とはいえ、わからないでもない

カテゴリ: テレビドラマ

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きょう(5/17)、たまたまテレビをつけたところテレ朝の『9係』がやっていて、津田寛治と羽田美智子と朝倉伸二が同じ画面内にいて「あれ?」と思った、という話は記録に値すると思う。
朝倉はおそらくゲスト出演だと思い、念のため『9係』の公式サイトをあたってみたら、「あれ? 松尾諭もいるじゃん!」と昂奮したのだが、よくよく見たらまだ田口浩正だった。「田口浩正の枠はすべて松尾諭が奪っていく説」を唱えている僕としては、この仕事もやがて松尾のものとなるだろう。

それはともかく。
第4週「旅立ちのとき」。この一週間は泣きっぱなしだった。
前半からして、飛ばしすぎていた。

美代子が困っているのを知っている君子が、(最初はお金を持ってきたがそれは美代子に固辞されて)お歳暮だと言っていろいろな食物を持って来る。

美代子が、「『東京に行く』と言わせてしまって、ごめんね」とみね子に謝る。美代子の方からお願いしなくちゃいけなかったのだと言おうとすると、それを遮るみね子。お母ちゃんにそんなこと言わせたくねえから、自分から言ったんだよ、だからそんなこと言わねえで、と。

募集が終わってしまって東京に仕事があるかどうかと首を傾げる田神先生(津田寛治)に「どんな仕事でもすっから、なんでもいっから」と懇願するみね子。それに対して、「おめえは大切な教え子だ。『なんでもいい』とか言っちゃなんね」と本気で怒る先生。

で、仕事が決まったときの先生がみね子の家へ飛んでやってくるところとか、そのあと、みね子が時子の家に自転車でやって行くところとか、もうたまらなく面白くてわくわくしたし、時子がみね子が一緒の場所で働くことになったと聞いて泣き出してしまうところなんか、もうぜーんぶ、泣きながら観ていたもんなあ。

このドラマで中心となっている人物たちが活躍しているとき、誰かが誰を演じているとか、そんなふうに観ることができない。そりゃ部分的にはリアリティを逸脱してしまってある種のファンタジーの領域に足を突っ込んでいるところも(意図するとせざるとにかかわらず)あるだろうけれど、そういう些細なことを一足飛びに超越して、いつも僕は1964年、1965年の茨城や東京に連れて行かれてしまっている。
脚本のよさもあるだろうけれど、きっとそれだけじゃない。一カット一カットの撮影がきれいだったり、風景がよかったり、音楽がよかったり、そのうえにほとんどの役者が好演している。熱演というよりは、きちんと物語のなかの人物をそれぞれが生きているという感じがある。息遣いを感じる。仮想の人物たちだからこそ、魂を込めなければこちらの心にまでなにかを響かせることはできない。彼ら/彼女らがほんとうに心を震わせているからこそ、こちらの心にもその震えが伝わる。

で、卒業式。
特に三男の家の朝の描写がよかった。雪のちらつく中、家族みんなはわりあい素っ気なく三男を見送るのだが、道を曲がるその前くらいで三男が振り返り、大声で「きょうまで、ありがとうございました!」と挨拶し、深々と頭を下げるところなんか、ベタベタのベタな演出だとは思うのだが、やっぱりすごくいいところで、けれどもそこで三男の母ちゃん(柴田理恵)が泣き出すのかと思いきや、びっくりしたあまり、りんごの木から落っこちてしまって、三男の兄貴と父ちゃんが慌ててやってきて彼女を担ぎ運ぶ、というコメディ的展開でそのカットを〆るところが、前に指摘したような照れ隠し的演出で、とてもすてきだ。
じゃあ、このびっくりした母ちゃんが、びっくりするだけだったかというと、そうじゃねえんだよなあ。みね子たちが卒業式に出席しているころ、美代子のところへ君子と三男の母ちゃんが集まってきて、茶飲み話をする。そこで三男の母ちゃんが、なぜ三男にこれまでずっと冷たくしてきたのかということを明かす。
三男坊でいづれ出ていくことが決まっているのだから、清々する思いで家を出て行けるように生まれたときからずっと突き放してきて、ついに優しくしてやれずじまいだった、と。だから、こんな母ちゃんのことを嫌いに違いないと大泣きをするのだが、ここで思ったのは、柴田理恵って泣き上戸だから、この台本もらったとき泣けて泣けて仕方なかっただろうなあ、ということ。で、何度も何度も読み込んで、途中で泣き出してセリフを壊してしまわないように自制して、それで本番テイクに臨んだのではないかと思った。

ふつう、この卒業式の回が土曜日、つまりその週のクライマックスとなりそうなものを、『ひよっこ』はそんなケチなドラマではございません。そんなエピソードの出し惜しみというか、一週間につきワンアイデアの薄伸ばしみたいなことはいたしません。

みね子がついに家を出るというとき、妹・弟の手をつないでバス停までの道を行くみね子が振り返り、家の畑から見送る古谷一行に手を振り、そこに古谷が、悲しみ・さみしさを押し隠しているような表情でそっと手を振る。この場面、ほんとよかったなあ。『逃げる女』での古谷一行の演技をあらためて思い出した。
みね子・時子・三男の三人の家族がバス停にまで見送りに来ていて、そのとき時子の父ちゃんが持ってきていた聖火リレーのときの横断幕――助川時子ちゃん、がんばれ!――を見て、これが泣かずにいられようか。
みね子がバスの窓から顔を出してせいいっぱい手を振り、妹の名前を何度も呼び、「がんばろうね、がんばろうね!」と叫ぶところは、やっぱり方言のよさをしみじみと感じた。

上野駅に着いて、米屋のおじさんがやって来て三男をさっさと連れて行こうとするとき、みね子は「がんばろうね!」、時子は「負けんな。負けたら嫌いになっからね」と呼びかけるのにやっぱりじいんとしてしまった。きちんとしたおわかれの挨拶もなしに、奥茨城から一緒にやってきた友だちがあっという間にいなくなってしまうところに、なんだか僕までが心を引き裂かれるような思いをしてしまった。

やがて和久井映見演ずる「愛子さん」もやって来て、ひと騒動(※後述)あったのち、澄子をくわえた三人が連れて行かれる。そこを田神先生がひとり見送る。このカット、みね子たちの後景に田神先生がいるのではなく、田神先生の視点で、その向こうにみね子たちが描かれているところが重要。次いで、バストアップの田神先生が「がんばれ、がんばれ」とつぶやく。
このとき、僕は前回書いたようなことに気づいた。つまり、「あなたのことは、きっと誰かが応援している」というこのドラマのテーマだ。
愛子さんの手違いで、一瞬、みね子の働く場所がなくなるかもしれない、という可能性が出来するが、このときみね子が何度も何度も「(奥茨城には)帰れねーよ、帰れねーよ」と繰り返す。これは現在と違って、軽々に東京と地元を行き来できるわけじゃないし、簡単に仕事を転々と変えられるわけでもない、ということをあらわす意味があるのと同時に、みね子たちの状況が、簡単にお先真っ暗になってしまうような脆く頼りないものだということを暗に示してもいた。
そういう不安や危険に対し、本人たちには聞えずとも、「がんばれ」とつぶやき、応援してくれる大人がいる。その描写が、このシーンで最も大切なことであった。だから、田神先生のアップでなくてはいけなかったのだ。

実は、この何話分か前に戻って、残業していろいろな方面に電話をかけてみね子の仕事先を探す田神先生のところへ、化学の藤井先生がやってきて、一緒に手伝ってくれようとするシーンがあった。
けっきょく手伝いするまでもなく、愛子さんのところから電話がかかってみね子の就職先が決まるわけだが、しかし、みね子は藤井先生のこのときの善意・無償の親切を知らない。
(ちなみに、この場面で田神先生(男)は藤井先生(女)のために自らお茶を用意するのだが、この当時からすればめちゃくちゃ進歩的な男性だったに違いない!)

見えるところだけでなく、見えないところでも誰かの善意はある、というのがこのドラマの基底となっている価値観だ。あるいは、損得勘定のない善意、という言い換えをしてもよい。みね子の父親がはじめて赤坂のすずふり亭に行ったとき、宮本信子と佐々木蔵之介は、彼にこのうえない親切で応対した。そこに欲得の勘定はまったくなかった。
2017年を舞台にしたドラマでは、こんな「夢物語」を描くことはもしかしたらもう不可能なのかもしれない。みながみな、自分の裁量と才覚で自己責任でやり抜いていかなければならないし、仕事とか家族のことなんかは考えないようにするか、あるいはもう完全にほっぽりだしてしまって、それよりは承認欲求を中心とした自己肯定への模索が第一義にあって、きょうもきょうとて、リアルと仮想上の自分との乖離に悩んだり悩まなかったり。
誰かが助けてくれる、とか、誰かが応援している、なんてのはファンタジーで、「けっきょく人間は孤独なんだ」というその感覚はその感覚である種のファンタジーに耽溺している気もするのだが、すくなくともそっちのほうが流行りにあるらしい。
ま、それはそれでいいんだけれど、僕の子どもの頃から接していた価値観って、どちらかといえば、『ひよっこ』寄りのものなのだということを最近特に考えていて、だからこんなにも感動・感激しているのだと自分を納得させようとしている。

そもそも(※2017年5月、これからは「そもそも」の意味もすこし拡大されるようですよ)、このドラマを観て、しきりに感動した・感激した・泣けた、みたいなことをずっと書いていて、実際そのとおりなんだが、もしかしたらそれほどまでのものではないのかも、と疑いたくなることがときどきある。
僕が一種のノイローゼとか神経過敏の状態にあって、そのためにちょっとした刺戟でも心が過剰反応してしまい、ぼろぼろと涙を流しながら「すごくいい!」を連呼するというタイプの症状を呈しているだけなんじゃないか、とそういう疑いを我が身と心に向けざるを得ないほどに、やたらと心が動いてしまっている。
もし僕がそういう病的状態にないのであれば、このドラマは――すくなくとここまでは――大傑作だ。

そして、大傑作週のひとつである第5週「乙女たち、ご安全に!」のことが次こそやっと書けるのがたのしみで仕方ない。乙女寮のメンバー、特に藤野涼子さんのことが書きたくて書きたくてたまらないのだ。ご安全にーっ!

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第3週「明日に向かって走れ!」。

声を大にして言いたいのは、誰かを不幸にさせたり、病気にさせたり、あるいは殺したり、挙げ句の果てにはそれらのオンパレードを見せつけるためにわざわざ「戦争」を持って来たりしなくても感動を生み出すことはできるってことを、この「聖火リレーの週」は教えてくれたわけだ。
しかもその聖火リレーというのが、東京オリンピックといういわば権威づけられた行事の一部ではなく、そこから派生した村の行事――「オリジナル」からしてみれば「モノマネ」のようなもの――によって感動させる、というのが二重にすごいところなのだ。

もうこの週は奇蹟つづきというか、毎日毎日がスペシャルすぎて濃密。
月曜日。この日は、全部で4回のハグがあった。
  1. 東京から帰ってきた美代子が、みね子に本当のことを話しハグする。
  2. 畑仕事をしている美代子のところへ君子(羽田美智子)が手伝いに来るが、彼女の顔を見て泣き出す美代子を、君子がハグする。
  3. 元気づけるために盛り上げてくれる時子と三男を見て、感謝のあまり少し泣いてしまうみね子を時子がハグ。
  4. ついにリレーの計画書がガリ版であがり、それを見て感動したみね子をまた時子がハグ。
3.と4.とは意味合いが同じだから3回とカウントしていいとも思うのだが、いたわり、なぐさめ、共感、といろいろな感情を抱擁という行為であらわしていて面白いと思った。で、各ハグのシーンは感動的であるのだが、3.のところで、時子に抱かれたみね子が三男の方を見て「うらやましかっぺ?」と少しおどけるところがまた格別によい。「感動」を金看板にするのがまるで恥ずかしいとでも言うように、ここでまたユーモアに逃げるところが僕の好みなのである。

火曜日は、三男たちが青年団の集まりに出席し、聖火リレーの計画を打ち明けるところ。はじめ、三男の兄貴である団長たちが頑な態度で計画をすぐに却下しようとするところがリアル。
そこから先は、泉澤祐希の芝居の見せ所だった。というより、三男というキャラクターが泉澤という役者に取り憑いているように見えた。三男の言うところはつまりこうだ。村のことをいくら好きでもどうしても出ていかなければいけない人間だっているわけで、村というのは住んでいる人間たちだけのものではなく、遠く離れてしまっても村のことを思っている人間たちのものでもある、と。
しかし、ここで兄貴の太郎(団長)の返す言葉が辛辣なのもよかった。生まれたときから村を離れられないさだめにある人間だっている。
村を好きでも離れなくてはいけない人たち。村が嫌いでも住みつづけなくてはならない人たち。これらは対極にはあるものの等位の関係にあるのだ、と。
けっきょく青年団は手伝ってくれることとなり物語としてはハッピーな方向に進むわけだが、脚本が、村を離れられなかった人たちの心情を太郎に代弁させたのがよかった。
太郎たちは決して悪役なのではない。この場で和解したわけではなく、はじめから対立しているわけでもなかった。保守的という言葉が、当節流行っているような趣味としての態度ではなく、どうしても逃れがたい考えや習慣に基づいた態度をあらわす場合において、太郎たちは保守的なだけなのであった。そして、いまの僕にはこういう人たちのことが前よりは少しわかっている。
東京や横浜に住んでいたとき、周りにいた多くの人たちが「人間は自由でなければならない」という考えを持っていたように思うのだが、その人たちがそのような考え方にやはりとらわれていたのであったとすれば、そのとらわれ方においては――あるは保守的な考えをどうしても受け容れがたいという態度においては――同等に保守的なのだ。詭弁のようだがこれもまた事実で、たとえば信仰心が日常生活の基礎になっている人たちの近くで暮らしていると、迷信だとか前時代的だとかバカにする気にもなれないし、その人たちの理窟というのがそれなりに理解できるようになってくる(あくまでも理解どまりだが)。
だから、勇気を振り絞った三男の説得を聞き入れつつも、どうしてもひとこと言わずにはいられなかった太郎の気持ちにも共感できたのだった。

水曜日。みね子・時子・三男の計画が晴れて村中に周知されることとなり、各自の協力や「政治」の力によって大会実施にまでこぎつけ、あっけなくリレーはスタートしてしまう。
どこかで耳にした、というレベルの話で、本ドラマを「展開が遅い」と批判する向きがある(あった?)らしいのだが、全然そんなことないよ。だらだらしたところなんて本当になくて、つまらない朝ドラだったらリレーのスタートまでの準備回として一話分を使い切るのがあたりまえくらいなのに(たとえば『マッサン』のだらだらした展開は、いかにも時間稼ぎというのが見え透いていて酷かった)、リレーをスタートさせるどころか、ゴールまでしてしまうのだ(しかも回想が入るから実質はかなり短いと言える)。
僕などは、「ああ、リレーをもっと観たかったのに、きょうだけでおしまいなのかあ……」とがっかりしたくらいなのだが、まあそれは翌日、早とちりだったということが判明することになる。
リレーでは、三男が泣き、時子がよそいきの笑顔を見せ、みね子が内心に不安と希望を抱えながら、走る。
ただそれだけっていう言い方はないけれど、でも、この回のメインは登場人物たちが聖火を持ってただ走るだけ、なんだよね。ただそれだけだからつまらない、ではなくて、ただそれだけなのに、(月並な言い方だけど)ものすごく感動してしまったんだよな。
ひとりのランナーの後ろに何人もの子どもたちがわーわー言いながら追走し、また沿道でも大勢の人たちが立ち並び、拍手や旗を振ることでランナーを迎え、声援を送る。頑張れ
これは、もっとあとまで観たから気づいたことなんだけれども、この構図もこのドラマの重要なテーマで、「あなたのことは、きっと誰かが応援している」ってことなんだよな。熱心に前だけを向いて走っているから気づかないかもしれないけれど、あなたの後ろには大勢の人たちがいて、あなたを応援している。あなたは決してひとりじゃない、だから安心していい。
以下はみね子がゴール地点に戻ってきたところで妄想してしまったことなのだが、この大会に出てくる大勢のエキストラの中には撮影協力している撮影地の人たち(すげーアバウト!)もきっといたに違いないと勝手に決めつけていて、その人たちが撮影前に集合をかけられ、監督から大まかな段取りを聞かされ、各々の「演技」という名のたのしい時間を過ごした。
撮影が終わって、制作陣や出演者からの挨拶も聴き、みんなで和気藹々と帰り、それから何日も何日もその話を繰り返した。「有村架純ちゃん、かわいかったねえ。顔こんなに小さいんだもん。やっぱり女優さんだわあ」「佐久間由衣さんも、もんのすごいべっぴんさんだったなあ。サインもらっておけばよかった」「三男くんやってた子もハンサムだったし」「○○さんとこのばあちゃんなんかセリフまでもらって、有村架純ちゃんと話しているのがそのまんま放送されたんだから、うーらやーましーい!」とかなんとか。
それからだいぶ時間が経っていよいよテレビ放送の当日ということになって、「その回」を観てみたら、画面の隅に写った自分たち――あ、ほら! あそこにいた! え? どこどこ?――が、物語の一部になっているのに気づいて、唯々たのしかったという感想に、誇らしい気持ちまでもがくわわった。あ、なんかおれ/わたし、端っこのほうだけどちゃんとドラマん中にいる。おれ/わたしは、あのとき、ほんとうに三男くんや時子ちゃんやみね子ちゃんを応援していたんだ。ほんとうに、「頑張れ」って言っていたんだなあ。ああ、このドラマに出られて、ほんとうによかったなあ。
……というような妄想をしていたら、そこにもじいんとしてしまって、関わった人がみな誇らしく思えるドラマだよなこれは、と自分の妄想の自画自賛みたいなことまでしていた。
ところで、聖火リレーのイベントを案内するためにみね子たちが掲示板に手作りのポスターを貼るところがあったのだが、その隣には「リヤカー借します」と書かれた張り紙がしてあるのにたまたま気づき、「むむむ」と唸ってしまった。もちろん美術スタッフの誤記ではあるまい。ここらへんの文字遣いの大らかさが時代をうまくあらわしているように感じられた。
余談だが、小学生の頃、近所の図書館に冷水機(足でペダルを踏むか飲み口そばのボタンを押すと、冷えた水がピューッと出てくるやつ)が置いてあったのだが、そこの近くに「冷い水あります」の案内書きがあって、子ども心に「なんと読むんだろうなあ」と首をひねったものだ。それが間違いというわけじゃないけれども、当世なら「”正確”な送り仮名ではない!」とすぐツッコミが入るだろうし、表記の多様性もなかなか認められないだろうから、このような例はほとんどなくなっているかもしれない。

で、木曜日。「たった一話で終わってしまってさみしいなあ」と思っていた聖火リレーだが、結論から言うともう一度繰り返された。しかしそれは、ニュースの一部としてテレビ放映されたものをみね子・時子・三男の三人の家族たちが集まって観る、というもので、単なる繰り返しに堕さない、それどころか、田舎ではなく都会の視点からあらためてとらえなおすというところに、ユーモアとほんのちょっぴりとした毒気があって、このアイデアには参った。
しかしまあ、このお茶の間の風景が実にいいのだ。ナレーションによって持ち上げられたり貶されたりするのに対して喜んだり腹を立てたり。で、放送が終わってしまったら、さみしいような、なんだかものすごく期待していたものに対してあてがはずれたような、そんな放り出されてしまったよう気持ちをあらわす間(ま)が一瞬だけその場を支配して。
この記事のはじめの方に、奥茨城村の聖火リレーを「『オリジナル』からしてみれば『モノマネ』のようなもの」と書いたが、まさしく東京のテレビ局は「まがいもの」と見なしているわけだ。
これは、青年団を説得しようと三男が、自分たちの境遇を涙ながらに訴えたのに対し、兄貴の太郎に「ひとこと物申す」とやり返されたの構図と少し似ている。ただ、今回の「東京の視点」には当事者性がないので、等位ではない。むしろ、これから村を出て行こうという時子・三男(そして結果的にみね子もそうなのだが)を、東京がどのように迎えるかのひとつの象徴でもあるわけだ。自分たちが特別なもの・大切なものと思っていたものが、他者(=東京)から見ればそうとは限らないことを、東京に行く前から少しだけわからせる、そのような演出意図もあったように思う。
しかし――これが非常に重要なことだが――そのような無意識の悪意のようなものに村の人たちが打ちのめされるわけではなく、そんなもんだっぺ、東京から見たら、と軽々と割り切り、「でもたのしかったっぺ?」とたのしむべきをたのしむ、としたところが、やっぱり「泣くのはいやだ、笑っちゃおう」の精神なのだと思う。
このあとみなで軽食をたのしむ場面まで含めて、ほんとうにすばらしかった。東京の人たちから見ればなんでもないものでも、やはり奥茨城村の人たちにとっては心から大切なものなのだ、と逆説的に描写されていたのだから。
そのあとは、ついに東京でのオリンピックが開催されるところまで描かれる。昭和39年のオリンピックのほうだ。
なお、朝ドラ『ごちそうさん』が放送されたとき、そのあまりにもありえない美食っぷりに対して「ありえなかったものを、さもあったかのように描き、みじめで貧しかった過去を理想化・修正しようとするプロパガンダ的意図があるのではないか」と書いたことがあって、それはいまでも疑っているところがあるけれど(そうでなければ脚本家の頭がお花畑なのだろうが、その脚本家とはいまの大河ドラマの脚本家なわけで、『直虎』において「過去」や「歴史」がどのように描かれているか、ということで間接的に判断することも可能なのかもしれない、僕はくだんのドラマは観ていないけれど)、実は、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに対する気運を高め、ついでに家族やふるさとを大切にしようという伝統的保守主義によるプロパガンダ的意図は、むしろこの『ひよっこ』に見出すことのほうが容易なのだ。
いや、それだから否定しようというわけではもちろんない。反対に、仮にそのような制作背景があろうとも、こんなにいいドラマをつくってくれていることを感謝するだけだ。

金曜日。まさに三男じゃないけれど、聖火リレーの余韻に力が抜けてしまってなんとなくぼうっと観てしまう回。
ここらへんでついでに忘れないように書いておくけれど、オープニングもめちゃくちゃすばらしい。日常の細々とした雑貨をいろいろなものに見立てて、そのなかに聖火リレーがあったり、バスが走ったり、これまでドラマ内であった場面がさりげなく描かれている(ライン工場らしきものもちらっとある)。であるからして、銀座の服部時計店がライトアップされたりする場面やみね子(あるいは時子?)がネオンに彩られた夜の街に心を奪われるような場面も、今後出てくるのかもしれない。

土曜日。いい意味で垢抜けない雰囲気も持っているんだけど、なにせやたらと手足の長いところが現代的な千代子が家出をする。彼女が怒っているのは、子どもだからという理由で、自分の父親が失踪してしまったという重要な話題から、自分が疎外されてしまったことなのだろう。その態度を見たみね子が、自らが大人としてどのように振る舞うべきなのかということを決心し、母と祖父に対して東京に出稼ぎに行くことを告げる。
ただの気まぐれからではなく、家庭の経済状況を鑑みて出ていかざるを得ないという現実は、これまで丁寧に描かれてきたために視聴者にとっても重く響く。だから、みね子の「わたし、決めたんだ」という言葉のせつなさが、胸に刺さる。
というわけで、次週の「旅立ちのとき」につづく。

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第1週の感想について書いた「ん? これってかなりいいんじゃないの?」という予測というか期待は訂正する。かなり、じゃない。最高に、いい。

現在、第6週をリアルタイムで追っかけているところだが、とりあえず簡単に振り返りつつ記録しておこうと思った。
まず、第2週「泣くのはいやだ、笑っちゃおう」。
三男の案で、奥茨城村で聖火リレーの企画をしている一方で、みね子の父ちゃんが行方不明になるという週。
次週、次々週……と展開を知っているいま観返してみても、やはりわくわく・どきどきしてしまう。ひとつひとつのシーンの描写が丁寧で、登場する人物がみな生き生きとしていて、ほぼすべての人たちに愛着が湧く。
正直に「ほぼすべて」の例外を書けば、松尾諭だけはまったくもってなんとも思わないし、できれば出てもらいたくないほど。それと、(録画の都合上、どうしてもチラと映ってしまう)次番組はじまりの有働由美子の、いかにも「いままで観ていました」みたいな表情にもうんざりしている。ここ数年とみに感じられるNHKの内輪感がすべてここに象徴されている気がする(別段きょうに始まったことではなく、ずーっとそれをウリにしていることも知っているが)。いやだねえ。

峯田和伸演じるムネオが、登場した当初はいかにも親父の古谷一行と確執がありそうなものを、それがまったくなくて、あるいは谷田部家にトラブルを持ち込んでくるかと思いきや、それもまったくなく、どころか、美代子(木村佳乃)が夫の実(沢村一樹)を探しに東京に行くということを相談する段には、ほんとうに親身になってくれるやさしい義弟を好演しており、そのやさしさにやはりぐっと来てしまうのだった。そして、その人生観というかやさしさの根拠がどうやら戦争帰りにあるらしい、というのが、なんというか、時代設定に対して誠実という気がする。
ここ最近の朝ドラで戦争を直接描写したものについても、脚本家たちが浩瀚な資料に当たったことは想像に難くないが(そうでなければ、「戦争を知らない」世代が軽々に戦争を描こうと思えるはずがないのだから!)、しかし、どうしても悲惨さを十倍二十倍に希釈したような括弧つきの「戦争」にいい加減さや底の浅さのようなものを感じてしまい、だったらそんな時代設定を避けりゃいいのに、と思うことがまことに多かったのだが、もしかしたら制作側には、「戦時中を描けば感動モノになりやすい」みたいな安っぽい打算があるのかもしれない。
そういう安直な手法で描出される「戦争」よりも、ムネオの背中の傷に無言で語らせる、というやり方のほうがずっとエレガントで実(じつ)があるように感じられる。

実が帰ってこないことをまずムネオに相談するところでは、木村佳乃の迫真の演技によって、谷田部家の抱える不安が文字通り真に迫ってくるのだが、けれどもそこでシリアスになりすぎず、ムネオが「(もし実が見つかったら)一発殴るよ、おれは」と美代子とじいちゃんを少しだけ笑わせるところが、好きだ。
このようなシリアスで終わらせずに、どこかユーモアを交えて場面を終える、という描き方がこのドラマでは(少なくとも第6週までは)通底しているようだ。これとよく似た演出方法につい最近接したことがある。こうの史代『この世界の片隅に』である。
あのマンガは、戦争そのものを描いているのにもかかわらず、その一方で戦時中の「生活」をも同時に描いているという点に特に優れた部分を見いだせるわけだが(本心を吐露すれば、それ以上に、作者の詩的表現があのマンガの最高で最良の部分だと思っている)、それを成り立たしめているのがユーモアであって、どれだけ辛く苦しいことがあっても、物語の軽重のバランスを取るように、ちょっとだけユーモアが用意されている。
戦争はそんなもんじゃないよ。誰かが傷つくってことは、誰かが死ぬってことは、そんな帳尻合わせがいくようなもんじゃ、決してないよ。と、そういう意見があろうことは理解できる。
けれども一方で、どこかに救いがなくては人間は生きてはいけない。それは作中人物とて同じことで、辛さ苦しさの底でのたうち回っているままでは彼/彼女は救われない。ちょっとした救いが、ちょっとした笑いが、生き残った者たちを明日に一歩だけ進ませる。あのマンガの最後の一ページが、ユーモアと希望に満ちていることに、僕は救われた。物語のなかの生きている人たちもまた救われたことだろう。

深刻であること・悲惨であることのみをもって良質のものとし、喜劇的要素が少しでも入ってこようものならそれは一段下がったところに置かれるべし、なんていうのは近代ブンガク的価値観であり、都市伝説みたいなものだと思っている。もはや現代においては、世俗性や諧謔と深刻さは同居しうるということは当たり前となっており、本作『ひよっこ』も、このまま行けば、その好例のひとつとして映像の歴史にその名が刻まれることだろう。
「泣くのはいやだ、笑っちゃおう」というのは、きっとこの週だけのテーマだけではないはずだ。

ところで、この週のハイライトは、実を探しに東京に行った美代子が、警察署で泣きながら夫を探してくれと訴えるところだろう。こんな熱演を、朝ドラで観ることができるとは眼福の至りである。
そしてその後、美代子はすずふり亭を訪れて、やはり宮本信子と佐々木蔵之介の親切すぎるといっていいほどの応対を受け、挙げ句の果てには上野駅にまで追いかけてきて「せっかくのご縁じゃないですか」と言って一緒に夜食を食べるわけだが、ここでもぐっと来ないわけがない。
このすずふり亭のふたりのやさしさ・善意というものが、ある意味ではこのドラマの象徴でもあると思っていて、1週の感想のときにも書いたが、西岸良平『三丁目の夕日』と地つづきの世界なのだ。
気持ちのよい人物たちが幾人も出てきて、その人たちは、ただただやさしい。いろいろな物語に毒された現代の視聴者であれば、そういうものを一種の幻想と即断してしまいがちではあるが、それでも少なくない人たちが、このドラマを観て感動していると思う。
それは、安直にエピソードとエピソードを結びつけて強引に展開しようとは決してしない丁寧な脚本、および、手抜きが見られない細部や小道具に代表されるまったく弛緩していない制作陣の緻密な演出、また、役者たちのしっかりとした基礎の上に成り立っている演技力や、あるいは、古き良きアメリカンポップス・マナーを踏襲した桑田佳祐の主題歌(素人的私見として大滝詠一オマージュなのかな、なんて思ったりしている)などがあってのこと。それらのすばらしい複合藝術として、このドラマは存在しているのだ……などとかなり前のめりに高評価してしまっている、きょうこの頃なのであった。

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NHKの朝ドラ『ひよっこ』が始まった。
第一週を観終えて、ひさーしぶりに、観つづけてみようかなと思えた。これまで朝ドラにはさんざんと失望させられてきたから、「絶対観よう!」とまでは言えないのだけれども、それでも、「ん? これってかなりいいんじゃないの?」と感じている。それでも「いまのところは」だなんて留保はつけてしまうのだけれど。

まあ最初はこのドラマ全編にあふれる「かわいい」について書いておく。
有村架純は、これまでかわいいお嬢さんというイメージしかなくてほとんど興味が持てなかったのだけれど、頬にまでかかっていた髪を上げてついでに額まで見せたら、なんとまあ。劇中「たぬき」という表現があったが、まさに僕の好きな下ぶくれのたぬき顔。
そのたぬきさんが、いい意味で非常に朝ドラのヒロインらしいヒロインを演じてくれている。しかも訛って。厳密にいえば異なるのだろうが、僕は東北や北関東の言葉の響きがたまらなく好きなので(これは男女いづれがしゃべっても同様)、それだけでぐっときてしまう。ありがたやありがたや。
同級生のふたりもかわいい。時子(佐久間由衣)と部長(泉澤祐希)。 いや、部長ってのは役名じゃねーんだけんどもよ、前に『オモコー』ってドラマがやっていたことあって……知ってっか? そう、そのドラマんなかでよ、この泉澤ってのが、合唱部の部長さんの役さやってたことあってな、んでな、そのときの印象がかなりよかったもんだからよ、いまだに部長っておら呼んでんの、でもよ、はじめてこの泉澤ってのを観たのはよ、NHKの『ロング・グッドバイ』でよ、小雪のところの小使をやっていてよ、おら初めてその顔見てよ、なんかうしろの百太郎みてーな顔してんなー、って思ってよ、だからなーんか親近感があるっていう、そういう思い入れみてーなもんが、このわらすにはあんのよ。
時子もかわいいのは当たり前なのだが、初回と、それから3回目か4回目くらいに、朝、みね子(たぬき)が自転車に乗って「おーい!」と手を振りながら時子のうちにやってくるときに、その時子が、(内実嬉しそうに)「毎朝会ってるのに、なーにがそんなに嬉しいんだか」というセリフがあって、特段ものめずらしいものではないかもしれないが、僕にはものすごくいいセリフに感じられた。
二回目のそのセリフがあったとき、そのみね子の嬉しさは、東京に出稼ぎに行っていた父親が稲刈りのために帰ってくることによるものもあったのだが、この場面に限らず、一週目全体に流れる、なんの事件も起こらないまったくもってのどかな感じを、「ああ、いいものだなあ」と思うか、それとも「なんだか退屈で古臭いな」と思うかで、たぶんこのドラマの評は分かれると思う。
僕は、多くの朝ドラを「退屈で古臭いし予定調和で芸がないうえ芝居も下手で演出も手を抜いていやがってまあ観られたもんじゃないな」と見切ってきたが、今回のドラマの一週目に対してはなぜか、「いいもんだなあ」と好々爺のように目を細めて観ている。

気に入っている理由のすべてではないが、映像がきれいだなと感心することが多い。稲刈りのときなどは特にそう感じられたが、あの一連のシーンでの主人公は、人間ではなく、自然だった。
カメラが捉えているのは広がる里山と田園風景で、そのなかに愛すべき人物たちが慎ましやかに配置されていた。おそらくこれは、ヒロインたちが東京に行ってからのちに、より効果を発揮するようになるシーンで、何度も何度もこの心象風景に立ち戻ってくる演出がなされるだろうと思う。
それと、一週目を観ていて西岸良平の『夕焼けの詩』(いわゆる『三丁目の夕日』。子どもの頃からコミックに接している身としては『夕焼けの詩』というほうが実感が湧く)をよく連想した。映画の『ALWAYS』ではなく、あくまでも『夕焼けの詩』のほう。映画のなかで六さんが堀北真希というのは驚きはしたものの好ましくとらえられたが、しかしスズキオートの社長が堤真一ってのは……昔から原作を読んでいる人間からすれば別物として観るほかないっていう仕打ちだった。ああいう配役ができてしまう感性の雑さからは、雑で安直な表現しか生まれないと思っていて、これみよがしの「昭和30年代ノスタルジー」を直接的に刺戟しようとする意図は、映画をとても安っぽいものにしていたと思う。まあ、あくまでも別物ととらえればそう腹も立ちゃしないが。
で、『ひよっこ』で連想したマンガ版の『三丁目の夕日』だが、これはほんとうにいいマンガで、大学生くらいのときだったか、ある回を読んでいて、誰も悪人が出てこないのにストーリーが成立していることに新鮮な驚きを覚えたものだ。そして同時に、そういう表現は簡単に見えて実はものすごく難しいのだろうとも思った。
この『ひよっこ』というドラマも、派手な事件はなくてもいいから、「ああ、いいなあ」とずっと思えるものになってくれればいいかな、といまは控えめな期待をしている。「なーにがそんなに嬉しいんだか」というセリフが、そんな予感を僕に感じさせてくれたのだ。

東京は赤坂の宮本信子の洋食店で、みね子の父親役の沢村一樹がハヤシライスを食べて感動をする。それを見た宮本信子は、帰り際の沢村にポークカツサンドをお土産に持たせる。「東京を嫌いにならないでくださいね」という言葉を添えて。
ずるいだろう。 沢村一樹は特別なにかをしたってわけじゃない。ただ隠すことのできない素朴な人柄で、うめえなあ、田舎(「クニ」と言ったかもしれないし、そっちのほうが正確だろう)の子どもたちにも食わせてやりてえなあ、みたいなことを言っただけである。
たったそれだけなのに、宮本の目配せに、シェフの蔵之介が「あいよ!」みたいな感じでお土産を用意してくれたのである。
観ていた僕は、んなことあるわけねーじゃん、と実際声にも出したが、それでも心はじいんとしているのである。なんだこりゃ。でも、こういう話は、『夕焼けの詩』にもときどきあるのだ。
決して豊かでない人たちが、ちょっとした人のやさしさに触れ、あたたかい気持ちになる。そういう物語に触れた人間にも、そのあたたかさが伝わる。
かつて、安房直子『まほうをかけられた舌』(1971)を読んだときにその主人公たちがみな貧しいことにあらためて時代というものを感じた、ということを書いた。珍しく我田引水してみよう。
思えば、私の子どもの頃に読んだり、聞かされたりした昔話なんていうのは、基本的には貧しい人間が主人公だったのだが、おそらく最近では、そういうのは「暗い」ということで流行らないのだろう。安易な「キャラクターもの」で横溢している印象の昨今の子供向け市場だが、「貧しさ」なんて存在しないという認識の子どもを育てたいのか、あるいは、大人自身がそういう認識なのか。
翻って、最近の朝ドラ(『あまちゃん』以降に限って)はどうなっていたのか。

朝ドラ主人公の属性早見表
放送期間タイトル主人公の家庭環境物語開始時の時代設定
2013年前あまちゃん海女の孫娘
2008年(平成20年)
2013年後ごちそうさん東京の洋食店の娘
1922年(大正11年)
2014年前花子とアン貧しい小作農家の娘
1900年(明治33年)
2014年後マッサン造り酒屋の息子
1920年(大正9年)
2015年前まれ無職の娘
2001年(平成13年)
2015年後あさが来た豪商の娘
1865年(慶応元年)
2016年前とと姉ちゃん工場の営業部長の娘
1934年(昭和9年)
2016年後べっぴんさん商社の創業者の娘
1934年(昭和9年)
2017年前ひよっこ農家の娘
1964年(昭和39年)

まったく観ていないものもあるからWikipediaで確認した情報をもとにつくった。特に「物語開始時」をどう考えるかで数字は異なってくるが、あまり深く考えないことにした。
『あまちゃん』以降、『まれ』と『花子とアン』を除けば貧しい家庭はなく、どころか、スーパーリッチも含めた富裕層階級がたびたび描かれているのが特徴的だ。この「特徴」については、上記のようなやっつけ仕事ではなく、きちんとした研究者がおそらくは真面目に論攷しているのではないかと思う。
ともかくこういった歪な偏りの背景になにがあるのか、あるいは、ないのか、等の推察は頭の片隅に置いておいて損はないだろう。それにしても、『おしん』が記録的視聴率を誇った時代は遥か遠くになりにけり、だな。『おしん』、僕は観ていないけれど。

また、この場面で、僕自身がハヤシライスを初めて食べたときのことを思い出していた。
中学生の頃かそれとも小学生の高学年くらいかで、そのとき母がつくってくれたのを、はじめはカレーだと思って食べたらまったく別種の味がして(いわゆる「外の味」だった)、ものすごく感動した記憶がある。いまから思うに特別な料理ではなかったろうと思うが、そのときの「なにこれ? おいしい!」という感じは、まさに沢村の「うめえなあ、うめえなあ」とぴったり合致する。
僕の食事のレベルが子どもの頃から上がったとはまったく思わないが、それでも、ときどきは洒落た店に行って澄ました顔でワイングラスを傾けたりはする。しかしこれまで、子供の頃にハヤシライスを食べたときのような感動をしたことはないし、これからもきっとないだろうと思う。
誰かがアマゾンレビューかなにかで、アガサ・クリスティの名作について、「この本をまだ読んでいない世の中の人たちに嫉妬します。だって、まっさらな驚きと衝撃をもってページを読み進めて行くことができるのですから」みたいなことを書いていたが、それと似たようなことだと思う。あのときのハヤシライスは、真っ白なページにはじめて書き込まれた絵のようなものだった。いまどれだけ高いお金を払っても、そのページを上書きすることしかできない。はじめて描かれた絵に対する感動は、もう味わえないのだろうと思う。

それと、このハヤシライスとポークカツサンドのやりとりで、以前ラジオで聴いたあるリスナーの思い出話も思い出していた。といっても、かなりうろ覚えで、かつてブログに書いていたことがなかったかとちょっと検索してみたのだが、見つからない。やっぱりきちんと記録しておくべきだった。
たしか、戦中か戦後直後くらいの話で、ある人(女性)が小学校で遠足に行ったときに、同級生があんパンを半分割って分けてくれた。そのとき、あんパンなんてものを初めて知った彼女は、ちょっとだけ食べて感動し、そのほとんどを残して紙に包んで家に持って帰り、母親と妹に食べさせてやった。
母親も妹もそのときはじめてあんパンを食べて、ふたりとも「おいしい!」と喜んでくれた。
「まるで自分自身が褒められたように感じられて、そのときの嬉しさはいまでも忘れられません」
ディテールは忘れてしまっているが、話の核は誤っていないはず。いい話だな、と思う。

などと、褒めてばかり来たが、三点だけツッコミを入れておく。
ひとつは、みんなかなり歯が白い。殊に沢村一樹に関しては異常なくらいに白い。個人的に審美歯科のスポンサーがついているのかっていうくらいに白くて、さすがに黒くしろとは言わないけれど、もうちょっと自然な白さが望ましい。
もうひとつは、方言フェティシズムをたのしみつつも、茨城言葉って、もう少し激しいのかもしれない、というところ。というか、方言――特に昔は――っていうものは、通常それを聴いたことがない者にとっては「え? え? 聞こえなかった。なんて言ったの?」っていうくらいのものだと僕は思っていて、その仮説に対して、『ひよっこ』の訛は、訛っているということはわかるが、しかしそれでも意味は全然通じてしまうし、全然聞き取れてしまう。
唯一、峯田和伸のムネオのしゃべりは、半分くらい「ん?」という感じがあって、ものすごくいい。調べると、この人、山形の出身で高校まで山形にいたみたいだから、正確な茨城言葉かというのはともかく、言葉のニュアンスの発し方みたいなのが自然なのだと思う。
自分の言葉ではないのだから難しいとは思うのだが、より本物に近いずーずー弁になってくれると、おじさん嬉しくて悶絶してしまいます。
最後、増田明美のナレーションはいいのだが、ひとつだけ、ムネオが初めて登場したときに、「朝ドラってヘンなおじさんがよく出ますよね。なんででしょうね?」みたいなメタ的な内容のコメントがあったけれど、ああいうのはかえって物語の枠組みを矮小化するので、やめたほうがいいと思う。
物語全体にも言えることなのだが、まっすぐ、大きく、のびのびと行ってほしい。
 
とまあ、いまのところではあるのだが、かなり『ひよっこ』に対する期待は大なのであります。そうそう、稲刈りの稲架掛けのところで『いつでも夢を』がまた唄われていた。 また、っていうのは『あまちゃん』でも唄われていたから。『あまちゃん』以前、僕にとってはサントリーのウーロン茶の中国語版のイメージが強かったんだよな。それが、『あまちゃん』でイメージの上書きがなされた。
この『ひよっこ』でもふたたび唄われる場面があるのだろうか。もしあるとすれば、それはきっと重要な場面なんだろうな。 

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「うーん?」という感じが強まる。 2話目にしてすでにストーリーが失速している感じがあるのだ。
前知識をまったく持たないまま観始めたので、だいたいの設定とか展開をまったく知らない。4人が演奏家ということも知らなかったほど。そのため、ストーリーの求心力が奈辺にあるのかがわからず、初回に想定した、松たか子の夫失踪事件→連続殺人?→犯人は誰か、みたいなサスペンスが主軸でラブコメ要素は付随的なものというラインは、もしかしたらまったくの見当違いだったのかもしれない。

そのほか、いろいろと問題がありました。

個人的に他人の恋愛話に興味がないせいか、今回の松田龍平を中心とした恋バナには心がまったく動かなかった。風見さん問題もある。
風見さんはドラマ『逃げ恥』のキャラクターだが、扮する役者の演技が下手でまったく感情移入できなかった。あのドラマをすべて観終えて、彼がもう少しまともだったなら、あるいはもっとうまい役者が演じていたのなら、僕はもっと風見さんに感情移入できたし、その恋の行方にもう少し身を入れて注視することもできたのではないか、という疑念をいまだ払拭できないままでいる。
松田龍平にも同じことを感じ始めている。好きでもないし評価もしない役者が演じるキャラクターは、おそらく脚本以上(以下?)に低く評価してしまいがちだ。僕にとって松田龍平は、松田優作と熊谷美由紀の息子という以上のなにかになったことがない。世の中に役者は大勢いるというのに、なぜ彼を起用するのかを理解した瞬間はいままで一度もない。

今回、高橋一生はほとんど活躍するところがなかったが、寸劇しているときの髪型・表情にバナナマン日村との相似問題。
また、マミーDのでかい車に高橋一生を乗せたが、まあこれからピクニックに行くという様子にも見えなかったから借金とかかな。『夜のせんせい』でも高橋一生は借金をしていたな。

すずめちゃんはともかく、まきさんも不思議ちゃんで、松田龍平もわりあい不思議ちゃんっぽさがあって、主要キャラクターの3/4が不思議ちゃん問題。なんかこういうのって、脚本家の女性趣味みたいなものを疑ってしまう。
実はNHKのドラマ『トットてれび』を録り溜めしたまんまにしているのだが、はじめ少し観て、満島ひかり演じる黒柳徹子の奇矯っぷりが辛くて辛くて、そのうえ脚本の粗っぽさが引っかかって今日まで鑑賞し終えていない。
黒柳はともかく、男の描く「奇矯な女性」というのを女性はどうとらえるのだろう。
僕はときどき男女逆転というものを考えてみるのだが、出演する男性キャラクターがみな不思議ちゃんだったら、とてもじゃないけれど観ていられない。「お話」というのは理解したうえで、それでも受け容れがたいものはある。

菊池亜希子(八木亜希子とのW亜希子だ!)が証明するショートカット最強問題。

タイヤ(≒現実生活の象徴)について話すのを「つまらない男」と批判する人間(別府くん)が『人魚対半魚人』を大切にする、という描写が「うわ~、『サブカル層』ウケよさそう~」と苦笑してしまった。やたらとゾンビ映画推しする男子、とか、春画大好きアピ女子、とかがあるんだったら、タイヤについて語る男女も認めてくれよ! おれはすべて興味ないけど。
宇多田ヒカルの『Keep Tryin'』をはじめて聴いたとき(2006年頃らしい)、
「タイムイズマネー」
将来、国家公務員だなんて言うな
夢がないなあ
「愛情よりmoney」
ダーリンがサラリーマンだっていいじゃん
愛があれば
という歌詞が鼻についた。当時はまだ宇多田に対して批判的な感覚というのを持っておらずむしろその歌詞には好ましいものばかりを感じていたが、この部分にだけはイヤなものを覚えた。なんで「将来、国家公務員」だと夢がないのか。御身は「アーティスト」であらせられる宇多田による「サラリーマンだって」の「だって」の部分には、蔑視感情が多少含まれていると感じないわけにはいかなかったし。
「タイヤについて話す男はつまらない」と「国家公務員には夢がない」とには、通底しているものがあるように感じられる。僕は、タイヤのことしか話せない男も、幼稚さに引きこもって『人魚対半魚人』を面白がっている男も否定はしないけれど、けれども両者は同じ地平に等価値に配置されているべきだと単純に思っている。登場しないからといって片方が「手近なチェーン店」に喩えられてしまうほど、もう片方ははたして魅力的なのだろうか。それはただの脚本家の「趣味」だったり「自己弁護」だったりしないのか。
【今週のハルキくん】
すずめちゃんと別府くんがコンビニに買い出しにいくところ。
す「猫好きなんですか?」
別「ハリネズミ、かわうそ、猫の順で好きです」
「アリクイ、しろくま、猫の順です。3位・3位ですね~」
「3位・3位ですね~」
サンドウィッチマンの富澤と八木亜希子と吉岡里帆だけが心のオアシスとなりつつある。

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さっとメモ。

基本、満足&期待大。その上での以下。
わたくしイチオシの俳優、高橋一生、満島ひかりが主演クラス。そして松たか子(彼女の芝居は、野田の舞台『贋作 罪と罰』以来だと思うのだが、いまちょっとネットで調べたらもう11年も前の話……ってほんとかよ)。ここでもう僕のなかでは大三元なんだけど、松田龍平でちょっとケチがつく感じ。で、実際に始まるとやっぱり彼は『あまちゃん』のミズタクとおんなじで、観ていられないというわけではないけれど、残らない。まさかヴァイオリンの弓(bow)に掛けてあえてボウ読みをしているのかと一瞬疑ったが、まさかね。
「まさか」で思い出したけれど、「人生には3つ坂があって、上り坂、下り坂、まさか」っていう昭和の結婚式のスピーチみたいなのが決め台詞として出てきて、多少辟易した。
役者の芝居はいいし、つい引き込まれてしまうのだが、どうも脚本がすんなりと頭に入ってこない。難解というのではなく、むしろ書割的というか、上のような古臭い部分も多く感じられるし、あと村上春樹の影響がでかすぎる気がするんだけど、どうなんだろうか。
  • 「音楽ってのはドーナツの穴のようなものだ」
  • 「あー、みぞみぞしてきた」 「みぞみぞって?」「みぞみぞすることですよ」
なんていうのはそのまんまハルキの作品にあっても全然不思議はないという気がするし、
  • 平熱が7度2分ある人は、首元からいい匂いがする
  • 東北ではトマトに砂糖をかける
  • あしたのジョーの帽子
みたいなフレーズ・仕掛け・装置もやっぱりハルキ的だと思う。
あと、いちばん違和感を覚えたのが、壁に躊躇なく鋲を刺せるがどういう人間だとか、唐揚げにレモンをかけることについて黙っていれば夫婦じゃないとか、そういうかなり安直で一方的な価値判断が議論の場の意見を支配してしまう、という設定があまりにも予定調和にすぎるように感じられた。
反対に言えば、上記を言いたいがために、高橋一生はベンジャミンさんのチラシを持って帰ってきてわざわざ家の中で貼ろうとしたのだし、あるいは、唐揚げの皿に1/4レモンを4つ配置した、と言えてしまうのではないか。特に、はじめの唐揚げのくだりがとても面白かっただけに、ちょっと残念。
男が道を歩いていて、バナナの皮に滑って転ぶとする。腰をさすりつつ立ち上がりながらバナナを拾った男は、「人生とはバナナのようなものだ」というセリフを発し、それが物語のなかで重要なメッセージとなる……という筋書きがあったら、おかしいだろう。バナナがあまりにも唐突じゃありゃしませんか、とも言えるし、バナナの皮くらいで人生を喩えるなよ、とも言える。
これはもう好みの問題になってくるのだと思うが、ある人物たちがあって、あるシチュエーションがあって、ある事件や事故などがあって、そういう諸々に配された変数がすべて同じだと仮定して、100回その場面が繰り返されたら、100回すべてが同じ結果になる、というのがエンターテインメント系の考え方。それに対して、100回ごとに異なる結果に至る、というのが純文学系の考え方だと思っている。
であるから、エンタメはある程度の予定調和を排さないし、リアリティと言われるものの一部を放棄する場合がある。それはそれで構わない。が、程度が過ぎれば、気に障る。
第1話で判断するのは早計なので、ここらへんについては、しばらく様子見。上に書いたことは、「いまのところは」という留保つき。だいたい物語の全体がまだ見えていないし、マミーDの説明もまったくなかったからね。

以下、さらに余談。
楽器を演奏する演技のことを「あて弾き」とでもいうのかわからないが、わざとかっていうくらいにみんなうまくない。それを菊地成孔がラジオで「あれはわざと下手にやっていると思いますよ」と断言していたが、その理由は謎。
吉岡里帆、が元地下アイドルという設定で出演していて、面白く感じられた。
俳優については、まったく不満がないので、あとはストーリーが面白くなっていけばいいなあと思っている。明日からつづきを観る予定。

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1話を観て、すげー文句言って、それっきりにしておいたのを9ヶ月ほど経ってから観て、なおかつ感動したのでどうしてもそれを記録しておきたいっていう姿勢は、ネットにおける当世の一般的な態度――情報の正確さなんてものは二の次でとにかくなるべく早く新鮮なものにキャッチアップするというそれ――とはかなり距離があるが、まあ若人でもない僕はそんなことを気にもしないのだけれども。

すべてを観たのちの感想を思うがままに書くのだが(とここまで書いてさらに2ヶ月経ってしまった……)、まず思ったのは、この「ゆとり世代」の設定っていうのは、もしかしたら半沢直樹を書いて世にバブル世代の矜持というものを示したかった池井戸潤へのアンサーだったのかもしれない、ということ。僕自身はこういう「世代感」というものにまったく共感を覚えられない点は1話への批判として書いたのと同じで変わらないのだが、けれども池井戸の作品の一部には「世間ではバブル世代って悪く言われるけれどおれらは一所懸命だったんだ」というひとつの弁明の意図があったわけで、クドカンはクドカンなりに、「バブル組の弁明があるのなら」ということで、当事者ではないくせに「ゆとり世代」の弁明を意図したのではないか、と思う。

物語は、特に前半、各話の終わりで次の大きな問題が提示され、そのいちいちが重く、かなり本格的な側面を持っていた。たとえば第1話の終わりで自殺したかと思われた部下は実は生きていて、しかしそれを心配して病院に駆けつけた主人公の坂間くん(岡田将生)は、(部下とは別人だったのだが)実際に仕事を苦にして自殺した人間の母親(真野響子)と知り合う。ここには、「コメディだから」とか「ドラマだから」みたいな言い訳はまったく用意されておらず、きちんと(もちろんそれはフィクションの範囲内ではあるが)真正面から問題を取り上げていた。
そのほかにも、SNSと現実における自己の乖離、社内告訴、学習障害(LD)、国籍問題、不妊、離婚した家族における子どもの精神発達、就職氷河期、などが取り上げられていて、すくなくとも「ファッション社会問題」としてではなく、物語上の展開の必要性と絡めていたが、とはいえそれらは、全体をとおしてみればやや散漫としていたという批判は免れないだろう。
たとえば学習障害に触れ、受け入れる学校環境側の未来に対して期待しているという描写をするほどであれば、最終話の性教育の際、思春期を子どもたちへ教えるときの「男の子は男らしく、女の子は女らしくなる」みたいな説明の仕方にはもう少しLGBTの存在に寄り添ったエクスキューズが必要だったろう、というのは最新の知見に触れていればごく当然に出てくる疑問だ。また、不妊のプレッシャーについて悩む坂間くんの兄夫婦(高橋洋&青木さやか)が、最後あっさりと妊娠してしまうことで、「妊娠しなかった夫婦のその後」をまったく描かなかったことに、ちょっとしたご都合主義的ニュアンスを感じとらざるをえなかった。
このように、ひとつひとつの問題じたいはとても重いものではあるものの、(作者の意図はさておき)結果として小さな装置として機能するだけのものも少なくはなかった、という指摘はできる。できるが、それはドラマの良さに較べれば瑣末なことだ。

まず、このドラマは役者の演技を死ぬほど堪能できる。
堪能しすぎて、最終話が終わって喪失感がしばらく抜けなかった。生活のふとしたおりに、「あ、宮下あかねちゃん、もういないんだ」とか「まりぶがにやにやしているところをもう観られないんだ」なんていう感慨がふと浮かんで、鼻の奥が熱くなってしまったことは一度や二度ではない。
DVD出ているのかなあ、とアマゾンで検索して以下の画像が出てきたときにゃあ、もう胸が詰まってしまって……。
yutori
突き詰めりゃ、この3人が笑って話していて、そこに安藤サクラのあかねちゃんがいりゃもうじゅうぶんなんだよね。こんな感情がどうして生じたのかはよくわからない。僕自身にこういう時代があったわけではないし、どっちかっていうと価値観も異なると言ったっていい。けれどもこの3人(+1人)が演じきった4人のもがき生きている姿は、その切実さにおいて僕自身の過去の一部をさえ見せてくれたように感じられたのである。

岡田将生の坂間くんの必死さはほんとうにすてきだった。彼のことはほとんど知らず、はじめはずいぶんとハンサムな子だなあというふうに思ったのだが、このドラマを観ている最中は、彼に対してスマートとかハンサムなんていう形容は思い浮かびもしなかった。お人好しで一所懸命な青年を好演していた。

童貞の山路を演じた松坂桃李だが、この作品で僕のなかの松坂桃李評は完全に定まった。この若い役者はうまい、ということだ。以前からそうではないかとは睨んでいたのだが山路の役で決定的になった。滑舌良く早口でまくしたてる場面が幾度も出てきたが、そこをきちんと演じてみせることによって、俳優としての基礎的技術があるということを証明してくれた。
なお、彼に絡んだ女優ふたりはふたりとも魅力的で、LD児童のお母さんは本ドラマ最強の色気を放っていたし、実習生の吉岡里帆は、配役の人物は好きにはなれなかったが、女優自身には今後にめちゃくちゃ期待する。朝ドラの主演を何年かのちにやりそうな気もする。ちなみに吉岡を気に入った最大の理由は、Wikipediaで以下の記載を見つけたから。
上京資金を貯めるために2015年3月まで約1年間滋賀県大津市の大津プリンスホテルにアルバイトとして勤務し、クロークや配膳などの職務に携わり接客を学んだ。
滋賀ってのがいい。

安藤サクラは、なんなんだ、ってくらいにうまかった。うまい、という言葉が失礼にあたるくらいだ。彼女の演じた宮下あかねという人物はどこかに実在している生身の人間、という感触がドラマをたのしんでいるあいだずっと離れなかった。
ぼそぼそとしゃべってそれでリアルであるとするような演技ではなく、ダイナミックで感情の起伏の激しい人物を演じながらも、そこにはすべて彼女の持っている「本当らしさ」が通っていて、たぶんそれは細かな表情や仕草、振る舞いの積み重ねが鑑賞者にそう感じさせるのだろう。彼女がにやにやと笑っているときは、にやにやと笑っている演技をしているように感じられるのではなく、本当ににやにやと笑っている感じがするのだ。

まりぶの前に、ぜひ山岸にも触れておきたい。大賀。最高だよな、っていつも思う。ハズレの演技を観たことがない。必ずしも目立ったところに配置されるわけではないけれど、でも製作する人たちはとっくに彼の実力を知っているのだと思う。
桐島のバレー部の補欠(だったっけ?)もよかったし、夜のせんせいのニセ不良もよかったけれど、今作の山岸は、少なくとも現時点での彼の最高到達点だと思う。「パワハラだよ!」と逆脅迫するときのいやらしさと、先輩の坂間に叱られて「はじめて叱られて、ちょっと嬉しかったです」と心情を吐露する素直さとが同居しているいわば真正のゆとり世代。坂間世代すらが「ゆとり世代」と少し小馬鹿にするような世代の代表者として好演どころか熱演をしていたが、僕としては彼の心情の不安定さがとても印象に残った。
クドカンは、「ゆとり世代」とは言いつつ坂間世代を理解できる世代として認識していたか、あるいは自分たちと同じ感覚を共有していると思っていたのではないだろうか。そして、彼にとってなかなか理解がしがたい「ゆとり世代」の象徴が山岸だったのではないか。
ちなみに。前述したとおり、ミスをしてでんでんの会社に謝りに言ったときに坂間が山岸を叱り、そこで「はじめて叱られて、ちょっと嬉しかったです」みたいな感動を見せるものの、その後それがパワハラだったと社内で訴え、坂間にとってもたいへんな問題になるのだが、僕は、叱られたときの山岸は、そのときはほんとうに改悛し感動したのではないか、と感じた。
感じやすく心を動かされやすいことと、利己的行動に走り究極的な個人主義を貫こうとする態度は、山岸という人物のなかでは地続きで連続性があるのだと思う。過剰な行動をとるものだから戯画的な人物ととられやすいが、実はリアリティあふれる人物なのではないかと思う。これは、ネットで散見される若い世代の言動をわづかながら観察したうえでの私見でしかないのだが。
とにかく、山岸が新店長となったあとも、バイトリーダーに叱られたり発注をミスしたり、と目が離せない。僕にとってはかわいくてかわいくて仕方のない愛すべき人物となっていた。

で、まりぶ。ふた月ほど前に観たものだからけっこう忘れてしまっているのだけれど、このドラマのなかでは、彼の言ったセリフがいちばん心が動かされた。もちろん、突然涙をあふれさせて吉田鋼太郎に「なんで謝んだよ!」と怒鳴りつけるところなんか最高だった。「あふれる」という言葉がぴったりの感情の動き。観ている側の心が動かないわけがない。
でも、少しヒネているかもしれないが、僕のなかの最高のまりぶのセリフは、「おっぱいいかがですか、そろそろおっぱいなんじゃないですか?」じゃなくて……、童貞の山路と話しているとき、山路が「でも女って、ヤれば変わるじゃん」ってな話からセックスをしたことによって変わってしまう女性の怖さ・いやらしさを滔々と語るのだが、それを聞いたまりぶが「変わんねーよ?」とあっけなく言うところ。
ここ、ほんとうにあっけなくさらっと言っていたのだが、ものすごく言外のものを感じ取ってしまったのだ。変わるわけねーじゃん。人間ってさ、そんな単純なものなわけねーじゃん。そんな単純なものであってたまるかって話だよ。僕には、まりぶがそう言っているように思えた。山路の幻想は、それはそれで可愛らしい。それをつまらない視点から即座に否定するのではなく、受け止めつつ、おまえが思っているほど人間はつまらなくないよ、と諭すようなやさしさが感じられたので、それをぼうっと観ていた僕は、突然打たれたように感じ入ってしまったのだ。クドカンの脚本もいいのだが、柳楽優弥の演技がすばらしかったのだろう。言わなかったセリフまで聞こえてしまったのだから。

もうひとつすばらしいセリフというかシチュエーションがあった。
このドラマのなかで唯一ド下手と言ってかまわないAKBの女の子が演じる坂間くんの妹。その子が生まれるというので、幼年時代の坂間っちが「どれにしようかな」で女の子の名前の候補を選んでいく場面。「ど・れ・に・し・よ・う・か・な、か・み・さ・ま・の・い・う・と・お・り」の「いうとおり」が幼くて言えないために「ゆ・と・り」となってしまって、それで彼女の名前は「ゆとり」となった、というところ。
これは、「クドカンはなあ……」と嫌いながらも『あまちゃん』を観ていて、『潮騒のメモリー』の「三途の川のマーメイド」が「三代前からマーメイド」となったときの、あのグッときた感じ(もうちょっと言うと、グッとさせられた感じ)に相当するものがあった。すばらしい仕掛けだった。

わりあい急転直下型でこのドラマは終熄を迎えたのだが、最後に出てきたメッセージは「赦し」だった。
山路が性教育のシーンで説明するように、他人の失敗を赦せる大人になってほしい、というのは陳腐かもしれないが、非常に説得力のあるセリフだった。
好きではない人を好きになってしまう、というのは、物語上の関係性についての言及でもあると同時に、昨年の頭くらいから世間がバカみたいに批判していたなんとか不倫の問題を想起させた。すくなくともテレビのメディアはあのバカ騒ぎを反省していないはずで、つまらない正義感をふりかざすことの正当性というのはいまだに視聴者の多くと結託して共有しているのかもしれないが、このドラマは、無粋にならないレベルで、世間の愚かしさというものをやんわりと否定したのではないかと思う。
酔って上司とうっかり寝てしまったあかねちゃんも、何度も離婚した吉田鋼太郎も、いっときは坂間くんを脅した山岸だって、赦されている。これは、単純な予定調和ではない。「世間」の常識に一石を投じる、いわば挑戦的な赦しだ。僕はそれを評価したい。

全回を一度きりしか観ておらず、なおかつ観てからふた月も経ってしまっているので細部についてはかなりあやふやだが、このドラマは必ずもう一度観るつもり。そして、夏に放映予定のSPにそなえる。どんなに忙しかろうと、夏までは死ねない。

編集
いまさらながら観始めていて、いま第4話まで来た。みくり「恋人をつくろうと思いますが、考えた結果、ひらまささんにします」というところで終わる回。
やらなくちゃならないことが多いのですごくさらっと書いておくと、観る前には絶対萌えると思っていたガッキー、というか、ガッキーに萌えるために観ようと思っていたのだが、いざ蓋を開けてみると、まったく萌えない。どころか、このみくりさんという人物が大っ嫌いだということがわかった。まあ、ドラマを観ているとだいたいの女性キャラクターをキライになる、っていうのはよくあることなのだが。
で、石田ゆり子は……やっぱりうーん、という感じ。流行っていた当時は、「○○歳とは思えない!」なんていう褒められ方をしちゃっていたのかもしれない(というかそういうフレーズを実際目にした)けれど、ふだんからあんまりそういうところを気にしたことがない――つまり、年齢のわりに若い!とか、そうでないとか――僕は、フラットに見て、女性としてそれほど魅力的には思えないというのが正直なところ。容姿が整っているために彼女のセリフや存在感に重みがあるのだとしたら、それはキャラクターの魅力じゃなくて、石田ゆり子の魅力だろうから。
同じ理窟で、みくりさんが、ガッキーじゃなくても好きかどうかっていうと、ガッキーの容貌をもってしても「こんなやつ、どーでもいーや」と思ってしまうのだからなあ……。これ、つづきを観ていくと好ましく思えるんだろうか?

じゃあまったく観る気がしないかっていうと、そんなことはなくて、星野源がめちゃくちゃかわいいから観ている。愛されない感じ、とかすごくよくわかる。ふんぎりをつけるために、もういっそ手放しちゃえばいい、とか。
あとは、古田新太と藤井隆のところがおもしろい、っていうのがなんとかドラマの推進力になっているのかな、というふうに見ている。それ以外の場面は、僕にとってはけっこう中だるみに感じてしまって、まだるっこしい。というか、全だるみのなかにポイントポイントで「お」と思えるところがあって、なんとか観つづけられるというのが現在までのところ。
風見さんとか、申し訳ないんだけど下手くそすぎて、観ている側が素に戻っちゃうんだよな。ガッキーも、特別うまいっていうわけじゃないから、星野源との対話なんかだとなんとか立脚していられるものを、風見さんとふたりで話していると、けっこうきつい。なので、このドラマを観るときは必ずアルコールを入れるようにしている。たぶんシラフだと電源オフにして終わりにしてしまうから。

どうしても杏&ハセヒロの『デート』と比較してしまうのだけれど、丁々発止という言葉がまさにふさわしかったあちらの脚本とくらべて、こっちの脚本はどうも隅の隅まで締まっている感じがしない。たとえば、風見さんに対してイケメンイケメンと臆面もなく連発するみくりさんだけど、これって、男女逆転させたら、けっこういやらしい男じゃない? 美人に対して「美人はいいですよね」ということを連発する男って、意図的であれば当然気持ち悪いし、無意識であっても、なーんか気持ち悪いものを感じる。わざわざそんなこと面と向かって言わねーよ、っていうのが僕の感覚なんだけど、そっちのほうがおかしいのだろうか。もちろん、みくりさんを自信満々に口説き気味の風見さんは男女をどう入れ替えたって気持ち悪いんだけど。
あと、いろいろなテレビ番組のパロディをやるにしたって、ちゃんとやりきったほうが面白いと思うんだけどなあ。情熱大陸はTBS系だからちゃんとロゴまで使って窪田等つかってやっているのに、ビフォーアフター(テレビ朝日)のパロディでは加藤みどりを使わなかったのに、なんだかなあ、と思ってしまった。「他局」だから? 視聴者にとっては知るかそんなもん、だよね。
あと、『奥様は魔女』をはっきりと言及してしまっていたのは野暮ったかったなあ。で、エヴァは言及しないんだよね。ここらへんに、振り切れていなさを感じてしまった。
あと、キャストの8割が不満。風見さん、石田ゆり子の部下たち、ガッキーの幼馴染等々……なんか、一定基準すら満たしていなくて……ヒットして注目浴びたかもしれないけれど、今後は辛いだろうなあ。あと、新垣結衣というタレントはキライではないからけっこう大目に観ているけれど、みくりさんは、『精霊の守り人』をやっている綾瀬はるかに対する「うわあ……」という気持ちといまのところはあんまり変わらない、ってことは書いておくことにする。

まあとにかく、いちおう主人公はガッキーなはずで、彼女の一人称的独白部分は多いのだけれど、でもやっぱりその彼女がどうしても空虚に思えてしまって、これが工夫の凝らされた演出のせいで、もしかしたら、回を重ねることによって感情移入できるようになっていくのかもしれないが、いまのところは、あまり期待できない。でも、つづきは観ることにする。
なんだかんだいって、でもやっぱり星野源はかわいいよ。

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去年の春のドラマ『ゆとりですがなにか』の録り溜めしたやつをいまごろ見ている。
毎回どきどきした状態のままドラマのエンディングを迎えると、その直後に必ず同局の別の日のドラマ(『世界一難しい恋』とかいうやつ)の番宣が入っていて、それが波瑠と嵐のリーダーがどうやら主人公の恋愛ものっぽいのだが、どうにもこちらの見る気をわざと起こさせないような雰囲気がぷんぷんと臭ってくる感じなので、いつも鼻を鳴らして「停止」ボタンを押すのだが、おととい、『ゆとり』のほうの第6話か7話かを観て「おお」となって、それからまた番宣の波瑠が出てきて「けっ」となって、そこで停止ボタンを押したら、画面に柳楽優弥と波瑠が一緒に登場してなにやら仲良さそうに話しているのを観て、「え? え? え?」となった。柳楽優弥は『ゆとり』で、波瑠は『世界一なんちゃら』だろ? え? え? え?
ほんとに一瞬なんだかよくわからなくなってしまったのだが、これはつまり、いま現在、NHKの金曜のドラマ10で、柳楽優弥と波瑠が共演しているっていうただそれだけの話なのだ。
たまたま9ヶ月ほど前に毎週日曜に日テレの『ゆとり』を観ていた人なら、「あれ、なんか既視感のある組み合わせだけど、なんだっけなあ?」と首を傾げる程度なのだろうが、僕のようにいまさら録画物を観ている人間は、「すっげー奇遇!」となったことだろう。まあ共感してくれる人間は日本中に3人くらいしかいなさそうだけど。

で、『ゆとり』のほうの柳楽優弥は客引きをやっていて、「おっぱいいかがですか、おっぱいいかがですか」ばっかり言っている。それ以外のセリフもけっこう(というかかなり)いいことを言っているんだけど、いざ彼を思い出すと「おっぱいいかがですか、そろそろおっぱいなんじゃないですか」と言っているイメージしか浮かばない。その柳楽優弥が、あのお嬢様然とした波瑠と談笑なんかしつつ「つきあってもらえるんですか?」などと言っているところを観ても、どうしても「騙して店で働かすんじゃねーの?」とかしか思えない。
とは言いながらも、ほんとは『ゆとり』の柳楽優弥は大好きで、まあそのことを書く日がいつかあるかもしれないね。

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年末は三谷作品にどっぷりという感じで、年が明けてから軽い喪失感。
とはいっても、『真田丸』ではない。あれは大坂城で哀川翔と岡本健一とがやたらと幅を利かせて「ザ・学芸会」をかましてくれたので辟易し、ついに我慢ができなくなってネットに避難していた際に、たまたまYouTube上で舞台版『ラヂオの時間』を観たのであった。いまこれを書いている現時点でも、『真田丸』は残り2回を残して未見のまま。うーむ、興が削がれすぎてしまったんだよなあ、あの2人のせいだけで。
それはともかく、『ラヂオの時間』が予想以上に面白かったのでほかになにかなかったかと検索してみると、『王様のレストラン』がヒットした。第1話から最終話の第11話まですべてあって、それぞれ2回~3回観た。
1995年のリアルタイムでは家族が観ているものをちょこちょこと覗くといった程度で、本腰を入れていなかった。いまになってその家族に訊いてみると、両親にしても弟にしてもやはり本腰を入れて観ていなかったようで、特に弟はギャルソンやコック連中の態度がどうにも好きになれなかったということを言っていて、それを聞いてたしかに僕も、稲毛(梶原善)や梶原(小野武彦)らが松本幸四郎演じるギャルソンに陰で文句を言っているという点に苛立ちを覚えてなんとなく距離を置いたことを思い出したのだ。

といっても時は20年以上経ち、それなりに感ずるところも変っているであろうと観てみたわけだが、これがとても面白かったのである。
とりあえず観終えて日も浅く役名を書くほうがラクなので、参考となるよう役名/俳優名をリストアップしておく。
  • 千石 武 - 松本幸四郎
  • 原田 禄郎 - 筒井道隆
  • 磯野 しずか - 山口智子
  • 三条 政子 - 鈴木京香
  • 水原 範朝 - 西村雅彦
  • 梶原 民生 - 小野武彦
  • 稲毛 成志 - 梶原善
  • 大庭 金四郎 - 白井晃
  • 和田 - 伊藤俊人
  • 畠山 秀忠 - 田口浩正
  • 佐々木 教綱 - 杉本隆吾
  • ジュラール・デュヴィヴィエ - ジャッケー・ローロン
  • ナレーション - 森本レオ
当時を知る人にとってはなんとも懐かしい顔ぶれということになろう。和田役の伊藤俊人はすでに故人となっているし、そのほかにも、自らがそのキャラクター演技に縛られ飽きられてしまった者(僕の印象では三谷組はそういう人たちが多い)、スキャンダルによってあまりその名前を見なくなってしまった者、代替する役者に取って代わられてしまった者、などもいないわけではないが、しかしこの当時はまったく輝いていた。この作品になぞらえて言うならば、「誰かが言った、すべての舞台には光がある、と。このドラマには、いわゆる奇跡が詰まっていた。脚本家は脂が乗っていたし、役者たちは、その誰もが、掛け値なしにぴかぴかに輝いていた。まるで、まだ誰も使っていない厨房のように(森本レオ)」ということになる。


松本幸四郎はまぎれもない日本の伝統文化の担い手の中心人物であり、そのような人間をこともあろうにフレンチレストランのギャルソンに据える、というのはいまとなればものすごい奇策のようにも感じるが、どうあれ、それは最高のマリアージュとなった。彼の持っている独特なブレスの使い方があまり類を見ない間(ま)をつくりだし、エレガントかつコミカルなキャラクターを形成させた。彼のいない『王様のレストラン』は考えられないし、またこの作品を観た者は、彼の役者人生のなかに千石という役名が大きく刻まれているのを見るはずだ。

オーナー(ロクロー)を演じる筒井道隆は、20年前はどうにも好きになれなかった。優しすぎてただのマヌケに見えるし、彼の一本調子のしゃべり方も気に食わなかった。それが、いま見ればなんとなく許せるようになった。思えばこの「優しさ」というのは三谷作品にはけっこう見られるもので、いまより若い頃の僕には優柔不断のようにも映ったのだ。そして、優柔不断は僕にとっては非常な悪だった。
いまでも優柔不断は好きではないけれど、それでも「そういうこともあるかもね」という一定の理解を持つことはできるようになったし、そもそもこのロクローというのは優柔不断ではなく、情の深い芯のある人物だということもわかった。ただ、底抜けにお人好しだったわけだが。そんなキャラクターを愛せるようになったというのは、僕にとってはちょっとした驚きで、嬉しくもあった。
後に詳述するが三谷の作品には、日和見主義だったり、すこし意地悪だったり、裏表のある人物が出てくることがある。しかし、彼らは底の底では悪人ではなく、どこか愛すべきところが残されている。少なくとも作者はそう思って人物をつくっている。たしかカート・ヴォネガットが父親に「おまえはほんとうに悪い人間を描くことができない」と言われたと記憶しているのだが、三谷にもどことなく同じ言葉が言えそうだ。そしてまた、ロクローのみんなに対する優しさは、上に挙げたような小人物たちの救いにもなっている。そういう意味で、このドラマのシンボルにもなっている存在なのだと気づいた。

シェフ(しずか)の山口智子はとてもキュートで、同じような言葉を重ねてしまうがとにかくまあチャーミングなのだ。
女性でいえば、三条さん役の鈴木京香は対照的に美人で、自ら「愛人顔」と称し、実際に愛人役でもあるのだが、こちらはごくごく一般的な恋愛をしていると感じてしまう。こんな美人だったらまあ愛されるし、くわえて当人も他人に優しいのだから、それってつまりあまり変化球のないストレートな恋愛だよね、と憧れを抱きながら思うわけだ(鈴木京香は鈴木京香で、他には得難い個性というものを魅せていることは註記しておくけれど)。
けれども千石に対するしずかの言動っていうのは、男子学生のファンタジーみたいなところがあって、あまりにも天衣無縫でうぶでそのくせ天邪鬼で、観ているとこちらが赤面してしまう。これは万人の好むものではなく、なかにはものすごく嫌いという人もいるだろう。だが僕の場合はいまだにティーンエイジ・スピリッツを抱えて生きているので、ああいうのは全然アリなのだ。

他を一挙まとめて書くと、メートル(梶原)の小野武彦と、コミ(和田)の伊藤俊人、パティシエ(稲毛)の梶原善と、スーシェフ(畠山)の田口浩正は、先に書いたような小人物ということになる。それぞれが心中で相手を見下してはいるもののなにかというと結託をし、すぐれた者や意識の高い者の足を引っ張ろうと躍起になる。
しかし第6話で、梶原(小野武彦のほう)が別れた妻に、ほんとうはメートル・ド・テル(食堂主任)なのに見栄を張ってディレクトール(総支配人)だと嘘をつき、それによって大混乱が起きるという回がある。これぞシチュエーションコメディの見本というような大傑作回で、結局はすべて露見してしまうのだが、そこで梶原の元妻が千石に、「どうしてみんな梶原の嘘につきあったのか?」と問う。このときの千石の答えがなかなかいい。
「彼には、人を不愉快にさせない人柄というものがあって、それは、ギャルソンにとってなにものにも代えがたい宝物なんです」
そして最終回の第11話でも、このベル・エキップの面々をナレーションが紹介するとき、梶原・和田のコンビを指して「愛すべきメートルたち」と言っている。
しずかに惚れていることが最大でもしかしたら唯一のモチベーションであるパティシエもスーシェフも、お世辞にも誰もが好きになるようなキャラクターとは言えない。でも、三谷は暗に「日本人ってだいたいそんなもんじゃない? 真面目で、立派で、どこに出したって恥ずかしくないような人って、逆にいる?」と問いかけているような気もする。別に彼がそんな発言をしたという記憶も記録もまったくないのだが、しかし彼の描きたいのは、完全無欠の高邁な人格の持ち主などではなく、それよりは、いろいろと欠点はあるけれど、どこか愛すべきところが残っている人物、なのではないだろうか。彼の優しさは、そこをすくい上げたいのではないか。

ソムリエの白井晃には、少し変った立ち位置が用意されていて、かなりおいしい役どころだ。自尊心が高く物知りでちょっと気障だが、最終話で千石にまたベル・エキップに戻ってこいと言ったのはオーナーのロクローを除けば彼が最初だし、自分の考えをきちんと明言し、周囲を叱咤するときもあれば(第10話)、そうかと思えば「同僚を裏切ることはできない」とある意味同志であるオーナー&千石組に反抗することもある(第4話)。それだけならかなり完全無欠のソムリエになってしまうが、音痴だったり真面目がゆえの失敗などが用意されているので鼻持ちならないやつとは受け取られない。白井自身は、この役どころのイメージがあまりにも定着してしまって困ったことはなかったのだろうか、とこちらが心配してしまうほどだ。


と、わざとここまである人物に触れないで書いてきたが、そこに行く前に、「もし2017年に『王様のレストラン』をリメイクするのなら」という設定で、頼まれもしないのにキャストを考えてみた。ことわっておくが、かなりの自信作である。
重複すると煩瑣なので、左にわかりやすい役名/呼称/役職と、括弧書きで名前や渾名、右に新キャストを配した。
  • 千石さん - 堺雅人
  • オーナー(ロクローさん) - 東出昌大
  • シェフ(しずか) - 長澤まさみ
  • 三条さん(マーシー) - 吉田羊
  • ディレクトール=ソウ支配人(ノリトモさん / のりたま) - 松尾スズキ
  • かじわらさん(くどいようだけど、おれ「かじはら」だから。間違いないでくれる?) - 生瀬勝久
  • パティシエ(稲毛) - 濱田岳
  • ソムリエ(大庭さん) - 山本耕史
  • 和田くん - 野間口徹
  • 畠山 - 松尾諭
  • 皿洗い(佐々木くん) - 細田善彦
  • デュヴィヴィエ - 特になし
  • ナレーション - 窪田等
ちょっと注釈を。
まず千石には、やっぱり『真田丸』における演技で僕のなかで急激に株の上がった堺雅人を任せたい。松本幸四郎とはタイプがまったく違うけれど、それはそれでどういう表情を魅せてくれるのかたのしみ。次点で長谷川博己。彼は『デート』でみごとコメディを演じてくれたし、もともとスマートな感じなので、エレガントさについては問題なく表現してくれるだろうと思う。
オーナーは、東出昌大。身長と棒読み感がぴったり。
シェフは、 長澤まさみかなあ。これもやっぱり『真田丸』の印象が強くて、かのドラマでは一年を通して(といっても最後の2回は未見だけど)ほぼ一度として美人という扱いを受けてこなかったという事実に、資生堂のCFだかに出演しているのを観て愕然として気づくという逆説的な認識をしたわけだが、まあこういう役どころを受け容れられるというのは将来がたのしみである(小者ほど、役柄についてあーだこーだ言いそう)。次点で優香。これはやっぱり『ちかえもん』の印象。かわいらしくて優しくて、でも気が強くて、ものすごく魅力的だったもんなあ。
三条さんは、吉田羊。当時の鈴木京香よりは年齢が上かもしれないがどうせ年齢非公開(なはず)だし、美人だからよしとする。次点は若い頃の和久井映見。いまでもとても素敵で、僕個人としては露ほどの不足もないけれど、とりあえず「若い頃の」という条件を付しておく。こっちは『デート』や『ちりとてちん』での印象がある。
かじわらは……え? あ、かじらね。わかったわかった。かじはらは、生瀬勝久なんだけど、あれ? 生瀬って一回梶原やっていなかったっけ? ってくらいのハマリ役な気がする。 次点で近藤芳正。95年版にはゲスト出演しているけれど、あの頃よりさらに味が出ていると思うから十二分に演じられると思う。
パティシエは濱田岳。濱田岳はきちんとその演技を観たことはないんだけど、まあ背が小さいところが採用した一番の理由。東出と反対だね。
ソムリエは山本耕史。といっても、石田三成の印象からではなく、『夜のせんせい』の、外面は怖いけれど中身は抜けているヤクザ、がとても好演だったため。
和田くんは野間口徹。メガネだから。
2番シェフの畠山は、なんといっても松尾諭。以前から言っているが、少し前まで田口浩正が独占していた「小太り・メガネ」の枠は、現在すべて彼が総取りしようとしている。
皿洗いの佐々木くんは率直に言って誰でもよかったが、せっかくだから最近頑張っている細田善彦にしたい。
あと、ナレーションは窪田等。任天堂のCMをやらせている場合じゃない。日本の宝やで。


で、ここでもやはり触れなかったのが、つまり僕が最大のお気に入りのキャラクターである、水原範朝または「のりたま」、あるいはディレクトール、a.k.a ソウ支配人だ。
95年のリアルタイムで観たとき、西村雅彦をきちんと評価できる眼を僕は持っていなかったのだと思う。なんだか西村雅彦はまたヘンなしゃべり方してるなあ、辛気臭いなあ、くらいで止まっていたのではないか。
しかししかし、西村雅彦はそんなもんじゃないのだ(ということを、この記事を書く前に弟に言ったら、「そんなのわかってるよ! 西村雅彦、超うまいよ!」って言われた)。彼の実力がいかんなく発揮されるのが第9話。借金を返すために店の売上に手をつけて、しかもそれが従業員にバレてしまい、みんなの前で弾劾されるとき、弟のロクローが必死にとりなすのをよそに、自ら店を去ろうとする。それを止めようとするロクローに対するセリフ。
悪いがおれにだってプライドがある。親父がいた頃は親父にさんざんバカにされてきた。
やっと死んだと思ったら、今度はおまえらだ。いつだっておれはダメな男の代表だ。
ロクローは「そんなことないよ」と応える。
おれを、ただの役立たずだと思うな。運が悪かっただけなんだ。ほんのちょっと歯車が噛み合わなかっただけなんだ。とてつもなく長い厄年がつづいているだけなんだ。
ロクロー「(強くうなづき)そう思う」
ノリトモ「ばか言え、おまえにわかるか」
「わかるよ」
「わかっていない」
「わかってるから、役に立ちたいんだよ!」
おれは兄貴で、おまえは弟だ。おまえから、優しい言葉をかけられるたびに、おれの心はずたずたになっていくんだ。
もう、ここらへんの西村雅彦のセリフの吐き方がものすごくて、というのも全然感情的ではなく反対にまったく抑えたようにしゃべるのだが、かえってその淡白な部分に兄としてのやるせなさが滲んで感じられ、こちらの胸が詰まってくる。これが情熱にまかせて叫んだり、あるいは自己憐憫にひたりきったモノローグに堕してしまえば、視聴者はかえって冷静になってしまう。
強く断っておくが、淡白とはいっても、たとえば上のセリフの「とてつもなく長い厄年がつづいているだけなんだ」の部分は、「とてつもなく、」でちょっと切れて、「長い厄年が~」とつづく。あるいは、「おまえから優しい言葉をかけられるたびに」のところの、「かけられるたびに」も、少しだけ声量が落ちる。これらはおそらく、情感が溢れてきてしまって一瞬だけ言い淀んでしまったのではないだろうか。
また、この回のエンディングちょっと手前で、やっぱりみんなのことを考えて店を去ろうとするノリトモを、今度は千石が呼び止めて説得する。「自分を信じるんです。ノリトモさん、あなた自身が信じてやれなくて、いったい誰が信じるんです」
このあとの西村雅彦は、きちんと松本幸四郎に向き直って、
ふしぎだなあ……、あんたと話してると、親父を思い出すよ
と感に堪えない様子でつぶやくのだが、このときの「ふしぎだなあ」にも、辞書的な意味における言葉とは別に、思わずこぼれてしまった情緒というものが込められている。
これらの表現は、単なる棒読みとはまったく一線を劃すものである。西村雅彦はけっして器用ではないが、けれども感情の込め方がわからないような、そんな二流三流の役者ではない。三谷幸喜は当て書きをするとはよく言われているが、これらのセリフは、西村雅彦の口から出てくることでより強度を持った言葉になっている。
そうなんだよなあ、「とてつもなく長い厄年」というのも、「ほんのちょっと歯車が噛み合わなかっただけ」というのも、ほんとうにあることなんだよなあ。20年が経ってそんなことがじんわりと理解できるようになったよ。
そしてこの場面では、ロクローの優しさが万能というわけではないことをはっきりと描いている。他のスタッフたちの救いとなってきた優しさも、ときに人を傷つけていることがある。それも、いちばんたいせつに思っている相手を。
しかしそこは三谷幸喜、無邪気な善意で失敗して兄に文句を言われても、さらに「覚悟の善意」とでも呼ぶべき優しさで相手を包み込むことで解決させる。互いに理解のできぬまま別れてしまうというのは、リアルなのかもしれないが、カタルシスがない。プロセスはリアルであってもよい。あーだこーだと登場人物が視聴者を引きずり回し、感情をぐらぐらにさせたっていい。けれども、われわれが最終的にドラマに求めるのは、なんだかんだいってカタルシスなのだ。最後までぶちまけっぱなしの物語なんて、誰が必要とする?
ディレクトールのノリトモは、運がなくて、頭もそれほど切れるわけじゃなくて、小心者で、小ずるくて……、けれども、そんな彼にも陽の当たる日が来る、というのがこのドラマのクライマックスだと僕は感じた。なんといったって彼も、こと動物に関しては優しいし、動物を愛する者に対してはロクロー並のお人好しを見せる。彼こそ、このドラマのほんとうの主人公なんじゃないかと感じた。よく、「本当の主人公は○○だ」と指摘して得意げになっているやついるけどね。


もう書きたいこともだいぶなくなってきた。
あ、新版(って勝手に名づけちゃっているけど)キャストのディレクトールが松尾スズキってのもいいでしょ。これはもちろん『ちかえもん』での好演が頭に残っていたから。なお、このドラマ(『王様のレストラン』のほう)に興味があればVHSなりDVDなりをレンタルして観るべきだと思う。YouTube上にアップロードされている動画はかなり音質・画質が悪いので、かなり苛々することになるからだ。
ドラマ全体については、格別の言葉をくわえる必要もないだろう。脚本や配役やその演技だけでなく、構成、演出、音楽など、どれをとってもたのしめる箇所が多い。特に音楽であるが、服部隆之のサントラは一聴どころか所有する価値あり。アマゾンレビューには、「人気があるようなので」結婚式用に購入した、というレビュアーが、「(あまりにもいいので)ドラマのサントラにしておくには、もったいない」と書いていたが、こういうのを厚顔無知というのだろうな。違う違う、そうじゃ、そうじゃない、という90年代的ツッコミをした御仁よ、わかってま。けれども、無知は無恥であり、それをさらけだすのはやはり厚顔なのだ。まあ、この人間はドラマを観ていないでそう書いているのだろうね、というところで筆を止めておくが。
構成といえば、やはり最終話で千石が戻ってくることを決めたセリフに、物語上ずっとつかわれていた「あの表現」を持ってくるなんて、と思い出すだけでしみじみしてしまう。
そういえば僕のアルバイトしたことのあるイタリアン・フレンチのシェフは、けっこう「あの言葉」を多用していた気がする。書き言葉ではよくつかわれるけれど、口語ではあまりつかわれないものだからとても印象に残っていて、「ああ、『王様のレストラン』の影響かな」と思ったものだ。影響といえば、千石が一度ベル・エキップを去るとき、すべてのテーブルの準備をし、すべての鍋をぴかぴかに磨いておく、というのがあって、あれは一度真似をしたいと思っていたが、ついに叶わなかったな。いざやるってなると、「めんどくせーし、まいっか」となった。
話を戻すと、この記事においても「その言葉」はあえてつかわずにここまで来た。とても気に入ったドラマに対して精一杯の愛情を表現したいのに、この言葉をつかわないことがどんなにたいへんだったか。それでもそこそこの記事が書けたのではないかと自負はあるのだが……、それもついに解禁だ。ん?


この記事が「そこそこ」ですって? ふふ、ご冗談でしょう。
この記事の書き手は、ドラマへの愛情とやらを示すためにいろいろと書いていますが、そのどれもが冗長で、これでは読んでいて退屈してしまう。
また、「ぼくのかんがえたさいきょうのきゃすと」をつくるのも結構ですが、脚本家の他の作品に依拠してばかりで、オリジナリティが低すぎる。
そして構成。文章というものは、はじめから整然と論理立てられて書かれるべきものであり、進んでいくほど濃密になり、また感動があるべきです。最初からあっちゃこっちゃに話が飛んでしまっては台無しです。
 要するにこの記事は、「そこそこ」にも程遠い、「そこそこ」を気取っているだけの、最低の記事です。最低の。……がしかし、最低ではあるが……ドラマはほんとうに、すばらしい!

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