とはいえ、わからないでもない

カテゴリ: 落語

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年始に聞いた話だが、あるお坊さんが、ある外国人に援助をして日本の学校に通わせたという。その外国人は本国に帰ってから、感謝の気持を込めて毎年そのお坊さんに年賀状を送ってくるようになった。
月日が経ち、お坊さんは死んでしまい、その息子に代を譲った。毎年封書を送ってくれる外国人にもその知らせを出し、もう来年からは年賀状も要りませんよと伝えた。
ところが、年賀状は途絶えない。息子坊主の名前でも送ってくるし、故人坊主の名前でも送ってくる。封筒に印刷された相手の住所に、これこれこうだからと詳細を説明し、年賀状は不要だという内容のハガキを送る。けれども、その翌年も、当代坊主、先代坊主へと計二通、年賀状がやってくる*1
へー、今年はどうだったんですかね? と尋ねると、やっぱり来たそうな。先代が亡くなってから、四十年弱。もうツッコミのハガキは送らないようにしている、とのことだが、僕なんかはそれが妙に面白くて面白くて、「このたび、百十歳になりました」とか「いよいよ百二十歳です、まだまだ元気です」とか、そういう挨拶状を送ればいいのに、と思った。そのうちむこうの外国人も亡くなって、それでもその家族なんかに「ものすごい恩人だから、決して礼を欠かさないように」と言い聞かせ送らせつづけるかもしれない。まるで小説の世界だな。題名、「死者の交わす挨拶」。

こっちは死んでもいないってのに、誰からも年賀状が来なくなった。出さずもらわず、になって久しい。来るのは業者ばかりなり。
昨年暮れにも一度振り返ってみたが、年が改まりあらためて指を折ってみたら、昨年だけで五人くらいの交友関係が切れていた。昨年八月末でブログを替えたときを機会に、ネットでの交友もだいぶ減らした。
「時間がない」ばかり言って卑下しているんだか自慢しているんだかよくわからない僕だけど、とにかく他人の文章がほとんど読めなくなってしまった。時間だけでなく、読む能力、気力のすべてがなくなってしまった。
くわえて僕は、読むだけでなく書くのも遅いから、それだけでもできることが限られてしまう。そんな状態なのに、「そもそも国家とは……」なんて抽象的なものを話題にしたネットに落ちている文章なんて読めるわけがない。
と言ったって、本当に抽象的なことを考えるのが嫌かというとそんなこともなく、たとえばいま読んでいる網野善彦宮本常一『忘れられた日本人』を読む』にも、そもそも日本が成立したのは七世紀のことであって、みたいな話が出てきて、そこから類推するに、きっと著者は民族的出自についての差別や妙なプライドなどそれこそ非科学的でバカらしいと思っていたんだろうなと想像したり、そういうのは面白い。「そういうの」っていうのはつまり、

  1. 専門家や研究者の文章
  2. 実際の経験に基づいて書かれた文章
  3. 創作物

のいづれかということ。来年はこのルールをいよいよ徹底させて、没交渉人生を邁進する所存でございます。


ところでこの文章、橘家圓蔵(もしかしたら円鏡時代のもの)の『猫と金魚』を聴きながら書いているのだが、面白いくすぐりがあったので、まったく関係ないけれど記録しておく。
飼っている金魚を隣のネコが食べに来るからどうしよう、と家の主が使用人に相談すると、

「煙突の上に置いて、(鑑賞したいのなら)双眼鏡で覗いたらどうです?」
「バカヤロ、コノヤロ、おりゃあ山本五十六じゃねえぞ!」
「洒落がちょっと古いですね」
「ああ、古いか……そうか、おれもちょっと古いと思った。じゃあ、もうひとつ新しいギャグやるから、もう一回(ネタを)振れ」
「双眼鏡で覗いたらどうです?」
「バカヤロ、コノヤロ、おりゃあ、203高地で金魚飼ってんじゃねえぞ」
「余計古いです」


あと、年末にイヤフォンをPC につないでずっと聴いていた音楽。

6:50あたりの、雲の上に魂を持って行かれてしまう感じ。音楽好きでもないし音楽に詳しいわけでもないけれど、天上の音楽ってこういうものではないか。こういうのって、人生であと何回体験できるんだろうか。

*1:おそらくは、名簿を機械的に処理して宛名を書き、送っているだけだろうと思う。

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けさ、ABC ラジオの「サクサク土曜日」で、読者に「あなたの好きなフレーズはなんですか?」というお題でメッセージを募集したところ、「わたしは、なぜか『安保理』という言葉が好きです」とか「『水走(みずはい)』という地名が好きです」とか「『墾田永年私財法』がたまりません」とか「『わけぎ』が好きです」などという意見が集まった。
アシスタントの林智美ちゃんは、「たいたん」が好きと言っていた。関西の人ならわかると思うが、「おからのたいたん」というと、おからを炊いたもの、を意味する。たぶん、炊いたもの→炊いたの→炊いたんという変化をしたのだろう。

そもそも、東京出身の僕からすると、この「炊く」という言葉にも独特の面白さを感じる。関東なら「煮る」という行為を、関西ではだいたい「炊く」というのではないか。反対に、関東なら「炊く」というと、ごはんくらいにしか遣わないのでは?
そこで思い出されるのが「関東煮(かんとうだき/かんとだき)」で、関西における「おでん」の名称、と言いたいのだが、このあいだテレビでやっていたのは、年輩者以外は、関西の人でも、わりあい「おでん」というそうな。この呼称の変化は、80年代、コンビニで全国的におでんを販売しだしたのと時を同じくするとのこと。
上にもあるように、これを「かんとだき」と呼ぶこともあるようで、こうなると「関東」の意味が薄まる*1。そこで米朝の小咄。
むかし、関東から新世界(たぶん大阪の地名)に来た学生さんが、ある店の看板に「カントだき」と書かれてあるのを見て、「うーむ、実に哲学的な名前だ……」と唸ったそうな。
これも、「かんとうだき」じゃ通じない洒落。いや、実際にあった話なのかもしれないけれど。

上方落語を聴いていると、実にいい言葉が出てくる。ぱっと思いつくところで……。
りょんさん」。いうなれば、「おかみさん」か。「あの方どすか? あの方は、あそこの店(たな)のごりょんさんやえ」(適当)みたいな感じで出てくる。『子猫』とか『口入れ屋』には必ず出てくると思う。なお、太字強調は、アクセントがあるところ。
椒の粉(こ)」。これは『くしゃみ講釈』。勢いよく言って、「椒の粉」という感じが気持いい。
都ォ」。これは、たとえば『愛宕山』とかで出てくるかな。かなで書くと、「きょうとぉ」、となぜか最後が伸びて聞える。これは志ん生の旅噺や、圓生の『三十石』でも同様の発音があったから、もしかしたら日本全国、そう呼び習わしていたのかもしれない。いや、でも、京都はずっと「京」だったのか。もともと都だから、「都」をつける必要はなかったのかな? ここらへん、よくわからない。けれども、噺に「きょうとぉ」と「伸び」が聞えるとなんだか嬉しくなってしまう。
きゅうひっ)とん」。これも『口入れ屋』に出てくるかな。小僧(「子ども」と呼ばれることが多い)はふつう、「久七」と呼び捨てにされるが、丁稚仲間であれば、「どん」をつけられる(のだと思う)。ところが、「久七」は「きゅうひち」と「し→ひ」の転訛を起こし、その勢いで、「ど」の濁音が抜けて、「きゅうひっとん」となる。あるいは、そう聞える。これも、初回ではなかなかわからなかったが、何度も聴いていくとわかるようになる関西弁独特の発音で、大好き。垂涎もの、とはまさにこのためにあるような言葉。
「手伝(てった)いの又兵衛」。『寝床』かな。これも、もとは「てつだいのまたべえ」と呼ばれていたのだろうが、それがだんだんと訛っていって、「てっだい」→「てったい」と変化したのだろう。これが、上方落語に慣れていなかったときは、何度聴いても意味がわからず、勝手に頭の中で「鉄代」という字を当てていたが、その意味するところは不明のままだった。
考えてみれば、「仏壇」も、「おぶったん」という言い方をする。『宿替え』など。関西弁には、濁音が清音になるという特徴があるのかもしれない。

こうも上方落語ばっかり出すと東京落語からも、ひとつくらいは挙げたくなるのだが、一番好きだけど一番謎であるのが、「そういう」。
これは、註文をする、という意味なのだが、「江戸言葉事典」みたいものを引いても載っていない。
用例としては、「うなぎそういってくんない」、という感じ。意味は、「うなぎを註文してくれ」。たしか志ん朝の速記本では、「そう註う」という振り仮名がしてあったが、最高のセンスだね。惚れ惚れする。
けれども最初は、この「そう」が"Unagi, order it"(英語があっているかどうかもわからないんだけど、ニュアンスとしてはこんな感じ)の「it」に当たるものかと思っていたのだが、決してそういうわけではないみたい。この証拠となる用例がパッと思い出せなくて悔しいのだけれど、上の例文で言うところの「うなぎ」がなくても、「そう註う」と表現をすることがある、と記憶している。ここらへん、非常に曖昧だが、注意して東京落語を聴いていると、「そう註っておくれよ」などという表現は頻出し、その柔らかい物言いが非常に好き。
江戸弁というと、「てやんでェべらぼうめ」と考える人は多いが、それは河岸で働く人や職人たちの言葉であったりして、山の手の言葉なり、商家の言葉なり、いろいろとあったようだ。
他に好きな言い方では、「いけない」。現代だったら「これはダメだね」と言うところを、「これはいけないね」という方が多い気がする。「駄目」は碁由来の言葉だけれど、(あくまでも個人的な感覚だが)濁音が入るというのは、あまりきれいな言葉じゃない、という印象を持っている。「べらぼう」や「ドジ」や「バカ」にはすべて濁音があって刺々しいのに対し、「まぬけ」や「ひょっとこ」や「おたんこなす」にはどこか親しみが感じられる……か?


おまけ。

たち別れ いなばの山の 峰に生ふる
まつとし聞かば 今帰り来む


中納言行平

百人一首にある歌だが、この下の句の「音」が素晴らしい。
「マツト・シキカバ・イマカエリコン」が「オリハルコン」かなにかの一種に聞える。いや、「オリハルコン」がそもそもなんなのか知らないけどね。
あとは、落語『崇徳院』にもある

瀬を早み 岩にせかるる 滝川の
われても末に 逢はむとぞ思ふ

そもそも百人一首は、小学校低学年のときに、すべて音で憶えたものだから、意味なり字なりはほとんど知らなかった*2。だから、上掲歌の「あはむとぞおもふ」は、「アワント・ゾーモン」だとずっと思っていたし、ずっと好きな語感だった。

*1:もっとも、当該テレビ番組では、広東人(かんとんじん)に作り方を教わったから、「かんとんだき」→「かんとだき」になった、という大阪の老舗おでん屋を紹介していた。これもこれで興味深い。

*2:「こひすてふ」が「コイスチョー」と読むというのだから、ほとんど外国語という感覚。意味なんてわかるわけがない。

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BS の番組なので、わざわざ実家で録画してもらい、それをDVD に焼いたのを送ってもらい、きょう観た。
今年の十月頭に亡くなった朝日放送プロデューサー、市川寿憲さん*1の遺作とのこと。いやあ、本当によかった。
知らないこと、というのはあまりなかったが、それでも枝雀の映像をいくつも観ることができた。特にハプニングシーンはたのしかった。『宿屋仇』で、見台を壊してしまうところ(ニコ動に動画あり)や、『上燗屋』口演中に舞台下手に向かって残り時間を尋ねたり、『道具屋』で話の筋を忘れて、これまた下手に「次、なんだっけ?」と大声で尋ねたり、でも、枝雀に関していえば、お客さんはそういう枝雀が大好きだったと思う。むしろ、枝雀のハプニングを見ることができ、幸せと思えたのではないか。稽古に関しての真摯さは既に伝説レベルではあるが、南光いわく「世間の人たちが一日八時間働いているのだから、われわれ噺家も、たとえ舞台の上では十五分、二十分のことだとしても、その十五分、二十分に対して、八時間ぶんを稽古しなければ世間に対して申し訳がない」という考えだったよう。
あるとき南光が師匠の枝雀に尋ねた。「師匠、稽古がそんなにたのしいですかね?」
すると枝雀、「いやあ、たのしないときもあるなあ……。けど、それを稽古せんといかんのでしょう。われわれはそれでお金をもらうわけですからね」と答えたという。もう、この話を聞いているだけで知らず泣いてしまう。落語作家の小佐田定雄は、古くからのつきあいのせいか、やはり枝雀のいろいろを理解しているという印象を受けた。小米から枝雀になり、そこから芸風を一気に変容させた枝雀は、ニコニコと笑って「笑顔の仮面」をかぶりつづける練習をしていたという。小佐田は、枝雀が自身の顔をもともと怖いものだと考えていた、と証言していたが、そのことは、枝雀本人の著書かマクラでも見聞きしたことがある。だから僕は、枝雀が登場し、座布団の上でちょこんと頭を下げてそれから顔を上げたとき、あのニコニコとした表情に移る前の表情に、ものすごく重たいものを感じたことがある。もちろん僕が視聴した映像などは両手で数えるばかりで、しかも彼の死後であったからそのような先入主があったことは否めない。しかし、決して「生来陽気な人」とはどうしても感じられなかった。高島俊男が金原亭馬生の笑いがどうしても作られたもののように感じられた、ということをそのエッセイに書いてあったが、それと似ているかもしれない。
ただ、興に乗じてくれば、演者本人もその陰鬱なところから開放され、本当にたのしく演じているのだろうと感じられるところもあった。それを観るのが、無性に嬉しかった。また、弟子の中では九雀がかなり論理的に分析しているように感じられた。もちろん突き放して分析しているというのではなく、愛情をもって理解しようとしたのだろう。
例の「緊張と緩和」の話に関して、緊張させるのも、それから緩和させるのも、登場人物たちがみな真剣に振る舞うから客は笑えるのだという。これを、「不思議だと思わせよう」だとか「笑わせよう」と思ってしまっては、客はその作為に気づいて笑えなくなってしまうという。実に演出の本質を衝いた話ではないか。すべての噺の導入を「ほたら何かいな」で始めることがあったという。これは、著書であったか、「こんにちは」「なんや、おまはんやないか、ちょっとこっちィお入り」から始まるやりとりがダレてしまって仕方がない、ということを書いていた。
このVTR の中でも小佐田は、「早く自分のやりたいところに行きたいから」と説明していて、これも実に枝雀らしいとも思った。これまた小佐田定雄の指摘で、ショート落語が小米時代の感覚だというのがかなり興味深かった。「緊張と緩和」の論でいくと、緩和しきれていないのがショート落語(SR)。ときにブラックユーモアなどもあってなかなか枝雀らしからぬところがあるとは思っていたが、それが小米時代のセンスだったとは。稽古は好きだったが、実際の高座で同じものを繰り返すのが嫌だったという枝雀。お客さんの空気の中でひとつの噺を醸成させるというのが基本にはあるのだろうが、まったく同じことをやっていれば、演じている自分がつまらなく思ったのだろう、という。
それがために、あるときは、わざと本筋から離れるような会話をしたり、登場人物がまったく設定にない対応をしたり、と本人が演じているうちに驚くような仕掛けを試みていたらしい。
この証言を聴いていて、なんと難しいところをやっているのだと感じた。弟子のひとり雀三郎が言っていたのが、「ふつうは、『あ、これがウケたな』と思ったら、次にもそれを演るんです。それを変えようとは思わない」。そのとおりだろうと思う。高座というのは年に一回、というものではないから。それなのに、毎回、新しいことを、前回とは異なる笑いを探して行った。たのしいかもしれないけれど、相当たいへんだったろうと思う。結局、あれもこれも書きたいと思っているうちに、もう一度、映像を見直している。若い頃のざこばと枝雀の話しているシーンが、もうだめだ。僕はこのふたりが大好きで、このふたりが元気に会話している映像を観ているだけで涙が出てくる。
枝雀もざこばも、隣人としていたのならかなりの変わり者だと思うのだが、根が純粋で本当に落語的人物という感じがする。このふたりが兄弟弟子だったということが縁の面白さであり、その師匠が上方落語の鑑のような米朝というのもまた面白い。ざこばは、枝雀が南光(べかこ)を弟子に取ったとき、当初は嫉妬のあまり南光をかなり嫌っていたようだ。反対にいえば、それくらい枝雀のことを慕っていた。
ざこばがあるところ(今回の番組とは別)で言っていたのだが、あるとき枝雀がざこばの『厩火事』を袖で聴いていて、噺が終ったあと、ざこばに「きょうの『厩火事』はよかった。噺家として、あなたと同じ時代に生まれたことを嬉しく思います」と涙を流しながら言ったことがあって、それを聴いたざこばも、嬉し泣きをしながら楽屋に行った。楽屋には、師匠の米朝がモニターで聴いており、ざこばはそこでも褒められるかと思ったら、米朝、「きょうの『厩火事』、なんやあれは。ぼろぼろやないか! よう噛んでたな、ネタ繰ってないのんと違うか。あんなんじゃあけへんがな!」と叱った。すっかり悄気げたざこば、「お先に失礼します」と退室すると、また枝雀に会う。「にいちゃん、叱られたで」と言うと、「そんならあかんのやろなあ」と腕組みして首を傾げたそうな。
最後。枝雀の二人の息子も出演して、いろいろなエピソードを語ったのだが、「お父さんはなぜ『心の病』になったのか?」という質問に対しての次男の答え(の要約)。
一般的には、もしくは噺家の人生としては、自分の落語を突き詰めすぎて、というのが一番美しく、かつ説明がつきやすいと思うが、ただ、(枝雀は)自分の落語を突き詰めることが好きだったので、僕は巷間で言われているそういう感じ(=思い詰めた結果)ではないと思っています。
適切な表現ではないのかもしれないが、癌になった人に、どうして癌になったんですか? とは聞かない。心の病っていうのも、心を自分の意のままになると思っている人が多いために、「なぜ病気になるのか」という発想になるのだと思う。
僕は、かなりシンプルに(枝雀は)「病気になった」んだと思っています。
枝雀に限らず、これはかなり重要な考察なのではないか。肉体的病気にかかると、その理由を本人の性質に求めない*2のに、たしかに精神の病については、本人の性質が原因なのではないかと疑ってしまいがちだ。
病気を病気として認めなければ、患者は辛い。枝雀も相当辛かったのではないかと思う。「笑顔の仮面」という言葉が、心に残る。

*1:僕はそれほど聴いたわけではなかったが、『米朝よもやま噺』の聞き手でもあり、上方芸能にものすごく詳しい方だったらしい。

*2:行動なり習慣なりが原因ということは往々にしてあるが。

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先日の帰省からの新幹線の中で一気に読み終えた小林信彦『名人 志ん生、そして志ん朝』。




名人―志ん生、そして志ん朝 (文春文庫)

名人―志ん生、そして志ん朝 (文春文庫)




志ん朝の死に触れた文章から、志ん朝志ん生、そして漱石の『吾輩は猫である』について書いた文章。この説明だけである程度は理解してもらえると思うが、かなり煩雑な印象。

まず、文章がいろいろなところに寄稿(?)したものの寄せ集めのせいか、内容が重複している部分が多い。

次に、その文章を記載された単行本(?)の発行年月日が不明なものがあり、せっかくの時評的内容の意義を損ないかねず、もったいない。これらは、作者というよりは編集のせいか。

そして、志ん生あるいは志ん朝についての文章かと思って読み始めた読者に対して、第四章の主眼となる『猫』の分析は、落語的解釈だとはいえ、ちょっと不親切な気もする。ただし、私自身はこの最終章「落語・言葉・漱石」を一番面白く読めたが。



以下は、雑然と引用をしながらのメモ。

まず、落語と日本文学というのは、実はものすごく関わり合いが深くて、まあ有名といえば有名なんだけど、近代日本語の言文一致は、三遊亭圓朝の速記本がきっかけになっている。

また、夏目漱石は大の落語好きだったらしく、自らの小説の中で「実は彼(小さん)と時を同じゅうして生きている我々は大変な仕合せである」という有名な言葉を残しており、それについて小林は、




この名言が<志ん朝と同時代に生きられる我々は仕合せ……>という風に、人名だけをかえて、いまでも使われているのはことわるまでもない

(188p)




と記し、そして実際に他の箇所で、




志ん朝と同時代に生きられるぼくらは、まことに幸せではないか。

(27p)




という冗談を忍ばせている。なお、前者の文章と後者のそれとは、初出の場所が異なる。

その小さんは昭和5年(1930年)に亡くなり、その話芸の記録は残っていない。しかし、小林は




(前略)一般的にいえば、漱石の<天才である>の一行で、歴史に残ったといってもよかろう

(192p)




と述べている。なるほど、そういうものなのかもしれない。

小林信彦は、東京人という自負が非常に強い。だから、東京以外の人間、あるいは東京の人間ですら、「ん?」と思うような表現が多い。




志ん朝さんの死によって、東京(江戸)の落語はほぼ終ったと見るべきだろう。<東京の落語>とは、江戸弁を駆使して一つの世界を創り出すもので、現代ではなく、明治か大正を舞台にしている。それでは心細いから、現代を舞台にすると、ハナシの辻つまが合わなくなる。

(68p)




また、上方落語は米朝という指導者がいるから今後も期待できるからいいとして、と前置き、




しかし、東京はムリだ。江戸弁とはいわぬまでも、東京弁(アクセントほか)が怪しい人々がいくら集まっても大衆を魅了することはできないのだから。

(70p)




と書き、東京落語の終焉を嘆く。

まあ、たしかに東京落語で「これぞ東京の噺家」という噺家は、あまり思いつかない。けれども、上のように書くほど皆無という気もしない。

私はこの文章を読んだときに、こう思った。小林のキャリアに敬意を払った上で、小林のように考える人たちも、小林の言う「滅びゆく東京落語」と一緒に滅びるのではないか、と。そうして、古いものが死滅した地平から新たな東京落語が生まれるのではないか、と。新しい東京落語は、たしかに江戸文化を完全には継承していないのかもしれない。しかし、どこかに趣を残してつづいていく。そんなふうに考えている。

なお、小林信彦の文章を読んでいて、「ローカルとしての東京」について思いついたので、それも近いうちに書く予定。

以前どこかに書いたと思うが、志ん朝という人は、自分の記録を好んで残しはしなかった。




CD のほかに、自伝本やビデオがないのは、都会人らしくいさぎよくてよかったが、せめて、あと十年、志ん朝の<ことば>を楽しみたかったと思う。

(24p)




とか、




亡くなってはっきりしたことだが、志ん朝さんは二十一枚のCD以外、なにも残していない。ビデオも、これといった本もない。トップクラスの中のトップの落語家なのに、自伝、落語論、いっさい活字めいたものがない。

(中略)

ご当人は、

「落語は消えてゆくもの」

と語ったというが、江戸っ子らしいいさぎよさといえる。

(67p)




の文章がその証拠。この本が書かれたのが2003年だから、その時点まではそうだったのだろう。

ところが今や、アマゾンで「志ん朝」と入力すれば、かなりの数の商品がヒットする。

たとえば、「志ん朝の風流入門」などという文庫本が容易に見つかるが、こんなタイトルの本なんかはあの世の志ん朝、顔を赤らめるんじゃないかしらね。そういうことと最も離れた人だったのではないか。

たしかに、私やあなたのような落語ファンが、新たな志ん朝の記録に触れられるのはまことにいいことだとは思うのだが、それが故人の意志に反することくらいは、DVD などの解説本に書かれてしかるべきだと思う。いや、実際には書かれてあるのかもしれないが、高くて買えねーから確認できないのである。

と、志ん朝はいうなればその流儀が死後、枉げられたということになる。クンデラ風にいえば、「裏切られた遺言」だ。

ところが、馬生については、そうではなかったようである。




(前略)一九八二年(昭和五十七年*1)九月十三日に馬生は食道がんで没した。五十四歳。

声帯に影響が出るというので手術を拒否し、死後、夫人は馬生が若い時からつけていた日記を、<本人の希望で>読まずに焼却した。

(161p)




日記が、公開されることもなく、また、読まれることすらなく、そのまま焼却されたという事実が、なぜか私を慄然とさせた。

「もったいない」ということもある。ただ、それだけではなかった。いわば「忠実に守られた遺言」に、馬生の意志の強さを嗅ぎ取ってしまうのである。

「陰と陽」でいえば、志ん朝はずっと「陽」の人であり、色気があって派手であり、なにより「花」があった。

それに較べて、その兄の馬生はずっと「陰」であり、志ん生との関係 ――本書でも少しだけ触れられているがなかなか「良好」と呼べるものではなかったようだ―― やその容姿には、ずっと影が差しているような印象がある。私は馬生の映像をいくつかしか観たことがないが、とても54歳で死んだ人間のように思えなかった。60代や70代のように背を曲げている姿を思い出してしまう。

以前、高島俊男が馬生について評した文章を引用したと思うが、口元をことさら強く「にっ」と歪めて笑うのが印象的だった、ということが書かれてあったように記憶しており、本書でもまた似たような描写があった。その高座に接した人ほど、自然に笑っていたという印象が少ないようなのだ。

上に掲げた文章は、地味だが渋く光りつづけた馬生の美学を象徴しているようで、実はそれは志ん朝と同じものなのかもしれないが、その遺志を尊重することを選んだ家族の強い思いも含めて、本書の中で一番忘れがたい箇所となった。



*1:文春文庫版第1刷においては、この部分に誤植あり。



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きのうの朝はどうしてもラジオを聴いていなくてはならなかった。

ABC ラジオの日曜落語「なみはや亭」。おそらく松喬の追悼番組をするだろうと思っていたら、案の定、そのとおりになった。

演目は、1/26に行った「上方落語をきく会」での口演、『網船』。

あっという間の30分だった。司会の伊藤史隆アナウンサーは、ずっと落ち着いた丁寧なアナウンスを崩さなかった。

番組の最後に「ご冥福をお祈りします」と言っていたが、その前の、「笑福亭松喬さん、本当にありがとうございました」という言葉に、史隆さん自身の万感の思いが込められていたのだと感じられ、少しじいんとなった。

『網船』は、のんびりとした噺で、大旦那、若旦那、太鼓持ちが出てくる。大旦那はしっかり者の吝ん坊として、若旦那はわがままのボンボンとして、そして若旦那のためにいろいろと画策する太鼓持ちの「ちゃらき*1」、これらが実にとぼけた感じで演じ分けられていた。

松喬の真髄なんて偉そうなことは言えないが、この「とぼけた味」というのは彼の芸のうちでも特筆すべきものだったのではないか、と思っている。

マクラは色街についてで、東京の吉原と京都の島原の違いを説明していたが、おそらく私は会場で「ふうん、そうなんだ」と頷いていたのだろう。ラジオにいくら耳を傾けてもその「頷きの音」は聞えるわけもないのだが、けれどもたしかにそこにあったはずなのだ。

そして、ストーリーの随所に散らばる嫌味のないくすぐり。お客さんにも大ウケで、音源にはげらげらという笑い声が入っていたが、その千数百分の一は、私のものだった。

おそらくABC はこの音源を大切に保管し、これから何年経っても、ときおり放送にかけることだろう。

非常に不思議なことにも感じられるが、この音源の中では、永遠に、松喬は「奇蹟の復活」を果たして生き生きと新ネタを披露していて、そして三十代半ばの私は、弟と一緒に、その高座を観て大笑いしているのである。




*1:べんちゃらばっかり言っている喜三郎、から来ているらしい。



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虫の知らせか、もう2ヶ月以上聴いていなかった朝のラジオ番組をつけると、「訃報です。昨日、上方落語家の笑福亭松喬さんが亡くなられました」

笑福亭松喬については、1月に行った「上方落語をきく会」についての記事に書いた。



末期がんになり、そこから「奇蹟」といわれる復活を遂げ、みごと高座に復帰していた松喬だが、6月の高座を最後に体調を崩し、そのまま亡くなったという。

番組では、「笑福亭の真髄を伝える芸を一番有していた」と紹介されていたが、私は、6代目笑福亭松鶴をはじめ笑福亭の落語をあまり聴いたことがないので、その「笑福亭の真髄」が指しているものがどういうものかはわからないし、松喬じたいの噺もほんの数えるほどしか見聴きしていないのだが、その数少ない視聴においても、名人芸だなあと思わせるものを持っていた。

番組では、復帰してからゲストとしてやってきたときのトークが再放送されていたが、その中での言葉が(リアルタイムで聴いたときも同じように感じたが)印象的だった。

「奇蹟は起きやしまへん。これはもうハッキリと言うときます。けれども、奇蹟を起こすことはできるんです」

この言葉だけをとらえ、そして、その経緯を知らずにただただ結果だけを知った人のうちには、「なんや、奇蹟なんてやっぱり起こらへんのや」と思う人もあるかもしれない。たぶん、そういうことを簡単に思ってしまうのは、若く、まだ苦労をしたことがない人たちだろう。

しかし、私はそうは思わない。

医者に見せたときには、「早く会いたい人に会っておきなさい」と言われたほどの末期の肝臓がん。それを治療することを選択し、そして病床においても稽古を怠ることをしなかった松喬。彼が、前年に無念の休演を余儀なくされた「上方落語をきく会」に、その翌年に出演しただけでなく、そこで新ネタを披露し、それだけにとどまらず、その後、一門会や独演会を意欲的に開催したことは、じゅうぶんに奇蹟だと思う。

享年62。ほんとうに残念だ。



落語『地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)』では、地獄の目抜き通りに寄席があって、そこには歴代の名人たちが毎日高座に上がっている、というくすぐりがある。

米朝の噺では、新入りの亡者が出演者の札に「米朝」の文字を見つけ、「あれ? 桂米朝はまだ死んでないはずじゃ?」と訝ると、古株の亡者が、「よう見てみなはれ。下に小さく『近日来演』の文字があるやろ」と言う。それに新入りが納得し、「あ、なァるほど、もうすぐ死ぬというのを知らんと、今頃、落語してるんやろなあ」と笑う、というギャグが私は大好きなのだが、本当にそんな寄席があればいいと思う。

雑談に興じる寄席の楽屋では。

枝雀「それにしても、うちの師匠(米朝)はまだ来はらないのカナ? 『来る来る』言うてだいぶになるけど、来はって、『おお、枝雀、久しぶりやないかいな。元気しとったか?』言うたら、『おい、米朝。お前さん、なに言うてんねん。ここ地獄では、死んだ者順に序列が決まってんのや。あんさんは、わたしの弟子扱いになるんやで』と一発洒落をかましたろう思てますのや」

談志「おうおう、やってやれ。米朝さんも目ェ白黒させるぜ」

志ん朝「そうなると、談志兄さんも、あたしの弟子ってことになりますよ」

談志「そこはまあ、アレだ。いいってことにしといてくれよ」

枝雀「けれども、うちの師匠やったら、『おお、さよか』ってすぐに納得しそうや」

そんな冗談で興じる中を、新入りの松喬がおっかなびっくり楽屋を訪れます。入り口に立って、松喬、声をかける。「あのう、すんまへん」

そんとき楽屋の端の方にすわって圓生と話していた6代目松鶴が、声に気づいて、立ち上がって迎える。「おお、よう来たな、鶴三(かくざ: 松喬の前名)。待っとんたんや」

他の連中も、いったん話を止めます。談志が「なんだ、笑福亭か。うちの志らく談春も早く死ねばいいのに」と言いまして、8代目文楽の隣にいた志ん生が「冗談言っちゃいけねェ」と言い、馬生・志ん朝が笑い、まだまだ大勢の人間がいる楽屋では雑談が再開されます。わーわーわーわー、やかましゅう言うて盛り上がります、この連中の陽ォ気なこと。



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きょう、はじめてこのぶろぐをよむきみたちへ


これは、きみたちのぶろぐです

いろいろのことが ここにはかきつけてある

このなかの どれか ひとつふたつは

すぐきょう きみたちのくらしにやくだち

やがて こころのそこふかくしずんで

いつか きみたちのくらしかたをかえてしまう

そんなふうな

これは きみたちのぶろぐです





上の文章が、『暮しの手帖』のコピペだとわかった大人の方は……


帰ってください。しっしっ!





『ぽんぽこ』をみおえた、ぼくたち/わたしたちへ


みなさん、じぶりの『ぽんぽこ』はどうでしたか? おもしろかったですか?

いずみやしげるだぬきは、あいかわらず、こえがきこえづらかったよね。それをもし「あじ」だとおもっているのだとしたら、とんでもないおもいちがいだよね。

ののむらまことだぬきは、「おれはじぶりのえいがで、しゅえんのこえをやったことがあるんだぜ。うきうきうぉっちんぐ」っていっしょういいつづけるんだろうね。やだね。

あのえいがは、さいしょはいいんだけど、どうしてもなかだるみがあるよね。すとーりーのきゅうしんりょくがないのは、たぶん「かっと」をなれーしょんでつなぐしゅほうをとっているからなんだろうね。すべてせつめいぜりふにかんじてしまうんだ。

あとなんといっても、あのあとあじのわるさね。じぶりは、もっとたんじゅんなはっぴーえんどであればいいんだよ。



でも、なれーしょんそのものはよかったでしょ?

あのなれーしょんはね、「ここんていしんちょう」という、らくごのめいじんによるものなのです。

らくごってしってる? しらない? じゃあさ、ちかくにおじいちゃんかおばあちゃんいる?

いたら、そのどっちかにね、「おじいちゃーん/おばあちゃーん、しんちょうのらくごをききたーい!」っていってごらん。

さらに、たたみかけるように、「でぃーぶいでぃーが、じょうげかんでてるみたいだよー」とおしえてあげよう。






落語研究会 古今亭志ん朝 全集 下 [DVD]

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これはね、ただのらくごぜんしゅうじゃないんだよ。もしきみのおうちでこれをかったら、これは「かほう」になる。おじさん(このぶろぐをかいているひとだよ)がほしょうする。

しんちょうというひとは、もともとえいぞうをのこすことにはんたいだったって、おじさんはきいていたんだ。しんちょうのそっきぼんだったか、なにかわすれたけど、それにかいていたんだよ。

だから、しんちょうのえいぞうは、そのなくなったあともきっとでないだろうってことになっていた。

おじさんは、2008ねんの3がつに「もんてぃ・ぱいそん」のでぃーぶいでぃーぼっくすをかったんだ。これだって、けっこうなかいものだったけど、でぃーぶいでぃーでかいたいものなんて、ほかにはなかったし、「えいきゅうほぞんばん」だとおもえばってことで、きよみずのぶたいからじゃんぷだうんするつもりで、かったんだよ。

ところがだ!

それをかったちょくご、2008ねんの3がつのすえあたりに、このしんちょうのでぃーぶいでぃーがはつばいされたんだ。ねだんをみてくれよ、じょうげかんで、1かんが、ていかで3まん2せんえんする。つまり2ほんで、6まん4せんえんする。ふざけんなよ! そんなの買えるかよ。2本で3万ってんなら、まだ考えないこともないけどさ。……って、いまアマゾンみてみたら、収録されている演目がすげえよ。「文七元結」('97)、「火焔太鼓」('98)、「五人廻し」('96)、「百年目」('94)、「二番煎じ」('91)、「ぬけ雀」('92)、「四段目」('90)、「大工調べ」('89)、「宿屋の富」('86)、「浜野矩随」('85)、「愛宕山」('87)、「酢豆腐」('85)、「三方一両損」('88)、「寝床」('84)、「鰻の幇間」('84)、「夢金」('86)、「大山詣り」('84)、「子別れ・下」('82)、「品川心中」('80)、「反魂香」('79)、「口入屋」('76)、「井戸の茶碗」('75)、「火焔太鼓」('73)、「五人廻し」('73)、「抜け雀」('72)、「船徳」('83)、「厩火事」('80)、「芝浜」('80)、「黄金餅」('84)、「三枚起請」('85)、「宋の滝」('86)、「居残り左平時」('85)、「今戸の狐」('88)、「お若伊之助」('88)、「つき馬」('89)、「締め込み」('89)、「お直し」('92)、「冨久」('94)、「もう半分」('88)、「文違い」('93)、「搗屋幸兵衛」('96)、「化物使い」('92)、「柳田格之進」('93)、「唐茄子屋政談」('95)。「妾馬」とか「甲府ぃ」とか他にも観たい演目もあるけどさ、こんなの絶対に永久保存版じゃん。クールジャパンとか寝言ほざいて海外の方しか向いていないやつらは、もっと日本国内のこういう文化が生き延びるすべを考えろよ。DVD 購入者に90% の助成金を出せば、ひとりがこれを6,400円で買えるじゃん。だいたい、『モンティ・パイソン』のDVD ボックスだって、これが出る前じゃ「日本語吹き替え版」は絶対に出ない、テレ東が持っているはずのマスターテープが紛失してしまったから、なんていう噂話が流れていて、しょうがないな、それまでに発売されていたDVD ボックスはもう絶版になっていたから、ヤフオクでバラで集めようかな、なんて思っていたところへ、急に「日本語吹き替え版」も収録されているこのDVD ボックスが発売されたっていう経緯があって、DVD ってのは、ほんとタイミングを間違えるとえらいことになるな、と痛感したのだけれど、タイミングっていえば、DVD というこの媒体にも少し不安が残るわけで、「永久保存版」とはいえ、最終的にそれを再生できるハードが将来なくなってしまえば、当然これは視聴できなくなるってことで、志ん朝にしてもモンティ・パイソンにしても、ただの「邪魔な円盤」に堕してしまう。時代はすでにブルーレイだしさ、いまこのタイミングでこんな高価なDVD ボックスを買っちゃっていいわけ? で、たとえ買ったとしても、5年前に買ったモンティ・パイソンを、忙しくてほとんど見ていない(満足に開けてもいない)というこの状況こそ、一番の問題であって……おいおい、もっと安心できる投資プランはないのかよ!

ハッ!

……とにかくね、これはきみたちにはそうぞうもつかないくらい、たかーいものなんだけど、あんしんしてほしい。おじいちゃん、おばあちゃんのざいりょくなら、なんてことない。かわいいきみたちがおねだりするものだったら、なんでもかってくれるはずだ。

そして、かってもらったら、おじいちゃん/おばあちゃんにこういおう。「ねえ、このしんちょうさんのらくごを、ゆーちゅーぶにあっぷろーどして、にほんじゅうのひとにみてもらおうよ」

もし「ゆーちゅーぶ」ということばがわからなかったら、「ようつべ」でつうじるかもしれないよ。「にこどう」でもわるくないんだけど、あれ、ろぐいんするのがめんどうで、おじさんはすきじゃないな。こめんとがじゃまだしね。

うまくあっぷろーどができたとしても、「ここんていしんちょう / ぶんしちもっとい」なんてたいとるをつけちゃうと、すぐにそにーにさくじょされちゃうから、だいもくだけにしようね。あと、おじさんがさがしやすくなるために、「やらいちょう」というきーわーどをもりこんでくれるとたすかるよ。

あと、せんだいのやなぎやこさん、かつらべいちょう、そしてせんだいのかつらぶんしがでていたことにもきづいたきみは、そのひとたちのでぃーぶいでぃーもあつめようね。

それじゃあ、「しっくすぽけっと」をもつという、きみたちのむげんのかのうせいをしんじて。

おやすみなさい。





本音


実際にタヌキが周りにいる人間としては、この映画は観ていて苦しい。私の住んでいるところでも、ときどきだが、タヌキが交通事故で死んで道路の脇に横たわっていることがある。

脚本も書いた監督の高畑勲の言いたいことはじゅうぶんにわかるけれど、でも、やっぱりハッピーエンドにしてほしかったな。ジブリは子どもも観るのだから、問題提起で終わらせずに、夢物語でいいからもっとわかりやすい救いがほしかった、と何度観ても思うことを、今日もまた思った。




編集

柳家小満ん『べけんや』にあった8代目桂文楽の『心眼』をはじめて聴いた。『心眼』については、以下の記事に書いている。







心眼 / 8代目桂文楽




冒頭の導入部分あたり、横浜に行った盲人である主人公の梅喜(ばいき)が、実の弟に「ドめくら、穀潰し」と呼ばれ、悔しい思いをしたと泣きながらそのおかみさんに訴えるあたりなど、真に迫る演技とも思うが、噺自体には、それほど感動しなかった。妙な話だが、小満んの文章を読んだだけにしておいて、実際の演目は視聴しなくてもよかったかな、とさえ思えた。まあ、それは言い過ぎだとは思うけれど。

目の見えない人が、神仏の力によって目を明かせてもらう、という筋は『景清』にもあり、こういう信心話は昔は巷間にありふれていたのだろう。ただし、オチというか、後半全体がどうにも気分が悪く、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」というのとは少し違うけれど、「それじゃあ、あまりにも情が薄いンじゃないかィ、梅喜よォ」と言いたくなる。

興味のある方だけ、ご視聴になればよろしいかと。



さて。

この動画のマクラにもあった、この『心眼』の由来なのだが、落語中興の祖と呼ばれる三遊亭圓朝、人によっては大圓朝とも呼ぶ人もいる*1が、その弟子の圓丸(えんまる)という人が実際に「こういう悔しい思いをしたんです」と師匠に話し、そこから圓朝が膨らませて作ったというものらしい。

で、文楽は、その圓丸に実際に会っている。音曲師(おんぎょくし)である彼を、前座時代の文楽が手を引いて、高座に上げたというのだ。これって、すごいことなんじゃないかと思った。

圓朝Wikipedia によれば、1900年(明33)に没したとあるから、1892年(明25)に生まれた文楽は生身の圓朝を観たという可能性は低いだろう。

けれども、その圓朝を当然知っているはずの弟子の圓丸には会っている。ここで、圓朝文楽が繋がる。

時代は下って、その8代目の文楽に、先年亡くなった立川談志が会っている。会っているどころか、叱られたりもしている(Wiki にも記述があるが、叱られたエピソードは『現代落語論』に記載されている)し、たぶん稽古をつけてもらったりもしていると思う。これで、圓朝 - 圓丸 - 文楽 - 談志と繋がる。

そして、先日私が落語会に行ってきて観てきたのが、談志の弟子の志らくだ。志らくは、談志気狂い(と言ってもたぶん本人は怒らないと思う)と言ってもいい人で、マクラでも談志の話がたくさん出ていた。

……とここまで書いて、先日の落語会の後篇(志らく篇)を書いていないことに気づいた。うへぇ。

すぐに書かないと忘れてしまいそうだけれど、たとえば、こんなくすぐりを披露していた(もちろん不正確な想起)。




談志が死んだ。これは回文になっているんですけれども、おととしに談志が死んで、もう1年と半年が過ぎようとしていますが、この年は、いろいろな方が亡くなりました。金正日でしょ、ウサマ・ビンラディンでしょ、カダフィ大佐でしょ。で、談志っていう。これで世界の独裁者が4人死んだってことになります。




とか、




談志もいろいろと名言を残しました。けれども、その談志と仲が良かった先代の圓楽師匠。この人のいった一言に優るものはとうとう生み出せませんでした。円楽師匠はこう言ったんです。「あたしはねえ、差別と黒人が嫌いなんだ」




もちろん、ふたつとも大ウケだった。



話を元に戻すと、生の志らくを観たことで、私は圓朝 - 圓丸 - 文楽 - 談志 - 志らくと繋がってきた線に触れることができた、と言える。落語中興の祖であり、日本語言文一致の祖でもある大圓朝の声が、上に挙げた4人だけでなく、それこそ多くの噺家たちの声を通して、私の耳に伝わったのだと思う(志らくを聴いていた瞬間には、私はげらげらと笑っていただけでそんなことにはこれっぽっちも気づかなかったのだが)。この「声」は、一般的な音声という意味ではなく、どちらかというと「思い」に近い。

そして、願わくは、の話にもなるのだが、ここに私が文章を書くことで、もしかしたら圓朝の声の残響のようなものが、読んでいる方にも少しくらいは届くのではないか、と思ってしまう。うん。そうであったらいいな。



*1:くわえて言えば、現代の言文一致の祖でもあり、私はそっちの方で圓朝の名を先に知った。



編集

落語に限ったことではなく、観劇でも同様のことが言えると思うのだが、観客というのは、金を払ったから「さあ、やってみろ」というものではいけない。

やはり愉しむためにはそれ相応の工夫とか努力というものが必要だと私は思っていて、観劇であれば、面白いところは笑い、驚いたところは驚き、つまり喜怒哀楽の表情を、より大袈裟に振るまい、あわよくばそれが演者に伝わるようにする。

「客なんだから、そんなことする必要ないよ」と考える人は、きっと損をする。その損の仕方は、レストランでの損の仕方と似ているけれど、それはまあ以前も書いたことなので、省略。

5/18、土曜日。大阪は梅田にまで行って、『桂雀々 必死のパッチ 5番勝負』を観てきた。落語会に行ったのは2回目なので、まだ初心者中の初心者なのではあるが、やっぱり観客の方にも「いい高座にするぞ」という気概があるべきだと感じられた。

私が観たのは、5番勝負の2番目と3番目。柳亭市馬立川志らく

会場に入るとネタのアンケート用紙が配られ、各噺家が五席づつを候補として挙げているので、一番観たいものを選んで集計箱に入れる。

市馬は、笠碁、七段目、掛け取り……とあとなんだっけなあ。すぐに記入して箱に投函してしまったので忘れてしまった。

そのときの雀々は、夢八、鷺とり、天王寺詣り、猿後家、疝気の虫。夢八は知らない。天王寺詣り、疝気の虫、は誰かが実際に演じているのは観たことがない。速記本で知っている程度。

私は、市馬は『笠碁』を希望し、雀々は『鷺とり』を希望した。

市馬の方は、小さんの『笠碁』がどのように受け継がれたのかというのを観たかったからで、雀々の方は、やはり同様の理窟になってしまうのだが、枝雀の『鷺とり』がどのように受け継がれたのかというのを観たかったのだ。

集計前に、前座として雀々が『動物園』を演じた。噺の内容よりも、マクラが面白かった。

入門したての頃、自分が雀々という名前をどうもらったのか。枝雀が、その前に命名される前の雀々をすわらせ、そこで硯を磨って、半紙にさらさらさら、と書き、それを見せる。「いいか、きみは今日から『雀々』だ」というやりとりがあったわけではないんですよ、と。

内弟子になってからいくらか経ってある昼どき、枝雀の奥さんが「ねえ、お父さん、この子に芸名をつけてやったら?」、そのときの枝雀、冷麺を口いっぱいにほうばり、「うんうん」言っている。奥さん「ねえ、お父さんったら!」、そうしたら枝雀、口の中に冷麺を詰めたまま「うん、じゃくじゃく」と言って、それで雀々が決定、という話。

一番苦手だったのは電話の受け応えで、当時の四天王からの電話は緊張した。松鶴、文枝はまだわかりやすい。米朝はただただ恐ろしかった。わからないのは春團治。電話の向こうの方でぼしょぼしょ言っているのだけれど、誰だかよくわからない。「もしもし!」とこちらで尋ねるのだけれど、変わらず向こうはぼしょぼしょぼしょ。後ろからそのやりとりを聞いて苛々した枝雀が「誰なの? 誰なの?」としびれを切らす。「いや、よくわからんのです」と雀々。「もう、切ってまえ!」と言う枝雀の命を受けて、「もしもし! すみません、よく聞こえないんで切りますよ!」と雀々が言うと、それまでぼしょぼしょとやっているだけだったのが急に大声で、春團治~!」と怒鳴った、という話(ほんとはもうちょっとつづくんだけど)。

実はこのマクラ、私は3度目くらいだったのだが、それでもやっぱり聞いて面白かった。『動物園』の本篇が終わり、近くにすわっていた高齢のおばちゃんが、娘さんらしき人に向かって「また、あのマクラやったなあ」と言っていた。「そやなあ」「ほんま、何度聞いたかわからんけど、何度聞いてもおもろいわ。よかったわ」

それを聞いていて、いいなあと思った。落語なんて、古典を何度か聞いていれば、絶対に「あ、これは聞いたことがある」ということになる。たとえば現在に残っている古典が200席あったとして、その200席を全部聞けば終わりかっていうと、そういうものでは決してない。むしろそこから、という感じすらする。

何度聞いても面白い、というのはもしかしたら事実ではないかもしれない。笑いというものは、最初に見聞きしたときの驚きが肝要だし、2回目、3回目と回を重ねるごとに、その驚きは失われ、新鮮さもどこかに吹き飛んでしまう。

それでも、「何度聞いても面白い」とそのおばちゃんは思ったのだろう。ヘンな言い方だが、面白いと思いたい、という思いから面白く感じたのかもしれない。少なくとも「あ、また同じや。しょーもな、こればっかりやな」とは思わなかったということだ。



仲入り前ということでアンケートの集計が終わり、市馬は『掛け取り』、雀々は『天王寺詣り』ということになった。

私は「んー?」という感じだった。私は、お客さんからすれば『笠碁』が一番わかりやすいのに、と思っていたからだ。

『掛け取り』は1/26の落語会で米團治が演じていたのを観て、かなり面白いものの、結構難しいのではないか、とも感じられた。

年末の借金の取り立てに来る者の好きなものをいろいろと言葉に読み込んで相手の機嫌を良くし、それで追っ払おうというのが噺のだいたいの主旨なのだが、たとえば相撲好きの人間には、「いつ返ぇせるんだい?」という問いかけに「せめて、馬富士まで待ってくれませんか」というような、いわゆる「もじり」を行う。

これは、かなり集中していて、しかもその分野、たとえば上記の場合は相撲にある程度詳しくないと、多少口調の変化で「今ここで洒落ていますよ」というのはわかるようになってはいるものの、ピンとは来ない(私は例によって「愉しむモード」に入っているから当て推量で喜んでいたけど)。

相撲好き、狂言好き、芝居好き、と来て、最後に取り立てにやってきたのが、「三橋の旦那」。この名前が呼ばれただけで、会場のごく一部から笑い声があがり、すこしざわざわした。

そこですぐに市馬は「三橋の旦那ってのはね、三橋美智也がそりゃあもう大好きっていう旦那で、これは若い方には通じないんだが、65歳以上には絶大なる人気があるっていうそれくらいすごい旦那なんだ」みたいな台詞を入れて、「ああ、三橋美智也を唄うな」と観客にわからせていた。

で、実際に、問答をすぐに三橋美智也の歌のメロディーに乗せて替え歌をしたのだが、これが、本当に一部だけ「うひゃひゃひゃひゃ!」みたいに手を叩いて大喜びしているお客さんがいて、さっきの近くのおばちゃんも「あらー」などという驚きをこぼしながら、喜んで手拍子なんかを入れてしまっている。ここで盛り上げなきゃ損なので、私も、三橋美智也は名前くらいしか知らないが手を打つ。結句、会場は大盛り上がりをする。

だが、だ。

一方で、やはり近くにすわっていた40代くらいの女性が「えーわからない」を小声ながら連発する。それを聞いて、そりゃそうだろうなあと思いつつも、でももうちょっと盛り上がろうぜ、と感じる。

見ていると、手拍子も打たないし、どころか、市馬が気持ちよく、しかもものすごく上手に唄っているところを、退屈そうに首などを回し始める。で、また小声で隣の同年代の女性に「わかんないんだけど」と耳打ちしている。相手はうんうんと頷く。

もうね、こういうのが視界に入るだけでシラけてしまう。なんというか、そりゃ態度が違うだろ、と思う。客を批判するなんて言語道断だよ、とかつてこのブログで私自身が書いたことがあって、それに矛盾するようだが、あんたの「わかんないアピール」はもうわかったよ、と言いたかった。

あのね、古典落語、しかも市馬は東京の古典落語だけど、もし市馬が三橋美智也を唄わなかったら、あんたはそれ以外は一言一句すべて理解できたっていうのかい? そんなことないだろ。落語なんて、時代設定によってわからないもの、わかりにくいもの、通じにくいもの、があるし、まして演者の声ひとつがたまたま聞き取れなかったというだけで、ひとつのくすぐりの意味がわからなくなってしまうということもあるんだよ。それなら、その噺はすべて「つまらないもの」になってしまうのかっていうと、決してそうじゃない。それを補うのが、想像力なんだよ。落語の観客に一番必要なのは、想像力。想像力で「ああ、たぶんこれはこういうことなんだろうなあ」と推量し、それで面白がるんだ。三橋美智也を知らないのは全然構わないけれど(私も知らなかったし)、けれども同じ会場にいて「げひゃげひゃ」と狂ったように腹を抱えて笑っているおじさんが、あんたの隣の隣にいるでしょ。それを見ているだけでも笑えない? なんでこんなにおかしいのかなって。そんなにおかしいのなら、自分が笑えないっていうことが少し悔しいとか思わない? どこかで笑ってやろう、とか思わない? ああ自分が三橋美智也を知っていたらもっと笑えたんだろうな、でもあれ、これって私の場合だと郷ひろみとかに当たるのかしら、とか、そういう想像をしてみたりしない? それがはたして面白いかどうかはわからないけれど、少なくともその想像している時間は退屈には感じないでしょ。市馬は、そこらへんの半可芸人なんかじゃなく、本当に一流の芸の持ち主だよ。それをたかがひとりの歌手を知らないってだけで、誰に対してのアピールなのか知らないけど「わかんなーい」とやるには、態度が幼稚すぎない?

市馬の唄を愉しんで手拍子を打ち、背を丸めて椅子から転げ落ちそうになっているおじさんと、一緒に唄い出しそうになるおばさんを確認しつつも、「わかんなーいアピ」女性のほんのちょっとのつまらない態度のせいで、心にさっと影が走るというような気持ちになってしまった高座だった。もちろん、市馬は悪くないです。こういうふうになるんじゃないか、と予め危惧したということもあって、私は『笠碁』を希望したんですけどね。

そうそう。あらためて断っておくけれど、『掛け取り』を望んだのはお客さんの方だから。



『天王寺詣り』に決まってちょっと渋っていた雀々。というわりにはきちんと演じていたようには思うのだが、生意気なようなことを言うが、こなれた感じというのはなかった。「こなれた」というのは「自家薬籠中に入っている感じがある」ということだ。

噺の内容じたいに、それほど笑いどころはない。けれども、後半に彼岸中の天王寺界隈の出店の様子が語られ、たとえば「早鮨握り」や「覗きからくり」の呼び声、そして「ガマの油売り」の口上(ただしそれほど長くない)などがあって、ここらへんは非常に楽しい。楽しいのだが、「うわあすげえ」という楽しさなので、笑い声はほとんど上がらない。時代考証的な楽しさなんだろう。

けれども。

くすぐりがあまりないという点から、なんとなく会場が重くなってしまっていた。声が上がらないというのはわかっていても、お客さんの持っている「気」が雀々の方に行っていない、というのは客席にすわっていてもわかった。私ですら感じられたということは、舞台の雀々からしてみれば結構辛かったのではないか。

人形の物売りだか口上だかのとき、「あのう、お客さん、ついてきてます? わたくし、ヒジョーに孤独を感じながらやっているんですけれども」と言って笑いを取り、現代人にはほとんどわかりにくいその人形の説明を行なっていたが、「孤独を感じている」という台詞はわりと本音だったのではないか、と思う。

たとえば『手水廻し』のような、誰にでもわかるような滑稽話と違い、『天王寺詣り』は、人情噺では決してないけれど、わりあい難しい噺だと思う。そんなのをやるべきだったのか、と私などは思った。

なにせ独演会であるから、毎回来ているお客さんからは、「もう『手水廻し』(は選択肢になかったけれども)はええから、いつもと違うのにしよ!」と選んだのが『天王寺詣り』だったのかなあ。だとしたら、そのチョイス、私は失敗だったと思いますよ。『鷺とり』でよかったと思うんだけどなあ……。

というのが、2番目の大まかな感想。ちょっと長くて疲れたので、つづきは次回。



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東西名人揃いぶみ第五巻 小せん/八代目助六/四代目柳好/歌丸

東西名人揃いぶみ第五巻 小せん/八代目助六/四代目柳好/歌丸




柳家小せん『風呂敷』


四代目だそうな。小せんというと、もちろん直接知りはしないのだが、廓通いのあまり梅毒で腰が抜け、そのうえ白内障で失明した初代が思い浮かぶ*1

『風呂敷』は、志ん朝志ん生のもので知っていたが、この人のはたぶん志ん生の演っていたのと同じ型なんじゃないかな。志ん朝のは、それにくわえていろいろとわかりやすい演出が加えられていたのでげらげら笑えた。

ということはつまり、志ん生・小せんの演じている型は少し物足りないということである。

志ん生の落語をいくつか聴いて感じたことだが、総じて、昔の噺は、「ここをこうすればもっと面白いのに」と思うところが少なくない。より原型に近いというのか、良くも悪くも(たいていは「悪い」が)演出や構成が素直なのだ。





八代目雷門助六『長短』


『長短』は、長屋の隣同士の、超がつく短気の江戸ッ子と、超がつく気長の上方の男とのやりとり。演者の助六は初めて聴いたが、その短気と気長をうまく演じていたとは思う。

だが、この上方の男のゆーったりとした間(ま)が怖い。

もちろん、それを見て「てめえはなんでこうスッとしゃべらねえのかなあ。ああもうじれってえ!」と癇癪を起こす江戸ッ子のリアクションでカタルシスを得るのだが、それにしても、現代ではなかなか通用させにくいのではないか。

たぶん、この間を見せる演目なのだろうが、現在の客なら、その間を味わっているあいだにくすぐりやサゲを予想してしまうので、案外「なあんだ、気を持たせたわりには、つまらないなあ」ということになってしまうと思う。難しい噺。





四代目春風亭柳好『二十四孝』


柳好も初めて。低い声でぼそぼそとした印象。それはそれでいいのだけれど、問題はストーリーの方。

最初は『天災』かと思ったが、中国の昔の偉人たちがその親にどのような孝行をしたかという話になる。たぶん導入が一緒で、そこから枝分かれしてできた話なのだろう*2が、こういうときに出てくる「乱暴者の八五郎」の粗暴さが、どうにも聴いていられない。母親に腹が立ったから蹴飛ばした、という話を聴いて、素直に腹を抱えて笑える人間がいるのだろうか。

これを笑わせるために、たとえば八五郎をどこか愛嬌のある間抜けにしたりするような演出をいくつか聴いたことがある。けれども、ほとんどの場合は「ただの乱暴者」で演じてしまっている噺家が多いのではないか*3

文治『豆や』のところでも書いたかもしれないが、ただのいじめ・乱暴が延々とつづく、というのは演じている方はそうでもないのかもしれないが、聴いている方は愉快でない。愉快でないというより、退屈してくるし、はっきり言って「こりゃ観なくて(聴かなくて)いいな」と思えてくる。そういう視聴者が少しでも笑えるように、という工夫が「芸を磨く」ということで、それは「媚び」とか「迎合」じゃないと思うんだけどなあ。

現在の噺家であれば、こういう問題に正面から向い合ってほしいもの。





桂歌丸『城木屋』


あの歌丸。まだ若い頃で(34年前だから当たり前だけど)口跡もよい……のだろうが、どうしても好きになれない。

「あぁー」とか「うぅー」というポーズフィラーがまったくなく、よく稽古をしているというのは充分すぎるほどわかるのだが、若すぎて才気走っているというのか、ちょっとした「才」を存分に過大に見せつけようとするというのか、ともかくそういう調子がどこかにあって好きになれない。

これはもう好みの問題なのだろうが、私はとぼけた芸風を好むところがあって、「どうだ、面白いだろ」みたいな感じでこられると(歌丸はそれほど主張してはいないのだけれど)、どうしても反撥の方が大きくまさってしまう。それほどでもねえよ、と。そしてこれは、落語だけの話じゃない。同様のことは、人間づきあいの中でも言えるだろう。

話は、初代の三笑亭可楽が作ったもの、なのかな。三題噺というには、サゲができすぎの感もある。原型をもとにしてだんだんと練られていったのだと思われる。

あ。あと、洟をすする音をマイクが拾ってしまっていた。水っ洟をすするというのではなく、固形物(?)を思いっきり吸うという感じのすすり方だったので、非常に聞き苦しかった。おそらく歌丸も、これほどマイクが大きく集音しているとは思っていなかったのではないか。





*1:古谷三敏の漫画で知ったのだと思う。


*2:あるいは、先にサゲができて、冒頭をくっつけたか。


*3:ましてこれを、「人間の業」だとか言って正当化するのは的外れだろう。



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