とはいえ、わからないでもない

カテゴリ: 食べもの&飲みもの

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昨晩から強い雨降りだったので、急遽休みにする。
前の家に住んでいるおばあちゃんがやってきて、このあいだ売ってくれと頼まれた白菜の代金を持ってきてくれた。わざわざ雨の日にしてくれなくても結構なのだが、車が家の前に停まっているのを見つけて、「こりゃ家にいるな」と踏んで来てくれたのだろう。

世間話をしていたら、マツタケの話が出た。
なんでも、木蓮の花が咲きその匂いがし始めるとマツタケが採れるという合図だという。で、今年は木蓮の花が二度咲いたらしく、近所の口のうまいおっさんがやってきて、「ねえやん、二度目が咲いたから、またマッタケ採りに行けよ」とけしかけられたそうだが、「もうだいぶと遅遅(おそおそ)やし、別の仕事があるからようせんわ」とそのおばあちゃんが答えると、「ほんならわしが採りに行ってきたるわ。場所教えてよ」とおっさんが言ったのだと。

たまたまテレビで見たマツタケ採り名人の言っていた

たとえ親兄弟にでも、マツタケの生える場所は教えない。それは、一生の財産になるからだ。

という言葉がすごく記憶に残っているのだけれど、マツタケについている値札を見れば当然ともいえる。マツタケが採れる山は入札制になっている場合が多いようで(詳しいことはわからない)、毎年、いくらいくらという金を払ってその年の入山権を得ていると聞いたことがある。
実際に払った人の話によれば、五十万円という年があったとか。これが安いか高いのかわからないのだが、「まあそれくらいは当然するやろ」というのがここらへんの人の一般的感覚らしい。実際に払うかどうかは別として、その山からの「あがり」を勘定すれば、「当然」みたい。

その場所を、たとえ冗談でも八十に近い人から訊き出そうとするそのおっさんの嫌らしさといったら。もちろん、そのおばあちゃんは教えなかったけれど。
そういう胡散臭い人の噂というものは、僕のような人間の耳にもなんとなく入ってくるもので、「ふつうのつき合いなら別に心配せんでもええけど、商売して金のやりとりをするゆうのは、せえへん方がええかもなあ」というのが多数意見。
実は、そのおっさんが僕の仕事場にやってきたことが一度だけあって、そのときの話の感じからすると、彼はブローカーっぽい仕事が好きらしく、ン十万円、ン百万円という金額を扱いたいだろうから、きっと僕とは利害が一致しないだろうなあと思った。それは彼も重々承知なんだろうが、どこにでも顔を見せておく・声をかけておくというのが彼らの仕事の基本なんだろう、ということもなんとなく理解できたので、僕もとりあえずは適当な相槌を打っておいてお茶を濁した。

話をマツタケに戻すと、今年は収穫時期が遅れていたらしく、不作と言われていたのに、ここ最近になってピークを迎えているのだとか。11月15日の紀伊民報の記事によれば、

今年は初入荷が例年より1週間ほど遅く10月中旬。その後も1キロ前後が数回入荷しただけだった。市場関係者は「本来なら11月上旬はマツタケシーズン終盤。今後については読みにくいが、傘の感じからまだ続くのでは」と予想している。

この日の競りでは、最高でキロ七万円近くで落札されたんですって。そりゃうまいこと言って騙そうとするわな。ふつうはしないけど。

噂レベルではあるが、そんな親兄弟にも教えないマツタケ山の入山権を手に入れた場合、盗採(?)されないようにシーズン中は夜間専用のガードマンを雇うこともあるとか。いやいやいや、落札料にくわえてその人の日当までもペイできるの、マツタケって?

ってことはですよ。桐箱の中にウラジロを引いてその上に、ありがたくもご丁寧に、まるで「ご本尊」を敬うかのごとくマツタケ様を幾本か鎮座させ、そこに「○○産松茸」と達筆でしたためてあるアレが、偽装だということも当然ありうるわな、と思いやした。
韓国産のマツタケは、国産のものに較べてだいぶお求めやすくなってございますのよ、奥様。それをこちらでお求めになりましてですね、それをむにゃむにゃっとしてからあちら側に持っていけば、けっこうなお小遣いになるんじゃござんせんかしら? あたくしなんかはよくわからないのでございますけれども。

また、Yahoo ニュースでは、こんな画像が配信されていたけれど、大きすぎて食べものに見えないよ。

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直径22センチ

おばあさんに、この話題のことを話したら、「そやな、傘の大きいのはおいしいわ」と言っていた。へえ。傘が開くと香りが落ちる、というのを聞いたことがあったけれど、本当は逆なのかしら。たしかに、帰ってきてからネットでちょこちょこっと調べると、傘が開いた方が香りが高い、という文章がいくつか見つかった。ふうん。これも、香りを聞き比べてみなければわからん話ですな。

ところで、Wikipedia に面白い記述を見つけた。

昭和初期の流通量は6000トン程度であったが最盛期の1941年(昭和16年)には、12000トンが記録されている。しかし、その後減少し続け1998年(平成10年)に247トンであった。2010年(平成22年)には140トン、23億円を産したが、これが前年比5.8倍である。

てえことは、約七十年前の約百分の一になっているってことか。「庶民の秋の味覚」が高級食材に変るわけだよ。
ついでに、その後はどうなっているんだろうと林野庁のサイトを訪れてみた。

この中の「添付資料」の「別添2(PDF)」に、まつたけのデータが記載されている。

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140トンどころか、去年は16トンじゃん。これじゃ、悪巧みしようとする前に消費者の方で、ほとんどが外国産ということがわかってしまうよなあ。
「それなら偽装は無理かあ……」と思った偽装業者のみなさん! この「輸入量99%」という数字にこそビジネスチャンスを感じませんか。お客様の「国産のわけないじゃん」という思い込みにこそ、僕はつけいる隙を感じますが、はてさて、いかがなもんでしょうか?


のちのちのために、おばあさんの他の話もメモしておく。

  • ミョウガがよく採れた年は、マツタケもよく採れるらしい
  • キリシマツツジが咲くと、ゼンマイの採れる合図

こういう話っていつのまにか忘れてしまうものだし、訊き直そうと思ったときには、教えられる人間が存命していないということも、冗談抜きで多い。

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前の記事にコメントをいただいて、そこでちょっと考えを深めてみた。

上記記事にいただいた、食べものの「味の差」についてのきなこさんの

何度も何度も、本物も偽物もたくさん見て触って味わってやっと(わかる)

というコメントだが、これは実は、味についてのみ当てはまることではなく、たとえば、藝術に関しても言えることなのではないか、と思った。もしかしたらきなこさんも、そういう意図で書かれたのかもしれない。

僕のむかし働いたリストランテでは、「毎日、ハウスワインを飲んでワインの味の基準を覚えろ」と教わった。それによってワインのうまいまずいがわかる、ということではなく、それに較べて重いだの軽いだのがわかるようになる、という理窟だった。たぶんそれは、ワインの味を覚える正しいやり方のひとつだったと思う。それにくわえて、自腹で飲むとなおよい、というのがそのあと僕が経験的に知ったこと。

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ギュスターヴ・カイユボット『ヨーロッパ橋』

この絵について、きなこさんの指摘されていたことがものすごく面白かった。

(犬の)足をわざと描き切らなかったところに、絵と鑑賞者を繋ごうとした意図を感じ

それを好ましく思った、ということだったが、なるほど慣れている人の鑑賞は違うなあと思った。僕なんか、陰影がきれいだなあという感想しか持たなかったが、これも経験の差ということのひとつのあらわれだろう。

また、父はクラシック音楽が好きで、この演奏家はこうだ、とか、あの演奏家はああだ、ということをよく言うのだが、僕にはその違いを聴き分けることができない。その代わり、というわけではないが、僕は落語の場合だったらある程度は聴き分けることができるが、それはきっとある程度の視聴経験が(クラシック音楽に較べて)僕にあるからだろう。

それでは、という話である。
食材やらワインやら藝術に関して、こうやって経験を積んでいくことでなにがわかるというのだろうか。
僕は、真偽やら真贋がわかるようになる、とは考えていない。巧拙がわかる、というともう少し近づく感じもあるが、それでも正確ではないだろう。究極的に言えば、それは自分自身の「好悪」がわかると、ただそれだけのことなのではないか。

わかりづらくなるので話を食べものだけに絞ると、提供側に騙す意図がなければ、食材に真も贋もない。掲げた看板に偽りがなければ、そこには好悪しか残らないのではないか。
定量的観察のしにくい味覚の説明に、価格やら多数意見を持ち込むのは、無粋だ。ただの主観を、客観的データを用いて説明しようとする無粋さ。

そこから敷衍すると、(往々にして見られることではあるが)藝術に関して客観的データを持ち込むことは、非常に愚かしい。この絵はいくらで落札されたとか、あの小説は何万部売れたとか、そのことによって裏づけられる主観的批評なんてあるのだろうか。

これが好きである、あるいは、これが嫌いである、という表明は、すなわち自己およびその経験の表明である。だから当然、それ自体が批評にさらされる可能性がある。
それをおそれるがあまり、批判されたくない人間は客観的情報への支援要請をするのだろうが、そんなふうにしか批評できないのであれば、批評なんてしなければいいのに、と思う。


なお、食べものに関する「本物」志向には、「ピュア志向」と僕が呼ぶ考え方も少し関係していると思うのだが、それについては別の機会に。

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今まで逃避しつづけていた現実が、「おい、いい加減にしろ」と追いかけてきたので仕事に没頭するのだけれど、ちょっとだけメモ。

今度は日本酒で偽装があったとか。しかつめらしい顔をしたコメンテーターの「この際、膿をすべて出し切って……」うんぬんの解説の空々しさったらないですな。
ラジオを聴いていたら、料理学校の先生が「飲み比べたらわかるんですけれどね」と言っていて、ふむ、そういう部分はたしかにあるかもな、と思ったのだが、その後の発言が気に障った。「舌は正直ですから」
まだ言うか

同じものを毎日食べていれば、そりゃ違いというものはわかるのかもしれない。このあいだ『サラメシ』で漁師町の魚屋さんが、新鮮なカツオを売る難しさを語っていた。味がわかっているから、変なものを売れないというのである。なるほどこれは道理だ。

ちなみに、そういう人たちと較べるのが恥ずかしいのだが、僕は今年1トンあまりのトマトを作ったけれど、その味についてはあまりわからない*1。人のところのものを食べて、「これはおいしいトマトだ!」と感じたことは少ない。ミニ、中玉、大玉と品種にもよるけれど、大玉で甘いのってなかなか少ないという印象。かといって、ブラインドで食べても自分のところのだって判別できない気がする。夏のあいだ、ほぼ毎日、口に入れていたのだけれども。

僕の舌が不正直だということはともかく、同じものを毎日食べていようが、料理人でもない限りは、なかなか食材の判別というのは難しいのではないか。ましてや、相手が騙しにかかっている場合なんて。
それを、本気で言っているかどうかは知らないのだけれど、「『本当のもの』は食べたらすぐにわかる」という妙な信仰(≒キャッチコピー)を料理を提供する側にある人間が、無責任・安易に流布するんだものなあ。
そういう言葉を信じてしまった人たちがまさにその部分を衝かれている、というのが今回の一連の偽装問題の結果なのだと僕は考えている。

何日か前の夕方のワイドショウで、値段はうろ覚えなのだが、98円/100g の成型肉と、980円/100g のステーキ肉をスーパーの利用客に食べ較べてもらってその感想を尋ねる、というのをやっていた。
ある女性は、「うーん、これなら高くてもこっち(ステーキ肉)を買うわ」とインタビューに答え、ある男性は、「(成型肉の方は)しょせん値段なりの味やな」と笑って答えていた。
その一方で、「言われないとわかりませんでした」と正直に答える人も映っていたが、僕は、先に挙げた女性・男性の方が、きっと騙しやすいだろうなと感じた。
具体的な方法は思い浮かばないのだが、「価格=品質」信仰が頭のどこかにある人間は、「騙されてもいい理由」を意識下で欲しているようなところがある、と僕は見ている。新聞や宗教の勧誘の断り方は、議論をしないことであり、理窟で断ろうとする人の方が御しやすい、というのと同じだ。
悪賢い連中がもしそのインタビューを見ていたら、「まだまだ騙し甲斐のあるやつらが多いなあ」と嬉しそうに笑ったことだろう。

*1:といっても、九月以降、水分を切ってからのうちのトマトは、皮が厚くはなったもののそれなりに甘くなった。

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朝ドラの『ごちそうさん』が予想以上にひどい。あの時代に、食いしん坊でいることが許される、というのをさも一般的な生活のように描いているところが、当世風なのかもしれない。あと、意地汚くてけちん坊で嘘つきの主人公の子どもがめちゃくちゃかわいくないんですけどー。場所が場所なら、お供え物の食べ物を盗めば竹の棒で引っ叩かれたりしたと思う。

まあ、茶番についてはそれまでなんだけど*1、ちょうどきょう、ブックオフで100円で見つけた石井好子『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』を読んでいたのだが、五ページほどで読むのをよした。
まあ、著者のプロフィールに、1922年生まれで米国留学を経て51年に渡仏、とあったから、けっ、お嬢さんかよ、どうせスノッブな内容なんだろうなということは予想していた。
けれども、いくらお嬢さんでも貧乏生活というのはあるだろうと思い、一抹の期待をしてページを繰ってみた。
まずオムレツがおいしい、ということが書いてあるのだが、驚くほどおいしそうに読めない。

そとがわは、こげ目のつかない程度に焼けていて、中はやわらかくまだ湯気のたっているオムレツ。「おいしいな」、私はしみじみとオムレツが好きだとおもい、オムレツって何ておいしいものだろうとおもった。
河出文庫版9p)

特に後半、「おいしいな」以降が、子どもの書いた文章みたいですぐに意味が解せず(同じことを二度繰り返しているのかと思った)、何度も読み直してしまった。平仮名が多いことには目をつぶるとしても、なんという悪文であろうか。いや、そうではないな。こういう文章、たしかに今でもある。かまとと風で、僕の一番毛嫌いする文章だ。とすれば、年代を考えればこの著者はかまととの元祖みたいなもので、そう考えてみると、この本を出版した『暮しの手帖』を源流とする「自然派」の雑誌たちも、似たような感覚、似たような文章で埋め尽くされているような気もする。おえっ。

まあ、文章なんてものは好みだから、と思って先を読もうとすると、上の引用部の直後に、

もっとも、私はこどものころから卵料理が好きだったが、そのときのマダムのオムレツが、特別おいしいとおもった。

とあった。著者の生年、1922年といえば大正十一年。ちょっとネットで調べたところによれば、(かなり不正確だと思うけど)この時代は、卵は一個で6銭5厘ほどで、同時代では、鯛焼きが一尾で1銭、もりそば一杯で10銭前後だとか。単純に、1銭を現代における100円と考えると(そうなるともりそばが高すぎになってしまうが)、一個650円の卵、もうちょっと安く見ても500円か。それを使った料理が「こどものころから」「好きだった」と言えるこの著者も、相当な「一般庶民」だよねー。読む気しねーわ。

まあ、たまたまリッチに生まれてしまった著者を恨むのはよくないよなあ、と先を読むと、そのニページ後に、オムレツについて、フランス礼賛、アメリカ誹謗の文章が出てきた。
フランスにも、アメリカにもチーズオムレツはあると紹介したのち、

どちらがおいしいかといえば、もちろんフランスふうのチーズ・オムレツだ。だいたいアメリカ人はオムレツの作り方を知らない。フライパンに卵を流しこんだら、それっきり焼き上るのを待っていて平気でお客に出すのだから、卵はかたいし、見ただけで食欲も減退するようなオムレツができ上っている。オムレツの作り方を知らないのか、手間をかける時間がおしいのか、どちらかは知らないけれど、やはり親切心がたりないのと、食べものに愛情を感じていないせいだとおもう。
(11p)

ここでやめた。はい、おつかれっしたー。
僕はもちろんアメリカ人ではないけれど、どれくらいの期間か知らないがたかが留学したことがあるくらいの外国人(日本人)に、「食べものに愛情」うんぬんや、「オムレツの作り方を知らない」などとは絶対に言われたくない、と想像するし、そういうことを簡単に発言してしまえる人間を、日本人の代表みたいに思われたくない。こんなやつは、ただの「フランスかぶれ」である。

僕が、パリ旅行をしたとき、フランス人ギャルソンのうちに泊まらせてもらったのだが、そこで食べた夕食は本当においしかった。なにが出たかなんて、詳しくは憶えていない。奥さんが何度も何度もキッチンとテーブルを往復してくれ、心のこもった家庭料理を供してくださった。その中で、つけあわせのパスタがのびのびにのびていたことだけを憶えている。そんなときにも、「フランス人はパスタの茹で時間すら知らないのか」とか「パスタへの愛情がない」などとは決して思わなかった。「フランスの人は、日本人がアルデンテを気にするようには、気にしないんだな」と思っただけだし、そのパスタも、やっぱりおいしかったのだ。
たとえカフェやレストランでパスタがのびているということがあっても、やはり同様の言い方はしないだろう。「フランス人は」なんてことを言えるほど、僕はフランス人の文化を知らないし、それはこの石井という著者だって同じだろう。だいいち、「日本人は」という言葉だって、そうそうはつかえないはずだ。

お嬢様の見聞記にはまったく心が動かされなかったので、マンガの思い出ばなし。
西岸良平『夕焼けの詩』のはじめの方の話。もちろん、映画化されしかも大ヒットするだなんて、作者も夢にも思わなかった頃のこと。
三丁目に肉屋が引っ越してくるのだが、ちょっとした行き違いで、オープンした店先には古くからの肉屋があった。客を集めるために、と新しい肉屋はコロッケの大安売りをする。チラシも配ってお客は集まり、大繁盛。
一方、古くからの肉屋(これは鈴木家とも知り合い)は、新しい肉屋の店名(たしか「××センター」)を見て、大手の食肉流通業者だと思い、しかし負けてなるものかと赤字覚悟で安値合戦に応じる。
さて、そこから三丁目はコロッケ騒動に陥る。「こっちの店は5円で3個食べれるよ!」「あっちだと、3円で3個!」「うわあ! こっちだと、3円で5個だって!」(値段、適当)
結局、新しい肉屋は潰れてしまう。コロッケ好きの男の子は、古くからある肉屋でコロッケの値段を訊くが、元どおりに戻ってしまい、いかにも残念という表情。
騒動はおさまり、古くからいる肉屋さんは、ふたたび静けさを取り戻した通りの向こうをふと眺める。そこには二度と上がることのないシャッターと、看板の外された痕があるだけ。「あそこ、大手じゃなかったんだなあ……」

『夕焼けの詩』でもうひとつ思い出すのは、「コッペパンの味」という話。これまた初期のエピソード。
貧乏学生が、司法試験の勉強をしているんだか、あるいは大学受験の勉強をしているのだか忘れたが、とにかく浪人をしながら、他の地方出身者の学生たちと一緒に狭いアパートで暮らしている。
金がないもんだから、キャベツを千切りにし、それに塩をかけて食べて腹の空いたのをごまかす、という描写があったが、それが実にうまそうでねえ。おそらく作者も同じ体験をしたんだろうなあと思う。
ある日、主人公が押入れに隠しておいたコッペパンがなくなっていることに気づく。すぐさま彼は、顔なじみの学生に文句を言う*2。「おい、お前。おれのコッペパン、盗んだろ?」「コッペパン? なんのことだよ、知らねえよ!」「嘘つけ! おれが大事にとっといたパン、お前が食ったんだろう!」「知らねえよ!」
そうやって互いの胸ぐらをつかんでいるときに、押入れから「チュー」と鼠が出てきて、「なんだ、ネズミか……」と冷静になり、主人公が謝る。「すまねえ。腹減って気が立ってたんだ」「気にすんな」
それから月日が経った。結局、主人公は試験に受からず、故郷(くに)に帰ることになった。
汽車のホームで、かつて喧嘩をした友人が見送りにやってくる。窓越しに友人が言う。「ごめん、あのときのコッペパン、盗んで食ったの、おれなんだ! ずっと言いたかったんだけど、言えなくて」と言う彼の頬には、涙が流れている。
すでに汽車の中にいる主人公は「いいよ、いいよ」と言い、これも涙を流している。そして、ト書きが一言あるのみ。「わたしは、あの日のコッペパンの味を一生忘れないだろう」
いや、すごくうろ覚えなので、思い出せないところは勝手に脚色しているが、雰囲気としてはこんな感じ。


食べものについて云々するのは、基本的には好きではない、ということは以前のブログに書いた。飲食業でバイトをしていて、(自分で言うのもなんだけど)相当才能はあったとは思うのだけれど、それでもその業界にどっぷりとハマることができなかったのは、ひとえにそれが理由。「口にするものがあるのなら、それでじゅうぶん幸せ」であるのだから、そこに「うんぬん」を加えて価格を乗せる、ということに100% 同意できないところがあったのだ(ただし、その「うんぬん」を面白がっている部分も、あるにはあった)。
それでも、食べものの話には興味を惹かれることが多い。けれど、その中で見聞きして面白いのは、たいてい苦労している時代の食べものだったり、あるいは料理だったりする。あるいは、そのときの状況、そしてそのときに一緒に食べた人との話。
パリ旅行のときの話をもう少し詳しくすれば、僕はその前日、違うギャルソンのうちに泊まったときにたまたま腹痛を起こし、夕食を満足に食べられなかった。それに、朝から晩まで飲む濃いコーヒーに数日で辟易していた。そういう弱った胃を抱えた僕は、まず奥さんが薦めてくれた自家製のハーブティーを、誇張ではなく涙が出るほどありがたい気持ちで飲んだ。それから出てきたキッシュや鶏のクリーム煮、テーブルの上に載った薬草漬けのワイン(どういう作りか忘れたが、瓶の下の方に蛇口がついていて、それをひねるとワインが出てくる)、そして、定年になって仕事を辞めたら田舎に帰って農場で農業をやると言っていたレイモンという名のギャルソンと、その奥さんとの会話。それら全体のことを、僕は忘れることができない。飛行機代くらいしかまともに持っていなかった旅行ではあったし、地図も読めない僕はどこをどううろちょろしたかほとんど憶えていないが、あのときの食事が、すなわちパリの思い出になっている。

本当は、学生時代に一緒に暮らしていた女の子と食べたラーメンの話を書くつもりで、その前フリを書いていたのだが、長くなりすぎてしまったので、それはまた別の機会に。いや、それほど引っ張るような話でもないのだけれど。


ところで、この記事を作成中に興味深い本を見つけた。が、高い。5,000円近く。うーむ。けれども資料的価値はじゅうぶんありそうだよなあ……。

物価の文化史事典―明治・大正・昭和・平成

物価の文化史事典―明治・大正・昭和・平成

*1:といっても、この茶番は半年放映されるわけだけど。

*2:あれ? ということは、部屋で一緒に暮らしていたのかな? それとも、たまたま隣の部屋に住んでいたのが、その部屋の前を通ったのかな? ここらへんはよく憶えていない。

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