とはいえ、わからないでもない

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先日、実家に帰省したとき、「これ読んだことあるか?」と父から芥川龍之介の『蜜柑』という4ページほどの短篇小説というにも満たない散文を収めた本を渡された。「読んだことないなら、短いから読んでみろよ」
そのとき僕らがいたお茶の間ではテレビがついていて、『臨場・劇場版』が流れていた。内野聖陽という、ずっと「まさあき」という本名を用いていたもののその読み方が徹底されないためについに読みを「せいよう」と変えていろいろな方面を安堵させたあの役者――『真田丸』での家康はほんとうに好演だった――が主演をやっているドラマ発の映画、程度のことは知っていたがドラマも観たことがなかったのでいちおうチェックだけはしておくかと、流し見&流し読みを決行してみた。

映画は、柄本佑という、安藤サクラというすばらしい女優を奥さんにしているという点以外はいまのところ特に見るべきところもない役者がいきなりバスジャック&連続無差別殺人をおこなうショッキングな場面から始まるのだが、その瞬間、すぐに秋葉原の無差別通り魔事件が想起され、嫌な気分になった。ショッキングであるということもさることながら、非常に残酷な場面描写が、(秋葉原の件なのかどうかはさておき)ある特定の事件を連想させるような意図だけではない「なにか」がなければただの扇情でしかないはずだし、そしてこのドラマというか映画にそれを期待するのはきっと難しいだろうなあという直感がすぐに閃いたのだった。
犯人はすぐに逮捕され、当然というか例の刑法39条(「心神喪失者の行為は罰しない、心神耗弱者の行為はその刑を減軽する)が適用され極刑を免れたのだが、具体的に僕が期待したのは、上のセンセーショナルな描写はここ(刑法39条)に対する新たな問題提起への布石でなければならない、ということで、しかし結論から言って「被害者やその家族/遺族は悲しいよね、でもいまの法律上それは解決できないんだよね」という悪い意味での純文学的解決(別名「現実を黙認しただけ」)で終わった。やっぱりな、という感じだった。役者が悪いということはなく、原作は読んでもいないからなんとも言えないが、少なくとも映画の脚本と演出はひどい。
ひどい、ということは冒頭からすぐにわかったのだが、いろいろと文句を言うために――そして実際に家族にべらべらと文句を言っていた――観つづけることにして、いっぽう手元にある芥川も「なんだよこれ、いつの時代の話だよ(実際に古いわけなんだけど)」というむかつきがむらむらと沸き起こったためにストレートに読むことができず、「よし、いまCMが流れているから読もう」と思って目を数行走らせただけで、ツッコミどころが満載すぎるうえにすぐにオチというか結末への方向性みたいなものが見えてしまい、早々に発生した読む必要がないという率直な感慨が読書を邪魔した。そして、そういうときにかぎってCMは早く明けてしまうのである。

もうこれはひどいドラマなんだから読書に集中しようと思っているとやっぱりディテールというものは把握できないもので、なんだか唐突に(僕の感知していないところで必然性はあったのだろうと思うが)長塚京三が出てきていて胡散臭さ満点。平田満も「なにかやらかすオーラ」に満ちていて、というか、観ている側が「こんなところに平田満が出てきて、なにもやらかさないわけないじゃないか」と思うのは当然なわけであって、ここらへんがキャスティングの限界なんだろう。
と、偉そうなこと書いたが、これはなかなか難しい問題でもあって、結局なにかをやらかす犯人にまったく無名の人を配するということはできないだろうし、視聴する側も、なるべくフラットに観られる舞台に較べれば、映像のほうが演出意図というものをより大きく受け取ってしまいがちなので、バイアスがかかってしまうのだろうと思う。
話は横道に逸れるが、ひと昔前、2時間ドラマを観ていて山下容莉枝が出てきたら「はい犯人確定しました」って感じだったのだが、それが浸透してしまった反動なのか、いまや彼女は完全な善人役だったりコメディエンヌとして配役されることのほうが多くなり、遊民社の時代を知っている者としては嬉しい限り。それとは違った形ではあるのかもしれないが元MOPのキムラ緑子も、『ごちそうさん』以降、単なる脇役ではなく、 クセのある(あるいはクセを発揮してくれるであろうと期待させる)脇役として登場することが多くなり、これもただただよかったと思うのだが、いま気づいたのだが、ふたりともシス・カンパニー所属なんだな。で、シス・カンパニーのサイトをひさしぶりに覗いてみたら……峯村リエがいるじゃないか! ほらね、って感じである。
話を本線に戻して結論を先に持ってくると、平田満はやらかすのである。マジメな交番勤務の警察官ではあるのだが、冤罪の汚名を着せられたあげく自殺した息子のことが忘れられず、そこまで追い詰めた刑事・段田安則への復讐心はずっと持ち続けていたのだった! ……ってわけで、クライマックスのひとつが段田を追い詰める平田満なのだが、倒れた段田に向かって拳銃を向けたと同時に他の警察官と高嶋政伸がやってきて、平田を正論で説得する。単純な視聴者としては(もはや芥川どころじゃなく)「もう段田を殺しちゃえよ」と思いつつも、「ああ、こりゃ泣いて膝ついて拳銃を落として他の警察官に取り押さえられるパターンだろうなあ……」と予想したのだが、なんとびっくり、平田は段田を撃たずして自分のコメカミを撃ち抜いて自殺してしまうのだ。
けれども僕は、かわいそうとかなんとか思うよりも先に、ある直感が頭を占めてしまい、それが離れなかった。つまり、「これはあれだな、原作もそうなのかもしれないけれど、平田の今後を描くのが面倒になったんだろうな」という直感だ。
こういう事件でなにも起こさずに捕らえられた場合、その結末を、事件から数日とか数ヶ月経って、という設定で刑事同士が「そういえば平田のやつ、執行猶予になったんですって? / 案外はやくに出られそうなんですって?」みたいに話して説明するということがある。『相棒』なんかでもよく見られた風景で、このようなシーンによって同情の余地が大いにある犯人への視聴者の心配をある程度緩和させることができるのだが、このシーンを用意するためには、それなりにリアリティのある法的処置というものを考えなければならず、脚本家は専門家ではないだろうから、けっこう面倒なのではないかと思う。場合によっては弁護士などにコンサル料なども支払わなければいけないかもしれない。それがゆえに、「ええい面倒じゃ。自殺させてしまえ!」となったのではないだろうか。

 もうひとつのクライマックス。真犯人の長塚京三が、ストーリー上/法的には「歪んだ正義感」であり視聴者側からすれば「それを実践しなければすっきりとしない正義感」によって、心神喪失者を装っている柄本佑を襲い、あともう一息で仕留められるというところで、長塚の元教え子であり真相を理解した内野がやってきてそれをとどめようとする。柄本は銃で肩を撃たれて倒れてはいるものの致命傷ではなく、というか、「肩を撃たれただけだったら、このあとなにかあるで!」というヒネた視聴者であれば柄本への意識を決して忘れはしないのだが、現場にいて忘れようとしても忘れらるわけがないはずの長塚と内野は、まこと不思議なことに傍らに柄本なきがごとく(傍若無柄本)長々と会話をして、視聴者の意識を柄本から逸らせるよう必死だ。で、案の定、柄本がこっそり起き上がって長塚をナイフで刺し殺す。ほら言わんこっちゃない、のありさまである。
刺殺しただけならまだいいのだが(よかぁないが)、柄本はあげくのはてには「僕はまた無罪だ! ハハハ!」てなことを言ってまた視聴者の心を煽る。きちんとというかご丁寧に、長塚への正当防衛じゃないよ、ということを示しているのだ。そこに激怒した内野が仁王立ち。当然視聴者は、「よし内野よ、ここだけは討ち損じてはなるまいぞ」と応援する。その結果は……。
なんやかんやありまして、ビンタで終わります。
び・ん・た!
え? さんざん人を殺して心神喪失を偽装して、それをよしとしないとするいわば括弧つきの「正義」の執行人も返り討ちにして、ふたたび無罪を図ろうとする犯人を、び・ん・た?
すぐにでもPCを起動して、「ビンタ 人 死ぬ?」で検索しようかと思ったよ。たしかに内野に頬を張られて空中でぶるんぶるんぶるんっと回転してはいたものの、柄本は死にそうもなかった。ここで僕は、がっかりの駄目押しをしたのである。

『相棒』なんかで水谷右京が、「いやもうこいつ、絶対更生の余地なんてないだろ」みたいな犯人に対して「たとえどんなことがあっても、人を殺していいなんてことはありませんっ! あなたは罪を償わなければならないっ!」なんて激昂する場面があったと思うが、ああいう場面を僕はどうにも茶番というか欺瞞に感じてしまう。特に殺人という場合において、右京は贖罪というものをけっこう気楽に考えているよな、と。
彼の言う償いは、刑法というひとつのシステムのなかのひとつの制度の話であって、特に遺族がいる場合の、彼らの心に対する償いというものについては、たぶん表面上のことしか考えていないだろうと思う。それはおそらく哲学に関する領域だからだ。
わざと曖昧に語るが、少女像のことについてはともかく、「金を払ったんだからもういいだろ」と発言してしまうのは、制度や契約や取り決めに類する話だけを取って、他方厳然として存在する人間の心については無視している表現であって、相手側からすれば「もういい」とはなかなかならず、むしろ「しかたない、諦めるか」としていた気持ちにまで火をつけてしまう。そんなことがなぜ理解できないのか→言葉のあらゆる意味において頭が悪いから、という話になってしまうのだが、まあそれはともかく、実刑判決が出ても、あるいは極刑が執行されても、遺族が「ああ、完全にすっきりした」という日は絶対に来ない。そう考えると、右京がなにをもって償いとしているのかがより明瞭になってくる。すなわち法の執行人としての立場からの「償い」を要求しているだけであり、それなら淡々と執行するだけでいいのに、「決め」のシーンではけっこう顔真っ赤にして青筋立てて唾を飛ばして怒鳴る。上の観点に立てばそういう場面は、日頃事務的で穏健な役人が、ものわかりの悪い市民に対してキレている、というふうに見えなくもない。おまえがそこで怒ったってなにも解決しないのは同じなんだぞ、と。
『相棒』でなくても、刑事ドラマや映画などでこういう場面にわれわれは何度も何度も遭遇している。まったくうんざりするぐらいだ。犯人がつかまってよかったね、で心の底からすっきりできることはほんとうは少ないはず(犯人が野放しになっている、という恐怖から解放されることはあっても、捕まったら捕まったで、その人間がまたこの社会に出てくるという別の恐怖が生まれる)で、現実のわれわれは裁判の結果およびその執行までを注視する。他人事であってもそれくらいで、当事者やその関係者たちは、刑やその執行とはまた別に、長い時間をかけて自分の心のなかでその問題に対峙しつづけていかなければならない。
現実において、犯人に対する厳しい処罰が最良の解決方法だ、というのは人によって判断のわかれるところだろうが、せめてフィクションのなかだけはすっきりさせてほしい、というのは比較的多くの人に同意してもらえると思う。こんな卑劣なことをして、あんな残虐なことをして、という犯人が最終的に誰かに殺されたり、事故死したり、自殺したりすれば、どんなに気分がいいか。フィクションの世界の話であれば、「これで真相は闇の中に……」なんて誰も思わねえよ。思うわけない。
近年話題になったある外国ミステリで、主人公の刑事たちが「悪人」をわざと犯人に陥れて結末とするものがあって好評を博した。そりゃそうだろうと思う。レビューのなかには「法的に正しくない」というものもあったらしいが、おそらく作者はそんなことは百も承知で、だからこそそういうエンディングにしたのだろうとも思う。
一方、これは日本のあるミステリなのだが、高齢(中年とは言えない年齢)女性の犯人(たしか殺人犯)が捕まる際に対して、彼女に恋心を抱いている主人公(こちらも高齢)が「待っているよ」みたいに声をかけるところがエンディングであったと思う(もうだいぶ前に読んだものなので記憶が曖昧)のだが、「けっ」と思った。いやいやいや、もうずいぶんといい年だし、「出てきたら」っていうところに主人公や作者は欺瞞を感じないのだろうか、と。まあもともとたいした話(具体的に書くとけっこうなネタバレになってしまうので書かないが、トリックなどに主眼が置かれている話だったので、思想的には希薄な内容)ではないのだけれど、逮捕された犯人に対して「罪を償ってこいよ」っていうのはあまりにも陳腐であり安直で、21世紀に入ってもう15年以上経っているのだから、もうそういうのは卒業しようよ、というのが素人なりの感想だ。 
総じて、「刑を受けることで罪を償う」ということがどういうことなのか、それが加害者も含めた当事者に対して実際にどういう効果をもたらすのか/なにももたらさないのか、ということをまったく看過する物語であれば、少なくとも、「裁きを受け、罪を償いなさい」というようなセリフを出すべきではない。

刑法39条への問題提起はもちろんなく、それを悪用した柄本については、内野にビンタを食らって以降登場はせず、言及もなかったように思う(エンディングらへんはいよいよ惰性で観ており、やっと芥川にも集中していたので明言はできないが)。そこらへん、まったく素っ気ないほどだが、ここでもまた、心神喪失者を偽装していたことが遡って立証できるものかどうか、あるいは、生きていた柄本が長塚への正当防衛をたとえ主張したとしてもその場合の量刑やそもそも有罪か無罪か、等を明らかにするのは、手間を考慮すれば触れないほうがベターであろう、というコストパフォーマンス的観点から制作側が省略したようにも思えてしまうのは、平田満の前科があったから。
そして結局、冒頭の残酷な描写に話が戻ってくる。繰り返しになるが、もし難しい問題には触れないままエンターテインメントに徹するのであれば残酷な描写は控えめにするべきであり、ある種のリアリティに満ちた残酷な描写は現状の司法制度への意欲的な論点化とセットにするべきだ。そうでなければ、ショッキングな表現がただの撒き餌のように見えてくるだけだ、というのが僕の理窟。そしてこの批難は、鑑賞後もまったく修正する気が起こらないのだった。
公平に言えばこの映画では、被害者遺族のまったく救われない感情は描かれていた。見知らぬ赤ちゃんを救うために犯人の注意を自分に向け、結果殺されてしまった大学生の娘の両親は、時間が経つにつれ夫婦仲までも険悪になってきて、母親である若村麻由美は犯人を自分の手で殺すことまで考え始める。ここで殺せてしまえば、すっきりとするのだが、もちろん果たせずに終わりむしろ無力感に打ちひしがれる。このまま終了、となればはじめに書いたような「悪い意味での純文学的解決」で終わる。「純文学的解決」だけを取り出して簡単に言い換えれば、安易な予定調和では終わらせないよ、ということだ。
エンディングに行き着くまで丁寧に、かつなるべく事実に即したような表現で描いてきた場合には、そのような「リアルな結末」というものは相応しく、「解決していないじゃないか」という不満もそうそう起こらずに、むしろ「うーん、リアルで考えさせられるなあ」という高評価に傾くことが多い。けれどもこの映画の場合、それまでがそれまでなもんだから、「なんだよ、投げっぱなしにしたまんまじゃねーか!」と立腹するのは必至……とさすがに脚本家が案じたのか、エンディングは世にも奇天烈なものとなっていて、皮肉たっぷりに言えば「感動」があった。

若村麻由美はひとり町をさまよう。娘はもういない。糸の切れた凧のように、彼女を現実に引き止めるものはもうないのだ。ふと、夜の商店街でたったいま降ろされたシャッターに目が止まる。見たことがある絵がそこにペイントされていた。じっと立ち止まる若村に、少し太めの店主が説明をする。「これはある学生さんが描いてくれたんですよ」
それは、殺された娘の絵だった。いまにも泣き崩れようとする彼女に、ありし日の娘が笑いかける。まだ生きていた頃の娘。彼女の知っている笑顔の娘。そして彼女は、その娘を抱き締め、思い切り泣くのであった
え? え? え?
妄想というか、空想上の人物などが現実の人間に「安心してね」などのメッセージを伝える、なんていう場面はこれまで何百遍と観てきた。それらはだいたいの場合において、文字通りの感動をもたらすことが多い。しかし、その妄想/空想上のキャラクターが具現化して現実の人間と接触してしまえば、一転してギャグになってしまうし、そのキャラクターにつき纏われれば、今度はホラーになる。
し・か・も、である。エンドロールのなか、膝をつき括弧つきの「娘」と抱き合って泣く若村の遠景では、電信柱に凭れて背をこちらに向けている内野がいて、その抱き合っているふたりを背中で確認してから、ゆっくりと向こう側に歩き出していくのだ。いやたしかに、電柱の陰からこちらを覗いているわけではなかったから、内野は若村の妄想/空想を見ていない、というエクスキューズは成立可能だ。しかしそれにしては彼の背中はいかにも「はっきりと一部始終を見させてもらいました」と主張しており、そうなると、ある個人の幻想が第三者にも見えたとなってしまい、これはもはやギャグやホラーの表現ではなく、物語の最後の最後にして急遽、前衛アートに突入してしまったということになる。このぶっ飛び方は、ある意味で観ないと損だと本気で僕は考えていて、それくらい、はてなマークたっぷりのエンディングであった。

というわけで、いいかげんな観方をしたのでいいかげんな感想になってしまったが、まあ対象がいいかげんな映画だからそれでよかったのだろう。なお、役者の演技についてはそれほど不満は起こらず、若村麻由美の演技はやっぱり迫力があるなあという印象を持った。特に、若い頃の娘と一緒のシーンでは、当人も十年近く若返ったようにも見え、あらためて女優はすごいと思った。そのときの彼女は、まだ悲しみや苦しみに疲弊しておらず、幸せで美しい母としてそこにいたのだった。

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知らぬ他人の感想文や「レビュー」等によって、大切な物語の重要な仕掛けなどが鑑賞前に明かされることほど、腹立たしく不愉快なことはない。とは言い条、このご時世、鑑賞前にわざわざ検索などをして他人の感想やら評価を確認する人もいるようで、そのような人たちに対して必要以上の配慮をするまでもないのだが、たまには親切心などを起こしてやるのも徳を積むことになるに違いないと思い、以下に、映画版およびマンガ版『この世界の片隅に』の重要なプロット・描写・表現等を書いてしまう場合がある、ということを明記しておく。まあ事前になにかを確認するという行為そのものが僕にとっては好ましいものではないので、ほんとうは気配りする必要もないのだが。
そして、マンガ版の感想を書いた時には(あえて)書かなかった部分も補足しておく。
 
それはともかく。
あまりにもマンガ版がよかったので、一念発起して、田舎の山奥から都会に出て映画版も観てきた。
率直な感想をはじめに書いておけば、いい映画だとは思う。ただ、いい映画どまりだとも思う。
以下、だらだらと思いついたままに。

オープニングテーマでいきなりコトリンゴの『悲しくてやりきれない』が流れて「ん?」と思ったが、ほかでは使われなかったので安心した。というのも予告篇を観たとき、そこに流れている「悲しくてやりきれない」というのがこの映画のメインテーマだというのだとしたらとんでもない片手落ちだし、だいいちそんなに単純な物語じゃない、という憤慨とも呼ぶべき感情がむらむらと僕のなかで湧き起こったのだ。
そりゃあ、たのしくてやりきれない、というような作品ではないが、しかしこの作品でもっとも重要なことは「日常」が描かれているということである。たとえ戦時下であっても戦時下なりの日常があったわけで、そこをこのマンガは丁寧に描いている。
もちろんその主人公たちの日常は戦争が激化していくなかでなかなか維持し難いものになっていくわけだが、呉の大空襲、そして広島の原爆投下によって大きな変容を余儀なくされながらもなおそれはつづいていくのであって、そこに僕は作者の誠実さを感じる。
僕が何度も単純なお話ではないと書いているのは、まさにこの「日常の尊さ」とでも呼ぶべき点に焦点が当たっているところで、けっして、「戦争もの」にありがちな戦争の悲惨さ・残酷さだけがクローズアップされているわけではない。
予告篇の『悲しくてやりきれない』がもし映画版のメインテーマになるのだとしたら、むしろ悲惨さ・残酷さだけを物語のクライマックスにすることになり、いわゆるお涙頂戴の、「さあここで泣いてください」的なつくりになっていやしまいか、とそこに(本篇を観てもいないのに)憤慨した、とこういうわけなのであった。
で、話を戻すと、当該曲はオープニングで流れただけであったのでまあよしとするが、そんなベタな選曲をしなくてもよかったのに、という思いはいまも残る。

マンガ版は、「漫画アクション」に48回にわたって連載されたもので、1回1回の終わりにはたいていオチがついている。その最後の1ページで、それこそ悲しくてやりきれない物語や、辛く寂しいできごとなどが、なんとなく緩和され読者がホッとできるようになっている。おそらくこれは作者が意図的にそうしたのであって、読んでいてただ重さだけが心にのしかかりつづけるような、そのような物語を否定した結果なのではないだろうか。実際にマンガ版下巻の「あとがき」において作者は、
この作品では、戦時の生活がだらだら続く様子を描くことにしました。
と書いている。そこにつづく言葉も引用しておこう。
そしてまず、そこにだって幾つも転がっていた筈の「誰か」の「生」の悲しみやきらめきを知ろうとしました。
この1回1回のゆるやかさ・軽さが、かえって主人公たちの生活感に重みを出しているのだと思う。まるで日記や絵手紙を読んでいるようなゆったりとした気分で、戦禍のピークへと収斂していく物語としてではけっしてなく、あくまでも市井の人々の日常生活の延長に戦争が割り込み、その結果惨禍が引き起こされるという形を追体験できる。
この形式――毎回それぞれにオチがつく形――は、マンガ版ではひとつのリズムとして味わうことができた。それはおそらく、マンガを読み進める速度は読者自身が決定できるというこのことが大きく作用している。
しかし映画版においては、あたりまえの話だがテンポやリズムというものは製作者によってあらかじめ決められているものであって、そうなると、特に冒頭部分のヒロインすずの少女時代などは、やけに暗転の多い舞台演劇を見せられているような、せわしない印象を受けた。簡単に言ってしまえば、間が悪い感じがしたのだ。
やがて観ていくうちに、(僕が個人的に言うところの)映画モードというものに慣れたのか、そのぎこちなさというものは徐々に感じられなくなっていったが、いくつか気になる点は厳然としてあった。
たとえば、すずが晴美と右手を失ったあとに、モノローグで延々と「○○月には××をした右手」とつづけていく場面、あそこはマンガ版で読んでいても見開きのかなり長い部分だったのだが、映画版では途中からそのモノローグをいくつも重ねて聴かせるという演出になっていた。おそらくは間延びしダレてしまうことを回避するための策だったのだろうが、僕はそれが正解だったとは感じられなかった。原作のマンガ版では、淡々とひと月ごとに「××した右手」と回想していくことによって、その失ったものの重さ、そしてそれによる悔しさ・苦しさ・切なさなどが静かに浮かび上がっていたが、いくつものモノローグがエコーをともなって重なるという映画版の表現ではなにかの呪詛のようにも聞えてしまい、すずの心にそのような恨みや歪みを生じさせるものがなかったわけでもないのだが、少なくともあの場面ではやや先走りしすぎであって、少し首をひねるものになっていた。
ここらへんがマンガのモードと映画のモードではっきりと差が出てくる点で、良し悪しは別として、マンガ内にあるセリフやモノローグは、現実の人間による発声をともなう映画において不自然に感じられることが少なくない。
この例として、『この世界の~』からは離れてしまうが、理屈っぽいギャグマンガをアニメ化した場合、そういうマンガにありがちな説明過多なツッコミは、目で読んだときにはなにも感じないものの、実際に声優が発声したときには「長えー」と感じるはずだ。
例としてたまたま手元にあった沙村広明『波よ聞いてくれ』3巻(傑作)をぱらぱらと広げると、こんなのがあった。ボケ部分は省略するが、ヒロインの鼓田ミナレのツッコミ。
最後そんな風にフワッと終わらせるなら「霊体だから」とでも言っときゃいいのに…何なんですか前半の蘊蓄は!?
長い。これからもわかるように、この場面ではボケ部分も相当に長い(気になる人は買って読もう)。ボケはある程度長くてもよいのだが、ツッコミは、ツッコんでいる最中にその内容が視聴者に悟られてはいけないので、自然早くなる。早くなるといっても、上の引用部分を早口で言うとなると、急に不自然な感じが出てくる。これが、黙読と発声によるモードの相違となる。
『この世界の~』に話を戻すと、実はこの作品は後半になると特にモノローグが増え、それと実際のセリフとが重なって文字通り重層的な効果をもたらすのだが、この処理が映画版ではあまりうまくいっていなかったようにも思う。
あまり詳しくは書かないが、すずがリヤカーの後ろを押し、その横で巡洋艦青葉の幻影が浮上していく場面。あそこは絵も音声もそれらが意味するところのひとつひとつが重厚すぎて、僕はマンガ版を二度読んでいたから理解できたものの、初見で把握することはかなり難しかったのではないだろうか。
もちろん映画は一度しか観ないものではない。何度も何度も繰り返し鑑賞すればよいのだ。しかし実際には、リモコン片手に何度も何度も巻き戻し一時停止を繰り返すようなものではなく、上映時間2時間の映画は、2時間きっかりで終わる物語なのであって、何時間ときには何日かけて読んだっていいマンガとは本質的に異なる。
映画とマンガのどちらがよくてどちらが悪いという話ではない。そういうそもそも論ではなくて、『この世界の~』という映画作品においては、マンガ版において成功していた表現を完全に移植できたとは思えない、というだけである。

マンガ・映画の両方を体験した人間が必ず口にしたくなるのは、白木リンの扱いだろう。原作がけっこう長い物語なので割愛するのは仕方ないのだが、僕はリンとすずの関係は周作を介したコインの裏と表だと思っているので、リンと周作との関係がまったく触れられないのであれば、リンとすずの関係も当然変化するはずで、変化というよりもかなり無理がでてくる。もっと率直に言えば、リンの存在はとてつもなく軽くなる。
映画版でも、ちょっとした場面で原作の設定を嗅ぎ取らせるコマはあったのだが、しかしそれもなあ、という気もする。原作を読んだ人間が賢しらに「なあ、知ってるか?」と自慢のネタにするだけなのではないか。
僕は個人的には、最後のほうでうなだれるすずの頭を撫でる右手はリンのものだと思っているが(映画版ではそもそもうなだれる場面が異なるし、その右手は義父のものとはっきり描かれていた)、その重役を、映画版のリンでは担えないということだけは書いておく。

あとは余談程度に。
ときおり出てくるファンタジーの場面にすずが入り込んでいくシーンは、原作のもともとのタッチの柔らかさが鉛筆で描かれた幻想部分へのジャンプを許していたが、映画版では登場人物や背景の輪郭があまりにもはっきりとしすぎていて、現実と幻想との境界の淡さが感じられずやや唐突の感が否めないところがあった(白兎の跳ねる海と水原少年が歩いて帰っていく場面とか)。
また、水原の声がちょっと気障すぎて(実際すずに「キザもたいがいにし!」と怒鳴られてはいるものの)、作品世界にマッチしていないように感じられ、不快感すら覚えた。
のん(能年玲奈)の声はそれほど悪くはなかった。が、ものすごくいいか、と問われるとちょっと迷う程度。

以上、書きたいこと――だいたい批判的な内容ばかりになってしまった――を書いたが、と言ったって、感動して映画館で泣いたのは事実。いい映画なのも事実で、より多くの人に観てもらいたいとも思っている。ヒットもしてほしい(しているのかな? 全然知らない)。
けれどもそれ以上に、原作マンガがより多くの人に読まれることを望む。いいマンガだからではない。傑出して偉大と呼ぶにふさわしいマンガだからだ。


(2016/12/18 追記)
いま突然思い出したのだが、劇中、「落下傘部隊の歌」が流れて、心のなかで「おおおおー!」と盛り上がった。
僕が軍歌大好きの愛国主義者だからではない。川柳川柳の『ガーコン』のなかでこの歌が唄われいて、僕は『ガーコン』が大好きなのである。
余談の余談になってしまうが、じゃあ川柳は軍歌大好きの愛国主義者なのかっていうと、そういうわけでもない。以下に、三遊亭円丈の著作から引用しておく。
数年前に、寄席でよく出る落語ネタを調査したところ、ベストテン上位に「ガーコン」が入っていた。この「ガーコン」は、川柳師以外は演らないのに、堂々のベストテン入り。もう、どんだけ毎日演り倒しているのか。たぶん、ひとりの人間が一生に歌う軍歌の曲数では、ダントツの一位。申請したら、ギネス記録になるのでは?
では、なぜ川柳師は軍歌を歌うのか? それは、単に歌が好きだから。お客のために歌うとか、喜ばせようなんてこれっぽっちも思っていない。自分が歌いたいから、歌っているだけ!


(三遊亭円丈『落語家の通信簿』294p)
 なお、川柳川柳の『ガーコン』を聴いたら、古今亭右朝の『ガーコン』もおすすめ。

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というわけで、『バットマン・ビギンズ』の続篇を観た。
で、これが案に相違してすごく面白かった。

テンポがよく、アクションシーンも緊迫していて迫力がある。爆発シーンでは火薬量も多く、ここまでやるかってくらいに燃える。
それに較べると、人物に少々違和感あり。
相変わらず、主人公の顔がのっぺりとしていて興味がわかない。くわえて、こいつがまたジメジメとしていて、コウモリ男というよりはカビ男。幼馴染みのヒロインは、前回と役者が代わり、この人は僕の好みだったのでよし。
で、そのヒロインの恋人の検事がアゴちゃん(アメリカ人好みの顎が割れている人)で、なんでこんな人を起用したのか、と不思議に思う。とにかく、この三角関係がひとつの線となって物語を通じているのだが、ここらへんはハッキリ言ってどうでもよい。主人公がバッサリと諦めればいいだけ。でも、ジメジメ。
こんな頼りない主人公グループに対して、なんといっても悪役のジョーカーがすごすぎる!

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この映画を見るきっかけは、『MOZU』の新谷ひろみ(池松の女装)が若松警視を殺すシーンって、(予告篇でしか観たことがなかった『ダーク・ナイト』版)ジョーカーへのオマージュなんじゃないの、と思ったことで、それを確認するために前作から観てきたのだが、そのぼんやりとした推測は確信に変った。
ということは反対に、女装した新谷のあの似合っていないメイク、崩れたメイクは、『ダーク・ナイト』視聴経験者に、ジョーカーの残虐性を想起させることになり、結果、新谷を余計に残虐・不可解な人間に見せることになったのだと思う。

とにかくこの映画は、一にジョーカー、ニにジョーカー、三、四がなくて、五にジョーカーってなくらいに、ジョーカーが魅力的なのである。
魅力的といっても、悪の魅力であり、けっして憧れの対象にはならない(する人ももちろんいるだろうが)。どころか、恐怖の対象である。
うじうじジメジメしているような主人公より、暴力による恐怖でゴッサム・シティを支配しようとするジョーカーの方が、なんといってもわかりやすく、そのわかりやすい暴力性が視聴者の感情に直截うったえるのだ。

厳密に観ていけば、ヒロイン、レイチェルに対する主人公の誤解(最後まで彼は気づかない)や、悪や正義のありようみたいな構図などもよくできているのだが、アメコミ原作映画を徹底追究することに僕はあまり意味を感じない。そういうのは、ふだんからの映画好きがやればいいことで。

繰り返しになるが、とにかくもう、ジョーカーの残忍性・強靭さ・下品さ・粘着性等々に圧倒されまくった。こういう感じって、『MOZU』の中上(吉田鋼太郎)のキャラクターにも相当な影響を与えているんじゃないかと思った。そして、映画のいちばん表面の部分としては、ジョーカーにただただ満足したという鑑賞方法で間違っていないと思う。
映画の全体的なトーンは薄暗く、主人公がいろいろな点で苦悩しているという点も、ジョーカーのキャラクターを際立たせているという意味で非常に効果的。いづれにせよ、ジョーカーのための映画。

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横浜から帰ってきて以来、二週間ぶりに一日休みが取れる。
ふだんより三時間だけ休憩を多く取った雨の日が一度どこかであったが、フルはひさしぶり。といっても、これから外せない仕事があってちょこちょこっと出かけるのだが。
で、そのひさしぶりの休暇を言祝ぎ、レンタルしていてずっと観ることのできなかった映画『のるかそるか』をきのうやっと観ることができた。あほったれ。

のるかそるか [DVD]

のるかそるか [DVD]

先日からNHKFMの『ラジオマンジャック』というラジオ番組を聴いている、と書いたが、この番組タイトルはもちろん、赤坂泰彦の尊敬するウルフマン・ジャックというDJの名からとられている。赤坂のことを嫌いなくせに、そういうことはけっこう憶えている。
で、そのウルフマン・ジャックは、映画『アメリカン・グラフィティ』で出演していたなあ、『アメリカン~』には、無名時代のハリソン・フォードが悪役で登場していたけれど、主役はリチャード・ドレイファスだったなあ、ドレイファスといえば……という連想で、この『のるかそるか』という映画を思い出したのだ。くそったれ。


単純な物語である。
貧しいギャンブル好きのタクシードライバーのドレイファスが、競馬のいかさまレースの情報を入手し、妻に内緒で友人と競馬場に出かける。
情報を信じ、持ち金のありったけをかけたドレイファスは次のレースも、そしてその次のレースも大穴に張る。倍々ゲームだ。
しがない競馬場の酒場で1ドル2ドルの話をしていたドレイファスも、二度目のレースからは「ジョッキー・クラブ」で紳士淑女にまじって予想。はじめのうちは上品にしているのだが、レースが始まりゃそんなものはどこかに抛ってしまい、当ったときには大声で叫ぶ。あほったれ、くそったれと。
この言葉はさすがに周囲のレディース・アンド・ジェントルメンの眉をひそめさせ、ドレイファスは再びしがない酒場へ。

字幕はないが、こんな雰囲気。なんだかエンディングみたいだが、このあと別にもう一レースあるのだ。
つまり、倍々ゲームの行く先はいったいどうなるのか、という話である。ドストエフスキー『賭博』に出てくる老婆(だっけ?)は、最後の最後でスる。じゃあ、ドレイファスは?
最後の最後にコーナーを回ってきた自分の賭け馬の目を観たドレイファスが、「わかっていたんだ……」とつぶやくところが好きで、もう二十年以上前の映画なのに、「あほったれ、くそったれ」の台詞とともに、憶えていた。いい映画である。あほったれ。

あと、邦題っていうのがいい。原題の「let it ride」というのは、そのまま賭けをつづける、という意味のようだが、それを「のるかそるか」と翻訳するセンスに拍手。

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映画『パルプ・フィクション』と言えば、下の曲を思い出す人は多いと思う。






Misirlou / Dick Dale & His Del-Tones




サントラ(実際の映画でもそうだけど)でいうと、ふたりの強盗が「I love you, Pumpkin」「I love you, Honey Bunny」と囁き合ったあと、「エヴリバディビィクールディスイーズロバリー!」「エニィーオッビューファッキンプリックスムーヴ、アナイルエグザキューエヴリマザファッキンラストワンナヴヤッ!」のセリフがあって、いきなり始まるやつである。

でも。

私が『パルプ』と聞いて思い出すのは、この曲じゃないんだよねえ。



この映画、私はリアルタイムで映画館で観た。

まだ高校生だった。テレビ東京で何度も流れていたCF*1 が妙に胡散臭かったが、しかし、ブルース・ウィリスという知っている俳優が出ているということが後押しになって、当時の友だちとたしか新宿に行った。ちなみに、この友だちは、後年学者になって、私と仲違いをする。

たぶん、初日かその次の日からくらいだったと思うのだが、それほど大勢が来ているというわけでもなかったように思う。「だって、あのCM だもんな。あれ、なんだかよくわからなかったもん」と私は勝手に思っていた。じゃあなぜ観に行くことにしたのかというと、ちょっとマニアックそうだったから。

当時の私もたいして映画に詳しくなかったので、「クエンティン・タランティーノ」という名前なんて聞いたことがなかったし、そもそも、監督が誰かなんてことにその当時は(もしかしたら今も)興味がなかった。

映画館に入って、多少は並んだんだっけか。扉を隔てていても、並んでいるこちら側にもでっかい音が聞こえてきて、とにかく銃声の多い映画だなあと感じた記憶がある。

で、前の上映が終わって扉が開き、エンドロールが流れる中、さっさと気の早い人たちが出てきて、その入れ替わりで私たちが入る。それも流れこむという感じではなく、パラパラというものだったと思う。

で、そのとき流れていたのがこの曲。






Surf Rider / Lively Ones




カッコイイなあと感じた。

古い、というのはわかっていたが、あえてこの古さを持ち出してくる感覚がシブかった。

ウキウキしながら席に着いて待っていると、そのうち映画が始まり、それから冒頭の「アナイルエグザキューエヴリマザファッキンラストワンナヴヤッ!」で動けなくなってしまった。釘付けというやつだ。



映画が終わって、それからしばらくしてサントラを買った。

このサントラには、セリフもかなり入っていて、だから、上記の「I love you, Pumpkin」「I love you, Honey Bunny」だとか「Le BIG MAC」とか、そういうセリフがすぐに思い出される。

それを頭からしまいまで何度も何度も何度も何度も繰り返し聴いたので、映画を何十回も観た気になっていた。けれども、おそらく映画本篇を観たのは、映画館のも含めて、2回くらいだと思う。テレビなどで再放送されていても、「あ、何度も観たからいいや」という気分になってしまい、観る気がしないのだ。

こんなふうに、ひとつのアルバムを何度も聴き返して、歌詞カードを見て、「ああ。こういうことを歌っているんだな」と思ったり、ライナーノーツを読んで、関係の深いミュージシャンなり(この場合はサントラだから)映画なりを知って食指が動いたり、ってそういう興味の広がり方って今後は少なくなっていくのだと思う。

今なら、全部ブツギリで情報が入ってくる。1曲1曲をダウンロードしたり、YouTube でブラウズしたり、あるいは別のWeb サービスをつかって延々と音楽を流し聞きする、ということも可能だ。

でも、その一方で、ひとつひとつの音楽に対する思い出なり感傷なりが薄くなってきている気もする。アルバム1枚を流し聴くなんて非効率的な音楽の愉しみ方、と捉えられているのかもしれない。

いやいや。「昔はよかったなあ」って遠い目をしたいのではない。ただ、私の時代はそうだったって話で、考えてみれば、音楽の愉しみ方って、時代によってすごく変わってきているわけで。

ドラマ『カーネーション』でもあったけど、戦中・戦後直後はラジオから音楽が流れてくるのが(たぶんそれほど貧しいわけではない家庭の)愉しみ方であったろうし、それより前は、生演奏が当たり前だったのだろう。なにかの映画かドラマだったと思うんだけど、昔の日本のこと、なにかのお祝いで大勢の人間がひとつの家に集まった中、みんなの手拍子に合わせて誰かが歌を唄って、それが終わると、みんなで拍手をして、という描写があって、それを観ていたらすごく羨ましい気持ちになった。

反対に、そういう時代の人たちからすれば、移動しながら耳元でいろいろな音楽が聴ける、なんて奇跡みたいに思うかもしれない。

私には経験がないのだが、インターネットや携帯電話が登場するもっと以前には、雑誌の投稿欄でコミュニケーションをしたりとか、あるいは、文通したりとかしたらしい。80年代あたりの話だろうか。

「ええ? めんどくさーい!」とメールしか知らない人は思うかもしれないけど、私は、これらにまつわる思い出を持っている人たちも羨ましい。

宮本常一の著作にあったと思うが、戦前の田舎において、歌の名人が「歌くらべ」で勝った結果、どこかの嫁さんと一夜をともにすることができた、なんていう話があって、そういう時代に遡ってしまえば、彼らが生涯に唄った歌なんて、50もなかったのではないか。

でも、やっぱり音楽を愉しんでいたことに変わりない。そして、ひとつひとつの歌にまつわる思い出の多さ・濃さは、現代のそれと較ぶべくもない、と私は思う。



*1:探したら、YouTube予告篇の動画があった。テレビで流れていたのは、このダイジェスト版だと思うが、しかしなんでもあるな。



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話題になっているみたいなので、『桐島、部活やめるってよ』をDVD で鑑賞した。ツイートしたのと重複もするが、以下にネタバレありの感想を思いついたままに、書いてみる。

いい映画だった、と思う。

しかし鑑賞を終えてもなお、日本アカデミーの作品賞を獲ったというのは驚き。同賞授賞式は日本テレビで放映され、また『桐島』の方も「日本テレビ放送網」の企画・製作だということを踏まえても、こういう青春映画*1によくグランプリを与えたなあ、とアカデミーの姿勢を称讃したい。

とにかく、最初の20分くらいは胸糞悪くなりっぱなしだった。途中で「ああ、観るのもうやめた!」ってなる人もいるだろうと思う。私も「文句を言うため」に観つづけたのだが、すべて観終えて、我慢してよかったと思っている。




私もひとこと、ふたこと


批評したくなる映画なんだろうな、と思った。ちょっと思いつくだけで、




  • モテ/非モテ

  • リア充/非リア充

  • 運動部/文化部

  • 男子/女子

  • 派手/地味

  • 部活所属/帰宅部

  • 人気者/オタク

  • ビッチ/童貞

みたいな対立項に満ち充ちている。いま風のキーワードばかりでようございましょ? 私が前半部分で非常に耐えがたい思いをしたのは、この対立があまりにもあらわだったため。

手塚治虫『ブッダ』で覚えたインドのカーストの仕組みだが、あれが、






  1. バラモン(僧侶)

  2. クシャトリヤ(武士)

  3. ヴァイシャ(平民)

  4. スードラ(奴隷)

  5. バリア(不可触賤民)



だったのに対して、『桐島』内に限らない多くの学校では、






  1. 人気者

  2. 目立つ者

  3. 可もなく不可もない者

  4. 地味な者

  5. いじめられる者



という階層(ヒエラルキー)が基本としてあって、その各層の中でも、さまざまな力関係が展開していて、『桐島』はこの部分を丹念に描いている。

たとえば、カスミ(ヒロイン)が「いろいろと大変なんですよ、女子も」と男子に話す場面があるが、しかし、彼女の本音はそれだけでもないように思える。

構成上(これが本作の一番の魅力だと思うのだが)の理由からきちんと確認・確信はできなかったのだが、彼女の本当に感じていることは、男子に打ち明けたり、もちろんリサ(桐島の彼女)やらサナ(菊池の彼女)やらに話している内容だけではカバーできない、と私は感じた。

好意とまではいかない、けれどもある種の敬意を彼女は主人公の映画監督(神木隆之介)に持っているが、それ(神木へのほのかな敬意)を誰かに伝えることは、彼女の選択肢の中には、ない。それが彼女の学校生活を善くするものとは思えないし、善くするどころか、害をもたらす可能性の方が高いからだ*2

私はといえば、菊池とかその彼女たちに象徴される「なにか」に対して、今は学生時代以上の敵愾心を持っている。





匿名性


はじめは、女の子たちの名前が全然覚えられなかった*3

カスミだのミカだのリサだのサナだのキヌだのヨネだのウメだのチヨだのと言われても、まったく違いがわからない。

彼女たちのうちでは当然、その判別しにくい名前でも通用するわけだが、外部の人間(=視聴者)にとっては、名前があるのにもかかわらず匿名性が強い。これは意図的なものなのではないか。

細かく見れば、彼女たちは個々人の生をそれぞれ生きているのだが、粗っぽく外部から見れば、全員が代替可能に映る。

たとえば、4人グループ中のミカは、教室で映画部の神木をバカにすることで自分の保身に走る(保身という意味だけでなく、本当に愚弄しているのかもしれないけど)。

結局、カーストやヒエラルキーの構成員っていうのは、どこまで行ってもカーストなりヒエラルキーの制度を維持するための行動しかできなくて、ミカより上位にある(とお互いに思っている)サナのご機嫌を損ねないように、下位にある(と彼女が考えている)神木を叩くという構図は、まさにスクールカーストの世界。





笑うな


私の中では非常に印象的だった、神木属する映画部ふたりが朝礼で表彰される場面。ここで彼らは多くの生徒たちの嘲笑にさらされるのだが、観ていてなぜか悔し涙が出てきた。いいんだ、いいんだ、きみたちは今は耐えればいい。最後に嗤われるのは、いま笑っているこいつらの方なんだから。そんなことを思っていた。

けれども、高校生当時の私自身が、一所懸命に頑張っている人間たちに対して心からの敬意を抱えていたわけではなかった、ということも同時に思い出され、二重に辛かった。

こういう嘲笑っていうのは、他人を自分のレベルに引きずり下ろして安心する心理から来ているのだろう。たしか桐島が選抜に選ばれたというアナウンスの後に映画部が壇上に上がったのだと記憶しているのだが、象徴的な構成。

桐島はカースト上位にあるため栄光はふさわしいものと考え、一方、カースト下位にある映画部に称讃はふさわしくない、とカースト一般構成員たちは思ったわけだ。

この構成員たちの安直な思考法を、私たちは嗤ってやろう。





観客(視聴者)の共感を覚えるポイント


たぶん多くの人は、神木たち映画部か、あるいは吹奏楽部の沢島*4に感情移入をするのだろうが、桐島の彼女や菊池の彼女に共感する人もたしかにいるはずなんだよな。

でも、そういう層に対してこの映画は厳しい。彼女たちに救いは用意されていないのだ(別に私も必要だとは思わないけれども)。

つまり、あらゆる価値観を認めるという文学的な作りではないという意味で、この映画はよくできたエンターテイメント。

学校という社会での「弱者」であり、ほとんど見向きもされない存在である映画部の神木、あるいは恋の実らない沢島は、おれ/わたしの分身である、という見方を思わずしていると気づいた時、やっと、導入部分の気持ち悪さ・腹立たしさが報われることになる。それらは実に計算された「前フリ」だったのだ。

まあ、その期待に応えて、後半は密かに、じんわりと、価値観の逆転が行われていく。まあ、その過程でも神木の淡い失恋みたいなものがあったりするので、私の神木たち映画部に対する共感は尋常なものではなくなっていた。なんていうか、かわいくて仕方がないんだよね、彼らが。





なんで方言をつかわなかったのか?


で、こんなによくできた映画だっていうのに、すごく不満に感じたのが、なぜ方言が出てこないのか、ということ。

エンドロールを見た限りじゃ、撮影場所は高知だったと思うし、屋上の場面だったかな、遠くに大きな山並みが映って、「ああ、都会じゃないんだな」とは思った。

しかし、誰も方言をつかっていないんだよなあ。これがおかしい。

別に舞台が地方である必要もないのだが、都会である必要もないはず。原作者は岐阜出身みたいだが、岐阜弁でよかったと思うよ(原作がどう表現されているか知らないけど)。恰好悪い? そんなことないでしょ。たぶん、標準語にしちゃったことの方が、恰好悪いと思う。すごくもったいない部分だった。





承認の問題


菊池たち3人男子組も、桐島の彼女も、菊池の彼女も、そしてバレー部の連中も、不在の桐島に振り回される。ラストシーンで走っていた連中はみんなそうだ。

彼らは、桐島に承認をもらうことで、学校社会内で存在している。いや、社会内の彼らのポジションを成立させている、と言った方がより正確か。

菊池は「桐島の親友」であり、他のふたりも「桐島を待つ男」であり、リサは桐島の彼女であることで、サナは桐島の彼女の親友であることで、それぞれの地位を確立している。意識的か無意識的かに関わらず。

一方、吹奏楽部部長で菊池に片思いしている沢島は、いろいろあってから演奏を終えた後、すっきりとした表情をしている。その表情から、彼女が桐島の承認やそこから生まれる別の承認を必要としていないということが読み取れる。

また、われらが映画部も、桐島の承認を必要としていない。彼らは、自足しているのだ。

エンディングというか、エンディングの一歩手前で、菊池が神木にインタビューするところは、ものすごくいい。

構成上、まったく無理がなくああいう特殊なシチュエーションを仕上げてしまうというのもすごいのだが、そういうことよりもなによりも、神木のインタビューへの答えがいいのだ。

けれども、あの神木のセリフだけではなく、彼の表情とか、屋上にある光線の具合とか、観ているわれわれの方の心地よい虚脱感とか、聞こえるか聞こえないかわからないくらいの静謐なノイズとか、われわれの感動を構成している諸々の要素はすべて、桐島の承認とは無縁なのだ。

あのシーンで、菊池ははじめて神木たち映画部を理解する。映画部に感情移入している視聴者は、「ああ、菊池が理解した」と思うだろう。もしかしたら、「菊池が理解してくれた」と思うかもしれない。

でも、そう思ってしまった時点で、結局それはヒエラルキー内部での、上位層から下位層への一種の承認になってしまうのだ。優れた者、栄光にふさわしい者に近しい者に承認を与えられることで、既に自足しているはずの映画部が新たな地位を獲得するというのは、本当にわれわれが望むことなのだろうか

私は、菊池の感情湧出とあの神木のセリフは、それぞれ別の独立したものであったらよかったのに、と思った。

ひとつの演奏が終わったときに沢島に訪れる満足感は、神木たちが自分たちの好きなものとつながれたと思えた瞬間にもやってくる。「それでも俺たちはこの世界で生きていかなければならないのだから」というセリフを覚えられないあの後輩に、神木がちょっとだけ自慢気に話す。それだけでよかったんじゃないか。

いやいや。そんなのはやっぱりないものねだりなのかな。

そんなことをしないでもあそこは本当にいいシーンで、観ているあいだ、私はずっと胸を詰まらせていた。





いい映画の条件


映画を観終えて、いろいろと思い出しながら考えて、ちょっとメモを取って、ツイートして、それでもなにか足りないような、それだけじゃもったいないような気がして、そうしてさっきからずうっとああでもないこうでもない、と推敲しながらこれを書いている。

優れた映画というのは、優れた小説と同じく、観終えてそこですぐに消え去ってしまうものではなく、そこからまたなにかが始まるものなのだろう。

映画好きの誰かが、いや、小説好きでもいい誰かがそばにいたのなら、ひと晩中、この映画の話をしたのだろうな、と思う。

うん。やっぱり、いい映画だった、と思う。





他の気になった瑣末な部分




  • 野球部のキャプテンが素振りをしているシーンがあったのだが、なんかスイングの位置が高すぎるような気がした

  • カスミ(橋本愛)がバドミントン部の練習中、スマッシュするシーンがあるのだが、そっちは一見して「あ、経験者だな」と感じられた(調べてみると、実際にバド部に所属していた様子)

  • 調べてみてわかったのだが、橋本愛は、いまドコモダケのCF に出ている女の子なのね

  • ミカ役の清水くるみは、髪型と顔が『3年B組金八先生』第2シリーズの迫田八重子(川上麻衣子)によく似ていたと思う*5

  • 吹奏楽部のことを「吹部(すいぶ)」と略していたと思うのだが、うちの学校では「ブラバン」だった*6

  • オトナの私は、菊池とその彼女がキスをするシーンで、「おら、ちゃんとキスしろよ」と腹を立てた

  • (追記)あのキスというのは、ストーリー上、もっと生々しく情念に満ちたものでなければならないのに、実際のそれは、役者同士にどこか遠慮のあるもので、違和感を覚えた



*1:本当は、ただの青春映画で終わっていないのだけれど。


*2:余談だが、カスミの神木への敬意は、ミカ(バド部)の小泉(桐島の代わりのリベロ)への敬意と相似していると思う。


*3:だから、Wikipedia で確認しながらこれを書いている。


*4:ただし、私には彼女の行動原理がいまいち理解できないのだが。


*5:画像検索してみると、あまりそう思えないのだが。


*6:ブラバン」は中学のとき。高校は「オーケストラ部」だったから「オケ部」だった。



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漫画版は途中までしか読んでいないのだが、弟から「面白いよ」と薦められたので観た映画版の『テルマエ・ロマエ』。DVD で鑑賞。

先日の日本アカデミー賞で、最優秀主演男優賞を受賞した阿部寛が主演なのだが、まあ彼なくしては存在しない映画、といえる。

そもそも、の話なのだが、まずこういう漫画(古代ローマの風呂設計技師がタイムスリップして現代日本にやってきて、その技術を古代ローマに持ち帰る、というストーリー)が雑誌に連載されている(いた*1)、ということがすごい。連載誌は「コミックビーム」なのだが、ここ最近私が面白いと思う漫画は「ビーム」連載のもの、ということが多い。

だけど、その漫画を映画化と聞いた時点で、「ああ、どうせ……ね」みたいな失望に似たような感情もあったのだが、その「期待しない態度」が、今映画の鑑賞においては有利に働いた。

別にあらすじを書いたりはしないので、鑑賞ポイントのみ列挙。




  • そのままで古代ローマ人として出演した阿部寛市村正親北村一輝、宍戸開、勝矢が面白かったが、意外にも、きちんと演技をしていた

  • 古代ローマ側の生真面目演技に対し、神戸浩に代表される「平たい顔族*2」の演技のゆるさというのが面白かった

  • しかし、上戸彩の演技は「学芸会」の域を出ておらず、「ゆるさ」という言葉ではゆるされないレベル

  • あれ? 安岡力也の遺作だったの? でもそれにしては……と思ったら、それは太った竹内力です

  • テノール歌手(?)がサボっていたり、洗濯機で人形がぐるぐる回っているだけだったり、と多少の工夫は見られたものの、何度か繰り返されるタイムスリップシーンは、わりと冗長に感じられがちかもしれない

  • 原作を読んでいても、阿部寛(ルシウス)の「平たい顔族の文明の高さ」に対する驚きは、笑える

  • 上戸彩が採用されたのはお色気担当だったからでは、と思えるシーンがふたつほどあった(妙に強調される胸元、そして、妙にあらわになった肩*3

  • 現代劇では浮きまくる印象の市村正親が、ああいう歴史劇(?)では実に映えるということがわかった

  • 最後の方で、ルシウスがローマ市民の称讃・喝采を受けるシーンがあるのだが、それが阿部のアカデミー賞の最優秀主演男優賞受賞とダブって、興味深かった



とまあ、こんな感じなのだが、ひとつだけ、声を大にして書きたい(じゃあ、声を大にしなくてもいいんだけど)ことがあって、それは撮影地となった温泉地(上戸彩が演じた女の子の実家、という設定)に行ったことがある、ということ。

栃木は那須の北温泉で、撮影場所の北温泉旅館に宿泊したことがある。いかにも撮影場所になりそうだなっていう古く(いい意味で)胡散臭い感じの旅館で、猫が自由に旅館を行き来していたことを覚えている。本館と別館とをつなぐ通路には自動ドアがあって、猫がきちんとその自動ドアの開閉を待つのだ。

風呂から出て、部屋に戻る途中、宿の主人が玄関近くのロビー(?)のソファにすわって、その猫を膝に乗せていた。

「よしよし、今日は一日中おとうさん(自分のこと)いなかったからなあ。寂しかったかあ? よしよし」

猫は嬉しそうにぐるぐると喉を鳴らしていた。

それを横目でちらと見、会話をしっかりと耳に入れながら、「ああ、猫に対しても、自分のことを『おとうさん』と言ってしまうんだなあ」と思ったことを憶えている*4

『テルマエ・ロマエ』を観て、「あ、懐かしい。あの旅館だ」と思って、観劇後、ネットで当該旅館のサイトを観てみると、1匹の猫の訃報がその写真とともに記載されていた。




ミィミィが4月23日午後5時50分、病気のため死去しました。

15歳でした。

長年皆様にかわいがっていただきまことにありがとうございました。




いつの4月23日なのかはわからないが、15年間生きた以上、宿泊した際、おそらく私はその猫を見ているはずである。

実はきょう、『テルマエ・ロマエ』を観る前に、『荒呼吸』という漫画を読み、その中で猫に関するエピソードにいたく感動し、ふと、「ああ、あの温泉旅館の猫、どうしたのかなあ? いまでも夜は『おとうさん』の膝の上にいるのかなあ」と思い出していたところなのだ。

本当に、私があの夜に亭主の膝の上で甘えていたのを見た猫と同じ猫なのかはわからないが、なんとなく不思議なものを感じた。それだけの話。



*1:つい最近、連載完結したばかり。


*2:この表現もすっかり有名になりました。


*3:ファンでもない私には、「別にどーでもいーけどー」な感じだったが。


*4:ちなみに、2匹のネコと話すときの私の場合、「おにいちゃん」と自称している。



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映画『スタンド・バイ・ミー』のエンディングシーン。

リチャード・ドレイファスが立ち去っていくところで、あのイントロが始まるのだが、このシーンは何度観ても鳥肌が立つ。

知らない世代にとってはなにかのお化けのように映るワープロには、こんなようなことが書かれているようだ。




彼(リバー・フェニックスが演じた男の子)は、喉を深く刺され、ほとんど即死した*1

十年以上も会っていなかったが、彼のことは一生忘れないだろう。




ここで、部屋に子どもたちが入ってきて、「はよせえや、おやっさん。さっきから『もうちょいや、もうちょい』ゆうてるけど、こちかて、さっきから待ってんねんで!」と急かす。

子どもたちが去り、それを思い出すように見つめるドレイファスがいい表情をしている。頭の中では次の文章を考えていて、その一方で子どもたちが(既にいなくなってしまっているのに)今そこにいるように視線を送り、やはり思い出すようにして、静かに笑う。

そして、ふたたびワープロのモニタに視線を戻し、タイプする。




それから、12歳のときの友達のような友達を持つことは二度となかった。皆そうなのではないか?






私は今でもそう思っているのだが、もしこの曲がエンディングでかからなかったら、この映画は名作にはならなかったのではないか。

私には感傷に浸るに足る「少年時代」の記憶はないし、若くして死んでしまった友人もいない。だから、この1950年代を舞台とした映画にノスタルジーを感じることは本来ならそう簡単なことではない。

けれども、これまた生まれてもいない1961年の『スタンド・バイ・ミー』がかかるだけで、この映画は一気に「僕の少年時代」であるかのような錯覚を生じさせる。考えてみれば不思議なことだ。

この映画のエンディングに、もし、もしもですよ、炭坑節がかかったとしたら……。






ちなみにこの動画、画像が適当で面白い。




みんなズッコケて椅子から転げ落ちるだろうね。



*1:たしか弁護士になっていて、喧嘩の仲裁で刺されたように記憶している。



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「この暑い季節になると、ぼくはいつも12歳の頃の体験を思い出す。

あれは“ふとっちょ”がぼくらに持ってきた話が発端で、ぼくらの町から線路をずっと辿っていったところにある森にゲイ雑誌が落ちている、そんな噂がすべての始まりだった。

“ふとっちょ”は、“不良”の兄貴たちがそのことを話しているのを盗み聞きしたのだが、それを聞いたぼくらは、もしそれを拾ってくれば英雄になれるかもしれないと考え、ある夏休みの日、ぼくと“不良”と“ふとっちょ”と“メガネ”の4人でちょっとした「旅」に出かけたのだった。

といっても、たいした旅ではなかった。

途中、『機関車トーマス』実写版の撮影現場があったのでそれを見たり、ドッグレースであぶく銭を稼いだり、ともかくまあそんな感じだった。

夜、焚き火を囲んで野宿をしたとき、ぼくが特大のデブがわんこそばの大食い大会で大活躍をする物語を話して聞かせたのだが、ストーリーが爆笑で終わったのに対し、“ふとっちょ”だけは「え? それからどうしたの? そのつづきは?」としつこく聞いて、場をしらけさせた。あまりにもしつこかったので、“不良”が送り襟絞めを決めて2秒で眠らせた。それからしばらくして“メガネ”も眠った。彼の父親は風呂が好きでしょっちゅう風呂屋へ行っていた。ついた渾名が「銭湯帰り」。いっつも湯で暖まってぽーっとのぼせたようになっていたからだ。そのことをバカにすると、“メガネ”は怒った。「いいか、親父のことをバカにするやつは許さねえ」。そのときも、眠りながら夢の中の誰かに父親のことを自慢しているようで、寝言を言っていた。「親父はノーマ・ジーンの大ファンなんだぞ」と。

ぼくは親友の“不良”と将来のことを話し合った。彼はワルぶってはいたが、頭のいい男だった。ある日、女装が趣味の男教師が誰もいなくなった教室でスカートを履いているところを写真に収め、それをネタに恐喝して給食費一年分をせしめるほどだった。すごくいかした奴だった。

けれども、ぼくが彼のことを褒めると、彼は将来のことはわからないと言った。「それより」と彼は話題をぼくのことに移した。

「おまえだったら、小説家になれるよ」

「え?」

「おまえだったら、きっといい小説家になれるはずさ」

「そうかな」

「そうだとも。きっとさ」



翌朝目覚めて森を歩いていくと、温泉があった。なんでもドクターフィッシュを使ったセラピーで有名だということで、ぼくらはすぐに裸になって、魚に身体中を食わせた。

すっかり「治療」を終えたぼくらは、諦めずに森の中を進んでいった。雑誌はやがて見つかった。近くを徘徊していたホームレスと一瞬喧嘩になりそうだったが、彼の持っていた『ビッグイシュー』を1冊買ったらそれでOK ということになった。

落ちていたゲイ雑誌はずいぶんと古く汚れたもので、結局拾って帰ることはやめにした。そして、警察に匿名で電話を掛け、「『バディ』が森の中に落ちていますよ」と伝えた。電話の向こうは「え、なんだって?」と聞き返したのでもう一度だけ雑誌の名前を伝えた。「『バディ』が落ちているんです」、そう言ってぼくは電話の送話口を下ろした。



それでぼくらの小さな旅はおしまいだった。ぼくらは別々に帰途につき、そしてその後も別々の道を行くことになった。






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“メガネ”




“メガネ”は中学を卒業したあと、ぷらぷらと町でアルバイトをしていたが、ある夏の日に牛丼屋で“ふとっちょ”と出会い、大喧嘩をすることになる。




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“ふとっちょ”




“ふとっちょ”は中学卒業後に無事就職し、大工になっていたが、ある夏の日に牛丼屋で“メガネ”と出会い、大喧嘩をし、丼を持ち出して殴りかかろうとするところを第三者に仲裁に入られることになる。






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“不良”




“不良”は中学・高校を優秀な成績で卒業し、それから警察官になったのだが、ある夏の非番の日、牛丼屋で口論になった二人の仲裁に入り、丼で頭を殴られ死んでしまった。



余談になってしまうが、その牛丼屋のオーナーはぼくの兄貴だった。






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“兄貴”




兄貴は優秀なアメフトの選手だったが、途中から相撲の力士になると言い出して新弟子検査を受けたが、うまく行かず、牛丼屋のフランチャイズに手を出していたのだ。この事件がきっかけになって兄貴の店はずさんな労働管理が指摘され、未払賃金の訴訟が起き、大きな負債を抱えることになった。



それでもぼくは、あの日“不良”が言ったように、なんとか官能小説家になることができた。あの日拾った雑誌の縁かどうかはわからないが、こうやって『バディ』にもエッセイを連載させてもらっている。

12歳の頃の日々はもう帰ってこないが、それでもこうやって毎年なんとなく思い出しているのだ。あのときの友人より他に、ぼくに本当の友だちはいないから。



理智宿 奴隷夫(49)」




Stand by Me / Ben E. King




この映画のよさって、ひとえにこの曲の良さで成り立っているよなと思ってこの動画を観ていたら、ちょっとじーんとした。





原題が「The Body(死体)」というのは有名な話。



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なにかのビデオの予告篇で観て以来、観よう観ようと思ってたぶん一年以上は経っていた『ヤング@ハート』。

観たいと思っていたわりには、「どうせ、『ハートウォーミングストーリー』なんだろ?」と舐めてかかっているところがあったが、蓋を開ければそんな心配(?)は無用だったと気づかされる。




予告篇




ドキュメンタリーだが、現実はかなりドラマチック。予告篇を観てもらえればわかるが、コンサートへの練習期間中にメンバーが死んでしまう。平均年齢が八十歳ということでみなそれぞれ持病を抱えているのだ。

八十年以上を生き、病を押してでも歌を歌うこと。ただただ愉しみのために歌を歌うこと。歌が人生に離れがたく結びついているということ。当然のことなのだが、若い人間が頭で考えているような世界とはまったく違う生を生きている。簡単に「人生」などと言うことが少し気恥ずかしくなる。

人間は、おそらく大昔から歌を歌っていたのだろうなあと感じた。歌がうまい人だけが歌っていたのではなく、おそらくみなが歌を歌っていたのだと思う。きっと、歌には力がある。




Fix You / Coldplay





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