とはいえ、わからないでもない

カテゴリ: 小説

編集
弟に薦められて読んだ。
ワイオミング州というアメリカでも大自然と保守的な価値観や文化がいまだ残っている地域――いわゆる「男の世界」とエルクやムースやプロングホーンといったわれわれ日本人にはなかなか訊き馴染みのない動物たちとが同居する場所――が舞台で、主人公はそこの猟区管理官。ハンターたちの違法な行為を取り締まる仕事である。
……などと丁寧に書いていくのも面倒。そんな世界において主人公はいったいどういう人物でどういう振る舞いをするのかというと、自己を貫き、愛すべき家族を守るという、言ってみりゃただそれだけ。これを、都市部に住む人間が見れば「ほう」と目新しいものに出会うような感覚になれるのかもしれないが、現にそういう「古い世界」に住んでいる者からすりゃあ、日頃、見慣れ耳慣れているようなことが多い。エルクやムースやプロングホーンの代わりにいるのが、イノシシ、シカ、カモシカ、タヌキ、イタチ、ハクビシン、アライグマ、アナグマ、キツネ、ヘビ、サギ、ウズラ、キジ……等々なだけで。
「自己を通して家族を守る」といった正義漢にはついぞお目にかかったことがないが、こっちは「カウボーイ」の概念を持ち出してくりゃ事足りる。なんというか、この主人公の人物像じたいが古く保守的なものである、というその皮肉な構造みたいなのを作者が理解して書いているのかどうか、そこは気になるところ。
こういうのって、都会の人がいわゆる「スローライフ」をたのしむのと似たようなものを感じる。ビジネス田舎暮らし、農業コスプレ、等々。まあ人間なにをしようと他人にとやかく言われる筋合いなんてないんだけれども、間違っても「ホンモノ」とか言ってなにかを批判する材料に使わないでくれよなって思う。
けれども本書が決定的に魅力に欠けるいちばんの理由は、主人公のマヌケ具合だった。はじめから彼についての凡庸とか真面目などという形容詞はいくつか出てくるのだが、そういう人間が、我慢に我慢を重ねて最後に爆発するってのは非常に既視感あふれるパターン。ただ、「不器用」なんて言葉をまるで美徳みたいに扱う風潮のある日本ならともかく、こういうのがアメリカの作品で見られることについてはちょっと驚いた。合目的的あるいは合理的に振る舞うことをスマート(文字通り賢いということだが)とし、それを最上とするお国柄だと思っていたもので。ドナルド・トランプですら、ディールなどと言ってさも賢くやり手のように見せたがっているくらいなものだから。
主人公の判断の遅れによって、狡猾に振る舞うキャラクターにいいように利用され、結果、家族がめちゃくちゃ重いダメージを受けるっていう、このラストのどこに救いを見出せるというのか。ルメートル作品のようにあらかじめ悲劇が待ち受けているということが運命づけられているものならともかく、本作は、そこまでシリアスな結末が必要だとは思えない。となると、幼い娘のトラウマや妻の一生消えないであろう心の傷を作者自身がそれほど重いものだとは考えていないということなのかもしれない。ちょっと考えにくいが、もしそうだとしたら、それこそ「男の世界」の感覚ではないか、なんて首を傾げたくなったのだ。

編集
例の、とか、件の、とか、いま話題の、などいろいろと形容詞はあるのだが、つまりはあの「候補作」についてなにかと言及されているようだ。
本編も、それから参照されたほうも読んでいないので内容についてはいかようにもコメントできない。
ただ、小説とか文学というものについて僕の持っている一般論を記録しておけば、文学とモラルとはそれぞれ独立しているということ。モラルを語ったり、あるいはモラルというものを強く意識させたり刺戟するような作品というものがある一方で、まったく非道徳的・非倫理的でありながら、かつ高い文学的価値を有しているものもある、ということ。
だから、ある文学作品に対して「これは非道徳的である」と批難するのは、批判ではなく、ただの好みでしかない。好みはとても重要だが、他人に対しての説得力は、あまりない。
しかし、上記は内容が道徳的であるかどうかについてのことであって、今回の件では、手法的な道徳性が問われているらしいから、ますますそこを混同しないようにしなければならない。

くわえて。
それ以上にもっと大事なのが、日本の若い小説家の小説において見られる「問題意識」が往々にして卑小であるということ。はっきり言って、読む気が起こらない。
たとえば「現代社会の生きづらさ」みたいなテーマは、もう何十年つかわれつづけているのだろうか。もし、なにかの救いや答えを模索するために読まれるのであれば、小説なんかより、いまはよっぽどすぐれた学術研究書がそれぞれの専門分野(福祉、貧困、病気 etc.)にあるように思う。
そういう「正道」に行かずに、あくまでも自慰行為のグッズとしてたのしむというのなら理解できないこともないが……。
その一方で、救いなりなんなりは必要ない、ただただ文学としてたのしみたいんだ、という人にとっては、外国文学と比較したりするとだいぶキツイように思う。文章のレベルは高いし(ただし「翻訳文は苦手」という人が多いのも事実)、取り扱われている内容が広汎にわたっているにもかかわらず、しっかりエンターテインメント性が確保されていたりもする。
ちょっと話題を変える。
昨今は日本のワインのレベルが上がっている、という言い方がされることが多いが、しかし同価格帯の世界中のワインと比較すると苦戦を強いられることのほうがほとんどだと思う。なんとなれば、日本のワインはまだまだ高いし、反対に、海外では高品質低価格のワインが少なくない。
「日本ワインラバー」たちは寛容で、金払いもよく、それぞれが独特な連帯感を持っているように見える。それに対して、「日本ワイン」とか「国産」ということに特にこだわらない人たちは、チリや南アフリカ産のワインなどを飲んでもっとラクに幸せになっている気がする。もちろん、どちらも幸せといえば幸せである(世の中には、ブルゴーニュ以外はワインとして認めない!というような求道の者たちもいるそうであるからして)。
どうか、いわゆる日本文学が、「日本文学ラバー」の好事(こうず)の対象で終わってしまわないように。

編集
福田和也が、「入れ替わりもの」というテーマの裏で書きにくい父娘の淡いエロスを描いていて巧妙、と評価していたことを記憶していたので読んでみたが、その点は僕のなかであまり興味のない部分だったせいか、そうかなあという程度。
エンディングあたりで、「せ、せつねー」ってことになるんだろうけれど、たぶんそう思うのは男の読者のほうが多そう。ストーリーも、いちおうその視点で描かれているわけだし。
でも、女性の読者は心の底ではどう感じたのかな、ってことに興味ある。たぶん作者は、読者の感動する方向性として「せつねー」のほうに持っていきたいのだろうけれど、もうちょっと複層的に解釈すれば、奥さんの視点もあるはず。
そこから見ると、妻離れできない夫へのささやかな復讐のように見えなくもないのかなあ、なんて。
ずっと愛情がつづいている、という幻想のもとに生活をつづけている夫に対して、嫌いになったというわけではないけれど、関係性が再構築されているこの状態で、その愛情がつづいていると信じきっている夫の想いそのものが重い(シャレじゃなくて)、と妻は思っているのでは?
小説内でそのような両者の視点が巧みに描かれているということはなく、あくまでも夫視点だけなので、福田が言うほど巧妙な感じはしない。むしろ単純かと。すっかり内容は忘れてしまったけれど、安部公房の『他人の顔』のほうが、もっと面白かった記憶がある(全然テーマも違うのかもしれないが)。

ただ、単純な「入れ替わりもの」だけで終わらず、妻が死ぬきっかけとなった事故の加害者家族の問題(『手紙』に通ずる)や、被害者の真の救済についてにもちらと触れられているところが、この作者が誠実だと感じられるところ。特に後者。事故の賠償金によって焼け太りしたかのように見える遺族を揶揄するその部下に対して、主人公が心のなかでつぶやく言葉――目に見えるものだけが悲しみではない(文春文庫版 409p)――が全編を通じていちばん印象的だった。

……と、いま奥付を調べてみたらもう20年前の作品なのか。やけに舞台設定が古いなあ、と思ったし、とくに、主人公がほとんど料理しないで、娘の身体に憑依した妻に任せっきりという点がとても気にかかったが、当時は「家事は女性がするもの」という感覚がまだ一般的だったのかな? にわかに首肯しがたいが。
このように主人公があまりにも家事をしないもんだから、あまり感情移入できなかったんだよな。(別に逃げられる話ではないが)逃げられてあたりまえだよ、と。まあ、時代とともに価値観が変わったことで作者を責めることはできないが、20年前に読んだ人も、いまあらたに読み返してみると、また違う感慨を覚えるかもしれない。そういう感想を聞いてみたい。

編集
副題が「メルカトル鮎最後の事件」となっているが、れっきとしたデビュー作。じゃあなんで「最後の事件」なんだっていうツッコミは当然起こるし、また、そもそもメルカトル鮎っていうネーミングがなあ、っていうツッコミも。
こういう隙をあえて見せてくるタイプはたいてい手強く、実際、まあいろいろと衒学的な記述が出てくるのだが、しかし僕みたいに質の悪い読者ともなれば、「どうせこんな情報、殺人やトリックと関係ないんでしょ」とはじめから高をくくってしまい、ほとんどを本気にとらないために、書き手の熱意以外はあまり伝わらなかった。それは、執筆当時、若干21歳で現役大学生だった作者に相当失礼な部分もあったと思うのだが。

かつて読んだ『隻眼の少女』のように、本作も最後らへんで話がやたらとひっくり返る。ただ、かなり技巧的というかあざとい部分があるので、ひっくり返される快感および驚きがほとんどなかった。というか、警察が出入りするなか10人ほどが殺されているという状況を、まず飲み込むことはできなかったし、「もう誰が犯人でもいいし、誰が謎解きしてもいいよ」って感じだった。これは、僕のミステリ読みとしての熟度不足のせいか、はたまた、作者の描いたキャラクターの魅力不足のせいか、どっちのせいだろう。
けっきょくこの作品についても、悪い意味での箱庭的感覚と、僕自身のミステリへの適応能力不足とが味わわれ、いまさらながら「なんかミステリが性に合っていないのかも」とちょっと自信をなくしてしまうほど。作者の労苦はよくよくわかっているつもりなのだが……たのしくないんだよねえ。

まあ、かなり当たりが少ないってことを実感しているため、しばらく麻耶作品は読まなくてもいいかな。

編集
きっと麻耶雄嵩の作品ってのは、「これはあのトリックのアンチテーゼだな」なんてことを察せられるミステリ素養と、「ハッハッハッ」と笑い飛ばせるような大きな度量がないとダメなんだろう。
ちょっとしか読んでいないが、清涼院流水のトンデモと言ってもあながち言い過ぎではない作品(犯人は誰でもいい、みたいな結論のもたしかあった)はまったく受け容れられるというのに、麻耶になるとちょっと辛い、というのは好悪の問題なのかなとも思う。
清涼院のほうはキャラクターがめちゃくちゃ立っている(正確にはキャラクターの「設定」が立っている)けれど、麻耶のほうはそれすらもなく、文章もどうでもいいレベルだし、笑うこともできなければ相当な苦行にもなってしまうし、実際なりかけていたのだが、ただ、この短篇集のなかにひとつだけ叙述トリックで驚かされたものがあったので、「最悪」という評価はしなくて済んだ。
そのやり方がフェアとかアンフェアだとかいうのはもう二の次で、目新しさを獲得できればとりあえず元はとれたという気がした。最後の数ページで読者を「えっ、えっ、えっ?」とびっくりさせるために、作者はあの手この手をいろいろとひねくりだしたんだろうなと考えると、そこに敬意の萌芽のようなものを感じざるを得ないしね。
なお、この作品(と他の作品とのミックス?)はテレビドラマ化されたらしい。観ていないで言うのもなんだが、絶対成功しなかっただろうなって思う。テレビドラマ業界、そんなにネタがないのかね?

編集
図書館の優れているのは、いまでは本屋に並んでいない小説を簡単に手に取ることができるところ。
源氏鶏太って名前は聞いたことがあったけれど、いまは昔の人だよねえ、というつもりだったが、どこかの出版社が復刻していた気もする。そういえば獅子文六も最近ちくまが復刊していたっけ?
とにかくサラリーマン小説として有名な作家だそうだが、この小説はタイトルどおり、漱石『坊っちゃん』のストーリーにその骨格をなぞらえている。
なので、文庫本の後ろに書かれたあらすじにある「痛快小説」という説明は、本家と同様、いまいち当たらない。痛快な部分はあるにはあるのだが、それが最終的に苦さをともなって終わる、というところまでがひとつのセットになっているから。

読み始めは、なんともつまらん、という感想しか生まれなかったが、次第になんとか体裁をなしていくというか、こちらの感情もやや乗ってくるところがあり、とりあえず最後まで辿りつけた。
昭和二十年代半ばごろ、大学を出た青年が就職早々に田舎の工場に出向となる。東京の人間らしく主人公は田舎での日常をただでさえ面白く思わず、そこへ来てホワイトカラー特有(?)の組織内処世術のあれこれに嫌気を覚える。そこでまあてんやわんやの大騒ぎをするのだが、登場人物も意外に多く、それらが適度に、というかほとんど戯画化された造形をもってあらわれるので、飽きないようにはなっている。
しかし、なにしろ主人公が女性にモテすぎなのがこの小説のいちばんの瑕疵だ。また、腕っ節も立つときている。この二点が漱石『坊っちゃん』の「おれ」にはなかったところで、僕も読んでいて、ご都合主義にもほどがある、と鼻息を荒くしたものだ。
特にモテる部分。いまのマンガやアニメでいうハーレムものというか、主人公の男がやたらと多くの女性キャラにちやほやされるというジャンルがあるが、その源流ともいえるような(すくなくとも上流であろう。古くは西鶴とか?)設定で、こういうものがウケる素地みたいなものはいまも昔も変わらないのかなあとも思った。

ちょっと話題は逸れるかもしれないが。去年の秋、小沢昭一のCDボックス10枚組というものをまとめて聴いていた。全体的にいえば話芸とすれば超がつく一流で耳に流しているだけでも非常に心地よかったのであるが、けれど一点だけ、なかなか手放しで喜べなかったのがいわゆるお色気話に属するものが多かったところで、「一皮剥けば男も女も好き者ですよね。ねえ旦那! そうでしょ奥さん?」みたいな価値観で語られ、そしてそれらが当時は(?)広く受け容れられていたのであろうが、これが聴いていてなかなか辛いのである。なお、「すじがき」は小沢本人がつくっているものではない。
林家じゃないけれど、下ネタと楽屋オチってのは僕のなかでは芸として認めたくないところがあって、小沢昭一はたいへんすばらしい芸人だし、その考え方にも非常に同意するところは多いのだけれど、その「下ネタ多し」の点だけは非常に聴き心地が悪かった。
ここ数年、関西のローカルAMラジオを聴かなくなったのも、ほかに聴くものが増えたということもあるけれど、それ以上に下ネタが多すぎるってのが理由だ。なーんか、いやなんだよね。
「ハーレムもの」についてだって、結局はそれに付随するエロシーンがウリなわけであって、そういうのって急激に醒めてしまう。「下ネタは万国共通だから」みたいなことを言う芸人がときどきいたりするけれど、自分の無芸を棚に上げてなに言ってんだって思う。落語の艶笑噺はまあ笑えるものもあるけれど、あれもまたそれだけしか演らない人間に名人はいないでしょ。
「万国共通」で思い出したけれど、あのクソ漫画『こち亀』にもそんなことが書かれていた気がする。あのマンガは、当初は括弧つきの「女子供」を見下して、趣味(プラモとかサバイバルゲームとか)に走るのが男の道よ、という括弧つきの「硬派」なギャグ漫画だったのにも関わらず、長期連載がつづくようになってから、転向。やたらと女性キャラが出てくるようにもなったし、それに、当初はバカにしていた関西がいつのまにか一目置かれるような存在に変わっており、しんそこ八方美人マンガになってしまったんだよな。

『坊っちゃん社員』のほうに話を戻すと、主人公がやけにモテるという部分が描かれるのはやっぱり読者にそういう設定なり展開なりを喜ぶ向きが多かったからではないか。モテりゃその先があって……ムフフと読者が先を読んでくれるだろう、そういう目算があったのではないか。そういう底意が見えるようで情けなくなってしまうのである。
ただ、会社に隠れて取引先からマージンを取っていたという男が、その責を負って辞めさせられたときの顛末などにはなかなかにリアルと思われる点もあって、カリカチュアライズされたなかにも、本音をすこし加味しているようで、ゆえに多くの読者を得た(?)のではないだろうか。

まあ最終的には章題にもあるように「青春悔多し」といった展開になる。
はっきり言って青年は敗北するわけだが、その敗北感はなにも青年だけにではなく、当時のサラリーマン社会全体がなんとなく担っていたものなのかもしれない。
作者は本家『坊っちゃん』の「おれ」のような無鉄砲な人間を(当時の)現代に呼び戻し、くさくさするような因果なその稼業を一時的にでも破茶目茶に掻き回そうとしたのではないか、読んだ人たちの一服の清涼剤となるように。
ただし、総体の感想としては、二十一世紀となった現代で風俗的資料価値を認めない限りは、あまり読む必要のない小説だと思う。だからといって、図書館の書架からはずされる必要もないと思うが。

編集
……はちょっと書けないな。どう感じたか、を書いてしまうだけで、未読の人にバイアスを与えてしまうような気がするし、それってひとつのネタバレでしょって思っちゃうから。
ただ、グロい。
猟奇的描写の背景として、あの宮崎勤事件(1989年)が小説中に実名で出てくるのだが、いやちょっと古いよなあ……と奥付を見たら1992年の作品らしい。いやー四半世紀以上前かあ。そりゃあ登場する歌手が岡村孝子なわけだよ、と納得。
それにしても、僕がグロ描写にそれほど衝撃を受けなかったのは、四半世紀前に較べていろいろな表現が過激化していったことも理由としてあるのではないか。最近日本でもヒットしたピエール・ルメートル作品もかなりグロかったし、たぶん国内でもグロを得意とする作家なんているんじゃないかと思う(僕自身はそういう表現は好きではないので、もしそうだとわかったら読まない)。
あと、講談社文庫版の笠井潔の解説も併読するとより理解が深まるだろうと思う。ただし、必ず読了後にすべきだ。

綾辻作品なんかでも感じたことなんだけれど、小説そのものが非常によくできた箱庭という感じで、感心するくらいに細部にまで手入れがなされている。
その反面、なーんか感動がないのよねえ、という贅沢な不満も残る。小説そのものへの感動はもちろんあるし、本作品は傑作だとは思うものの、率直に言って「ちょっと泣けちゃうよな」、そういうエピソードなんかはないことが多い気がする。そういうのがあったらなあ……。

あと、こういう小説を、「○○な小説ベスト10」みたいなランキングで知るのではなく、本屋でたまたま手にとって購入→読む、みたいな流れが読者にとっていちばん幸福だと思う。
そういう意味では僕も非常に幸福な出逢いができたので、まだ読んでいない人の幸福まで奪わないように、ここらへんで擱筆しておく。

編集
ある理由から読み返した。
僕のように『スローターハウス5』を何回か読み終えた人間は、はたしてこの小説をどのように記憶しているのだろうか。
これまでの数回の読書で憶えていることはほとんどなかった――いくつかの忘れがたいキーワードを除いて。
大筋を忘れていたというのにもかかわらず憶えていたというディテールは、たとえば「キルゴア・トラウト」だったり、「トラルファマドール星人」だったり、「『そういうものだ』」だったりする。

しかしそれにしても、これまでの読書はいったいなんだったのだろうか。
それこそ「そういうものだ」というきめつけのもと、皮肉とユーモアで戦争、とくにドレスデン爆撃について描いたタイムトラベル・コメディ、といった紋切り型の切り口で読んでいったのだろうと思う。
しかしそれにしては、といまなら思う。それほどユーモアがあっただろうか。それほど戦争が描かれていただろうか。皮肉はたっぷりあった。タイムトラベルもたっぷりあった。
けれどもおそらく、上記の観点から読むだけでは、この小説はとらえられないように思う。というか丁寧に読んでも、この小説をはっきりととらえることは難しい。時間は単線的に進まず、未来と過去を行ったり来たりして、そのあたりのどこかで主人公が殺されたりもする。
あるいは、と落ち着いて考えてみる。この小説はもしかしたら失敗作なのかもしれない。

ヴォネガットは大好きな作家だけれど、これはイマイチという小説もけっして少なくない。たいていの場合はにやにやとできるのだが、読み終えてからほとんどなにもつかめていないことに気づき、けれどももう一度読むかどうかはわからない、程度の作品ならけっこうある。
それでは『スローターハウス5』はどうかというと、イマイチという印象はなかった。そこそこよかった、という感想がいつもあった。ドレスデン爆撃という大きなテーマがあるということだけははっきりと憶えていたから、もしかしたら、無下にできなかったというのがいちばんの理由かもしれない。
実際のところ、なかなか芯のとらえづらい小説である。まず、本小説を書いた経緯が、冒頭から三十余ページにわたって長々と説明される。そうしてやっと本篇が始まったかと思うと、主人公が時間旅行者(ただし当人にはコントロールできない)であることが紹介され、それから金持ちになったり、飛行機事故に遭難したり、宇宙人に誘拐されて見世物にされたり、などということが3ページほどで説明される。
ついで、トラルファマドール星人の特徴が描かれる。
彼らは、すべての異なる瞬間を思いのままに眺めることができる。彼らには過去・現在・未来という概念がない。彼らからしてみれば、過ぎ去ってしまった時間は二度と戻らない、という地球人の認識は錯覚にすぎない。この冗談のような設定がこの小説の重要な鍵となっていて、小説内世界観の基礎となっている。

この小説を読むと誰もが「そういうものだ」とつぶやきたくなるはずだが、いっぽうでその言葉は、戦争の悲惨さや個人の生命が持つ厳粛さ・尊厳というものを著しく傷つけているかのようにも見える。
どんなに悲惨なことが起ころうとも、その記述の直後に「そういうものだ」という一文がくっついてしまえば、途端に喜劇になってしまうか、そうでなくても、あまりたいしたことでなかったかのように錯覚してしまうからで、その点から、単純な冷笑主義者や、ネガティヴな事象を個人的関心の外に追放したがる人々が飛びつきやすい言葉でもある。
しかし、今回あらためて読んだことで気づいたのは、この「そういうものだ」という言葉にはきちんとした定義がなされているということだった。前述したトラルファマドール星人の時間概念に対する認識が地球人のそれとはまったく異なっている、という記述のあと、こうある。
トラルファマドール星人は死体を見て、こう考えるだけである。死んだものは、この特定の瞬間には好ましからぬ状態にあるが、ほかの多くの瞬間には、良好な状態にあるのだ。いまでは、わたし(※主人公)自身、だれかが死んだという話を聞くと、ただ肩をすくめ、トラルファマドール星人が死人についていう言葉をつぶやくだけである。彼らはこういう、”そういうものだ”。
(『スローターハウス5』 39p)
この引用部分は主人公のビリー・ピルグリムの独白であり、厳密にいえば、この小説の書き手、カート・ヴォネガットとは別人格である。でもまあ、作者はこのビリーの考えに従って、文中に出てくるありとあらゆる死の描写のあと、「そういうものだ」という言葉を添えているのだろう(余談だが、シャンパンの泡が翌日には絶えていた、という文章のあとにもこの言葉はあった)。形式化されたフレーズという意味でなら、「R. I. P.(安らかに眠れ)」とさしたる違いはないのかもしれない。
けれどもこれは、ただの挨拶文でもない。この幾度も繰り返されるリフレインは、その言葉の持つ軽さと指し示された内容の重さとのアンバランスさをやはり強く訴え始める。
シニカルなジョークだけではないとして、しかしここまで何度も何度もあらわれるということは、やはり意味を持っているはずだが、それにしたって、いくらなんでもその言葉はないだろう。何万、何十万という死ははたして一言で吹き飛ばせるようなものなのだろうか。


たまたま社会学者岸政彦の『断片的なものの社会学』というものを読んでいて、そのなかの「笑いと自由」という章で引っかかっていた。マイノリティや被差別の立場にある人たちの自虐という話から、たとえそういう立場になくても、自嘲・自虐をもって自分の人生に降りかかる理不尽と折り合いをつけ、人生を生きつづけていくということはある、という話がつづく。
少なくとも私たちには、もっとも辛いそのときに、笑う自由がある。もっとも辛い状況のまっただ中でさえ、そこに縛られない自由がある。人が自由である、ということは、選択肢がたくさんあるとか、可能性がたくさんあるとか、そういうことではない。ギリギリまで切り詰められた現実の果てで、もうひとつだけ何かが残されて、そこにある。それが自由というものだ。
(『断片的なものの社会学』 98p)
そして、筆者の岸がひどい話を聞かされていると笑ってしまうことがあり、よく誤解を受けるということが書かれる。
私は、他人が苦しんでいる話を聞いたとき、それがひどい話であるほど、安易に泣いたり怒ったりしたくない。だから、ひどい話を聞いて揺さぶられた感情が、出口を探して、笑いになって出てくるのかもしれない。
(同上 99p)
この説明は、きっと本当のことなんだと思う。じゃあそのように笑ってしまう人を信用できるかというと、それはどうだか僕にはわからない。そこが引っかかっている。
気の毒で辛い話を真剣に受け止めれば受け止めるほど、受け手はおそらく感情の処理に困るのであって、上記筆者はたまたま笑ってしまうというだけで、人にはそれぞれいろいろな気持ちのあらわし方があるようにも思う。あるいは、あらわせないことへのフラストレーションの宥め方、とでもいおうか。笑ってしまうこともあるだろうし、うまく聞えなかったふりをするかもしれないし、そのときそのときによって異なる場合もきっとあるだろう。
しかしいちばん簡単なのは、すぐに泣いたり、またはすぐに怒ったりすることだろうと思う。それがずるいとまでは言わないが、安易に「悲しいお話」や「怒れる話」に物語化することにより、他人のものとはいえ深刻な事態に直面することを回避している。経験的に言って、これらの人々はあまり信用ならないということは明言できる。


『スローターハウス5』に話を戻す。
この小説には、痛ましいものごとに対する不感症的態度が始めから終わりまでずっとつづいている。主人公は時間旅行者であるから未来になにが起こるかということを知っているということもあるが、それにしても、ほとんど動じない。
その彼が、ただ一度だけぽろぽろと泣くシーンが出てくる。戦争中、「何を見ても泣いたことはなかった」彼は、終戦直後に自分たちが馬車として酷使していた馬がどれほどひどい状態――口から血を流し、ひづめは割れ、発狂寸前にのどが渇いていた――にあるのかを知ったときに突然泣き始めた。
この反応は、動物愛護の観点からではなく、(作中では一言も触れられてはいないが)神経症患者的なそれとして注目したほうがより適切ではないのだろうか。
その人物を生み出したカート・ヴォネガットはそのことをじゅうぶんに知っていたのではないかと思う。彼自身はそうではなかったかもしれないが、戦争体験によって「揺さぶられた感情」の捌け口に難儀した人々をたくさん目撃したのかもしれない。彼はビリーを、少なくともほとんど泣かなかったという点についてはキリストに似ているとさえ記し、エピグラフにも載せたクリスマス・キャロルの四行連句をそこで再び引用する。
牛のもうもう鳴く声に
神の御子はめざめます
けれど小さなイエスさまは
お泣きになりません
(『スローターハウス5』 233p)
もう一度、「そういうものだ」という言葉について考えてみる。
トラルファマドール星人の考えのように、惨たらしく死んでしまった人物にもきっとあったであろうすばらしい瞬間が、消え去ることなく永遠に実在――「思い出」ということではなく――しつづけるのだとしたら、その死んでしまった人物の人生も、それほど惨たらしいものではなくなるのかもしれない。
ヴォネガットのつくった設定は、なにかの救いをもたらすことを目的としたのではないかもしれないが、しかし何万、何十万という死について忘れずにつけ足された「そういうものだ」という言葉は、何度も何度も繰り返されることによって、「死の瞬間以外を忘れるな」という意味を持ち始める。これは、「メメント・モリ」という「死を忘れるな」という言葉のまったく反対の内容だ。それなら、わかる。それなら、理解できる。

もうひとつ、書いておくことがある。
本書の冒頭でヴォネガットが戦友オヘアの家を訪ねるのだが、そこでオヘアの夫人であるメアリと少しもめる。メアリは、戦争を賛美・助長するような小説は書かれるべきではないと考えていて、そこでヴォネガットは彼女とそのような小説には絶対にしないことを約束する。
なるほど、この小説では戦争というものの勇ましい部分、一部の人間に特別な美意識を抱かせてしまうような部分等が、意識的に排除されている。
『スローターハウス5』で描かれる戦争には派手なところなどまったくなくて、いくつか出てくる死にも必然性はない。そのいづれもが、いたずらや皮肉やつまづきの結果によってもたらされたようなほかの誰にでも代替可能な死であり、そこから厳粛さや重々しさはすべて剥ぎ取られてしまっている。結果、われわれ読者が目にするのは、ばかばかしさやくだらなさの煮詰まったようなものだ。そして、ばかばかしく、くだらないためにこそ、そこに痛ましさを覚えるという仕掛けになっている。
ドレスデンの爆撃を直接には描かなかったのもきっと、安直に「悲劇」を物語に持ち込ませないためなのだろう。読者を宙ぶらりんの気持ちにさせても、ヴォネガットはメアリとの約束を守ったといえる。
あるいは、ヴォネガット自身が宙ぶらりんのままだったのかもしれない。
SFの手法によって巧みに編集されカムフラージュされているが、作品全体に流れるとらえどころのなさは、作者自身の混乱をそのままあらわしているのかもしれない。それくらい、戦争体験、とくにドレスデンでの爆撃体験は、当事者であるがゆえに彼にとって巨大で推し量れないものだったのだろう。
そのような観点に立ってもう一度この小説全体を眺め渡してみると、どこに喜劇の部分があったのかというくらいに、暗いのである。明確な悲劇が与えられず、読者も消化に苦しむ暗さ。その暗さの連続に堪えきれず、「そういうものだ」という言葉につい噴き出してしまうのは、岸政彦と同じような反応なのかもしれない。

編集
面白かった……とはなかなか言えるような内容ではない。けれども傑作だと感じられた。そう感じるには、まずヴェルーヴェン三部作の『イレーヌ』『アレックス』を読み終えたうえで、この『カミーユ』を体験するという手順が必要だろう。

この小説では、主人公のカミーユが相当に痛めつけられる。いや、肉体的に痛めつけられるのは彼の恋人であるアンヌなのだが、しかしアンヌを通して、カミーユが傷つく。傷つきながらカミーユは、彼女を救おうとして泥沼にはまっていき、周囲から孤立する。もういいよ、と音を上げてしまいそうになる読者も少なくないだろう。もういいよ、カミーユをゆるしてやってくれ。一刻も早く彼を平穏な日常に戻し、幸せにしてやってくれ、と。
だが、作者はその攻撃の手を弛めない。もともと作者は嗜虐的なのかと疑うくらいに前二作においても残虐な描写を繰り返してきたが、本作でも残酷な鞭は振るわれつづけ、カミーユ・ヴェルーヴェンは苦痛に呻く。そしてその辛く苦しい三日間の果てにあったのは、また別の痛みだったのだ。

別の小説の感想のところで、キャラクターものということについて少し書いたのだが、ヴェルーヴェン三部作にも魅力的なキャラクターが登場する。カミーユ、ルイ、アルマン、ル・グエン。
彼らの名前をすぐに挙げた読者は、しかしそれから少しして、カミーユ以外の記述が実はそれほどなかったことを思い出すかもしれない。カミーユは主人公なので別格なのだが、彼以外のキャラクターの視点で描かれることは、ちょっとした場合を除いてほとんどない。
しかしなぜか読者は、彼らが魅力あふれる人物たちであることを当然のごとく知っている。それはなぜなのだろうか。
逆説的にいえば、(ただの偏見かもしれないけれど)ラノベというジャンルが登場人物たちについて饒舌に語るのに対して、ルメートルは登場人物たちについてはあまり語らず、また彼ら自身にもあまり語らせないことによって、かえってその人物像の輪郭の芯をつくったのではないか。作者は、ほんの数ページのやりとりや、ときにはたった一行によってその人物自身や、周りの人物との関係性を鮮やかに描き出してみせる。そしてもちろんわれわれ読者の想像力も、彼らの輪郭を太く豊かに際立たせることに一役買っている。

唐突だが、本書『傷だらけのカミーユ』は、原題を『犠牲』という。一作目『悲しみのイレーヌ』は『丁寧な仕事』で、二作目『その女アレックス』だけは、ほぼそのままの『アレックス』。
こうやって並べてみると、原題のほうがよりその作品の本質をあらわしているように見える。特に『犠牲』というタイトルを知ってしまうと、それ以外に考えられなくなってくる。
物語の最終盤に、その犠牲について語られる部分が出てくる。その観点に立てば、この小説にかぎらず、三部作のいたるところに、誰かが、誰か/なにかのために、なにかを捨てる、という構図を見つけ出すことができる。
ある者は称讃を得るために犯罪をおかし、ある者は復讐のために自らの命を捧げる。また、友人を救うために大金を投げ出す者もいれば、愛する者を救うために自らの自尊心を捨てる者もいる。ほかにもいろいろ。
これほどまでに広義の愛(なかには自己愛もあるが)について描かれた小説だというのに、しかしその愛が結実することは、ほぼない。たとえば、とんでもない金持ちのうえに優秀でそのくせ慎み深いというルイは、上司であるカミーユに特別な敬意と友情を持っていて、窮地に陥っている彼を救いたいと思っているが、その慎み深さのゆえか必要以上のことはできず、悲しい思いを抱いている。アルマン、ル・グエンにしても同様の感情を持ちながらも、それでもカミーユとの一定の距離を縮めることはない。
この他者への距離感と愛情とが相矛盾しつつ並存しているというのが、この小説のいちばんの魅力なのではないか。
他人を理解することはできないという大前提に立ちながらも、決してニヒリズムに陥らずに、足掻く。この三部作に通ずる痛みや苦しみというのはほとんどそこから生まれたもので、だから読者も心を揺さぶられる。軽々しい虚無主義がときに思想的ファッションの意味しか持ち得ないのに対し、愛には、いつの場合も希望が残されているからだ。

最後に、この小説でいちばんぐっと来た一行を引用しておく。最後の最後にあらわれる文章で、ある人物の一人称によるものなのだが、詳細については書かない。
わかってはいたことだが、おれはこいつがずっと好きだった。
(371p)
ここにも、たしかに愛があったのだ。

編集
これまでは、きっとあんなもんだろう、こんなもんだろう、と敬遠して読んでこなかったのだが、いざ読んでみたら、よくも悪くも読みやすかった。

よい点。
物語がいい意味で単調でベタに展開し、そのためすらすらと読める。
この読みやすさっていうのがけっこう大切なことだと実感していて、10月に入ってやっと仕事の忙しさからやや解放されたとなって図書館に行ったところ、第一冊目として手に取ったのが西尾維新の『掟上今日子の備忘録』で、ラノベのこの笑っちゃうくらいの読みやすさ・薄っぺらさが、リハビリ的な意味合いの読書として、非常によかったのだ。
なんにも考えずに文字を読むことができたうえで、単調な展開ながら「あ、そうなんだ」程度には心を動かすことができるというのは、じつは大変なことなんじゃないか。
よく言われることだが、さまざまな娯楽が発達した現代において、読書というのは、それなりに時間がとられるうえ、かつ能動的な行為を要求されるという意味では、なかなかにその体験者を選ぶところがあって、「本を読むくらいだったらSNSやっていたほうがたのしい」とか「アプリのゲームするわ」なんて考える人がいてもまったく不思議ではない。別に読書をしているから偉い、SNSやゲームは偉くない、なんて思わないしね。
読書をするからには、読書のほうに他のものにはないなんらかの優位性を見出しているはずなのだが、その優位性を「これだ!」と確認できる機会は実はなかなか少なくて、『バラカ』の話じゃないけれど、さんざん読んだあげく、「え、これでおしまい? ひでえ!」なんて感じることはゼロではない。僕なんか、ちょっとでもイヤなところがあると心中で不満が噴出し、読書じたいが進まなく、余計に時間がかかってしまう。「こんなことあるわけないよ」とか「めちゃくちゃ適当に書いてるな、ここは」とか。
そういう決して一筋縄でいかない体験である読書のリスクヘッジのひとつの指針として、読みやすいものを選ぶ、ということが挙げられるのではないか。
読みやすく単調な展開のものを選べば、少なくとも時間はかからない。時間がかからないから、「費やした時間を返してくれ!」という不満が湧出する蓋然性は低くなる。そしてそういう不満がなければ、多少面白くなくとも、「ま、こんなものか」と赦せるのである。

悪い点。
これは「よい点」の裏返しで、あっさりしすぎて、あまり心に残らない。するするするっと記憶のふるいからこぼれ落ちてしまう。そばをささっと啜ったときのように、なんだか物足りなさだけが残る。
本書は、辞書編纂に関わる人間の物語だが、その核となる辞書編纂が、よくできた「装置」以上のものには感じられなかった。もちろん、言葉に対する情熱や愛着、細部への拘泥や執心を描いているわけで、作者自身も言葉や辞書について相当な関心・愛情を持っているのであろうが、そのいづれもがこちらの想定の範囲内で、ことさら新鮮な驚きがあるわけでもなかった。


ちょっと前までは、新しい中型辞書の新版などが出ると、井上ひさしがコラムで言及したりしていたものだよね。新版でなくても、丸谷才一、高島俊男、柳瀬尚紀(彼は作品社「日本の名随筆」で「辞書」の編者になっていた)たちのエッセイで、辞書についての彼らの一家言なんていうものをけっこう目にしたせいもあって、そこらに較べると『舟を編む』に出てくる描写は、そこまで深いところまで行ってはいないなという印象を持った。カタログ的というか、きちんと取材をしているため必要な情報は揃っているが、それ以上のものを得ることは難しい、という感じ。もちろん、辞書のつくり手と、それの非常に優秀な読み手、という観点の違いはあれど。
この「装置」の使い方で、小川洋子の『博士の愛した数式』を思い出した人は少なくないだろうと思う。あれは、数学版。こっちは辞書版。そこにヒューマンドラマを絡めていっちょあがり、なのである。
ま、それでもいいのである。多くの読者は、ある単語の世に知られている誤った語源解釈をただす、なんていうディテールに興味があるわけではなく、ふだんあまり知ることのない世界をほんのちょっと垣間見ることができればじゅうぶんなのだ。
すぐれた作家というのはその要求にきちんと応えることができ、三浦しをんもその仕事をじゅうぶん果たしている。
言葉という大海を渡るための舟が辞書であって、辞書づくりというのはその舟をつくることなのだ、というフレーズが幾度となく出てくるが、これをロマンティックだと感じられる人たちはじゅうぶんこの本をたのしむことができるだろうし、うーん、ちょっと陳腐かなと思う人たちは、それなりの感想しか得られまい。ここがたぶんいちばんわかりやすい好悪の分かれ目になると思う。

さて。
内容についてちょっと感じたことを書くと、この小説の登場人物は、かなりキャラクター的で、こういうところにいい意味でのラノベっぽさを感じた。「人間性とはなんだ」とか「もっとリアリティを」なんてことをいう前に、面白くなるための役割をあらかじめ振り分けておいて、その範囲内で活躍してくれればいい、というのが先に書いた「キャラクター的」という意味だ。
なので、主人公の「まじめ」は、最初から最後まで同じままだ。ヒロインっぽい役どころの「かぐや」も、まあ、そもそもそのイメージが覆るほどの登場回数が与えられていないし、他の人物たちも同様。ただ、西岡というチャラい人間だけに、人間的成長の見られる部分があって、その点がこの小説のハイライトだと個人的には思っている。
あとは予定調和の世界(西岡の成長ももちろん予定調和内なのだが)が粛々と進められ、最後はそれなりに感動させるようにできている。
僕の大好きな上方落語『はてなの茶碗』という噺のなかで、主人公である大阪出身の油屋が、いわゆる「はてなの茶碗」を京都の茶金という茶道具商のところへ持っていくと、主人の金兵衛の代わりに番頭が品物を鑑定するのだが、そのときに、茶碗を見る前に、茶碗を包んだ風呂敷を褒める箇所がある。
「ええ風呂敷どすなあ。更紗もこれぐらいになると……」と言って、油屋に「風呂敷はどっちゃでもええねん」とツッコまれるのだが、この「更紗もこれぐらいになると、」という褒め方がなんとも風情があって、好きなのだ。
『舟を編む』という小説を読み終えたとき、「エンタメもこれぐらいになると、やはりいいもんですな」という感想がぽっと浮かんだ。
これまであまり褒めてこなかったように見えるかもしれないが、どっこい、そんなことはない。適度な登場人物たちによってこれまであまり知られてこなかった世界が紹介され、最後には爽やかな感動を得られる、っていうのは、じゅうぶんに価値のある小説だと思う。中学校・高校の図書室の書架にぜひ並べてほしいものだ。わかりやすいので、映画化やマンガ化、アニメ化もしやすいと思う。
僕個人は、ものすごく気に入ったというところまではいかなかったが、作者の技倆に、職業的作家ってこういう人のことを言うのだろうなと思ったのだった。

このページのトップヘ