的な側面を持っていた。たとえば第1話の終わりで自殺したかと思われた部下は実は生きていて、しかしそれを心配して病院に駆けつけた主人公の坂間くん(岡田将生)は、(部下とは別人だったのだが)実際に仕事を苦にして自殺した人間の母親(真野響子)と知り合う。ここには、「コメディだから」とか「ドラマだから」みたいな言い訳はまったく用意されておらず、きちんと(もちろんそれはフィクションの範囲内ではあるが)真正面から問題を取り上げていた。
そのほかにも、SNSと現実における自己の乖離、社内告訴、学習障害(LD)、国籍問題、不妊、離婚した家族における子どもの精神発達、就職氷河期、などが取り上げられていて、すくなくとも「ファッション社会問題」としてではなく、物語上の展開の必要性と絡めていたが、とはいえそれらは、全体をとおしてみればやや散漫としていたという批判は免れないだろう。
たとえば学習障害に触れ、受け入れる学校環境側の未来に対して期待しているという描写をするほどであれば、最終話の性教育の際、思春期を子どもたちへ教えるときの「男の子は男らしく、女の子は女らしくなる」みたいな説明の仕方にはもう少しLGBTの存在に寄り添ったエクスキューズが必要だったろう、というのは最新の知見に触れていればごく当然に出てくる疑問だ。また、不妊のプレッシャーについて悩む坂間くんの兄夫婦(高橋洋&青木さやか)が、最後あっさりと妊娠してしまうことで、「妊娠しなかった夫婦のその後」をまったく描かなかったことに、ちょっとしたご都合主義的ニュアンスを感じとらざるをえなかった。
このように、ひとつひとつの問題じたいはとても重いものではあるものの、(作者の意図はさておき)結果として小さな装置として機能するだけのものも少なくはなかった、という指摘はできる。できるが、それはドラマの良さに較べれば瑣末なことだ。

まず、このドラマは役者の演技を死ぬほど堪能できる。
堪能しすぎて、最終話が終わって喪失感がしばらく抜けなかった。生活のふとしたおりに、「あ、宮下あかねちゃん、もういないんだ」とか「まりぶがにやにやしているところをもう観られないんだ」なんていう感慨がふと浮かんで、鼻の奥が熱くなってしまったことは一度や二度ではない。
DVD出ているのかなあ、とアマゾンで検索して以下の画像が出てきたときにゃあ、もう胸が詰まってしまって……。
yutori
突き詰めりゃ、この3人が笑って話していて、そこに安藤サクラのあかねちゃんがいりゃもうじゅうぶんなんだよね。こんな感情がどうして生じたのかはよくわからない。僕自身にこういう時代があったわけではないし、どっちかっていうと価値観も異なると言ったっていい。けれどもこの3人(+1人)が演じきった4人のもがき生きている姿は、その切実さにおいて僕自身の過去の一部をさえ見せてくれたように感じられたのである。

岡田将生の坂間くんの必死さはほんとうにすてきだった。彼のことはほとんど知らず、はじめはずいぶんとハンサムな子だなあというふうに思ったのだが、このドラマを観ている最中は、彼に対してスマートとかハンサムなんていう形容は思い浮かびもしなかった。お人好しで一所懸命な青年を好演していた。

童貞の山路を演じた松坂桃李だが、この作品で僕のなかの松坂桃李評は完全に定まった。この若い役者はうまい、ということだ。以前からそうではないかとは睨んでいたのだが山路の役で決定的になった。滑舌良く早口でまくしたてる場面が幾度も出てきたが、そこをきちんと演じてみせることによって、俳優としての基礎的技術があるということを証明してくれた。
なお、彼に絡んだ女優ふたりはふたりとも魅力的で、LD児童のお母さんは本ドラマ最強の色気を放っていたし、実習生の吉岡里帆は、配役の人物は好きにはなれなかったが、女優自身には今後にめちゃくちゃ期待する。朝ドラの主演を何年かのちにやりそうな気もする。ちなみに吉岡を気に入った最大の理由は、Wikipediaで以下の記載を見つけたから。
上京資金を貯めるために2015年3月まで約1年間滋賀県大津市の大津プリンスホテルにアルバイトとして勤務し、クロークや配膳などの職務に携わり接客を学んだ。
滋賀ってのがいい。

安藤サクラは、なんなんだ、ってくらいにうまかった。うまい、という言葉が失礼にあたるくらいだ。彼女の演じた宮下あかねという人物はどこかに実在している生身の人間、という感触がドラマをたのしんでいるあいだずっと離れなかった。
ぼそぼそとしゃべってそれでリアルであるとするような演技ではなく、ダイナミックで感情の起伏の激しい人物を演じながらも、そこにはすべて彼女の持っている「本当らしさ」が通っていて、たぶんそれは細かな表情や仕草、振る舞いの積み重ねが鑑賞者にそう感じさせるのだろう。彼女がにやにやと笑っているときは、にやにやと笑っている演技をしているように感じられるのではなく、本当ににやにやと笑っている感じがするのだ。

まりぶの前に、ぜひ山岸にも触れておきたい。大賀。最高だよな、っていつも思う。ハズレの演技を観たことがない。必ずしも目立ったところに配置されるわけではないけれど、でも製作する人たちはとっくに彼の実力を知っているのだと思う。
桐島のバレー部の補欠(だったっけ?)もよかったし、夜のせんせいのニセ不良もよかったけれど、今作の山岸は、少なくとも現時点での彼の最高到達点だと思う。「パワハラだよ!」と逆脅迫するときのいやらしさと、先輩の坂間に叱られて「はじめて叱られて、ちょっと嬉しかったです」と心情を吐露する素直さとが同居しているいわば真正のゆとり世代。坂間世代すらが「ゆとり世代」と少し小馬鹿にするような世代の代表者として好演どころか熱演をしていたが、僕としては彼の心情の不安定さがとても印象に残った。
クドカンは、「ゆとり世代」とは言いつつ坂間世代を理解できる世代として認識していたか、あるいは自分たちと同じ感覚を共有していると思っていたのではないだろうか。そして、彼にとってなかなか理解がしがたい「ゆとり世代」の象徴が山岸だったのではないか。
ちなみに。前述したとおり、ミスをしてでんでんの会社に謝りに言ったときに坂間が山岸を叱り、そこで「はじめて叱られて、ちょっと嬉しかったです」みたいな感動を見せるものの、その後それがパワハラだったと社内で訴え、坂間にとってもたいへんな問題になるのだが、僕は、叱られたときの山岸は、そのときはほんとうに改悛し感動したのではないか、と感じた。
感じやすく心を動かされやすいことと、利己的行動に走り究極的な個人主義を貫こうとする態度は、山岸という人物のなかでは地続きで連続性があるのだと思う。過剰な行動をとるものだから戯画的な人物ととられやすいが、実はリアリティあふれる人物なのではないかと思う。これは、ネットで散見される若い世代の言動をわづかながら観察したうえでの私見でしかないのだが。
とにかく、山岸が新店長となったあとも、バイトリーダーに叱られたり発注をミスしたり、と目が離せない。僕にとってはかわいくてかわいくて仕方のない愛すべき人物となっていた。

で、まりぶ。ふた月ほど前に観たものだからけっこう忘れてしまっているのだけれど、このドラマのなかでは、彼の言ったセリフがいちばん心が動かされた。もちろん、突然涙をあふれさせて吉田鋼太郎に「なんで謝んだよ!」と怒鳴りつけるところなんか最高だった。「あふれる」という言葉がぴったりの感情の動き。観ている側の心が動かないわけがない。
でも、少しヒネているかもしれないが、僕のなかの最高のまりぶのセリフは、「おっぱいいかがですか、そろそろおっぱいなんじゃないですか?」じゃなくて……、童貞の山路と話しているとき、山路が「でも女って、ヤれば変わるじゃん」ってな話からセックスをしたことによって変わってしまう女性の怖さ・いやらしさを滔々と語るのだが、それを聞いたまりぶが「変わんねーよ?」とあっけなく言うところ。
ここ、ほんとうにあっけなくさらっと言っていたのだが、ものすごく言外のものを感じ取ってしまったのだ。変わるわけねーじゃん。人間ってさ、そんな単純なものなわけねーじゃん。そんな単純なものであってたまるかって話だよ。僕には、まりぶがそう言っているように思えた。山路の幻想は、それはそれで可愛らしい。それをつまらない視点から即座に否定するのではなく、受け止めつつ、おまえが思っているほど人間はつまらなくないよ、と諭すようなやさしさが感じられたので、それをぼうっと観ていた僕は、突然打たれたように感じ入ってしまったのだ。クドカンの脚本もいいのだが、柳楽優弥の演技がすばらしかったのだろう。言わなかったセリフまで聞こえてしまったのだから。

もうひとつすばらしいセリフというかシチュエーションがあった。
このドラマのなかで唯一ド下手と言ってかまわないAKBの女の子が演じる坂間くんの妹。その子が生まれるというので、幼年時代の坂間っちが「どれにしようかな」で女の子の名前の候補を選んでいく場面。「ど・れ・に・し・よ・う・か・な、か・み・さ・ま・の・い・う・と・お・り」の「いうとおり」が幼くて言えないために「ゆ・と・り」となってしまって、それで彼女の名前は「ゆとり」となった、というところ。
これは、「クドカンはなあ……」と嫌いながらも『あまちゃん』を観ていて、『潮騒のメモリー』の「三途の川のマーメイド」が「三代前からマーメイド」となったときの、あのグッときた感じ(もうちょっと言うと、グッとさせられた感じ)に相当するものがあった。すばらしい仕掛けだった。

わりあい急転直下型でこのドラマは終熄を迎えたのだが、最後に出てきたメッセージは「赦し」だった。
山路が性教育のシーンで説明するように、他人の失敗を赦せる大人になってほしい、というのは陳腐かもしれないが、非常に説得力のあるセリフだった。
好きではない人を好きになってしまう、というのは、物語上の関係性についての言及でもあると同時に、昨年の頭くらいから世間がバカみたいに批判していたなんとか不倫の問題を想起させた。すくなくともテレビのメディアはあのバカ騒ぎを反省していないはずで、つまらない正義感をふりかざすことの正当性というのはいまだに視聴者の多くと結託して共有しているのかもしれないが、このドラマは、無粋にならないレベルで、世間の愚かしさというものをやんわりと否定したのではないかと思う。
酔って上司とうっかり寝てしまったあかねちゃんも、何度も離婚した吉田鋼太郎も、いっときは坂間くんを脅した山岸だって、赦されている。これは、単純な予定調和ではない。「世間」の常識に一石を投じる、いわば挑戦的な赦しだ。僕はそれを評価したい。

全回を一度きりしか観ておらず、なおかつ観てからふた月も経ってしまっているので細部についてはかなりあやふやだが、このドラマは必ずもう一度観るつもり。そして、夏に放映予定のSPにそなえる。どんなに忙しかろうと、夏までは死ねない。

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いまさらながら観始めていて、いま第4話まで来た。みくり「恋人をつくろうと思いますが、考えた結果、ひらまささんにします」というところで終わる回。
やらなくちゃならないことが多いのですごくさらっと書いておくと、観る前には絶対萌えると思っていたガッキー、というか、ガッキーに萌えるために観ようと思っていたのだが、いざ蓋を開けてみると、まったく萌えない。どころか、このみくりさんという人物が大っ嫌いだということがわかった。まあ、ドラマを観ているとだいたいの女性キャラクターをキライになる、っていうのはよくあることなのだが。
で、石田ゆり子は……やっぱりうーん、という感じ。流行っていた当時は、「○○歳とは思えない!」なんていう褒められ方をしちゃっていたのかもしれない(というかそういうフレーズを実際目にした)けれど、ふだんからあんまりそういうところを気にしたことがない――つまり、年齢のわりに若い!とか、そうでないとか――僕は、フラットに見て、女性としてそれほど魅力的には思えないというのが正直なところ。容姿が整っているために彼女のセリフや存在感に重みがあるのだとしたら、それはキャラクターの魅力じゃなくて、石田ゆり子の魅力だろうから。
同じ理窟で、みくりさんが、ガッキーじゃなくても好きかどうかっていうと、ガッキーの容貌をもってしても「こんなやつ、どーでもいーや」と思ってしまうのだからなあ……。これ、つづきを観ていくと好ましく思えるんだろうか?

じゃあまったく観る気がしないかっていうと、そんなことはなくて、星野源がめちゃくちゃかわいいから観ている。愛されない感じ、とかすごくよくわかる。ふんぎりをつけるために、もういっそ手放しちゃえばいい、とか。
あとは、古田新太と藤井隆のところがおもしろい、っていうのがなんとかドラマの推進力になっているのかな、というふうに見ている。それ以外の場面は、僕にとってはけっこう中だるみに感じてしまって、まだるっこしい。というか、全だるみのなかにポイントポイントで「お」と思えるところがあって、なんとか観つづけられるというのが現在までのところ。
風見さんとか、申し訳ないんだけど下手くそすぎて、観ている側が素に戻っちゃうんだよな。ガッキーも、特別うまいっていうわけじゃないから、星野源との対話なんかだとなんとか立脚していられるものを、風見さんとふたりで話していると、けっこうきつい。なので、このドラマを観るときは必ずアルコールを入れるようにしている。たぶんシラフだと電源オフにして終わりにしてしまうから。

どうしても杏&ハセヒロの『デート』と比較してしまうのだけれど、丁々発止という言葉がまさにふさわしかったあちらの脚本とくらべて、こっちの脚本はどうも隅の隅まで締まっている感じがしない。たとえば、風見さんに対してイケメンイケメンと臆面もなく連発するみくりさんだけど、これって、男女逆転させたら、けっこういやらしい男じゃない? 美人に対して「美人はいいですよね」ということを連発する男って、意図的であれば当然気持ち悪いし、無意識であっても、なーんか気持ち悪いものを感じる。わざわざそんなこと面と向かって言わねーよ、っていうのが僕の感覚なんだけど、そっちのほうがおかしいのだろうか。もちろん、みくりさんを自信満々に口説き気味の風見さんは男女をどう入れ替えたって気持ち悪いんだけど。
あと、いろいろなテレビ番組のパロディをやるにしたって、ちゃんとやりきったほうが面白いと思うんだけどなあ。情熱大陸はTBS系だからちゃんとロゴまで使って窪田等つかってやっているのに、ビフォーアフター(テレビ朝日)のパロディでは加藤みどりを使わなかったのに、なんだかなあ、と思ってしまった。「他局」だから? 視聴者にとっては知るかそんなもん、だよね。
あと、『奥様は魔女』をはっきりと言及してしまっていたのは野暮ったかったなあ。で、エヴァは言及しないんだよね。ここらへんに、振り切れていなさを感じてしまった。
あと、キャストの8割が不満。風見さん、石田ゆり子の部下たち、ガッキーの幼馴染等々……なんか、一定基準すら満たしていなくて……ヒットして注目浴びたかもしれないけれど、今後は辛いだろうなあ。あと、新垣結衣というタレントはキライではないからけっこう大目に観ているけれど、みくりさんは、『精霊の守り人』をやっている綾瀬はるかに対する「うわあ……」という気持ちといまのところはあんまり変わらない、ってことは書いておくことにする。

まあとにかく、いちおう主人公はガッキーなはずで、彼女の一人称的独白部分は多いのだけれど、でもやっぱりその彼女がどうしても空虚に思えてしまって、これが工夫の凝らされた演出のせいで、もしかしたら、回を重ねることによって感情移入できるようになっていくのかもしれないが、いまのところは、あまり期待できない。でも、つづきは観ることにする。
なんだかんだいって、でもやっぱり星野源はかわいいよ。

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去年の春のドラマ『ゆとりですがなにか』の録り溜めしたやつをいまごろ見ている。
毎回どきどきした状態のままドラマのエンディングを迎えると、その直後に必ず同局の別の日のドラマ(『世界一難しい恋』とかいうやつ)の番宣が入っていて、それが波瑠と嵐のリーダーがどうやら主人公の恋愛ものっぽいのだが、どうにもこちらの見る気をわざと起こさせないような雰囲気がぷんぷんと臭ってくる感じなので、いつも鼻を鳴らして「停止」ボタンを押すのだが、おととい、『ゆとり』のほうの第6話か7話かを観て「おお」となって、それからまた番宣の波瑠が出てきて「けっ」となって、そこで停止ボタンを押したら、画面に柳楽優弥と波瑠が一緒に登場してなにやら仲良さそうに話しているのを観て、「え? え? え?」となった。柳楽優弥は『ゆとり』で、波瑠は『世界一なんちゃら』だろ? え? え? え?
ほんとに一瞬なんだかよくわからなくなってしまったのだが、これはつまり、いま現在、NHKの金曜のドラマ10で、柳楽優弥と波瑠が共演しているっていうただそれだけの話なのだ。
たまたま9ヶ月ほど前に毎週日曜に日テレの『ゆとり』を観ていた人なら、「あれ、なんか既視感のある組み合わせだけど、なんだっけなあ?」と首を傾げる程度なのだろうが、僕のようにいまさら録画物を観ている人間は、「すっげー奇遇!」となったことだろう。まあ共感してくれる人間は日本中に3人くらいしかいなさそうだけど。

で、『ゆとり』のほうの柳楽優弥は客引きをやっていて、「おっぱいいかがですか、おっぱいいかがですか」ばっかり言っている。それ以外のセリフもけっこう(というかかなり)いいことを言っているんだけど、いざ彼を思い出すと「おっぱいいかがですか、そろそろおっぱいなんじゃないですか」と言っているイメージしか浮かばない。その柳楽優弥が、あのお嬢様然とした波瑠と談笑なんかしつつ「つきあってもらえるんですか?」などと言っているところを観ても、どうしても「騙して店で働かすんじゃねーの?」とかしか思えない。
とは言いながらも、ほんとは『ゆとり』の柳楽優弥は大好きで、まあそのことを書く日がいつかあるかもしれないね。

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年末は三谷作品にどっぷりという感じで、年が明けてから軽い喪失感。
とはいっても、『真田丸』ではない。あれは大坂城で哀川翔と岡本健一とがやたらと幅を利かせて「ザ・学芸会」をかましてくれたので辟易し、ついに我慢ができなくなってネットに避難していた際に、たまたまYouTube上で舞台版『ラヂオの時間』を観たのであった。いまこれを書いている現時点でも、『真田丸』は残り2回を残して未見のまま。うーむ、興が削がれすぎてしまったんだよなあ、あの2人のせいだけで。
それはともかく、『ラヂオの時間』が予想以上に面白かったのでほかになにかなかったかと検索してみると、『王様のレストラン』がヒットした。第1話から最終話の第11話まですべてあって、それぞれ2回~3回観た。
1995年のリアルタイムでは家族が観ているものをちょこちょこと覗くといった程度で、本腰を入れていなかった。いまになってその家族に訊いてみると、両親にしても弟にしてもやはり本腰を入れて観ていなかったようで、特に弟はギャルソンやコック連中の態度がどうにも好きになれなかったということを言っていて、それを聞いてたしかに僕も、稲毛(梶原善)や梶原(小野武彦)らが松本幸四郎演じるギャルソンに陰で文句を言っているという点に苛立ちを覚えてなんとなく距離を置いたことを思い出したのだ。

といっても時は20年以上経ち、それなりに感ずるところも変っているであろうと観てみたわけだが、これがとても面白かったのである。
とりあえず観終えて日も浅く役名を書くほうがラクなので、参考となるよう役名/俳優名をリストアップしておく。
  • 千石 武 - 松本幸四郎
  • 原田 禄郎 - 筒井道隆
  • 磯野 しずか - 山口智子
  • 三条 政子 - 鈴木京香
  • 水原 範朝 - 西村雅彦
  • 梶原 民生 - 小野武彦
  • 稲毛 成志 - 梶原善
  • 大庭 金四郎 - 白井晃
  • 和田 - 伊藤俊人
  • 畠山 秀忠 - 田口浩正
  • 佐々木 教綱 - 杉本隆吾
  • ジュラール・デュヴィヴィエ - ジャッケー・ローロン
  • ナレーション - 森本レオ
当時を知る人にとってはなんとも懐かしい顔ぶれということになろう。和田役の伊藤俊人はすでに故人となっているし、そのほかにも、自らがそのキャラクター演技に縛られ飽きられてしまった者(僕の印象では三谷組はそういう人たちが多い)、スキャンダルによってあまりその名前を見なくなってしまった者、代替する役者に取って代わられてしまった者、などもいないわけではないが、しかしこの当時はまったく輝いていた。この作品になぞらえて言うならば、「誰かが言った、すべての舞台には光がある、と。このドラマには、いわゆる奇跡が詰まっていた。脚本家は脂が乗っていたし、役者たちは、その誰もが、掛け値なしにぴかぴかに輝いていた。まるで、まだ誰も使っていない厨房のように(森本レオ)」ということになる。


松本幸四郎はまぎれもない日本の伝統文化の担い手の中心人物であり、そのような人間をこともあろうにフレンチレストランのギャルソンに据える、というのはいまとなればものすごい奇策のようにも感じるが、どうあれ、それは最高のマリアージュとなった。彼の持っている独特なブレスの使い方があまり類を見ない間(ま)をつくりだし、エレガントかつコミカルなキャラクターを形成させた。彼のいない『王様のレストラン』は考えられないし、またこの作品を観た者は、彼の役者人生のなかに千石という役名が大きく刻まれているのを見るはずだ。

オーナー(ロクロー)を演じる筒井道隆は、20年前はどうにも好きになれなかった。優しすぎてただのマヌケに見えるし、彼の一本調子のしゃべり方も気に食わなかった。それが、いま見ればなんとなく許せるようになった。思えばこの「優しさ」というのは三谷作品にはけっこう見られるもので、いまより若い頃の僕には優柔不断のようにも映ったのだ。そして、優柔不断は僕にとっては非常な悪だった。
いまでも優柔不断は好きではないけれど、それでも「そういうこともあるかもね」という一定の理解を持つことはできるようになったし、そもそもこのロクローというのは優柔不断ではなく、情の深い芯のある人物だということもわかった。ただ、底抜けにお人好しだったわけだが。そんなキャラクターを愛せるようになったというのは、僕にとってはちょっとした驚きで、嬉しくもあった。
後に詳述するが三谷の作品には、日和見主義だったり、すこし意地悪だったり、裏表のある人物が出てくることがある。しかし、彼らは底の底では悪人ではなく、どこか愛すべきところが残されている。少なくとも作者はそう思って人物をつくっている。たしかカート・ヴォネガットが父親に「おまえはほんとうに悪い人間を描くことができない」と言われたと記憶しているのだが、三谷にもどことなく同じ言葉が言えそうだ。そしてまた、ロクローのみんなに対する優しさは、上に挙げたような小人物たちの救いにもなっている。そういう意味で、このドラマのシンボルにもなっている存在なのだと気づいた。

シェフ(しずか)の山口智子はとてもキュートで、同じような言葉を重ねてしまうがとにかくまあチャーミングなのだ。
女性でいえば、三条さん役の鈴木京香は対照的に美人で、自ら「愛人顔」と称し、実際に愛人役でもあるのだが、こちらはごくごく一般的な恋愛をしていると感じてしまう。こんな美人だったらまあ愛されるし、くわえて当人も他人に優しいのだから、それってつまりあまり変化球のないストレートな恋愛だよね、と憧れを抱きながら思うわけだ(鈴木京香は鈴木京香で、他には得難い個性というものを魅せていることは註記しておくけれど)。
けれども千石に対するしずかの言動っていうのは、男子学生のファンタジーみたいなところがあって、あまりにも天衣無縫でうぶでそのくせ天邪鬼で、観ているとこちらが赤面してしまう。これは万人の好むものではなく、なかにはものすごく嫌いという人もいるだろう。だが僕の場合はいまだにティーンエイジ・スピリッツを抱えて生きているので、ああいうのは全然アリなのだ。

他を一挙まとめて書くと、メートル(梶原)の小野武彦と、コミ(和田)の伊藤俊人、パティシエ(稲毛)の梶原善と、スーシェフ(畠山)の田口浩正は、先に書いたような小人物ということになる。それぞれが心中で相手を見下してはいるもののなにかというと結託をし、すぐれた者や意識の高い者の足を引っ張ろうと躍起になる。
しかし第6話で、梶原(小野武彦のほう)が別れた妻に、ほんとうはメートル・ド・テル(食堂主任)なのに見栄を張ってディレクトール(総支配人)だと嘘をつき、それによって大混乱が起きるという回がある。これぞシチュエーションコメディの見本というような大傑作回で、結局はすべて露見してしまうのだが、そこで梶原の元妻が千石に、「どうしてみんな梶原の嘘につきあったのか?」と問う。このときの千石の答えがなかなかいい。
「彼には、人を不愉快にさせない人柄というものがあって、それは、ギャルソンにとってなにものにも代えがたい宝物なんです」
そして最終回の第11話でも、このベル・エキップの面々をナレーションが紹介するとき、梶原・和田のコンビを指して「愛すべきメートルたち」と言っている。
しずかに惚れていることが最大でもしかしたら唯一のモチベーションであるパティシエもスーシェフも、お世辞にも誰もが好きになるようなキャラクターとは言えない。でも、三谷は暗に「日本人ってだいたいそんなもんじゃない? 真面目で、立派で、どこに出したって恥ずかしくないような人って、逆にいる?」と問いかけているような気もする。別に彼がそんな発言をしたという記憶も記録もまったくないのだが、しかし彼の描きたいのは、完全無欠の高邁な人格の持ち主などではなく、それよりは、いろいろと欠点はあるけれど、どこか愛すべきところが残っている人物、なのではないだろうか。彼の優しさは、そこをすくい上げたいのではないか。

ソムリエの白井晃には、少し変った立ち位置が用意されていて、かなりおいしい役どころだ。自尊心が高く物知りでちょっと気障だが、最終話で千石にまたベル・エキップに戻ってこいと言ったのはオーナーのロクローを除けば彼が最初だし、自分の考えをきちんと明言し、周囲を叱咤するときもあれば(第10話)、そうかと思えば「同僚を裏切ることはできない」とある意味同志であるオーナー&千石組に反抗することもある(第4話)。それだけならかなり完全無欠のソムリエになってしまうが、音痴だったり真面目がゆえの失敗などが用意されているので鼻持ちならないやつとは受け取られない。白井自身は、この役どころのイメージがあまりにも定着してしまって困ったことはなかったのだろうか、とこちらが心配してしまうほどだ。


と、わざとここまである人物に触れないで書いてきたが、そこに行く前に、「もし2017年に『王様のレストラン』をリメイクするのなら」という設定で、頼まれもしないのにキャストを考えてみた。ことわっておくが、かなりの自信作である。
重複すると煩瑣なので、左にわかりやすい役名/呼称/役職と、括弧書きで名前や渾名、右に新キャストを配した。
  • 千石さん - 堺雅人
  • オーナー(ロクローさん) - 東出昌大
  • シェフ(しずか) - 長澤まさみ
  • 三条さん(マーシー) - 吉田羊
  • ディレクトール=ソウ支配人(ノリトモさん / のりたま) - 松尾スズキ
  • かじわらさん(くどいようだけど、おれ「かじはら」だから。間違いないでくれる?) - 生瀬勝久
  • パティシエ(稲毛) - 濱田岳
  • ソムリエ(大庭さん) - 山本耕史
  • 和田くん - 野間口徹
  • 畠山 - 松尾諭
  • 皿洗い(佐々木くん) - 細田善彦
  • デュヴィヴィエ - 特になし
  • ナレーション - 窪田等
ちょっと注釈を。
まず千石には、やっぱり『真田丸』における演技で僕のなかで急激に株の上がった堺雅人を任せたい。松本幸四郎とはタイプがまったく違うけれど、それはそれでどういう表情を魅せてくれるのかたのしみ。次点で長谷川博己。彼は『デート』でみごとコメディを演じてくれたし、もともとスマートな感じなので、エレガントさについては問題なく表現してくれるだろうと思う。
オーナーは、東出昌大。身長と棒読み感がぴったり。
シェフは、 長澤まさみかなあ。これもやっぱり『真田丸』の印象が強くて、かのドラマでは一年を通して(といっても最後の2回は未見だけど)ほぼ一度として美人という扱いを受けてこなかったという事実に、資生堂のCFだかに出演しているのを観て愕然として気づくという逆説的な認識をしたわけだが、まあこういう役どころを受け容れられるというのは将来がたのしみである(小者ほど、役柄についてあーだこーだ言いそう)。次点で優香。これはやっぱり『ちかえもん』の印象。かわいらしくて優しくて、でも気が強くて、ものすごく魅力的だったもんなあ。
三条さんは、吉田羊。当時の鈴木京香よりは年齢が上かもしれないがどうせ年齢非公開(なはず)だし、美人だからよしとする。次点は若い頃の和久井映見。いまでもとても素敵で、僕個人としては露ほどの不足もないけれど、とりあえず「若い頃の」という条件を付しておく。こっちは『デート』や『ちりとてちん』での印象がある。
かじわらは……え? あ、かじらね。わかったわかった。かじはらは、生瀬勝久なんだけど、あれ? 生瀬って一回梶原やっていなかったっけ? ってくらいのハマリ役な気がする。 次点で近藤芳正。95年版にはゲスト出演しているけれど、あの頃よりさらに味が出ていると思うから十二分に演じられると思う。
パティシエは濱田岳。濱田岳はきちんとその演技を観たことはないんだけど、まあ背が小さいところが採用した一番の理由。東出と反対だね。
ソムリエは山本耕史。といっても、石田三成の印象からではなく、『夜のせんせい』の、外面は怖いけれど中身は抜けているヤクザ、がとても好演だったため。
和田くんは野間口徹。メガネだから。
2番シェフの畠山は、なんといっても松尾諭。以前から言っているが、少し前まで田口浩正が独占していた「小太り・メガネ」の枠は、現在すべて彼が総取りしようとしている。
皿洗いの佐々木くんは率直に言って誰でもよかったが、せっかくだから最近頑張っている細田善彦にしたい。
あと、ナレーションは窪田等。任天堂のCMをやらせている場合じゃない。日本の宝やで。


で、ここでもやはり触れなかったのが、つまり僕が最大のお気に入りのキャラクターである、水原範朝または「のりたま」、あるいはディレクトール、a.k.a ソウ支配人だ。
95年のリアルタイムで観たとき、西村雅彦をきちんと評価できる眼を僕は持っていなかったのだと思う。なんだか西村雅彦はまたヘンなしゃべり方してるなあ、辛気臭いなあ、くらいで止まっていたのではないか。
しかししかし、西村雅彦はそんなもんじゃないのだ(ということを、この記事を書く前に弟に言ったら、「そんなのわかってるよ! 西村雅彦、超うまいよ!」って言われた)。彼の実力がいかんなく発揮されるのが第9話。借金を返すために店の売上に手をつけて、しかもそれが従業員にバレてしまい、みんなの前で弾劾されるとき、弟のロクローが必死にとりなすのをよそに、自ら店を去ろうとする。それを止めようとするロクローに対するセリフ。
悪いがおれにだってプライドがある。親父がいた頃は親父にさんざんバカにされてきた。
やっと死んだと思ったら、今度はおまえらだ。いつだっておれはダメな男の代表だ。
ロクローは「そんなことないよ」と応える。
おれを、ただの役立たずだと思うな。運が悪かっただけなんだ。ほんのちょっと歯車が噛み合わなかっただけなんだ。とてつもなく長い厄年がつづいているだけなんだ。
ロクロー「(強くうなづき)そう思う」
ノリトモ「ばか言え、おまえにわかるか」
「わかるよ」
「わかっていない」
「わかってるから、役に立ちたいんだよ!」
おれは兄貴で、おまえは弟だ。おまえから、優しい言葉をかけられるたびに、おれの心はずたずたになっていくんだ。
もう、ここらへんの西村雅彦のセリフの吐き方がものすごくて、というのも全然感情的ではなく反対にまったく抑えたようにしゃべるのだが、かえってその淡白な部分に兄としてのやるせなさが滲んで感じられ、こちらの胸が詰まってくる。これが情熱にまかせて叫んだり、あるいは自己憐憫にひたりきったモノローグに堕してしまえば、視聴者はかえって冷静になってしまう。
強く断っておくが、淡白とはいっても、たとえば上のセリフの「とてつもなく長い厄年がつづいているだけなんだ」の部分は、「とてつもなく、」でちょっと切れて、「長い厄年が~」とつづく。あるいは、「おまえから優しい言葉をかけられるたびに」のところの、「かけられるたびに」も、少しだけ声量が落ちる。これらはおそらく、情感が溢れてきてしまって一瞬だけ言い淀んでしまったのではないだろうか。
また、この回のエンディングちょっと手前で、やっぱりみんなのことを考えて店を去ろうとするノリトモを、今度は千石が呼び止めて説得する。「自分を信じるんです。ノリトモさん、あなた自身が信じてやれなくて、いったい誰が信じるんです」
このあとの西村雅彦は、きちんと松本幸四郎に向き直って、
ふしぎだなあ……、あんたと話してると、親父を思い出すよ
と感に堪えない様子でつぶやくのだが、このときの「ふしぎだなあ」にも、辞書的な意味における言葉とは別に、思わずこぼれてしまった情緒というものが込められている。
これらの表現は、単なる棒読みとはまったく一線を劃すものである。西村雅彦はけっして器用ではないが、けれども感情の込め方がわからないような、そんな二流三流の役者ではない。三谷幸喜は当て書きをするとはよく言われているが、これらのセリフは、西村雅彦の口から出てくることでより強度を持った言葉になっている。
そうなんだよなあ、「とてつもなく長い厄年」というのも、「ほんのちょっと歯車が噛み合わなかっただけ」というのも、ほんとうにあることなんだよなあ。20年が経ってそんなことがじんわりと理解できるようになったよ。
そしてこの場面では、ロクローの優しさが万能というわけではないことをはっきりと描いている。他のスタッフたちの救いとなってきた優しさも、ときに人を傷つけていることがある。それも、いちばんたいせつに思っている相手を。
しかしそこは三谷幸喜、無邪気な善意で失敗して兄に文句を言われても、さらに「覚悟の善意」とでも呼ぶべき優しさで相手を包み込むことで解決させる。互いに理解のできぬまま別れてしまうというのは、リアルなのかもしれないが、カタルシスがない。プロセスはリアルであってもよい。あーだこーだと登場人物が視聴者を引きずり回し、感情をぐらぐらにさせたっていい。けれども、われわれが最終的にドラマに求めるのは、なんだかんだいってカタルシスなのだ。最後までぶちまけっぱなしの物語なんて、誰が必要とする?
ディレクトールのノリトモは、運がなくて、頭もそれほど切れるわけじゃなくて、小心者で、小ずるくて……、けれども、そんな彼にも陽の当たる日が来る、というのがこのドラマのクライマックスだと僕は感じた。なんといったって彼も、こと動物に関しては優しいし、動物を愛する者に対してはロクロー並のお人好しを見せる。彼こそ、このドラマのほんとうの主人公なんじゃないかと感じた。よく、「本当の主人公は○○だ」と指摘して得意げになっているやついるけどね。


もう書きたいこともだいぶなくなってきた。
あ、新版(って勝手に名づけちゃっているけど)キャストのディレクトールが松尾スズキってのもいいでしょ。これはもちろん『ちかえもん』での好演が頭に残っていたから。なお、このドラマ(『王様のレストラン』のほう)に興味があればVHSなりDVDなりをレンタルして観るべきだと思う。YouTube上にアップロードされている動画はかなり音質・画質が悪いので、かなり苛々することになるからだ。
ドラマ全体については、格別の言葉をくわえる必要もないだろう。脚本や配役やその演技だけでなく、構成、演出、音楽など、どれをとってもたのしめる箇所が多い。特に音楽であるが、服部隆之のサントラは一聴どころか所有する価値あり。アマゾンレビューには、「人気があるようなので」結婚式用に購入した、というレビュアーが、「(あまりにもいいので)ドラマのサントラにしておくには、もったいない」と書いていたが、こういうのを厚顔無知というのだろうな。違う違う、そうじゃ、そうじゃない、という90年代的ツッコミをした御仁よ、わかってま。けれども、無知は無恥であり、それをさらけだすのはやはり厚顔なのだ。まあ、この人間はドラマを観ていないでそう書いているのだろうね、というところで筆を止めておくが。
構成といえば、やはり最終話で千石が戻ってくることを決めたセリフに、物語上ずっとつかわれていた「あの表現」を持ってくるなんて、と思い出すだけでしみじみしてしまう。
そういえば僕のアルバイトしたことのあるイタリアン・フレンチのシェフは、けっこう「あの言葉」を多用していた気がする。書き言葉ではよくつかわれるけれど、口語ではあまりつかわれないものだからとても印象に残っていて、「ああ、『王様のレストラン』の影響かな」と思ったものだ。影響といえば、千石が一度ベル・エキップを去るとき、すべてのテーブルの準備をし、すべての鍋をぴかぴかに磨いておく、というのがあって、あれは一度真似をしたいと思っていたが、ついに叶わなかったな。いざやるってなると、「めんどくせーし、まいっか」となった。
話を戻すと、この記事においても「その言葉」はあえてつかわずにここまで来た。とても気に入ったドラマに対して精一杯の愛情を表現したいのに、この言葉をつかわないことがどんなにたいへんだったか。それでもそこそこの記事が書けたのではないかと自負はあるのだが……、それもついに解禁だ。ん?


この記事が「そこそこ」ですって? ふふ、ご冗談でしょう。
この記事の書き手は、ドラマへの愛情とやらを示すためにいろいろと書いていますが、そのどれもが冗長で、これでは読んでいて退屈してしまう。
また、「ぼくのかんがえたさいきょうのきゃすと」をつくるのも結構ですが、脚本家の他の作品に依拠してばかりで、オリジナリティが低すぎる。
そして構成。文章というものは、はじめから整然と論理立てられて書かれるべきものであり、進んでいくほど濃密になり、また感動があるべきです。最初からあっちゃこっちゃに話が飛んでしまっては台無しです。
 要するにこの記事は、「そこそこ」にも程遠い、「そこそこ」を気取っているだけの、最低の記事です。最低の。……がしかし、最低ではあるが……ドラマはほんとうに、すばらしい!

編集
『逃げる女』をやっと観終えたのだが、前から「すばくそだ」と書いてきたとおり、嫌なところはとことん嫌で、流し聞きしたところも多数なので、批評ではもちろんないし、感想ですらないただの「思ったこと・感じたこと」をちょっとばかり。

第二話か第三話で、冤罪で8年の懲役から出所した水野美紀が実家に帰ったところでその父親の古谷一行と再会するのだが、この場面はほんとうに素晴らしかった。このドラマをまったく観る気がない人・なかった人も、ここだけは観てほしい。下手したらひと月以上前の記憶になるので相当不確かなのだが、このシーンには息が詰まった。
たしか古谷はほとんどしゃべらず、かぶっていた帽子を取り、自分の胸の前で握り締め、自分の娘に対して申し訳なさそうに頭を下げたのではなかったか。
それを見た水野は、呼吸を忘れたかのように息が吐けなくなってしまい、震えながら、こぼれるようになにかを言ったか、あるいは言えなかったか。
演技だけでいえばここは、今年観るもののなかでベストになると思っている。最高で最良のドキュメンタリーのまさにクライマックスというようなカットで、思い出すたびに胸がかきむしられる。その直後に、「なぜ無実を主張しつづけなかったのか」と姉を責める妹のセリフがつづくのだが、その途端に「ドラマを鑑賞している」という現実に引き戻された。この妹役の女優もけっして下手なわけではなかったが、たぶん最高で最良の時間にひびを入れてしまったのだと思う。
しかし水野美紀は、妹の言葉の暴力を浴びつづけながら瞳を大きく見開き、首を細かく横に振っていた。彼女は驚き、哀しみ、打ちのめされながらも、必死にそこに踏みとどまろうとしていた。水野美紀と妹役の女優との違いは、脚本のせいでもあるのだが、言葉のありなしの違いだった。水野はほとんどセリフを口にしていなかったはずだ。古谷一行もそう。ただ妹だけが少し説明的なセリフを叫んでいた。そこに悪い意味での演劇性を感じた。言葉じゃあるところまでは行けるけれど、その先は突き抜けられないということを思い知らされた。

なにかの呪いのように寡黙な刑事役をしてばかりの遠藤憲一は、なにかの呪いのように同じような演技を見せてくれたが、彼の演技についての疑問符は、ただ不器用だと解釈すればよいのだ、という天啓によって払拭され、その不器用さをうまい具合に活かした『真田丸』の上杉景勝は、けっこうハマっている。
一方、その部下の賀来賢人は、『Nのために』によってはじめて彼を知り、そのとき「単にチャラいだけじゃない、気遣いと優しさを見せることのできる青年」という演技によってなのか役柄によってなのかが未分化の、ともかくも好印象を持つこととなったのだが、その後はCMでしか見かけたことがなく、あらためて当ドラマで若手刑事役をしているのを観ていたら……「そろそろ変えていこうか?」と、いままで温厚に見守ってきた還暦間近の少年野球の監督が、飽きもせずただバットを振り回すだけの少年に対していいかげん嫌気が差し、ちょっとだけ目を据わらせたまま口にするような言葉が、この僕のなかにも湧き起こった。
そうなのだ、これまたけっして下手じゃないのだけれど、キャラクターに広がりというか可能性がまったく感じられず、たとえばこのドラマにはなぜか刑事たちのあいだに不穏な空気が、なにかの手違いで焚きすぎてしまったドライアイスの煙のように蔓延しており、彼らの上司である課長の加藤雅也にいたっては犯罪に手を染めているんだかいないんだか(ここらへん、セリフがよく聞えないうえに、巻き戻して確かめようともしなかったので不明なままなのだ)で、しかもそれを部下のひとりであるでんでんが勝手に内偵しているとかいう、「その情報、ここで必要?」といういまどきのツッコミがこれほどぴったり当てはまる刑事ドラマもなかろうに、とマカロニを食べながら、無理にストーリーに複雑さを加えようとする脚本に呆れ慨嘆し、幾度となくビデオの停止ボタンを押そうとしたものだが、話を戻すと、それほど不穏な刑事たちのあいだにあって、油汚れに強い洗剤でスポンジ除菌までしたのかってくらいに爽やかな彼(忘れてしまったかもしれないけれど賀来賢人の話題です、これは)の存在・演技はミスマッチ感たっぷりで、いやほんとうはこっちのほうがまともなんだろうけれど、エンケン、でんでん、という偶然にも韻を踏んでしまっているコンビがあまりにも異常で、そういう連中のなかにあっては「まとも」というより「つまらない」ように映ってしまって、損をしていたというのは事実。でももう少し芝居に工夫がないと、次は厳しいよね。

で、だ。
問題の仲里依紗の話に移る前に、脚本にもう少し触れると、完全につまらないというわけでもなく、ところどころに説明ゼリフがあったり、既述したようなとってつけたような複雑さに関してはもう眉を顰めるしかないのだが、 一方、ずっと一人称的に描かれ、冤罪に苦しむ完全な被害者であったヒロイン水野美紀が、8年前の事件当時に不倫仲を疑われた高橋克典によって、実は上昇志向が強く、(のちに偽証して彼女を陥れた)田畑智子と殺された子どもが彼女のことを愛し必要としていたことにまったく気づかないか気づかないふりをしていたというシビアな一面を持っていることが明かされる。思わぬ人物の証言によって、いままでわれわれに見えていたのとはまったく別の側面が浮かび上がる、というこの構成は実に秀逸だった。
インテリである彼女は、地方の幼児教育の場にフィールドワーク的に入り、そこでの経験をもとに本を出版するはずだったのだが、幻となったその本のタイトルは「さみしさの云々」とかいうもので、しかし彼女がほんとうに寂しさというものをわかっていたとは思えませんね、と告発するように刑事に話す高橋克典のちょっと老けた感じもかなりよかった。なお、ここらへんのディテールはかなり聞き流しつつなのでだいぶアバウト。
原作がどうなっているのか知らないが、物語を水野美紀と仲里依紗のロードムービーにしたかったために冗長を避けるべく無理に刑事側の混沌を描写したように僕には思えたのだが、ここらへんがかなり蛇足で非常にもったいないとも思った。あと、ものすごく繰り返しになるけれど、説明ゼリフが多すぎ。

で、その高橋の告白によって事態が思わぬ展開(話じたいは変わらないのだけれど、視聴者がヒロインを見る目がここで変ったのだ)になったのとたしか同じ回で、いままで「おいおい、ちょっとその演技はおじさん観てられないよ」とだいぶ僕もスルー・ザ・スプーン気味だった仲里依紗の演技が爆発した。
逃亡をつづける(この理由を考えることをもはや抛棄したまま鑑賞していたので、未見の人も深く考えなくていいです)水野と仲がある定食屋で話している。
水野は、妙な因果で一緒になった本来は縁もゆかりもない仲に、「いまはあなたしかいないのよ」と少し照れたように本音を告げるのだが、その言葉に仲が激しく反応する。
「ふざけるな! あたしはいっつも『あなたしかいない』『あなただけを大事に思ってる』と言われて、そうやって暴力をふるわれつづけてきたんだ!」 
実は彼女には、幼児期に実母の連れてきた男に、冬空のなか裸で冷水を浴びせられながらしつけられるという虐待経験があったのだが、このときの仲の演技は凄まじかった。自らの髪を引っ張りながら握り拳で自分の頭を何度も何度も叩き、叫び、目からは涙をひとすじ流していた。その涙が血の涙のように見えるほど、彼女の持つ怨嗟がこちらに伝わった。この芝居も、前述した水野のそれと優劣つけがたいもので、この場面を目の当たりにしながら僕が感じていたのは、いま彼女は「演技」という枠を突き抜けてしまっているということだった。画面に映っているのはまさしく、痛ましい幼児虐待の経験のためにおそろしくいびつな価値観しか持たない怪物のような少女だった。
そういう演技を観ていると、自然とこちらも息を止め引きこまれてしまう。仲の叫ぶ画面と幼女時の記憶の風景が重なる。
MA-1を着た作業員風の男が冷水の出るホースを手にし、こちらにその出口を向ける風景。その彼の後ろでタバコを吸いながら冷笑し、けれども心のどこかに空虚さと諦念を抱えたようにも見える実の母。これ、実際にこういう描写場面があって、さすがに水を浴びせられる下着姿の女の子(ずっと画面には背を向けていた)は寒そうには見えなかったんだけれども(なぜだろう、鳥肌とか本当に皮膚が寒さで硬直している感じとかがなかったからかな)、それでもこの「絵」は、単なる幼児虐待(「単なる」なんて言える問題じゃないんだけれど)というカテゴリーの暴力性を超えて、「ドラマでここまで描くのか」という強いインパクトを視聴者に与えたはずだ。ただただ凄まじかった。

ここらが最終回のひとつ前の回で、うわー、このドラマって実は大傑作だったんじゃないの? いったん最終回まで観たらオンデマンドで見返さなくちゃ、などと大昂奮していたのだがその最終回は……やっぱり面白くなかったんだよなあ。ある意味、それが面白い。
あまりにも面白くなかったから興味がほんとうに殺がれてしまい、最後がどうしてどうなったということがよくわからなかった。画面に人が出てきて、それが動いて、ときどき叫んで、拳銃を振りかざして戻してまた振りかざして今度は発砲して誰かが撃たれて……とそういう激しい展開は起こっていたのだが、気持ちがまったく動かず、演技の向こう側に突き抜けてしまったかに見えた仲里依紗は、ぼくの感動した第五回は奇跡だったとでも言うように、それまでどおりの絶叫芝居の枠内にみごと収まっていて、落胆のあまり「ふうん」という感想を持つだけだった。いや、冒頭に書いたとおり、感想ですらなかった。
きちんとすべてを観たとは口が割けても言えないので「思ったこと・感じたこと」をここに書くのさえ製作者に失礼っちゃ失礼なのだが、まあいろいろあって、最後に水野が原田美枝子の経営していたカフェを訪ねると、そのときにはすでにそこは閉店していて、けれどもたまたま鉢植えを取りに戻ってきた原田と会い、ふたりはまた入江の浜辺に行くのだが、ここは僕が以前にこのドラマの感想を書いたときに触れた場所で、ため息とそして涙が出るほどに美しく、物語は当たり前のようにしてそこで終わったのだった。その終わり方だけは、僕にとっては最高だった。

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今期の朝ドラ『とと姉ちゃん』は2週目の初日か2日目で見切った。

1週目初回の成長しきった高畑充希が放つ、いかにもわざとらしい「どうしたもんじゃろのお」にまず軽い眩暈を覚えた。狂ったように繰り返すことによって批判されるどころか甘受されてしまった「びっくりぽん」(じぇじぇじぇ、なんかもそうだけど)に味を占めたNHKの隠そうともしない底意に、もう少し受信側に批判精神はないものか、と嘆かわしい思いを一瞬抱いたのだが、もはやこれらの是非じたいがSNSのトレンドに(おそらく)組み込まれてしまっていて、軽い批判の、というか軽い話題のひとつのプラットフォームを提供している、という意味では成功しているんだろうな、と思い直した。
で、本篇の子ども時代なのだが、1週目の感想は一言に尽きる。浮世離れしすぎじゃねえ?(まったくの余談だが、「~しすぎじゃね?」、と「ね」で止めることにどうしても躊躇してしまう昭和の人間
たしか昭和5年という設定だったはずだけど、少女たちの部屋がメルヘンチックすぎて、いったいどれくらいのご家庭なんざんしょ、と思った。広い家。いつも落ち着いた様子で「おほほほほ」と笑っていそうな和装の母、木村多江。
それからものすごーーーーく優しい西島秀俊のお父さん。家族からは「とと」と呼ばれていたけれど、「父のとと」じゃなくて「カマトトのとと」かと直感したくらいに、現実味を感じない設定。モデルがいる以上じっさいそうだったのかもしれないが、あまりにも珍しい実例を持ちだされると困惑してしまうのだ。
で、その彼が早くも週末に死亡。残された一家はたいへんってなことになっていくようだが……。

ちょっと話がずれるのかもしれないけれど、これって貴種流離譚の変形なのかな、と。高貴な血を持つ人間が、転落したり漂流したりして苦労したのちに、その「血」にふさわしい地位にたどり着くっていうのが僕の(非学術的でかなりアバウトな)理解。
以前、少年漫画誌「ジャンプ」にあまりにもこの系統の物語が多すぎるってことを指摘したことがある(クソ映画『サマーウォーズ』について触れたとき)が、たぶんこういうのって好きな話型なんだろうな(ほんとうは「日本人の好きな話型」と言いたいのだが、外国文化と比較するほど知識がないので曖昧に書いておく)。
重要なのはこの「血」って部分で、「由緒正しい」とか「格式のある家の」とか「代々つづく」だのという、すべてカッコつきの正統性みたいなものが主人公やヒロインに付与されていて、そこをベースとしているからこそ視聴者は思い入れできる、みたいなスタイルなんだろうけれど、僕が思うのは、そういう与件がなければたのしむことができないのか、というほどこのパターンが多すぎる。
父親も母親もわからない(そして最後まで明かされない)ような最下層出身の主人公が頂点を目指す、というような物語はないもんかね。時代劇でいえば、両親はわかっていようが秀吉がこれにあたるか。むかしのドラマで言うと『おしん』? 僕は世代じゃないからよくわからないけれど、ひたすら苦労しているって話、っていう印象を勝手に持っている。
以前、安房直子の子ども向けの物語『まほうをかけられた舌』を読んでいたときに、そこに収められていた他の短篇の主人公たちのほとんどが貧しい子たちで、それだけでもうやたらと胸がしめつけられたのだが、その子たちが幸せになるというところにまた深いよろこびも感じることができた。
僕は児童文学にはまったく暗いけれども、ケストナーのいくつかの作品にもやっぱり貧しい子たちが出てきて、むしろそれだからこそこれらの物語は普遍性を持っていて、いまでも輝いているのだと思う。
しかし現代の日本ではそういう苦労に共感していくのがきっとイヤなのだろう。それよりは手っ取り早く、保証書付きの主人公/ヒロインのほうが安心できるってな具合なんだろうな。
そんなマインドが普及してしまっているから、簡単に二世議員が選ばれたり、まだなにもしていないのに「未来の総理」などと語られたりするんじゃないか、とこれはあえて横道に逸れた。

でまあそれはともかく、2週目に入って高畑充希が出てきたところで、はい終了。もう観る気がなくなった。
けっこう以前から家族内では指摘していたところなのだが、この女優は若いうちから活躍しているせいもあってか年齢のわりに技術があるのだけれど、既に演技が固定化しつつあるのだ。
NHKだけでいっても『ごちそうさん』『軍師官兵衛』で、だいたい似たような演技。それが僕の好みであればいいのだけれど、なんだか鼻について好きじゃない。この高畑充希じたいはものすごく好きなんだけど、演技が嫌い。そういえば深津絵里も同じような理由で、好きなんだけど演技が嫌いなんだよな。
具体的に例を挙げると、ちょっと無表情で首をちょこっと傾げるクセが彼女にはある。それによって、か弱い女性ではなく、かといって勝ち気すぎる女性でもなく、芯がありつつもけっして押し出しすぎないバランス感覚のよい女性を演じられているのではあるが、なんだか見飽きてしまった。
下手は下手で観ていて腹が立つのだが、ワンパターンの、いかにも「それらしい」演技ばっかりをしていると、「ほかにないのかよ!」と言いたくなる。たぶん器用であるはずなのに、いちど成功した技術に執着しすぎなんじゃないか、とこれは素人門外漢の完全な難癖つけにすぎないのだが、観る気がなくなってしまったのだ。

というわけで、以上の二点でもう今期の朝ドラは観ないことにした。
余談だが、次の朝ドラヒロインは芳根京子だということを知ったとき、やっぱりなとしか思わなかった。朝ドラにちょい役で出演した人がその後ヒロインという流れは最近顕著だったし、彼女の持っている「朝ドラヒロイン感」はオモコーのときからすでに感じ取っていた。朝ドラヒロインっぽくていまだになっていないのは黒木華なのだが、いまは忙しそうだから無理かな。
いづれにせよ、次回の朝ドラでも早いうちから「観るのやめた」ってことになるんだろうな、という予感が今からもうしている。

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やっと録っておいた第一話を観ることができた。

最初によかったところを挙げておくと、柳楽優弥の芝居がたのしく、特にキャッチを演じている部分は二度繰り返して観た。安藤サクラの演技はほぼ初見だが、これまた魅力的。大賀は『夜のせんせい』『八重の桜』以来だけど、いつものアツい演技とはまた違う表情を見せてくれてたのしめた。岡田将生も松坂桃李もきちんと役をこなしているように見えた。

けれども、なかなか第二話を観ようという気になれず、いまも見切るべきかつづけるべきか迷っているところ。
まず観る前からタイトルに対して「ん?」と思った。
いわゆる「ゆとり世代」というのが僕のなかでは現実味がなくて、もしかしたら実際に接触したことがないのかもしれないので具体的なイメージが持てないっていうのがあるのだが、そうであろうとなかろうと、ある特定の世代に対してレッテルを貼ってあーだこーだっていうのはあまりいい趣味じゃない。
もっと広く言うと、世代に限らずある特定の属性に対して云々っていうのは差別と変わらない。「おれ/わたしはそこに属していないけれど」というのが念頭にあるから「これだから○○は」と指摘できるのだろうが、これが指摘される側に立っても同じ顔をしていられるのかどうか。
……ということが前提としてあるから当然このドラマは、「ふだん世間でバカにされがちな『ゆとり世代』ですけれど、じつはこんなふうに頑張っているんですよ」的な、記号的に言ってマイナスをプラスに転換するような仕掛けになっているのだろうが、しかしそれが非当事者(調べていないからわからないがおそらく宮藤官九郎は「ゆとり世代」ではないだろう)によって製作されたものであったら、はたして純粋にたのしめるものなのだろうか。

ひと昔前、社会で働く女性の一部には結婚したらすぐに寿退社して家に入るから会社は腰掛けとみなしているのがいる、と思われていたところがあって、「これだから女性社員は……」という考えを持っている男性社員はおそらく少なからずいた。
その考えが(マジョリティだったのかどうかはわからないけれど)ともかくも社会の一部には確実にあって、そういう状況下において『女ですがなにか』というドラマが男性脚本家の手によって書かれたとする。しかしその内容が「いやいや、女性社員だってみんなが勘違いしているような人じゃないんですよ」というような擁護するものにたとえなっていたにせよ、僕からするとその擁護にはどこか半笑いをともなう印象が感じられ、その背景には無意識による差別意識が仄見える。
もしその作者が「女性なんて会社を腰掛けに思っている」と思っていなければ、そもそも価値観の転換によってドラマを成立させようなどとは思わないはずで、つまりは世間の思い込みや差別などといったんは同調することによって、その後に「でも実は違うんですよ……」とやったとしても、けっきょく彼は差別の一端に加担しているといえる。

あるいは、『オネエですがなにか』というドラマがLGBT側に属さない人間(この表現が適切ではない可能性はじゅうぶんにあるが、とりあえず)によって描かれたとしたら。
これをきちんと成功させるためには、ものすごく慎重なリサーチと丁寧な表現が必要で、それを実践するための根気を非当事者が持ち合わせているものだろうか、という問いが当然僕のなかに起こる。そして、そもそもそんなデリケートな問題をコメディで描く必要があるのかという根本的な問いも起こる。そこには単に扇情しかないのではないか、と。

ゆとり世代に翻って。
コメディなんだからそんな細かいことは気にしないでね、どんなことを描こうとたいていのことは許してよ、という甘えがもしあるのだとしたらそれは情けない話で、僕はなにも差別表現をまったくなくせと思っているのではない。
むしろ、多くの視聴者が閉口するような過激な表現をしつつ、それをみごとコメディによって回収してみせてほしい、とさえ思う。
以前にも言及したことがあるが、2001年の松尾スズキのラジオドラマ『祈りきれない夜の歌』では重度の障害を持った子どもが主人公で、彼は首から下の身体を動かすことができず、周囲に対しては「う~、う~」と獣のように呻くことしかできない。
というこの設定を知るだけで、たぶん少なくない人たちが「え、それはちょっと……」と思うだろう。
しかしこれが全篇通して聴いてみると、きちんと(ただしブラックユーモアに満ちた)コメディになっていることがわかるし、エンディングでは爽快感さえ覚えた(もちろん、「やっぱり嫌だった!」と思う人だって大勢いるだろう)。僕などは、はじめ設定を知ったときに感じた「悪趣味だなあ」という不快感を、聴き終えたあとは、自分自身の差別意識や嫌なもの・不都合なものを見ようとしない姿勢のあらわれだったととらえ直すことができた。
このように、舞台や小説、映画などでは、いわゆる非倫理・反倫理的な表現や描写によって鑑賞者の価値観を揺さぶるということがあって、その経験は尊い。
もし脚本家に「テレビドラマなんだから」という言い訳が用意されているのだとしたら、はじめからウェルメイドの作品を志向すればいいのであって、少し目を惹くタイトルや設定によって一部の人たちにフックを効かせるようなやり方は少年誌でエログロ表現を小出しにするようなもので、テレビドラマ全体のレベルを下げているように見えてしまう。

こういう僕の前持った予想に対して、ゆとり世代をコメディドラマの主人公に選んだことが、世間に流布する(きわめてしょうもない、という形容詞つきの)既成概念におけるマイナスからプラスへの単なる記号転換以上の意味を持つのだとしたら、いい意味で裏切ってくれるわけだからそれはそれですごいと思うし、そうなることを期待する。
けれどもそれが、はじめに書いたような半笑いをともなう視点転換だけで終るのだとしたら、鈍感なセンスによるタイトル、という僕の当初の印象は覆されないまままだ。

……ということを考えながら視聴していたら、大賀扮する山岸という若手社員がホームで飛び込み自殺したような、あるいはしなかったような、みたいなところでドラマが終わっていて、暗澹たる気持ちになった。
こうなったら第二話は、大賀の血まみれの死体のどアップから始めてもらいたい、と思った。あるいは、大賀ではない誰かの死体でもいい。
現実に起こっている悲惨で決して少なくないできごとをひとつのギミックとして扱うからには、そこを直視するような描写をして、さらにそこを越えて笑いに変えるべきだ。
まさか単純に、登場人物の死の可能性を次回への「引き」にしよう、しかも、本当に死んでいたら笑えなくなっちゃうからただの勘違いでしたってことにしよう、なんていう浅はかな考えだけでやっているとは思えない。もしそうだとしたら、殺人事件の「真相」をCMまたぎで放送しようとするワイドショーの、別の言い方をすれば、視聴者の人死にへの好奇心をスポンサーに売り渡すワイドショーのやり方となんら変わりない。

実は、NHKの『真田丸』の「祝言」の回の予告も、祝言の場でもしかしたら梅が死んだのかもしれない、と誤認するようなつくりになっていて、脚本家の意図したものではまったくないと思うけれど、あれはいやな演出だと思っていた。梅が九死に一生を得た、という筋書きならわかるが、本篇を観て彼女がまったく生き死にとは関係なかったというのがわかったときに、ある意味製作側の底が知れたようにも思えた。いいものをつくってそれを正々堂々と放送してくれればふつうに感動するのに、なぜそこで小賢しいことをするのだろうか。
そのせいもあって、第一部の最終回で梅が本当に死んでも、「あ、やっぱりな」という落ち着くところに落ち着いたというくらいの感想しか持てなかったのだ。登場人物への冷淡さは、「だっておまえらが一度殺しているんだから」という一部の製作側への嫌悪感と直結している。

てなわけでこの『ゆとりですがなにか』は、台詞のやり取りなんかは非常に面白いところがあり、役者たちの演技にも見逃せないところが多々あるのだが、冒頭にも書いたけれど、なかなか第二話を観る気になれず、このまま見切ろうかどうかと悩んでいる最中なのである。

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