とはいえ、わからないでもない

カテゴリ: 小説

編集
ある理由から読み返した。
僕のように『スローターハウス5』を何回か読み終えた人間は、はたしてこの小説をどのように記憶しているのだろうか。
これまでの数回の読書で憶えていることはほとんどなかった――いくつかの忘れがたいキーワードを除いて。
大筋を忘れていたというのにもかかわらず憶えていたというディテールは、たとえば「キルゴア・トラウト」だったり、「トラルファマドール星人」だったり、「『そういうものだ』」だったりする。

しかしそれにしても、これまでの読書はいったいなんだったのだろうか。
それこそ「そういうものだ」というきめつけのもと、皮肉とユーモアで戦争、とくにドレスデン爆撃について描いたタイムトラベル・コメディ、といった紋切り型の切り口で読んでいったのだろうと思う。
しかしそれにしては、といまなら思う。それほどユーモアがあっただろうか。それほど戦争が描かれていただろうか。皮肉はたっぷりあった。タイムトラベルもたっぷりあった。
けれどもおそらく、上記の観点から読むだけでは、この小説はとらえられないように思う。というか丁寧に読んでも、この小説をはっきりととらえることは難しい。時間は単線的に進まず、未来と過去を行ったり来たりして、そのあたりのどこかで主人公が殺されたりもする。
あるいは、と落ち着いて考えてみる。この小説はもしかしたら失敗作なのかもしれない。

ヴォネガットは大好きな作家だけれど、これはイマイチという小説もけっして少なくない。たいていの場合はにやにやとできるのだが、読み終えてからほとんどなにもつかめていないことに気づき、けれどももう一度読むかどうかはわからない、程度の作品ならけっこうある。
それでは『スローターハウス5』はどうかというと、イマイチという印象はなかった。そこそこよかった、という感想がいつもあった。ドレスデン爆撃という大きなテーマがあるということだけははっきりと憶えていたから、もしかしたら、無下にできなかったというのがいちばんの理由かもしれない。
実際のところ、なかなか芯のとらえづらい小説である。まず、本小説を書いた経緯が、冒頭から三十余ページにわたって長々と説明される。そうしてやっと本篇が始まったかと思うと、主人公が時間旅行者(ただし当人にはコントロールできない)であることが紹介され、それから金持ちになったり、飛行機事故に遭難したり、宇宙人に誘拐されて見世物にされたり、などということが3ページほどで説明される。
ついで、トラルファマドール星人の特徴が描かれる。
彼らは、すべての異なる瞬間を思いのままに眺めることができる。彼らには過去・現在・未来という概念がない。彼らからしてみれば、過ぎ去ってしまった時間は二度と戻らない、という地球人の認識は錯覚にすぎない。この冗談のような設定がこの小説の重要な鍵となっていて、小説内世界観の基礎となっている。

この小説を読むと誰もが「そういうものだ」とつぶやきたくなるはずだが、いっぽうでその言葉は、戦争の悲惨さや個人の生命が持つ厳粛さ・尊厳というものを著しく傷つけているかのようにも見える。
どんなに悲惨なことが起ころうとも、その記述の直後に「そういうものだ」という一文がくっついてしまえば、途端に喜劇になってしまうか、そうでなくても、あまりたいしたことでなかったかのように錯覚してしまうからで、その点から、単純な冷笑主義者や、ネガティヴな事象を個人的関心の外に追放したがる人々が飛びつきやすい言葉でもある。
しかし、今回あらためて読んだことで気づいたのは、この「そういうものだ」という言葉にはきちんとした定義がなされているということだった。前述したトラルファマドール星人の時間概念に対する認識が地球人のそれとはまったく異なっている、という記述のあと、こうある。
トラルファマドール星人は死体を見て、こう考えるだけである。死んだものは、この特定の瞬間には好ましからぬ状態にあるが、ほかの多くの瞬間には、良好な状態にあるのだ。いまでは、わたし(※主人公)自身、だれかが死んだという話を聞くと、ただ肩をすくめ、トラルファマドール星人が死人についていう言葉をつぶやくだけである。彼らはこういう、”そういうものだ”。
(『スローターハウス5』 39p)
この引用部分は主人公のビリー・ピルグリムの独白であり、厳密にいえば、この小説の書き手、カート・ヴォネガットとは別人格である。でもまあ、作者はこのビリーの考えに従って、文中に出てくるありとあらゆる死の描写のあと、「そういうものだ」という言葉を添えているのだろう(余談だが、シャンパンの泡が翌日には絶えていた、という文章のあとにもこの言葉はあった)。形式化されたフレーズという意味でなら、「R. I. P.(安らかに眠れ)」とさしたる違いはないのかもしれない。
けれどもこれは、ただの挨拶文でもない。この幾度も繰り返されるリフレインは、その言葉の持つ軽さと指し示された内容の重さとのアンバランスさをやはり強く訴え始める。
シニカルなジョークだけではないとして、しかしここまで何度も何度もあらわれるということは、やはり意味を持っているはずだが、それにしたって、いくらなんでもその言葉はないだろう。何万、何十万という死ははたして一言で吹き飛ばせるようなものなのだろうか。


たまたま社会学者岸政彦の『断片的なものの社会学』というものを読んでいて、そのなかの「笑いと自由」という章で引っかかっていた。マイノリティや被差別の立場にある人たちの自虐という話から、たとえそういう立場になくても、自嘲・自虐をもって自分の人生に降りかかる理不尽と折り合いをつけ、人生を生きつづけていくということはある、という話がつづく。
少なくとも私たちには、もっとも辛いそのときに、笑う自由がある。もっとも辛い状況のまっただ中でさえ、そこに縛られない自由がある。人が自由である、ということは、選択肢がたくさんあるとか、可能性がたくさんあるとか、そういうことではない。ギリギリまで切り詰められた現実の果てで、もうひとつだけ何かが残されて、そこにある。それが自由というものだ。
(『断片的なものの社会学』 98p)
そして、筆者の岸がひどい話を聞かされていると笑ってしまうことがあり、よく誤解を受けるということが書かれる。
私は、他人が苦しんでいる話を聞いたとき、それがひどい話であるほど、安易に泣いたり怒ったりしたくない。だから、ひどい話を聞いて揺さぶられた感情が、出口を探して、笑いになって出てくるのかもしれない。
(同上 99p)
この説明は、きっと本当のことなんだと思う。じゃあそのように笑ってしまう人を信用できるかというと、それはどうだか僕にはわからない。そこが引っかかっている。
気の毒で辛い話を真剣に受け止めれば受け止めるほど、受け手はおそらく感情の処理に困るのであって、上記筆者はたまたま笑ってしまうというだけで、人にはそれぞれいろいろな気持ちのあらわし方があるようにも思う。あるいは、あらわせないことへのフラストレーションの宥め方、とでもいおうか。笑ってしまうこともあるだろうし、うまく聞えなかったふりをするかもしれないし、そのときそのときによって異なる場合もきっとあるだろう。
しかしいちばん簡単なのは、すぐに泣いたり、またはすぐに怒ったりすることだろうと思う。それがずるいとまでは言わないが、安易に「悲しいお話」や「怒れる話」に物語化することにより、他人のものとはいえ深刻な事態に直面することを回避している。経験的に言って、これらの人々はあまり信用ならないということは明言できる。


『スローターハウス5』に話を戻す。
この小説には、痛ましいものごとに対する不感症的態度が始めから終わりまでずっとつづいている。主人公は時間旅行者であるから未来になにが起こるかということを知っているということもあるが、それにしても、ほとんど動じない。
その彼が、ただ一度だけぽろぽろと泣くシーンが出てくる。戦争中、「何を見ても泣いたことはなかった」彼は、終戦直後に自分たちが馬車として酷使していた馬がどれほどひどい状態――口から血を流し、ひづめは割れ、発狂寸前にのどが渇いていた――にあるのかを知ったときに突然泣き始めた。
この反応は、動物愛護の観点からではなく、(作中では一言も触れられてはいないが)神経症患者的なそれとして注目したほうがより適切ではないのだろうか。
その人物を生み出したカート・ヴォネガットはそのことをじゅうぶんに知っていたのではないかと思う。彼自身はそうではなかったかもしれないが、戦争体験によって「揺さぶられた感情」の捌け口に難儀した人々をたくさん目撃したのかもしれない。彼はビリーを、少なくともほとんど泣かなかったという点についてはキリストに似ているとさえ記し、エピグラフにも載せたクリスマス・キャロルの四行連句をそこで再び引用する。
牛のもうもう鳴く声に
神の御子はめざめます
けれど小さなイエスさまは
お泣きになりません
(『スローターハウス5』 233p)
もう一度、「そういうものだ」という言葉について考えてみる。
トラルファマドール星人の考えのように、惨たらしく死んでしまった人物にもきっとあったであろうすばらしい瞬間が、消え去ることなく永遠に実在――「思い出」ということではなく――しつづけるのだとしたら、その死んでしまった人物の人生も、それほど惨たらしいものではなくなるのかもしれない。
ヴォネガットのつくった設定は、なにかの救いをもたらすことを目的としたのではないかもしれないが、しかし何万、何十万という死について忘れずにつけ足された「そういうものだ」という言葉は、何度も何度も繰り返されることによって、「死の瞬間以外を忘れるな」という意味を持ち始める。これは、「メメント・モリ」という「死を忘れるな」という言葉のまったく反対の内容だ。それなら、わかる。それなら、理解できる。

もうひとつ、書いておくことがある。
本書の冒頭でヴォネガットが戦友オヘアの家を訪ねるのだが、そこでオヘアの夫人であるメアリと少しもめる。メアリは、戦争を賛美・助長するような小説は書かれるべきではないと考えていて、そこでヴォネガットは彼女とそのような小説には絶対にしないことを約束する。
なるほど、この小説では戦争というものの勇ましい部分、一部の人間に特別な美意識を抱かせてしまうような部分等が、意識的に排除されている。
『スローターハウス5』で描かれる戦争には派手なところなどまったくなくて、いくつか出てくる死にも必然性はない。そのいづれもが、いたずらや皮肉やつまづきの結果によってもたらされたようなほかの誰にでも代替可能な死であり、そこから厳粛さや重々しさはすべて剥ぎ取られてしまっている。結果、われわれ読者が目にするのは、ばかばかしさやくだらなさの煮詰まったようなものだ。そして、ばかばかしく、くだらないためにこそ、そこに痛ましさを覚えるという仕掛けになっている。
ドレスデンの爆撃を直接には描かなかったのもきっと、安直に「悲劇」を物語に持ち込ませないためなのだろう。読者を宙ぶらりんの気持ちにさせても、ヴォネガットはメアリとの約束を守ったといえる。
あるいは、ヴォネガット自身が宙ぶらりんのままだったのかもしれない。
SFの手法によって巧みに編集されカムフラージュされているが、作品全体に流れるとらえどころのなさは、作者自身の混乱をそのままあらわしているのかもしれない。それくらい、戦争体験、とくにドレスデンでの爆撃体験は、当事者であるがゆえに彼にとって巨大で推し量れないものだったのだろう。
そのような観点に立ってもう一度この小説全体を眺め渡してみると、どこに喜劇の部分があったのかというくらいに、暗いのである。明確な悲劇が与えられず、読者も消化に苦しむ暗さ。その暗さの連続に堪えきれず、「そういうものだ」という言葉につい噴き出してしまうのは、岸政彦と同じような反応なのかもしれない。

編集
面白かった……とはなかなか言えるような内容ではない。けれども傑作だと感じられた。そう感じるには、まずヴェルーヴェン三部作の『イレーヌ』『アレックス』を読み終えたうえで、この『カミーユ』を体験するという手順が必要だろう。

この小説では、主人公のカミーユが相当に痛めつけられる。いや、肉体的に痛めつけられるのは彼の恋人であるアンヌなのだが、しかしアンヌを通して、カミーユが傷つく。傷つきながらカミーユは、彼女を救おうとして泥沼にはまっていき、周囲から孤立する。もういいよ、と音を上げてしまいそうになる読者も少なくないだろう。もういいよ、カミーユをゆるしてやってくれ。一刻も早く彼を平穏な日常に戻し、幸せにしてやってくれ、と。
だが、作者はその攻撃の手を弛めない。もともと作者は嗜虐的なのかと疑うくらいに前二作においても残虐な描写を繰り返してきたが、本作でも残酷な鞭は振るわれつづけ、カミーユ・ヴェルーヴェンは苦痛に呻く。そしてその辛く苦しい三日間の果てにあったのは、また別の痛みだったのだ。

別の小説の感想のところで、キャラクターものということについて少し書いたのだが、ヴェルーヴェン三部作にも魅力的なキャラクターが登場する。カミーユ、ルイ、アルマン、ル・グエン。
彼らの名前をすぐに挙げた読者は、しかしそれから少しして、カミーユ以外の記述が実はそれほどなかったことを思い出すかもしれない。カミーユは主人公なので別格なのだが、彼以外のキャラクターの視点で描かれることは、ちょっとした場合を除いてほとんどない。
しかしなぜか読者は、彼らが魅力あふれる人物たちであることを当然のごとく知っている。それはなぜなのだろうか。
逆説的にいえば、(ただの偏見かもしれないけれど)ラノベというジャンルが登場人物たちについて饒舌に語るのに対して、ルメートルは登場人物たちについてはあまり語らず、また彼ら自身にもあまり語らせないことによって、かえってその人物像の輪郭の芯をつくったのではないか。作者は、ほんの数ページのやりとりや、ときにはたった一行によってその人物自身や、周りの人物との関係性を鮮やかに描き出してみせる。そしてもちろんわれわれ読者の想像力も、彼らの輪郭を太く豊かに際立たせることに一役買っている。

唐突だが、本書『傷だらけのカミーユ』は、原題を『犠牲』という。一作目『悲しみのイレーヌ』は『丁寧な仕事』で、二作目『その女アレックス』だけは、ほぼそのままの『アレックス』。
こうやって並べてみると、原題のほうがよりその作品の本質をあらわしているように見える。特に『犠牲』というタイトルを知ってしまうと、それ以外に考えられなくなってくる。
物語の最終盤に、その犠牲について語られる部分が出てくる。その観点に立てば、この小説にかぎらず、三部作のいたるところに、誰かが、誰か/なにかのために、なにかを捨てる、という構図を見つけ出すことができる。
ある者は称讃を得るために犯罪をおかし、ある者は復讐のために自らの命を捧げる。また、友人を救うために大金を投げ出す者もいれば、愛する者を救うために自らの自尊心を捨てる者もいる。ほかにもいろいろ。
これほどまでに広義の愛(なかには自己愛もあるが)について描かれた小説だというのに、しかしその愛が結実することは、ほぼない。たとえば、とんでもない金持ちのうえに優秀でそのくせ慎み深いというルイは、上司であるカミーユに特別な敬意と友情を持っていて、窮地に陥っている彼を救いたいと思っているが、その慎み深さのゆえか必要以上のことはできず、悲しい思いを抱いている。アルマン、ル・グエンにしても同様の感情を持ちながらも、それでもカミーユとの一定の距離を縮めることはない。
この他者への距離感と愛情とが相矛盾しつつ並存しているというのが、この小説のいちばんの魅力なのではないか。
他人を理解することはできないという大前提に立ちながらも、決してニヒリズムに陥らずに、足掻く。この三部作に通ずる痛みや苦しみというのはほとんどそこから生まれたもので、だから読者も心を揺さぶられる。軽々しい虚無主義がときに思想的ファッションの意味しか持ち得ないのに対し、愛には、いつの場合も希望が残されているからだ。

最後に、この小説でいちばんぐっと来た一行を引用しておく。最後の最後にあらわれる文章で、ある人物の一人称によるものなのだが、詳細については書かない。
わかってはいたことだが、おれはこいつがずっと好きだった。
(371p)
ここにも、たしかに愛があったのだ。

編集
これまでは、きっとあんなもんだろう、こんなもんだろう、と敬遠して読んでこなかったのだが、いざ読んでみたら、よくも悪くも読みやすかった。

よい点。
物語がいい意味で単調でベタに展開し、そのためすらすらと読める。
この読みやすさっていうのがけっこう大切なことだと実感していて、10月に入ってやっと仕事の忙しさからやや解放されたとなって図書館に行ったところ、第一冊目として手に取ったのが西尾維新の『掟上今日子の備忘録』で、ラノベのこの笑っちゃうくらいの読みやすさ・薄っぺらさが、リハビリ的な意味合いの読書として、非常によかったのだ。
なんにも考えずに文字を読むことができたうえで、単調な展開ながら「あ、そうなんだ」程度には心を動かすことができるというのは、じつは大変なことなんじゃないか。
よく言われることだが、さまざまな娯楽が発達した現代において、読書というのは、それなりに時間がとられるうえ、かつ能動的な行為を要求されるという意味では、なかなかにその体験者を選ぶところがあって、「本を読むくらいだったらSNSやっていたほうがたのしい」とか「アプリのゲームするわ」なんて考える人がいてもまったく不思議ではない。別に読書をしているから偉い、SNSやゲームは偉くない、なんて思わないしね。
読書をするからには、読書のほうに他のものにはないなんらかの優位性を見出しているはずなのだが、その優位性を「これだ!」と確認できる機会は実はなかなか少なくて、『バラカ』の話じゃないけれど、さんざん読んだあげく、「え、これでおしまい? ひでえ!」なんて感じることはゼロではない。僕なんか、ちょっとでもイヤなところがあると心中で不満が噴出し、読書じたいが進まなく、余計に時間がかかってしまう。「こんなことあるわけないよ」とか「めちゃくちゃ適当に書いてるな、ここは」とか。
そういう決して一筋縄でいかない体験である読書のリスクヘッジのひとつの指針として、読みやすいものを選ぶ、ということが挙げられるのではないか。
読みやすく単調な展開のものを選べば、少なくとも時間はかからない。時間がかからないから、「費やした時間を返してくれ!」という不満が湧出する蓋然性は低くなる。そしてそういう不満がなければ、多少面白くなくとも、「ま、こんなものか」と赦せるのである。

悪い点。
これは「よい点」の裏返しで、あっさりしすぎて、あまり心に残らない。するするするっと記憶のふるいからこぼれ落ちてしまう。そばをささっと啜ったときのように、なんだか物足りなさだけが残る。
本書は、辞書編纂に関わる人間の物語だが、その核となる辞書編纂が、よくできた「装置」以上のものには感じられなかった。もちろん、言葉に対する情熱や愛着、細部への拘泥や執心を描いているわけで、作者自身も言葉や辞書について相当な関心・愛情を持っているのであろうが、そのいづれもがこちらの想定の範囲内で、ことさら新鮮な驚きがあるわけでもなかった。


ちょっと前までは、新しい中型辞書の新版などが出ると、井上ひさしがコラムで言及したりしていたものだよね。新版でなくても、丸谷才一、高島俊男、柳瀬尚紀(彼は作品社「日本の名随筆」で「辞書」の編者になっていた)たちのエッセイで、辞書についての彼らの一家言なんていうものをけっこう目にしたせいもあって、そこらに較べると『舟を編む』に出てくる描写は、そこまで深いところまで行ってはいないなという印象を持った。カタログ的というか、きちんと取材をしているため必要な情報は揃っているが、それ以上のものを得ることは難しい、という感じ。もちろん、辞書のつくり手と、それの非常に優秀な読み手、という観点の違いはあれど。
この「装置」の使い方で、小川洋子の『博士の愛した数式』を思い出した人は少なくないだろうと思う。あれは、数学版。こっちは辞書版。そこにヒューマンドラマを絡めていっちょあがり、なのである。
ま、それでもいいのである。多くの読者は、ある単語の世に知られている誤った語源解釈をただす、なんていうディテールに興味があるわけではなく、ふだんあまり知ることのない世界をほんのちょっと垣間見ることができればじゅうぶんなのだ。
すぐれた作家というのはその要求にきちんと応えることができ、三浦しをんもその仕事をじゅうぶん果たしている。
言葉という大海を渡るための舟が辞書であって、辞書づくりというのはその舟をつくることなのだ、というフレーズが幾度となく出てくるが、これをロマンティックだと感じられる人たちはじゅうぶんこの本をたのしむことができるだろうし、うーん、ちょっと陳腐かなと思う人たちは、それなりの感想しか得られまい。ここがたぶんいちばんわかりやすい好悪の分かれ目になると思う。

さて。
内容についてちょっと感じたことを書くと、この小説の登場人物は、かなりキャラクター的で、こういうところにいい意味でのラノベっぽさを感じた。「人間性とはなんだ」とか「もっとリアリティを」なんてことをいう前に、面白くなるための役割をあらかじめ振り分けておいて、その範囲内で活躍してくれればいい、というのが先に書いた「キャラクター的」という意味だ。
なので、主人公の「まじめ」は、最初から最後まで同じままだ。ヒロインっぽい役どころの「かぐや」も、まあ、そもそもそのイメージが覆るほどの登場回数が与えられていないし、他の人物たちも同様。ただ、西岡というチャラい人間だけに、人間的成長の見られる部分があって、その点がこの小説のハイライトだと個人的には思っている。
あとは予定調和の世界(西岡の成長ももちろん予定調和内なのだが)が粛々と進められ、最後はそれなりに感動させるようにできている。
僕の大好きな上方落語『はてなの茶碗』という噺のなかで、主人公である大阪出身の油屋が、いわゆる「はてなの茶碗」を京都の茶金という茶道具商のところへ持っていくと、主人の金兵衛の代わりに番頭が品物を鑑定するのだが、そのときに、茶碗を見る前に、茶碗を包んだ風呂敷を褒める箇所がある。
「ええ風呂敷どすなあ。更紗もこれぐらいになると……」と言って、油屋に「風呂敷はどっちゃでもええねん」とツッコまれるのだが、この「更紗もこれぐらいになると、」という褒め方がなんとも風情があって、好きなのだ。
『舟を編む』という小説を読み終えたとき、「エンタメもこれぐらいになると、やはりいいもんですな」という感想がぽっと浮かんだ。
これまであまり褒めてこなかったように見えるかもしれないが、どっこい、そんなことはない。適度な登場人物たちによってこれまであまり知られてこなかった世界が紹介され、最後には爽やかな感動を得られる、っていうのは、じゅうぶんに価値のある小説だと思う。中学校・高校の図書室の書架にぜひ並べてほしいものだ。わかりやすいので、映画化やマンガ化、アニメ化もしやすいと思う。
僕個人は、ものすごく気に入ったというところまではいかなかったが、作者の技倆に、職業的作家ってこういう人のことを言うのだろうなと思ったのだった。

編集
桐野作品は初めてだったのだが、うーん、次を読もうという気にはなれないなあ。

今年読んだあるマンガ家の短篇集に、アイドルについての作品が収録されていたのだが、非常にがっかりした。そのマンガ家には頑張ってもらいたいという期待感があったので、余計にその失望感は大きかった。
というのも、その作品に描かれているアイドルとアイドルヲタクとの関係性が既視感にあふれているというか、作者の「感動的に見せたい」という意図に反して、その界隈のことを「やや知っている」程度の僕ですら、いやなんかこれ、現実に見聞きするエピソードのほうがよっぽど感動するんですけど、たぶん、作者はアイドルファンじゃねえな?なんてことを思ってしまったのである。
このことが『バラカ』にも言える気がする。つまり、震災にまつわる「現実」のほうが、この小説で戯画化されているようにも映るディストピアより、よほどおそろしく、また深刻なのではないか、と。
オビ文にも書いてあったことだからネタバレにはならないと思うのだが、この小説のなかでは、東日本大震災で福島第一原発がすべて爆発したということになっており、その後の日本が描かれている。
首都機能は大阪に移り、それと一緒に多くの人は「西」に逃げて、「東」の人たちの差別や迫害はひどく、国は必死で原発関連の情報を隠蔽・検閲し、あるいは、来るべき2020年の「大阪オリンピック」にみなが夢中になっていて、「東」はまったく関心を持たれなくなっている……というおそらくは作者のものであろう批判の数々は、すべてとは言わないまでも、いま現在の社会にもかなり通用することがあって、それならば、福島第一原発がすべて爆発した、などという設定をわざわざ持ってくる必要はなかったのではないか、とついつい考えてしまう。
そんな「非常事態」にならなくても日本の社会はじゅうぶんディストピア化しているところがあって、そこを直視したほうがよほどこわい、という気もする。650ページ(!)近くのフィクションを読むより、被災地の風評被害や、放射線にまつわる差別、あるいは国家によるメディアに対する圧力などについてのルポルタージュをそれぞれ読んだほうが、よほど学べるものが多いのではないかということだ。
ちなみに本書は三部構成で、大震災前、大震災、大震災八年後となっている。

あとは、つらつらと不満点を挙げていく。

大震災前のパートで、登場人物のひとりである女性テレビディレクターが自分の製作した番組を放送するときにツイッター上で炎上が起こるのだが、2010年ごろってツイッターはまだそれほど盛り上がっていなかった気がするんだけど。
その頃、テレビ局が公式アカウント持って「いまから放送します」みたいなツイートをしていた、なんてことあったのかな。いまちょっと見たら@NHK_PRが2009年11月の登録となっていた。うーん、かなりギリギリかな。
やっぱり、ツイッター人口が劇的に増えたのって2011.3.11以降のような気がする。2010年4月スタートのあるドラマがツイッタードラマみたいなことを謳っていて、それを契機にツイッターを始めただかハマっただとかいう脚本家がいたことをなんとなく憶えている。あの頃は、ツイッターって日本で流行るのかどうかなんてことがまだ言われていたのではなかったっけ。

ひとり、自称「悪事の天才」が出てくるんだけど、それがかなりしょぼい。それでもなぜか彼が日本の悪全体を背負っているような構図になってしまっていて、そのことが小説全体のうすっぺらさの縮図みたいになってしまっている。
また小説の舞台も、東京、福島、ドバイ、それからサンパウロがちょっと……と、一見かなりめまぐるしく行ったり来たりするのだが、それがまるでステージの書割の転換みたいな軽さで、その場所場所が登場する必然性はほとんど感じられなかった。おそらく、震災、原発、放射線汚染後の世界、という大きな物語の枠組みをつくってしまった以上、そのぶん世界を拡大して描こうとしたのだろうけれど、成功していない。
が、どうしようもないくらいに魅力のない登場人物たちのなかで、この「悪事の天才」のストーリーだけは、やや惹かれるところがあった(最終的にその興味は失速に失速を重ねて消滅してしまうのだが)のも事実。やや、ね。というより、その人物と主人公のバラカ以外は、まったくといっていいほど、魅力がない。

あと、びっくりするくらいに人が死ぬ。
震災だから、ということじゃなくて、たぶん作者にとって必要のなくなった順に、どんどんと死んでいく。そうなると、読者が登場人物たちに対して愛着を持てなくなる。「どうせこいつも死ぬんでしょ」としか思わないし、実際その程度にしか描かれない。
また、漫☆画太郎のマンガみたいに、トラックに轢き殺されるという死に方が複数回出てくるのだが、思わず笑ってしまった。

それと個人的に感じたのは、作者は女性が嫌いなのかな。前半の登場人物に女性がふたり出てくるのだが、これが仲がいいという設定なはずなのにコミュニケーションをすればするほどいがみ合う。お互いがお互いに対してどこか気に食わないところを持っていて、その部分を軽蔑したりしている。
しかしもうちょっと客観的に見ると、ふたりとも浅慮で見栄っ張りな性格だというのは共通していて、ふだんの主張は威勢がいいのだが、いざとなるとずるずると流されてしまい、「弱い」といえば聞えはいいが、つまりは愚かしく描かれており、いくらなんでもティピカル――しかも保守的なおっさん層が安直にイメージしがちな典型象――にすぎると思われた。
別の登場人物に強烈なミソジニストがいるのだが、彼のセリフにやけに実感がこめられているように感じたのは、少々ヒネた読み方だっただろうか。

まあとにかく、なんだかんだの些細な短所は、最終的な尻切れトンボ感によって簡単に一掃される。650ページの果てのこの結末はいくらなんでもないだろう。夢オチかと思ったくらいだ。
もうちょっと広げた風呂敷の畳みようっていうものがあるはずで、作家としての誠実さを心の底から疑った。
この作家はけっこう有名なもんだから、ふだん小説を読まない人が「なんか有名な人だよね。どれ、読んでみようかな」と思って手にとったらたいへんなことになると思う(実際、僕が読み始めた動機もそんなもの)。大部のため無駄に名作感を醸し出しているようで、失望感もその反動で大きいのではないだろうか。なんだ、小説ってつまらないなと思って、その人が以後読書をしなくなったら、その罪は大きいよな……なんて、作者の責任とはいえないようなことまで考えてしまったのだった。けっこう先入観を持たずに読み始めただけに、非常に残念。

編集
小説の感想、ということになるのだろうか。
作者の母親の闘病についての記録、というほうが近く、そこに家族の関係や、作者自身の過去などが語られていくのだが、読みやすいといえばそうとも言えるけれどなにか特別な工夫があるわけにも見えないため、迂闊に小説と言ってよいものか、迷う。
という僕は別にジャンルにこだわっているわけではなく、もしドキュメンタリーとしてとらえると実母の闘病およびその死について個人の感じたことに、他人がなにか評価を下すようなことはそもそも間違っていると思っているため、躊躇してしまうのだ。それくらいこの文章は、誰かの日記を一冊の本という体裁にまとめました、と言われて「そうなのか」とすんなり受け取れるくらいに、さらっとしている。
その「日記のようなもの」とか「日記」そのものに文学性はないのかというとはたしてそういうこともないのだろうが、批評の対象とするにはやや逡巡をおぼえるというのは人として当然で、でもまあ、出版されてより公の目にさらしたいという願望が作者にはあるわけなのだろうから、いったん私小説ということにして感想を述べるとすると、やはり、物足りなさが残ったという一点に尽きる。

作者をよく知らない僕としては、「私」にほとんどよい感情を持てず、その考えや行動に対して疑問を持つところも少なくなかったが、それはまあ日記ではないとすれば、つまり小説だと考えれば受け容れることは可能で、それくらい人間というのは切羽詰まったときは理不尽になるし、冷静さを失うものだ、と理解できる。繰り返すが、好悪の感情とはまったく別だ。
また、両親や親戚(特に父親の姉妹)とのやりとり、そして病院関係者との交渉などはわりあい細かく描かれるため、それらにおける困難やすれ違いには読者も疲弊してしまうくらいなのだが、もちろんそういう点を挙げて、「読んでいて辛い気持ちになる」なんていう甘ったれたことを言いたいわけでもない。むしろ、傲慢で横柄で人間としてなにか欠落した倫理観を持つ医者たちと接するにはICレコーダーをもって臨むのは必須なのだ、という実学的知識も得られる。
余談だが医者に限らず、保育士、看護師、介護士、教師など人と接することが多く、かつ、相手に対して(たとえば飲食業の接客などのそれとは較べものにならないくらいの)多大な影響を与えうる職業においては、往々にして流れ作業的・やっつけ作業的・機械的応対と呼ぶべきものが見られるが、それらはおそらく無意識の自尊の念に由来するものであって、でかい車に乗っていると自然と気が大きくなってしまい、小さい車や歩行者に対して高圧的態度をとりがちである、ということに近い。そうそう、上の職業に僧職もくわえたい。ああいう思い上がり、なんとかならねえものか。

話は戻り、しかし上記の総体が、「私」というものをその名に冠している私小説かというと、そうとも限らないだろうとも思う。
この本のことを「小説じゃない」という人があれば、まあそうだよね、と頷いてしまうだろう。「いや、これこそ小説だよ」という人があれば、ブログで同じようなことを書いている人がもはや山ほどいるというこの世界で、そういうものとどこか違うところがあるか?と素朴に尋ねてみたい。この質問には悪意や皮肉の意図はまったくなく、単純に、わざわざ小説と銘打つための根拠を知りたいのだ。

回想部分の挿入の仕方とか、辛く腹立たしい箇所について描写を淡々と重ねるところなど、そりゃ素人ではないのだろうな、計算はされているのだろうなということはたしかにわかるのだけれど、しかしそれにしても、やや粗雑な印象は消えない。たとえば禁煙ファシズムという言葉に象徴される、おそらくは作者が日頃から抱えている信念などが本筋とあまり関係のない形で出てくると、作品としての体裁に、破綻とは言わないまでも罅が入るのが感じられる。思ったこと・感じたことをなんでもかんでも書いていけば、それは垂れ流しになってしまう。それはブログや日記ではありうることだし、なんにも問題はないが、こと小説となればノイズに映ってしまうのではないか。
たとえば平和主義者の私小説で、まったく関係のない箇所で唐突に「それにしても憲法9条は守らなければならない!」と書かれていたら、それはそうなのかもしれないけれど別のところで書いたらいいのではないか、と思ってしまう。作者がそう思った・そう感じたということはたしかに事実なのかもしれないけれど、たとえ事実だったとしても書かれるべきことと書かれるべきではないこととの弁別は、作者にあってしかるべきではないか。むしろ私小説家であれば、そのわきまえる判断こそが求められる能力なのではないか。

とはいえ、それが小説か否かとか、ブログや日記となにが違うのかとかなどの疑問をいったん脇に置いておくとして、親しい者の死の予感というものが個人に与えるという、人生において非常に重要な場面――それが他者のものだとしても――を目の当たりにすることで、いろいろと考えさせられるものがあった。
この小説にも、いままでとうてい読む気になれず回避していたある病気についての小説やその他の文章を、自分の母親が罹患したとわかってからは貪るように読んだということが作者自身によって書かれており、なるほど作家でもそういうものかと思った。
大きな事件、事故、病気あるいは災害などによって傍観者でいられなくなる瞬間というのはあるのだろう。たとえ本人が直接に遭遇/罹患/罹災等をしたわけでなくても、親しいものが当事者となってしまえば、やはり傍観者ではいられなくなる。そこでおそらく、世界ががらりと変わってしまう。
死は誰のうえにもやってきて、ある日、世界からとてもたいせつな誰かがなくなってしまう、ということは古今東西さまざまな形で語られてきており、それは誰にでもわかっていることだが、しかしそのことを心の底から受け容れている人間は少数派だろう。おそらくその瞬間が自身に到来するまでは、言葉として、概念として理解するにとどまり、実感することはなかなか難しいのだろう。だから混乱し、動揺する。
僕がこの作者の立場になれば、おそらく記録することすらままならず、このようにまとまった文章にすることはできない。そういう意味では、作家としての最低限の役割を果たしているといえるのかもしれない。感動するかどうかは別として(おそらく純文学に属する小説だからそもそもそういう目的にない、と作者に言われそうだが)、これを読んで、僕の日常の感覚にひとつ不穏な罅が入った。たぶんそれが文学の仕事なんだろう。

編集
再読したのは一週間前に同作者によるヴェルーヴェン三部作の第一作『悲しみのイレーヌ』を読み終えたから。
『イレーヌ』は、ネタバレなしに書くのはなかなか難しいので触れないようにするが(傑作!)、あの作品を読み終えただけのままだと読者にはかなりのショックが残るだけなのではないだろうか、ということに気づいた。
僕の場合、そしてけっこう多くの日本の読者も、まずはじめに翻訳されベストセラーになった第二作『その女アレックス』を読み、それから『イレーヌ』へと読み進めたであろうから、あらかじめそこでなにが起こるかわかっているという、ミステリーとしてはいちばんあってはならない環境のなか読書を強いられることになるのだが、その反面、『イレーヌ』でどうしようもなく打ちのめされるカミーユがそののちに復活することを知っている、ということに少しだけ救われもするのだ。それが、第二作→第一作という順番を不本意ながらもたどってしまった読者の享受できる、数少ないメリットだろう。

『アレックス』をふたたび読んで、あらためて感動しているが、この感動は初回以上のものだ。
これまたネタバレしないように書くけれど、初回には理解・共感できなかった彼女の残酷さが、二回目からはまったく違うもののように見え、そのいちいちに胸を締めつけられる。
絶望の淵へと涙を流しながら沈んでいくアレックスと、やはり絶望の淵でその底を覗き込みつづけ、そして物語の最後にそこから救われるカミーユ。
このとんでもなく哀しい物語の最後の2ページで、読者は人生の輝きといっていいようなものを見ることになる。こんなことはファンタジーで、現実にはありえないことかもしれないけれど、それでも、その幻想を知っていることに小説読者は確実に励まされる、そんな輝きとしか呼ぶことのできないようなエピソードに、ふたりの主人公ほどではないだろうが暗く沈んだ気持ちに浸っている読者たちは、ちょっとした浮揚感さえ与えられる。
それと最後の最後に、それまでさんざん気障ったらしく間抜けでどうしようもないと思っていたわれらが予審判事が、読者がいちばん聞きたいと思っている言葉を言ってくれるというのが、とてもしゃれているなとあらためて思った。
この小説が個人の復讐譚であることはまちがいないのだが、この予審判事の言葉のおかげで、現実において痛めつけられている弱く小さな者たちに代わって作者が、世界という無慈悲な存在に対して大いなる復讐を試みているようにも見えてくる。フィクションは微力かもしれないが無力ではなく、ときに大きな力を持つ場合もある。感傷的な読み方かもしれないが、そのような感想を得たのだった。

編集
終戦から七十年だからというわけではないが、八月六日だったから原民喜の『夏の花』(岩波文庫)を読んだ。

高校のときに教科書で読んだ記憶があったが、ある部分を除いてほとんど印象を持っていなかった。もしかしたら教科書には、ただでさえ短い小説(二十四ページ)の一部分しか掲載していなかったのかもしれない。
あらかじめ書いておくと、僕の記憶していた部分というのは以下。爆弾が投下され、なにがなにやらわからない状態で主人公が逃げ出したところ、
川岸に出る藪のところで、私は学徒の一塊りと出逢った。工場から逃げ出した彼女たちは一ように軽い負傷をしていたが、いま眼の前に出現した出来事の新鮮さに戦(おのの)きながら、かえって元気そうに喋り合っていた。
(14p)
原爆が投下された直後なのに「元気そうに喋り合っていた」ということに驚いた。それまで僕の知っていた原爆の話といえば『はだしのゲン』しかなく、あの物語ではとてもじゃないがそんな余裕のある登場人物は出てこなかったのだから、それゆえに明瞭に記憶されたのだと思う。

さて、ヘンな言い方になってしまうが、この小説を小説として読むととても奇妙な感覚を味わうと思う。
作者と思われる「私」はいるし、情景描写もあるが、なんとなく(構成という意味での)結構というものがないのである。現実がめちゃくちゃでひどいものだったから起承転結があるわけがない、という理窟はよくわかる。わかるが、それだとしても、ちょっと整っていなさすぎなのである。その証拠にこの「小説」の最後は、それまで一度も登場しなかったNという人物が妻の死体を探しているという描写が一ページとちょっとつづき、そこで唐突に終わる。

(内容に感じたものとは別の)妙に落ち着かない気持ちを感じながら解説を読んでみると、この文章が書かれたのは、1945年の秋だということがわかった。その後いくらかの変遷や修正はあったのだろうが、たぶん基本部分はそのあたりですでに完成していたのだと思う。
その記憶の生々しさが、たぶん未整理な印象を与えるのだろう。被爆時に当然感じたであろう絶望的な苦しみも、読了後の印象としては、はっきりと書かれてはいなかった。どう感じたらいいのか、作者自身が戸惑っているようにも思えた。
作中、次兄がその息子の遺体を見つける場面がある。そこに慟哭は描かれていない。淡々と死体の描写がつづき、ただ、「涙も乾きはてた遭遇であった」と書かれているのみだった。

この作品を読み終えて十日ほど経ったいま思い返してみると、音の印象がない。静寂ということではない。物が燃え崩れ、死に際した人々が泣き叫ぶ場面は出てくる。けれども、それを描いている作者に実際に「音」は聞えていなかったのではないか。もうちょっと正確に言えば、「音」を現実のものとして認識することができなかったのではないか、と思えるのである。
たぶん、目の前で起こっていることのすべてに現実感が追いついていなかったのではないか。


この「体験」を読むことによって、僕はたぶん七十年前のヒロシマに少しは近づくことができたのだと思う。けれども、(いつも書いているように)事実と僕とのあいだには大きな深淵が横たわっている。そこを飛び越えることは一生できない。
だからといって、もう無視はできない。少しのあいだ忘れることはできるかもしれないが、まったく忘れ去ることはできない事実。率直に言ってしまえば、その存在が不快ですらある事実。それを「体験」した人がいる/いたという事実。

8/4にイギリスのBBCが「ヒロシマ原爆投下の『都合のよい物語』」と題して原爆に関するコラムを出した。記事はすべて英文だが、辞書と首っ引きで読んでみると、多くのアメリカ人には、原爆投下は正当なものであり、それによって(戦争をつづけていたら起こったであろう)日米双方の数十万の死者を救ったことになると理解されているらしい。ひどい火傷を負った被爆者のひとりが数十年後、スミソニアン博物館にエノラ・ゲイ号の除幕式を見に行ったとき、多くのアメリカ人に、「おめでとう、あなたは原爆があったから生きてここに来られたんですよ」と言われたという。原爆のおかげで、ハラキリをせずに済んだと。
同記事は、原爆以外の無差別爆撃についても言及している。ナチスのゲルニカ・ロンドンへの爆撃、イギリスのドレスデンへの爆撃、日本の重慶への爆撃。しかしその中でも原爆ほどひどいものはなかった、とBBCは書く。
僕は少し冷静になる。どのような「小規模」の爆撃であっても、そこで傷つき、死に、家族や家を失った人たちにとっては、「これほどひどい行為は世の中にない」と恨むであろうと思った。死者の数の多寡の差は、個人が気にすべき範疇ではない。それは国家であったり歴史家たちが扱えばいい問題であって、個人は、戦争によって生み出されるいちいちの惨禍を忌み嫌わなければいけないのだ。

しかしそれでもなお、原爆は許されざる兵器である。8/6のニュースで取材を受けていた九十代の被爆者は、「まだあの日のまま」ということを訴えていた。別のニュースでは、生前の被爆者をインタビューした映像が流されていた。その人は涙を浮かべながら、「あのときの広島は、原爆資料館にあるような生やさしいものではなかった」と言っていた。
同日、朝のラジオ番組では張本勲のインタビューが流されていた(この音源はABCラジオで期間限定で公開されていたが、現在は削除されてしまっている)。 
僕はこの放送があるまで、張本のおっさんというのは頭の硬い守旧派のクソオヤジという印象しか持っておらず、被爆体験者であることはまったく知らなかった。
自慢のお姉さんを被爆で亡くし、差別を怖れたために自身の体験をそれまでいっさい秘していたという。現役時代も、健康診断でいつ「原爆病」に認定されるかと怯え、誰にも相談できなかった、と。
晩年になってその考えが少し変わり手記を書いて、そのなかに「8月6日と9日はカレンダーのなかから消えてほしい」と書いた。それを読んだ小学6年生の女の子から手紙が届いた。その子は原爆資料館を訪れており、「忘れないためにも、6日と9日は必要だと思います」と訴えた。張本はそれまで資料館の前にまで二回行ったことがあるのだが、怒りと悔しさに震えて二回とも中に入れなかった。けれども、その女の子からの手紙を読んで勇気づけられてもう一度だけ訪れてみて、今度は中に入ってすべてを見学することができたという。
それ以降、自分たちの世代が原爆の悲惨さを直接伝えられる最後のメッセンジャーだということを意識して発言をつづけている。

彼のなかではアメリカに対して恨みもあるのだろうけれど、けれどもこのインタビューのなかでは、戦争や核は人間の所業ではないとはっきりと強く主張していた。どんなに話し合いが長引いてもいいんだ、戦争はしてはいけない、と。
こういうインタビューを聴くと、つくづく人間というのは外から見える部分だけではほんとうになにもわからないものだと、自分を羞じた。ある人が、張本はメジャーリーグを日本のプロ野球より低く見ているけれどそれはおかしいと批判していたが、そう思うのは仕方ないと思う。そう思いたくなって当然だと思う。スポーツの優劣を競争できるという幸福を彼以上に知っている人間は、少なくとも彼より若い世代にはいないと思う。

NHKの原爆についての世論調査で、原爆が投下された日付を答えられない日本人が全国で75%近くがいたということが報告されている。また、それ以上に気になったのは、アメリカの原爆投下を現在の日本ではどうとらえられているか、ということをあらわす数字。
原爆投下についての世論調査
上掲画像のとおり、「やむを得なかった」と答えた人が四割近くいたということで、しかも被爆地でも同程度の数字だったいうことに少なくない衝撃を受けた。
僕は報復に意味があるとは思えないけれど(というより、際限がなくなってしまうことを怖れる、といったほうが実感に近い)、それでも、許せるような問題なのだろうか、と思う。
これよりあとの質問で、「自分も身近な人も被爆していない」と答えた人が、広島市で42.4%、長崎市で32.8%、全国では83.7%もいるということだから、被爆地であるか否かに関わらず、「体験」が遠ければ実感も湧かないという「人のものごとへの感じ方」をこの調査は伝えている。

ここで僕の個人的体験を書いておくと、四歳くらいのときに、はじめて母に映画に連れて行ってくれると約束されて喜んで観に行ったのが『はだしのゲン』のアニメで、上映中に怖くて泣きだして映画館を出たことを憶えている。
以来、原爆の怖ろしさというのは過剰なまでに記憶に刻み込まれてしまい、中学生くらいまでは夜寝るときなど、いつか世界が簡単に吹き飛ばされてしまう日が来るだろうという恐怖にとらわれ、なかなか眠ることができない日などもあった。

原民喜の小説を読んでも、この小説をどういう視点で読むかによって意味合いがまったく変わってくる。核兵器とか原爆とか戦争という単語を、ある種の観念的な用語として扱えてしまうような人間は、読もうが読むまいが感じることはあまりないのではないか。
ちょうどこの小説を読んでいたあたりで、終戦の「聖断」がくだされた非常に重要な場所としての皇居内の御文庫付属室が公開された、というニュースを見て、「聖断」の「聖」の文字に対して怒りが湧いた。もちろんこれは、現在においては「竜顔を拝する」といった類の過去の表現の一種でしかないわけだが、過去の戦争を、その「聖」の側に立って見るのか、あるいは、わけもわからずある日一瞬にしてすべてを焼きつくされた人たちの側に立ってみるのか、で得られるリアリティはまったく異なってくる。
たとえば兵站を論じるときも、兵站線を描く指揮官の立場でそれをとらえるのか、あるいは、汗水流して身の危険に怯えながら実際に物資や食糧を移動させる一兵卒の立場でそれをとらえるのか、と問えば、世の中のたいていの「語りたがり屋」たちは、前者のつもりで口角泡を飛ばすのであろう。
上に書いた、「観念的な用語として扱えてしまうような人間」とは、そういう人たちのことを指しているつもりだ。

張本勲のインタビューで、以下の言葉がとても印象に残ったので引用しておく。広島で被爆し亡くなった人たちについて。
あの人たちは犠牲じゃないんですよ。身代わりだから。他人じゃないの。どっかで繋がっているんだ。親族じゃなくても、友だち、友人、おじいちゃん、おばあちゃん、ひいおじいちゃん、どこかで繋がっているんだ。別な県の人でも、(別な)市の人でも、どこかで繋がっているんですよ。わたくしどもの身代わりだから。ひょっとしたらわたしたちがその方たちになったんじゃないかと思うとね……
犠牲じゃなくて身代わり、という彼の発言には、「誰でもありえたのだ」という実感が込められているのだろう。すべてを他人事のようにとらえ考えれば、世の中で怖いものなどなにもなくなる。自身が不測の事態に巻き込まれてしまう直前までは。

戦争への抑止力はなによりも恐怖であると思う。嫌悪感よりも、恐怖。それが自分の身に起こる可能性があれば、人間は回避する策を講じようとするはずだ。しかしいまの日本では、その恐怖をバカにする傾向が見られる。
知識を得る段でも、つねに支配者・指導者の視点に立とうとするものだから、殴られ、蹴られ、犯され、殺された側の人間の気持ちを測ることができない。測ろうともしない。ゲーム的感覚のもたらす万能感の弊害だとも思う。
戦争で犠牲になるのはつねに弱者からであって、僕は自分が間違いなくそちら側にいると思っているので、当然戦争には反対する。バカな政治家がそういう若い人たちの態度を自己中心的だと批判したそうだが、そう言っているやつらこそが、大好きなニッポンの危急存亡のときでさえ1ミリたりとも腰を上げるつもりがないであろう、ということについては批難する余地があるはずだ。


最後に。
解説で知ったのだが、原民喜は1951年(昭和二十六年)に自死している。もともとその妻が原爆投下以前に亡くなっており、その頃から、死別後、一年だけは生きるという考えだったようで、反対にいえば、一年後には自殺するつもりだったのだろう。
原爆の体験は、「このことを書き残さなければいけない」と彼をして思わしめたようで、一連の作品を書き上げたのち、自身の仕事に一段落を認めて死んだのかもしれない。
『夏の花』では、負傷した兵士に肩を貸してお湯を飲ませてやろうとする場面が出てくる。
苦しげに、彼はよろよろと砂の上を進んでいたが、ふと、「死んだほうがましさ」と吐き棄てるように呟いた。私も暗然として肯き、言葉は出なかった。愚劣なものに対する、やりきれない憤りが、この時我々を無言で結びつけているようであった。
(19p) 
原民喜はおそらく自ら命を断つ日まで、この「やりきれない憤り」を抱きつづけたのだろうし、また、他のすべての被爆者たちも、やはりあの日からずっと抱えつづけているのだと思う。

編集
カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』(ハヤカワepi文庫)を読んだ。
イシグロの作品を読んだのは『日の名残り』『遠い山なみの光』につづいて三作目。『遠い~』はほとんど印象に残っていないのだが、『日の名残り』については、(少いながらも)僕の読書体験のなかで最上に属するものだったと記憶している。
ついでに書いておけば、『日の名残り』は土屋政雄による翻訳が非常にすばらしかった。 
ここ数日来、頭から離れなかった旅行の件が、どうやら、しだいに現実のものとなっていくようです。ファラディ様のあの立派なフォードをお借りして、私が一人旅をする――もし実現すれば、私はイギリスで最もすばらしい田園風景の中を西へ向 かい、ひょっとしたら五、六日も、ダーリントン・ホールを離れることになるかもしれません。
(ハヤカワeip文庫 9p) 
上記は『日の名残り』の冒頭部分だが、ここから始まる主人公の執事スティーブンスの思い出ばなしは、(翻訳物に対して少し身構えてしまう僕にしては珍しく)非常にすらすらと入ってきて、自然な日本語としてまったくつかえることなく読み終えることができた。これは僕だけの体験かと思ったのだが、母や、僕などよりもっと翻訳ものに接しているはずの弟に尋ねても同じ感想を抱いたらしく、これと指摘することはできなかったのだが「やはりすばらしい翻訳である」と決め込んでいた。
今回、『わたしを離さないで』を読んでいる途中たまたま調べることがあってあるサイトに行き着いた。
このなかにある、「翻訳というより、土屋政雄が日本語で書いた小説なのではないか」というセンテンスに共感を抱いたと同時に、同批評のいちいちにより、なるほど土屋政雄の翻訳は「圧倒的な日本語力」によって成り立っているということを知ることができた。
その土屋政雄が、『わたしを離さないで』を翻訳している。


といっても、この小説の感想を書くのは難しい。
基本的に僕は、ブログで感想を書く際にいわゆる「ネタバレ」を避けるようにしている。それは、たまたまなにも知らないで読んだ人が知らないですませたかった結末や重要なプロットなどを知ってしまうことを避けるためである。
そういう意味で『わたしを~』の感想は書くことが難しいのだが、核心に触れないようにやんわりとぼやけさせながら書いてみることにする。

まず、この小説は軽度の仮想世界が舞台となっている。この世界の社会構造は、物語の背景として非常に重要な設定となっているのだが、便宜上、本記事ではこれを括弧つきの<システム>と呼ぶこととする(小説内ではこのような呼び方はいっさいなされない)。また、主人公のキャシー・Hたちはこの<システム>のなかでこれまた非常に重要な役割を担わされているのだが、これを括弧つきの<ロール>と呼ぶこととする。もちろんこの<システム>と<ロール>の詳細についてはここでは記さないでおく。
この<システム>と<ロール>は、はじめから明かされているわけではない。物語の四分の一ほど進んではじめて明瞭になってくるのだが、それより以前からも、ヒントのようなものが少しづつちらつかされ、なんとなくは予測がつくようになっている。つまり、この<システム>や<ロール>の実態が判明していくことそのものがこの小説の主眼ではないということなのだが、それについては、後述する。

物語は、ヒロインのキャシーの一人称によって、ヘールシャムという施設での幼年時代から語られていくのだが、この「語り方」が非常にうまくできている。というのもその語りは、おおまかにいえば過去から未来に直線的に進むものの、ときおり想起された記憶を挿入するべく「現在」あるいは「近過去」に戻ってくる、という形をとる。そのために読み手も、あるひとつの物語の筋を単調に追っていくというよりは、キャシーの記憶に一緒に沿うような形で過去と現在を行き来するような体験をすることになり、結果、時間的な重層感を得ている。
そしてまたその語りは、いわば霧の向こうにある<システム>や<ロール>の輪郭が明らかになるのを少しでも遅らせるよう、焦らしに焦らす役割も果たしている。

<システム>や<ロール>に関わりのないところでいえば――前述したとおり、それはあらかじめこの世界に組み込まれてしまっているものなので「関わりのない」ところなどあるわけがないのだが――、キャシーは、幼年時代あるいは青年時代にありがちな人と人とのコミュニケーションの様々な場面を語る。たとえば幼年時代のはじめには、キャシーは親友のルースという女の子と一緒に、トミーという男の子が他の男子連中にいじめられ・からかわれるのを遠くから眺めている情景が描かれる。トミーの癇性を知りつつも、そのきれいなポロシャツが泥で汚れることを気にするキャシー。または、いじめられることに同情はしつつもトミーにも原因があると判断するルース。そして、怒りっぽく幼稚だがある意味純真なトミー。けれども、ここから子どもによるいじめの悲惨さ・残酷さが滔々と語られていくわけではない。これらはある意味において、ただの一場面でしかないのである。

はじめは、ふつうの学校であるかのように見えたヘールシャムが、やがてその真の姿をあらわしていく。読者は霧が徐々に晴れていくにしたがって、その奥にあるものをもっとしっかりと見いだせるよう、ページをめくる。
だから、この小説のいちばん表面にあるのはミステリーの形式である。ヒントを手繰り寄せながらもっと奥へと進んでいき、ついには謎の真相を突き止めたいという読者の欲求を、この小説は煽り、そして満足させる。
だからといって、この小説においていちばん重要なのは、キャシーらの負っている<ロール>の残酷さではなく、また、<ロール>を存立せしめる<システム>のあり方について倫理的な判断を問うことではない。これらSF的設定の仮想部分に対する思考実験が最も重要なことであると読むのは、いささか単純すぎるように思う。
もう少し大きくとらえると、この<システム>と<ロール>はひとつの象徴である。それは、よりよい世界と、よりよい世界にするために犠牲になる人々・生きものの暗喩であると僕は思った。
たとえば、医学の進歩には、実験動物の存在が不可欠である。よく大学の研究室が実験動物の慰霊をおこなうなどということを聞いて、「そりゃそうだよねえ」とほっとしてしまうが、ほっとしておそらく想像を止めてしまっている。慰霊してしまえば実験動物は、医療技術の発達に寄与するためだけに産まれ(産まれさせられ)、当事者の望まぬ形で実験されて、やがて死ぬことまで納得するとでもいうかのように。
あるいは、兵器の輸出という問題がある。経済のために国外に兵器を売るという選択をする国民があって、彼らは自国ひいては自身の繁栄のためには仕方がないと考えるが、その兵器の行く末までは考えない。抑止力という考え方を除外すれば、兵器の輸出は「誰かの死」を意味するはずだが、軍需産業の成長を、どこかで誰かの墓標が絶え間なく増えていっていることだと認識する人間は少ないのだろう。
しかしこのように一方的で暴力的で無慈悲な世界においてキャシーたちは、この世界にあらかじめ組み込まれて存在しているためか、その不条理さに傷つくことはあっても、激烈に怒ったり、その仕組みに反抗したり逃げ出すことはなく、淡々と「使命」を果たそうとする。残酷さと純真さとの対照が読んでいるものの心を打ち、震わすことはたしかだ。

しかし同時に僕はこの小説を、もっと単純でもっと普遍的な、人間同士の理解と誤解、別の言い方をするのであれば愛憎についての物語だともとらえている。
この小説に登場する人物のほとんどが、心の底では他人を傷つけることを好んでいないように見える。それは、不条理で厳しい世界だからこそ身につけてしまう優しさなのだろう。けれども読者は、人間の心の底にもうひとつある残酷さもまた見せつけられることにもなる。物語の最後のほうでキャシーを救う側に立っていた人物たちの話す言葉には、本心からの思いやりがあるのも事実だが、しかしその思いやりのちょっと先にある酷薄さといったら!
タイトルに関係のある「わたしを離さないで」という歌と、それにまつわるキャシーの思い出と振る舞いとが、別の人物からはまったく異なるものとして受け止められていたということがわかるとき、人間同士の理解と誤解の対照がひとつの頂点を迎える。
そしてもうひとつのピークが、愛憎のもっとも烈しい人物であるキャシーの親友のルースとのあるシーンに見える(書かないが)。僕は上に「ただの一場面」と書いたが、幼年時代からのその積み重ねによって、ルースの子どもっぽさから来る意地悪さ、辛辣さ、陰湿さ、執着心などが徐々に浮かび上がってくるのを読者は体験する。そしてそれは、キャシーからルースへの、あるいはルースからキャシーへの愛情があるからこそ、余計に複雑な重さをもってキャシーにつきまとうことになる。そしてもちろん、その複雑さはトミーとの関係性にも付随している。
もう一度、「普遍的」という言葉を遣おう。キャシーとルース、それにトミーとの関係は、特殊な世界における特殊なできごとではなく、普遍的なものであり、あまりにも人間的であるがゆえに、いとおしくさえあるのだ。

虐げる者/虐げられる者。強い者/弱い者。愛する者/憎む者。知りたがる者/信じたがる者。そして、新しい世界/古い世界。
この小説のなかには多くの対立構造が出てくるがその描写のやり方はかなり抑制されており、一見、地味である。しかしその静かな手法の奥底には周到に準備された構成が存在しており、その構成はおそらく、二度目以降の読書によって、より豊かに体験できるだろう。
というのも、さきほどぱらぱらとはじめのあたりのページを流し読みした際に、キャシーの人生を追体験≒記憶した僕は文字通りの追憶に浸ることができるのを確認したのだった。この小説をほんとうにたのしむことができるのは、むしろ二度目以降かもしれないとも思った。

編集
佐藤さとる『豆つぶほどの小さないぬ』(講談社文庫)を読んだ。コロボックルシリーズの第二作である。
詳細を書こうとも思っていないが、この作品の面白いのは、前作と異なり、コロボックルの視点から描かれているという点である(前作の話者は、「せいたかさん」と呼ばれることになる人間)。
そして「あとがき」を読んで驚いたのだが、作者の頭には、この作品のモチーフ(コロボックルが活躍する物語)が先にあったそうだ。しかしそれを成り立たしめるために、まず「小人存在の背景と発見の経緯を、先行して物語る必要がある」(303p)と判断して前作を描き、それから三年後に満を持して本作品を上梓した、という経緯があったらしい。

前作同様、物語の筋に劇的な変化はない。けれども、ちょっとした冒険譚や小さな小さな恋の物語があり、「やさしい世界」にすむコロボックルたちの呼吸が感じられるのも、前作と同じ。
この「やさしい世界」が、絵空事に感じられるか、はたまた作品内リアリティをもって存在するかは、ひとえに作中で遣われている言葉や文章の柔らかさに起因するのではないかと思っている。
もちろんこれらは読者個々人の好みの問題でもあるので、「絶対にこうだ」という基準もないのだが、たとえば、本作の主人公の「風の子」ことクリノヒコ(ぼく)が、仲間のコロボックルたちと一緒にマメイヌという小さな犬を探しだそうと相談しているときの場面。
せいたかさんにもらった地図(人間用なので、微小なコロボックルたちからすれば、巨大な絨毯みたいなサイズになってしまう)の上で、マメイヌのいそうな場所にあたりをつけるのだが、そのときのみんなの意見を、「ぼく」は細かくノートにつけている。「あとになっても、だれがどんなことをいったか、よくわかる」ため。
仲間の、フエフキ、ネコ、ハカセ、サクランボたちとともに、マメイヌの気質、好きな食べ物、行動パターン、罠の仕掛け方を想像し、それらがクリノヒコのノートに書き込まれていく。
(前略)そして、ノートをとじた。
「おもしろくなってきたな」
フエフキは、つぶやきながら、立ちあがった。まどからは、大きなお月さまが見えた。フエフキは、そのまま、スタンドにさがっているスイッチのくさりをひっぱった――というよりぶらさがった。その足にネコとサクランボとぼくがぶらさがった。それでやっとあかりがきえた。
「さあ、みんな。こんどはぼくのふえをきかそうか」
ぼくたちは、拍手をした。
ぼくのノートには、そこまでちゃんと書いてある。

(75p-76p)
この最後の一文の素晴らしさ。

あるいは。
この物語のもうひとりのかわいい主人公、というかヒロインの「おチビ」ことクルミノヒメについては割愛するとして(全部書いてしまえば面白くないから)、人間のほうの「ユビギツネ(マメイヌの別称)使い」の血筋を辿っていってせいたかさんが、事情に詳しい特定郵便局の局長さんの伝手をたよって、ついに、ブラジルに移住してしまった人に手紙を出し、その返事を航空便でもらうくだりで、その返信の最後に、
わたしたちももちろんですが、親たちは、日本からの手紙を、とてもとても喜びます。知りあいも、局長さんの一家と、そこにお世話になっている人だけなので、これからも、ぜひぜひ、たびたびお手紙をください。心からお願いいたします。できましたら、お写真も、送ってください。では、とりあえずお返事まで。
さようなら

(174p) 
と書かれてあるこの切々とした調子に、出版当時(1962年)にはまだ大勢いたであろうブラジル移住者の寂しさ・辛さが込められているように感じる。このブラジルにすんでいる人とのやりとりはこれっきりで、ストーリー上の必然性はそれほどないような気もするのだが(むしろ、ブラジルという国が突然登場する突飛さのほうが目立ってしまっている)、それまで知り合いでもなかった「せいたかさん」に手紙や写真を強く求める様子を描く上で、作者には特別な思いがあったのではないか、と完全に時代の違う読者としての僕は想像するよりほかない。
ともかくも、ゆるふわ語を多用するだけの現代小説のなんちゃらとは一線も二線も劃していると僕は思う。


最後に。
この講談社文庫版では、作家の有川浩が解説を担当していて、そこには、小学校三年生の少女時代(女性だということを初めて知った)、毎晩枕元に、お菓子やミルクにくわえて、「コロボックルさんへ」と題した手紙を置いていたという体験が書かれていた。
あくる朝に、コロボックルの飲み食いした形跡がなくても、「そう簡単に心を開いてくれないであろうこともせいたかさんの手記より推し量れた」とめげずにその「日課」はつづいたという。この他人から見れば実にほほえましいエピソードを有川は、――照れ隠し半分であろうが――「我ながら相当気合の入ったメルヘン脳だった」と自嘲しているが、これはよろしくない。
アマチュアの照れ隠しならわかるのだが、作家は、笑いをとりに行きつつ照れ隠しも行える、などというあざとい計算はしなくてよいと思う。「われながら感受性の豊かな子どもだった」と書け、なんて思わないが、かといって、「メルヘン脳」なんていう低レベルな言葉で自分の子ども時代を笑い飛ばすのは、どうも僕は好きではない。
この作家の作品を読んだことはないのだが、ただ実際にあったエピソードだけを記述して、「結局、コロボックルさんからの返事はありませんでしたが」の一言でさらっと終えるだけでよかったんじゃないか、と思っている。

なお、有川浩は、佐藤さとるの許可を得て、これらのシリーズの続編を書くらしい。
(繰り返しになるが)彼女の作品をまったく知らないのでなんともいえないが、くれぐれも「ああ、余計な続編になったもんだ!」と長年のファンたちが憤慨するようなものにはしないでほしい。
僕も、ゆっくりとこのシリーズを追っかけて行って、最終的には、「お、有川版もけっこういいじゃん。あのときケチつけて申し訳なかったな」くらいの感想を持てればいいなと思っている。


【関連記事】

編集
とあるところで佐藤さとるの『だれも知らない小さな国』が紹介されていたので、読んだ。面白いので一日で読めた。ただ、この「面白い」には、少しだけ複雑な意味を込めたい。

これは、ある男の子が小山でコロボックルたちと出会い、長い長い時間をかけて仲良くなっていく物語。
一般的な意味での「大きな事件」がそれほどあるわけではない。誰かが殺されたり、その復讐を果たしたり、あるいは魔法によって空を飛んだりすることもない。あるのは、小さな世界のなかでの大事件。小さな小さな人たちの住む小さな小さな世界を守ろう、というのがこの物語の主題。

子ども向けの本としてはそれなりにページ数があるのだが、「大きな事件」がないというのに、いったいなにに紙数が費やされているかというと、それは、コロボックルたちのリアリティを成り立たしめるための描写。
たとえば、コロボックルたちの由来や歴史なんかが(あくまでも主人公の推測という形でだが)わりとしっかりと書かれる。僕なんかからすれば、そこはもう、ただ「小人がいる」だけでいいんじゃないの、などと思ってしまうのだが(かといって、読んでいてだるいということはまったくない)、作者はそうしない。
と、この記事を書こうとして、講談社文庫をなんとなく眺めていたら、カバー裏に「日本初・本格的ファンタジーの傑作」とあって、その「本格的ファンタジー」という文字に、「なるほど!」と腑に落ちるものがあった。
僕のように「そういうものだ」となにも考えずに受け容れてしまうような読者ばかりでは、きっとないのだろう。子ども向け・子どもでも読めるような物語であっても、決して子ども騙しにはしないというのが作者の心にあったのかもしれない。 
このように、「事実」の丁寧な積み上げ方が、コロボックルの存在を絵空事にしていない。輪郭が徐々に浮かび上がってくるのである。
また、コロボックルの<ぼく>との距離の縮め方が、「なにもここまでしなくても」っていうくらいに慎重に時間をかける。ただしこれは、コロボックルの側から見れば当然のことで、この時間のかけ方が、コロボックルと対面した際の感動に繋がっている。
そして、<ぼく>はもうひとりの人間とも時間をかけて知り合うことになっていくのだが、そこはまあ伏せておく。ただ、文庫解説の梨木香歩は過去に何回か読んで、解説を書くために読み直して「純度の高いラヴストーリー」だと感じた、と書いているが、僕は初見でそのように感じられた。たぶん、年齢のせいだろうと思う。

「リアリティ」と上に書いたが、ファンタジーものらしく設定にいくらか曖昧になっている部分がある。その最たるものが、時代だ。
はじめ僕は小学三年生で、鳥もち用のモチノキを探しているうちに、のちに「小人たちの国」があることを知ることになる鬼門山に行き着く。それから数年が経って、その山のある場所から引っ越すことになるのだが、そこで唐突に「戦争」の言葉が出てくる。
いつか日本は、戦争のうずにまきこまれていた。
(53p)
つまりこの物語は、戦前から始まっていたのである。
しかし、戦争についてはほとんど触れずにすぐに「戦後」になり、物語は<ぼく>が「小さな町」に戻ってくるところから再開する。
作者は1928年(昭和三年)生まれ。この本は1959年(昭和三十四年)に自費出版されたというので、作者三十一歳のとき。戦争の記憶はあまりにも生々しく、それに触れたくないという思いは強かっただろうと思う。
であるから、「この物語がいつのことか」というのはごくごく最低限の記述で済ませ、戦後の、<ぼく>や作者自身が解放されていった時代に移っていったのだろう。

ともかくも、この物語を読み終えた読者は、この物語を大切に思うに違いない。ちょうど、<ぼく>がコロボックルたちのことを大切に思ったように。
そしてその思いは、作者自身にもあった。出版(あるいは改版)された時代に応じて四つもある「あとがき」のいちばんはじめ、自費出版から晴れて単行本で出版された折りに書かれたものに、こうある。
(前略)ほんとうのことをいうと、わたしがこの物語で書きたかったのは、コロボックルの紹介だけではないのです。人が、それぞれの心の中に持っている、小さな世界のことなのです。人は、だれでも心の中に、その人だけの世界を持っています。その世界は、他人が外からのぞいたくらいでは、もちろんわかりません。それは、その人だけのものだからです。そういう自分だけの世界を、正しく、明るく、しんぼうづよく育てていくことのとうとさを、わたしは書いてみたかったのです。
自分だけの小さな世界は、たいせつにしなければならないと思います。同時に、他人にもそういう世界があるのだということを、よく知って、できるだけ、大切にしてやらなければならないでしょう。
とにかくわたしは、この物語で、コロボックル小国をえがきだしてみせました。それは、わたしの心の中の小さな世界でもあります。
(279p)
この文章は、講談社によって再文庫化された2010年(平成二十二年)の「あとがき その4」で、八十歳の作者(ちなみにいまでもご健在らしい!)に「ややぎこちない文章ながら、思うことを伝えようと、懸命になっている」とやや冷静に評されている。
「その2」から「その4」までは、「その1」ほどに物語のモチーフは語られていない。三十一歳の作者は、その若さゆえに「ここまでぜひ読みとってほしい!」という思いまでも文章化してしまったのだろう。老齢と呼んでもいい年齢になった作者は、そのことを多少羞ずかしく感じながらも、心の中では「こういうのも悪くない」とも思っているのではないか。

作者のこれほどまでの思いが詰まったものを読んで、読者がなにも感じないわけがない。
それと同時に、<ぼく>がコロボックルたちの世界を尊重するような対象を、はたして僕/私は持っているのだろうかと自問することになる。そして、もしも持っているのなら、それは「共有」したり「公開」するものではなく、自分の心の中に大切に秘めておくべきものだということを再認識することになるだろう。


しかし、ほとんど描かれなかった「戦中」だが、ある記述だけがひっかかった。物語はあくまでも<ぼく>のものだが、ここに書かれているのは作者自身の思いだと僕は考える。
毎日が苦しいことばかりだったが、また底ぬけに楽しかったような気もする。家が焼けたことを、まるで得意になって話しあったり、小型の飛行機に追いまわされて、バリバリうたれたりするのが、おもしろくてたまらなかったりした。これは命がけのおにごっこだったが、なかにはおににつかまってしまう、運のわるい友だちも何人かあった。いまになってみれば、ぞっとする話だ。
(53p)
もちろん力点は「ぞっとする」というところにあるし、またこの直後にも、
大きな不幸がつづいたが、ぼくの家は、郊外にあったため、最後まで焼けなかった。だからそんな思い出のかけら(※小人たちの住む山についての思い出)まで、なくさないですんだのだ。
(54p)
と、ある種のんきとも受け取られかねない「楽しかったような気もする」という感想についての理由づけが書かれている。しかし大事なのは、戦争のさなかにも楽しく感じていた部分はあった、というおそらく作者固有の記憶だろう。
この一文を取り上げて僕は、作者が戦争を肯定しようとしていると批判したいのではない。作者にもそのような気持ちは一片もないだろうと思われる。しかし、子ども心に――子どもだからこそ――まったく楽しくないわけではなかった、と書けるこの作者の正直さを、僕は非常に信頼できると感じた。
あの戦争は悲惨だった、われわれはいつもみじめで悲しい思いをしていた、と書くのはごくあたりまえで、どこからも文句は言われまい(そして本当にそう感じていた人たちも相当数いたはずだ)。しかし、批判される蓋然性の高い記憶を持っていて、その自分の記憶をきちんと正確に書けるというのは、正しい/正しくないことをきちんと書き分けられる人間なのだろう。

冒頭で、この物語を「面白い」と書いた。面白いとはいかにも陳腐な表現だ。けれどももっと実感に寄り添えば、「いいなあ」だったりする。ああ、いいなあ。こんなふうに感じていたり思っていたりしたことが僕にもあったんだよなあ。いや、もしかしたら僕にはなかったのかもしれないけれど、こんな優しい気持ちを持っていたことがかつてあったような気もする、と思えることが、いいんだよなあ。
この本を読んでストーリーを追いかけるということは、その一方で、子どもの頃の自分を追いかけるということなのだ。そういう面白さが、この物語にはある。


【関連記事】

このページのトップヘ