とはいえ、わからないでもない

カテゴリ: 言葉

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花梨さんのところで面白く読んだ記事(限定公開)。
そこに少しコメントを書いたのだが、それのちょっとつづきを思いついたままに書いてみる。

なだぎ武と友近のネタで、「ディランとキャサリン」というのがあったけれど、あれっていまだに元ネタを全然知らないのだがものすごく面白い。面白いだけではなく、ものすごい技術に裏づけされていてなんど観ても「すげーなー」と感心する。 
彼らが吹き替えの物真似という着眼点を持った時点ですでに、フィクションの世界で外国人のしゃべる日本語のおかしさに気づいていたわけで、この発見は、「~だわ」や「~だぜ」が多用される翻訳文での違和感と通底している。
上掲動画がいつまで有効かはわからないけれど、いちばんわかりやすいところで、「ディラン・マッケイ」という自己紹介の部分ですでに、通常の話し言葉としての日本語とは異なる言語をしゃべっている。
語尾を「~だ」で終わらせるやり方は、ふつうの感覚からすると口語というよりは文語(書き言葉)であって、これを話し言葉のなかに取り込むことによって、わかりやすい形――すなわち「片言の日本語」の話者としての外国人――ではなしに、このディランという人物が外国人であるということを示唆しているのがすごい。
(なだぎの金髪の髪型や古臭いファッションは、安直な外国人イメージの誇張表現であって、「似せる」というのとはむしろ反対のベクトルを持っている)
ただ「外国人を物真似しなさい」と言われたとき、多くの人は「ワタシハ、でぃらん・まっけいデス」みたいな口調を真似するのではなかろうか。つまり、単純に発音の問題として外国人の表現を試みるのである。
それをなだぎらは、日本語は日本語としての発音のまま話すものの、その内容におかしさ・奇妙さを持ってくることによって外国人を表現しようとしていて、そこに彼らの炯眼を感じるのである。
その内容のおかしさ・奇妙さをあらわす手段のひとつが、吹き替えの持つ「書き言葉感」の強調だ。ディランの「そのとおり」とか「いちいちそんなことは説明しなくていいん」なんていうのは、まさしく翻訳語の持つ「硬さ」であって、日常語であれば、「そのとおりだ」とか「いちいちそんなことは説明しなくていいいんだ」としゃべるほうが自然である。
そのうえで、漫才を演るということになって、わざと片言で「イヤア、ワレワレモコウヤッテ漫才ヲヤラセテモラッテイルワケナンデスケドネ~」としゃべるところなんて、二重のパロディをやっていることになる。
ツイッターなどでプロの翻訳家が、翻訳文において女性の語尾(「~だわ」とか「~かしら」)が「いつまでそんな古臭い訳をしているんだ」と論っているのを見たことがあるが、批判して鬼の首を獲った気になるのではなく、その違和感を創作の方向に持っていくほうがよほど建設的だと思う。

上記は、話し言葉の中での書き言葉の面白さだけれど、話し言葉の中で話し言葉を徹底させる、というやり方もいくつかある。
これまでに何回か書いてきたが、チェルフィッチュの舞台は『三月の5日間』しか観ていないけれど、たとえばその脚本はこんなふうになっている。
男優1 (観客に) それじゃ『三月の5日間』ってのをはじめようって思うんですけど、第一日目は、まずこれは去年の三月の話っていう設定でこれからやってこうって思ってるんですけど、朝起きたら、なんか、ミノベって男の話なんですけど、ホテルだったんですよ朝起きたら、なんでホテルにいるんだ俺とか思って、しかも隣にいる女が誰だよこいつ知らねえっていうのがいて、なんか寝てるよとか思って、っていう、でもすぐ思い出したんだけど「あ、昨日の夜そういえば」っていう、「あ、そうだ昨日の夜なんかすげえ酔っぱらって、ここ渋谷のラブホだ、思い出した」ってすぐ思い出してきたんですね、
男優1  それでほんとの第一日目はっていう話をこれからしようと思うんですけど、「あ、昨日の夜、六本木にいたんだ」って、えっと、六本木で、まだ六本木ヒルズとかって去年の三月ってまだできる前の、だからこれは話で、ってところから始めようと思ってるんですけど、すごい今って六本木の駅って地面に地下鉄から降りて上がって、それで上がったら麻布のほうに行こうとか思って坂下るほう行くじゃないですか、そしたらちょうどヒルズできたあたりの辺って今はなんか歩道橋じゃないけどなんて言うかあれ、一回昇って降りてってしないと、その先、西麻布の交差点方面もう行けないようになっちゃったけど今は、でもまだ普通に一年前とかはただ普通にすごい真っ直ぐストレートに歩いて行けたじゃないですか、っていう頃の話に今からしようと思っている話は、なるんですけど、そっちのほうになんかライブハウスみたいのがあって、そこにライブを見に行って、っていうのから話のスタートは始めようと思ってるんですけど、それで、それがすごいいいライブだったんだけど、っていうこととかを話そうと、あとは、あとはとか言って、ライブのあとでそこで知り合った女のコがいて、その日はだからなんかそのあとその女と、いきなりなんか即マンとか勢いで、しかもナマでヤっちゃったみたいな話とかもこれからしようと思ってるんですけど、その前にっていうかまずそのライブハウスに行ったのが、だから三月の5日間の一日目なんだけど、二人で、その日は男男で見に行ったんですね(このとき、自身と男優2を示すしぐさをそれとなくする)、ライブをその、えっと、六本木に行こうってことになって、っていう男が二人いたんですね、その男二人からのことから始めようとまずは話を、 
これは冒頭だけど、こんな調子が延々とつづく。なお、この文章は白水社の単行本からの引用で、正確を期しているのでタイプミスはないはず。
語順が行ったり来たりするし、副詞の場所がいいかげんだったりするし、繰り返しも多いし、同じ言葉を多用するしで、かなり整然としていない印象を受けるが、それと同時に、「あ、これこそがふだん自分たちが慣れ親しんでいるはずの会話だ」ということもすぐにわかる。

上とはちょっと種類が異なるが、フジファブリックに『若者のすべて』という曲がある。
このなかで、
夕方5時のチャイムが 今日はなんだか胸に響いて
「運命」なんて便利なものでぼんやりさせて
という歌詞がある。ここの「胸に響い」と「ぼんやりさせ」の連続が、文字を読まずに耳だけで聴いていると、非常に落ち着かない。
落ち着かない、というのは文章が終わらないからだ。たとえば上に引用した部分の最後が、「ぼんやりさせ」であれば非常に据わりがよくなる。メロディー的にもここでひとまず文が完結してなんら問題はないはず。けれども、わざとそこを閉じずに文末を「~て」にしたのだろうと思う。
また、そのあとで、
世界の約束を知って それなりになって また戻って
と出てくるが、ここも、「世界の約束を知って それなりになって また戻っ」であれば、据わりがよくなるが、そうしていない。
これは、サカナクションの『ミュージック』におけるサビおよびクライマックスでの畳み掛けるような「~て」の連続とはまた違う趣向だと思う。
フジファブリックのものは、押韻に主眼があるのではなく、詩の言葉を〆させないことでいつまでもふわふわと漂うような浮遊感を演出したかったのではないか。あるいは、「~て」「~て」と言葉がつづく、日常語的な雰囲気を出したかったのか。

話し言葉と書き言葉の関係でちょっと留意しておかなければならないのが、マンガにおけるセリフ。
マンガの場合、登場人物によるセリフであれば話し言葉だと思いがちなのだが、実際に音読してみると書き言葉風、つまり翻訳文的なニュアンスがあることに気づくはずだ。
その一例として、ギャグマンガのツッコミは実際に音読してみるとだいたいダレる。作者は、吹き出しのなかにさえ収まればいい、とけっこう説明ゼリフ的なツッコミを書いたりするが、これは黙読しているから「速いツッコミ」に感じているだけで、声に出すと多くの場合は長すぎてしらける。
うすた京介のマンガ(だったように思う)がアニメ化されたのを、なにげなく観ていたことがあったのだが、前述したように、ツッコミシーンのあまりにもスピード感のなさに、テレビの前にいたたまれなくなってすぐに消してしまった、という思い出がある。
最近のギャグマンガのツッコミは、ボケの力が弱いのを補おうとしているのか、余計に長くてくどい印象がある。

また、話し言葉のなかに書き言葉を入れていく試みとして、(これは創作ではなくなるのだが)一般会話でネットスラングを遣うことがこれから増えていくのかもしれない。
ラジオ番組内で荻上チキがときおりネットスラング(たとえば「お、おう」とか)を遣うのを聴いて、ちょっと恥ずかしくなってしまう部分と、彼が自分のバックグラウンドを恥じない点について感心する部分とで複雑な感情を抱く。
僕自身はそういったことはしないと思うけれど、いまの若い人たちは新たな言文一致に立ち会っているのかもね。


最後になぜ当記事のタイトルが「その2」かというと、四年ほど前に同名の記事を書いていたから。読んでみると、今回の記事と関係あるような、ないような。どっちにせよ、過去のはてなブログでの記事は、妙なリンクがついていたり文の体裁を整えたりするのに非常に苦労する。

【2016/1/29 追記(自分用メモ)】
花梨さんのブログ記事にコメントを書いた。

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むかし、僕にはえくぼがあった。その頃には紅顔の美少年だったので、えくぼがかわいいとよく言われたもんだ。それが、いつのまにかなくなっている。というか、「あ、えくぼだ」と言われることがなくなったし、鏡見て、「にぃっ」と笑うこともないので、実際あるのかないのかわからないのである。ま、あってもなくてもどっちでもいいのだが。

そのえくぼができるときの音を、どういうふうに表現するか。

ぽつん?

ex. 「あ、えくぼがぽつんとできてるよ」……うーん、しっくりこない。「ぽつん」には突起している感じがある。

ちょこん?

ex. 「あ、えくぼがちょこんとできてるよ」……うーん、「ちょこん」は小さいものが乗っかっている感じしかないなあ。

ぽこ?

ex.「あ、えくぼがぽこっとできてるよ」……お、これは少し近い感じ。ただ、えくぼに対して「ぽこ」はちょっと大きい感じがしてしまうんだよなあ。

実例 

正解というわけではないが、読んでいた佐藤さとる『豆つぶほどの小さないぬ』(講談社文庫)に実例が出ていた。コロボックルたちが”えくぼのぼうや”と呼ばれている男の子について話しているところ。
「そういえば、めったにわらわないけど、わらうと、ぺっこり、えくぼができるな」
(89p: 太字強調は引用者による)
これを読んでいて、桂枝雀の『高津の富』のうち、富くじの二番を当てる夢を見たという男が、当たったら新町にいる馴染みの女を身請けしたいと惚気ける場面で、その女のことを、「笑うとえくぼがぺこっ!」と表現することを思い出した。

正直なところを言うと、「ぺこ/ぺっこり」はもうちょっと平べったいものがへこんだ感じがしてしまい、えくぼとはあまりそぐわないような気もするが、おそらく「へこむ」という言葉より派生したであろう「ぺこ/ぺっこり」は、えくぼ表現としては正統なのであろう、ということが察せられる。

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さっき見たYahoo!の記事に、タイトルがこんなふうになっているのがあって気になった。
悲痛

気になったのは、「ジャイアーン!」ではなく、その前の「悲痛」という書き方。「悲痛の声」じゃなくて、「悲痛」どまり。なんか妙な遣い方。いちおう辞書(大辞林 第三版)を見ると、

ひつう【悲痛】

( 名 ・形動 ) [文] ナリ 
いたましいこと。あまりの悲しさやつらさに耐えられないほどであること。また,そのさま。 「 -な叫び声をあげる」 「 -な面持ち」 
などとあるので、「あまりの悲しさやつらさにたえられないほどであること」だと思えば、まあヘンなことはないのだが、耳慣れない・見慣れない言い方だとは思った。

マスコミには独特な言葉遣いがあって、有名な誤用「ゲキを飛ばす」はまあ措いておくとしても、「激白」なんていう言葉も、新聞のラテ欄以外ではあまり見かけないように思う。
これも、辞書を引けば、

げきはく【激白】

( 名 ) スル
(マスコミ等の取材などで発言を求められた者が)衝撃的な内容を隠さずにうち明けること。
② 押さえていた気持ちから,一転して堰を切ったように告白を始めること。 「真相を-する」 
とある。こちらは明瞭に「マスコミ」の単語が出ているところが興味深い。
あるいは、「熱愛」なんていう言葉も、「激白語」の一種だろう。

ねつあい【熱愛】

( 名 ) スル
心の底から愛すること。また,愛し合うこと。 「妻を-する」 「スターの-報道」
ほらほら。なにげなく「スター」なんていう言葉を潜り込ませて、マスコミ語っぽさを主張しているんだな、大辞林は。

いづれにせよ、こういう言葉が用いられて期待感を煽られるときは、たいてい肩透かしを食らうことになるので、条件反射的に安っぽい表現だと感じてしまうことになる。
そうそう、いまはどうだか知らないけれど、むかしはラテ欄に「マル秘マーク(㊙)」がよく踊っていたもんだ。これも昭和っぽい記憶?

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かっトラします。
花梨さんときなこさんが書かれていたのを読んで、僕も好きな言葉について考えてみたが、これまでにも何度も書いていたということと、いますぐに「これ」というものが思い出せないので、とりあえずぱっと思いつくものだけでも書いてみることにする。



三郎は、町人客の多い居酒屋からの帰り道を、鼻唄をうたいながら歩いていた。したたかに酩酊(「酩酊」と「したたか」は相性がよい)している。
たしかに、聞える。
ことさら鼻唄を強めながらも三郎は、自分の足音とは別の足音を聴いていた。誰かが尾けてきているのだ。
思うところがあり、神社へと向かう。雲は多少多めだが、月が高くに上っている。鳥居をくぐり、手水舎(ちょうずや。調べるまで名前を知らなかった)に近づいたところへ、後ろから呼び止められた。
「馬廻組(ありがちな役名で、おそらくは下級藩士)、吉村三郎(三郎ということは、三男という可能性が高い。長男は家を継ぐとして、次男、三男は剣術稽古に励むというパターンが多い)だな」
足を止め、振り返る。「いかにもおれ(「時代小説好きの中高生」に聞いたアンケート「憧れの一人称は?」のトップ3は、それぞれ「我輩」「それがし」「身ども」なのだが、今回はリアリティをもって「おれ」にした)は吉村だが。其許(そこもと。「時代小説好きの中高生」に聞いたアンケート「憧れの二人称は?」で堂々の第1位!)は?」
「知らいでよい」
なにかを抛り投げる音(たぶん鞘。尾行のために提灯は持っていない)が境内に響いた。それから草履が石畳を蹴る音が聞える。
「むぅっ」
三郎も駆け出し、手水舎に湛えられた水を左の掌で掬い、それを自分の顔にかけた。酔いを少しでも醒ますためである。そうしながらも半身をくるりと翻し、右手で抜刀、あたりの暗闇に目を凝らす。
暗殺者にとって不利な月明かりだった。一太刀で済ますはずが、予期せぬ形で相手に身を晒してしまった男は、あらためて剣を構えた。八双(よく知らない構えです)。そして、地に切っ先を向ける。
青眼(これはよく出てくる構え。基本的な構えのはず)の三郎は、汗を吹いている。 
この男、遣うな。



この、「この男、遣うな」が好き。遣えるな、じゃないのがミソと思っていたのだが、辞書を調べると自信がなくなってきた。意味は「この男、できるな」と同じ(はず)。
たしか藤沢周平『用心棒日月抄』で、細谷源太夫が主人公の青江又八郎に「青江、この男、遣うぞ」と注意を促す場面があったと記憶している。テレビ版では、たぶんそういう言い方はせずに、細谷(渡辺徹)が「青江(村上弘明)、この男、できるぞ」と言ったのではないか。
他の藤沢作品でも「できる」という意味で「遣う」という表現があったように思うんだけど……。
せっかくなので、つづきを。



この男、遣うな。
地摺り……さては蝮の牛島(渾名、二つ名があると、人物は強そうか怖そうに見えます)か。
三郎は、相手の地摺り八双(ちばてつや『おれは鉄兵』に出てきた構えで、子どもの頃にマンガを読んでから三十年くらい経ってもいまだにその名前を憶えているのだが、ネットで調べるとちばの造語らしい)を見て、家内随一と噂される、牛島道場の師範代、牛島重吾(名前からして強そう)の名を思い出す。
牛島となると、生半(なまなか。これも好きな言葉)には済むまい。牛島の叔父(こういう場合、直系でないほうがなんとなくリアル)である重兵衛と、三郎の父、与兵衛とは互いに若いころ、江戸のさる道場(すぐれた剣術家は一度は江戸で修行をしているもの)で兄弟弟子であったのが、なにかの理由で憎み合うこととなったと聞いている。三郎にとっては関わり合いのないことだったが、牛島のほうではどうもそうではないらしい。
「牛島だな。なにをしている?」
「うぬ(でたー! アンケート「悪いやつが遣いそうな二人称は?」で堂々の第1位!)は知らいでよいと言っておる」
「叔父上殿から吉村の家に仇なせと頼まれたか?」
「叔父上が? ……はっはっ、そうではない。むろん吉村の家との諍いがあっておれがここにいるわけだが、これは上沼様からのご命令でな。参るぞッ!」
上沼様……側用人(たしか高い役。藤沢『三屋清左衛門残日録』の清左衛門も側用人だったはず)の上沼武員(かみぬま・たけかず。お偉方の名前は初読みでつっかかるようなものほどよい。また「ジュウベエ」「ヨヘエ」のような音読名ではなく、「たけかず」のような訓読名のほうが格式高い気がする)様のことか。広がっていこうとする思考が、牛島の覇気によって霧消する。タッタッタッタッ。牛島の刀は蝮のようにこちらの左脛を狙っている。
草履はすでに脱いであった。右の足指で礫を摑み、そのまま牛島の右手に放つ。刹那迷った挙句、牛島は刀の柄で礫を払った。切っ先が少しだけ上がる。今だ。
腰を落とし、牛島の視界から一瞬にして消えた。屈んだ三郎の足の指は今度は石畳を摑み、そして撥条(ばね。迫力を出すため、平仮名はあまり遣わないほうがよい)のように蹴り上げる。刀の向かう先は相手の喉仏。三郎、渾身の跳ね上げ突きである。
手応えはあった。牛島の右手から刀が落ちる。もういささかの反応も彼の身体には残っていなかった。三郎は勢いよく刀を引いた。鮮血が高く噴き上がり、月をも染めた。
「秘太刀、兎穴(藤沢周平によく「秘太刀」が出てくる。「馬の骨」も、読んで内容はすっかり忘れてしまったのだけれど、名前のインパクトがすごい)
吉村家の秘伝である。突き刺した喉の穴から兎が出入りできるから、と与兵衛は説明した。
しかし、と三郎は懐紙を取り出し刀の血糊を拭きながら考える。上沼様がいったいなんのためにおれを狙うのか。そして、明朝ほどには牛島の死体が検められ、秘伝が晒されることとなる。この太刀筋を見極める者がいるとしたら……そうか、山本(時代小説では、ありきたりの苗字のほうがそれっぽい)が一枚嚙んでおるのかもしれぬ。
酔いは、もう去っていた。月には叢雲がかかり、急ぐ三郎の帰宅を人目から隠していた。
(続……かない)



上記文章を頭のなかで再現するときは、平田弘史か、知らない人は後期の白土三平の絵で再現してみてください。間違っても谷岡ヤスジだけはやめてください。谷岡ヤスジだったら、鼻をほじりながら、片手で刀を振り回して相手をザクザクと斬り、「おれ、切っちゃったもんネー!」とか言いそう。

花梨さんやきなこさんのおふたりも、時代小説によく出てきそうな言葉を好まれていたが、僕もどちらかというと同じ。これがもっと若い新しい世代になると、横文字を好み、それを遣っているとたのしく感じるのだろうな。

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赤ちゃんにお乳を?
花に水を?
ペットにエサを?

これらは、「あげる」じゃなくて「やる」が正統である(ただし、面倒なので「正しい」とは言わない)ということはこれまでに何回か書いてきた。
高島俊男が書いていたと記憶しているが、「やる」はけっして乱暴ではなくて、むしろ近いからこそ出てくる言葉であり、それが「あげる」になってしまえばよそよそしさが生じてしまう、うんぬん。

で。
これはすでに有名な話のようだが、桃太郎の歌、「お腰につけたきびだんご、ひとつわたしにくださいな」と請われたところのフレーズは、「あーげましょう、あげましょう」ではなく、「やーりましょう、やりましょう」という文言が現在のスタンダードになりつつあるらしい。少なくとも僕の聴いた複数のソースでは、幼児教育の現場で言葉の正しさを教える意味も含め、「あげましょう」から「やりましょう」にシフトチェンジしているところもあるようだ。

桃太郎の改変は大っ嫌いだが(桃太郎の改変、もういいよ - とはいえ、わからないでもない参照)、しかし、「あげましょう」で習った僕とすれば、「やりましょう」という桃太郎の態度にはいささか冷たさを感じる。

いぬ・さる・きじというのは、いわば戦地に赴き、桃太郎と共闘する戦友である。その戦友に対し桃太郎がこう言っているように聞えるのだ。
「おまえらは畜生という人類に一段劣る存在であるからして、おれがいまからやるきびだんごを受け取った暁には、おまえら畜生はおれの言うことをいっさい聞かなければならぬし、命を捨てよと言われたときはすなわち命を擲って戦闘に殉ずることとする。それが諒解できるのであれば……やーりましょう、やりましょう」

これを聞いたいぬ・きじ・さるはどう思うか?
犬「ちょいちょい、待っておくんなはれや。なあ、さるさん? このももたろはん、ちょっと厳しすぎると思わへん?」
猿「そやなあ、ずいぶんと上から目線やしなあ。きじさんはどう思う?」
雉「うちら、ペットになりたいゆうてるんとちゃうし。一緒に鬼さんやっつけようゆう話やろ?」
犬「そや、『一緒』ゆうところが大切やで。ボクらはナ、共同戦線を張ろうゆうてるんや。それをこの人、ボクらをあくまでサポート役にさせといて自分だけひとり目立とうとしているんちゃうかな」
猿「そや、それで危ないときにはわいらに死ねとも言う。これ、言うこときいといたら損やで。きびだんごごときで騙されるやつなんて、今日びおらんわ。去(い)の去の」
雉「お、さるさんだけに、さきに去るんやね」

一方、「あげましょう」の桃太郎であれば。
桃「……ということで、以上の条件についてみなさまにご不明なところがなければ、わたくしとともに一緒に鬼ヶ島(東京都鬼ヶ島町1-1-1)に行っていただきまして――この際のフェリー代金はすべて(株)モモタロウより払わせていただきます――、(有)鬼塚興業の代表取締役、鬼塚三平以下、社員三十名余との戦闘行為に参加していただくと、このようになっておりますが、もしご質問があれば伺っておきます。……はい、ああ、戦闘に勝利した場合の記者会見でのみなさまの扱いですね? それについては、みなさまのお名前は、(株)モモタロウの正社員として連名の形で発表させていただきます。……はい、きびだんごですが、みなさまにはこの場でこのきびだんごを食べていただく――もちろん食べるマネだけでよいのです――ことによって、入社式を執り行ったとみなします。いわば儀式みたいなものでございます。もちろん謝礼でございますが、いちおうは給与という形でみなさまのご活躍に応じて払わせていただきますし、この遠征が終ってからも、みなさまがご希望されるのであれば当社に残っていただいて契約社員として働いていただくということも可能でございますが、いかがでしょうか?」
犬猿雉「うーん、そんならとりあえずそのきびだんご、もうときますわ」


なお、大島弓子『グーグーだって猫である』を図書館で立ち読みしたら(いつか買うと思う)、とてもじゃないがキャットフードのことを「エサ」と言えなくなった。猫とはいえ家族だと思っていれば、「ごはん」でもいいんだろうな。

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先日、あるラジオ番組でこんなメッセージが読まれた。
(中年女性) 「この連休には、妹夫妻がうちにやって来ます。が、ここだけの話、かなり面倒です。妹の旦那さんは、朝のコーヒーはなになにじゃなきゃダメ、パンはどこそこのフランスパン、また、昼は○○のうなぎじゃなきゃ、とこだわりがものすごいのです、」
僕はこの時点で、こいつ(妹の夫)最低だな、たいしたことのないやつに限って食事にこだわるんだよなぁ、と苦々しい思いになったのだが、このメッセージのつづきにさらに驚いた。
「こんな旦那さんに、毎日ごはんを作ってあげている妹がほんとうに偉いなあと思います。看護師として働きながら、一生懸命家事をして」
って、話のオチはそこなのか!? 苛立ちは倍増。

また違う日のメッセージ。
(おそらく三十代~四十代女性)「先日は主人の誕生日でしたのでお赤飯を作り、主人のご両親のところへ持って行き、感謝の言葉とともに渡しました」
うげー!
……なんだろう、この気持ち悪さ。
夫に赤飯を食べさせるというのなら別に変なことじゃない。さらに、夫が「赤飯は大好物!」ってんなら、「そりゃあ、いいことをしましたね」という話になる。
けれども、夫の両親に渡すとなると、途端に妙な話になってくる。これが、夫の誕生日とは別で、単純に、義父義母の好物である赤飯を渡したというのなら、「そりゃあ、いいことをしましたね」なのだが、わざわざ夫の誕生日に合わせて感謝の念を伝えるために赤飯を渡すとなると、相当なあざとさ、あるいは、相当に奇妙な価値観を感じてしまうのだが、それは僕のほうがヘンなのだろうか。
百万歩譲ってその「義父母への感謝」まで許容したとして、そのことをラジオ番組に送ってきて関西地方の他のリスナーに宣伝したいというこの女性には、やっぱり歪んだ虚栄心なんかを感じてしまうのだが、これも僕がひねくれすぎだからか?

なお、上記メッセージが読まれたあと、番組の高齢の男性パーソナリティは三十ちょっと手前の既婚者の女性アシスタントに「あなたはこういうことできているの?」と尋ね、「うぅ、できていません。しなくちゃ~」と答えさせていたのだが、これも含めてムカムカムカムカ。

そもそもこのアシスタントが大嫌いなのだ。ものすごく可愛らしい顔立ちをしていて、可愛らしい声。生まれたばかりの赤ちゃんを育てながら一所懸命「ママしてる」感を、アピールしていないふりしてしっかりアピール。働きながら「ママ」して、家事して、料理が趣味で、姑とも仲がよくて、ちょっぴりドジで、食べるのと寝るのが大好きで……ってこのプロフィール(というか、番組内で判明している要素)の全部が、優等生すぎてイヤになってくる。
ついきのう(かおととい)も、まだ二十代だっていうのに「そろそろ歳ですからね~」と発言。こういうやつ、ほんといるよな。「美人要素で男性リスナーに対して1ポイント」を獲得し、さらに、「やっかまれて女性リスナーから-1ポイント」を避けつつ、反対に「老化アピールで女性リスナーに共感の1ポイント」を狙っているところが、さもしい。
他のドジとか寝るの好きとか食べるの好きとかっていうのも、全部「嫉妬」に対する自己防衛策にしか見えない。

マジメなことを言うと、二番目のメッセージの妻の行為の背景にあるのは、老齢者を敬うという単純な儒教的価値観ではない。そこからさらに一歩進んで、「嫁」が夫の父母に尽くしているという部分に価値を認める近代的家父長制度の影が色濃いように僕は感じる。
高齢者パーソナリティはその古臭い価値観に対して美談を感じ、それを若い女性に無意識のうちに強制しているのであろう。

ジジイ(といってもこのおっさんにもいいところはあるので、本当はこういう表現をするのは心苦しい)は仕方ないとして、若い女性までがわざわざ憧れ、模倣すべき行為だとはとうてい思えないのに、このアシスタントは、「マネしなくちゃ~」と言うのである。

この番組では、日頃、女性が働ける社会というのを(他のふつうのメディアと同程度には)訴えているはずで、こういう運動の基本にあるのは、現存する社会システムを根本から見直し、その古い部分を変えていこうということである。
ある競技があったとして、「ちょっと待ってください。この競技は、こういう部分がおかしいと思います。ですからいったん中断して、そこで新しいルールをつくろうじゃありませんか」と一所懸命誰かが呼びかけているなか、この女性アシスタントは、その旧態依然のルール内で次々とポイントを上げていくような非常にこすい人間に見えて仕方がないのだが、それはさすがに意地が悪すぎるだろうか。


なお、年輩の人は仕方ないとして、若い女性が自分の配偶者を(丁寧な物言いのつもりで)「主人」と呼んでいるのを聞くと(このアシスタントもそうなのだが)、「現代的感覚」というものを知らないのかなあ、と思ってしまう。
反対に、「家内」は言わずもがなで、「うちのヨメ」とか「うちのカミさん」などと称するのも好きではないし、僕は絶対に言わない。

が、他人について呼ぶときはどうしていいのか迷ってしまうときがある。
相手の妻について言うときは「奥さん」で問題はなさそうだが(まさか「おかみさん」とか「ご新造」とか「○○のところの嬶」ではあるまい)、女性に対し、その夫についてなんて言ってよいのかわからないときがある。
名前を知っていれば、その名前を言えばいいのだろうが、名前を知らないときは「旦那さん」を遣ってしまうんだよなあ。
女性が自分の夫を「旦那」とかあるいは「旦那さん」(これ、ネットでもときどき見かける表現で、もっとすごいものになると、「旦那様」)などと言うのをおかしいと思っているくせに、自分ではそれを遣うっていうのはどう考えてもおかしい。いったいなんて言えばいいんでしょうか、ねえ奥さん?

余談だが、知り合いの業者さんのところに電話するときは「大将、いらっしゃいますか?」と言っているが、これは電話相手がその奥さんであろうと息子であろうと従業員であろうと遣えるので、便利。
相手がある程度の年齢であれば、「(夫の意味の)おとうちゃん、おる?」という遣い方もこちらではできるみたいだが、 これは僕にはなかなか難しいフレーズ。

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以下は、まったく調べずに書いている。

いまはもうピークを過ぎたんじゃないかと思うが、関西では「春の風物詩ですね」と言う前フリで「いかなご」が紹介される。
僕の情報源の八割以上がラジオなので、「いかなごのくぎに」という言葉はもうイヤというほど耳にしているが、それを映像で見たことが一度もない(!)ので、いまだにどういうものかわからない。
何年にもわたってこの情報を耳から取り入れ、どうやら魚らしいというのはわかっているが、おそらくラジオのパーソナリティたちは「いかなご」のことを「みなが知っているだろう」と思っているらしく、ことさらその外見を説明せず、番組のリスナーから「いかなご便り」が届くと、「ああ、春ですねえ」とか「うちも、『いかなごのくぎに』のおすそ分けをもらったんですよ」などと話すにとどまっている。
そういうのをネットで調べるかというとそれも特にはしない。なんとなく、「どういうものなんだろ」と思っているところで止めたいという気分があるのだ。

これ、野球の阪神タイガースの選手にも言えることで、関西では、野球といえば阪神を中心にしか放送していないと思うのだけれど、当然ラジオでは選手たちの顔を知ることはできず、名前はなんとなく知っているもののナインの顔はほとんど知らない。あ、ノーミとフジナミはなんとなくわかるか。

いかなごに興味が湧かないのは、おそらくこの先食べることはほとんどないだろうという予測と、「いかなご」の語感にある。
その前に。

もうひとつまったく外見のわからない食べもの(?)があって、それが「むかご」。
これはラジオでもほとんど聞いたことがなく、おそらく歳時記やどこかのスーパーでその文字をちらりと見て、「そんなものがあるんだ」と記憶したのだと思うが、これも実物を確認していない。

この「いかなご」と「むかご」に共通するのは、語感から来る虫のイメージが僕にとってはあまりよろしくないということ。
なご」と「むかご」だ。

これらを子どもの頃から見聞き、触れでもしていたのならそんなことはいっさいないのだろうが、知らないとどうも文字からの語感に頼らざるをえない。そこに虫のイメージが混入してしまうから、どうにも興味が湧かない。
「くぎに」にしてもそう。たぶん「釘煮」なんじゃないかと思うんだけど、黒豆みたいに釘と一緒に煮る(こちらでは炊く)のかな? 魚と釘? 黒いの?……とこれもあんまり食指が動かない話。なにぶん知らないからこういう態度になってしまうのだけれど、知っている人にとってはたぶん噴飯ものなんだろう。

結局、今年もいかなごは知らないままに終わりそう。

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タイトルは、オレオレ詐欺の新しいバージョンのことではない。

ずっと前から積ん読になっていたマルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』を、やっとのことで読み始めた。一冊一冊は新書サイズの白水uブックスでかなり薄いのだが、全十三冊というので、最後まで行けるのかどうかわからない。
訳者によって戦前から翻訳が始まっていたというからけっこう古い言葉・バカっ丁寧な言葉が多いのだが、それも新鮮。というか、そういうところをツッコむだけの読み方ってつまらないし、時間の無駄だと思う。

で、第一次世界大戦前のフランスをなんとなく想像しながら読んでいるのだが、そのなかで妙な表現が出てきた。
ある女性の夫がたいへんな浮気者でどうしようもないお調子者なのだが、彼のいないときには腹が立って仕方のない夫人も、いざ彼を目の前にしてしまうとその魅力に幻惑されてしまうところがあって……という場面。
夫人が、
かつて婚約時代の日記の中に《あたしの愛する人は、インドの王子さまのようにおきれい》
と書いたというその夫、ジェロームを眺めると、
その目は、昔のままの目つきだった
と描写される。 そして彼は、
きれいにつめのみがかれた指先で、つぎからつぎへと焼パンにバターをぬり、蜜をなすり、上体を皿の上にかがめては、わしわしパンを食っていた

(『チボー家の人々1 灰色のノート』白水uブックス 150p-151p)
(※)太字強調は引用者による
というのだけれど、この「わしわしパンを食っていた」という文章のインパクトたるや。ロマティックのロの字もない、というのは現代人の感覚か。

さあ、それでは明朝にトーストをわしわし食うことをたのしみにして、今夜は寝るとしますか。

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横文字が苦手。

パッケージされたせんべいと一緒に入っている乾燥剤の名前をよく忘れるので、「尻翳る」という文字と、全裸女性の後ろ姿でお尻の部分だけに影が差している場面とを思い浮かべるようにして、それでようやく忘れないようになった。

カリフォルニアというのも言いづらい。
ちょっと前までは「カフォルニア」だった気がするんだけど、いつのまにか「カフォルニア」が主流になってしまった気がする。
ガンダムのテレビゲームだったと思うが、そのなかで「カリフォルニアの基地へ向かえ」みたいなセリフがあって、そのときはじめて、「え? カフォルニアなの?」と驚いたと記憶している。高校生くらいのときかな。
文字を思い浮かべれば、"California"なので「リ」が正しいということはすぐにわかるのだが、その文字がぱっと思い浮かぶようであれば、シミュレーションかシュミレーションかだって悩まないんだよ、こっちだって。
ということで、「仮フォルニア」という言葉を思い浮かべるようにするのだけれど、そのうち、「あれ? 『軽フォルニア』だったっけ?」と混乱してしまう。

こういう「どっちだったっけ?」というのもよくある。
これも高校のときだったが、英語の参考書に、「日本語の発音と英語の発音で違うものがある」ということで、「smooth」が例示されていた。なんでも、日本では「スムース」という人もいるが、英語では「スムーズ」と濁るのが正しい、と書いてあったのだが、僕はそれまでに「スムース」という発音を聴いたことがなかったので、「smooth」という単語を見るたびに、「たしかこれは発音注意だったな……『スムーズ』じゃなくて『スムース』が正しいんだっけ」と逆に憶えてしまったのである。

「スムース」は知らなかったが、本のページ(頁)を「ペーシ」という数学の先生がいた。以前言及したこともある高校のN先生。
彼は、「はい、きょうは34ペーを開けてください」と絶対に濁らなかった。そして、「数」を必ず「すう」と発音した。
N先生の口癖はほかにもあって、説明を終えるときに、通常の人なら「~ということになりますね」と優しく言うところを、先生は「~と、こういうふうになるんじゃないですか!」とちょっと強めに言う。別に怒っているわけでもないし、詰問しているわけでもない。
先生のことを嫌いな生徒は多かったので、「なんだよあいつの言い方」と陰で批難されていたが、僕のようなファンたちは、「ふふふ、あれも愛情愛情」と理解を示していた。
だから、「すう」と「ペーシ」と「~になるんじゃないですか!」をミックスすれば、即座にN先生のモノマネができたのだが、これをあまりにも家で多用していたために、うちの父が「~になるんじゃないんですか!」を口癖にしてしまった。今年の五月に実家に帰ったときにも、父がまだこの口癖を直していないことに気づいて、笑った。たぶん父自身は元ネタを忘れてしまっていると思うのだが、こういうつまらない冗談言葉こそ、口に馴染んでしまうのである。

まだある。
このあいだ、マレーシアのある動画を観ていたら、舞台がクアラルンプールだった。
この「クアラルンプール」が、僕にとって「どっちだったっけ?」と一瞬迷う言葉。これはぜひともアンケートを採ってみたいくらいだけど、「クアルランプール」というふうに、「ランプール」と言ったほうが、すっきりしない?
僕は二十代半ばくらいまで「ランプール派」だった。だってそっちのほうが、女の子たちがきゃあきゃあと黄色い声を上げながら騒ぎ乱れているプールをイメージしつつ、「クアル・ランプール」と「ル」で二度韻を踏める感じも味わえる。
ところが、「クアラ・ルンプール」のほうは、なんだか裏拍を取らされているような気持ち悪さがある。「ラ・ルンプール」って、どんなに意地の悪い発音なんだろうか。

あと、おとといまで読んでいた『ソラリスの陽のもとへ』の作者、スタニスワフ・レフの言いにくさも特筆もの。
たぶん、「スタニ」まではすっと口をついて出るはず。「須谷」を思い浮かべればより簡単。ところが、このあとがたいへん。
たいへんすぎるので、難しいところを読み飛ばし、最後のレフにしがみつくことにしていた。だから読み終えるまでずっと「スタニなんちゃら・レフ」の『ソラリス』と思っていた。
読了し、あらためて背表紙を眺めて「なんちゃら」の部分を必死に解析してみる。「す・わ・ふ」。この間抜けな音の連なりよ。だいたい、「す」と「ふ」が多すぎるんだよ……と思っていたら、「レフ」じゃなくて「レム」だった!

思うに、日本人が苦手とする発音というものがあるのだと思う。
グルジアのフィギュア・スケーターのエレーネ・ゲデヴァニシヴィリも、「エレーネ」のところまでしか読めない。「ゲなんちゃら」なのはわかるけれど、難しすぎる。
いま彼女の名前を検索するときもアダ名で探そうと思ったのが、「ゲデ」を思い出すことすら難しく、一所懸命「ゲバ子」で探していていっこうに見つからなかった。原語を確認すれば憶えられるかも、とWikipediaを見ると、

ელენე გედევანიშვილი

グルジア語表記があったが、もちろん読めない。それにしても、グルジア語ってなんかかわいいのね。

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嫌いなことば辞典、に挙げてもよかったのだが、一概にそうとも決めつけられない「で抜き言葉」。そんな言葉があるのかどうか知らない。勝手に名前をつけた。
簡単に説明すると、語尾の「~ですよね」というところの「で」を抜いて、代わりに促音をつける「~ッスよね」という言葉。これが好きではない。

二年ほど前、当時仲のよかった友だちの女の子と一緒にいるとき、その子が日頃腐している職場の上司と出会うということがあった。そのときその女の子が相手に対して「そうッスよねー」と相槌を打っていたのを見て、「あれま」と思い、ちょっとだけ失望したのだったが、これ、あとから考えてみて、仕方のないことなのかも、と思い直すところがあった。

僕はイヤな人間関係に対しては最大限回避し逃走しまくると決めて、それをもとに人生設計しているところがあるので、嫌いな人間と無理に話す機会は少ない。ただしその確率はゼロではないし、そういう没交渉人生はそれなりに高くつく部分がある。
一方、その女の子は、きちんとした仕事に就いているし、いくら好きではない人物とはい、毎日顔を突き合わせなければならないのだから、ぶすっとしているわけにもいかず、無視もできない。苦渋のおもねりとしてので抜き言葉なのではないか、とそう考えるようになったのである。

そう考えると、で抜き言葉にもそれなりの意味があることに気づき始める。
いわゆる「タメ口」を利くほど親しくもないし、かといって堅苦しくもしたくないときに「ッスね」と言う場合もある。緊張の緩衝材としてので抜き言葉。
少しは親しいのだが、それ以上に仲良くなるための、潤滑剤としてので抜き言葉もある。たしかマンガ『重版出来』のなかで印刷所勤務の女性が、出版社の営業の人に「(営業の人が読んでいるマンガを指して)それ、面白いッスよ」と言う場面があって*1、その言葉の遣い方がうまいな、と感心した。
あるいは、ネットやメールなどで少し突っ込んだ話題にするときに、青筋立てて主張しているんじゃありませんよ、と少しおどける意味合いを込めてで抜き言葉にする場合もあるだろう。これは、絵文字やら顔文字、(笑)、(汗)、(涙)などの記号と同じような働きをする。

てえことで、単なる若者言葉ではないようで、簡単に否定すべきじゃないということはわかったが、それでも僕は遣わないだろうな。

*1:本棚に行ってそのマンガを探してみたのだが、すぐには見つからなかったので、うろ憶え。

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