とはいえ、わからないでもない

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「リーマン・ショック」という言葉が「金融危機」よりピンとくるのは、やはり「サラリーマンがびっくりした」みたいな語感からどうしても逃れられないためであり、それは、「おもむろに」という副詞になんとなく面白さが隠れていると思ってしまうのと同じくただの勘違いに過ぎないのだが、しかしキャッチーであるがゆえに人口に膾炙したのだろう。
本書を読めば、その名称(これはたぶん日本だけでしか通用しないのではないか)がいかに的外れかがわかる。リーマン・ブラザーズの経営破綻は結果のひとつでしかなく、その原因がいかにでたらめで、詐欺と熱狂と虚妄で捏ね上げられたクソの山にすぎなかったのかが解き明かされ、多くの人々は怒りを覚えることだろう。当時、そのことに気づいていた人間は非常に少なく、そして経済的なレジスタンスの行動を起こした人間たちはほぼゼロだった。3組のグループ+αを除いては。
その3組のグループ+αは、金融業界が破綻しアメリカ経済が傾き倒れる方に空売り(ショート)という形で賭けた(だから、このノンフィクションの原題は「ビッグ・ショート」であり、当然映画の方も同様)。ある意味でその行為は非常に英雄的であり、かつ倫理的でもあった。しかしその結末は、どこか苦く、スカッとして終わらなかった。われわれの住んでいる世界を支配するシステムは、非常に多くの人間たちを簡単に騙してきたし、これからもきっと同じことだろう。そういう予感を払拭することができないのである。著者が最後の最後に――めでたく金融危機といくつかの投資銀行の経営破綻は起こり、主人公たちショートに賭けた反骨の志士たちが大金を手にしたあとに――こう書く。
この勝負の奇妙かつ複雑な点は、敵味方に分かれた重要人物たちのほぼ全員が、財布をずっしり重くしてテーブルを離れたということだ。スティーヴ・アイズマンとマイケル・バーリとコーンウォール・キャピタルの若者たちは、それぞれ自力で数千万ドルを稼ぎ出した。グレッグ・リップマンは二〇〇七年に四千七百万ドルを受け取ったものの、そのうち二千四百万ドルは制限付き株式授与だったので、あと数年ドイツ銀行かその関連企業にとどまらなければ回収できない。それでも、その全員が正しかった。つまり、賭けの勝ち側にいたということだ。
一方、ウィン・チャウのCDO事業は破産の憂き目を見たが、チャウの手もとにも数千万ドルの金が残った。チャウは商魂たくましく、新たな事業を興し、数十億ドルもの他人の金を失う元凶となった当のサブプライム・モーゲージ債を、安価で買い上げるという離れ業を披露することになる。ハーウィー・ハブラーは、単独のトレーダーとしてはウォール街史上最大の損失を出したが、それでもなお、みずから稼いだ数千万ドルの金を懐に入れることが許された。ウォール街の大手投資銀行のCEOたちもまた、博打の負け側にいた。その全員が、ひとりの例外もなく、自分の経営する企業を破産に追い込むか、さもなければ、アメリカ政府の介入によって破産を免れた。そして、全員がやはり金持ちになった。

(マイケル・ルイス『世紀の空売り』文春文庫 437p~438p)
倫理的であるかどうかはともかくとして、状況を正確かつ冷静に分析し適切に振る舞うことのできた人たちと、自分たちのビジネスの一部なのにその仕組みや成り行きをほとんど把握していなかった人たちとが同等の結果を享受した一方、その外部で、ほとんどなにが起こったのかわけもわからないままに家や仕事やその両方を失い放り出された人たちが大勢いた。それが資本主義だというのなら、このルールを盲信するのはそろそろ間違いだということに気づいてもいいはずだ。この本が訴えているのは実にさまざまなことにまで及ぶが、大勢の人間が正しいと信じていることにも間違っていることがある、というのもそのひとつだ。なにをそんな当たり前のことを、と思う人は大勢いるかもしれない。彼らは政治や経済の外側で思想を固め、世界の現況とは別に、自らのうちに信念を形成し、それを確固たるものとして抱いているためにそう思うのかもしれない。だが政治や経済はほとんどの場合、多数の人間あるいは権力を持つ一部の人間が決定したものに、少数派または持たざる者たちが望むと望まざるとにかかわらず従うという構造で成り立ってきた。そのようなメインストリームから外れた素人の「どこかおかしいのではないか」という素朴な疑問に対する専門家たちの懇切丁寧ときには威圧的な応答が、つねに正しいとは限らない。今回の統計不正の問題においても、現時点でたいしたことないと即断している人間が政治家以外にも一部あるようだが、それこそ眉唾もの。すべての材料を把握・理解したうえでそう判断するというのなら論理的にわかるのだが、即席調査をした特別観察委員会なるものまでもがほぼ偽装状態だったことが判明した現在では、「要観察」くらいまでにとどめておくのが上品な態度ではないか。
あらゆる分野において熱狂というものは、いちばん手っ取り早い言い訳を糧にして指数関数的に肥大していく。そして、その言い訳は技術の発展にともない以前にもましてそこらじゅうに転がるようになった。たぶんこの先も、大きな爆発がいくつも起こるのだろう。外観的な反省がその都度おこなわれ、後出しの「予見」を吹聴する輩が雨後の筍のごとく湧くのだろう。おそらく、人間が歴史からなにかを学ぶというにはまだ若すぎるのだ。

映画もかなり面白かった。凝った撮影方法によってドキュメンタリー的迫力に手に汗握ることができるし、ときおり登場人物たちがカメラに向かって語りかける演出もしゃれている。この演出によって、ともすれば複雑かつ専門的になりすぎてしまう金融市場の描写にわかりやすいという印象を与えてくれるのだが、ただし、CDO、CDS、MBSといった略語がばんばん飛び交う内容は、書籍にあたってから鑑賞したほうがより理解できることだけは間違いない。俳優たちの演技もぴかいちで、これはきっと”ビッグ・ショート”に賭けた当人たちが演じているのだという幻想に2時間ひたっていることが可能。DVDの特典映像としてあったキャストへのインタビューで、当然ながら役柄とはまったく別人の俳優たちの個々の表情に嬉しい驚きを覚えた。
日本語版のタイトルは、副題(華麗なる大逆転)同様に意味不明。すくなくとも本質的にはなにもあらわしていない。このタイトルをつけた人たちは、この映画からなにを学んだというのだろう。マーケティングやビジネスを優先し本質を完全に見誤った結果がもたらした悲劇が舞台である映画を、ある意味では象徴しているという点では非常によくできた皮肉なのだが。

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昨年末、正確に言えば昨年12月29日の深夜というか12月30日の早朝、あるいは12月31日あたりに、「ああそうかぁ、『カメラを止めるな!』って観てなかったけれど、やっぱ観ることにするかぁ」と決めた人が何人いるだろうか? 数千人はいるかと思うのだが、逆に言えば、数千人くらいしかいないのかも。
きっかけはこの歌だ。
いちおう「本人」出演なので削除されないと思う(Short Ver.だけど)

これをはじめて聴いたときはもちろん、「なんだ、『I Want You Back』のパロか」と思ったけれど、それがいいとか悪いとか冷静に受け止められる状態じゃなかったので、判断保留にしていた。
で、年が明けて映画を観た。昨夏、流行に疎い僕ですらこの映画が爆発的人気を博しているということくらいは知っていて、だからこそ「観ないでいいや」と思っていたのだが、観てよかった。

全体的に低予算だということはよくわかるし、演技だってみんながみんなうまいというわけではない(むしろ、ん?って感じの人のほうが多い)。でも、アイデアと情熱とでうまく乗り切っていて、それが映画の内容ともリンクする。陳腐で月並みな言葉だが、これは映画への愛を撮った映画だ。
演技といえば、監督役の濱津隆之が最高だった。この映画を観て好感を持った場合、彼を嫌いな人はいないんじゃないかっていう気がする。今後、いろいろなところで活躍してほしい。

あれだけ話題になったのだから、以下に書くことは、きっと何千何万という人がすでに指摘していることだろう。そういう野暮を重ねることは甚だ不本意だし、書く前からすでに億劫になっている。よくできた、とてもすてきな映画。この評価で充分だという気もする。
とはいえ、「面白い映画!」だけで済ませるのも、製作者たちの熱量に対してやや失礼な気もする。たとえば、撮影シーン冒頭のギャグ部分である個性派若手俳優とアイドル女優へのダメ出しでげらげら笑っているだけではもったいないということ。監督はきちんと、この若い俳優たちへのフォローもおこなっているのである。クライマックス部分で、ゼーハーゼーハー言って「身体が勝手に……もうなにも考えられなくなってきました」と吐き出す男の子のほうへは「考えすぎはよくないよ」と肩を叩き、女の子のほうへは殺されながらも、「できるじゃないか、その涙だよ! ……さぁ、クライマックスだ」と声をかける。前半部はもしかしたら「台本通り」なのかもしれないが、後半部分の「さぁ、クライマックスだ」は暖かく、心底グッとくるセリフだ。
ここらへんの行き届いた感じが、まさに映画への愛そのものなんだと思う。映画は、誰かがひとりでつくるものではなく、でこぼこで、ばらばらで、ときにはまとまらないまま撮影が始まってしまったとしても、そのまとまらないながらも有機的につながっているそれぞれのスタッフ・俳優たちによってつくりあげられるものであるから、だから、監督は若い俳優たちを見捨てず、声をかけ、その成長を促す。現実はそうではないのかもしれないけれど、すくなくともこの映画が伝えたいのは、甘い理想だ。

途中で、多くの人たちは三谷幸喜『ラヂオの時間』を連想することだろう。
さいわい、舞台版『ラヂオの時間』のセリフを抜き書きしておいたものが手元にあったので、ここに引用しておく。西村雅彦演じるプロデューサーが、役者たちのわがままに応えるため次々と脚本を書き換えさせてしまうので、ついに脚本家に(時間がないのに)「すべて録り直してほしい」とクレームを受けたところ。
ぼくらは遊びでつくっているわけじゃない。自分のやりたいことをやりやすいようにやる、それは趣味の世界の話です。
妥協して妥協して妥協して、自分を殺してまで作品をつくりあげる。われわれはそういうところで仕事をしている。いいものはできませんよ、それは。でもやらなきゃいけないんです。垂れ流しでもいい、不本意でもいい、とにかく放送しなきゃいけないんです。
でもわれわれは信じている。いつかは満足いくものがそれでもできるはずだ。その作品に関わったすべての人が満足できて、そしてそれを聞いたすべての人も満足できる。
でも今回はそうじゃなかった、それだけのことです。
いつも自分の満足いくものが書きたいのなら、あなたこの世界に足を踏み入れるべきじゃない。ご主人相手に自分で読んで聞かせてあげていればいいんです。
『カメラを止めるな!』でも同じようなセリフ回しは出てくる(偶然ではなく、もちろん剽窃でもなく、きっとオマージュなんだろう)。土壇場になっていろいろ変更が起こることについて腹を立てた若手俳優が、監督に撮影中止を提案する。「作品のためにも。作品は残るんですよ」と「作品」を連呼する彼に対して監督は「作品の前に、番組なんです」と釈明をする。「テレビの前で待っている人がいる。まず放送しなきゃいけないんです」
この構図が、今度は逆転した形で最終盤にあらわれる。クレーンが壊れたことで最後のクレーンショットをカットしようと提案するプロデューサーに、それがないとオチにならない、と怒鳴り声をあげてまで反対する監督。それに対してプロデューサーが、「作品の前に、番組なんです」とたしなめる。ここらへんの構成も意外にというかやっぱりというか丁寧なんだなあ。
もちろん、物語の結末は、だけれどもってところへ行く。『ラヂオの時間』も、『カメラを止めるな!』も、けっきょく作品より番組を優先させました、というストーリーでは終わらない。プロの、言い訳さえ言うことができない現場の苦しい本音を吐露させておきながら、そこで終わらせないところに、作者たちの心意気というものを感じる。

はじめの37分のワンカットが、長いだの、くどいだの、だるいだのという批判があるかもしれない。が、映画全体を観たうえでまだそんなことに文句を垂れているのだとしたら、この映画のメッセージをきちんとつかんでいるとは到底いえない。
たとえ最終的に画面に映ったものが冗長だろうが、安っぽかろうが、空回りだろうが、その背後にいる人たちは、必死に、それこそ「妥協して妥協して妥協して、自分を殺してまで」作品をつくりあげようとしている。この映画が伝えたいのはそのことだ。そこに滑稽さを感じとって笑うのは第一段階で、やがてその冗長性・安っぽさ・空回り感にこそ、そこに関わっている多くの人たちのひたむきさ・崇高さ・愛おしさが滲み出てくるように感じられる。ザ・ショウ・マスト・ゴー・オン。カメラは止めない。回せ。回しつづけるんだ。キープ・ローリング。 
こちらは消える可能性大

この音楽を、8年間つづいたラジオ番組『菊地成孔の粋な夜電波』の最後の最後にかけた菊地成孔さんに感謝します。あなたがいなかったら、僕はきっとこのタイミングでこの映画を観ることはなかったと思います。あなたは、番組内でかかるのはすべて極上の音楽だということをずっと言われてきましたが、しかし、いろいろなシチュエーション、いろいろな演出をもって紹介するそのやり方によって、個々の音楽にけっして色褪せない鮮やかな羽根飾りを結びつけていたことを、われわれは無視することはできません。美しい音楽に美しい意味を与えてわれわれに贈ってくれた、その最後の贈り物は、やはりすばらしいものでした。ほんとうに、ありがとうございました。

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これも弟に薦められた。
映画を十年単位で観ていないので、話題作かどうかも知らなかったのだけれど、これは始めから、映像・音楽ともによかった。心の動きとしては、いいねいいねいいねいいね、と順調に滑り出し、途中でうん?となったが、「でもま、いっか」と思い直し、再び、いいねいいねいいねいいね、とこんな感じでラストまでやってきて、「なんだかんだで、よかったなあ」と一息つくかつかない頃、何事かの箴言の下に「P・T・バーナム」と書いてあって、「え、なに? この人、実在の人?」と途端に考えが変った。
ずっとフィクションだと思っていたので、それならばと目をつむる場面がいくつかあった。けれども、実話を元にしたとなると、もやもやがすぐに口をついて出てくる。不満点を総括して言うならば、ファンタジーとリアリティとの按分が中途半端だということ。いっそファンタジー100%にすればよかったのに。ヒュー・ジャックマンがレベッカ・ファーガソン――歌もよかったし、とてもきれいだった――と出会う際に、その容貌(あるいはオーラ?)に一目惚れし、そこから興行を買って出たわけなのに、その関係がなんとなくプラトニックなままでツアーが進み、やっと彼女がアタックを仕掛けてくると「そういうつもりじゃないんだ」みたいな態度をとって、あのとんでもなくかわいい奥さんとふたりの娘たちへの操を立てる、っていうのは、ありゃあどう見ても視聴者向けのエクスキューズでしかなく、かなり苦しい。史実はどうだったか知らぬが、恋愛関係なのか、はたまたバーナムの金儲けの一環か、いづれにしても映画としてはやや生々しくなる。それを避けるために、淡い恋心と上流階級への小さな復讐心の発露としたのかもしれないが、そんならいっそ、歌声に心底惚れた、という設定にしたほうがよほど自然だし納得がいく形になったと思う。なぜそうしなかったのだろう。
それ以上に、バーナム(ヒュー・ジャックマン)の本業であるサーカスのメイン、いわゆるフリークスたちへの扱いが現代的すぎやしないか、という思いが強く残った。時代背景や彼のヤマ師根性から考えても、奇形を抱えた人たちをおそらく「見世物ショー」のダシにしたのであろうから、そうなると気分が悪くなってくる(ただし、見世物にされた人たちも、本意不本意にかかわらず、それによって金銭を稼ぎ自立できる、という意義を感じていたのかもしれないので、簡単に「かわいそう」と判断するのも却って失礼な場合がありうる)。たしかに、アンチというには過激な、いまで言うところのヘイトスピーカーたちが奇形の彼ら/彼女らに罵声を浴びせる描写は何度も何度も出てくるが、けれども、興行主のバーナムやサーカスの観客席を埋め尽くすオーディエンスたちにはまったく「差別的な意図」が見えず、そのような「ファンタジーエフェクト120%モード」――大河ドラマの戦国大名が己の権力欲・功名心から虐殺を繰り返すのを「みなが笑顔で暮らせる平和な世の中をつくるため」と言ってオブラートに包むのと同じくらいの欺瞞があるわな――であるのなら、前述の妙な生々しさみたいなものは完全に排除したってよかったはずだ。そこらへんが、不満に残ったのである。
しかし冒頭に翻って、映像も音楽もやはりすばらしいのである。それは間違いない。歌唱パートのダンスなども迫力十分だし、脚本の細部を無視してしまえば、あとはすてきなミュージカル体験ができると太鼓判を押せる。と思っていたら、こんな動画を見つけてしまった。
なんだこりゃ。上に書いたこと、ぜーんぶクソみたいなたわごと。すべて吹っ飛んだ。歌と言葉によって、鼓舞され奮い立たされていくのが、目に見えてわかる。心が震え、伝わっていく。これが音楽。これが人間だ。
さらに、もうひとつ動画を見つけてしまった。
すごいな、これも。動画越しなら「映画観てないからよくわかんない」という人もいるかもしれないが(※最大限に譲歩した言い方)、生でこの現場に立ち会ってもなにも心が動かないという人がいたら、人間じゃないと思う。あと、絶対ヒュー・ジャックマン好きになっちゃうよな、こんなの観たら。

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とってもとってもいい映画。
あるところでこの映画の存在を知って、借りてみようとパッケージの写真を見たら、「あれ? ハルクの人じゃん!」と思わぬところで大昂奮。アヴェンジャーズではハルクは好きなほうなので(エドワード・ノートンの単品映画のほうはちょっと単調すぎてつまらなかったけど)、あの冴えないマーク・ラファロがちょっと落ちぶれてしまった音楽プロデューサーをやるという設定に、物語の始まる前から感情移入できてしまった。キーラ・ナイトレイも歌がとても魅力的で、この女優さん自身も好きになってしまった。
全体としてみれば、とても小さな映画。それもそのはずで、元はアメリカ国内で5館ほどでしか上映されていなかったのが、口コミで全米に広がっていって……というシンデレラ・ストーリー。映画の内容も、ちょっとそれにリンクするような、手づくりで音楽をつくっていって、それが多くの人に認められていくようになる、というシンプルといえばシンプルなあらすじ。でも、これがいいんだよねえ。主役のふたりがフィクションではなく実在の人物のようで、そこにキーラ・ナイトレイ(歌手役)の親友の男性や、マーク・ラファロ(プロデューサー役)の娘がうまい具合に絡んできて、軽くワインを飲みながら観ていたらすごく気持ちよくなってしまった。マルーン5のアダム・レヴィーンも俳優として登場するが、これもいい感じよ。もちろん、その歌もね。

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弟に薦められて年末に観た。
サイレント映画においてスターだったということをまさしく証明するジャン・デュジャルダンの雄弁な表情。ユーモラスでとても愛らしいベレニス・ベジョ(特にダンス!)。そして、全体を彩る行き届いたサイレント・ムービー的演出。作品中、たった2回だけ「音が出る」場面があるが、そのどちらもが拍手を送りたくなるすばらしい演出だった。
本作の特徴として、スターである/あった主人公が善良ということがある。なので、ヒロインの思慕、尊敬、憐憫の感情が100%正当に見える。2012年の映画だから、この点において一点の陰りもない描写が可能であったろうし、また、オスカーもすんなりと(?)獲得できたのかもしれない。なにが言いたいかというと、2017年のワインスタインへの告発から始まった映画業界における性的ハラスメントおよび性的暴力は、視聴者にとっての前提知識となってしまったということ。もし『アーティスト』が2018年の映画だったら、「ファンタジーにすぎる」とか「美化されすぎだ」みたいな批判が相対的に多くなったはずだ。しかし僕は、たとえ2018年の映画だったとしても、本作を高く評価したに違いない。きれいごと・理想論であるから批難するという論理は、ノンフィクションでない以上、ピントがずれているように感じるからだ。
作中でほかに印象に残ったのは、主人公が乾坤一擲の思いで撮影した映画の封切り日にガラガラだった館内。あそこは胸が締めつけられるような思いだった。ちょうど僕の好きなものや思い入れの深いものが昨年にいろいろとなくなったり終わったりしてしまっていたものだから、僕自身が時代から取り残されているという感覚と重なってしまったのだ。

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どでかい台風もあって、深夜まで見回りをして、翌日には生活用水がどろどろの泥水になって、ってけっこう日常生活はめちゃくちゃだけれども、本を読んだり、映画を観たり、ラジオを聴いたり。

春日太一『仲代達矢が語る日本映画黄金時代 完全版』というのを読んだせいで、仲代達矢が主演している小林正樹監督の『切腹』が観たくなり、借りた。
ひとことで言うと、まあすごい傑作である。日本の1950~60年代の映画館の来客数はいまから考えると信じられないほど多かったようで、あるところのデータを見ると、ピークは58年でなんと11億人(!)、『切腹』の62年も半減したとはいえ、6.6億人。ちなみに去年は1.8億人だったようです。ゴジラと前前前世とすずさんでめちゃくちゃ盛り上がったみたいだけど、そんなもんなんだねえ。

で、『切腹』なんだけど、なにがすごいかって、まず竹光で切腹するところのリアルさ。
詳しくは書かないけれど、ゆえあって貧窮した武士が、切れるわけないのない竹光で切腹をせねばならなくなる。ここで、カメラを当該武士の腹の部分から外して苦痛に悶える表情をとってぼやかすのかななどと思ったら、さにあらず、その腹の部分をこれでもか、これでもかというくらいに映す。
当然武士は、魂である真刀を売り払ってしまったことや、狂言切腹を図りそのあげくほんとうの切腹を命ぜられるという恥や辛さも味わっているはずなのだが、しかしそんなことがどうでもよくなるほどの激烈な痛みと苦しみが、画面を覆うのである。これを直視しながら、痛痒も感じないという鑑賞者はいまい。文字通り身を捩り、一刻も早く武士に死が訪れることを願う。もういいだろう、もういいだろう、と。
なんとか腹に竹光を突き立て腹を血まみれにしたところで、武士は介錯を願う。鑑賞者も、そうだそうだ、早くラクにしてやってくれと願う。
ところが介錯人役の丹波哲郎が「まだまだ! もっとかき回してからじゃ!」と刀を抜かない。痛みは永遠につづく……。

まあ、書いていても苦しいのだが、つまるところ、このようにあえてむごたらしく描写することによって、武士の体面とか面目というものの美名の陰に、陰惨さと残酷さと強制とがあることをさらけ出したのだろう。
これはもしかしたら、62年当時の観客にはそれなりの実感をともなって伝わるものがあったのかもしれない。というのも、この時代であれば戦争体験者は多かったであろうから、集団的狂気を身をもって知っているはずなのである。たとえば、戦死者を御国のために死んだ英霊などといって万歳三唱するなど。
『切腹』のなかにある痛烈な批判は、武士社会に対してだけでなく当時の日本の社会に対しても訴える力があったのだろう。そしてそれは、現代にも通ずる。
たとえばいま「ソマリアでトラックが爆発し数百人が死亡した」という文章を読むとき、われわれのほとんどは痛みを感じていない。なんとか一命をとりとめ、傷つきながらその場を一目散で逃げ出す人たちの喉の渇きすら、想像していない。想像できない。
理不尽さ、暴力、無慈悲さ、貧しさ、飢え、そして、はかり難い痛苦。これらを、無意識にブラックボックスに放り込んでしまっているわれわれにとって、『切腹』という映画の鑑賞には、痛みをともなう。

しかしこの映画のすばらしいのは、それだけではない。
仲代達矢と三國連太郎の存在感はしびれるほどで、仲代が意識して出していたという低音ヴォイスは当時三十歳にも満たない実年齢を隠し、どころか孫までいる中年の武士を演じ尽くしている(ちなみに娘は岩下志麻だ)。はじめはとぼけたように、わざと焦点の合っていないようなまなざしのまま応対をし(ユーモラスなほどで思わず笑ってしまうところもあった)、後半では憤怒の化身、虐げられた者たちのための不動明王となって暴れ回る。
三國の、陰のある家老役もこれまた大迫力だ。極悪人というわけでもなく、かといって小人物でもなく、現代でいえばまさしく中間管理職なのだが、かといって権力を持っていないというわけではない。
これは現代とまったく変わらない構造だと思うのだが、「上」とか「世間」などに忖度(「忖度」を狭義にしか解さない、というのはやめにしてもらいたいが、ここではあえて2017年的狭義における「忖度」を意味している)したり、あるいは組織の維持のためという名目をもって、自らより下のものを徹底的に痛めつける。この種の暴力のおそろしいところは、実行者が責任回避の意図をもっておこなわれる点だ。彼は、自分でない誰か・なにかのことを考慮して、ときには「不本意ながら」という保留をつけつつ、手をくだす。そのため、この暴力にはかえって際限がなくなる。
太平洋戦争当時でも同様のことが行われていたに違いないし、いまでもおそらくはそう。学校や会社組織内でのいじめ・パワハラにも通底している問題だ。

時間を行ったり来たりする構成によってミステリー仕立てにもなっており、もう端から最後まで、隅から隅まで文句のつけようがない。
現代において時代錯誤的に、「武士の誉れ」とか「日本男子」なんていう言葉を軽々と口に出す輩にこそ観てもらい、その浅はかな思慮に一考を促したいもの。半世紀以上前の映画が、いまでもわれわれの眼前に突きつけているものがある。

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先日、実家に帰省したとき、「これ読んだことあるか?」と父から芥川龍之介の『蜜柑』という4ページほどの短篇小説というにも満たない散文を収めた本を渡された。「読んだことないなら、短いから読んでみろよ」
そのとき僕らがいたお茶の間ではテレビがついていて、『臨場・劇場版』が流れていた。内野聖陽という、ずっと「まさあき」という本名を用いていたもののその読み方が徹底されないためについに読みを「せいよう」と変えていろいろな方面を安堵させたあの役者――『真田丸』での家康はほんとうに好演だった――が主演をやっているドラマ発の映画、程度のことは知っていたがドラマも観たことがなかったのでいちおうチェックだけはしておくかと、流し見&流し読みを決行してみた。

映画は、柄本佑という、安藤サクラというすばらしい女優を奥さんにしているという点以外はいまのところ特に見るべきところもない役者がいきなりバスジャック&連続無差別殺人をおこなうショッキングな場面から始まるのだが、その瞬間、すぐに秋葉原の無差別通り魔事件が想起され、嫌な気分になった。ショッキングであるということもさることながら、非常に残酷な場面描写が、(秋葉原の件なのかどうかはさておき)ある特定の事件を連想させるような意図だけではない「なにか」がなければただの扇情でしかないはずだし、そしてこのドラマというか映画にそれを期待するのはきっと難しいだろうなあという直感がすぐに閃いたのだった。
犯人はすぐに逮捕され、当然というか例の刑法39条(「心神喪失者の行為は罰しない、心神耗弱者の行為はその刑を減軽する)が適用され極刑を免れたのだが、具体的に僕が期待したのは、上のセンセーショナルな描写はここ(刑法39条)に対する新たな問題提起への布石でなければならない、ということで、しかし結論から言って「被害者やその家族/遺族は悲しいよね、でもいまの法律上それは解決できないんだよね」という悪い意味での純文学的解決(別名「現実を黙認しただけ」)で終わった。やっぱりな、という感じだった。役者が悪いということはなく、原作は読んでもいないからなんとも言えないが、少なくとも映画の脚本と演出はひどい。
ひどい、ということは冒頭からすぐにわかったのだが、いろいろと文句を言うために――そして実際に家族にべらべらと文句を言っていた――観つづけることにして、いっぽう手元にある芥川も「なんだよこれ、いつの時代の話だよ(実際に古いわけなんだけど)」というむかつきがむらむらと沸き起こったためにストレートに読むことができず、「よし、いまCMが流れているから読もう」と思って目を数行走らせただけで、ツッコミどころが満載すぎるうえにすぐにオチというか結末への方向性みたいなものが見えてしまい、早々に発生した読む必要がないという率直な感慨が読書を邪魔した。そして、そういうときにかぎってCMは早く明けてしまうのである。

もうこれはひどいドラマなんだから読書に集中しようと思っているとやっぱりディテールというものは把握できないもので、なんだか唐突に(僕の感知していないところで必然性はあったのだろうと思うが)長塚京三が出てきていて胡散臭さ満点。平田満も「なにかやらかすオーラ」に満ちていて、というか、観ている側が「こんなところに平田満が出てきて、なにもやらかさないわけないじゃないか」と思うのは当然なわけであって、ここらへんがキャスティングの限界なんだろう。
と、偉そうなこと書いたが、これはなかなか難しい問題でもあって、結局なにかをやらかす犯人にまったく無名の人を配するということはできないだろうし、視聴する側も、なるべくフラットに観られる舞台に較べれば、映像のほうが演出意図というものをより大きく受け取ってしまいがちなので、バイアスがかかってしまうのだろうと思う。
話は横道に逸れるが、ひと昔前、2時間ドラマを観ていて山下容莉枝が出てきたら「はい犯人確定しました」って感じだったのだが、それが浸透してしまった反動なのか、いまや彼女は完全な善人役だったりコメディエンヌとして配役されることのほうが多くなり、遊民社の時代を知っている者としては嬉しい限り。それとは違った形ではあるのかもしれないが元MOPのキムラ緑子も、『ごちそうさん』以降、単なる脇役ではなく、 クセのある(あるいはクセを発揮してくれるであろうと期待させる)脇役として登場することが多くなり、これもただただよかったと思うのだが、いま気づいたのだが、ふたりともシス・カンパニー所属なんだな。で、シス・カンパニーのサイトをひさしぶりに覗いてみたら……峯村リエがいるじゃないか! ほらね、って感じである。
話を本線に戻して結論を先に持ってくると、平田満はやらかすのである。マジメな交番勤務の警察官ではあるのだが、冤罪の汚名を着せられたあげく自殺した息子のことが忘れられず、そこまで追い詰めた刑事・段田安則への復讐心はずっと持ち続けていたのだった! ……ってわけで、クライマックスのひとつが段田を追い詰める平田満なのだが、倒れた段田に向かって拳銃を向けたと同時に他の警察官と高嶋政伸がやってきて、平田を正論で説得する。単純な視聴者としては(もはや芥川どころじゃなく)「もう段田を殺しちゃえよ」と思いつつも、「ああ、こりゃ泣いて膝ついて拳銃を落として他の警察官に取り押さえられるパターンだろうなあ……」と予想したのだが、なんとびっくり、平田は段田を撃たずして自分のコメカミを撃ち抜いて自殺してしまうのだ。
けれども僕は、かわいそうとかなんとか思うよりも先に、ある直感が頭を占めてしまい、それが離れなかった。つまり、「これはあれだな、原作もそうなのかもしれないけれど、平田の今後を描くのが面倒になったんだろうな」という直感だ。
こういう事件でなにも起こさずに捕らえられた場合、その結末を、事件から数日とか数ヶ月経って、という設定で刑事同士が「そういえば平田のやつ、執行猶予になったんですって? / 案外はやくに出られそうなんですって?」みたいに話して説明するということがある。『相棒』なんかでもよく見られた風景で、このようなシーンによって同情の余地が大いにある犯人への視聴者の心配をある程度緩和させることができるのだが、このシーンを用意するためには、それなりにリアリティのある法的処置というものを考えなければならず、脚本家は専門家ではないだろうから、けっこう面倒なのではないかと思う。場合によっては弁護士などにコンサル料なども支払わなければいけないかもしれない。それがゆえに、「ええい面倒じゃ。自殺させてしまえ!」となったのではないだろうか。

 もうひとつのクライマックス。真犯人の長塚京三が、ストーリー上/法的には「歪んだ正義感」であり視聴者側からすれば「それを実践しなければすっきりとしない正義感」によって、心神喪失者を装っている柄本佑を襲い、あともう一息で仕留められるというところで、長塚の元教え子であり真相を理解した内野がやってきてそれをとどめようとする。柄本は銃で肩を撃たれて倒れてはいるものの致命傷ではなく、というか、「肩を撃たれただけだったら、このあとなにかあるで!」というヒネた視聴者であれば柄本への意識を決して忘れはしないのだが、現場にいて忘れようとしても忘れらるわけがないはずの長塚と内野は、まこと不思議なことに傍らに柄本なきがごとく(傍若無柄本)長々と会話をして、視聴者の意識を柄本から逸らせるよう必死だ。で、案の定、柄本がこっそり起き上がって長塚をナイフで刺し殺す。ほら言わんこっちゃない、のありさまである。
刺殺しただけならまだいいのだが(よかぁないが)、柄本はあげくのはてには「僕はまた無罪だ! ハハハ!」てなことを言ってまた視聴者の心を煽る。きちんとというかご丁寧に、長塚への正当防衛じゃないよ、ということを示しているのだ。そこに激怒した内野が仁王立ち。当然視聴者は、「よし内野よ、ここだけは討ち損じてはなるまいぞ」と応援する。その結果は……。
なんやかんやありまして、ビンタで終わります。
び・ん・た!
え? さんざん人を殺して心神喪失を偽装して、それをよしとしないとするいわば括弧つきの「正義」の執行人も返り討ちにして、ふたたび無罪を図ろうとする犯人を、び・ん・た?
すぐにでもPCを起動して、「ビンタ 人 死ぬ?」で検索しようかと思ったよ。たしかに内野に頬を張られて空中でぶるんぶるんぶるんっと回転してはいたものの、柄本は死にそうもなかった。ここで僕は、がっかりの駄目押しをしたのである。

『相棒』なんかで水谷右京が、「いやもうこいつ、絶対更生の余地なんてないだろ」みたいな犯人に対して「たとえどんなことがあっても、人を殺していいなんてことはありませんっ! あなたは罪を償わなければならないっ!」なんて激昂する場面があったと思うが、ああいう場面を僕はどうにも茶番というか欺瞞に感じてしまう。特に殺人という場合において、右京は贖罪というものをけっこう気楽に考えているよな、と。
彼の言う償いは、刑法というひとつのシステムのなかのひとつの制度の話であって、特に遺族がいる場合の、彼らの心に対する償いというものについては、たぶん表面上のことしか考えていないだろうと思う。それはおそらく哲学に関する領域だからだ。
わざと曖昧に語るが、少女像のことについてはともかく、「金を払ったんだからもういいだろ」と発言してしまうのは、制度や契約や取り決めに類する話だけを取って、他方厳然として存在する人間の心については無視している表現であって、相手側からすれば「もういい」とはなかなかならず、むしろ「しかたない、諦めるか」としていた気持ちにまで火をつけてしまう。そんなことがなぜ理解できないのか→言葉のあらゆる意味において頭が悪いから、という話になってしまうのだが、まあそれはともかく、実刑判決が出ても、あるいは極刑が執行されても、遺族が「ああ、完全にすっきりした」という日は絶対に来ない。そう考えると、右京がなにをもって償いとしているのかがより明瞭になってくる。すなわち法の執行人としての立場からの「償い」を要求しているだけであり、それなら淡々と執行するだけでいいのに、「決め」のシーンではけっこう顔真っ赤にして青筋立てて唾を飛ばして怒鳴る。上の観点に立てばそういう場面は、日頃事務的で穏健な役人が、ものわかりの悪い市民に対してキレている、というふうに見えなくもない。おまえがそこで怒ったってなにも解決しないのは同じなんだぞ、と。
『相棒』でなくても、刑事ドラマや映画などでこういう場面にわれわれは何度も何度も遭遇している。まったくうんざりするぐらいだ。犯人がつかまってよかったね、で心の底からすっきりできることはほんとうは少ないはず(犯人が野放しになっている、という恐怖から解放されることはあっても、捕まったら捕まったで、その人間がまたこの社会に出てくるという別の恐怖が生まれる)で、現実のわれわれは裁判の結果およびその執行までを注視する。他人事であってもそれくらいで、当事者やその関係者たちは、刑やその執行とはまた別に、長い時間をかけて自分の心のなかでその問題に対峙しつづけていかなければならない。
現実において、犯人に対する厳しい処罰が最良の解決方法だ、というのは人によって判断のわかれるところだろうが、せめてフィクションのなかだけはすっきりさせてほしい、というのは比較的多くの人に同意してもらえると思う。こんな卑劣なことをして、あんな残虐なことをして、という犯人が最終的に誰かに殺されたり、事故死したり、自殺したりすれば、どんなに気分がいいか。フィクションの世界の話であれば、「これで真相は闇の中に……」なんて誰も思わねえよ。思うわけない。
近年話題になったある外国ミステリで、主人公の刑事たちが「悪人」をわざと犯人に陥れて結末とするものがあって好評を博した。そりゃそうだろうと思う。レビューのなかには「法的に正しくない」というものもあったらしいが、おそらく作者はそんなことは百も承知で、だからこそそういうエンディングにしたのだろうとも思う。
一方、これは日本のあるミステリなのだが、高齢(中年とは言えない年齢)女性の犯人(たしか殺人犯)が捕まる際に対して、彼女に恋心を抱いている主人公(こちらも高齢)が「待っているよ」みたいに声をかけるところがエンディングであったと思う(もうだいぶ前に読んだものなので記憶が曖昧)のだが、「けっ」と思った。いやいやいや、もうずいぶんといい年だし、「出てきたら」っていうところに主人公や作者は欺瞞を感じないのだろうか、と。まあもともとたいした話(具体的に書くとけっこうなネタバレになってしまうので書かないが、トリックなどに主眼が置かれている話だったので、思想的には希薄な内容)ではないのだけれど、逮捕された犯人に対して「罪を償ってこいよ」っていうのはあまりにも陳腐であり安直で、21世紀に入ってもう15年以上経っているのだから、もうそういうのは卒業しようよ、というのが素人なりの感想だ。 
総じて、「刑を受けることで罪を償う」ということがどういうことなのか、それが加害者も含めた当事者に対して実際にどういう効果をもたらすのか/なにももたらさないのか、ということをまったく看過する物語であれば、少なくとも、「裁きを受け、罪を償いなさい」というようなセリフを出すべきではない。

刑法39条への問題提起はもちろんなく、それを悪用した柄本については、内野にビンタを食らって以降登場はせず、言及もなかったように思う(エンディングらへんはいよいよ惰性で観ており、やっと芥川にも集中していたので明言はできないが)。そこらへん、まったく素っ気ないほどだが、ここでもまた、心神喪失者を偽装していたことが遡って立証できるものかどうか、あるいは、生きていた柄本が長塚への正当防衛をたとえ主張したとしてもその場合の量刑やそもそも有罪か無罪か、等を明らかにするのは、手間を考慮すれば触れないほうがベターであろう、というコストパフォーマンス的観点から制作側が省略したようにも思えてしまうのは、平田満の前科があったから。
そして結局、冒頭の残酷な描写に話が戻ってくる。繰り返しになるが、もし難しい問題には触れないままエンターテインメントに徹するのであれば残酷な描写は控えめにするべきであり、ある種のリアリティに満ちた残酷な描写は現状の司法制度への意欲的な論点化とセットにするべきだ。そうでなければ、ショッキングな表現がただの撒き餌のように見えてくるだけだ、というのが僕の理窟。そしてこの批難は、鑑賞後もまったく修正する気が起こらないのだった。
公平に言えばこの映画では、被害者遺族のまったく救われない感情は描かれていた。見知らぬ赤ちゃんを救うために犯人の注意を自分に向け、結果殺されてしまった大学生の娘の両親は、時間が経つにつれ夫婦仲までも険悪になってきて、母親である若村麻由美は犯人を自分の手で殺すことまで考え始める。ここで殺せてしまえば、すっきりとするのだが、もちろん果たせずに終わりむしろ無力感に打ちひしがれる。このまま終了、となればはじめに書いたような「悪い意味での純文学的解決」で終わる。「純文学的解決」だけを取り出して簡単に言い換えれば、安易な予定調和では終わらせないよ、ということだ。
エンディングに行き着くまで丁寧に、かつなるべく事実に即したような表現で描いてきた場合には、そのような「リアルな結末」というものは相応しく、「解決していないじゃないか」という不満もそうそう起こらずに、むしろ「うーん、リアルで考えさせられるなあ」という高評価に傾くことが多い。けれどもこの映画の場合、それまでがそれまでなもんだから、「なんだよ、投げっぱなしにしたまんまじゃねーか!」と立腹するのは必至……とさすがに脚本家が案じたのか、エンディングは世にも奇天烈なものとなっていて、皮肉たっぷりに言えば「感動」があった。

若村麻由美はひとり町をさまよう。娘はもういない。糸の切れた凧のように、彼女を現実に引き止めるものはもうないのだ。ふと、夜の商店街でたったいま降ろされたシャッターに目が止まる。見たことがある絵がそこにペイントされていた。じっと立ち止まる若村に、少し太めの店主が説明をする。「これはある学生さんが描いてくれたんですよ」
それは、殺された娘の絵だった。いまにも泣き崩れようとする彼女に、ありし日の娘が笑いかける。まだ生きていた頃の娘。彼女の知っている笑顔の娘。そして彼女は、その娘を抱き締め、思い切り泣くのであった
え? え? え?
妄想というか、空想上の人物などが現実の人間に「安心してね」などのメッセージを伝える、なんていう場面はこれまで何百遍と観てきた。それらはだいたいの場合において、文字通りの感動をもたらすことが多い。しかし、その妄想/空想上のキャラクターが具現化して現実の人間と接触してしまえば、一転してギャグになってしまうし、そのキャラクターにつき纏われれば、今度はホラーになる。
し・か・も、である。エンドロールのなか、膝をつき括弧つきの「娘」と抱き合って泣く若村の遠景では、電信柱に凭れて背をこちらに向けている内野がいて、その抱き合っているふたりを背中で確認してから、ゆっくりと向こう側に歩き出していくのだ。いやたしかに、電柱の陰からこちらを覗いているわけではなかったから、内野は若村の妄想/空想を見ていない、というエクスキューズは成立可能だ。しかしそれにしては彼の背中はいかにも「はっきりと一部始終を見させてもらいました」と主張しており、そうなると、ある個人の幻想が第三者にも見えたとなってしまい、これはもはやギャグやホラーの表現ではなく、物語の最後の最後にして急遽、前衛アートに突入してしまったということになる。このぶっ飛び方は、ある意味で観ないと損だと本気で僕は考えていて、それくらい、はてなマークたっぷりのエンディングであった。

というわけで、いいかげんな観方をしたのでいいかげんな感想になってしまったが、まあ対象がいいかげんな映画だからそれでよかったのだろう。なお、役者の演技についてはそれほど不満は起こらず、若村麻由美の演技はやっぱり迫力があるなあという印象を持った。特に、若い頃の娘と一緒のシーンでは、当人も十年近く若返ったようにも見え、あらためて女優はすごいと思った。そのときの彼女は、まだ悲しみや苦しみに疲弊しておらず、幸せで美しい母としてそこにいたのだった。

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知らぬ他人の感想文や「レビュー」等によって、大切な物語の重要な仕掛けなどが鑑賞前に明かされることほど、腹立たしく不愉快なことはない。とは言い条、このご時世、鑑賞前にわざわざ検索などをして他人の感想やら評価を確認する人もいるようで、そのような人たちに対して必要以上の配慮をするまでもないのだが、たまには親切心などを起こしてやるのも徳を積むことになるに違いないと思い、以下に、映画版およびマンガ版『この世界の片隅に』の重要なプロット・描写・表現等を書いてしまう場合がある、ということを明記しておく。まあ事前になにかを確認するという行為そのものが僕にとっては好ましいものではないので、ほんとうは気配りする必要もないのだが。
そして、マンガ版の感想を書いた時には(あえて)書かなかった部分も補足しておく。
 
それはともかく。
あまりにもマンガ版がよかったので、一念発起して、田舎の山奥から都会に出て映画版も観てきた。
率直な感想をはじめに書いておけば、いい映画だとは思う。ただ、いい映画どまりだとも思う。
以下、だらだらと思いついたままに。

オープニングテーマでいきなりコトリンゴの『悲しくてやりきれない』が流れて「ん?」と思ったが、ほかでは使われなかったので安心した。というのも予告篇を観たとき、そこに流れている「悲しくてやりきれない」というのがこの映画のメインテーマだというのだとしたらとんでもない片手落ちだし、だいいちそんなに単純な物語じゃない、という憤慨とも呼ぶべき感情がむらむらと僕のなかで湧き起こったのだ。
そりゃあ、たのしくてやりきれない、というような作品ではないが、しかしこの作品でもっとも重要なことは「日常」が描かれているということである。たとえ戦時下であっても戦時下なりの日常があったわけで、そこをこのマンガは丁寧に描いている。
もちろんその主人公たちの日常は戦争が激化していくなかでなかなか維持し難いものになっていくわけだが、呉の大空襲、そして広島の原爆投下によって大きな変容を余儀なくされながらもなおそれはつづいていくのであって、そこに僕は作者の誠実さを感じる。
僕が何度も単純なお話ではないと書いているのは、まさにこの「日常の尊さ」とでも呼ぶべき点に焦点が当たっているところで、けっして、「戦争もの」にありがちな戦争の悲惨さ・残酷さだけがクローズアップされているわけではない。
予告篇の『悲しくてやりきれない』がもし映画版のメインテーマになるのだとしたら、むしろ悲惨さ・残酷さだけを物語のクライマックスにすることになり、いわゆるお涙頂戴の、「さあここで泣いてください」的なつくりになっていやしまいか、とそこに(本篇を観てもいないのに)憤慨した、とこういうわけなのであった。
で、話を戻すと、当該曲はオープニングで流れただけであったのでまあよしとするが、そんなベタな選曲をしなくてもよかったのに、という思いはいまも残る。

マンガ版は、「漫画アクション」に48回にわたって連載されたもので、1回1回の終わりにはたいていオチがついている。その最後の1ページで、それこそ悲しくてやりきれない物語や、辛く寂しいできごとなどが、なんとなく緩和され読者がホッとできるようになっている。おそらくこれは作者が意図的にそうしたのであって、読んでいてただ重さだけが心にのしかかりつづけるような、そのような物語を否定した結果なのではないだろうか。実際にマンガ版下巻の「あとがき」において作者は、
この作品では、戦時の生活がだらだら続く様子を描くことにしました。
と書いている。そこにつづく言葉も引用しておこう。
そしてまず、そこにだって幾つも転がっていた筈の「誰か」の「生」の悲しみやきらめきを知ろうとしました。
この1回1回のゆるやかさ・軽さが、かえって主人公たちの生活感に重みを出しているのだと思う。まるで日記や絵手紙を読んでいるようなゆったりとした気分で、戦禍のピークへと収斂していく物語としてではけっしてなく、あくまでも市井の人々の日常生活の延長に戦争が割り込み、その結果惨禍が引き起こされるという形を追体験できる。
この形式――毎回それぞれにオチがつく形――は、マンガ版ではひとつのリズムとして味わうことができた。それはおそらく、マンガを読み進める速度は読者自身が決定できるというこのことが大きく作用している。
しかし映画版においては、あたりまえの話だがテンポやリズムというものは製作者によってあらかじめ決められているものであって、そうなると、特に冒頭部分のヒロインすずの少女時代などは、やけに暗転の多い舞台演劇を見せられているような、せわしない印象を受けた。簡単に言ってしまえば、間が悪い感じがしたのだ。
やがて観ていくうちに、(僕が個人的に言うところの)映画モードというものに慣れたのか、そのぎこちなさというものは徐々に感じられなくなっていったが、いくつか気になる点は厳然としてあった。
たとえば、すずが晴美と右手を失ったあとに、モノローグで延々と「○○月には××をした右手」とつづけていく場面、あそこはマンガ版で読んでいても見開きのかなり長い部分だったのだが、映画版では途中からそのモノローグをいくつも重ねて聴かせるという演出になっていた。おそらくは間延びしダレてしまうことを回避するための策だったのだろうが、僕はそれが正解だったとは感じられなかった。原作のマンガ版では、淡々とひと月ごとに「××した右手」と回想していくことによって、その失ったものの重さ、そしてそれによる悔しさ・苦しさ・切なさなどが静かに浮かび上がっていたが、いくつものモノローグがエコーをともなって重なるという映画版の表現ではなにかの呪詛のようにも聞えてしまい、すずの心にそのような恨みや歪みを生じさせるものがなかったわけでもないのだが、少なくともあの場面ではやや先走りしすぎであって、少し首をひねるものになっていた。
ここらへんがマンガのモードと映画のモードではっきりと差が出てくる点で、良し悪しは別として、マンガ内にあるセリフやモノローグは、現実の人間による発声をともなう映画において不自然に感じられることが少なくない。
この例として、『この世界の~』からは離れてしまうが、理屈っぽいギャグマンガをアニメ化した場合、そういうマンガにありがちな説明過多なツッコミは、目で読んだときにはなにも感じないものの、実際に声優が発声したときには「長えー」と感じるはずだ。
例としてたまたま手元にあった沙村広明『波よ聞いてくれ』3巻(傑作)をぱらぱらと広げると、こんなのがあった。ボケ部分は省略するが、ヒロインの鼓田ミナレのツッコミ。
最後そんな風にフワッと終わらせるなら「霊体だから」とでも言っときゃいいのに…何なんですか前半の蘊蓄は!?
長い。これからもわかるように、この場面ではボケ部分も相当に長い(気になる人は買って読もう)。ボケはある程度長くてもよいのだが、ツッコミは、ツッコんでいる最中にその内容が視聴者に悟られてはいけないので、自然早くなる。早くなるといっても、上の引用部分を早口で言うとなると、急に不自然な感じが出てくる。これが、黙読と発声によるモードの相違となる。
『この世界の~』に話を戻すと、実はこの作品は後半になると特にモノローグが増え、それと実際のセリフとが重なって文字通り重層的な効果をもたらすのだが、この処理が映画版ではあまりうまくいっていなかったようにも思う。
あまり詳しくは書かないが、すずがリヤカーの後ろを押し、その横で巡洋艦青葉の幻影が浮上していく場面。あそこは絵も音声もそれらが意味するところのひとつひとつが重厚すぎて、僕はマンガ版を二度読んでいたから理解できたものの、初見で把握することはかなり難しかったのではないだろうか。
もちろん映画は一度しか観ないものではない。何度も何度も繰り返し鑑賞すればよいのだ。しかし実際には、リモコン片手に何度も何度も巻き戻し一時停止を繰り返すようなものではなく、上映時間2時間の映画は、2時間きっかりで終わる物語なのであって、何時間ときには何日かけて読んだっていいマンガとは本質的に異なる。
映画とマンガのどちらがよくてどちらが悪いという話ではない。そういうそもそも論ではなくて、『この世界の~』という映画作品においては、マンガ版において成功していた表現を完全に移植できたとは思えない、というだけである。

マンガ・映画の両方を体験した人間が必ず口にしたくなるのは、白木リンの扱いだろう。原作がけっこう長い物語なので割愛するのは仕方ないのだが、僕はリンとすずの関係は周作を介したコインの裏と表だと思っているので、リンと周作との関係がまったく触れられないのであれば、リンとすずの関係も当然変化するはずで、変化というよりもかなり無理がでてくる。もっと率直に言えば、リンの存在はとてつもなく軽くなる。
映画版でも、ちょっとした場面で原作の設定を嗅ぎ取らせるコマはあったのだが、しかしそれもなあ、という気もする。原作を読んだ人間が賢しらに「なあ、知ってるか?」と自慢のネタにするだけなのではないか。
僕は個人的には、最後のほうでうなだれるすずの頭を撫でる右手はリンのものだと思っているが(映画版ではそもそもうなだれる場面が異なるし、その右手は義父のものとはっきり描かれていた)、その重役を、映画版のリンでは担えないということだけは書いておく。

あとは余談程度に。
ときおり出てくるファンタジーの場面にすずが入り込んでいくシーンは、原作のもともとのタッチの柔らかさが鉛筆で描かれた幻想部分へのジャンプを許していたが、映画版では登場人物や背景の輪郭があまりにもはっきりとしすぎていて、現実と幻想との境界の淡さが感じられずやや唐突の感が否めないところがあった(白兎の跳ねる海と水原少年が歩いて帰っていく場面とか)。
また、水原の声がちょっと気障すぎて(実際すずに「キザもたいがいにし!」と怒鳴られてはいるものの)、作品世界にマッチしていないように感じられ、不快感すら覚えた。
のん(能年玲奈)の声はそれほど悪くはなかった。が、ものすごくいいか、と問われるとちょっと迷う程度。

以上、書きたいこと――だいたい批判的な内容ばかりになってしまった――を書いたが、と言ったって、感動して映画館で泣いたのは事実。いい映画なのも事実で、より多くの人に観てもらいたいとも思っている。ヒットもしてほしい(しているのかな? 全然知らない)。
けれどもそれ以上に、原作マンガがより多くの人に読まれることを望む。いいマンガだからではない。傑出して偉大と呼ぶにふさわしいマンガだからだ。


(2016/12/18 追記)
いま突然思い出したのだが、劇中、「落下傘部隊の歌」が流れて、心のなかで「おおおおー!」と盛り上がった。
僕が軍歌大好きの愛国主義者だからではない。川柳川柳の『ガーコン』のなかでこの歌が唄われいて、僕は『ガーコン』が大好きなのである。
余談の余談になってしまうが、じゃあ川柳は軍歌大好きの愛国主義者なのかっていうと、そういうわけでもない。以下に、三遊亭円丈の著作から引用しておく。
数年前に、寄席でよく出る落語ネタを調査したところ、ベストテン上位に「ガーコン」が入っていた。この「ガーコン」は、川柳師以外は演らないのに、堂々のベストテン入り。もう、どんだけ毎日演り倒しているのか。たぶん、ひとりの人間が一生に歌う軍歌の曲数では、ダントツの一位。申請したら、ギネス記録になるのでは?
では、なぜ川柳師は軍歌を歌うのか? それは、単に歌が好きだから。お客のために歌うとか、喜ばせようなんてこれっぽっちも思っていない。自分が歌いたいから、歌っているだけ!


(三遊亭円丈『落語家の通信簿』294p)
 なお、川柳川柳の『ガーコン』を聴いたら、古今亭右朝の『ガーコン』もおすすめ。

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というわけで、『バットマン・ビギンズ』の続篇を観た。
で、これが案に相違してすごく面白かった。

テンポがよく、アクションシーンも緊迫していて迫力がある。爆発シーンでは火薬量も多く、ここまでやるかってくらいに燃える。
それに較べると、人物に少々違和感あり。
相変わらず、主人公の顔がのっぺりとしていて興味がわかない。くわえて、こいつがまたジメジメとしていて、コウモリ男というよりはカビ男。幼馴染みのヒロインは、前回と役者が代わり、この人は僕の好みだったのでよし。
で、そのヒロインの恋人の検事がアゴちゃん(アメリカ人好みの顎が割れている人)で、なんでこんな人を起用したのか、と不思議に思う。とにかく、この三角関係がひとつの線となって物語を通じているのだが、ここらへんはハッキリ言ってどうでもよい。主人公がバッサリと諦めればいいだけ。でも、ジメジメ。
こんな頼りない主人公グループに対して、なんといっても悪役のジョーカーがすごすぎる!

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この映画を見るきっかけは、『MOZU』の新谷ひろみ(池松の女装)が若松警視を殺すシーンって、(予告篇でしか観たことがなかった『ダーク・ナイト』版)ジョーカーへのオマージュなんじゃないの、と思ったことで、それを確認するために前作から観てきたのだが、そのぼんやりとした推測は確信に変った。
ということは反対に、女装した新谷のあの似合っていないメイク、崩れたメイクは、『ダーク・ナイト』視聴経験者に、ジョーカーの残虐性を想起させることになり、結果、新谷を余計に残虐・不可解な人間に見せることになったのだと思う。

とにかくこの映画は、一にジョーカー、ニにジョーカー、三、四がなくて、五にジョーカーってなくらいに、ジョーカーが魅力的なのである。
魅力的といっても、悪の魅力であり、けっして憧れの対象にはならない(する人ももちろんいるだろうが)。どころか、恐怖の対象である。
うじうじジメジメしているような主人公より、暴力による恐怖でゴッサム・シティを支配しようとするジョーカーの方が、なんといってもわかりやすく、そのわかりやすい暴力性が視聴者の感情に直截うったえるのだ。

厳密に観ていけば、ヒロイン、レイチェルに対する主人公の誤解(最後まで彼は気づかない)や、悪や正義のありようみたいな構図などもよくできているのだが、アメコミ原作映画を徹底追究することに僕はあまり意味を感じない。そういうのは、ふだんからの映画好きがやればいいことで。

繰り返しになるが、とにかくもう、ジョーカーの残忍性・強靭さ・下品さ・粘着性等々に圧倒されまくった。こういう感じって、『MOZU』の中上(吉田鋼太郎)のキャラクターにも相当な影響を与えているんじゃないかと思った。そして、映画のいちばん表面の部分としては、ジョーカーにただただ満足したという鑑賞方法で間違っていないと思う。
映画の全体的なトーンは薄暗く、主人公がいろいろな点で苦悩しているという点も、ジョーカーのキャラクターを際立たせているという意味で非常に効果的。いづれにせよ、ジョーカーのための映画。

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横浜から帰ってきて以来、二週間ぶりに一日休みが取れる。
ふだんより三時間だけ休憩を多く取った雨の日が一度どこかであったが、フルはひさしぶり。といっても、これから外せない仕事があってちょこちょこっと出かけるのだが。
で、そのひさしぶりの休暇を言祝ぎ、レンタルしていてずっと観ることのできなかった映画『のるかそるか』をきのうやっと観ることができた。あほったれ。

のるかそるか [DVD]

のるかそるか [DVD]

先日からNHKFMの『ラジオマンジャック』というラジオ番組を聴いている、と書いたが、この番組タイトルはもちろん、赤坂泰彦の尊敬するウルフマン・ジャックというDJの名からとられている。赤坂のことを嫌いなくせに、そういうことはけっこう憶えている。
で、そのウルフマン・ジャックは、映画『アメリカン・グラフィティ』で出演していたなあ、『アメリカン~』には、無名時代のハリソン・フォードが悪役で登場していたけれど、主役はリチャード・ドレイファスだったなあ、ドレイファスといえば……という連想で、この『のるかそるか』という映画を思い出したのだ。くそったれ。


単純な物語である。
貧しいギャンブル好きのタクシードライバーのドレイファスが、競馬のいかさまレースの情報を入手し、妻に内緒で友人と競馬場に出かける。
情報を信じ、持ち金のありったけをかけたドレイファスは次のレースも、そしてその次のレースも大穴に張る。倍々ゲームだ。
しがない競馬場の酒場で1ドル2ドルの話をしていたドレイファスも、二度目のレースからは「ジョッキー・クラブ」で紳士淑女にまじって予想。はじめのうちは上品にしているのだが、レースが始まりゃそんなものはどこかに抛ってしまい、当ったときには大声で叫ぶ。あほったれ、くそったれと。
この言葉はさすがに周囲のレディース・アンド・ジェントルメンの眉をひそめさせ、ドレイファスは再びしがない酒場へ。

字幕はないが、こんな雰囲気。なんだかエンディングみたいだが、このあと別にもう一レースあるのだ。
つまり、倍々ゲームの行く先はいったいどうなるのか、という話である。ドストエフスキー『賭博』に出てくる老婆(だっけ?)は、最後の最後でスる。じゃあ、ドレイファスは?
最後の最後にコーナーを回ってきた自分の賭け馬の目を観たドレイファスが、「わかっていたんだ……」とつぶやくところが好きで、もう二十年以上前の映画なのに、「あほったれ、くそったれ」の台詞とともに、憶えていた。いい映画である。あほったれ。

あと、邦題っていうのがいい。原題の「let it ride」というのは、そのまま賭けをつづける、という意味のようだが、それを「のるかそるか」と翻訳するセンスに拍手。

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