とはいえ、わからないでもない

カテゴリ: 小説

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きっと麻耶雄嵩の作品ってのは、「これはあのトリックのアンチテーゼだな」なんてことを察せられるミステリ素養と、「ハッハッハッ」と笑い飛ばせるような大きな度量がないとダメなんだろう。
ちょっとしか読んでいないが、清涼院流水のトンデモと言ってもあながち言い過ぎではない作品(犯人は誰でもいい、みたいな結論のもたしかあった)はまったく受け容れられるというのに、麻耶になるとちょっと辛い、というのは好悪の問題なのかなとも思う。
清涼院のほうはキャラクターがめちゃくちゃ立っている(正確にはキャラクターの「設定」が立っている)けれど、麻耶のほうはそれすらもなく、文章もどうでもいいレベルだし、笑うこともできなければ相当な苦行にもなってしまうし、実際なりかけていたのだが、ただ、この短篇集のなかにひとつだけ叙述トリックで驚かされたものがあったので、「最悪」という評価はしなくて済んだ。
そのやり方がフェアとかアンフェアだとかいうのはもう二の次で、目新しさを獲得できればとりあえず元はとれたという気がした。最後の数ページで読者を「えっ、えっ、えっ?」とびっくりさせるために、作者はあの手この手をいろいろとひねくりだしたんだろうなと考えると、そこに敬意の萌芽のようなものを感じざるを得ないしね。
なお、この作品(と他の作品とのミックス?)はテレビドラマ化されたらしい。観ていないで言うのもなんだが、絶対成功しなかっただろうなって思う。テレビドラマ業界、そんなにネタがないのかね?

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図書館の優れているのは、いまでは本屋に並んでいない小説を簡単に手に取ることができるところ。
源氏鶏太って名前は聞いたことがあったけれど、いまは昔の人だよねえ、というつもりだったが、どこかの出版社が復刻していた気もする。そういえば獅子文六も最近ちくまが復刊していたっけ?
とにかくサラリーマン小説として有名な作家だそうだが、この小説はタイトルどおり、漱石『坊っちゃん』のストーリーにその骨格をなぞらえている。
なので、文庫本の後ろに書かれたあらすじにある「痛快小説」という説明は、本家と同様、いまいち当たらない。痛快な部分はあるにはあるのだが、それが最終的に苦さをともなって終わる、というところまでがひとつのセットになっているから。

読み始めは、なんともつまらん、という感想しか生まれなかったが、次第になんとか体裁をなしていくというか、こちらの感情もやや乗ってくるところがあり、とりあえず最後まで辿りつけた。
昭和二十年代半ばごろ、大学を出た青年が就職早々に田舎の工場に出向となる。東京の人間らしく主人公は田舎での日常をただでさえ面白く思わず、そこへ来てホワイトカラー特有(?)の組織内処世術のあれこれに嫌気を覚える。そこでまあてんやわんやの大騒ぎをするのだが、登場人物も意外に多く、それらが適度に、というかほとんど戯画化された造形をもってあらわれるので、飽きないようにはなっている。
しかし、なにしろ主人公が女性にモテすぎなのがこの小説のいちばんの瑕疵だ。また、腕っ節も立つときている。この二点が漱石『坊っちゃん』の「おれ」にはなかったところで、僕も読んでいて、ご都合主義にもほどがある、と鼻息を荒くしたものだ。
特にモテる部分。いまのマンガやアニメでいうハーレムものというか、主人公の男がやたらと多くの女性キャラにちやほやされるというジャンルがあるが、その源流ともいえるような(すくなくとも上流であろう。古くは西鶴とか?)設定で、こういうものがウケる素地みたいなものはいまも昔も変わらないのかなあとも思った。

ちょっと話題は逸れるかもしれないが。去年の秋、小沢昭一のCDボックス10枚組というものをまとめて聴いていた。全体的にいえば話芸とすれば超がつく一流で耳に流しているだけでも非常に心地よかったのであるが、けれど一点だけ、なかなか手放しで喜べなかったのがいわゆるお色気話に属するものが多かったところで、「一皮剥けば男も女も好き者ですよね。ねえ旦那! そうでしょ奥さん?」みたいな価値観で語られ、そしてそれらが当時は(?)広く受け容れられていたのであろうが、これが聴いていてなかなか辛いのである。なお、「すじがき」は小沢本人がつくっているものではない。
林家じゃないけれど、下ネタと楽屋オチってのは僕のなかでは芸として認めたくないところがあって、小沢昭一はたいへんすばらしい芸人だし、その考え方にも非常に同意するところは多いのだけれど、その「下ネタ多し」の点だけは非常に聴き心地が悪かった。
ここ数年、関西のローカルAMラジオを聴かなくなったのも、ほかに聴くものが増えたということもあるけれど、それ以上に下ネタが多すぎるってのが理由だ。なーんか、いやなんだよね。
「ハーレムもの」についてだって、結局はそれに付随するエロシーンがウリなわけであって、そういうのって急激に醒めてしまう。「下ネタは万国共通だから」みたいなことを言う芸人がときどきいたりするけれど、自分の無芸を棚に上げてなに言ってんだって思う。落語の艶笑噺はまあ笑えるものもあるけれど、あれもまたそれだけしか演らない人間に名人はいないでしょ。
「万国共通」で思い出したけれど、あのクソ漫画『こち亀』にもそんなことが書かれていた気がする。あのマンガは、当初は括弧つきの「女子供」を見下して、趣味(プラモとかサバイバルゲームとか)に走るのが男の道よ、という括弧つきの「硬派」なギャグ漫画だったのにも関わらず、長期連載がつづくようになってから、転向。やたらと女性キャラが出てくるようにもなったし、それに、当初はバカにしていた関西がいつのまにか一目置かれるような存在に変わっており、しんそこ八方美人マンガになってしまったんだよな。

『坊っちゃん社員』のほうに話を戻すと、主人公がやけにモテるという部分が描かれるのはやっぱり読者にそういう設定なり展開なりを喜ぶ向きが多かったからではないか。モテりゃその先があって……ムフフと読者が先を読んでくれるだろう、そういう目算があったのではないか。そういう底意が見えるようで情けなくなってしまうのである。
ただ、会社に隠れて取引先からマージンを取っていたという男が、その責を負って辞めさせられたときの顛末などにはなかなかにリアルと思われる点もあって、カリカチュアライズされたなかにも、本音をすこし加味しているようで、ゆえに多くの読者を得た(?)のではないだろうか。

まあ最終的には章題にもあるように「青春悔多し」といった展開になる。
はっきり言って青年は敗北するわけだが、その敗北感はなにも青年だけにではなく、当時のサラリーマン社会全体がなんとなく担っていたものなのかもしれない。
作者は本家『坊っちゃん』の「おれ」のような無鉄砲な人間を(当時の)現代に呼び戻し、くさくさするような因果なその稼業を一時的にでも破茶目茶に掻き回そうとしたのではないか、読んだ人たちの一服の清涼剤となるように。
ただし、総体の感想としては、二十一世紀となった現代で風俗的資料価値を認めない限りは、あまり読む必要のない小説だと思う。だからといって、図書館の書架からはずされる必要もないと思うが。

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……はちょっと書けないな。どう感じたか、を書いてしまうだけで、未読の人にバイアスを与えてしまうような気がするし、それってひとつのネタバレでしょって思っちゃうから。
ただ、グロい。
猟奇的描写の背景として、あの宮崎勤事件(1989年)が小説中に実名で出てくるのだが、いやちょっと古いよなあ……と奥付を見たら1992年の作品らしい。いやー四半世紀以上前かあ。そりゃあ登場する歌手が岡村孝子なわけだよ、と納得。
それにしても、僕がグロ描写にそれほど衝撃を受けなかったのは、四半世紀前に較べていろいろな表現が過激化していったことも理由としてあるのではないか。最近日本でもヒットしたピエール・ルメートル作品もかなりグロかったし、たぶん国内でもグロを得意とする作家なんているんじゃないかと思う(僕自身はそういう表現は好きではないので、もしそうだとわかったら読まない)。
あと、講談社文庫版の笠井潔の解説も併読するとより理解が深まるだろうと思う。ただし、必ず読了後にすべきだ。

綾辻作品なんかでも感じたことなんだけれど、小説そのものが非常によくできた箱庭という感じで、感心するくらいに細部にまで手入れがなされている。
その反面、なーんか感動がないのよねえ、という贅沢な不満も残る。小説そのものへの感動はもちろんあるし、本作品は傑作だとは思うものの、率直に言って「ちょっと泣けちゃうよな」、そういうエピソードなんかはないことが多い気がする。そういうのがあったらなあ……。

あと、こういう小説を、「○○な小説ベスト10」みたいなランキングで知るのではなく、本屋でたまたま手にとって購入→読む、みたいな流れが読者にとっていちばん幸福だと思う。
そういう意味では僕も非常に幸福な出逢いができたので、まだ読んでいない人の幸福まで奪わないように、ここらへんで擱筆しておく。

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ある理由から読み返した。
僕のように『スローターハウス5』を何回か読み終えた人間は、はたしてこの小説をどのように記憶しているのだろうか。
これまでの数回の読書で憶えていることはほとんどなかった――いくつかの忘れがたいキーワードを除いて。
大筋を忘れていたというのにもかかわらず憶えていたというディテールは、たとえば「キルゴア・トラウト」だったり、「トラルファマドール星人」だったり、「『そういうものだ』」だったりする。

しかしそれにしても、これまでの読書はいったいなんだったのだろうか。
それこそ「そういうものだ」というきめつけのもと、皮肉とユーモアで戦争、とくにドレスデン爆撃について描いたタイムトラベル・コメディ、といった紋切り型の切り口で読んでいったのだろうと思う。
しかしそれにしては、といまなら思う。それほどユーモアがあっただろうか。それほど戦争が描かれていただろうか。皮肉はたっぷりあった。タイムトラベルもたっぷりあった。
けれどもおそらく、上記の観点から読むだけでは、この小説はとらえられないように思う。というか丁寧に読んでも、この小説をはっきりととらえることは難しい。時間は単線的に進まず、未来と過去を行ったり来たりして、そのあたりのどこかで主人公が殺されたりもする。
あるいは、と落ち着いて考えてみる。この小説はもしかしたら失敗作なのかもしれない。

ヴォネガットは大好きな作家だけれど、これはイマイチという小説もけっして少なくない。たいていの場合はにやにやとできるのだが、読み終えてからほとんどなにもつかめていないことに気づき、けれどももう一度読むかどうかはわからない、程度の作品ならけっこうある。
それでは『スローターハウス5』はどうかというと、イマイチという印象はなかった。そこそこよかった、という感想がいつもあった。ドレスデン爆撃という大きなテーマがあるということだけははっきりと憶えていたから、もしかしたら、無下にできなかったというのがいちばんの理由かもしれない。
実際のところ、なかなか芯のとらえづらい小説である。まず、本小説を書いた経緯が、冒頭から三十余ページにわたって長々と説明される。そうしてやっと本篇が始まったかと思うと、主人公が時間旅行者(ただし当人にはコントロールできない)であることが紹介され、それから金持ちになったり、飛行機事故に遭難したり、宇宙人に誘拐されて見世物にされたり、などということが3ページほどで説明される。
ついで、トラルファマドール星人の特徴が描かれる。
彼らは、すべての異なる瞬間を思いのままに眺めることができる。彼らには過去・現在・未来という概念がない。彼らからしてみれば、過ぎ去ってしまった時間は二度と戻らない、という地球人の認識は錯覚にすぎない。この冗談のような設定がこの小説の重要な鍵となっていて、小説内世界観の基礎となっている。

この小説を読むと誰もが「そういうものだ」とつぶやきたくなるはずだが、いっぽうでその言葉は、戦争の悲惨さや個人の生命が持つ厳粛さ・尊厳というものを著しく傷つけているかのようにも見える。
どんなに悲惨なことが起ころうとも、その記述の直後に「そういうものだ」という一文がくっついてしまえば、途端に喜劇になってしまうか、そうでなくても、あまりたいしたことでなかったかのように錯覚してしまうからで、その点から、単純な冷笑主義者や、ネガティヴな事象を個人的関心の外に追放したがる人々が飛びつきやすい言葉でもある。
しかし、今回あらためて読んだことで気づいたのは、この「そういうものだ」という言葉にはきちんとした定義がなされているということだった。前述したトラルファマドール星人の時間概念に対する認識が地球人のそれとはまったく異なっている、という記述のあと、こうある。
トラルファマドール星人は死体を見て、こう考えるだけである。死んだものは、この特定の瞬間には好ましからぬ状態にあるが、ほかの多くの瞬間には、良好な状態にあるのだ。いまでは、わたし(※主人公)自身、だれかが死んだという話を聞くと、ただ肩をすくめ、トラルファマドール星人が死人についていう言葉をつぶやくだけである。彼らはこういう、”そういうものだ”。
(『スローターハウス5』 39p)
この引用部分は主人公のビリー・ピルグリムの独白であり、厳密にいえば、この小説の書き手、カート・ヴォネガットとは別人格である。でもまあ、作者はこのビリーの考えに従って、文中に出てくるありとあらゆる死の描写のあと、「そういうものだ」という言葉を添えているのだろう(余談だが、シャンパンの泡が翌日には絶えていた、という文章のあとにもこの言葉はあった)。形式化されたフレーズという意味でなら、「R. I. P.(安らかに眠れ)」とさしたる違いはないのかもしれない。
けれどもこれは、ただの挨拶文でもない。この幾度も繰り返されるリフレインは、その言葉の持つ軽さと指し示された内容の重さとのアンバランスさをやはり強く訴え始める。
シニカルなジョークだけではないとして、しかしここまで何度も何度もあらわれるということは、やはり意味を持っているはずだが、それにしたって、いくらなんでもその言葉はないだろう。何万、何十万という死ははたして一言で吹き飛ばせるようなものなのだろうか。


たまたま社会学者岸政彦の『断片的なものの社会学』というものを読んでいて、そのなかの「笑いと自由」という章で引っかかっていた。マイノリティや被差別の立場にある人たちの自虐という話から、たとえそういう立場になくても、自嘲・自虐をもって自分の人生に降りかかる理不尽と折り合いをつけ、人生を生きつづけていくということはある、という話がつづく。
少なくとも私たちには、もっとも辛いそのときに、笑う自由がある。もっとも辛い状況のまっただ中でさえ、そこに縛られない自由がある。人が自由である、ということは、選択肢がたくさんあるとか、可能性がたくさんあるとか、そういうことではない。ギリギリまで切り詰められた現実の果てで、もうひとつだけ何かが残されて、そこにある。それが自由というものだ。
(『断片的なものの社会学』 98p)
そして、筆者の岸がひどい話を聞かされていると笑ってしまうことがあり、よく誤解を受けるということが書かれる。
私は、他人が苦しんでいる話を聞いたとき、それがひどい話であるほど、安易に泣いたり怒ったりしたくない。だから、ひどい話を聞いて揺さぶられた感情が、出口を探して、笑いになって出てくるのかもしれない。
(同上 99p)
この説明は、きっと本当のことなんだと思う。じゃあそのように笑ってしまう人を信用できるかというと、それはどうだか僕にはわからない。そこが引っかかっている。
気の毒で辛い話を真剣に受け止めれば受け止めるほど、受け手はおそらく感情の処理に困るのであって、上記筆者はたまたま笑ってしまうというだけで、人にはそれぞれいろいろな気持ちのあらわし方があるようにも思う。あるいは、あらわせないことへのフラストレーションの宥め方、とでもいおうか。笑ってしまうこともあるだろうし、うまく聞えなかったふりをするかもしれないし、そのときそのときによって異なる場合もきっとあるだろう。
しかしいちばん簡単なのは、すぐに泣いたり、またはすぐに怒ったりすることだろうと思う。それがずるいとまでは言わないが、安易に「悲しいお話」や「怒れる話」に物語化することにより、他人のものとはいえ深刻な事態に直面することを回避している。経験的に言って、これらの人々はあまり信用ならないということは明言できる。


『スローターハウス5』に話を戻す。
この小説には、痛ましいものごとに対する不感症的態度が始めから終わりまでずっとつづいている。主人公は時間旅行者であるから未来になにが起こるかということを知っているということもあるが、それにしても、ほとんど動じない。
その彼が、ただ一度だけぽろぽろと泣くシーンが出てくる。戦争中、「何を見ても泣いたことはなかった」彼は、終戦直後に自分たちが馬車として酷使していた馬がどれほどひどい状態――口から血を流し、ひづめは割れ、発狂寸前にのどが渇いていた――にあるのかを知ったときに突然泣き始めた。
この反応は、動物愛護の観点からではなく、(作中では一言も触れられてはいないが)神経症患者的なそれとして注目したほうがより適切ではないのだろうか。
その人物を生み出したカート・ヴォネガットはそのことをじゅうぶんに知っていたのではないかと思う。彼自身はそうではなかったかもしれないが、戦争体験によって「揺さぶられた感情」の捌け口に難儀した人々をたくさん目撃したのかもしれない。彼はビリーを、少なくともほとんど泣かなかったという点についてはキリストに似ているとさえ記し、エピグラフにも載せたクリスマス・キャロルの四行連句をそこで再び引用する。
牛のもうもう鳴く声に
神の御子はめざめます
けれど小さなイエスさまは
お泣きになりません
(『スローターハウス5』 233p)
もう一度、「そういうものだ」という言葉について考えてみる。
トラルファマドール星人の考えのように、惨たらしく死んでしまった人物にもきっとあったであろうすばらしい瞬間が、消え去ることなく永遠に実在――「思い出」ということではなく――しつづけるのだとしたら、その死んでしまった人物の人生も、それほど惨たらしいものではなくなるのかもしれない。
ヴォネガットのつくった設定は、なにかの救いをもたらすことを目的としたのではないかもしれないが、しかし何万、何十万という死について忘れずにつけ足された「そういうものだ」という言葉は、何度も何度も繰り返されることによって、「死の瞬間以外を忘れるな」という意味を持ち始める。これは、「メメント・モリ」という「死を忘れるな」という言葉のまったく反対の内容だ。それなら、わかる。それなら、理解できる。

もうひとつ、書いておくことがある。
本書の冒頭でヴォネガットが戦友オヘアの家を訪ねるのだが、そこでオヘアの夫人であるメアリと少しもめる。メアリは、戦争を賛美・助長するような小説は書かれるべきではないと考えていて、そこでヴォネガットは彼女とそのような小説には絶対にしないことを約束する。
なるほど、この小説では戦争というものの勇ましい部分、一部の人間に特別な美意識を抱かせてしまうような部分等が、意識的に排除されている。
『スローターハウス5』で描かれる戦争には派手なところなどまったくなくて、いくつか出てくる死にも必然性はない。そのいづれもが、いたずらや皮肉やつまづきの結果によってもたらされたようなほかの誰にでも代替可能な死であり、そこから厳粛さや重々しさはすべて剥ぎ取られてしまっている。結果、われわれ読者が目にするのは、ばかばかしさやくだらなさの煮詰まったようなものだ。そして、ばかばかしく、くだらないためにこそ、そこに痛ましさを覚えるという仕掛けになっている。
ドレスデンの爆撃を直接には描かなかったのもきっと、安直に「悲劇」を物語に持ち込ませないためなのだろう。読者を宙ぶらりんの気持ちにさせても、ヴォネガットはメアリとの約束を守ったといえる。
あるいは、ヴォネガット自身が宙ぶらりんのままだったのかもしれない。
SFの手法によって巧みに編集されカムフラージュされているが、作品全体に流れるとらえどころのなさは、作者自身の混乱をそのままあらわしているのかもしれない。それくらい、戦争体験、とくにドレスデンでの爆撃体験は、当事者であるがゆえに彼にとって巨大で推し量れないものだったのだろう。
そのような観点に立ってもう一度この小説全体を眺め渡してみると、どこに喜劇の部分があったのかというくらいに、暗いのである。明確な悲劇が与えられず、読者も消化に苦しむ暗さ。その暗さの連続に堪えきれず、「そういうものだ」という言葉につい噴き出してしまうのは、岸政彦と同じような反応なのかもしれない。

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面白かった……とはなかなか言えるような内容ではない。けれども傑作だと感じられた。そう感じるには、まずヴェルーヴェン三部作の『イレーヌ』『アレックス』を読み終えたうえで、この『カミーユ』を体験するという手順が必要だろう。

この小説では、主人公のカミーユが相当に痛めつけられる。いや、肉体的に痛めつけられるのは彼の恋人であるアンヌなのだが、しかしアンヌを通して、カミーユが傷つく。傷つきながらカミーユは、彼女を救おうとして泥沼にはまっていき、周囲から孤立する。もういいよ、と音を上げてしまいそうになる読者も少なくないだろう。もういいよ、カミーユをゆるしてやってくれ。一刻も早く彼を平穏な日常に戻し、幸せにしてやってくれ、と。
だが、作者はその攻撃の手を弛めない。もともと作者は嗜虐的なのかと疑うくらいに前二作においても残虐な描写を繰り返してきたが、本作でも残酷な鞭は振るわれつづけ、カミーユ・ヴェルーヴェンは苦痛に呻く。そしてその辛く苦しい三日間の果てにあったのは、また別の痛みだったのだ。

別の小説の感想のところで、キャラクターものということについて少し書いたのだが、ヴェルーヴェン三部作にも魅力的なキャラクターが登場する。カミーユ、ルイ、アルマン、ル・グエン。
彼らの名前をすぐに挙げた読者は、しかしそれから少しして、カミーユ以外の記述が実はそれほどなかったことを思い出すかもしれない。カミーユは主人公なので別格なのだが、彼以外のキャラクターの視点で描かれることは、ちょっとした場合を除いてほとんどない。
しかしなぜか読者は、彼らが魅力あふれる人物たちであることを当然のごとく知っている。それはなぜなのだろうか。
逆説的にいえば、(ただの偏見かもしれないけれど)ラノベというジャンルが登場人物たちについて饒舌に語るのに対して、ルメートルは登場人物たちについてはあまり語らず、また彼ら自身にもあまり語らせないことによって、かえってその人物像の輪郭の芯をつくったのではないか。作者は、ほんの数ページのやりとりや、ときにはたった一行によってその人物自身や、周りの人物との関係性を鮮やかに描き出してみせる。そしてもちろんわれわれ読者の想像力も、彼らの輪郭を太く豊かに際立たせることに一役買っている。

唐突だが、本書『傷だらけのカミーユ』は、原題を『犠牲』という。一作目『悲しみのイレーヌ』は『丁寧な仕事』で、二作目『その女アレックス』だけは、ほぼそのままの『アレックス』。
こうやって並べてみると、原題のほうがよりその作品の本質をあらわしているように見える。特に『犠牲』というタイトルを知ってしまうと、それ以外に考えられなくなってくる。
物語の最終盤に、その犠牲について語られる部分が出てくる。その観点に立てば、この小説にかぎらず、三部作のいたるところに、誰かが、誰か/なにかのために、なにかを捨てる、という構図を見つけ出すことができる。
ある者は称讃を得るために犯罪をおかし、ある者は復讐のために自らの命を捧げる。また、友人を救うために大金を投げ出す者もいれば、愛する者を救うために自らの自尊心を捨てる者もいる。ほかにもいろいろ。
これほどまでに広義の愛(なかには自己愛もあるが)について描かれた小説だというのに、しかしその愛が結実することは、ほぼない。たとえば、とんでもない金持ちのうえに優秀でそのくせ慎み深いというルイは、上司であるカミーユに特別な敬意と友情を持っていて、窮地に陥っている彼を救いたいと思っているが、その慎み深さのゆえか必要以上のことはできず、悲しい思いを抱いている。アルマン、ル・グエンにしても同様の感情を持ちながらも、それでもカミーユとの一定の距離を縮めることはない。
この他者への距離感と愛情とが相矛盾しつつ並存しているというのが、この小説のいちばんの魅力なのではないか。
他人を理解することはできないという大前提に立ちながらも、決してニヒリズムに陥らずに、足掻く。この三部作に通ずる痛みや苦しみというのはほとんどそこから生まれたもので、だから読者も心を揺さぶられる。軽々しい虚無主義がときに思想的ファッションの意味しか持ち得ないのに対し、愛には、いつの場合も希望が残されているからだ。

最後に、この小説でいちばんぐっと来た一行を引用しておく。最後の最後にあらわれる文章で、ある人物の一人称によるものなのだが、詳細については書かない。
わかってはいたことだが、おれはこいつがずっと好きだった。
(371p)
ここにも、たしかに愛があったのだ。

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これまでは、きっとあんなもんだろう、こんなもんだろう、と敬遠して読んでこなかったのだが、いざ読んでみたら、よくも悪くも読みやすかった。

よい点。
物語がいい意味で単調でベタに展開し、そのためすらすらと読める。
この読みやすさっていうのがけっこう大切なことだと実感していて、10月に入ってやっと仕事の忙しさからやや解放されたとなって図書館に行ったところ、第一冊目として手に取ったのが西尾維新の『掟上今日子の備忘録』で、ラノベのこの笑っちゃうくらいの読みやすさ・薄っぺらさが、リハビリ的な意味合いの読書として、非常によかったのだ。
なんにも考えずに文字を読むことができたうえで、単調な展開ながら「あ、そうなんだ」程度には心を動かすことができるというのは、じつは大変なことなんじゃないか。
よく言われることだが、さまざまな娯楽が発達した現代において、読書というのは、それなりに時間がとられるうえ、かつ能動的な行為を要求されるという意味では、なかなかにその体験者を選ぶところがあって、「本を読むくらいだったらSNSやっていたほうがたのしい」とか「アプリのゲームするわ」なんて考える人がいてもまったく不思議ではない。別に読書をしているから偉い、SNSやゲームは偉くない、なんて思わないしね。
読書をするからには、読書のほうに他のものにはないなんらかの優位性を見出しているはずなのだが、その優位性を「これだ!」と確認できる機会は実はなかなか少なくて、『バラカ』の話じゃないけれど、さんざん読んだあげく、「え、これでおしまい? ひでえ!」なんて感じることはゼロではない。僕なんか、ちょっとでもイヤなところがあると心中で不満が噴出し、読書じたいが進まなく、余計に時間がかかってしまう。「こんなことあるわけないよ」とか「めちゃくちゃ適当に書いてるな、ここは」とか。
そういう決して一筋縄でいかない体験である読書のリスクヘッジのひとつの指針として、読みやすいものを選ぶ、ということが挙げられるのではないか。
読みやすく単調な展開のものを選べば、少なくとも時間はかからない。時間がかからないから、「費やした時間を返してくれ!」という不満が湧出する蓋然性は低くなる。そしてそういう不満がなければ、多少面白くなくとも、「ま、こんなものか」と赦せるのである。

悪い点。
これは「よい点」の裏返しで、あっさりしすぎて、あまり心に残らない。するするするっと記憶のふるいからこぼれ落ちてしまう。そばをささっと啜ったときのように、なんだか物足りなさだけが残る。
本書は、辞書編纂に関わる人間の物語だが、その核となる辞書編纂が、よくできた「装置」以上のものには感じられなかった。もちろん、言葉に対する情熱や愛着、細部への拘泥や執心を描いているわけで、作者自身も言葉や辞書について相当な関心・愛情を持っているのであろうが、そのいづれもがこちらの想定の範囲内で、ことさら新鮮な驚きがあるわけでもなかった。


ちょっと前までは、新しい中型辞書の新版などが出ると、井上ひさしがコラムで言及したりしていたものだよね。新版でなくても、丸谷才一、高島俊男、柳瀬尚紀(彼は作品社「日本の名随筆」で「辞書」の編者になっていた)たちのエッセイで、辞書についての彼らの一家言なんていうものをけっこう目にしたせいもあって、そこらに較べると『舟を編む』に出てくる描写は、そこまで深いところまで行ってはいないなという印象を持った。カタログ的というか、きちんと取材をしているため必要な情報は揃っているが、それ以上のものを得ることは難しい、という感じ。もちろん、辞書のつくり手と、それの非常に優秀な読み手、という観点の違いはあれど。
この「装置」の使い方で、小川洋子の『博士の愛した数式』を思い出した人は少なくないだろうと思う。あれは、数学版。こっちは辞書版。そこにヒューマンドラマを絡めていっちょあがり、なのである。
ま、それでもいいのである。多くの読者は、ある単語の世に知られている誤った語源解釈をただす、なんていうディテールに興味があるわけではなく、ふだんあまり知ることのない世界をほんのちょっと垣間見ることができればじゅうぶんなのだ。
すぐれた作家というのはその要求にきちんと応えることができ、三浦しをんもその仕事をじゅうぶん果たしている。
言葉という大海を渡るための舟が辞書であって、辞書づくりというのはその舟をつくることなのだ、というフレーズが幾度となく出てくるが、これをロマンティックだと感じられる人たちはじゅうぶんこの本をたのしむことができるだろうし、うーん、ちょっと陳腐かなと思う人たちは、それなりの感想しか得られまい。ここがたぶんいちばんわかりやすい好悪の分かれ目になると思う。

さて。
内容についてちょっと感じたことを書くと、この小説の登場人物は、かなりキャラクター的で、こういうところにいい意味でのラノベっぽさを感じた。「人間性とはなんだ」とか「もっとリアリティを」なんてことをいう前に、面白くなるための役割をあらかじめ振り分けておいて、その範囲内で活躍してくれればいい、というのが先に書いた「キャラクター的」という意味だ。
なので、主人公の「まじめ」は、最初から最後まで同じままだ。ヒロインっぽい役どころの「かぐや」も、まあ、そもそもそのイメージが覆るほどの登場回数が与えられていないし、他の人物たちも同様。ただ、西岡というチャラい人間だけに、人間的成長の見られる部分があって、その点がこの小説のハイライトだと個人的には思っている。
あとは予定調和の世界(西岡の成長ももちろん予定調和内なのだが)が粛々と進められ、最後はそれなりに感動させるようにできている。
僕の大好きな上方落語『はてなの茶碗』という噺のなかで、主人公である大阪出身の油屋が、いわゆる「はてなの茶碗」を京都の茶金という茶道具商のところへ持っていくと、主人の金兵衛の代わりに番頭が品物を鑑定するのだが、そのときに、茶碗を見る前に、茶碗を包んだ風呂敷を褒める箇所がある。
「ええ風呂敷どすなあ。更紗もこれぐらいになると……」と言って、油屋に「風呂敷はどっちゃでもええねん」とツッコまれるのだが、この「更紗もこれぐらいになると、」という褒め方がなんとも風情があって、好きなのだ。
『舟を編む』という小説を読み終えたとき、「エンタメもこれぐらいになると、やはりいいもんですな」という感想がぽっと浮かんだ。
これまであまり褒めてこなかったように見えるかもしれないが、どっこい、そんなことはない。適度な登場人物たちによってこれまであまり知られてこなかった世界が紹介され、最後には爽やかな感動を得られる、っていうのは、じゅうぶんに価値のある小説だと思う。中学校・高校の図書室の書架にぜひ並べてほしいものだ。わかりやすいので、映画化やマンガ化、アニメ化もしやすいと思う。
僕個人は、ものすごく気に入ったというところまではいかなかったが、作者の技倆に、職業的作家ってこういう人のことを言うのだろうなと思ったのだった。

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桐野作品は初めてだったのだが、うーん、次を読もうという気にはなれないなあ。

今年読んだあるマンガ家の短篇集に、アイドルについての作品が収録されていたのだが、非常にがっかりした。そのマンガ家には頑張ってもらいたいという期待感があったので、余計にその失望感は大きかった。
というのも、その作品に描かれているアイドルとアイドルヲタクとの関係性が既視感にあふれているというか、作者の「感動的に見せたい」という意図に反して、その界隈のことを「やや知っている」程度の僕ですら、いやなんかこれ、現実に見聞きするエピソードのほうがよっぽど感動するんですけど、たぶん、作者はアイドルファンじゃねえな?なんてことを思ってしまったのである。
このことが『バラカ』にも言える気がする。つまり、震災にまつわる「現実」のほうが、この小説で戯画化されているようにも映るディストピアより、よほどおそろしく、また深刻なのではないか、と。
オビ文にも書いてあったことだからネタバレにはならないと思うのだが、この小説のなかでは、東日本大震災で福島第一原発がすべて爆発したということになっており、その後の日本が描かれている。
首都機能は大阪に移り、それと一緒に多くの人は「西」に逃げて、「東」の人たちの差別や迫害はひどく、国は必死で原発関連の情報を隠蔽・検閲し、あるいは、来るべき2020年の「大阪オリンピック」にみなが夢中になっていて、「東」はまったく関心を持たれなくなっている……というおそらくは作者のものであろう批判の数々は、すべてとは言わないまでも、いま現在の社会にもかなり通用することがあって、それならば、福島第一原発がすべて爆発した、などという設定をわざわざ持ってくる必要はなかったのではないか、とついつい考えてしまう。
そんな「非常事態」にならなくても日本の社会はじゅうぶんディストピア化しているところがあって、そこを直視したほうがよほどこわい、という気もする。650ページ(!)近くのフィクションを読むより、被災地の風評被害や、放射線にまつわる差別、あるいは国家によるメディアに対する圧力などについてのルポルタージュをそれぞれ読んだほうが、よほど学べるものが多いのではないかということだ。
ちなみに本書は三部構成で、大震災前、大震災、大震災八年後となっている。

あとは、つらつらと不満点を挙げていく。

大震災前のパートで、登場人物のひとりである女性テレビディレクターが自分の製作した番組を放送するときにツイッター上で炎上が起こるのだが、2010年ごろってツイッターはまだそれほど盛り上がっていなかった気がするんだけど。
その頃、テレビ局が公式アカウント持って「いまから放送します」みたいなツイートをしていた、なんてことあったのかな。いまちょっと見たら@NHK_PRが2009年11月の登録となっていた。うーん、かなりギリギリかな。
やっぱり、ツイッター人口が劇的に増えたのって2011.3.11以降のような気がする。2010年4月スタートのあるドラマがツイッタードラマみたいなことを謳っていて、それを契機にツイッターを始めただかハマっただとかいう脚本家がいたことをなんとなく憶えている。あの頃は、ツイッターって日本で流行るのかどうかなんてことがまだ言われていたのではなかったっけ。

ひとり、自称「悪事の天才」が出てくるんだけど、それがかなりしょぼい。それでもなぜか彼が日本の悪全体を背負っているような構図になってしまっていて、そのことが小説全体のうすっぺらさの縮図みたいになってしまっている。
また小説の舞台も、東京、福島、ドバイ、それからサンパウロがちょっと……と、一見かなりめまぐるしく行ったり来たりするのだが、それがまるでステージの書割の転換みたいな軽さで、その場所場所が登場する必然性はほとんど感じられなかった。おそらく、震災、原発、放射線汚染後の世界、という大きな物語の枠組みをつくってしまった以上、そのぶん世界を拡大して描こうとしたのだろうけれど、成功していない。
が、どうしようもないくらいに魅力のない登場人物たちのなかで、この「悪事の天才」のストーリーだけは、やや惹かれるところがあった(最終的にその興味は失速に失速を重ねて消滅してしまうのだが)のも事実。やや、ね。というより、その人物と主人公のバラカ以外は、まったくといっていいほど、魅力がない。

あと、びっくりするくらいに人が死ぬ。
震災だから、ということじゃなくて、たぶん作者にとって必要のなくなった順に、どんどんと死んでいく。そうなると、読者が登場人物たちに対して愛着を持てなくなる。「どうせこいつも死ぬんでしょ」としか思わないし、実際その程度にしか描かれない。
また、漫☆画太郎のマンガみたいに、トラックに轢き殺されるという死に方が複数回出てくるのだが、思わず笑ってしまった。

それと個人的に感じたのは、作者は女性が嫌いなのかな。前半の登場人物に女性がふたり出てくるのだが、これが仲がいいという設定なはずなのにコミュニケーションをすればするほどいがみ合う。お互いがお互いに対してどこか気に食わないところを持っていて、その部分を軽蔑したりしている。
しかしもうちょっと客観的に見ると、ふたりとも浅慮で見栄っ張りな性格だというのは共通していて、ふだんの主張は威勢がいいのだが、いざとなるとずるずると流されてしまい、「弱い」といえば聞えはいいが、つまりは愚かしく描かれており、いくらなんでもティピカル――しかも保守的なおっさん層が安直にイメージしがちな典型象――にすぎると思われた。
別の登場人物に強烈なミソジニストがいるのだが、彼のセリフにやけに実感がこめられているように感じたのは、少々ヒネた読み方だっただろうか。

まあとにかく、なんだかんだの些細な短所は、最終的な尻切れトンボ感によって簡単に一掃される。650ページの果てのこの結末はいくらなんでもないだろう。夢オチかと思ったくらいだ。
もうちょっと広げた風呂敷の畳みようっていうものがあるはずで、作家としての誠実さを心の底から疑った。
この作家はけっこう有名なもんだから、ふだん小説を読まない人が「なんか有名な人だよね。どれ、読んでみようかな」と思って手にとったらたいへんなことになると思う(実際、僕が読み始めた動機もそんなもの)。大部のため無駄に名作感を醸し出しているようで、失望感もその反動で大きいのではないだろうか。なんだ、小説ってつまらないなと思って、その人が以後読書をしなくなったら、その罪は大きいよな……なんて、作者の責任とはいえないようなことまで考えてしまったのだった。けっこう先入観を持たずに読み始めただけに、非常に残念。

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小説の感想、ということになるのだろうか。
作者の母親の闘病についての記録、というほうが近く、そこに家族の関係や、作者自身の過去などが語られていくのだが、読みやすいといえばそうとも言えるけれどなにか特別な工夫があるわけにも見えないため、迂闊に小説と言ってよいものか、迷う。
という僕は別にジャンルにこだわっているわけではなく、もしドキュメンタリーとしてとらえると実母の闘病およびその死について個人の感じたことに、他人がなにか評価を下すようなことはそもそも間違っていると思っているため、躊躇してしまうのだ。それくらいこの文章は、誰かの日記を一冊の本という体裁にまとめました、と言われて「そうなのか」とすんなり受け取れるくらいに、さらっとしている。
その「日記のようなもの」とか「日記」そのものに文学性はないのかというとはたしてそういうこともないのだろうが、批評の対象とするにはやや逡巡をおぼえるというのは人として当然で、でもまあ、出版されてより公の目にさらしたいという願望が作者にはあるわけなのだろうから、いったん私小説ということにして感想を述べるとすると、やはり、物足りなさが残ったという一点に尽きる。

作者をよく知らない僕としては、「私」にほとんどよい感情を持てず、その考えや行動に対して疑問を持つところも少なくなかったが、それはまあ日記ではないとすれば、つまり小説だと考えれば受け容れることは可能で、それくらい人間というのは切羽詰まったときは理不尽になるし、冷静さを失うものだ、と理解できる。繰り返すが、好悪の感情とはまったく別だ。
また、両親や親戚(特に父親の姉妹)とのやりとり、そして病院関係者との交渉などはわりあい細かく描かれるため、それらにおける困難やすれ違いには読者も疲弊してしまうくらいなのだが、もちろんそういう点を挙げて、「読んでいて辛い気持ちになる」なんていう甘ったれたことを言いたいわけでもない。むしろ、傲慢で横柄で人間としてなにか欠落した倫理観を持つ医者たちと接するにはICレコーダーをもって臨むのは必須なのだ、という実学的知識も得られる。
余談だが医者に限らず、保育士、看護師、介護士、教師など人と接することが多く、かつ、相手に対して(たとえば飲食業の接客などのそれとは較べものにならないくらいの)多大な影響を与えうる職業においては、往々にして流れ作業的・やっつけ作業的・機械的応対と呼ぶべきものが見られるが、それらはおそらく無意識の自尊の念に由来するものであって、でかい車に乗っていると自然と気が大きくなってしまい、小さい車や歩行者に対して高圧的態度をとりがちである、ということに近い。そうそう、上の職業に僧職もくわえたい。ああいう思い上がり、なんとかならねえものか。

話は戻り、しかし上記の総体が、「私」というものをその名に冠している私小説かというと、そうとも限らないだろうとも思う。
この本のことを「小説じゃない」という人があれば、まあそうだよね、と頷いてしまうだろう。「いや、これこそ小説だよ」という人があれば、ブログで同じようなことを書いている人がもはや山ほどいるというこの世界で、そういうものとどこか違うところがあるか?と素朴に尋ねてみたい。この質問には悪意や皮肉の意図はまったくなく、単純に、わざわざ小説と銘打つための根拠を知りたいのだ。

回想部分の挿入の仕方とか、辛く腹立たしい箇所について描写を淡々と重ねるところなど、そりゃ素人ではないのだろうな、計算はされているのだろうなということはたしかにわかるのだけれど、しかしそれにしても、やや粗雑な印象は消えない。たとえば禁煙ファシズムという言葉に象徴される、おそらくは作者が日頃から抱えている信念などが本筋とあまり関係のない形で出てくると、作品としての体裁に、破綻とは言わないまでも罅が入るのが感じられる。思ったこと・感じたことをなんでもかんでも書いていけば、それは垂れ流しになってしまう。それはブログや日記ではありうることだし、なんにも問題はないが、こと小説となればノイズに映ってしまうのではないか。
たとえば平和主義者の私小説で、まったく関係のない箇所で唐突に「それにしても憲法9条は守らなければならない!」と書かれていたら、それはそうなのかもしれないけれど別のところで書いたらいいのではないか、と思ってしまう。作者がそう思った・そう感じたということはたしかに事実なのかもしれないけれど、たとえ事実だったとしても書かれるべきことと書かれるべきではないこととの弁別は、作者にあってしかるべきではないか。むしろ私小説家であれば、そのわきまえる判断こそが求められる能力なのではないか。

とはいえ、それが小説か否かとか、ブログや日記となにが違うのかとかなどの疑問をいったん脇に置いておくとして、親しい者の死の予感というものが個人に与えるという、人生において非常に重要な場面――それが他者のものだとしても――を目の当たりにすることで、いろいろと考えさせられるものがあった。
この小説にも、いままでとうてい読む気になれず回避していたある病気についての小説やその他の文章を、自分の母親が罹患したとわかってからは貪るように読んだということが作者自身によって書かれており、なるほど作家でもそういうものかと思った。
大きな事件、事故、病気あるいは災害などによって傍観者でいられなくなる瞬間というのはあるのだろう。たとえ本人が直接に遭遇/罹患/罹災等をしたわけでなくても、親しいものが当事者となってしまえば、やはり傍観者ではいられなくなる。そこでおそらく、世界ががらりと変わってしまう。
死は誰のうえにもやってきて、ある日、世界からとてもたいせつな誰かがなくなってしまう、ということは古今東西さまざまな形で語られてきており、それは誰にでもわかっていることだが、しかしそのことを心の底から受け容れている人間は少数派だろう。おそらくその瞬間が自身に到来するまでは、言葉として、概念として理解するにとどまり、実感することはなかなか難しいのだろう。だから混乱し、動揺する。
僕がこの作者の立場になれば、おそらく記録することすらままならず、このようにまとまった文章にすることはできない。そういう意味では、作家としての最低限の役割を果たしているといえるのかもしれない。感動するかどうかは別として(おそらく純文学に属する小説だからそもそもそういう目的にない、と作者に言われそうだが)、これを読んで、僕の日常の感覚にひとつ不穏な罅が入った。たぶんそれが文学の仕事なんだろう。

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再読したのは一週間前に同作者によるヴェルーヴェン三部作の第一作『悲しみのイレーヌ』を読み終えたから。
『イレーヌ』は、ネタバレなしに書くのはなかなか難しいので触れないようにするが(傑作!)、あの作品を読み終えただけのままだと読者にはかなりのショックが残るだけなのではないだろうか、ということに気づいた。
僕の場合、そしてけっこう多くの日本の読者も、まずはじめに翻訳されベストセラーになった第二作『その女アレックス』を読み、それから『イレーヌ』へと読み進めたであろうから、あらかじめそこでなにが起こるかわかっているという、ミステリーとしてはいちばんあってはならない環境のなか読書を強いられることになるのだが、その反面、『イレーヌ』でどうしようもなく打ちのめされるカミーユがそののちに復活することを知っている、ということに少しだけ救われもするのだ。それが、第二作→第一作という順番を不本意ながらもたどってしまった読者の享受できる、数少ないメリットだろう。

『アレックス』をふたたび読んで、あらためて感動しているが、この感動は初回以上のものだ。
これまたネタバレしないように書くけれど、初回には理解・共感できなかった彼女の残酷さが、二回目からはまったく違うもののように見え、そのいちいちに胸を締めつけられる。
絶望の淵へと涙を流しながら沈んでいくアレックスと、やはり絶望の淵でその底を覗き込みつづけ、そして物語の最後にそこから救われるカミーユ。
このとんでもなく哀しい物語の最後の2ページで、読者は人生の輝きといっていいようなものを見ることになる。こんなことはファンタジーで、現実にはありえないことかもしれないけれど、それでも、その幻想を知っていることに小説読者は確実に励まされる、そんな輝きとしか呼ぶことのできないようなエピソードに、ふたりの主人公ほどではないだろうが暗く沈んだ気持ちに浸っている読者たちは、ちょっとした浮揚感さえ与えられる。
それと最後の最後に、それまでさんざん気障ったらしく間抜けでどうしようもないと思っていたわれらが予審判事が、読者がいちばん聞きたいと思っている言葉を言ってくれるというのが、とてもしゃれているなとあらためて思った。
この小説が個人の復讐譚であることはまちがいないのだが、この予審判事の言葉のおかげで、現実において痛めつけられている弱く小さな者たちに代わって作者が、世界という無慈悲な存在に対して大いなる復讐を試みているようにも見えてくる。フィクションは微力かもしれないが無力ではなく、ときに大きな力を持つ場合もある。感傷的な読み方かもしれないが、そのような感想を得たのだった。

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終戦から七十年だからというわけではないが、八月六日だったから原民喜の『夏の花』(岩波文庫)を読んだ。

高校のときに教科書で読んだ記憶があったが、ある部分を除いてほとんど印象を持っていなかった。もしかしたら教科書には、ただでさえ短い小説(二十四ページ)の一部分しか掲載していなかったのかもしれない。
あらかじめ書いておくと、僕の記憶していた部分というのは以下。爆弾が投下され、なにがなにやらわからない状態で主人公が逃げ出したところ、
川岸に出る藪のところで、私は学徒の一塊りと出逢った。工場から逃げ出した彼女たちは一ように軽い負傷をしていたが、いま眼の前に出現した出来事の新鮮さに戦(おのの)きながら、かえって元気そうに喋り合っていた。
(14p)
原爆が投下された直後なのに「元気そうに喋り合っていた」ということに驚いた。それまで僕の知っていた原爆の話といえば『はだしのゲン』しかなく、あの物語ではとてもじゃないがそんな余裕のある登場人物は出てこなかったのだから、それゆえに明瞭に記憶されたのだと思う。

さて、ヘンな言い方になってしまうが、この小説を小説として読むととても奇妙な感覚を味わうと思う。
作者と思われる「私」はいるし、情景描写もあるが、なんとなく(構成という意味での)結構というものがないのである。現実がめちゃくちゃでひどいものだったから起承転結があるわけがない、という理窟はよくわかる。わかるが、それだとしても、ちょっと整っていなさすぎなのである。その証拠にこの「小説」の最後は、それまで一度も登場しなかったNという人物が妻の死体を探しているという描写が一ページとちょっとつづき、そこで唐突に終わる。

(内容に感じたものとは別の)妙に落ち着かない気持ちを感じながら解説を読んでみると、この文章が書かれたのは、1945年の秋だということがわかった。その後いくらかの変遷や修正はあったのだろうが、たぶん基本部分はそのあたりですでに完成していたのだと思う。
その記憶の生々しさが、たぶん未整理な印象を与えるのだろう。被爆時に当然感じたであろう絶望的な苦しみも、読了後の印象としては、はっきりと書かれてはいなかった。どう感じたらいいのか、作者自身が戸惑っているようにも思えた。
作中、次兄がその息子の遺体を見つける場面がある。そこに慟哭は描かれていない。淡々と死体の描写がつづき、ただ、「涙も乾きはてた遭遇であった」と書かれているのみだった。

この作品を読み終えて十日ほど経ったいま思い返してみると、音の印象がない。静寂ということではない。物が燃え崩れ、死に際した人々が泣き叫ぶ場面は出てくる。けれども、それを描いている作者に実際に「音」は聞えていなかったのではないか。もうちょっと正確に言えば、「音」を現実のものとして認識することができなかったのではないか、と思えるのである。
たぶん、目の前で起こっていることのすべてに現実感が追いついていなかったのではないか。


この「体験」を読むことによって、僕はたぶん七十年前のヒロシマに少しは近づくことができたのだと思う。けれども、(いつも書いているように)事実と僕とのあいだには大きな深淵が横たわっている。そこを飛び越えることは一生できない。
だからといって、もう無視はできない。少しのあいだ忘れることはできるかもしれないが、まったく忘れ去ることはできない事実。率直に言ってしまえば、その存在が不快ですらある事実。それを「体験」した人がいる/いたという事実。

8/4にイギリスのBBCが「ヒロシマ原爆投下の『都合のよい物語』」と題して原爆に関するコラムを出した。記事はすべて英文だが、辞書と首っ引きで読んでみると、多くのアメリカ人には、原爆投下は正当なものであり、それによって(戦争をつづけていたら起こったであろう)日米双方の数十万の死者を救ったことになると理解されているらしい。ひどい火傷を負った被爆者のひとりが数十年後、スミソニアン博物館にエノラ・ゲイ号の除幕式を見に行ったとき、多くのアメリカ人に、「おめでとう、あなたは原爆があったから生きてここに来られたんですよ」と言われたという。原爆のおかげで、ハラキリをせずに済んだと。
同記事は、原爆以外の無差別爆撃についても言及している。ナチスのゲルニカ・ロンドンへの爆撃、イギリスのドレスデンへの爆撃、日本の重慶への爆撃。しかしその中でも原爆ほどひどいものはなかった、とBBCは書く。
僕は少し冷静になる。どのような「小規模」の爆撃であっても、そこで傷つき、死に、家族や家を失った人たちにとっては、「これほどひどい行為は世の中にない」と恨むであろうと思った。死者の数の多寡の差は、個人が気にすべき範疇ではない。それは国家であったり歴史家たちが扱えばいい問題であって、個人は、戦争によって生み出されるいちいちの惨禍を忌み嫌わなければいけないのだ。

しかしそれでもなお、原爆は許されざる兵器である。8/6のニュースで取材を受けていた九十代の被爆者は、「まだあの日のまま」ということを訴えていた。別のニュースでは、生前の被爆者をインタビューした映像が流されていた。その人は涙を浮かべながら、「あのときの広島は、原爆資料館にあるような生やさしいものではなかった」と言っていた。
同日、朝のラジオ番組では張本勲のインタビューが流されていた(この音源はABCラジオで期間限定で公開されていたが、現在は削除されてしまっている)。 
僕はこの放送があるまで、張本のおっさんというのは頭の硬い守旧派のクソオヤジという印象しか持っておらず、被爆体験者であることはまったく知らなかった。
自慢のお姉さんを被爆で亡くし、差別を怖れたために自身の体験をそれまでいっさい秘していたという。現役時代も、健康診断でいつ「原爆病」に認定されるかと怯え、誰にも相談できなかった、と。
晩年になってその考えが少し変わり手記を書いて、そのなかに「8月6日と9日はカレンダーのなかから消えてほしい」と書いた。それを読んだ小学6年生の女の子から手紙が届いた。その子は原爆資料館を訪れており、「忘れないためにも、6日と9日は必要だと思います」と訴えた。張本はそれまで資料館の前にまで二回行ったことがあるのだが、怒りと悔しさに震えて二回とも中に入れなかった。けれども、その女の子からの手紙を読んで勇気づけられてもう一度だけ訪れてみて、今度は中に入ってすべてを見学することができたという。
それ以降、自分たちの世代が原爆の悲惨さを直接伝えられる最後のメッセンジャーだということを意識して発言をつづけている。

彼のなかではアメリカに対して恨みもあるのだろうけれど、けれどもこのインタビューのなかでは、戦争や核は人間の所業ではないとはっきりと強く主張していた。どんなに話し合いが長引いてもいいんだ、戦争はしてはいけない、と。
こういうインタビューを聴くと、つくづく人間というのは外から見える部分だけではほんとうになにもわからないものだと、自分を羞じた。ある人が、張本はメジャーリーグを日本のプロ野球より低く見ているけれどそれはおかしいと批判していたが、そう思うのは仕方ないと思う。そう思いたくなって当然だと思う。スポーツの優劣を競争できるという幸福を彼以上に知っている人間は、少なくとも彼より若い世代にはいないと思う。

NHKの原爆についての世論調査で、原爆が投下された日付を答えられない日本人が全国で75%近くがいたということが報告されている。また、それ以上に気になったのは、アメリカの原爆投下を現在の日本ではどうとらえられているか、ということをあらわす数字。
原爆投下についての世論調査
上掲画像のとおり、「やむを得なかった」と答えた人が四割近くいたということで、しかも被爆地でも同程度の数字だったいうことに少なくない衝撃を受けた。
僕は報復に意味があるとは思えないけれど(というより、際限がなくなってしまうことを怖れる、といったほうが実感に近い)、それでも、許せるような問題なのだろうか、と思う。
これよりあとの質問で、「自分も身近な人も被爆していない」と答えた人が、広島市で42.4%、長崎市で32.8%、全国では83.7%もいるということだから、被爆地であるか否かに関わらず、「体験」が遠ければ実感も湧かないという「人のものごとへの感じ方」をこの調査は伝えている。

ここで僕の個人的体験を書いておくと、四歳くらいのときに、はじめて母に映画に連れて行ってくれると約束されて喜んで観に行ったのが『はだしのゲン』のアニメで、上映中に怖くて泣きだして映画館を出たことを憶えている。
以来、原爆の怖ろしさというのは過剰なまでに記憶に刻み込まれてしまい、中学生くらいまでは夜寝るときなど、いつか世界が簡単に吹き飛ばされてしまう日が来るだろうという恐怖にとらわれ、なかなか眠ることができない日などもあった。

原民喜の小説を読んでも、この小説をどういう視点で読むかによって意味合いがまったく変わってくる。核兵器とか原爆とか戦争という単語を、ある種の観念的な用語として扱えてしまうような人間は、読もうが読むまいが感じることはあまりないのではないか。
ちょうどこの小説を読んでいたあたりで、終戦の「聖断」がくだされた非常に重要な場所としての皇居内の御文庫付属室が公開された、というニュースを見て、「聖断」の「聖」の文字に対して怒りが湧いた。もちろんこれは、現在においては「竜顔を拝する」といった類の過去の表現の一種でしかないわけだが、過去の戦争を、その「聖」の側に立って見るのか、あるいは、わけもわからずある日一瞬にしてすべてを焼きつくされた人たちの側に立ってみるのか、で得られるリアリティはまったく異なってくる。
たとえば兵站を論じるときも、兵站線を描く指揮官の立場でそれをとらえるのか、あるいは、汗水流して身の危険に怯えながら実際に物資や食糧を移動させる一兵卒の立場でそれをとらえるのか、と問えば、世の中のたいていの「語りたがり屋」たちは、前者のつもりで口角泡を飛ばすのであろう。
上に書いた、「観念的な用語として扱えてしまうような人間」とは、そういう人たちのことを指しているつもりだ。

張本勲のインタビューで、以下の言葉がとても印象に残ったので引用しておく。広島で被爆し亡くなった人たちについて。
あの人たちは犠牲じゃないんですよ。身代わりだから。他人じゃないの。どっかで繋がっているんだ。親族じゃなくても、友だち、友人、おじいちゃん、おばあちゃん、ひいおじいちゃん、どこかで繋がっているんだ。別な県の人でも、(別な)市の人でも、どこかで繋がっているんですよ。わたくしどもの身代わりだから。ひょっとしたらわたしたちがその方たちになったんじゃないかと思うとね……
犠牲じゃなくて身代わり、という彼の発言には、「誰でもありえたのだ」という実感が込められているのだろう。すべてを他人事のようにとらえ考えれば、世の中で怖いものなどなにもなくなる。自身が不測の事態に巻き込まれてしまう直前までは。

戦争への抑止力はなによりも恐怖であると思う。嫌悪感よりも、恐怖。それが自分の身に起こる可能性があれば、人間は回避する策を講じようとするはずだ。しかしいまの日本では、その恐怖をバカにする傾向が見られる。
知識を得る段でも、つねに支配者・指導者の視点に立とうとするものだから、殴られ、蹴られ、犯され、殺された側の人間の気持ちを測ることができない。測ろうともしない。ゲーム的感覚のもたらす万能感の弊害だとも思う。
戦争で犠牲になるのはつねに弱者からであって、僕は自分が間違いなくそちら側にいると思っているので、当然戦争には反対する。バカな政治家がそういう若い人たちの態度を自己中心的だと批判したそうだが、そう言っているやつらこそが、大好きなニッポンの危急存亡のときでさえ1ミリたりとも腰を上げるつもりがないであろう、ということについては批難する余地があるはずだ。


最後に。
解説で知ったのだが、原民喜は1951年(昭和二十六年)に自死している。もともとその妻が原爆投下以前に亡くなっており、その頃から、死別後、一年だけは生きるという考えだったようで、反対にいえば、一年後には自殺するつもりだったのだろう。
原爆の体験は、「このことを書き残さなければいけない」と彼をして思わしめたようで、一連の作品を書き上げたのち、自身の仕事に一段落を認めて死んだのかもしれない。
『夏の花』では、負傷した兵士に肩を貸してお湯を飲ませてやろうとする場面が出てくる。
苦しげに、彼はよろよろと砂の上を進んでいたが、ふと、「死んだほうがましさ」と吐き棄てるように呟いた。私も暗然として肯き、言葉は出なかった。愚劣なものに対する、やりきれない憤りが、この時我々を無言で結びつけているようであった。
(19p) 
原民喜はおそらく自ら命を断つ日まで、この「やりきれない憤り」を抱きつづけたのだろうし、また、他のすべての被爆者たちも、やはりあの日からずっと抱えつづけているのだと思う。

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